『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 小坪 又は 「あなたは白旗山合戦の直後に起こった鎌倉由比ヶ浜での戦さをご存知か? 『源平盛衰記』の小坪合戦の部を注にて一気掲載!」
●小坪
いにしへ葉山郷(はやまのさと)、いま田越村に屬す、源平盛衰記(げんへいせいすいき)、治承四年八月、和田義盛の黨と、畠山重忠合戰の條に、小坪坂小坪峠の名あり。
[やぶちゃん注:以下は、底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]
源平盛衰記曰、治承四年八月、和田小太郎義盛由井の濱を過、小坪坂を上らんとしける時、畠山は本田半澤に云けるは、三浦の輩にさせる意趣なし、去共矢一つ射すは平家の聞へも恐あり。打立者共と知し、五百餘騎小坪の坂口にて追付たり、三浦百三十餘騎畠山に懸られて、小坪の峠に打上り、轡を並てひかいたり、畠山次郎は由井濱、稻瀨河の津に陣を取て赤旗天に輝げり、和田小太郎は白旗さゝいて、百餘騎、小坪の峠より打下り渚へ向て歩せ出す、爰に畠山横山黨に彌太郎と云者を使にて、和田小太郎許へ云けるは、日比三浦の人々に意趣なき上は、是まで馳來べきにあらず、私軍其詮なし、兩軍引退かせ給はゞ、公平たるべきかと、人ノ穩便を存ぜんに、勝に乘に及ばずとて、和田小太郎ハ小坪の峠に引返す云々、かくて和田は三浦へ歸りければ畠山は武藏へ返りけり。
建久四年七月、賴朝此地に遊宴あり。
[やぶちゃん注:以下は、底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]
東鑑曰、建久四年七月十日屬海濱凉風將軍家出小坪邊給長江大多和輩搆假屋於潟奉入獻盃酒垸飯又漁人垂釣壯士射的毎事前感乘興愚狀白娯遊及黄昏還御。
延元二年九月南北朝爭亂の時、北畠顯家鎌倉に攻(せめ)入り、此地にて挑戰あり。
[やぶちゃん注:以下は、底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]
元弘日記裏書曰延元二年九月義良親王幷顯家有西征之義於上州利根河武州薊山鎌倉小壺杉本前濵腰越有合戰官軍皆有利
小田原北條氏割據の頃は石上稱二郎領す、德川氏入國の後は、御料所にて、天明六年久世隱岐守廣譽に賜ひ、同八年御料所に復し、文化八年松平肥後守容衆に替賜ひ、文政四年松平大和守矩典に賜ふといふ村南海岸巖(がんふく)壁立(へきりつ)して高四五丈、上に小徑通す鎌倉道なり、此所より眺望すれば、東方近く杜戸の濱あり、西方鎌倉靈山(れいざん)が崎突出し、中央に江島浮ひ出で、又大磯小磯の海濱を望み、遠くは富峰(ふほう)雲際(うんさい)に秀(ひい)て、其美景を稱すべし。
[やぶちゃん注:「治承四年八月」西暦一一八〇年。ここは「源平盛衰記」をかなり端折っている。時に和平同議が成功したかのように見えた直後に誤認から起こった小坪合戦こそが眼目なのに(いや、正直に面白いと告白しよう)、恰も戦闘もなく両軍退いたようになっているのは困るので(この由比ヶ浜・小坪合戦自体を知らない方が実は多い)、非常に長くなるが、私の好きなシーンクエンスでもあるからして同「小坪合戦」の部分を総て示す。底本は美濃部重克・松尾蘆江校注「源平盛衰記(四)」(平成六(一九九四)年三弥井書店刊)を用いたが、恣意的に正字化し、片仮名も平仮名に改めた。全文が一気に一続きになっているが、語注を途中に入れた関係上、切った(注では一部、底本の注を参考にした)。この臨場感はまず、原文のみの通読で味わって戴きたいと思う。
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「抑(そもそも)畠山五百餘騎にて金江川に陣を取て待(まつ)と聞(きく)、いかゞ有べき」と云ければ、和田小太郎は、「佐殿の左右をきかん程は命を全して君の御大事に叶ふべし。去(され)ば小磯が原を過て波打際を忍とをらん」と云けるを、佐原十郎は、「何條さる事か有べき。畠山は若武者也、而(しか)も五百餘騎、思へば安平也。我等が三百餘騎にて蒐散(かけちらし)て馬共とりて乘てゆかん」と云けるを、三浦別當は、「詮なき殿原のはかり樣(やう)。畠山は今日一日馬飼(かひ)、足休めて身をしたゝめたり。我等は此兩三日あなたこなた馳つる程に、馬もよはり主も疲たり。人の強馬(つよむま)とらんとて我弱馬(わがよはむま)とられて其(その)詮なし。馬の足音は波に紛れてよも聞えじ。轡鳴すな」とて、みづゝき結(ゆひ)、鎧腹卷の草摺卷上(まきあげ)なんどして打けるに、和田小太郎は本(もと)よりつよき魂の男にて、「いつの習(ならひ)の閑道ぞ。畠山は平家の方人也、我等は源氏の方人なり。源氏勝給はゞ畠山旗を上(あげ)て參べし。平家勝給はゞ三浦旗を上て參べし。爰を問はずは後に被ㇾ笑事疑なし。人は浪打際をも打給へ、義盛は名乘て通らん。同心し給へ、佐原殿」とて、鎧の表帶(うはおび)しづしづと結(ゆひ)かため、甲の緒をしめ、弓取直て鐙(あぶみ)に幕盡けさせて、大音あげて、「是は畠山の前陣歟。角云(かくいふ)は三浦黨に和田小太郎義盛と云者也。石橋の軍(いくさ)に佐殿の御方へ參つるが、軍既に散じぬと聞けば酒勾宿より歸(かへる)也。平家の方人して留(とどめ)んと思はゞ留よ」と高く呼(よばはつ)てぞ打過る。
[■やぶちゃん注
・「金江川」「かなえがは」を訓ずる。現在の金目川。現在の平塚市唐ヶ原(とうがはら)(「新編相模國風土記」には「もろこしがはら」とある)で相模湾に注ぐ。
・「和田小太郎」和田義盛。当時三十三歳。彼は三浦義明長男杉本義宗(すぎもとよしむね)の子。
・「佐原十郎」佐原義連。三浦義明末子。
・「畠山は若武者也」畠山重忠は当時は未だ満十六歳であった。
・「安平」難しくないこと。わけないこと。容易。
・「三浦別當」三浦義澄。三浦義明次男で彼が三浦本家を継いだ。当時五十三歳。
・「みづゝき」水付・七寸・承鞚などと書く。轡の部分名で手綱の両端を結びつけるための轡の引き手金具。みずき。そこから手綱の両端をもいう。馬が暴れて音を立てないよう鎮めるためであろう。
・「いつの習の閑道ぞ。……」以下の義盛の言上げはなかなか格好いい。訳してみたい。
「……一体、いつから俺たちは間抜け面して間道をおどおど抜けてゆく如き臆病者になり下がったのじゃ?!
