北條九代記 株瀨川軍 付 關東勢手賦 承久の乱【二十】――株瀬川の戦い後の幕府軍配備の一件
さる程に、東山、東海兩道の軍勢一つになりて、上りければ野も山も兵共(つはものども)充滿(みちみち)て、幾千萬とも數知らず。野上、埀井に陣を取り、爰にて軍の手賦(てくがり)をぞ致されける、「相摸守時房は、勢多へ向ひ給ふべし。供御瀨(ぐごのせ)へは、武田〔の〕五郎、宇治〔の〕渡(わたり)は武藏守泰時、一口(いもあらひ)へは毛利藏人入道、淀渡(よどのわたり)は駿河守義村向はれ候へ」とさだめられし所に、相摸守の手の者に、本間兵衞尉〔の〕忠家と云ふもの進み出でて申しけるは、「駿河守殿は惡くも討ひたまふものかな、相摸守殿の若黨等(ら)には、軍をなせそと思し候か、如何なる心にて、かくはあてがひたまふやらん」と申しければ、義村申されけるやうは、「某(それがし)當家に久しきものなり。關東より、斯樣(かやう)の事をも計(はから)ひ申せとて、上洛せしめ給ふ、我往初(そのかみ)より御大事には度々に逢うて多くの事共見置きて候。平家追討の時、關東の兵共を差上せられ候ひしに、勢多へは三河守範賴、宇治へは九郎判官義經向はせ給ひ、上下の手にて平家を追落し、軍に打勝(うちかた)せ給ひて候。是は先規(せんき)の御吉例なれば、かく手賦は致して候、軍(いくさ)せさせじとは思ふべき事にても候はず、然るを斯樣に申さるゝ條存外の至(いたり)に候。勢多へは敵の向ふまじきにて候歟。軍は何所(いづく)も嫌はず、只兵の心にあるべきものを」と申されしかば、本間は、兎角申すに及ばず、赤面して引退(ひきしりぞ)く。「用なき咎事(とがめごと)かな」と笑ふ人も多かりけり。北陸道は、小笠原〔の〕次郎を大將として、千葉介、筑後〔の〕太郎左衞門尉、中沼〔の〕五郎、伊吹七郎を差添へられ、都合一萬餘騎、小關(こぜき)より伊吹山の腰を廻り、湖水の西を近江路指して攻(せめ)上らる。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十】――株瀬川の戦い後の幕府軍配備の一件〉
「野上、埀井」美濃国不破郡野上は同郡東の垂井と同郡西の関ヶ原の間に当たる。
「供御瀨」近江国供御瀬は現在の滋賀県大津市の瀬田川筋。供御瀬とは朝廷へ献じる魚を獲る場所の意。
「一口」芋洗。現在の京都府久御山町。
「先規の御吉例」三浦義村は、頼朝卿の両弟君が挟撃して美事、平家に勝ったことを引き合いに出し、同じように義時の長子泰時とその子時氏を宇治に、義時弟時房を勢多に配して朝廷軍を挟み撃ちにすることが目出度い先例に基づくことを述べたのである。
「北陸道」この箇所、増淵氏は、『(遅れている)北陸道(の式部丞朝時しきぶのじょうともとき)の許)へ』、以下の兵を友軍として送った旨の補助訳をなさっておられる。以下の「承久記」を参照のこと。
以下、「承久記」(底本の編者番号50のパートの中ほどから最後まで)の記載。
東海道ノ大勢一ニ成テ上リケレバ、野モ山モ兵共充滿シテ、幾千萬上京數ヲ不ㇾ知。野上・埀井ニ陣ヲ取テ、軍ノ手分ヲセラレケルハ、「相模守殿ハ勢多へ向ハセマシマシ候へ。供御ノ瀨ハ武田五郎向ハレ候へ。宇治へハ武藏守殿向ハセ給ヒ候へカシ。芋洗へハ毛利藏人入道殿向ハレ候ベシ。義村ハ淀へ罷向候ハン」ト申セバ、相模守殿ノ手者、本間兵衞尉忠家進出テ申ケルハ、「哀レ、駿河守殿ハアシウ被ㇾ申物哉。相模殿ノ若黨ニハ軍ナセソト存テ被ㇾ申候カ」。駿河守、「此事コソ心得候ハネ。義村昔ヨリ御大事ニハ度々逢テ、多ノ事共見置テ候。平家追討ノ時、關東ノ兵共被二差上一候ヒシニ、勢多へハ駿河守殿向ハセ御座シテ、宇治へハ九郎判官殿向ハセ給ヒ、上下ノ手ニテヲヤカタニテ、平家ノ都ヲ追落シ、輙ク軍ニ打勝セ給フ。是ハ先規モ御吉例ニテ候へバト存テコソ、加樣ニハ申候へ。爭カ軍ナセソト思ヒテ、角ハ可ㇾ申候。加樣ニ被ㇾ申條、存外ノ次第ニ候條、勢多へハ敵ノ向フマジキニテ候歟。軍ハ何クモヨモ嫌ヒ候ハジ。只兵ノ心ニゾ可ㇾ依」ト申ケレバ、本間兵衞尉、始ノ申狀ニハ由々敷聞へツレ共、兎角申ヤリタル方モナシ。武藏守安時ハ、駿河守ノ議ニ同ゼラル、時ニ、「宇治へ向ハンズルト皆人々被ㇾ向候べシ。但、式部丞北陸道へ向ヒ候シガ、道遠ク極タル難所ニテ、未著タリ共聞へ候ハズ。都へ責入ン日、一萬透テハアシカリナン。小笠原次郎殿、北陸道へ向ハセ給へ」。「長淸ハ、山道ノ惡所ニ懸テ馳上候ツル間、關太良ニテ馬共乘ツカラカシ、肩・背・膝カケ、爪カヽセテ候。又大炊渡ニテ若黨共手負セテ候へバ、叶ハジ」ト申ケレバ、武藏守、「只向ハセ給へ。勢ヲ付進ラセン」トテ、千葉介殿・筑後太郎左衞門尉・中沼五郎・伊吹七郎、是等ヲ始テ一萬騎被ㇾ添バ、小關ニ懸リテ伊吹山ノ腰ヲスギ、湖ノ頭ヲヘテ西近江、北陸道へゾ向ケル。]
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