中島敦 南洋日記 昭和十七年一月一日
昭和十七年一月一日(木)
八時半より役所にて式、
食堂の雜煮は凡そすさまじきものなり。しかも晝・夜二食分の折詰は、どう見ても一食分にしか當らず、十一時迄に二食分の折詰食ひ終る、十一時半土方、高松氏とアラカべサンに向ふ。途中スコールに降られる。渡船場に到る頃はすでに止む。渡し舟十分にして島に着くき佐伯氏宅に行く。鰐魚を見る、試みに石を投ずれば、怒りて、カツと血の氣なき口を開く。コーヒーうまし。家鴨。晩食の馳走に預かり、七時過の渡船にて歸る。
昨夜の土方氏の蛸とりの話頗る面白し。リーフの穴に潛める靖をピスカンにて突くに突かれながら蛸が足を長く伸ばして、突手の手に吸ひつく話。ピスカンの尖端が蛸の身體にを突貫くや、直ち蛸は、貫かれたるまゝ手許まで上つてきて、吸ひつく話。大蛸に胸をだかれて嚙みつかれ、その頭をつかんで離さんと格鬪する話。月夜に蛸が上陸し、椰子の木に登りて椰子蜜を飮む話。剽悍なる巨口の大魚タマカイの話。魚の巣なる岩穴にピスカンを突込みし瞬間ブルブルッと電氣に觸るゝ如き手應へありし時の感じ。魚大きく穴小さくして、引出し難き時、石もて、リーフの岩を碎く話。波荒き時、作業困難なる時、ピスカンを穴中の獲物につき立てたる儘、水面に浮かび出て息(イキ)をつく話。小さき蛸なれば、揃へて直ちにその口にかみつきて殺すも、嚙まんとする時、忽ち墨を吹かるゝことありと。
阿刀田氏によれば、熱帶の生物は凡て雄に比べて雌の數壓倒的に多しと。
[やぶちゃん注:「アラカべサン」アラカベサン島(Ngerekebesang Island)。現在のパラオ共和国コロール州に属する島の一つで同国のコロール島の北西沿岸にある。参照したウィキの「アラカベサン島」によれば、マルキョク州に遷都するまではこの島に大統領府があった。コロールの中心部からはやや離れており、リゾート・ホテルが多く点在、日本大使館もこの島にある。『アラカベサン島とコロール島の間には陸橋で接続されている。この陸橋は日本統治時代に建設され、今でも改修しながら使用されている』とあるが、敦は船で渡っている。地図上で見ると約一キロメートルほどの橋である。
「鰐魚」これは実際の鰐で、パラオに棲息するワニ目クロコダイル科クロコダイル属イリエワニ
Crocodylus porosus のことと思われる。ウィキの「イリエワニ」によれば、現生爬虫類の中では最大級の一種で、オスの平均は全長五メートル・体重は四五〇キログラムに及ぶ(最大個体では全長八・五メートルを超えるものが記録されている)。口吻はやや長く基部の一・七五~二倍に達し、隆起や畝がよく発達する。下顎の第一歯が上顎の先端を貫通しており体色は緑褐色で、『主に汽水域に生息し、入江や三角州のマングローブ林を好む。イリエワニという和名もこれに由来する。地域によっては河川の上流域や湖、池沼などの淡水域にも生息する。海水に対する耐性が強く、海流に乗り沖合に出て島嶼などへ移動することも』可能であることから、実は日本でも奄美大島・西表島・八丈島などでの発見例があるとある。
「椰子の木に登りて椰子蜜を飮む話」「椰子蜜」は単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ココヤシ
Cocos nucifera(又はその仲間)に咲く花の蜜で、実際に「ナチュレハニー」という蜜が採れる。さて、ここに出た蛸の上陸摂餌の話については、寺島良安の「和漢三才図会 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚 たこ」の章にも『性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ』」とあり、そこで私も以前長々と注した。それを少し加工して以下語らせて貰う。この現象は本邦でもかなり人口に膾炙した話なのではあるが、残念ながら私は一種の都市伝説の類いであると考えている。しかし、タコが夜、陸まで上がってきてダイコン・ジャガイモ・スイカ・トマトを盗み食いするという話を信じている人は実は確かに結構いるのである。事実、私は千葉県の漁民が真剣にそう語るのを生まで聞いたことがある。また一九八〇年中央公論社刊の西丸震哉著「動物紳士録」等では西丸氏自身の実見談として記されている(農林水産省の研究者であったころの釜石での話として出てくる。しかしこの人は、知る人ぞ知る、人魂を捕獲しようとしたり、女の幽霊にストーカーされたり、人を呪うことが出来る等とのたまわってしまうちょっとアブナい人物である。いや、私は実はフリークともいえるファンなのだが)。実際に全国各地でタコが畠や田圃に入り込んでいるのを見たという話が古くからあるのだが、生態学的にはタコが海を有意に離れて積極的な生活活動をとることは不可能であろうと思われる。心霊写真どころじゃあなく、実際にそうした誠に興味深い生物学的生態が頻繁に見受けられるのであれば、当然、それが識者によって学術的に、また好事家によって面白く写真に撮られるのが道理である。