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2014/02/17

『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 住吉古城蹟 

    ●住吉古城蹟

正覺寺院内、住吉明神の社地是なり、背(うしろ)は山に據り前は海に臨み、要害の山城なり。造築の始詳ならす、永正七年長尾六郞爲景蜂起の時、北條新九郞入道早雲、假りに當所の古城を取立て楯籠(たてこも)る。

[やぶちゃん注:以下二段は底本では全体が一字下げで極度に小さくポイント落ち(則ち、当該本文ポイントでは全体が二字下げの格好になる)。前後を一行空けた。]

 

上杉憲房上乘院に呈する書曰、伊勢新九郞入道宗瑞 長尾六郞と相談、相州へ令出張、高麗寺幷住吉之古要害取立令蜂起候、

小田原記に曰、上杉の家老長尾六郞爲景逆心を起し、永正七年六月顯定を討取申ける小田原の城主伊勢新九郞早雲も、彼六郞と一味して、已に相州住吉の城を取立出張す、去る程に上田藏人入道、武州神奈川に打て出、熊野權現山を城郭に取立、小田原の宗瑞と引合、謀叛の色を立にけり。早雲小田原には子息新九郞をとゝめ、吾身は松田大道寺以下の軍勢を引率し、高麗寺山幷住吉の故城を取立てこもる。 

されと早雲も須臾(しばし)にして當城をすてしかは、後三浦介義同(よしあつ)が抱城となりしにや、同九年には義同岡崎の居城を北條早雲に攻落(せめおと)され、姑(しばら)く當城に遁しか、又此城をも沒落して三浦城に奔し事小田原記に見ゆ、

[やぶちゃん注:以下底本では全体が一字下げで極度に小さくポイント落ち(則ち、当該本文ポイントでは全体が二字下げの格好になる)。前後を一行空けた。] 

 

三浦介義同永正九年八月十三日、小田原早雲に岡崎城を攻落され、搦手より落て同國住吉の城に落行きける其後又住吉をも落されて、三浦の城へ落行、其後廢城となりし年代詳(つまびらか)ならす、

 

[やぶちゃん注:以下底本では全体が一字下げで極度に小さくポイント落ち(則ち、当該本文ポイントでは全体が二字下げの格好になる)。前を一行空けた。] 

 

案するに北條氏當國併呑の後廢却せしにや、小田原分國より以來當城の事諸記録に見ず。

 

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之七」の「正覺寺」の項に附す形で、

   *

三浦の導寸(だうすん)が城跡 寺の西南の山にあり、切拔(きりぬき)の洞(ほら)二十餘間ありて、寺へ拔け通るなり。前に道あり。此を三浦導寸が城の跡と云ふ。【鎌倉九代記】【北條五代記】等に、三浦陸奧守義同(よしあつ)入道導寸永正九年八月に、北條新九郞長氏に、相州住吉の城をも攻め落さるゝとあるは此處なり。里人、光明寺の南方の山を導寸が城跡なりと指し示す。則ち此處へ相ひ續きて同じ所也。俗にくらがりやぐらと云ふ。總じて鎌倉の俚語に、巖窟(いはや)をやぐらと云ふなり。     

   *

とある(ここで以下、「新編鎌倉志卷之七」で私が附した注をそのまま引いておく)。

・「三浦の導寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年?~永正十三年(一五一六)年)は東相模の初期の戦国小大名。「導寸」は道寸とも書き、彼の出家後の法名。通常はこちらで呼ばれることの方が多い。平安から綿々と続いてきた相模三浦氏血脈の最後の当主にして、北条早雲に拮抗する最大勢力であったが、北条に攻められ、三浦の新井城で三年の籠城の末、討死した。

・「北條新九郞長氏」戦国大名の嚆矢たる北條早雲(永享四(一四三二)年又は康正二(一四五六)年~永正十六(一五一九)年)のこと。「長氏」は彼の諱とされ、他の諱に氏茂も伝えられたが、現在は盛時が定説である。早雲というのは早雲庵宗瑞(そうずい)という彼の号に基づく。

