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2014/02/12

耳嚢 巻之八 押上妙見鐘銘奇談の事

 押上妙見鐘銘奇談の事

 

 三枝帶刀(さいぐさたてわき)とて御目付を勤(つとめ)し人有(あり)しが、其以前妙見の鐘建立の節、寄進ものなしたりしに、鐘の銘に施主の名前夥敷切付(おびただしくきりつけ)、三枝帶刀名前もほり付(つけ)しに、其一列へ、寺の事なれば何の頓着もなく、市川團十郎其外役者共の名前抔も同じ樣に彫付(ゑりつけ)しを、如何(いかが)とは思ひぬれど夫(それ)なりに打過(うちすぎ)ぬ。然るに帶刀御目付被仰付(おほせつけられ)、勤柄(つとめがら)かゝる事ありては不濟(すまず)迚、寺へも斷(ことわり)いろいろ評論の上、さる心得ある者なりけん、三枝の三の字の中へ豎(たて)に棒を引(ひき)點(てん)を加へぬる故、玉といふ文字になり、帶刀の刀字の脇へ目の字を加へ助と申(まうす)字に直し彫(ゑり)けるゆゑ、玉枝帶助となりし由。今に其通りにて有(あり)しが、助の字は目のへん傍(かたはら)へ寄りてある由、横田袋翁まのあたり見しと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。変型武辺(?)譚。

・「押上妙見」柳島妙見堂。現在の東京スカイツリーの近く、東京都墨田区業平にある日蓮宗の寺院柳嶋妙見山法性寺(やなぎしまみょうけんさんほっしょうじ)境内にある。「法性寺」公式サイトの「妙見堂」には、『季節や時代にかかわらず、常に北方に位置して輝き続け、人々を導き続ける北極星。その北極星を具像化したお姿、「開運北辰妙見大菩薩」をお祀りしている妙見堂は、吉運を招くお堂で』あるとある。底本の鈴木氏注には、後の幕末明治期の名優三代目中村仲蔵が厚く信仰したエピソードが記されてあり、役者連贔屓の誓願所であったことが偲ばれる。

・「三枝帶刀」鈴木氏の注によれば三枝守明(さいぐさもりあき 享保十(一七二五)年~宝暦一三(一七六三)年)。宝暦六年御書院番より御徒頭に転じて布衣を許され、同八年に御目付となったが、享年三十九で没している。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、没後四十五年近く経っての記事である。岩波版長谷川氏のルビは「さえぐさ」であるが、諸データから「さいぐさ」と読んでおいた。

・「市川團十郎」岩波版長谷川氏注によれば、『三枝の経歴に合せると四代目』とある。三代目市川團十郎(享保六(一七二一)年~寛保二(一七四二)年)は享保二〇(一七三五)年に二代目の養父の隠居に伴って襲名。将来を嘱望されていたが、寛保元(一七四一)年、旅先の大坂で発病し、翌年初に二十二の若さで病死している。

・「玉枝帶助」役者染みた名前である。私は「たまえだおびすけ」と読みたくなる。

・「助の字は目のへん傍へ寄りてある」「刀」を大きく彫ってあるから左方に如何にもせせこましく不自然に附いていて、見るからに後から改鑿したことが明らかであることをいうのであろう。

・「横田袋翁」頻出の根岸昵懇の情報屋。再注すると、「耳嚢 巻之七 養生戒歌の事」に「横田泰翁」の名で初出する。底本の同話の鈴木氏注に、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 押上妙見鐘銘(しょうめい)奇談の事

 

 三枝帯刀(さいぐさたてわき)と申され、御目付を勤めたる御仁のあられたが、御目付にとなられるずっと以前、法性寺妙見の鐘の建立の折り、三枝殿も寄進物などなされたところ、寺方にては鐘の銘に施主の名を夥しく彫りつけ、三枝殿の名も「三枝帶刀」と姓名ともに彫り付けられて御座った。

 ところがその彫られた一列へは、これ、寺方の役僧がろくに考えも致さず命じたことなれば、身分その他を考慮することものぅ、「市川團十郎」その外、多くの妙見堂贔屓の役者どもの名前なんどが前後左右に彫り付けられて御座ったを、建立のその日、三枝殿見出し、

『……こ、これは如何(いかが)なものか……』

とは思うたれど、まあ、致し方あるまい、とそのままにうち過ぎて御座られたと聞く。

 然るにその後、宝暦八年、帯刀殿、御目付を仰せつけられたによって、俄然、

「……お役目柄、このようなものが残っておっては、これ、お上から受けた職に対し、相い済まぬことじゃ。――」

と、寺方とも鐘の記銘を削り取ることなど、いろいろとやり取り致いたものの、なかなかに寺方も肯んぜなんだと申す。

 されば、三枝殿――そうした彫金の心得なんどが御座った御仁ででもあったものらしく――遂に手ずから、

――「三枝」の「三」の字の中へ縦に棒を引きて

――「王」となし

――さらに「王」の右下に点を彫り加え

――「三」の字――これ「玉」という文字となされ

いや、それだけでは気が済まざるものででもあったものか、さらに

――「帶刀」の「刀」の字の脇へ「目」の字を加え

――「助」と申す字として

自ずから彫り込まれたによって、

――「三枝帶刀」

――「玉枝帶助」

という芸人めいた別人の名に変じた由。

「……今もその通りにて御座っての……「助」の字は無理矢理、彫りつけたによって、「目」のへんが、大きなる「刀」の字(じい)の左の方に、ずぅっと寄って御座るよ……」

とは、例の横田袋翁殿、まのあたり見た、と語って御座った話。

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