フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »

2014/03/31

篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年二月 除夜風景

  除夜風景

氷雨する空へネオンの咲きのぼる

 

   ダンスホール

除夜たぬし警笛とほく更くるとき

 

[やぶちゃん注:「たぬし」は「楽(たぬ)し」で「楽し」と同義の近世古語。「日本国語大辞典」によれば、万葉仮名で現在、「の」の甲類とされている「怒」「努」などを、近世の万葉の訓詁学で「ぬ」と読んだことから出来た歌語である。]

 

   理髮舖

廻轉椅子くるりくるりと除夜ふくる

 

年あけぬネオンサインのなきがらに

 

[やぶちゃん注:以上、四句は二月発行の『天の川』及び三月発行の『俳句研究』に冒頭標記の「除夜風景」の連作として発表されたもの。連作であることから、「除夜風景」は二字下げで一行空け、後の二つの個別前書は三字下げとした。]

貘   山之口貘

 貘

 

悪夢はバクに食わせろと

むかしも云われているが

夢を食って生きている動物として

バクの名は世界に有名なのだ

ぼくは動物博覧会で

はじめてバクを見たのだが

ノの字みたいなちっちゃなしっぽがあって

鼻はまるで象の鼻を短くしたみたいだ

ほんのちょっぴりタテガミがあるので

馬にも少しは似ているけれど

豚と河馬とのあいのこみたいな図体だ

まるっこい眼をして口をもぐもぐするので

さては夢でも食っていたのだろうかと

餌箱をのぞけばなんとそれが

夢ではなくてほんものの

果物やにんじんなんか食っているのだ

ところがその夜ぼくは夢を見た

飢えた大きなバクがのっそりあらわれて

この世に悪夢があったとばかりに

原子爆弾をぺろっと食ってしまい

水素爆弾をぺろっと食ったかとおもうと

ぱっと地球が明るくなったのだ

 

[やぶちゃん注:【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部を改稿した。】この詩はなんと、昭和三〇(一九五五)年二月特別号『小学五年生』が初出で、二年後の昭和三二(一九五七)年八月二十日附『琉球新報』に再掲されたものであった。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題によれば、後に出る「郵便やさん」とともに、『児童向け雑誌から『鮪に鰯』に採用された二作品の内の一篇』で『小学五年生』初出時のタイトルは「バク」であったとある。

「水素爆弾」ウィキの「水素爆弾」及びそのリンク先の記載によれば、人類最初の水素爆弾の実験はアメリカ合衆国によって一九五二(昭和二七)年十一月一日にエニウェトク環礁で行われた(“Operation Ivy”アイビー作戦)。が実施され、続く翌一九五三年にはソビエト連邦が小型軽量化した水爆の実験(RDS-6)に成功したと報じた(但し、この爆発実験自体は実際には水爆ではなかったと言われている)。翌一九五四年には再びアメリカが一連の核実験“Operation Castle” (「羊」作戦)が実施された、その中の一つ“Castle Bravo”、ビキニ環礁で行われたブラボー・ショットにより、実際の大幅な小型化に成功した………

これによって第五福竜丸が

そうして

鮪が被爆し

そうして

ゴジラが生まれてしまったのであった

これは決して冗談や酔狂で言っているのではないのだ

僕は大真面目で言っているのだ

おぞましい原爆や水爆の連鎖に

人類が手を血に染めずにすんだんだったら

ゴジラは生まれずにすんだんだ

バクさんも

ただ

長閑な羊を謳う詩だけを

よめたはずなのだ………]

雲の下   山之口貘

 雲の下

 

ストロンチウムだ

ちょっと待ったと

ぼくは顔などしかめて言うのだが

ストロンチウムがなんですかと

女房が睨み返して言うわけなのだ

時にはまたセシウムが光っているみたいで

ちょっと待ったと

顔をしかめないでいられないのだが

セシウムだってなんだって

食わずにいられるものですかと

女房が腹を立ててみせるのだ

かくて食欲は待ったなしなのか

女房に叱られては

目をつむり

カタカナまじりの現代を食っているのだ

ところがある日ふかしたての

さつまの湯気に顔を埋めて食べていると

ちょっとあなたと女房が言うのだ

ぼくはまるで待ったをくらったみたいに

そこに現代を意識したのだが

無理してそんなに

食べなさんなと言うのだ



[やぶちゃん注:【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三二(一九五七)年十月一日附『信濃毎日新聞』。]

十二月   山之口貘

 十二月

 

銀杏の落葉に季節の音を踏んで

訪ねて見えたはじめての

若いジャーナリストがふしぎそうに

ぼくの顔のぐるりを見廻して云うのだ

 

こんな大きなりっぱな家に

お住いのこととは知らなかったと云うのだ

それで御用件はとうかがえば

かれは頭をかいてまたしても

あたりを見廻して云うのだ

 