――畠山は平家の方人(かたうど)じゃ、我らは源氏の方人じゃ。
――もし源氏が最後に勝つとするならば、どんな状況下にあろうとも、畠山はここで我らに負け、そうして降伏の旗を掲げて膝下に参ずるであろう!
――もしやはり平家が勝つとするならば、如何に我ら奮戦致そうとも、三浦一党悉く敗れ、遂には投降の旗を掲げて若造の下へと参ずるほかはなかろう!
――そのくらいの気持ち
――そうさ!
――謂わば、遂に切って落とされた源平の合戦の勝敗の行方……
――これを只今、我ら源家を戴く三浦と、かの平氏に使われたる畠山との、この戦さにて問わんとする意気を奮わなんだとすれば……
――これは後々までも笑いものになること、これ、疑いない!
――臆病者は波うち際をこそ、こそこそとうち行くがよい!
――義盛は正々堂々、名乗りを挙げて通らんと存ずる! 同心めされい、佐原殿!」
・「鐙に幕盡け」「幕附け」で鐙に幌のような覆いをつけ、という意か。詳述しないが底本の補注には鐙に装着して、手ではなく、鐙に載せた足で以って馬を御す秘術があり、ここでもそうした仕掛けを鐙(若しくはその周辺)に施したのではないかと推理されている。
・「表帶」鎧・腹巻き・胴丸の類いの胴先に附けてフィットさせるための帯。紐や布帯を用いる。なお、平胡簶(ひらやなぐい)や箙を固定するのに用いる紐のこともかくいう。私には両用の効果を期待出来るように思われる。]
「敵追來らば返合(かへしあはせ)て戰はん、さらずは三浦へ通らん」とて馬を早めて行程に、八松が原・稻村崎・腰越が浦・由井の濱をも打過て、小坪坂を上らんとしける時に、畠山は本田・半澤に云けるは、「三浦の輩(ともがら)にさせる意趣なし、去共加樣(されどもかやう)に詞(ことば)を懸らるゝ上に、父の庄司、伯父の別當、平家に奉公して在京なり、矢一(ひとつ)射ずは平家の聞えも恐(おそれ)あり。和田が詞(ことば)も咎めたし、打立(うつたて)者共」と知下しければ、成淸は、「仰旨透間(おほせのむねすきま)なし、急げ殿原」とて、五百餘騎物の具かため馬にのり、「打(うて)や早め」とて追ければ、同(おなじく)小坪の坂口にて追付たり。畠山進出て、「重忠爰に馳來れり。いかに三浦の殿原は、口には似ず敵に後をばみせ給ぞ、返合(かへしあは)せよ」と訇(ののし)り懸て歩せ出づ。三浦三百餘騎、畠山に懸られて、小坪の峠に打上り、轡並て引(ひか)へたり。小太郎伯父の別當に云けるは、「其には東地に懸りて、あぶずりに垣楯(かいだて)かきて待給へ。かしこは究竟の小城なり、敵左右なく寄(よせ)がたし。義盛は平(ひら)に下て戰はんに、敵よはらば兩方より差はさみ、中に取寵て畠山をうたんにいと安し。若(もし)又御方弱らば義盛もあぶずりに引寵て、一所にて軍(いくさ)せん」と云(いふ)。別當、「然べき」とて、百騎を引分て後(うしろ)のあぶずりに陣を取て、左右をみる。畠山次郎は五百餘騎にて由井濱、稻瀨河の耳(はた)に陣を取て、赤旗天に輝けり。和田小太郎は白旗さゝせて二百餘騎、小坪の峠より打下り、「進め者共」とて渚へ向て歩せ出す。
[■やぶちゃん注:
・「本田」本田次郎近常(?~元久二(一二〇五)年)。畠山重忠の重臣。後、北條時政の謀略であった畠山重忠の乱の際、重忠とともに二俣川で討死にした。
・「半澤」重忠の郎党で武蔵七党の一つである丹党(秩父から飯能に一帯を活動拠点とした。平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称する)の榛澤成清(?~元久二(一二〇五)年)。
・「父の庄司」畠山重能(しげよし 生没年未詳)。桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族にして畠山氏始祖。当時は大番役として京都にあった。鎌倉幕府成立後は表舞台から姿を消すものの存命であった。
・「伯父の別當」小山田有重。重能の弟で当時は兄とともに同じく大番役として在京していた。幕府成立後は頼朝に帰属し、元暦元(一一八四年)年六月に起こった頼朝による甲斐源氏武田信義嫡男一条忠頼の謀殺事件の共犯者の一人でもある。
・「透間なし」異論を挿む余地が全くない。
・「平」海浜の平地。]
爰に畠山、横山黨に彌太郎と云(いふ)者を使にて和田小太郎が許へ云けるは、「日比(ひごろ)三浦の人々に意趣なき上は是まで馳來(はせきたる)べきにあらず。但(ただし)父の庄司、伯父の別當、平家に當參して六波羅に伺候(しこうす)。而(しかる)を各(おのおの)源氏の謀叛に與して軍(いくさ)を興し、陣に音信(おとづれ)て通(とほり)給ふ。重忠無音ならば後勘其恐(そのおそれ)あり。又伯父・親が返りきかんも憚あれば、馳向ひ奉るばかり也。御渡(わたり)を可ㇾ奉ㇾ俟歟(まちたてまつるべきか)、又可二參中一か」と、牒の使を立(たて)たりけり。和田小太郎は、藤平實國を使に副(そへ)て返事しけるは、「御使の申狀委(くはし)く承りぬ。畠山殿は三浦大介には正(まさし)き婿、和田殿は大介には孫に御座(おはす)。但不ㇾ成(なさぬ)中と申さんからに、母方の祖父に向て弓引給はん事、いかゞ侍るべき。又謀叛人に與する由(よしの)事、いまだ存知給はずや、平家の一門を追討して天下の亂逆を鎭(しづむ)べき由、院宣を兵衞佐殿に下さるゝ間、三浦の一門勅定の趣と云ひ主君の催(もよほし)と云ひ、命に隨(したがふ)處なり。