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2014/02/02

耳嚢 巻之八 其職其器量ある事

 其職其器量ある事

 

 尾州家に物頭(ものがしら)勤ける津金文左衞門は、和漢の學才ありて、親の代より冷泉家の門弟にて爲村卿に隨身(ずいじん)しけるが、和歌の大事祕決等に至り不心得(こころえざる)事ありとて、古歌を引(ひき)、其不審を認(したため)、爲安の卿へ捧げけるを、爲安一覽のうへ、文左衞門は和歌の趣意は何と心得たるやと斗(ばかり)にて憤りの答(いきどほり)にて、如何歌道の趣心得候哉(や)と尋(たづね)ありける時、文左衞門答(こたへ)に、年來(としごろ)、御厚恩の御指南は蒙り候得ども、家業武道にて歌は慰(なぐさめ)に詠(よみ)候ゆゑ歌道の趣意は不辨(わきまへず)と申(まうし)ける由、依之(これによつて)冷泉家は破門なりしとかや。されど武夫(ぶぶ)の見識又かくも有(ある)べきと人語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:技芸絡みの武士道第一とする変型武辺物。

・「物頭」武家の職名或いは格式の一つで一般に歩兵の足軽・同心などからなる槍(長柄(ながえ))組・弓組・鉄砲組などの頭(足軽大将)をいう。侍組(騎兵)の頭(侍大将)である番頭(ばんがしら)に次ぐ地位にあった。江戸幕府の新番頭、小十人(こじゅうにん)頭・徒士(かち)頭・百人組之頭・先手(さきて)頭などはいずれも布衣(ほい)の格であり、諸藩の物頭に相当した。このうち新番組は騎兵(本来の侍)、小十人組・徒士組は歩兵(本来の足軽)、百人組は鉄砲隊(与力・同心)、先手組は弓・鉄砲の両隊(与力・同心)であった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「祕決」底本では右に『(祕訣)』と訂正注がある。

・「津金文左衞門」尾張藩士津金胤臣(たねおみ 享保一二(一七二七)年~享和元(一八〇二)年)。尾張国名古屋(現在の愛知県名古屋市東区平田町)生。津金氏は甲斐武田の家臣であったが、武田勝頼が滅びた後に尾張へ移り住んで尾張藩に仕え、胤臣で七代目に当たっていた。寛保二(一七四二)年に父胤忠の急逝によって十五歳で家督を継ぎ、馬廻りや藩主徳川宗睦(むねちか/むねよし)の世子徳川治休(はるよし 相続前に二十一で病死)の小姓・守役を務めた。漢学を須賀精斎・亮斎親子に、和歌を冷泉為泰(本文の「爲安」のこと)に学ぶなど、学問に親しむとともに武術にも秀で、また経済・土木など実学にも長けた人物であったという。この後、宝暦一三(一七六三)年三十六歳にして御納戸役、明和元(一七六四)年に勘定奉行、安永六(一七七七)年に先手物頭と要職を藩の要職を歴任した。寛政三(一七九一)年には熱田奉行兼船奉行に任ぜられて寛政一二(一八〇〇)年から熱田前新田干拓事業を指揮、また、晩年には海西郡で飛島新田(現在の海部郡飛島村)干拓にも携わり、それが完成した享和元年に病没した。享年七十六。彼は熱田前新田の開拓民としてこの地に居た加藤吉左衛門・民吉親子と出逢い、これが後に瀬戸窯に磁器をもたらす濫觴ともなった(以上はウィキの「津金胤臣」に拠った)。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、津金の逝去から暫くして耳にした話であろう。

