萩原朔太郎 短歌一首 昭和一七(一九四二)年二月二十二日(死の三月前) はかなしや病ひ醫えざる枕べに七日咲きたる白百合の花
はかなしや病ひ醫えざる枕べに七日咲きたる白百合の花
[やぶちゃん注:底本筑摩版全集「短歌・俳句・美文」の短歌パートの掉尾にある「『草稿ノート』『書簡』より」より。これは昭和一七(一九四二)年二月二十二日附森房子宛葉書に記された一首。この約三か月後の五月十一日に朔太郎は肺炎のため死去した。享年五十七歳。「醫えざる」はママ(底本全集校訂本文は「癒えざる」と訂する。以下に、書簡全文を示す(「中野區江古田町、四ノ一五九六 森房子樣」宛。ゴム印にて「世田谷區代田一ノ六三五 萩原朔太郎」)
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御見舞重ねてありがたうございます。
病気もまだ全快に至りませんが、気候あたゝかにもならば温々起床できせうです、いつも御芳情うれしく。
はかなしや病ひ醫えざる枕べに七日咲きたる白百合の花
二月二十二日、
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森房子とは女流歌人で朔太郎の全集書簡には五通が認められる。]