若(もし)敵對し給はゞ後悔いかゞ有べき。能々(よくよく)思慮を廻さるべきをや」と云たりければ、畠山が乳母子に半澤六郎成淸、和田小太郎が前に下塞(おりふさがり)て云けるは、「三浦と父秩(ちちぶ)と申せば一體の事也。兩方源平の奉公は、世に隨ふ一旦の法也。佐殿いまだ討れ給はずと承る。世に立給はゞ、畠山殿も本田・半澤召具して定て源氏へ被ㇾ參べき。平氏世に立給はゞ、三浦殿も必御參あるべし。是非の落居を知ずして私軍(わたくしいくさ)其(その)詮なし。兩陣引退かせ給はゞ、公平たるべき歟」と云ければ、「半澤が角云(かくいふ)は畠山が云にこそ、人の穩便を存ぜんに勝に乘(のる)に及ばず」とて、和田小太郎は小坪の峠に引返す。
[■やぶちゃん注:
・「横山黨に彌太郎」「横山黨」は武蔵七党の一つで、多摩郡横山庄(現在の東京都八王子市付近)を拠点として大里郡(現在の埼玉県北部の熊谷市・深谷市とその周辺地域)及び比企郡から橘樹(たちばな)郡(現在の神奈川県川崎市市域相当)にかけての武蔵国さらには相模国高座郡(神奈川県の相模川左岸一帯)にまで勢力を持った武士団で武蔵七党中筆頭とされる。「彌太郎」は不詳。
・「無音」通行する際に、堂々と名乗りを挙げて挑発行為を行った和田義盛ら一行に対し、それに武士として相応の応じ方(攻撃)を行わないこと。
・「牒」は「てふ(ちょう)」で、通告文書のこと。
・「藤平實國」後文では「實光」とも出るが不詳。孰れの名も「吾妻鏡」には同定出来そうな人物は見当たらない。
・「畠山殿は三浦大介には正き婿」「三浦大介」当代三浦家当主三浦義明。この後、ここに出る畠山重忠率いる平家方軍勢と衣笠城で合戦となり、一族を安房に逃した後、独り城を守って戦死した。享年八十九歳であった。畠山重忠の母は義明の娘で、義明からは重忠は外孫に当たる。
・「三浦と父秩と申せば一體の事」。三浦氏は鎮守府将軍で桓武平氏の平良文を祖とし、支流畠山氏の元である秩父氏は武蔵国秩父郡を発祥とする武家で本姓平氏で、やはり平良文の孫平将恒を祖とする秩父平氏の宗家であった。
・「是非の落居を知ずして」今、向後、源平の孰れに与(くみ)することが結果としては良いか悪いかという判断がつかないという状況下に於いて。
・「人の穩便を存ぜんに勝に乘に及ばず」対する相手が合戦を望まず、穏便にことを済ませようとしているのに、殊更に血気に早やって戦いに及ぶまでのことはない。――ここで一見、戦闘は回避されたかのように見え、「風俗画報」は尺が長くなるのを嫌ってか、後の「小坪合戦」の事実を全くカットしてしてしまったのである。]
軍(いくさ)既に和平して各(おのおの)歸らんとする處に、和田小次郎義茂が許へ、兄の小大郎(こたろう)人を馳て、「小坪に軍(いくさ)始れり、急ぎ馳(はせ)よ」と和平以前に云遣(いひやり)たりければ、小次郎はいさゝか小用ありて鎌倉に立寄たりけるが、是を聞、驚さわぎて馬に打乘り、犬懸坂を馳越て名越にて浦を見れば、四五百騎ガ程打圍て見えけり。小次郎片手矢はげて鞭をうつ。小大郎は小坪坂の上にて、「軍(いくさ)和平したれば畠山に不ㇾ可ㇾ向」ト云(いふ)心にて、手々に招けれ共、角(かく)とは爭(いかで)か知べきなれば、「急(いそげ)と云ぞ」と心得て、をめきてかく。畠山は、「軍(いくさ)和平しぬる上は」とて馬より下、稻瀬川に馬の足冷して休み居たりけるに、小次郎が馳(はする)を見て、「和平は搦手の廻るを待ケけるを。知ずしてはかられにけり。安からず」とて馬に打乘、小次郎に向テ散々に蒐(かく)。小次郎は主從八騎ニにて寄(よせ)つ返(かへし)つ寄つ返つ火出る程こそ戰けれ。敵六騎切落し、五騎に手負せて暫(しばらく)休けるを、小大郎は、「小次郎うたすな。始に手をひらきて招けば知ざるにこそ。大なる物にて招(まねけ)」とて、四五十人手々に唐笠にて招けるを、彌深入して戰へと云(いふ)にこそと心得て、暫(しばらく)氣をやすめ、又馳入でぞ戰ける。
[■やぶちゃん注:この誤認がせずとも済んだはずの小坪合戦が勃発してしまう契機のシークエンスである。
・「和田小次郎義茂」義盛の弟であるが生没年未詳。底本の頭注には、『吾妻鏡によると弓術の達者で、頼朝の側近として活躍する』とあり、調べてみると開幕後の寿永元(一一八二)年十二月七日の深夜の頼朝鶴岡参拝(偶然ながらここは、頼朝が小坪に密かに囲っていた亀の前の幕府某重大事件のただ中のことであるから、如何にも深夜の参詣は怪しい)に従っているのが最後で、後は和田合戦の条に彼の息子長茂の名が出るのみである。
・「犬懸坂」犬懸ヶ谷(いぬかけがやつ:現在の鎌倉市浄明寺)の南直近の釈迦堂ヶ谷の尾根を越えて名越切通へと通じていた古道(現在は寸断されて廃道)であろう。]
