中島敦 南洋日記 一月十九日
一月十九日(月) マルキョク
終日、東の烈風。ウバルトを旅行中荷物擔ぎに連れ行かんとオイカワサンに(海邊のアバイにて)交渉せしも成立せず。但し、村から村へと順送りに何とか荷物を送る世話をしようといふ、些か失望。八時半、土方氏と、家の前の大甃路を西に上る。新しきアバイ。中に入りて見る。コロールのそれよりも大分安手に出來居れり。たゞ、此のアバイを中心とせる舊マルキョク盛時の諸遺跡、酋長會議席、その他の宏壯なる、頗る觀るに足る。殊に縱横に通ぜる大敷石造は最もマルキョク酋長往時の威權を想望せしむべし。熱帶の巨樹鬱々。芋田所々。熔樹。昔の家趾の前を多く通りて海岸通に出づ。公學校を訪ぬ。庭前のタマナ、ヨウジュ・アミーアの相倚り立てる巨木見事なり。
バナナを喰ひつゝ森校長と語る。十一時辭去。海沿に歸る。午後リーフの干潟に、(hi’)yū(n)ll 蟲を(枕蟲)採らんとて降立つ。巨いなる蚯蚓の如き醜怪なる生物なり。土方氏とウルポサン部落へ散歩。ウルトイ島。ボートハウス。潮招き。宿かり。海鳥。タマナの大木。芝生。エラケツ(島民鍛冶屋)の家。石甃路を辿り山路傳ひに歸る。芋田。老婆。家趾のビンロージ。赭山路の眺望。カイシャル水道。搦手よりマルキョクに入る。樹下石上に晝寐せる女。一軒の家に立寄る。老爺一人。少女二人。赤ん坊に乳をふくませをる若き細君の顏。妙に煽情的なる所あり。パイプ(竹)を創る土方氏。歸つて晝寐。五時頃又、土方氏と外出。オルケョク(マルケョク始祖の石像)を見る。ゲルボーソコの家に行き揚魚と薯の馳走になる。歸途、森校長の所に寄り明日のサンパンのことを賴む。七時歸宅。新月の細きを見る。夜又、燈火の下にウバル等と語る。
[やぶちゃん注:「アバイ」パラオの伝統的建築物バイ(Bai)。「アバイ」ともいう。参照したウィキ「バイ」によれば、『釘やネジを用いない建築物で、二等辺三角形の草葺屋根が特徴的である。正面の三角形の壁面(日本建築でいうところの破風)には、パラオに代々伝わる物語が彫刻や絵で描かれている。このバイの彫刻技法を後世に残すべく考案されたのが、現在パラオの民芸品として知られているストーリーボードである』。『2種類のバイがあり、「酋長用のバイ」と「集会用のバイ」がある。酋長用のバイは女人禁制で、酋長クラスの身分の高い男性専用の施設である。集会用のバイでは、年長者が年少者に生活の様々な知恵を授ける一種の学校のような役割を果たしていた』。『かつてはパラオのあらゆる集落に存在していたが、19世紀後半より徐々に減り始め、太平洋戦争の戦火で大幅に激減した。最近ではパラオ文化の再評価に伴い、徐々に復興されつつある。現存する最古のバイはアイライ州にあるバイで1890年頃に建てられた』とある。リンク先ではベラウ国立博物館の敷地に伝統的技法を再現して建てられた観光客向けのバイの建造風景を撮った多くの写真が見られる。
「熔樹」「ヨウジュ」既注。沖繩でお馴染みのガジュマルのこと。イラクサ目クワ科イチジク属ベンガルボダイジュ
Ficus bengalensis。インド原産で高さは三〇メートルにも達する。樹冠部は大きく広がって横に伸びた枝から多くの気根を出す。果実は小形の無花果状で赤熟する。インドでは聖樹とされる。バニヤン・バンヤン(banyan)ともいう。
「アミーア」不詳。識者の御教授を乞う。これは単なる直感に過ぎないのであるが、南洋熱帯の巨木というとアオイ目アオイ科サキシマスオウノキ
Heritiera littoralis が思い浮かぶ。この属名を凝っと見ていたら、ふと、これが「アーリア」ではなかろうか、と思ったものである。ラテン語の“H”は発音しないから、これは「エリティエラ」であろう、すると「エーテーラ」……「アーリア」に何となく似ている気がするのである。現地ではサキシマスオウノキが用材(ウィキの「サキシマスオウノキ」によれば、沖繩では『かつてこの板根を切り出してそのまま船(サバニ)の舵として使用した。樹皮は染料、薬用として利用される』とある)がとして取引されいるが、この属名がそのままパプア・ニューギニアの木材取引名として使われていると平井信二氏の「樹木と木材の研究」の「サキシマスオウノキ」にある。
「(hi’)yū(n)ll 蟲」「枕蟲」不詳。残念! 環形動物門多毛綱遊在目イソメ科イソメ目イワムシMarphysa sanguinea か若しくはユムシ動物門ユムシ目ユムシ科ユムシ
Urechis unicinctus か? 「枕蟲」という名と「巨いなる蚯蚓の如き醜怪なる生物」という表現、どうもこれを食用としている風がある点(ユムシはかつては日本でも沿岸域でよく食べられ、朝鮮や中国では現在でも普通に食材とされる。私も刺身で食べたが非常に旨いものである。但し、イワムシ食も本邦の山口県宇部市に例がある。嘘だと思われる方は私の「博物学古記録翻刻訳注 ■9 “JAPAN DAY BY DAY” BY EDWARD S. MORSE の “CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND” に現われたるエラコの記載 / モース先生が小樽で大皿山盛り一杯ペロリと平らげたゴカイ(!)を同定する!」をお読みあれ)からはユムシ Urechis unicinctus の類ではないかと想像する。
「ゲルボーソコ」不詳。現地人の名か?
「サンパン」サンパン(広東語の「舢舨」。英語:Sampan)は中国南部や東南アジアで使用される平底の木造船の一種を指す語であろう。ウィキの「サンパン」によれば、『港や川岸から比較的低速、安全に人や少量の荷物を輸送するのに適した形状に作られた、全長』五メートル『程度の小型船である。現在は香港や広東省の漁村でよく目にし、湾内でいわゆる水上タクシーとして客を対岸、水上レストラン、釣り場などに輸送したり、湾内観光などに用いられている』。『ほかに、台湾の台南やマレーシア、インドネシア、ベトナムなど東南アジアの華僑・華人が多い漁港などでも使用されている』。『従来は、船尾に取り付けた』二~三メートルほどの『艪を手で操って進ませていたが、現在はエンジンを備えて、ある程度のスピードを出せるようになっている。また、木造にかぎらず、FRP(ガラス繊維強化不飽和ポリエステル樹脂)製のものも作られている』。『また、従来はかまぼこ型の低い屋根を備えていたものが多かったが、現在は周りの見通しが利く、比較的高いテント屋根を備えているものに変わっている』とあり、さらに『中国との交流が盛んであった明治時代の長崎県長崎市でも小型の通船をサンパンと呼んでいた。黒船に似た屋形を供え、舳先はとがって中国船のように彩色されていた。当地では深堀領主の発明と伝えられていた』ともある。]
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