篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年五月
聖堂や棕櫚の花散る石の道
[やぶちゃん注:「聖堂」鹿児島市照国町の鹿児島カテドラル・ザビエル記念聖堂( Kagoshima St. Xavier's Cathedral )の明治四二(一九〇八)年に建造された石造り聖堂であろう。本格的な石造りの教会としては日本最初のもので立派な教会であったが、昭和二〇(一九四五)年四月八日、ミサ直後に空襲によって焼失している。現在のものは三代目でザビエル日本渡来四百五十年を記念して平成一一(一九九九)年に竣工したコンクリート製である(同教会公式サイトの「聖堂」の記載に拠った)。
鳳作の父は医師で、明治三九(1906年)年鹿児島市生まれ。西南戦争で官軍に従っている。熱心なキリスト教信者でもあった。]
春愁のうなじを垂れて夜の祈り
行く春や法衣(ガウン)の裾のうす汚れ
[やぶちゃん注:これら三句は単なる傍観者の嘱目吟とは思われない。明らかにミサの景であり、鳳作はそこに信者としているとしか思われない。但し、それが熱心な信者としてかといえば荘厳なミサの景を詠むに「法衣の裾のうす汚れ」をクロース・アップしてしまう程度に熱心ではないと私は見る(この汚れはスティグマとは到底思われぬ)。年譜によれば、誕生の明治三九(一九〇六)年の項に鳳作(本名は国堅)の『父政治は養父の後を継いで医者となったが、西南の役に官軍に従軍して熊本の激戦で負傷、熱心なキリスト教信者であった』(政治は昭和一一(一九三六)年一月に八十三歳で亡くなっている。因みにこの八ヶ月後の九月十七日には鳳作自身が逝去する)とあり、父が熱心であればこそ彼もミサに幼少時よりミサに馴染んでいたに違いなく、さればこそ鳳作の後の句にはクリスマスのミサを詠んだものやキリスト教的素材を確信犯的に用いた句もある。しかし、例えば逝去の年譜記事には『葬儀は神式で行われ』たとあり、句や残された文章にもそうした信仰告白は管見の限りでは私には全く認められない。教会には親しんだものの、彼個人とキリスト教の結びつきは信仰の部分では深いものであったようには思われない(私には鳳作のキリスト教関連の俳言は一種の異国趣味やキリスト教的なシンボリズムへの知的関心(信仰ではなく)による匂いづけの印象が強いように感じられる)。その辺につき、そうでないとなれば、御存じの方、是非ともご教授を乞いたい。]
地蟲穴ありて箒を止めにけり
[やぶちゃん注:「地虫」は底本「地虫」。迷ったが、正字化した(「蟲」という正字を生理的に嫌う作家は多い)。地虫は昆虫の幼虫の類型の一つで一般的にはしばしば見かけることの多いコガネムシ・カブトムシ・クワガタムシの幼虫などの丸まった不活発な甲虫幼虫総体を指す。]
日當れる障子のうちや二日灸
[やぶちゃん注:「二日灸」陰暦二月二日にすえる灸で、この日に灸をすえると年中息災であるという(八月二日にすえる灸にもいう)。ふつかやいと。春の季語。昭和五(一九三〇)年の陰暦二月二日は三月七日火曜日に相当する(但し、これがその新暦二月二日木曜日に行われていないという確証はない)。]
一炷のまづかぐわしや二日灸
[やぶちゃん注:「一炷]は普通は「いつしゆ(いっしゅ)」と音読みして、香などをひとたきくゆらせること。また、その香指すのであるが、私は言わずもがな乍ら、ここは「ひとさし」と訓じたい。]
螢の灯るを待ちて畦歩く
[やぶちゃん注:「灯」はしばらく底本の用字のママとした。]
螢のやがて葉裏に廻りたる
[やぶちゃん注:ブログでは「廻」の正字は表示出来ないので「廻」とした。]
春月を仰げる人の懷手
春月や道のほとりの葱坊主
螢火のついと離れし葉末哉
麥笛を鳴らし來る兒に道問はん
麥笛を馬柵に凭れて吹きにけり
[やぶちゃん注:「馬柵」は「うませ」と訓じ、馬を囲っておく柵の意の万葉以来の古語である。
ここまでの十三句は五月の創作及び発表句。]
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