それが実は申しわけありません

十二月の随筆をおねがいしたいのだが

書いていただきたいのはつまり先生の

貧乏物語なんですと云うのだ



[やぶちゃん注:【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、注を一部改稿した。】昭和三二(一九五七)年十一月三十日附『新潟日報』夕刊で、翌日十二月一日附の同じ『新潟日報』朝刊にも再掲載された。

「貧乏物語」この作品自体は昭和二六(一九五一)年十二月号の『中央公論』に載った、現在、全集第二巻の小説篇に所収する『第四「貧乏物語」』であるらしい(松下博文氏の「稿本・山之口貘書誌(詩/短歌)」注記データに拠る)。とすれば、この詩のシチュエーション自体は発表時から更に六年も前に遡るものであることが分かる。]

石に雀   山之口貘

 石に雀

 

ペンを投げ出したのが

暁方なのに

寝たかとおもうと

挺子を仕掛ける奴がいて

いつまで寝ているつもりなんですか

起きてはどうです

起きないんですかとくるのだ

何時なんだい

と寝返りをうつと

何時もなにもあるもんですか

お昼というのにいつまでも

寝っころがっていてなんですかとくるのだ

降っているのかい

とまた寝返りをうつと

照っているのに

ねぼけなさんなとくるのだ

降っている音がしているんじゃないか

雨じゃないのかい

と重い頭をもたげてみると

女房は箒の手を休め

トタン屋根の音に耳を傾けたのだが

あし音なんです

雀の と来たのだ



[やぶちゃん注:【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三三(一九五八)年四月一日号『産経時事』。初出時のタイトルは「石と雀」。]

たぬき   山之口貘

 たぬき

 

てんぷらの揚滓それが

たぬきそばのたぬきに化け

たぬきうどんの

たぬきに化けたとしても

たぬきは馬鹿に出来ないのだ

たぬきそばのたぬきのおかげで

てんぷらそばの味にかよい

たぬきうどんはたぬきのおかげで

てんぷらうどんの味にかよい

たぬきのその値がまたたぬきのおかげで

てんぷらよりも安あがりなのだ

ところがとぼけたそば屋じゃないか

たぬきはお生憎さま

やってないんですなのに

てんぷらでしたらございますなのだ

それでぼくはいつも

すぐそこの青い暖簾を素通りして

もう一つ先の

白い暖簾をくぐるのだ。



[やぶちゃん注:【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した結果、以下の事実を確認、本文を改めることに決し、さらに本注を追加した。】初出は昭和三三(一九五八)年七月号『小説新潮』。最後の句点は思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証によって追加した。底本の旧全集には句点はない。

足袋つぐやノラともならず教師妻 杉田久女 附注版(再掲)



足袋つぐやノラともならず敎師妻
 

 

[やぶちゃん注:久女一番の代表句と言ってよい。それはスキャンダラスなものであり、そうしてあらゆる意味で久女伝説の濫觴ともなった句ではある。底本の久女の長女石(いし)昌子さんの編になる年譜の大正一一(一九二二)年の項によれば、『二月、「冬服や辞令を祀る良教師」(ホトトギス2)の句をめぐり家庭内の物議をかもす。このときの発表句は次の五句』として句を掲げる(以下、恣意的に正字化した)。 

 

足袋つぐやノラともならず敎師妻 

 

遂に來ぬ晩餐菊にはじめけり 

 

戲曲讀む冬夜の食器漬けしまゝ 

 

枯れ柳に來し鳥吹かれ飛びにけり 

 

冬服や辭令を祀る良敎師 

 

この連作の特に奇数句の流れは確かに鮮烈である。

 さて、大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)によれば、昭和二七(一九五二)年角川書店刊の「杉田久女句集」には、 

 

足袋つぐや醜ともならず敎師妻 

 

として収めている、とある。ところが、私の所持する立風書房版全集には、この句形が何処にも載っていないのである。これは如何にも不思議なことである。しかも、この初出形を知る人は少ないと思う(不肖、私も今回、この電子化作業の中で実は初めて知った)。以下、この一句について徹底的に追究した倉田紘文氏の素晴らしい論文「杉田久女の俳句――ノラの背景――」(PDFファイル)に拠りながら簡単に述べたい。