・「爲村卿」公卿冷泉為村(ためむら 正徳二(一七一二)年~安永三(一七七四)年)は羽林家で冷泉流歌道の宗匠の上冷泉家十五代当主。前権大納言為久の子。元文三(一七三八)年従三位、延享元(一七四四)年参議。宝暦九(一七五九)年正二位権大納言にして民部卿を兼ねた。祖父為綱・父為久の努力によって冷泉家が宮廷歌壇に於ける地位を固めた時期に生まれ、天賦の才を以って次第に宮廷歌会に重きをなすようになった。実質的なデビューは享保六(一七二一)年の玉津島法楽月次御会で未だ十歳、十二歳で霊元上皇の勅点を受けて同十四年には宮廷歌会の殆んどに出詠する常連へと成長、早熟ぶりを現わした。為久のほか、烏丸光栄(からすまるみちひで)や中院通躬(なこのいんみちみ)らの指導を受け、彼らの死後、宮廷歌壇の第一人者として名声を得た。冷泉家が為綱以来、幕府との関係強化に努めたのを受け、関東の武家歌人を多く門弟として擁し、添削の精緻と巧みな指導で一門を急速に拡大させた。門人一人ひとりの個性を見極めたうえで彼らの詠作意欲を搔き立てるような批評を織り込むのに長じており、ここに出る子の為泰とは対照的であった。家集としては部類形式のものと雑纂形式のものが多く伝わる。歌論「樵夫問答」、聞き書きに宮部義正の「義正聞書」、萩原宗固の「冷泉宗匠家伺書」などがある。(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

・「爲安」上冷泉家十六代当主の公卿冷泉為泰(ためやす 享保二〇(一七三六)年~文化一三(一八一六)年)。冷泉為村の子。宝暦一〇(一七六〇)年従三位、後に正二位・権大納言兼民部卿となった。門人に屋代弘賢がおり、彼は根岸の知己であるから、この話、そちらの筋からの情報である可能性がであることが窺われる。歌集に「三代十百首」などがある(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。訳は一般的な「為泰」を用いた。さて、彼は津金胤臣より三歳年下である。底本の鈴木氏注は三村翁の本シーンの釈を引かれ、『元来世襲の歌人、お寺の縁起を説く小僧さん同様、質問を受けては返答出来ず胡麻かしに憤って見せるだけなり、弥々実力なしと知れて』しまった、『専門家はいつも非専門家にやられるものなり、勉めざる可からず』とあり、前の「朝日日本歴史人物事典」の注(下線部)からもこの為泰の指導の短気粗暴にして拙劣であることが窺われる。本話の「不審」を書き並べた「捧げ」ものという仕儀もこれはすべてが確信犯という気が強くしてくる。胤臣は正に「二君に見えず」という故事を実践するために、敢えてその強烈な一家言を放ったのだと私は思うのである。というより、そうとしか読めぬように本話は綴られている、ということである。但し、為泰は未だ存命でもあり、なかなか思い切ったことを記したものではある。それだけ、根岸はこの胤臣の粋な意気に感じ、また、それほど為泰の何ともはやの宗匠振りも、それなりに有名だったのかも、知れないね。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 それなりの重職にはそれなりの器量というものが御座る事

 

 尾張家に物頭(ものがしら)を勤ておられた津金文左衛門殿は、和漢の学才、これあり、親の代よりの冷泉家歌道の門弟となって御座って、その方面では為村卿に親しく従われて御座ったが、その子の為安卿の代となってのこと、和歌詠みの大事やらん秘訣やらん等々(とうとう)につきて、心得ぬことが、これ、大きに出来(しゅったい)致いたによって、古歌の例などを引き、その不審なることにつきて、これ、いちいち、こと細かに認(したた)めた上、今は宗匠となられた子の爲泰卿へとそれを捧げ奉ったところが、為泰卿はざっと一覧なさるや、まずはその幾つかを挙げつらって、

「……ぶ、文左衞門殿は……和歌の趣き、その心は……これ! 何と心得ておじゃるッ!」と、はなはだ憤りを孕まれたお返事にて、最後には、胤臣殿に面と向かい、

「……い、如何(いかに)!……か、歌道の道と呼ぶところの、そのまことはこれ、なんと心得てあらっしゃいます?!」

と、逆に、激(げき)し遊ばされて、糾しなされた。

 と、文左衞門殿、穏やかに答えるは、

「――年来(としごろ)、御先代宗匠様の代より、御厚恩の御指南は、これ深く、蒙りまして御座いましたれど……

――我ら家業――これ――武道にて――

――歌は――一向――慰さめに詠んで嗜んで御座いますればこそ――

――歌道の趣意なんどと申すは――これ――一向――弁えて――御座らぬ!」

と、びしっと申された由。

 無論、これによって冷泉家は胤臣殿を即座に破門されたとか申す。

 

「……いや、されど――その武士(もののふ)の見識――いやさ! かくもありたきものにて御座るのぅ。……」

とは、さる御仁の語りで御座った。

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