萩原朔太郎 古き日の秋 短歌五首
古き日の秋
(昔うたへる歌)
夢みるひと
裏街(うらまち)の床屋(とこや)が角(かど)に張(は)られたる芝居(しばゐ)のびらに吹(ふ)く秋(あき)の風(かぜ)
吉原(よしはら)のおはぐろ溝(どぶ)のほの暗(くら)き中(なか)に光(ひか)れる櫛(くし)の片割(かたわれ)
ほのかにも瓦斯(がす)のにほひのただよへる勸工塲(くわんこうぜう)の暗(くら)き鋪石(しきいし)
さくさくと靴音(くつおと)させて中隊(ちゆうたい)のすぎたるあとに吹(ふ)く秋(あき)の風(かぜ)
歌舞伎座(かぶきざ)のかへりに我(われ)をつつみたる床(ゆか)しきマント忘(わす)られぬひと
[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月十一日附『上毛新聞』に標記通り、「夢みるひと」名義で掲載された五首連作。朔太郎満二十六歳。一首目の太字「びら」は底本では傍点「ヽ」。
三首目「くわんこうぜう」はママ。底本全集校訂本文では「くわんこうば」と訂するが従わない。誤りとしても朔太郎が音韻上、これで詠んだ可能性を排除出来ないからである。無論、「勸工塲」は正しくは「くわんこうば」が正しい読みではある。老婆心ながら附しておくと、勧工場(かんこうば)とは明治・大正期に一つの建物の中に多くの店が入って種々の商品を陳列・即売した一種のマーケットのことで、明治一一(一八七八)年一月に政府の殖産興業政策の方針に沿って東京府が麴町辰の口(現在の千代田区内)に常設商品陳列場としての「東京府勧工場」を開設したことに始まる(ここには前年に東京上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会に展示された出品物も移されて陳列された。当時の出品点数は合計三十五万点、入場者合計五千二百人に及んだとされる)。後には本格的なデパートの進出により衰退した。勧商場。]