 まず、この句は大正一一(一九二二)年の『ホトトギス』二月号に発表された句であるが、それが「杉田久女句集」(昭和二七(一九五二)年角川書店刊)では中七が、かく「醜ともならず」と推敲された形で入集されている、とある。ところが、再版本(昭和四四(一九六九)年角川書店刊)や私が底本としている立風書房全集では、初出の「ノラともならず」に再び改められている、とある。倉田氏は『久女は昭和二十一年に五十六歳で没しており、昭和二十七年の句集で「醜ともならず」となっていることについては、同句集が久女生前に自ら編集されていたということで理解できるが、再版及び全集で「ノラ」に改められたいきさつは分らない』と記しておられる。これについて倉田氏は注で小室善弘「鑑賞現代俳句」の言を引き、「ノラともならず」の斬新な措辞には及ばない、というような意見によって再び改められたのであろう、と記してはおられるが、後の全集に「醜ともならず」の句形が全く示されていないというのは、頗る奇怪と言わざるを得ない。また、作者の没後に『「ノラともならず」の斬新な措辞には及ばない、というような意見によって再び改められ』るなどということが行われているとしたら、これは文芸創作上、とんでもない行為ということになり、そう指示したのが何者であるのかは明らかにされなければならない。

 考証部分はリンク先の原典で確認して戴くとして(大変興味深い)、まず倉田氏は本句が大正一〇(一九二一)年作と同定され、さらに「ノラ」は実はイプセンの「人形の家」の主人公であると同時に、当時、スキャンダラスな事件として新聞で報道され巷を騒がせた夫との離縁状の公開、そして情人宮崎龍介(辛亥革命の志士宮崎滔天の長男)へと走った歌人柳原白蓮その人であった、という極めてリアリズムに富んだ魅力的な推理を展開しておられる。最後には更に、この句の製作時期を大正一〇(一九二一)年の冬十一月初旬から十二月初旬(もっと厳密にいうなら立冬の日から投句稿が十二月十五日までに『ホトトギス』に必着するまでの閉区間)でなくてはならないと、快刀乱麻切れ味鋭く同定なさってもおられるのである(個人的にこういう拘った手法はすこぶる私好みである)。

 ここで再び大野林火氏の評釈に戻ろう。氏はまず、この句集の句の『「醜」の意曖昧であ』るとして、「ノラ」の方を提示句としては採っている。これは無論、先の小室氏の謂いとともに肯んずるものではある。しかし彼は続いて、以下のように語り始めるのである(下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

 この句については久女の略歴に触れねばならない。煩をいとわず記せば、明治二十三年鹿児島に生れた赤堀久女は、幼時、大蔵省官吏であった父の任地、琉球、台湾等に転住、のち、束京に移り、名門お茶の水高等女学校を卒業した。同級にのち理学士三宅恒方に嫁いだ加藤やす子がいた。やす子の文才は同輩に重きをなし、久女はひそかにやす子にライバル意識を燃やした。卒業翌年(明治四十二年)、上野美術学校群画科出身の杉田宇内と結婚、収入は乏しくも、苦しくも、芸術に生きる画家の妻たり得たよろこびを久女は持った。結婚と同時に杉田宇内は小倉の中学の図画の教師となった。久女は芸術家の妻でありたかったが、良人の宇内はただ謹直な図画の教師であり、一枚の絵も描こうとしなかった。久女はそれを責めたが、良人は謹直な教師であることに満足した。久女は金子元臣の注釈つきの源氏物語をひろげ、ノートに注釈と首引きで意訳の文章を書き綴ってみずからを慰める。しかし、良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう遺子石昌子は「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」(『久女句集』あとがき[やぶちゃん注:ここは底本では割注でポイント落ち二行。])とその幼時を語るが、その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないかそのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する

 この句は田舎教師の妻として、凡々の日夜を送り、そこから脱しようとしない自分を嘲る句だが、その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろういずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり、それが有名にもしたのだが、親しめない。「足袋つぐや」に一抹のあわれさがただようにしても――。しかし、久女を知るには欠くことの出来ない句といえようか。

   《引用終了》

これをお読み戴いて、あなたはこの句の評釈が正統にして冷静なアカデミックな(私はアカデミズムをせせら笑う人間ではあるが、少なくともこれは俳句評論という公的認知の頂点にある書籍であることは疑いようがない。実際に多くの国語教師がこれを虎の巻とし、恰も自分が鑑賞したかのように(!)俳句の授業を実際にしている事実をかつて高校の国語教師であった私はよく知っている。詩歌俳諧ぐらい、一般の国語教師が避けようとする苦手な教材はないと言ってよく、実際に詩歌教材に関してオリジナルな授業案を創れる国語教師というのは一握りしかいないと思う。感想を書かせてお茶を濁す、やらずに読んでおきなさいというのはまだよい方で、受験勉強には不要という伝家の宝刀を抜いて堂々とスルーするのを正当化する下劣な同僚も悲しいことに実に多かった)「近代俳句の鑑賞と批評」と名打つに足るものであると思われるか? 私は断じて到底肯んじ得ないのである! それはまず、大野氏の引用が、大野氏自身が自分の中に創り上げてしまった歪んだ久女像に合わせて、極めて恣意的に情報のパッチ・ワークを行っているという事実に於いてである。

