耳嚢 巻之八 墓手桶の歌贈答の事
墓手桶の歌贈答の事
鈴木高朗翁が菩提所は端芝(はしば)安昌寺禪林にて、或時佛詣なしけるが、墓手桶はいづれより納め候ともなく寺より拵へ候ともしれず、きれいにもあらざる桶を井の元に並べありしを、高朗いさぎよきを好(このむ)の癖あれば、あたら敷(しく)別に手桶を結(ゆは)せ我名を書付預置(かきつけあづけおき)けるに、彼(かの)寺の旦那に吉原町の遊女多くありしが、いづれの遊女屋にや、新敷(あたらしき)手桶三つこしらへ彼井戸の元へ並べ置しが、新吉原町と認(したため)、其脇に歌書付ぬ。
法の水同じ流を汲からに我と人との隔あらじな
かく書しを高朗見て、我は人につかわせじと預けおきしを恥(はぢ)て、かの手桶にまた一首書付ぬ。
隔なく同じ流れをくまましの心ぞ深き水莖のあと
かくよみて置しと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:鐘銘から墓手桶の仏事譚で連関。しみじみとしたいい話ではないか。
・「鈴木高朗」不詳。「たかあきら」と読むか。
・「端芝安昌寺」「耳嚢 巻之二 人の心取にて其行衞も押はからるゝ事」に既出。台東区今戸に現存。元、曹洞宗総泉寺末寺。亀雲山と号す。起立不詳。底本の鈴木氏注で三村翁の注を引用された中に、『本著者根岸肥前守生家安生氏亦安昌寺の旦家なり』という興味深い一条があり(現代語訳に挿入した)、また、『「端芝」は橋場の当字』ともある。直近に隅田川の古い渡しである橋場(はしば)の渡しがあった。
・「法の水同じ流を汲からに我と人との隔あらじな」は「のりのみづおなじながれをくむからにわれとひととのへだてあらじな」と読む。「法の水」とは仏の教えが衆生の煩悩を洗い清めることを、水に喩えていう語で、等しきその井戸の水で等しき衆生の死者の菩提を弔う、則ち、等しき仏法のもとにあればこそ貴賤の隔てなきを詠じたものである。「流れ」と「汲む」が「水」の縁語となっている。
・「隔なく同じ流れをくまましの心ぞ深き水莖のあと」「くままし」の「まし」は推量の助動詞で特に現実にない事態を想像して仮にそのような事態が実現すればよいとあつらえ望む意を表す。「出来れば~するとよい」「出来るなら~であってほしい」の謂いで「出来ることなら汲みたい」。「水莖」は「みづくき(みずくき)」で筆。「流れ」「汲む」「深き」は最後の「水」の縁語であるから、前の一首の「法の水」及びその縁語をも一首全体に美しく響かせてある。
■やぶちゃん現代語訳
墓手桶(はかておけ)の歌贈答の事
鈴木高朗(たかあきら)翁の菩提所は橋場(はしば)の禅林安昌寺にて、ここはまた、私の生家安生(あんじょう)家の菩提寺でも御座る。
ある時、高朗翁、墓参りなさられたところが、同寺墓所の墓参りの手桶は、これ、孰れからの寄進奉納致いたものと申すようなものにても御座なく、また、寺方の方で拵えたるものとも思われぬ、正直申さば綺麗なるものにてもあらざる桶にて御座った。これら小汚なき桶を井の元に無造作に並べてあったれば、高朗翁、ことに清潔を好まるる潔癖の性(しょう)なればこそ、その日の内に新しく別に手桶を結わせて、御自身の姓名を書き付けたるものを寺に預け置き、井戸近くに別にさし置かれて御座ったと申す。
さて、かの寺の檀家方には吉原町の遊女屋が多く御座ったが、孰れの遊女屋の主人にて御座った者か、高朗翁がまたの墓参りの折りに見てみれば、新しき手桶を三つ拵え、かの井戸端へ並べ置いて御座ったが、それらの桶には「新吉原町」と認(したた)めた上、その脇に以下の歌が書き付けて御座ったと申す。
法の水同じ流を汲からに我と人との隔あらじな
かく書き記ししを高朗翁見て、御自身は自前の桶を造っては他の者には使わすまいと別に預けおかれたを恥じられ、かの新造の御自身の手桶を出ださせた上、また一首をその桶に書き付けられて曰く、
隔なく同じ流れをくまましの心ぞ深き水茎のあと
かくお詠みになられた上、それらの手桶と一所にさし置くことと致いたと、お語りになられて御座った。
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