・「俗にくらがりやぐらと云ふ。」前に光明寺裏山の記載があるため一読、分かりにくいが、この「くらがりやぐら」とは、この「切拔の洞」=手掘りの隧道を指している(後に示す「鎌倉攬勝考卷之九」所載の「古城址」の「三浦陸奧守義同人道道寸城跡」の冒頭がそれをはっきりと述べている)。この隧道は現在未確認である。ところがこれに関わってこの隧道を探索している方がいる。「山さ行がねが・ヨッキれん」の平沼義之氏で、その「隧道レポート 小坪のゲジ穴」後編にそれはある。私は長くこの「くらがりやぐら」をこの平沼氏踏査の隧道だと固く信じて来た。実は三十数年前に私はこの隧道を通り抜けているのだ(現在はリンク先でご覧の通り、出口が封鎖され通行出来なくなっている)が、その際、リンク先の画像でも分かる通り、隧道自体が上り坂となっている以上に、途中で大きく隧道が左へ湾曲しているため、中は真暗なのである(因みに私は照明器具を持たずに手探りでこの天井にゲジゲジの群生する中を抜けたわけであった)。従って「くらがりやぐら」という呼称が実感として落ちて、そう思い込んでいた訳である。この隧道の海側の口は正に住吉明神のすぐ右手にあって「鎌倉攬勝考」の「住吉の社地より山中を切拔たる洞口」という表現にもぴったり一致する点も手伝った。ところが、平沼氏がこの探査の折りに出逢った六十歳ほどの地元男性の証言では、この隧道は戦後になってから地元の人たちが自宅と農地とを往復するための近道として掘ったものとあり、更にその最後で平沼氏はデジタル地図ソフトの地図を示され、この隧道より有意に南側の位置に、この隧道よりも凡そ倍弱の長さ(百メートル弱か)の隧道が示されているのである。これが幻の「くらがりやぐら」であることは間違いない。ネット上を検索すると「三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡」という書物に「掘拔の穴 東の方は表門、北の方は裏門、住吉城双方へ掘拔也。裏門を出れば姥ヶ谷小坪の後也。」とあって、前者が幻の「くらがりやぐら」で、後者は現在の住吉隧道のプロトタイプか、消滅した別隧道を言うか。――しかし、今や、「くらがりやぐら」どころか、この無名の「ゲジ穴」さえも消滅させられようとしている。かつて歩いた場所がなくなることを痛烈に意識するということは――それは『私の病い』に基づくものなのだろうか、それともこの『現実世界そのものの病い』の現象なのだろうか――

   *

 また、「鎌倉攬勝考卷之九」の「古城址」の項には特別にこの住吉城跡だけが図入りで載っている。

   *

三浦陸奧守義同人道道寸城跡 小坪正覺寺の東南、住吉の社あるゆへ、住吉の城とも唱へし由。城山は、光明寺の山より地つゞけり。此所を三浦道寸が城跡といふ。住吉の社地より山中を切拔たる洞口を、大手口なりといふ。入口の洞穴を、例の土人が方言に、くらがりやぐらと稱す。平坦の地四ケ所有。亭宅を構へしは、【北條五代記】に、永正六年、上杉治部少輔建芳が被官、上田藏人入道、北條早雲が下知に從ひ、武州神奈川へ出張し、熊野權現山に城を構へ、謀叛の色を立けるゆへ、早雲、小田原に新九郞氏綱を留置て、松田・大道寺以下の軍勢を率ひ、高麗寺山並住吉の城を攻立てるとあるは、此地の事なり。扨早雲は、住吉の城より神奈川へ押寄合戰せし由。其後此所に三浦道寸を置て守らせけるが、是も又敵の色をなしけるゆへ、同十三年七月、早雲が爲に此城攻落され、道寸父子討る。此入道が太刀並系圖文書等、今圓覺寺中壽德菴に藏す。其由來はしれず。

城山の圖爰に出す。扨此地は三浦郡なれども、鎌倉に接附しけるゆへ玆に出せり。

   *

 今回、ネットを調べたところ、さらに武衛氏の「鎌倉遺構探索」の中に住吉城跡~概要編に始まり、ら」に終わる詳細な現地探索記録を発見した。見応えがあり、必見である。]

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