日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 21 モース遺愛の少年宮岡恒次郎
ジョンの日本人の友人達が、何人か遊びに来た。可愛がっている小宮岡もいた。私は彼を膝にのせ、彼の喋舌る風変りな英語に耳を傾けていたが、しばらくすると、彼は片手を上げて、静に私の鬚髯に触れた。私は彼の手に、口でパクンとやると同時に、犬がうなるような音をさせた。驚いたことに、彼は飛び上りもしなければ、その他何等の動作もしなかった。米国の子供ならば、犬が本当にパクリと指に嚙みついて来たかの如く、直覚的に手を引込ませるであろう。これを数回くりかえした上、彼に彼の両親がこんなことをしたことがあるかと聞いたら、彼は無いと答え、そしてこれが何を意味するのか知らないらしく見えた。で、これはつまり犬が嚙みつく動作を現すのだと説明すると、彼は日本の犬は嚙みついたりしないといった。ここでつけ加えるが、犬に注意を払う――例えば、頭を撫でたりして可愛がる――のは見たことがなく、また日本で見受ける犬の大多数は、狼の種類で、吠える代りにうなる。ジョン(私の子)は大いに日本人に可愛がられているが、彼の色の薄くて捲いた頭髪は、日本人にとっては驚く可き、そして奇妙な光景なのである。
[やぶちゃん注:「小宮岡」原文は“little Miyaoka”。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」からこの人物は当時の東大予備門の生徒であった宮岡恒次郎(慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)であると断定してよい。この当時、未だ満十二歳であったが、早くも翌年にはモースの冑山周辺横穴(現在の埼玉県比企郡吉見町にある吉見百穴)の調査に随行し、驚くべきことに当地での講演で通訳を勤めている。これは川越原人氏のサイト「川越雑記帳」内の「モースと山田衛居」の「図説埼玉県の歴史」(小野文雄責任編集河出書房新社一九九二年刊)からの「外国人の見た明治初年の埼玉」の「モースの失言―熊谷・川越」という引用を参照されたい。そこには同行者にこの恒次郎の兄竹中成憲がいたとあり、この竹中成憲(当時は東京外国語学校学生であったと思われ、後に東大医学部に進み軍医となった)はこの弟恒次郎とともにモースや彼が日本への招聘に尽力したフェノロサの通訳や旅にも同行した人物である。そこからこの“little Miyaoka”という呼称も自然、氷解するように思われる。これらの事実は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」からも類推出来る。なお、恒次郎は磯野先生の同書によれば後、フェノロサの美術収集旅行の通訳として同行。彼にとって欠かせない存在となったとあり、明治二〇(一八八七)年東京帝国大学法学部を卒業して外交官となり、後に弁護士となったと記す。また、床間彼方氏のブログ「青二才赤面録」の「宮岡恒次郎・その1」によれば、『明治16年、18才の恒次郎は李氏朝鮮の遣米使節団に顧問として加わっていたロウエルの要請により、同使節団の非公式随員となっている』ともあり、恒次郎のお孫さんによれば、実は本人曰く、『7才で蒸気船の石炭貯蔵室に隠れてアメリカに密航したと語っていたと』のこと。なかなか面白い。]