 氏は最初に、全集年譜にも載らず、倉田氏の緻密な論文にさえも出ない、加藤(三宅)やす子を登場させて、この句の遙かな淵源としている。三宅やす子(明治二三(一八九〇)年~昭和七(一九三二)年)は作家で評論家、本名は安子。京都市生。京都師範学校校長加藤正矩の娘で久女とは同い年である。お茶の水高等女学校卒業後、夏目漱石・小宮豊隆に師事、昆虫学者三宅恒方と結婚するも、大正一〇(一九二一)年に夫が死去すると文筆活動に入って、大正十二年には雑誌『ウーマン・カレント』を創刊、作家宇野千代とも親しかった人物である(以上はウィキの「三宅やす子」に拠る)。この句は先に示した通り、大正十一(一九二二)年二月の発表句であり、それは確かに三宅やす子の文壇デビューと軌を一にしているようには見える。新しい女性の文化進出の旗手として登場してくる嘗つてのライバルやす子を、この時、小倉の中学教師の妻であった久女が強く意識したということは十分あり得る話ではある。しかし何より二人が同級生であったのは東京女子高等師範学校附属お茶の水高等女学校を卒業した明治四〇(一九〇七)年以前の話で(大野氏は久女の卒業年を一年間違えているので注意)、ここまでに実に十五年以上の隔たりがある。この句の情念が、その後、連絡も文通もなかった(と思われる)、十五年も前の特定の同級生に対するライバル感情を濫觴とする、などという仮説は私なら鼻でせせら笑う(後文で「その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろう」と述べておられるが、これは一体、如何なる一次資料から論証されるものなのか? 亡き大野氏に訊いてみたい気が強くする。そのような特殊な偏執的淵源があるとすれば、倉田論文も、当然、それを示さないはずはない)。ともかくもこの三宅やす子を枕、否、額縁とするこの評釈の論理展開や論理的正当性は――その推理の出典や情報元の提示が殆んどない上に、如何にもな推量表現だらけの文末を見ただけでも――失礼乍ら、どう考えても全くないと私には思われるのである。

 次に、夫宇内が美術の教師でありながら一枚の絵も描こうとせず、「久女はそれを責めたが、良人は謹直な教師であることに満足した」とあるが、これはどうも、久女の小説「河畔に棲みて」の「十一」辺りからの謂いであろうということに注意せねばならない。同小説は明らかなモデル私小説ではある。しかし『小説』である。大野氏は恰もこれらを何らかの客観的な事実記録や、杉田家をよく知る親族知人の確かな証言によって書いているかのように読める(但し、私は次に示す二冊の「杉田久女句集」に石昌子さんの書いた文章を読んでいないので、その中にそうした叙述が全くないと断言は出来ない)。しかし、続く叙述から見えてくるのは、これらは寧ろ、既に出来上がってしまっていた久女伝説に基づく尾鰭や曲解・噂の類いを都合よく切り張りした謂いであるという強い感触なのである。しかもそこで大野氏は「満足した」「良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう」と鮮やかな断定と、久女の心に土足で踏み込んで指弾するような推定を附しては、結局、読者をして――我儘な久女は強烈な欲求不満のストレスを抱え夫を追い詰め、病的なまでに只管にその利己的な鬱憤を溜めに溜めていったのだ――と思わせるように仕向けているとしか読めない点に注意しなければならない。

 続く長女昌子さんの引用であるが(この割注の書名は正確ではない。句集名は「杉田久女句集」である。また、ここには「あとがき」とあるから、これは大野氏の著作が後に改訂されたものと考えれば(私の所持するものは昭和五五(一九八〇)年刊の改訂増補八版である)、これは昭和二七(一九五二)年の角川書店版「杉田久女句集」ではない。何故なら、その巻末の石昌子さんの文章は「あとがき」という題名ではなく「母久女の思ひ出」であり、「あとがき」と題する昌子さんのそれは昭和四四(一九六九)年の角川書店版「杉田久女句集」の巻末にあるものだからである。但し、残念ながら私は両原本ともに所持しないので内容の確認は出来ない)、ここで大野氏は昌子さんの幼時の記憶として「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」という箇所をのみ採り、そこから畳み掛けるように「その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないか。そのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する」と、またしても久女の異様なヒステリー状態の想像を安易に開陳し、しかも「推察」という語で読者をナーバスで病的な久女像へと確実に恣意的に導こうとしているのが見てとれる。

 ところが翻って、私が底本としている立風書房版全集の石昌子さんの編になる、まことに素晴らしい年譜の叙述を見ると、これ――相当に印象が違う――のである。これは無論、永年、異常なまでに歪曲された久女伝説に基づく久女像を正そうと努力されてきた昌子さん(底本全集出版の一九七九年当時で既に七十八歳であられた。ネット上の情報では既に鬼籍に入られている)の中で、美化された母親像への正のバイアスがかからなかったとは言わない。昌子さんご自身の人生経験も当然そこに加わった述懐ともなってはいよう(因みに御主人の石一郎氏(故人)はスタインベックの「怒りの葡萄」の翻訳で知られる米文学者)。しかしともかく、その叙述はどうみても大野氏が誘導するような――内部崩壊寸前の愛情の通わぬ夫婦や狂気へと只管走る悲劇の才媛の物語――なんぞでは、これ、全くないのである。