「今は叶はじ、小次郎うたすな、つゞけ者共」とて、和田小大郎二百餘騎にて小坪坂を打下り、河を隔て引へたり。小大郎、藤平に間けるは、「義盛は楯突(たてつき)の軍(いくさ)には度々あひたれ共馬の上は未ㇾ知、いかゞ有べき」といへば、「實光今年五十八、軍(いくさ)にあふ事十九度也。軍は尤(もつとも)故實に依べし。馬も人も弓手に合(あふ)事なり。打とけ弓を不ㇾ可ㇾ引、開聞を守てためらふべし。我内甲をば惜(をしむ)べし。矢をはげたり共あだやを射じと資べし。敵一の矢を放てひきあはせ二の矢いんとて打上たらんまつかふ内甲・頸のまはり・鎧の引合(ひきあはせ)、すきまを守て射給べし。矢一放ては急ぎ二の矢を番(つがひ)て人のあきまを守給へ。敵も角(かく)こそ思ふらめなれば、透間(すきま)を資て常に冑突(よろひづき)し給ふべし。昔は馬を射(いる)事候はず、近年は敵の透間なければまづ馬の太腹を射て、主を駻(はね)落して立あがらんとする處を御物射にもする侯。敵一人をあまたして射事有べからず、箭だうなに相引(あひびき)して誤(あやまち)すな。敵手繁くよするならば樣あるまじ、押並て組て落(おち)、腰刀にて勝負をし給へ」とぞ教たる。去(さり)ければ、敵は引詰引詰散々に射けれ共、或は上り或は下る。自(おのづから)あたる矢も透間(すきま)をいねば大事なし。三浦は實光が云(いふ)に任て、敵の二の箭いんとて打上るすきまを守て、差つめ差つめ射ければ、あだや一も無りけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」は「小坪」とせず、「由井浦」としており(後掲)、由比ヶ浜合戦の方が相応しいと私は思っている(実際にそうも呼称する)。
・「河を隔て引へたり」この河は滑川と稲瀬川であろう。前後に川を配しては不利だからである。畠山方が稲瀬川河口から現在の坂ノ下海岸へに、義盛は戻って滑川河口の逗子寄りの材木座海岸に布陣したものと考えられる。
・「打とけ」気を許し、油断をする。ここは容易に軽々しくの謂い。
・「開間」鎧兜の接合部や可動部などの僅かな未防備の透間。
・「ためらふべし」これは実際にうろつく、彷徨うの意と採る。後にも出るが、すぐ前にある、武具の開間を狙われないように守るためには、常に体を動かして矢の狙いを定め難くすることが大事だからである。
・「内甲」視野を確保するためには防備し難い急所である甲の真甲の上辺の直下、額及び眉間の部分。
・「はげたり」「はげ」は「矧(は)ぐ」で弓に矢をつがえることをいう。
・「資べし」「たすくべし」「たのむべし」と読むか。前者なら射損ずるまいと心に念じて矢を確実にターゲットに導くように常に心懸けるようになされよ、後者なら無駄な矢を決して射るまいということだけを頼みとするに徹底なされよ、の謂いとなる。
・「敵一の矢を放てひきあはせ二の矢いんとて打上たらんまつかふ内甲・頸のまはり・鎧の引合(ひきあはせ)、すきまを守て射給べし」なかなか面白い極意である。
――敵が一の矢を放った瞬間からそれが標的に当たったかどうかを確かめ、次の二の矢を射るためにこちらを索敵してつがえるまでの僅かな時間、つい、己が放った矢の行方を見届けんがために気を許し、さらに次はどれを狙ってやろうかと品定めをする、その上向きになった防備の油断を見切って、内兜の真甲の空隙の額部分・鎧胴と兜の錣(しころ)の頸の可動部分の遮蔽されていない僅かな素膚・鎧胴を前後で引き合わせた脇の隙間なんどを、すかさず狙って射遊ばされるがよい。――
・「冑突」鎧付き・鎧築きなどとも書く。矢の立つ透間を相手からなるべく見え難くするために、鎧をを搖すり上げること。
・「御物射」「おものい」「おんものい」と読み、「追物射」(おふものい)が転化した語。「追物射」は元来は競射の一種で円い馬場に犬や小牛などを放して騎馬で射る遊び。ここでは馬上から徒歩の敵を追い詰めて射殺すこと。
・「箭だうな」「箭」(音セン)は矢の意(狭義には矢の幹・矢柄若しくはその素材たる矢竹・篠竹)で、ここは実際「や」と私は読みたい。「だうな」は小学館の「日本国語大辞典」でやっと見つけた。これ自体は語素で接尾語的に他の語(一般的には物品である名詞であろう)に附けて用い、その対象物を無益に浪費することや総てそれらが無駄になることの意である。従ってここは矢をむやみやたらに無駄に使ってしまうことを指す。
・「引詰引詰」差し詰め引き詰め。多くの矢を次から次へと手早く弦につがえるさま、次々にそれらを射るさま。
・「あだや」徒矢。標的を射損なった矢。無駄な矢。]
去(さる)程にあぶずりの城固(かため)たる三浦別當義澄、「爰にて待(まつ)も心苦し。小坪の戰きびしげなり。つゞけ者共」とて、道は狹し、二騎三騎づゝ打下けるが遙に續て見えければ、畠山是を見て、「三浦の勢計(ばかり)にはなかりけり、一定安房・上總・下總の勢が一に成(なる)と覺たり。大勢に被二取籠一なばゆゝしき大事、いざや落なん」とて、五騎十騎引つれ落行けり。三浦勝に乘て散々に是を射(いる)。爰に武藏國住人綴黨の大將に、太郎・五郎とて兄弟二人あり。共に大力也けるが、太郎は八十人が力あり。東國無雙の相撲の上手、四十八の取手に暗からずと聞ゆ。大將軍畠山に向て云けるは、「和田に蒐(かけ)られて御方負色に見ゆ。思切(おもひきる)郎等のなければこそ、軍(いきさ)は緩(ゆる)なれ。和田小次郎討捕て見參にいれん」と云捨て、肌には白帷(かたびら)に脇搔(かき)、白き合(あはせ)の小袖一重(かさね)、木蘭地の直垂に赤皮威鎧に白星の甲を著、廿四差たる黑づ羽(は)の箙、四尺六寸の太刀に熊の皮の尻ざや入てぞ帶(はき)たりける。滋藤の弓の眞申とり、烏黑なる大馬に金覆輪の鞍にぞ乘たりける。和田小次郎は陣に打勝て、弓枝つき波打際に引へたり。