『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 正覚寺
●正覺寺
小坪アヤウヅ切通しの邊(ほと)りにある、住吉山悟眞院と號す、淨土宗鎌倉光明寺末、記主禪師駐錫の舊跡ありて、其頃は悟眞寺と云へり。今(いま)師を以て開山とし、其肖像を客殿に置く、一旦戰爭に逢て廢寺となり、後天文十年、光明寺十八世眞蓮社快譽上人再興す本尊阿彌陀は尾張宗春卿の側室民部女の念持佛にて。享保中寄納あり、又尾州家の三位牌を置かる。
[やぶちゃん注:以下の二項は底本では全体が一字下げポイント落ち。]
●珠數掛松
相傳へて記珠禪師〔或は賴朝とも云〕數珠(づじゆ)を掛し故なりと云ふ、今も里民住吉社に參詣する者、此松に數珠を掛く。
●然阿洞
廣方二間許、寺傳に記主禪師洞中に籠居し、傳通記を書寫せしと云ふ、然阿は師の字(じ)なり。
[やぶちゃん注:「アヤウヅ切通し」不詳。現在の正覚寺の位置から考えると、材木座海岸東端の和歌江の島(北條泰時造立になる日本最古の築港跡)のある岩礁部から、正覚寺のある海食崖の内側に人工的に掘られた小道を指しているようには思われるが、このような呼称は現在に伝わっていないものと思われる(少なくとも私は聴いたことがない)。
「記主禪師」浄土宗第三祖良忠(正治元(一一九九)年~弘安一〇(一二八七)年)。正覚寺公式サイトの「正覚寺のあゆみとこれから」によれば、『「新編相模風土記」には、「記主禅師駐鍚の旧跡なり、師の閑居せし岩窮今に境内にあり、其頃は悟真寺と云へり」と書かれて』あり、『寺伝によれば、良忠上人が仁治元(1240)年に念仏布教のため鎌倉に入り、執権北条経時の帰依を受け住吉谷(現在の正覚寺所在地)を拠点に念仏信仰を広め』たとあり、後、『執権経時は良忠上人のために佐助谷に蓮華寺を建立し、のちに材木座に移し、光明寺と改称したと伝え』、『「光明寺開山御伝」には「葬送住吉瓶子山麓茶毘所」とあり、この地は良忠上人を茶毘に付した所ともいわれてい』るとある。『また浄土宗十夜始祖であり、大本山光明寺第九祖である観誉祐崇上人の五百年遠忌記念で光明寺から発行された『観誉祐崇上人について』では、祐崇上人は神奈川県鎌倉井之島(正覚寺のある地名である飯島)住吉谷に入り、岩窟に移住して、念仏を業としたとある。これから推測すると、正覚寺の前身である悟真寺に良忠上人がまず居住し、その後、祐崇上人も住んでいた事になる』と推測されてある。同リンク先で「其肖像を客殿に置く」とある良忠像を見ることが出来る。
「一旦戰爭に逢て廢寺となり、後天文十年、光明寺十八世眞蓮社快譽上人再興す」やはり「正覚寺のあゆみとこれから」に、『寺の背後の丘陵一帯は、三浦道寸(義同)の支城の住吉城であり、永正9(1512)年に北条早雲に攻められて落城し、寺も兵火で焼失』したが『その後、光明寺十八世眞蓮社快譽上人がこの地は「是れ三祖上人の遺跡也」と述べ、天文10(1541)年3年に悟真寺を再建し、開山を良忠上人として、寺号を正覚寺と改め』たとある。
「本尊阿彌陀は尾張宗春卿の側室民部女の念持佛にて。享保中寄納あり」これもやはり「正覚寺のあゆみとこれから」に、『本尊阿弥陀如来は十世報譽上人が尾張中納言宗春の側室民部女の病気平癒の祈願を行い、そのお礼として民部女が自らの稔持仏を寄進されたもので』、『享保20(1735)年に入仏供養を勤修し』たとあり、尊像画像も拝める。
「珠數掛松」標題の「珠數」はママ。この松は現存しない。文中の「住吉社」は次項参照。
「然阿洞」「正覚寺のあゆみとこれから」によれば、『本堂裏には、良忠上人が籠居し、「伝通記」を書したといわれる洞窟(矢倉)「然阿洞」があり、「伝通記」巻三に「悟真寺」の名が見え』るとあって現存する。
「二間許」長さならば三メートル六四センチメートルに当たるが、これは広さを指しているから、江戸間で換算するなら三メートル五二×一メートル七六センチメートル程になるか。ネット上の複数画像から推測すると(私は二十代の頃に訪れたきりで記憶がない)入口が前者の幅で奥行が後者かと思われる。
「然阿」は「ねんな」と読み、良忠の諱(本文の「字」はその謂い)。]