耳嚢 巻之八 黄昏少將の事
黄昏少將の事
松平越中守定信は多才の人にて、官は少將なりき。文化の四つのとし、夕顏といふ題にて詠じ給ふ和歌、
心あてに見し夕顏の花ちりて尋まどへる黄昏の宿
冷泉家へ送られしに、ことに稱美ありて、花洛(くわらく)にて其(その)定信侯をたそがれの少將と唱へ稱する由、人のかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:武士の和歌技芸譚で直連関。
・「官は少將なりき」松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)は「卷之八」の執筆推定下限がこの記載の翌年の文化五(一八〇八)年夏であるから未だ存命(本文の文化四年当時は満四十八歳)である。但し、主に尊号一件によって寛政五(一七九三)年七月に将軍輔佐及び老中等御役御免となって失脚(この時に左近衛権少将に転任、越中守如元で溜間詰となった)、文化九(一八一二)年には隠居した。
・「心あてに見し夕顏の花ちりて尋まどへる黄昏の宿」は「源氏物語」の「夕顔」の帖の冒頭、光が夕顔に出逢うシークエンスに出る和歌、
心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顏の花
をインスパイアした和歌。私の偏愛するところなれば、やや長くなるが同場面を原文(一部省略)で示す(渋谷栄一校訂になる大島本の当該部分を恣意的に正字化した)。
*
六條わたりの御忍び歩きのころ、内裏よりまかでたまふ中宿に、大貳の乳母のいたくわづらひて尼になりにける、とぶらはむとて、五條なる家尋ねておはしたり。
御車入るべき門は鎖したりければ、人して惟光召させて、待たせたまひけるほど、むつかしげなる大路のさまを見わたしたまへるに、この家のかたはらに、檜垣といふもの新しうして、上は半蔀四五間ばかり上げわたして、簾などもいと白う涼しげなるに、をかしき額つきの透影、あまた見えて覗く。立ちさまよふらむ下つ方思ひやるに、あながちに丈高き心地ぞする。いかなる者の集へるならむと、やうかはりて思さる。
御車もいたくやつしたまへり、前驅も追はせたまはず、誰れとか知らむとうちとけたまひて、すこしさし覗きたまへれば、門は蔀のやうなる、押し上げたる、見入れのほどなく、ものはかなき住まひを、あはれに、「何處かさして」と思ほしなせば、玉の臺も同じことなり。
切懸だつ物に、いと靑やかなる葛の心地よげに這ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉開けたる。
「遠方人にもの申す」
と獨りごちたまふを、御隋身ついゐて、
「かの白く咲けるをなむ、夕顏と申しはべる。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ咲きはべりける」
と申す。げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒のつまなどに這ひまつはれたるを、
「口惜しの花の契りや。一房折りて參れ」
とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。
さすがに、されたる遣戸口に、黄なる生絹の單袴、長く着なしたる童の、をかしげなる出で來て、うち招く。白き扇のいたうこがしたるを、
「これに置きて參らせよ。枝も情けなげなめる花を」
とて取らせたれば、門開けて惟光朝臣出で來たるして、奉らす。
[やぶちゃん注:中略。ここには尼君の見舞いのシーンがある。]
修法など、またまた始むべきことなど掟てのたまはせて、出でたまふとて、惟光に紙燭召して、ありつる扇御覽ずれば、もて馴らしたる移り香、いと染み深うなつかしくて、をかしうすさみ書きたり。
「心あてにそれかとぞ見る白露の
光そへたる夕顏の花」
そこはかとなく書き紛らはしたるも、あてはかにゆゑづきたれば、いと思ひのほかに、をかしうおぼえたまふ。惟光に、
「この西なる家は何人の住むぞ。問ひ聞きたりや」
とのたまへば、例のうるさき御心とは思へども、えさは申さで、
「この五、六日ここにはべれど、病者のことを思うたまへ扱ひはべるほどに、鄰のことはえ聞きはべらず」
など、はしたなやかに聞こゆれば、
「憎しとこそ思ひたれな。されど、この扇の、尋ぬべきゆゑありて見ゆるを。なほ、このわたりの心知れらむ者を召して問へ」
とのたまへば、入りて、この宿守なる男を呼びて問ひ聞く。
「揚名介なる人の家になむはべりける。男は田舍にまかりて、妻なむ若く事好みて、はらからなど宮仕人にて來通ふ、と申す。詳しきことは、下人のえ知りはべらぬにやあらむ」と聞こゆ。
「さらば、その宮仕人ななり。したり顏にもの馴れて言へるかな」と、「めざましかるべき際にやあらむ」と思せど、さして聞こえかかれる心の、憎からず過ぐしがたきぞ、例の、この方には重からぬ御心なめるかし。御疊紙にいたうあらぬさまに書き變へたまひて、