綴太郎近(ちかく)歩せよす。小次郎是を見て、「和君は誰そ」と問(とふ)。「武藏國住人錣太郎と云(いふ)老也。畠山殿の一の郎等」と名乘(なのる)。小次郎は、「和君が主人畠山とこそくまんずれ、思(おもひ)もよらず。義茂にはあはぬ敵ぞ、引退(ひきしりぞけ)」と云へば、綴云けるは、「まさなき殿の詞かな。源平世にはじまりて公私に付て勢を合(あは)する時、郎等大將に組(くむ)事なくは、何事にか軍あるあるべき。さらば受て見給へ」とて、大の中差取て番(つが)ひ、近づき寄ければ、射られぬべく覺て、綴をたばかりて云樣、「詞(ことば)の程こそ尋常なれ、恥ある敵を遠矢に射(いる)事なし。寄て組(くめ)、腰の刀ニにて勝負せよ」とぞ云ける。綴、「然べき」とて、弓箭をば抛棄て歩せよせ、推並て引組で、馬より下へどうど落(おつ)。綴は大力なれば落たれ共(ども)ゆらり立(たつ)。小次郎も藤のまとへるが如(ごとく)より付(つき)てこそ立直れ。綴大郎(たらう)は大力なる上に太く高き男にて、和田小次郎が勢の小(ちひさ)きかさに係りて、押付てうたんとしけり。和田は細く早かりければ、下をくゞりて綴を打倒して討んと思へり。勢の大小は有けれ共、力はいぞれも劣らず、相撲は共に上手也。綴は和田が冑(よろひ)の表帶(うはおび)引寄て内搦(うちがらみ)に懸つめて、甲のしころを傾て十四五、廿ぞはねたりける。和田、綴に骨をおらせて其後勝負と思ければ、勝に付てぞ廻ける。綴内搦(うちがらみ)をさしはづし、大渡に渡して駻(はね)けれ共、小次郎はたらかず。大渡を曳直(ひきなほし)、外搦ニ懸(かけ)、渚にむけて十四五度曳(えい)々と推(おせ)ども雄どもまろばざりけり。今は敵骨は折ぬらんと思ければ、和田は綴は表帶(うはおび)取て引よせ、内搦にかけ詰て、甲のしころを地に付て渚へむけて曳音(えいごゑ)出してはねたりけり。綴、骨は折ぬ、強はかけてはねたれば、岩の高(たかき)にはね懸られてがはと倒る。はねかへさんはねかへさんとしけれ共、弓手のかいなを踏付て、甲のてへんに手を入、亂髮を引仰(ひきあふのけ)て頸を掻落す。首をば岩上(いはのうへ)に置、綴が身に尻打懸て、沖より寄來る浪に足をひやし息を休めて居たりけるが、敵定て落逢んずらんと思ければ、綴が首をしをでの板にゆい付て、馬に打乘弓枝つき、「敵落合」とぞ呼ける。
[■やぶちゃん注:和田義茂と錣太郎の死闘。
・「三浦の勢計にはなかりけり、一定安房・上總・下總の勢が一に成(なる)と覺たり。大勢に被二取籠一なばゆゝしき大事、いざや落なん」ここは今度は逆に畠山氏側の戦時下の混乱状況下における過剰反応による事実誤認である。但し、後掲する「吾妻鏡」に見るようにこの前後に実質上の上総の総支配者であった上総介広常の弟で上総国長柄郡金田郷(現在の木更津市金田)在の小大夫(こだゆう)頼次が義澄の軍に参戦している。
・「綴黨」都筑党(つづきとう)に同じい。武蔵国都筑郡を本拠地とし、数え方によっては武蔵七党の内に数える同族武士集団。利仁流藤原姓で齋藤氏の同族。由比ヶ浜合戦では以下に見るようにこの錣党から多くの犠牲者を出した。
・「白帷に脇搔」底本注に、『左右の脇を縫わずにあけてある生絹ないし麻製のひとえの下着。戦場の武者の装いの描写を下着から始めるのは尋常ではない。「思い切る郎等」に相応しい最後の装束という意識によるものか』と述べておられ、注の視点が頗る鋭い。
・「木蘭地」「もくらんぢ(もくらんじ)」と読み、衣類の生地の地色。梅谷渋(うめやしぶ)に明礬を混ぜて染めた狩衣・直垂などの地。赤みのある黄色を帯びた茶。「もくれんじ」「むくらんじ」などとも読む。
・「白星」兜の鋲(「星」と呼ぶ)に銀を被せたもの。
・「黑づ羽の箙」不詳。「の箙」とある以上、これは箙に差した矢羽の色ではなく、箙自体の装飾であろう。
・「四尺六寸」約一メートル三十九センチ。
・「恥あり」名誉や面目を重んじる。
・「藤のまとへるが如より付て」後述されるように義茂は錣太郎に比して遙かに細身(背も有意に低い)であったために、彼と組んづ解れつといった体(てい)にあっては、錣の身体に纏わりついた藤の蔓のような感じで、自然体勢を立て直したという謂いであろうか。
・「内搦」不詳。底本注には『相撲の手のひとつ。繋技のひとつうちつなぎか』とあるが、内掛けのような技か。以下、それを錣は義茂に二十回もかけて(というか、その状態のままで)倒そうとしたが、まさに藤蔓のように錣腰に取り付いた義茂はいっかな倒されなかったということらしい。菅江真澄の「ふでのまにまに」には「繋捕十二手あり」の筆頭に「内繋」とある。
・「大渡」底本注には『相撲の手のひとつ。繋技のひとつ渡繋にあたるか。古今相撲大全に「のこらぬ手」とある』とする。菅江真澄の「ふでのまにまに」には「繋捕十二手あり」の中に「渡繋」とある。
・「はたらかず」動かない。
・「外搦」底本注には『相撲の手のひとつ。繋技のひとつ外繋か。』とする。菅江真澄の「ふでのまにまに」には「繋捕十二手あり」の「内繫」の次に「外繋」とある。外掛けのような技か。
・「はかけてはねたれば」底本注には『繋技のひとつ拮繋(はねかけ)を打ったか。』とあるが、どのような技か不明。ともかくもその技をしかけたのは義茂の方である。
・「岩」渚の岩礁である。
