明恵上人夢記 35
35
此の間に隨分に祈請興隆之事。
一、同十日の夜、夢に、法性寺(ほふしやうじ)の御子かと思ふ人より、御手づから舍利十六粒を賜はると云々。
[やぶちゃん注:「此の間」前に注したように第「33」夢から「34」夢の三つの夢は建永元(一二〇六)年六月八日深夜から九日未明にかけて見た夢と推定されるから、これは六月九日から十日の就寝時までを指すものと思われる。
「同十日」建永元(一二〇六)年六月十日。
「法性寺の御子」底本注では藤原良経かとする。藤原良経は公卿で名歌人としても知られた九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年)のこと。従一位・摂政・太政大臣。後京極殿と号した摂政関白九条兼実次男(兼実は後法性寺殿とも呼ばれ、承元元(一二〇七)年五月逝去後には京の法性寺に葬られている。法性寺は元は法相宗で後に天台宗となった藤原忠平以来の藤原摂関家菩提寺であったが後の良経の長男九条道家の代に境内に臨済宗の東福寺が建立され衰微し、現在は浄土宗である)。治承三(一一七九)年元服、従五位上に叙せられ、元暦二(一一八五)年従三位、文治四(一一八八)年には同母兄九条良通が早世したために兼実嫡男となった。その後も権中納言・正二位・権大納言と昇進、建久六(一一九五)年に内大臣となったが、翌年十一月の建久七年の政変で反兼実派の丹後局と源通親らの反撃を受けて父とともに朝廷から追放されて蟄居、三年後の正治元(一一九九)年に左大臣として復帰、その後に内覧となった。建仁二(一二〇三)年には土御門天皇の摂政となり、建仁四(一二〇四)年には従一位太政大臣に登っていた。しかし実はこの夢の三ヶ月前の元久三(一二〇六)年三月七日深夜に享年三十八歳で頓死している(以上はウィキの「九条良経」に拠る)。この夢はまさにその直近の最高権力者であった死者らしき人物(「かと思ふ」という恐れ多いことに起因すると思われる留保が大事である)からの「舎利十六粒」もの恩賜であることに私は大きな意味があるものと思う。なお、河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」で、これら第「33」「34」「35」夢が孰れも『明恵が何かを他人から得る夢というモチーフをもって』おり、明恵は先の「31」の死にかけた鰐の夢や「32」の何らかの任務の代理者となる夢によって自身が『何らかの転換期にあることを予感した後に、何か貴重なものを得る、という点について想いをめぐらせたのではなかろうか』と述べておられ、非常に首肯出来る解釈(というか明恵の本夢覚醒後の心性の推察)であると思う。このことはまた後に述べる。]
■やぶちゃん現代語訳
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この間に随分心を込めて祈請興隆の修法に精進したことは書き留めておきたい。
一、同十日の夜に見た夢。
「三月前に逝去された法性寺(ほっしょうじ)の御子かと思われる高貴なる御方より、御手ずから、なんと有り難くも舎利十六粒をも賜わる。……」
といった何とも神妙なるゆゆしき夢であった。
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