中島敦 南洋日記 一月二日
一月二日(金)
午後より、中島幹夫、材料を仕入れ來り、土方氏方にて、鍋三杯のしるこを作り、腹一杯喰ふ。うまし。餅も充分あり、砂糖は三百匁使ふ。
[やぶちゃん注:「中島幹夫」二十四日の注で示した岡谷公二氏の「南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦」に、南洋群島での文化活動を行っていた南洋庁の外郭団体「南洋群島文化協会」で月刊誌『南洋群島』の編集長で、土方久功と親しく交わった人物である旨の記載がある(但し、敦はここコロールに来て土方を通じて初めて逢ったらしい)。彼の姓名はここ一ヶ所にしか現れないが、岡谷氏はフル・ネームの記載で「氏」を附していない点に着目し、敦より『年下で、かなり気安くつきあっていたふしがある。しかし敦は滞在わずか八ヶ月で帰国し、その年に早逝してしまうし、島に残った幹夫のほうも、昭和十八年、アメリカ軍の爆撃によって死亡したため、二人の間柄がどのようなものであったかは、今となってはわからない』と記しておられる。
「三百匁」一キロ二百五十グラム。]
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