・「甲のてへん」「てへん」は「てっぺん」の語源である「天辺」「頂辺」。兜の鉢の頂上の所を指し、本邦の兜の場合はこの部分に丸い穴が開いており、頂辺の座または八幡座という金物で飾ってあった。
・「落逢んずらん」(錣太郎の首をとった上は報復のために敵が)来合わすに違いない。
・「しをで」「四緒手」「四方手」「鞖」。馬具の名称で、鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)の左右の四か所に附けた金物の輪を入れた羂(わな)。胸繋(鞅:むながい。鞍橋(くらぼね)を固定するために馬の胸から鞍橋の前輪の四緒手にかけて取り回す緒。胸懸け。)・尻繋(鞦:しりがい。同じく鞍を固定するために馬の尾の下から後輪の四緒手に繋げる緒。)を留めるためのもの。]
綴五郎兄を討してをめきて蒐(かく)。小次郎は、「和君は綴が弟の五郎にや、兄が敵とて義茂にくまんと思て懸るか。汝が兄の太郎は東國第一の力(ちから)人、それに組て被二取損一(とりそんぜられ)たれば今は力なし。とくとく寄て義茂が頸とれ」とぞ云ける。五郎まのあたり見つることなれば實(まこと)と思(おもひ)、押並てひたと組(くみ)、馬より下へ落(おつ)。いかがはしたりけん、五郎下になり、是も頸をぞ捕られにける。角(かく)て岩に尻懸(かけ)、浪に足うたせて休處に、綴小太郎、父と伯父を被ㇾ討て、三段計(ばかり)に歩せ寄(よせ)、大の中差取て番(つがひ)、差當(さしあて)、兵(ひやう)と射(いる)。冑(よろひ)の胸板に中(あたり)て躍り返る。小次郎は射向の袖を振合(ふりあはせ)、しころを傾(かたぶけ)、苦しげなる音(こゑ)して云けるは、「やゝ綴小太郎よ、親の敵をば手取(てどり)にこそすれ。而(しかる)に親の敵也、人手にかくな。落合(おちあへ)かし、近くよらぬは恐しきか。和君が弓勢として而(しか)も遠矢にては、義茂が冑ばよもとをさじ物を。但義茂は昨日一昨日より際(ひま)なく馳(はせ)あるき兵糧もつかはず、大事の敵にはあまた合ぬ、既に疲(つかれ)に臨で覺れば力なし。父が敵なればさこそ汝も思らめ、人にとられんよりは寄て首を切(きれ)、延(のべ)て斬せん」と云ければ、小太郎まこと㒵(がほ)に悦つ、馬より飛下、太刀を拔て走懸り、小次郎が甲の鉢を丁と打(うつ)。一打うたせてつと立あがり、取て引よせ懷(いだき)ふせ、てへんに手を入て頸を切る。三の首を二をば取付につけ、一を太刀のさきに貫て、馬に乘(のり)、指擧(さしあげ)つ、名乘けるは、「只今畠山が陣の前んて敵三騎討捕て歸る剛(かうの)者をば誰とか思ふ。音にも聞(きく)らん、目にも見よ。桓武天皇の苗裔高望王より十一代、王氏を出て遠からず、三浦大介義明が孫和田小次郎義茂、生年十七歳。我と思はん者は大將も郎等も寄て組(くめ)」とぞ呼ける。畠山は小坪の軍に綴太郎・五郎・同小大郎(こたろう)・河口次郎大夫・秋岡四郎等を始として三十餘人討れぬ。手負は五十餘人也。三浦には多々良大郎(たろう)、同次郎、々等二人、纔に四人ぞ討れける。
[■やぶちゃん注:和田義茂と錣太郎の弟五郎及び太郎の子小太郎の死闘。
・「被二取損一たれば」底本注に『痛めつけられたので。』とある。
・「三段」「段」は「反」と同じで、「きだ」「きた」とも読む。布などの長さを計る単位で一段(きだ)は一丈三尺(約三メートル九十四センチ)であるから、十二メートル弱か。
・「中差」当時、箙に矢を盛る際には上差しの矢といって征矢とは異なる鏑矢などの様式の違う特別な矢を添えるのを礼儀とした。ここは単に実戦用の征矢のことを指している。
・「射向の袖」「いむけのそで」と読む。鎧の胴の左右に垂下して肩から上腕部を防御する楯状の部品である大袖(おおそで)の左腕のそれを指す。胴と同様に小札(こざね)で作られ、通常六段の小札を使用するが、鎌倉時代には七段となった。飛来する矢を防ぐため、後世の袖に比べ大きい。右の袖は馬手(めて)の袖と呼び、弓を射る際に敵対する左の袖の方をより堅牢に作ってある(ウィキの「大鎧」に拠った)。
・「てへんに手を入て頸を切る」底本注に、錣小太郎の兜の鉢の頂辺(てへん)の穴に手をかけて、顔を仰向けにさせて頸部を切ったのであるとある。
・「取付」先に出たが、この名称によって二つの首を下げたのは鞍の後輪(しずわ)につけた鞖(しおで)であることが分かる。
・「桓武天皇の苗裔高望王より十一代」底本注には、『三浦系図に異同があり、確かめがたい』とある。
・「三十餘人討れぬ」「吾妻鏡」の治承四(一一八〇)年八月二十四日の条の末には、
〇原文
三浦輩出城來于丸子河邊。自去夜相待曉天。欲參向之處。合戰已敗北之間。慮外馳歸。於其路次由井浦。与畠山次郎重忠。數尅挑戰。多々良三郎重春幷郎從石井五郎等殞命。又重忠郎從五十餘輩梟首之間。重忠退去。義澄以下又歸三浦。此間。上總權介廣常弟金田小大夫賴次率七十餘騎加義澄云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
三浦の輩、城を出で、丸子(まりこ)河邊に來り、去ぬる夜より曉天を相ひ待ち、參向せんと欲するの處、合戰已に敗北するの間、慮外に馳せ歸る。其の路次(ろし)に由井(ゆゐ)の浦に於いて、畠山次郎重忠と數尅(すこく)、挑(いど)み戰ひ、多々良三郎重春幷びに郎從石井五郎等、命を殞(おと)す。又、重忠の郎從五十餘輩、梟首(けうしゆ)せらるるの間、重忠、退去す。義澄以下、又、三浦へ歸る。此の間、上総權介廣常弟金田小大夫賴次、七十餘騎を率いて義澄に加はると云々。
