生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (3) 鮫の掛け守とうみほおずき 又は ……あなたは「うみほおずき」を鳴らしたことがありますか……僕には……あります……
卵には鳥の卵のやうに大きなものから、顯微鏡的の極めて小さなものまでさまざまある。
蛇・龜・「とかげ」・「わに」などの卵は形も大きく内部も頗る鳥の卵に似て、たゞ殼が脆くないだけである。海岸地方では海龜の卵を幾らも食用として賣りに歩いて居るが、大蛇や「わに」の卵もオムレツなどに造れば甘く食へる。魚類の卵は通常粒が小さいが「さめ」類のは頗る大きく、革の如き丈夫な長方形の嚢に包まれ、その四隅から出た細長い紐は海草の根などに卷き著けられてある。俗に「さめ」の「掛け守り」と名づけて、江ノ島邊で土産に賣つて居るのはこれである。また海産の「にし」の類は小さな卵を幾つづつか卵嚢に包んで數多く産み附けるが、その卵嚢が即ち女の子が玩具にする「ほほづき」である。平たい「うみほほづき」、細長い「なぎなたほほづき」、滑稽な「ひよつとこほほずき」などさまざまの種類があるが、仕事しながら絶えず喋べるのを防ぐ方便として、製絲や機織女工の口に入れさせるために、今ではわざわざ海中に「にし」の類を飼育し、餌を與へて盛に「ほほづき」を産ませ、千葉縣だけでも年々數萬圓の産額を得るに至つた。その他、數種、數の子などは、最も人に知られた卵であるが、「うに」や「ひとで」などの卵になると、頗る小さくて殆ど肉眼では見えず、恰も雞の卵巣内に於ける出來始めの卵細胞と同じく、單に球形をした裸の細胞に過ぎぬ。
[やぶちゃん注:私は本段の『仕事しながら絶えず喋べるのを防ぐ方便として、製絲や機織女工の口に入れさせるために、今ではわざわざ海中に「にし」の類を飼育し、餌を與へて盛に「ほほづき」を産ませ、千葉縣だけでも年々數萬圓の産額を得るに至つた』という一文を二十四の時に読んだ際の驚愕を今電子化しながら、三十三年ぶりに鮮やかに思い出していた。これは実は荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「海産巻貝」の「うみほおずき(海酸漿・竜葵)」の項にも、『大正時代、製糸工場や紡績工場の経営者たちは、争うようにウミホオズキを買いいれた』。『これを女工の口に含ませておけば、むだなおしゃべりをせずに作業がよくはかどるというのだ(川崎勉《動物101話》)』(引用に際し、コンマ・ピリオドを句読点に変えさせて戴いた)とはっきりと記されてある呆れんばかりの守銭奴らの事実、笑えぬ女工哀史なのである。
『「さめ」類のは頗る大きく、革の如き丈夫な長方形の嚢に包まれ、その四隅から出た細長い紐は海草の根などに卷き著けられてある』軟骨魚綱板鰓亜綱のサメ・エイ類の中でも卵生のメジロザメ目トラザメ科トラザメ
Scyliorhinus torazame やトラザメ科ナヌカザメ Cephaloscyllium umbratile などは“mermaid's purse”(人魚の財布)と呼ばれる特徴的な卵を産む(私は『「さめ」の「掛け守り」』の方がずっと風流だと思う)。トラザメのそれは大きさが五センチメートルほどで半透明な竪琴状の硬いプラスチックのような感触の卵殻の中に胎仔が入っている。外側の袋の端には蔓状の構造物があってこれを海藻などに絡みつけて卵を固定する。胎仔は卵黄の栄養分を費やしながら、卵の中で約一年かけて成長、五~一〇センチメートルの大きさになって孵化する(ここは主にウィキの「トラザメ」に拠る)。ナヌカザメの場合は大きさが一〇センチメートル程でトラザメのそれよりも一回り大きく、卵は刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱海楊(ヤギ)目全軸亜目ムチヤギ
Ellisella rubra などに絡ませられるてある。孵化は同じく一年である(ここは主にウィキの「ナヌカザメ」に拠るが、水族館サイトでもとくにムチヤギに特異的に卵嚢を付着させるとは書かれていないので「など」と入れた)。静止画・動画を含め、私の御用達の「カラパイア」の『「人魚の財布」と呼ばれる巾着のようなサメの卵』を見るに若くはない。図のそれはトラザメ
Scyliorhinus torazame の卵嚢のように見受けられる。
『海産の「にし」の類は小さな卵を幾つづつか卵嚢に包んで數多く産み附けるが、その卵嚢が即ち女の子が玩具にする「ほほづき」である』これらを懐かしいものとして想起出来るのは恐らく私の世代がぎりぎりかも知れない。「海鬼灯(うみほおずき)」は広く海産の軟体動物門腹足綱前鰓亜綱中腹足(新腹足)目の巻貝類の卵嚢を指す。平凡社の「世界大百科事典」の記載を参考にしながら示すと、半透明な革質で卵はこの中で孵化して貝類のライフ・サイクルのステージであるベリジャー幼生に成長し離脱する。種によってこの卵嚢の形や大きさは異なり、
フジツガイ科ボウシュウボラ
Charonia sauliae の卵嚢は「トックリホオズキ」(卵嚢の図はポルトガル語のこちらのページの図が「徳利」の形状をよく描いて分かり易い)
イトマキボラ科Fusinus属ナガニシ Fusinus perplexus のそれは「サカサホオズキ」(米司隆氏の「ナガニシ(ヨナキ)種苗生産の手引き」(PDF版)の冒頭に出る産卵写真と末尾の「ナガニシの生活史」の図を参照)
テングニシ科テングニシ
Hemifusus tuba のそれは「ウミホオズキ」又は「グンバイホオズキ」(「下関海洋科学アカデミー 海響館」の「ウミホウズキ(テングニシの卵嚢)」や taibeach 氏のブログ「今日も渚で日が暮れて」の「海酸漿」を参照)
アッキガイ科アカニシ Rapana venosa のそれは「ナギナタホオズキ」(私と同じ鎌倉在住の方のブログ「打ち上げ採取日記・ブログ版」にある材木座海岸でのビーチ・コーミングのこの写真はなかなか立派で色もよい)
などと呼称される。図のそれはテングニシ Hemifusus tuba のそれであろう。
……一九七六年の七月……江の島の陸側の鼻の射的場(今もこれはある)の前の土産物屋の前……陽光の降り注ぐ店先に並んでいたのは海酸漿と薙刀酸漿だった……店の女の人が薙刀の方を指さして「これはちょっと鳴らすのが難しいんですけど、こっちはね」と言い、海酸漿の方を取って口に含んで――キュキュ――と鳴らして呉れた……海酸漿を二つ買って僕たちは海辺を歩いたのだった……僕は上手く鳴らせたけれど……彼女はなかなか鳴らなかった……すると「癪だわ」と言って彼女は僕を見て微笑んだのだった……あの海酸漿……僕は何処へやってしまったんだろう……遠い……遠い日の……思い出である…………]