『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 住吉明神社
●住吉明神社
正覺寺の後山(うしろやま)の上に在り、神體は故ありて曩(さき)に鶴岡(つるがをか)の末社に移し當社には今白幣を神體とす小名飯島の鎭守なり、古は郡中の總鎭守なりしと云ふ、此地三浦道寸の城跡なり。
[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考卷之三」の「住吉社」の項には、
住吉社 小坪の正覺寺の後山にあり。正覺寺の山號をも住吉山と號し、むかしは、小坪の内住吉といふ地名に唱へし由、されば古き社ならん。【光明寺開山傳記】に、三浦住吉谷悟眞寺に住して、淨土宗を弘通すとあり。今も小坪邊の生土神に崇むといふ。偖此住吉は、三浦部の地なれども、當郡に接附せし地なるゆへ、因に此編に錄せり。
とある。ここで言う「悟眞寺」というのは光明寺の前身で現在とは別な所にあったとされる寺である。これには疑義があるものの、「正覺寺」の注で示した通り、光明寺開山の良忠を荼毘に付した場所はこの正覚寺のある場所と考えられ、現在の同寺でもその遺跡と伝える。「鎌倉事典」の三浦勝男氏の「正覚寺」の項では、この悟真寺は、『背後に住吉城をひかえていることから、再三の合戦の被害で廃寺となったが、天文十年(一五四一)光明寺十八世快誉上人が正覚寺を起立したと伝える』と記す。「弘通」は「ぐづう(ぐずう)」又は「ぐつう」と読み、仏教が広く世に行われること。また、仏教を普及させることを言う。「生土神」「うぶうながみ」と読む。産土神。その土地の民草を守る土地神のこと。言わずもがなであるが本文で「古は郡中の總鎭守なりしと云ふ」とある「郡」とは三浦郡を指す。]
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