中島敦 南洋日記 十二月二十四日
十二月二十四日(水)
今日も灸。夜、高松氏と、文化協會の映畫。月漸く明るし。
[やぶちゃん注:「文化協會」実はこの前日である昭和一六(一九四一)年十二月二十三日の天皇誕生日に社団法人「日本少國民文化協會」なるものが本土で統合組織されている。櫻本富雄氏の「空席通信」の「歌と戦争 21」によれば、これは情報局主導による戦時下の児童文化を支配した『戦時下の児童文化人を総動員した御用団体で』、『小野俊一理事長の下に舞踊、遊具、紙芝居、童話、演劇、音楽、文学、絵画、映画、ラジオ、出版の11部会があった』とある。日記の記載からは本映画作品が児童向けであった可能性は低いし(但し、高松なる人物が敦と同業の関係者であれば可能性はゼロではない)、日付けからして同「日本少國民文化協會」の映画とは思われないものの(ただのニュース映像かも知れず、所謂、つまらぬ国策戦意高揚映画であったのかも知れない。そもそも敦は何の感想も書いていないとこからはその類いのものであった可能性が大であろう)、情報としては掲げておきたい。【二〇一四年二月二十日追記】グーグル・ブックスで管見出来た岡谷公二氏の「南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦」(冨山房インターナショナル二〇〇七年刊)に、土方が初めて敦に逢った際の日記が引かれており、その解説で岡谷氏が「南洋協会」の正式名称は「南洋群島文化協会」で、『南洋庁長官を会長とし、月刊誌『南洋群島』を発行、南洋群島関係の書籍の出版、展覧会や講演会の開催など、文化活動をする南洋庁の外郭団体であった』とある。ここには映画活動は示されていないが、恐らくこれであろう。]
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