 幾つかの記載を見てみよう。

 昌子さんの母の記憶は『玩具を玩具箱にしまってくれた母、その箱が張り絵で美しかったこと、破いた絵本を和綴じにして人形の絵など描き、ワットマン紙で表紙をつくってもらった』という映像に始まり、小倉での生活は『この頃の宇内は釣やテニスを趣味とし、玄海の夜釣や沖釣などをたのしんだ。田舎育ち』(宇内の実家は愛知県西加茂郡小原)『の野性的な一面があり、久女の方はおだやかな人といえた』(大正三(一九一四)年の項)。翌五年から俳句にのめり込んでいった久女は、大正六年一月の『ホトトギス』台所雑詠に初めて五句掲載、虚子や鳴雪の好評を得て、大正八~九年まで句作はすこぶる順調であったが、他の注で述べるように大正九年八月の実父の納骨に赴いた信州で腎臓病を発症、東京の実家へ帰ったのを機に離婚問題が起きた。同年の項には『小倉での生活が痛ましすぎると実家では考えた。旅暮らしの家庭生活に波風が多く、二十代は泣いて暮らしたと久女はよく言ったが、編者にはおとなしい静かな印象しか残っていない』(当時久女三十歳)とある。翌大正十年七月に小倉へ戻るが、その項には以下のようにある(下線やぶちゃん)。

   《引用開始》

編者の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持を夜昼責めたてた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的な単純なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている。

   《引用終了》

「怒れば久女の方が強かった」という辺りはご愛嬌であるが、寧ろ、昌子さんはちゃんと真実をなるべく公平に語ろうとしていることが、ここからも逆に垣間見れるとも言えよう。これ以降、久女のキリスト教への接近・宇内の受洗・久女の教会からの離反、などが記されるが省略する(また、久女の人生を大きく狂わせ、まさに天地が裂けたに等しかった『ホトトギス』除名(昭和一一(一九三六)年十月)もあるが、これも宇内との関係ではないからこの注釈では記さない)。この頃から逝去するまでの部分の年譜上には、宇内との軋轢や具体な記載は殆んど書かれていない。敢えて附記しておくなら、昌子さんは昭和一六(一九四一)年に次女光子さんの結婚式のために上京して来た久女について、『精神に精彩なく、悲痛で胸が痛んだ』と記され、また最後の対面となった昭和一九(一九四四)年七月の上京(実母赤堀さよの葬儀のため)対面の項には、『何時にもなくあせりも消えて、落ちついていた』『「俳句より人間です」「私は昌子と光子の母として染んでゆこうと思う」「子供を大切に育てなさい」「もし句集を出せる機会があったら、死んだ後でもいいから忘れないでほしい」といっ』たとある。『自分に好意を持たない人とは没交渉だったにちがいないが、編者宅では子供を遊ばせてくれ、子どもにやさしかったし、「子供をあまり叱ってはいけない。のびのびした子に育てるように」と言いおいて帰った』とある。翌昭和二十年十月末に福岡市郊外大宰府の県立筑紫保養院に入院、翌昭和二一(一九四六)年一月二十一日、この病院で腎臓病の悪化により久女は誰にも看取られず孤独に亡くなった。満五十五歳であった(久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日生まれである)。夫宇内は小倉を引き上げて実家の愛知に戻ったが、その際、久女の遺品は句稿・文章・原稿などを含め、宇内の手で収集整理がなされていた。この事実、夫宇内の優しさもしっかりと押さえておくべきことであろう(宇内は実際、当時の教え子たちからも非常に人気があったという)。宇内は昭和三六(一九六二)年五月十九日に七十八歳で亡くなった。

 さて、ここで、大野氏の物言いと昌子さんのこれらの叙述とを煩を厭わず再掲して比較してみよう(大野氏の割注と改行は除去した)。

《石昌子さんの叙述》

編者の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持を夜昼責めたてた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的な単純なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている。

《大野林火氏の叙述》

しかし、良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう遺子石昌子は「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」とその幼時を語るが、その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないかそのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する。この句は田舎教師の妻として、凡々の日夜を送り、そこから脱しようとしない自分を嘲る句だが、その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろういずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり、それが有名にもしたのだが、親しめない

   *

 前者は親しく久女の傍にいた肉親である長女の生(なま)の証言である。後者は赤の他人の、スキャンダラスなものを女に帰する傾向の強い普遍的な男性の属性を有する一人の男の(それが「俳人」であろうが何であろうが実は余り関係ない)、不完全な伝聞と、ただの憶測に基づく記述である。

