日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 19 晩餐二景
今晩菊池教授が晩餐に来た。我々は十時までドミノをして遊んだ。我々がそれをやっている最中に、彼の人力車夫が縁側へ上って来て、閉ざした鎧戸の間から声をかけた。日本の家屋には呼鈴というようなものがないので、彼も鈴を鳴らすことは知らなかったのである、彼は先ず低い声で(日本語であることはいう迄もない)、「一寸お願いがあります」といい、次に自分の主人がいるかどうかを質ねた。姿の見えぬ彼の声を聞くことは、実に奇妙だった。私は単に、日本人が生れつき丁寧であることの一例として、この出来ごとを記するにとどまる。
[やぶちゃん注:「菊池」東京大学理学部教授(純正化学及び応用数学担当)菊池大麓。既注。当時数えで二十四歳。
「ドミノ」底本では直下に石川氏の『〔卓上遊戯の一種〕』という割注が入る。
「記するにとどまる」はママ。]
純日本風の生活をしている外山教授が、自宅へ我我一家族を、晩餐に招待してくれた。家へ入るに先立って、我々はすべて靴を脱ぎ、それを戸外に置いた。子供達は、水をジャブジャブやる時か、寝床へ入る時か以外に、靴をぬいだことなんぞ無いので、大きに面白がった。外山氏の夫人と令妹とが我々にお給仕をし、我々の食事が終ると彼等が食事をした。家へ入ると、先ずお茶と、一種の甘いジェリー菓子とが出た。正餐は四角な漆器に入れて持ち出され、我々は床に坐っていて、盆も我々の前に置かれる。子供達が、慣れ親んでいる食物とはまるで味の違う、いろいろな食品を食おうとする努力は、見ていて興味が深かった。私は徐々に、殆どすべての味がわかりつつあり、非常に好きになった料理もいくつかある。お汁が二種類出た。一つは水のように澄んでいて、中に緑色の嫩枝(わかえ)がすこしと、何等かの野菜を薄く切ったものとが入っていた。他の一つはカスタードに似ていて、煮た鰻と茄子とが入っていた。次には一種のオムレツ、百合根、ヤムの白いようなもの、それから色は赤味がかった緑色で、実に美味な一枚の長い葉とが出た。食品の主要部分は野菜である。外山の小さな姪が、我々のために彼女の母親の三味線に合わせて、踊って見せてくれた。この舞踊は、典雅な姿態と様子とからなり、誠に可愛らしかった。これは事実に於て無言劇で、歌い手が言葉で主題を提供し、舞い手は身ぶりによって、その物語の要点を真似するのである。
[やぶちゃん注:「外山教授」外山正一。既注。当時数えで三十一歳。
私の乏しい和食・和菓子の知識では、ここ出る「一種の甘いジェリー菓子」であるとか、「カスタードに似ていて、煮た鰻と茄子とが入っ」た料理(私の妻曰く、「茶わん蒸しじゃないの?」)、果ては「色は赤味がかった緑色で、実に美味な一枚の長い葉」とは何物か、見当もつかない。これまた情けなくも識者の御教授を乞うものである。
「カスタード」底本では直下に石川氏の『〔牛乳と鶏卵とを混ぜて料理したもの〕』という割注が入る。
「ヤム」底本では直下に石川氏の『〔薯蕷〕』という割注が入る。「薯蕷」は音「しょよ」であるが恐らくは「ながいも」と訓じておられよう。長芋(単子葉植物綱ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ナガイモ
Dioscorea batatas)のことである。]
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