「寄りてこそそれかとも見めたそかれに
ほのぼの見つる花の夕顏」
ありつる御隨身して遣はす。
まだ見ぬ御さまなりけれど、いとしるく思ひあてられたまへる御側目を見過ぐさで、さしおどろかしけるを、答へたまはでほど經ければ、なまはしたなきに、かくわざとめかしければ、あまえて、「いかに聞こえむ」など言ひしろふべかめれど、めざましと思ひて、隨身は參りぬ。
御前驅の松明ほのかにて、いと忍びて出でたまふ。半蔀は下ろしてけり。隙々より見ゆる燈の光、螢よりけにほのかにあはれなり。
御心ざしの所には、木立前栽など、なべての所に似ず、いとのどかに心にくく住みなしたまへり。うちとけぬ御ありさまなどの、氣色ことなるに、ありつる垣根思ほし出でらるべくもあらずかし。
翌朝、すこし寢過ぐしたまひて、日さし出づるほどに出でたまふ。朝明の姿は、げに人のめできこえむも、ことわりなる御さまなりけり。
今日もこの蔀の前渡りしたまふ。來し方も過ぎたまひけむわたりなれど、ただはかなき一ふしに御心とまりて、「いかなる人の住み處ならむ」とは、往き來に御目とまりたまひけり。
*
因みにこの時、光は中将であった。
底本の鈴木氏注には三村翁の注が引かれ、『こしらへものゝ歌、予には名家とは不被存、友人に伊勢松阪長谷川可同氏あり、江戸大伝馬町に木綿店をもてり、京の千切屋へ離れ座敷を造り置き、汽車を買切り、給仕は一切我家の婢にさせて京に逗留す、自曰く、わしは奢は大嫌ひ故、自分の家に居ると同様にしてゐるのやと、御大名様の御倹約もこれと同様かと拝し奉るふしあり』という、ちょっとびっくりのトンデモ興醒め注が附されてある。岩波版長谷川氏は流石にこの注は無視され、「耳嚢」より少し後の松浦静山「甲子夜話」には、
心あてに見し夕顏の花ちりてたづねぞまよふ黄昏の宿
とあって、定信は『黄昏の侍従』と呼ばれたという記載及び含弘堂偶斎の随筆「百草露」には、
心あてに見し夕顏の花ちりて尋ねぞわぶる黄昏の宿
とあって、『夕顔の少将』と呼ばれたと専ら書誌学的な穏当な注をなさっておられる。読者としては(というより夕顔命の私個人としては)長谷川氏の注の方がほっとするね。
時に、長谷川強氏注の孫引きでここを済ましてしまっては、「耳嚢」全巻オリジナル全訳注標榜している私の名が廃るというもの。「甲子夜話」は幸い所持している(というより、私は密かに「耳嚢」全訳注終了後のターゲットとして「甲子夜話」を狙っているのであるが)ので、以下に示す(底本は中村幸彦・中野三敏校訂平凡社東洋文庫版第一巻(一九七七年刊)を用いたが、私のポリシーから恣意的に正字化した。冒頭の〔 〕で示された数字は編者による通し番号であるが、検索の便を考え残した。〔 〕は割注(原本は二行組、底本はポイント落ち)片仮名は原本の読み、平仮名は編者の施したもの)。
*
〔十六〕 白川少將〔越中守定信〕は、文武兼濟の資なり。又敷嶋の道にも達せしこと、人の知ところなり。若きときの歌に、
心あてに見し夕顏の花ちりて
たづねぞまよふたそがれのやど
時に以て秀逸とす。後、定信老職となり、事に因て京師に抵(いた)る。月卿雲客指さして、黄昏(タソガレ)の侍從來りしと云ひしとぞ〔定信、時に四位の侍從なり〕。高家の横瀨駿河守〔貞臣〕、冷泉家の門人にて、是も頗る名高き歌仙なり。ある時五月雨(さみだれ)の詠、
やまの端は重る雲に明かねて
夏の夜長き五月雨の頃
とありしを、師家にても殊に感ありしとなり。其後京兆(みやこ)にて五月雨の侍從と呼しとぞ。
*
ここに並び出る横瀬貞臣(よこせさだおみ 享保十八(一七三三)年~寛政一二(一八〇〇)年)は高家旗本(幕府に於ける儀式典礼を司る役職及びこの職に就くことの出来る家格の旗本)。近世武家三歌人の筆頭とされる人物。通称は貞次郎・兵庫・式部。実兄横瀬貞隆の末期養子となり、宝暦一三(一七五三)年に将軍徳川家治に御目見え、明和二(一七六五)年に家督を相続、安永二(一七七三)年に高家職に就き、従五位下侍従・駿河守に叙任された(後に従四位下まで昇進)。寛政六(一七九四)年には将軍徳川家斉の仰せに従って鉢に植えた梅を題にした和歌を数首詠み献じるなど寛政期武家歌人として知られる。歌道に精通していたことが高家として朝廷と交渉する立場上、非常に有利に働いたとされる(以上はウィキの「横瀬貞臣」に拠った)。
・「花洛」京師(けいし)。花の京の都。
■やぶちゃん現代語訳
黄昏の少将の事
松平越中守定信殿は多才の人にて、官は少将で御座る。
文化の四年の年に「夕顔」という題にて越中守殿のお詠みになられた和歌に、
心あてに見し夕顏の花ちりて尋まどへる黄昏の宿
とある。
この和歌、かの歌道宗家たる冷泉家へと贈られたところ、宗家にては殊の外、御賞賛これあり、花洛にては、これ、定信侯がことを、「たそがれの少将」と唱え称されて御座る由、人の語って御座ったよ。