 先に述べた昌子さんの母に対するバイアスを考慮に入れるとしても、この叙述は同一の夫婦の心的複合を叙述しながら、ほぼ正反対のそれとなっているといってよい。そうしてこれは、単に――母と娘対女と男――の感じ方の相違――どころの騒ぎではなく(但し、女流俳人に対する評価にはこの評者の側の性差の問題が「絶望的」なまでに影響すると私は思っている。これは女流歌人や小説家等よりも、シンボリックな要素が大きい俳句の場合、遙かに「絶望的」に顕著なのである)、明らかに――この大野林火氏の認識そのものに致命的な誤りがある――としか私には言いようがないのである。

 大野林火(明治三七(一九〇四)年~昭和五七(一九八二)年)は、まさに昌子さんの言った「亭主関白ともいえる時代」に生きた〈男〉の俳人である。そうした彼にして「いずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり」「親しめない」という如何にもなそっけなく、乱暴な評言は反対に実に私には腑に落ちるのである。その代わりに、異様なまでに、ここまでの枕や分析が長いのは、まさに〈男〉の俳人としての大野が(単なる俳人としてではない!)〈女〉としての久女(「女の俳人としての久女」ではない!)を断罪しているに過ぎぬからである。私は過去現在未来を通して、少なくともこの句に対する大野氏のこの「鑑賞と批評」は「鑑賞」なんぞでも「批評」なんどでもない、只管、バレだらけになった小道具をふんだんに使った、おぞましく誤った、男の女への、物言いの安舞台でしかないと断ずるものである。こんな特定の女性を性差別した評論は差別文書として糾弾されるべきシロモノである!

花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ 杉田久女 注リロード版(再掲)

花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

 

[やぶちゃん注:「いろいろ」は底本では踊り字「〱」。大正八(一九二九)年二十九の時の作。言わずもがな、久女の句の艶を最もシンボライズするヌーヴェル・ヴァーグ風のモンタージュである「花衣」は春の季語で花見に着る晴れ着のこと。大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)で大野は本句の鑑賞文の中で、久女の作を『不羈奔放、華麗、情熱的で男をたじたじさせるものがある。始終誰かを恋いしないではいられなかったといわれるが、肯かれることだ。万葉の額田王、中国の魚玄機に擬せられる所以であろう』とし、同時期の画期的な女流俳人の中でも長谷川『かな女、久女ともにその作品で優に男に頡頏した作家である』と記す(こうした叙述はある意味で肥大した久女伝説を助長しており、的を射ている部分は部分として、批判的な読みも同時に不可欠であると言いたい)。本句について大野は、『肉体を幾重にも緊繋している紐類だが、それをいま、つぎからつぎへと解き捨ててゆくことに肉体の解放感が思われ、艶麗である。句に詠まれていることは作者の足許にすでに散らばり、また、まだ肉体にまつわり残る紐だが、脱ぐものが花見衣裳であるだけにこの紐類また華麗、肉体の解放感と相俟って艶麗さを一句に与えている。いえばヌード一歩手前であり、女の匂いが濃厚で、つつましやかとは裏腹である』と評している。しかしこの評言、実に男の脂ぎった視線が感じられてなんだかいやらしい。三文の中で「肉体」という語を四度も用い、「緊繋している紐類」という謂いには恰もそれが生々しい猥雑なクリチャーででもあるかのような生理的嫌悪感をさえ私は抱く。最後の一文などは評者自身の中年男性の如何にも猥褻な視線が感じられて、まさに「鑑賞と批評」という「つつましやか」な標題「とは裏腹である」と返したい気がしてくる。]

杉田久女句集 167 眉根よせて文卷き返す火鉢かな


眉根よせて文卷き返す火鉢かな

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十九年 Ⅰ

 昭和十九年

 

   名古屋に加藤かけい氏を訪ふ

   かすみ女樣に初めておめにかゝる、そしてこ

   れが最後となりし 三句

 

さめてまた時雨の夜半ぞひとのもと

 

臘梅のかをりやひとの家につかれ

 

枯るる道ひとに從ひゆくはよき

 

