『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 矢の根井戸
●矢の根井戸
小坪にあり、里諺云、鎭西爲朝遠矢をためさんと、伊豆の大島より射し矢、海上十餘里の遠きを走りて此井に落つ、今に井底に矢の根ありといふ。
[やぶちゃん注:この井戸は鎌倉十井の一つに数えられている「六角井」である。「新編鎌倉志卷之七」の「飯島」の条の文中に、
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此村の南に、六角の井と云ふ名水あり。鎌倉十井の一つなり。石にてたゝみたり。里俗の云、昔し鎭西の八郎源の爲朝、伊豆の大島より、我が弓勢昔にかはらずやとて、天照山をさして遠矢を射る。其の矢十八里を越へて此井の中に落たり。里民矢を取り上げれば、鏃(やじり)は井の中に留まる。今も井を掃除すれば、其の鏃見ミゆると云ふ。或る時取り上げて、明神に納めければ、井の水かはけり。又井の中へ入れば、本の如く水涌き出ると也。鏃の長さ四五寸と云ふ。鶴が岡一の鳥居より、此地まで、四十町餘あり。
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と記す。以下、私がそこで附した注をそのまま引いておく。
「六角の井」この井戸の形は六角形ではなく八角形であるが、六角が鎌倉持分で二角が小坪分であることから、かく言うと伝えられる。以前は井戸替えの際には為朝所縁の鏃の入った竹筒を使用したが、本文とはやや異なるが、ある時これを怠ったがために悪疫が流行ったことから、それ以来今も鏃は竹筒に封じ込めて井戸の中に奉納してあると現在に伝承されている。その他にもありがちな弘法が掘った井であるとか、井戸側面にある龍頭まで水が減ると必ず雨が降るとか、妙本寺の蛇形の井とは地中で繋がっているとか、伝承の多い十井の一つではある。今は何だかものものしい櫓にお覆われているようだが、私が二十の折りに見た時には、未だ世間の市井の井戸として機能していたのに、ちょっと淋しい。いやいや、それよりなにより、大島から「十八里」(約六八・四キロメートル)とは直線距離を美事に計測していることに「舌を卷く」ぞ。本土に最も近い大島最南端の乳が崎から単純直線距離で測っても五八・三キロメートル、三原山の頂上からだと六五キロメートル、とんでもない正確度である。珍説(「ちんせつ」いやさ「ちんぜい」)どころか真説、「鎭西ちんぜい」為朝も涙流して、アッ! 喜ぶ西(ぜい)!]
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