日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 16 高嶺秀夫との欧米人と日本人の愛情表現の違いについての会話
高嶺氏がちょいちょい家へやって来る。彼はオスゥェゴー師範学校の卒業生で、私とは汽船の中で知合になったが、気持のいい人であり、私のいろいろな質問に対して、腹蔵なく返事をする。彼は私の男の子のことを話し、如何に彼を抱きしめることが好きであるかをいった。そこで私は、愛情をあらわす方法が違っていることをいい出した。高嶺のお母さんは、立派な、聡明そうな婦人で、非常に気持のよい、親切な感じを人に与える。で私は高嶺に、二ケ年半も留守にした後でお母さんに逢った時、君は彼女にとびついて、固く抱擁して接吻しなかったかと聞いた。すると彼は一寸終っていたが、「いいえ、僕にはそんなことは出来ませんでした。そんなことは非常に極りが悪いのです。ですから僕は、母親の左の手をつかんで、握手しました。母は私が握手した勢に吃驚し、私が完全に外国化したと思いました」と答えた。そこで私は彼に向って、日本人が友人や親類、殊に自分の子供に対して持つ愛情は、我々に於ると同様に熱切だと考えるかと、質ねた。彼は素直に、そうは思わぬといい、かつ愛情と愛情的の表現は、養成することが出来ると信じることと、それから米国へ行く前にくらべて、彼は兄弟に対して、よりやさしい感情を持つようになったこととを、つけ加えた。
[やぶちゃん注:「高嶺」本章冒頭の注でも示したが再掲しておく。高嶺秀夫(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)は教育学者。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保(かたもり)の近習役となったが九月には会津戦役を迎えてしまう。謹慎のために上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた(在学中に既に英学授業を担当している)。八年七月に文部省は師範学科取調のために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定、高嶺と伊沢修二(愛知師範学校長)・神津専三郎(同人社学生)が選ばれた。高嶺は一八七五年九月にニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学、一八七七年七月に卒業したが、この間に校長シェルドン・教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、ジョホノット(一八二三年~一八八八年:実生活にもとづく科学観に則る教授内容へ自然科学を導入した教育学者。)と交流を深め、コーネル大学のワイルダー教授(モースの師アガシーの弟子でモースの旧友でもあった)に動物学をも学んだ。偶然、このモースの再来日に同船して帰国、東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任、その後、精力的に欧米最新の教育理論を本邦に導入して師範教育のモデルを創生した。その後,女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授や校長などを歴任した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。]
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