『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 鐙摺
●鐙摺
軍見山の麓(ふもと)より此邊を總稱せる小名なり、新編相模風土記曰、土人の傳に賴朝三浦に遊覽の時、山路狹く乘馬の鐙をすり、徃來自由ならず故に此名起るといふ、今はさる嶮難の地にはあらす且盛衰記あふすりの名見ゆ、下の城跡の條に詳なり、又按するに東鑑に、壽永元年十一月十日、伏見冠者(くわんじや)盛綱は賴朝の蝶寵女龜前を伴ひ遁れて大多和五郎義久が鐙摺の塚に到ると見ゆ、其頃義久が邸此地に在りしなるべし、今其遺趾をつたへず。
[やぶちゃん注:ここに記された、壽永元(一一八二)年十一月に起こった新興鎌倉幕府あわや転覆という女好きの頼朝の不倫スキャンダルの事故の顛末について私は、「新編鎌倉志卷之七」の「飯島」の注に、面白おかしく且つマニアックに詳細に書いた。お読み戴ければ幸いである。]