とあって戦死者の数が多く、記載された人名にも齟齬がある。「丸子河」は現在の神奈川県小田原市の東を流れる酒匂川の古称。]
畠山は郎等多く討れて、敵にくまんと招れて安からず思ければ、畠山は、「重忠くまん」とて打出けり。紺地の錦の直垂に火威の冑に蝶のすそ金物をぞ打たりける。白星の甲に廿四差たる※羽のやなぐひ筈上に取てつけ、紅のほろ懸(かけ)、薄綠と云(いふ)大刀の三尺五寸なるに虎皮の尻鞠入てぞ帶たりける[やぶちゃん字注:「※」=「吉」(へん)+「鳥」(つくり)。]。泥葦毛の馬に、中は金覆輪耳(はた)は白覆輪の鞍を置(おき)、燃立(たつ)ばかりの厚總(あつぶさ)の鞦かけ、武藏鎧に重藤の眞中取て歩せ出づ。本田・半澤左右にすゝむ。名乘けるは、「同流の高望王の後胤秩父十郎重弘が三代の孫畠山庄司次郎重忠、童名氏王、同年十七歳、軍(いくさ)は今日ぞ始(はじめ)。高名したりと訇(ののし)る和田小次郎に見參せん」とて進出(すすみいづ)。本田次郎、中に隔りてくつばみ押へ云けるは、「命を捨るも由による。宿世親子の敵に非ず、只平家に聞えん計(ばかり)、一問にこそ侍れ。就ㇾ中三浦は上下皆一門也。秀(ひいづる)を大將とし、成ㇾ後(しりへなる)を郎等・乘替に仕ふ。されば一人當千の兵にて、親死(しに)子死(しぬれ)ども是を顧ず、乘越乘越面を振ず、後を見せじと名を惜む。御方の勢と申は黨の驅武者、一人死すれば、其親しき者共よきに付(つけ)とて引つれ引つれ落れば、如何なる大事あり共君の御命に替る者候はじ。成淸・近恆ぞ矢さきにも塞るべけれ共、是は公軍(おほやけいくさ)なり。只引返し給へ」と云けれ共、小次郎に組んで死なんとて打寄ければ、和田は度々の軍に身をためしたる武者にて、畠山矢ごろにならば唯一矢にと志(こころざし)、中差取て番(つがひ)、相待(あひまつ)。ほど近くなりければ能引(よつぴき)て放つ。畠山が乘たる馬の當胸盡(むながひづくし)より鞦の組違へ、矢さき白く射出す。馬は屛風をかへすが如(ごとく)臥ければ、主は則(すなはち)下立(おりたち)けり。成淸馬より飛下て主を懷(いだ)き上て我馬に乘す。弓取はよき郎等を持(もつ)べかりけり。半澤なかりせばあぶなかりける畠山なり。成淸歩(かち)武者に成て間にへだゝる。小次郎は太刀を額にあて、進寄(すすみよる)。畠山同太刀を額にあてゝ、小次郎を待(まつ)處。三浦介の手より、「小次郎は骨を折ぬと覺ゆ、討すな者共」とて、兄の小太郎義盛・佐原十郎義連・大黨三郎・舞岡兵衞を始として十三騎、太刀をぬき打て向ひければ、畠山も討るべかりけるを、本田・半澤中に阻(へだた)り、「以前に如ㇾ申大形(おほかた)も御一門、近(ちかく)は三浦大介殿は祖父、畠山殿は孫に御座(おは)す、離れぬ御中なり。指たる意趣なし、我執なし。私の合戰共詮なく覺ゆ。本田・半澤に芳心ありて御馬を返し給へ」と云ければ、和田是を聞(きき)、「郎等の降を乞は主人の云にこそ、今は引け」とて、和田は三浦へ歸ければ、畠山は武藏へ返りけり。さてこそ右大將家の侍に座を定られけるには、左座の一﨟は畠山、右座の一﨟は三浦、中座の一﨟は梶原と定りける時は、「畠山は三浦の和田に向て降乞(こひ)たりし者なり。左座無ㇾ謂(いはれなし)」と云けるを、「重忠全く不二存知一。弓矢とる身の命を惜み敵に降乞(こふ)事や有べき、若(もし)郎等共が中に云事の有けるか。返々(かへすがへす)奇怪也」とぞ陳じける。
[■やぶちゃん注:由比の浦合戦のエンディングと後日譚。ここで「源平盛衰記」の第二十一巻は終わっている。
・「※羽のやなぐひ筈上に取てつけ」底本注には、「※」は『鵠(くくい)の誤りか』とし、白鳥又は鸛(こうのとり)の羽根を矢羽に附けた矢が高く抜きん出て見えるように矢を盛った箙を腰に附けて、という意味であると記す。筈上は「はづだか(はずだか)」と読み、本来は「筈」は矢の端の弓の弦に番える切り込みのある部分である矢筈(やはず)を指す(弓の両端・弓弭(ゆはず)の呼称でもある)が、「筈高」で箙に入れて背負った矢の矢筈が高く現れて見えること。また、そのように背負うさまを指す語である。
・「薄綠」底本注に『「平治物語」巻上「源氏勢汰への事」では義朝の次男朝長の帯びていた太刀の名も薄緑。剣巻では源氏重代の剣で所持者を強運に導く霊力をもつものとして薄緑の伝来と命名の由来について記す。武家名目抄巻七参照。』とある。しかし、何故それが畠山家に伝わっているのかまでは記さない。
・「泥葦毛」葦毛(栗毛・青毛・鹿毛(かげ)の毛色に加齢によって白い毛が交ったもの)の馬の腹や足の部分に黒のサシ毛のある毛色のこと。
・「中は金覆輪耳は白覆輪の鞍」底本注に、鞍の前輪と後輪(しずわ)の山型の部分に金の覆輪をし、末端の詰めの部分に銀の覆輪をしたものか、と記す。
・「燃立ばかりの厚總の鞦」底本注に、『真紅の厚編みのふさをつけたしりがい』とある。