しかし、私は一度としてそのような決定的な写真を見たことがない(タコさま……じゃあない……イカさまの見え見え捏造写真なら一度だけ見たことがあるが、余程撮影の手際の悪いフェイクだったらしく、可哀想にタコは上皮がすっかり白っぽくなり、そこを汚く泥に汚して芋の葉陰にぐったりしていたシロモノであった)。これだけ携帯が広がっている昨今、何故、タコ上陸写真が流行らないのか? 冗談じゃあ、ない。信じている素朴な人間がいる以上、私は「ある」と真面目に語る御仁は、それを証明する義務があると言っているのである。例えば、岩礁帯の汀でカニ等を捕捉しようと岩上にたまさか上がったのを見たり、漁獲された後に逃げ出したタコが畠や路上でうごめくのを誤認した可能性が高い(タコは海の忍者と言われるが、海中での体色体表変化による擬態や目くらましの墨以外にも、数十センチメートルを超える極めて大型の個体が蓋をしたはずの水槽や運搬用パケットの極めて狭い数センチメートルの隙間等から容易に逃走することが出来ることはとみに知られている)。さらにタコは雑食性で、なお且つ極めて好奇心が強い。海面に浮いたトマトやスイカに抱きつき食おうとすることは十分考えられ(因みに魚のクロダイでもサツマイモ・スイカ・ミカン等を食う)、さらに意地悪く見れば、これはヒトの芋泥棒の偽装だったり、西丸氏の上記の記事も載るように禁漁期にタコを密猟し、それを芋畑に隠しているのを見つけられ、咄嗟にタコの芋食いをでっち上げた等といった辺りこそが、この伝説の真相ではないかと私は思うのである。いや、タコが芋掘りをするシーンは、実は是非見たいのだ。信望者の方は、是非とも実写フィルムを私に提供されたい!……海中からのおどろどろしきタコ上陸→農道を「目を怒らし、八足を踏みて立行す」るタコの勇姿→腕足を驚天動地の巧みさで操りながら起用に地中のジャガイモを掘り出すことに成功するタコ→「ウルトラQ」の「南海の怒り」のスダールよろしく、気がついた住民の総攻撃をものともせず、悠々と海の淵へと帰還するタコ……だ!……円谷英二はあの撮影で、海水から出したタコが突けど触れど一向に思うように動かず、すぐ弱って死んでしまって往生し、生き物はこりごりだと言ったと聴いている……。
「剽悍」は「へうかん(ひょうかん)」で「慓悍」とも書き、すばしこくて荒々しく強いことをいう。
「タマカイ」スズキ目スズキ亜目ハタ科マハタ属タマカイ
Epinephelus lanceolatus(英名 Giant grouper)。全長二メートルにも及ぶタ巨大魚でハタ科の中では最大で、よく知られているマハタ属クエ Epinephelus bruneus などよりも大きくなる。『タマカイは太平洋やインド洋に分布しているハタ科の海水魚で、太平洋では東シナ海から南シナ海を経てグレートバリアリーフ、ミクロネシアなどの西太平洋のほか、ハワイ諸島やライン諸島などの中部太平洋にも分布して』おり、『インド洋でもアフリカの東海岸まで見られ、国内では和歌山や琉球列島、伊豆・小笠原諸島などの南日本に分布している』。『体は長い楕円形で側扁し、口はやや大きく、上顎の後縁は眼の後縁下を超える』。『尾びれの後縁は丸く、鰓蓋骨には三本の棘が見られる』。『体色は灰褐色や暗褐色で、白い斑模様があり、各鰭にも黄色と黒の虫食い状の班がある』。『また、体色や班は成長と共に変化し、10cm程度の幼魚では淡褐色の地に不規則な幅広い黒色の横帯が見られるが、老成すると体や鰭の斑は不明瞭になる』。『岩礁やサンゴ礁域などに生息しているが、サンゴ礁域に生息するものの内でも最も大きく、体長は3m近くにまで成長し、体重も400kg程になるものもいると言われている』。『水深100m程のところでも生息しているが、大型魚にも関わらず水深50m位までの比較的浅場に多く見られる』。『魚や甲殻類などを主に食べるが、小型のサメやエイ、ウミガメの子どもなども食べることがある』。『餌は水と一緒に吸い込んで食べてしまうが、この時の吸引力は強力で、南太平洋などでは、タマカイはサメよりも恐れられている』。『しかし、サンゴ礁などではホンソメワケベラなどに鰓を掃除してもらったりして共生していることも多く、これを食べたりすることはない』。『タマカイは鍋物や刺身など、食用に利用されるが、大型のものは希にシガテラ毒をもつことがある』。『また、台湾では養殖されている他、幼魚は観賞用などに利用されることもあるが、自然分布するタマカイの生息数は減少していて、国際自然保護連合(IUCN)の保存状況評価では絶滅危惧種(VU)に指定されている』と参照したサイト「アクアリウム・ゲート」の「タマカイ」にはある。ツアー・ガイドを見ると現在のパラオのダイビング・ツアーでもこのタマカイに出逢えるというのが一つの目玉のようである。]
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