[やぶちゃん注:「加藤かけい」既注。

「かすみ女」不詳。女流俳人らしい名であるが、加藤氏の妻か? 識者の御教授を乞う。なお、個人的はこの前書は好きになれない。明らかに作句時から時間が経った後、もしかすると数年後(『信濃』出版は戦後の昭和二二(一九四七)年七月)のこの句集出版に際しての編集作業の中でこの前書の特に「そしてこれが最後となりし」の部分がつけ加えられたものと思われるが(直後に亡くなったとしてもそれは明らかな句作の「後」であり、前書は明らかに句の時制から後の時制で書かれていることになるということである)、これは作者の思いの中にのみ込めておけばよかったものと私は思う。何故なら、この三句には、その邂逅が遂に「これが最後とな」ったことの感懐は、当然の如く、詠み込まれてはいないからである(この三句の中にそうした運命的出逢いの感懐や運命のミューズが潜んでいると言われる方は、この愚鈍の私に是非とも分かり易くご説明願いたいと存ずる)。私の謂いは決して多佳子に対して非礼ではないと信ずる。寧ろ私は、追悼句でもない句で、その前書如きで人の死を遡って語ってしまい、その深い哀しみの感懐(その思いの深さは十全に分かる)を示しながら、しかも、はっきり言ってそれほど渾身の句とも思えぬ挨拶句三句を並べ立てるというのは、私には理解出来ないということなのである。因みにこの前書が、

   名古屋に加藤かけい氏を訪ふ

   かすみ女樣に初めておめにかゝる 三句

   (後日註 これがかすみ女樣との最後となりし)

であったなら、私はたいした違和感も持たずに、この句を読んだであろう。死は、実際の人の死は、文芸の装飾如きには決してならぬ/すべきでないという立場を私はとる。この前書に関してのみ言うなら、私は多佳子こそが軽率で非礼であると信じて疑わないのである。

 前書というのは余程注意しなければ(特に作後に附す場合には)、おぞましい亡霊となって逆に句に襲いかかり、遂には喰い尽くしてしまうものだと思うのである。]

篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年一月

昭和一〇(一九三五)年

 

   靑空に觸れて

紺靑の空に觸れゐて日向ぼこ

 

紺靑の空に觸れゐて日南ぼこ

 

手に足に靑空染むと日向ぼこ

 

手に足に靑空染(シ)むと日南ぼこ

 

[やぶちゃん注:以上四句は、それぞれ前の句が一月発行の『天の川』の、後の句が同じく一月発行の『俳句研究』の句形である。]

 

莨持つ指の冬陽をたのしめり

 

園のもの黄ばむと莨輪に吹ける

 

[やぶちゃん注:「園のもの」は者で園丁が苑の草花が冬に向かって「黄ば」んだ、と物謂いして「莨」を「輪に吹」いているのであろうか? そうではあるまい。「園の」物、その草花はすっかり季節の中で「黄ば」んでしまったという感懐の中、当の詩人がその景の中に立って「莨」を「輪に吹」いているのか? はたまた、「莨」の煙をそのまま吐いては「園の」美しい草木がヤニで「黄ば」んでしまうから、と、当の詩人は「莨」の煙を敢えて空高く「輪に吹」き上げているのであろうか? しかし、とするならば「黄ばむと」の引用の格助詞「と」は如何にもな客体表現でおかしいではないか? いやいや、これは園を独りで歩いているのではあるまい、詩人は恋人連れなのだ(次の注も参照のこと)、そして「園の草木が黄ばんじゃうといけない」と独り言ともつかぬ気障な台詞を吐いて、高々と「莨」の煙を空高く「輪に吹」き上げているんじゃないか?……いやはや……少なくとも私には意味がとれぬ句ではある。識者の御教授を乞いたい。]

 

新刊と秋の空ありたばこ吹く

 

秋の陽に心底(シンソコ)醉へりパイプ手に

 

   幻想

雪の夜はピヤノ鳴りいづおのづから

 

雪あかり昏れゆくピヤノ彈き澄める

 

[やぶちゃん注:以上、八句は一月の発表句。底本では頭の「日向ぼこ」二句の後(「日南ぼこ」とする二句のヴァリエーションは底本では補注として句集の後に配されてある)句群の後に「一碧の空に横たふ日南ぼこ」の句を配している。これはこれらの句と同字創作であるとしてここに置いたのであろう(事実、その可能性はすこぶる高いであろう)が、この「一碧の空に横たふ日南ぼこ」の句は二ヶ月後の三月発行の『俳句研究』掲載句である。私はあくまで編年を守るためにそちらに移した。

 因みに鳳作は、この昭和一〇(一九三五)年一月二十二日に鹿児島銀行頭取前田兼宝四女秀子と結婚、鹿児島市上之園町(うえのそのちょう)三十八番地に新居を構えた(前田兼宝という名は大正一三(一九二四)年五月に投票された第十五回衆議院議員総選挙の鹿児島県三区で当選した議員と同姓同名である。同一人物であろう)。]

首   山之口貘

 首

 

はじめて会ったその人がだ

一杯を飲みほして

首をかしげて言った

あなたが詩人の貘さんですか

これはまったくおどろいた

詩から受ける感じの貘さんとは

似てもつかない紳士じゃないですかと言った

ぼくはおもわず首をすくめたのだが

すぐに首をのばして言った

詩から受ける感じのぼろ貘と

紳士に見えるこの貘と

どちらがほんものの貘なんでしょうかと言った

するとその人は首を起して

さあそれはと口をひらいたのだが

首に故障のある人なのか

またその首をかしげるのだ



[やぶちゃん注:
【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三三(一九五八)年一月一日号『全繊新聞』。]

