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2014/02/14

耳嚢 巻之八 今古人心懸隔の事

 今古人心懸隔の事

 

 近きころ御役家に勤(つとめし)し者、古へ福島家に仕へし者の子孫にも有(あり)しや、立花家にて福島正則の金子借請(かりうけ)候證文所持せしが、立花家へ差出し謝禮申請(まうしうけ)て右家へ證文は返しぬる由。右證文をまのあたり見たりしといふ者の語りけるが、無據(よんどころなき)儀にて金子借用いたし候、いつの頃には、急度(きつと)返濟可致(いたすべく)候、若(もし)違約いたし返濟不致(いたさず)候はゞ御笑ひ可被成(なさるべく)候との文言なり。古への武家は義氣も強く、笑われ候は何(な)にも不替(かへざる)恥と思(おもひ)けるにや。右證文所持せし者、名前も聞(きき)しが忘れたり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:武家の変わり種の奇談で連関。

・「御役家」代官を勤めた武家。

・「福島正則」(永禄四(一五六一)年~寛永元(一六二四)年)は尾張の武将。母は豊臣秀吉の伯母木下氏。勇猛果敢にして天正六(一五七八)年以来豊臣秀吉に従って各地に歴戦し、賤ケ岳の戦では「賤ヶ岳の七本槍」の第一の勇名を馳せた。同十三年に伊予今治十万石に封ぜられて島津征伐・小田原の役・朝鮮出兵などに従い、文禄四(一五九五)年には尾張清洲城に移って二十四万石を領した。慶長五(一六〇〇)年の会津征討では徳川家康の指揮下に豊臣武将たちとともに従軍していたものの石田三成挙兵の報を受けて開かれた小山の評定では率先して発言、豊臣武将を纏めて家康の味方につけた。関ヶ原の戦いでは先鋒第一番手として西軍主力の宇喜多秀家隊と交戦するなどして東軍勝利に大きな貢献を齎した。戦後は旧毛利氏の広島城を賜わり、安芸・備後二ヶ国四十九万八千石を与えられている。大坂城の豊臣秀頼に対してはなお忠誠を尽くしたものの、加藤清正・浅野幸長らの僚友が物故する中で力を失い、大坂の陣に際しては家康から江戸屋敷に留めおかれた。元和三(一六一七)年、従四位下参議に叙任したが、同五年の広島城で行った無断修築の件を武家諸法度違反として幕府より咎められ、福島側の対応の不備から将軍徳川秀忠の厳命で正則は改易された。出家して高斎と号し、信州川中島四万五千石に移封され高井野村に蟄居のまま病没、しかも幕府検使堀田正利の到着以前に遺骸が火葬に付されたことを咎められて封は没収されている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「立花家」筑後柳川南北朝時代に大友貞宗の子大友貞載が筑前国糟屋郡立花城に拠り立花を称したことより始まり、以来、大友氏重臣として重きをなしたが、立花鑑載(あきとし)の時に大友宗麟に背いたために同じく大友氏支流の戸次鑑連(べっきあきつら)により攻め滅ぼされて鑑載の子立花親善(ちかよし)の代で断絶したが、宗麟はそこで同族であった戸次鑑連を立花城に入れて立花氏の名跡を継がせた(鑑連は後に入道して道雪と号した)。鑑連自身は主家である大友家から立花姓の使用を禁じられたために立花姓を名乗っていないが、立花道雪の名で知られている。道雪には男子がなかったため初め娘の誾千代(ぎんちよ)に立花城を譲った後、晩年に道雪と同じ大友氏庶流の高橋紹運(じょううん)の息子統虎(むねとら)を誾千代の婿に迎えて養子とし、統虎改め立花宗茂は斜陽の大友氏を支えて島津氏との戦いに活躍、豊臣秀吉の九州征伐の後に筑後国柳川に十三万二千石を与えられた。この宗茂は関ヶ原の戦いに於いて西軍に参加したため、所領を没収されて流浪したが、四年後の慶長九(一六〇四)年には徳川氏により取り立てられて同十一年に陸奥国棚倉で一万石を与えられて大名に返り咲いた。その後、大坂の役でも戦功を挙げて元和六(一六二〇)年に関ヶ原の戦い以降筑後柳川三十二万石を支配していた田中氏が絶家したのを契機に柳川藩十万九千石を与えられて旧領柳川に帰還した。関ヶ原で改易された武将が再び大名として復活出来た例は少なく、その中でも旧領に戻ることが出来たのは立花宗茂唯一人であった(以上はウィキ立花氏」に拠る)。この話柄の立花氏当主もこの立花宗茂(永禄一〇(一五六七)年~寛永一九(一六四三)年)ということになり、ビッグな二人の借金話という点では面白い。無論、こうした話柄は今の眉唾物の都市伝説の類いと同様に頻繁に語られたものらしいことは、底本の鈴木氏注に引く三村翁の注からも知れる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 今古(きんこ)の人心にはこれ懸隔のある事

 

 近き頃のことで御座る。

 御代官の御屋敷に勤めて御座った者、これ先祖は、かの猛将福島正則殿が家に仕えて御座った者の子孫ででもあったものか――今の大名家たる、かの柳川藩主立花家にて、福島正則殿より金子を借り請けて御座ったことを証明する證文を――これ、所持致いて御座ったと申す。

 さればこの御仁、かの立花家へと参ってこの証文を差し出だいたところ、その筆跡や花押、これ、立花宗茂公の真筆に間違いなしとなったによって、立花家より相応の謝礼を申し請けた上、右立花家へその證文は返して御座ったとのこと。

 以上はこの證文を目の当たりに見たと申す者の語って御座ったものであるが、そこには、

――據無(よんどころな)き儀にて金子借用致し候

――何時々々の頃迄には急度(きっと)返済致すべく候

――若し違約致し返済致さず候はば御笑いなさるべく候

という文言のあったと申す。

 古えの武家は義気(ぎき)も強く、笑われんとするは何にも替え難き恥辱と思うたもので御座ろうのぅ。

 右證文を所持致いて御座った者の名前も聞いたものの、失念致いて御座る。悪しからず。

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