・「武藏鐙」武蔵国豊島郡で製された鐙。鋂(くさり:兵具鎖。長円形の鐶(かん)を交互に通して折り返して繋いだ鎖。多くは太刀の帯取りに用いた。俗に兵庫鎖(ひょうごぐさり)ともいった。)を用いずに透かしを入れた鉄板にして先端に刺鉄(さすが)をつけ、直接に鉸具(かこ:鐙の頭部にある革緒を通す刺鉄を受け留める鉄輪。蛸頭(たこがしら)。)としたもの(なお、鐙の端に刺鉄を作りつけにするところから、和歌では「さすが」に、また、鐙は踏むところから「踏む」「文(ふみ)」に掛けて用いられる)。
・「三浦は上下皆一門也」三浦に属する者どもは地位の高いものから下々の者まで皆悉く、血縁関係にある。
・「成後(しりへなる)」力量や知力の劣る者。
・「乘替」戦場等に於いて乗換用の馬を預かる侍。
・「黨の驅武者」畠山の軍勢は錣や横山・丹といった武蔵七党などの他の武士集団を駆り集めたに過ぎないことを指す。
・「其親しき者共よきに付とて引つれ引つれ落れば」参加していた同族の者どもは、それ(仲間の死)をこれ幸いと、正当な口実にして次々と戦線を離脱してしまうので。
・「公軍(おほやけいくさ)」勅状(実質上は平家)で命ぜられた義務上の戦闘行為。
・「當胸盡(むながひづくし)」鞍橋(くらぼね)を固定するために馬の胸に回してある鞅(胸繁:むながい)の緒の胸の正面に当たる部分。
・「鞦の組違へ」の「組違へ」は「くみちがひへ」と読んでいよう。鞦(しりがい)の馬の尾にかけて交差して結ばれた箇所。
・「矢さき白く射出す」底本注に『矢さきが突きぬけて脂が付着しているのである』とある。まさに人間でいえば首の正面根本から背部に向けて斜め後方に矢が貫き、尾骶骨の少し手前へ鏃が突き出ている恐るべき格好になる。
・「芳心」他人(ここは無論、和田義盛)を敬ってその親切な心をいう語。御芳志。御芳情。
・「降」負けて従うこと。降伏。由比の浦(小坪)合戦は既にして畠山の敗北と認(したた)められてある。
・「右大將家の侍に座を定られけるに」大倉幕府にあって頼朝が簾中に伺候する御家人の侍の座順を定めた際に。
・「畠山重忠と和田義盛が常に席次筆頭に並んで対等に位置したことを、義盛に降伏した畠山ふぜいが対等にしかも左に座すと申すは合点がゆかぬ、と揶揄したというのだが、実際の直前の場面があって、その事実(家来が敗北を認め主人の命乞いをしたこと)を知っているのは和田義盛であろうが、どうも義盛の台詞とすると義盛の人柄が如何にも厭らしくさもしい印象を与えてしまう。ここは私はあの奸臣で中の座にあった梶原景時が厭味たらしく重忠に投げ掛けた皮肉ととりたい。]
以上で「源平盛衰記」の引用を終了する。
次の「吾妻鏡」の建久四(一一九三)年七月十日の条の引用であるが、後半部に誤植が多く認められる(ママとした)。以下に原文と書き下し文を示す。
〇原文
十日甲戌。属海濱凉風。將軍家出小坪邊給。長江大多和輩搆假屋於潟奉入。献盃酒垸飯。又漁人垂釣。壯士射的。毎事荷感。乘興盡秋日娯遊。及黄昏還御云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日甲戌。海濱、凉風に属しす。將軍家、小坪の邊に出で給ふ。長江・大多和の輩、假屋を潟(ひかた)に搆へて入れ奉り、盃酒・垸飯(わうばん)を献ず。又、漁人は釣を垂れ、壯士、的を射る。毎事(ことごと)に荷感(かかん)、興に乘りて秋日娯遊を盡す。黄昏に及び還御すと云々。
「垸飯」は饗応の膳。「荷感」は感興を添えるという謂いであろう。
「元弘日記」三重県伊勢市にある臨済宗東福寺派光明寺に残る鎌倉末期の四篇からなる古文書。「軍中日記」とも呼び、これ自体は元弘(一三三一)年八~十月に結城宗広が記したとされる日記で水戸藩が編纂した「大日本史」に引用された(以上はウィキの「光明寺 (伊勢市)」に拠る)。その裏書にそれ以降の記録が追加して残されているものらしい。一応、掲げられた部分を自在勝手に書き下しておく。
「元弘日記」裏書に曰く、「延元二年九月、義良親王幷びに顯家、西征の義有りて、上州利根河・武州薊山・鎌倉小壺・杉本・前濵・腰越、合戰有り。官軍、皆、有利。」と。
「義良親王」は後醍醐天皇第七皇子で後の後村上天皇の初期の諱で義良(のりよし/のりなが)。後に憲良に改めた。ウィキの「畠山顕家」によれば、建武三(一三三六)年三月に顕家は権中納言に任官、蜂起した足利方を掃討するために再び奥州へ戻った。四月に相模で足利方の斯波家長の妨害を受けるがこれを破り、この延元二・建武四(一三三七年)には足利方に多賀城を攻略されるが、この時は顕家は国府を霊山(福島県相馬市および伊達市)に移していたため難を逃れる。同年九月、武蔵国児玉郡浅見山(別名・大久保山)周辺域(現埼玉県本庄市から児玉町一帯)で、薊山合戦を起こしている(『元弘日記』によればこの戦は官軍が皆有利とある)。この後に「鎌倉小壺・杉本・前濵・腰越」各所での小戦闘が展開したものらしい(「前濵」は鶴岡八幡宮の前の浜で由比ヶ浜のこと)。
「石上稱二郎」不詳。
「天明六年」西暦一七八六年。
「久世隱岐守廣譽」「ひろやす」と読む。下総関宿藩第五代藩主。
「文化八年」西暦一八八一年。
「松平肥後守容衆」「かたひろ」と読む。陸奥会津藩第七代藩主。
「文政四年」西暦一八二一年。
「松平大和守矩典」「とものり」と読むが、当代将軍徳川家斉から偏諱を受けて斉典(なりつね)と改名している。武蔵国川越藩第四代藩主。
「四五丈」約十二~十五メートル。
「靈山が崎」霊仙ヶ崎。]