沖繩風景   山之口貘

 沖繩風景

 

そこの庭ではいつでも

軍鶏(タウチー)たちが血に飢えているのだ

タウチー達はそれぞれの

ミーバーラーのなかにいるのだが

どれもが肩を怒らしていて

いかにも自信ありげに

闘鶏のその日を待ちあぐんでいるのだ

赤嶺家の老人(タンメー)は朝のたんびに

煙草盆をぶらさげては

縁先に出て座り

庭のタウチー達のきげんをうかがった

この朝もタンメーは縁先にいたのだが

煙管がつまってしまったのか

ぽんとたたいたその音で

タウチー達が一斉に

ひょいと首をのばしたのだ

 

 「ミーバーラー」=養鶏用のかご

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注の一部を改稿した。】標題の「沖繩」の「繩」の字体はママ(新字体採用の思潮社二〇一三年九月刊の新全集「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では「縄」となっている)。「軍鶏(タウチー)」「老人(タンメー)」の部分は底本ではルビ。

 初出は昭和三二(一九五七)年一月一日附『琉球新報』(掲載時のタイトルは「タウチー」)、二年後の昭和三四(一九五九)年五月三十一日附『朝日新聞』に再掲されている(こちらの再掲時のタイトルは「沖繩風景」)。この詩は初出の順列でいうと五つ後の「雲の下」の後に当たるが、それよりも創作時制が遙かに新しいということを示している。即ち、この詩は、バクさんの沖繩帰郷(昭和三三(一九五八)年十月末から翌年一月初旬)前に書かれた詩であり、しかも帰郷の後に再度『朝日新聞』に掲げた詩である点に注意されたい。

 底本では「ミーバーラー」の長音符の右に注記を示すポイント落ちの「*」が附されて、詩の後には三字下げポイント落ちで、

 

 *養鶏用のかご

 

と附されているが、個人的に詩中への注記記号を排したいという私の認識から以上のように恣意的に書き換えた。なお。なお不思議なことに同一底本を用いているはずの新全集ではこの詩中の「*」注記記号が存在せず、詩の後に一行空け下インデントで、

 (ミーバーラーは養鶏用の籠。)

とある。表記が全く異なり、極めて不審である。

「ミーバーラー」沖縄市公式サイトの「沖縄市教育委員会 教育部 郷土博物館」の「ミーバーラー」を参照されたい。そこには『養鶏用の籠(かご)です。主に、タウチー(軍鶏)を飼うために使われました。鶏が逃げ出さないように、重しをのせました』。『竹を六角に編んだものなので、「ロッカクミー」と呼ぶ地域もあります。六角に編むのは、ミーバーラーの他に、芭蕉を入れるウーバーラーの底や、餅を蒸すためのムチンブサーなどがあります』。『 博物館がある上地では、昔、キャベツ(タマナー)を入れる籠としても使われていました』とある。リンク先では実物の写真が見られる。ただ、語源が分からない。識者の御教授を乞う。

「赤嶺家」年譜やバクさんの沖繩関連随筆などを管見した限りでは出ず、個人名と住所を特定出来ないのが残念であるが(以下に推理するように、この風景が具体的に何処の地域のものであるかは私には非常に重要なことなのである)、沖繩には多い姓で、伝統的には現在の那覇空港のある沖縄県那覇市最南部の位置する小禄(おろく/沖縄方言では「うるく」)地区(かつての島尻郡小禄村(そん))の旧小禄間切赤嶺(その前は豊見城間切八ヶ村の一つ赤嶺であった。ここは「小禄勝手に観光案内推進してるようでしてない課」の記載に拠る)をルーツとする姓である(即ち、沖繩に飛行機で旅する誰もが知らぬうちにこの小禄の土を踏んでいるのである)。以下、参考までにウィキの「小禄」から引用しておく。『北部には国場川が流れ那覇市唯一の在日米軍基地である那覇港湾施設(那覇軍港)が存在する(ただし軍港内の住吉町・垣花町と隣接する山下町・奥武山町はもともと小禄の一部だったが、19世紀末に那覇区に編入されたため現在は小禄支所管内ではなく本庁管内である)』。『陸上自衛隊の那覇駐屯地、航空自衛隊の那覇基地がある』。『那覇空港があり、沖縄県の空の玄関としての役割を持ち、沖縄都市モノレール線、本島内各会社の路線バス、高速バスが通り、空港周辺はレンタカーの事務所が軒を連ねる。そのため、沖縄本島の交通の要所としての役割を持つ』。『また、中西部の金城(かなぐすく)地区は、米軍基地施設の跡地利用により建設され、ショッピングセンターなどが立ち並び、住宅街としても整備される。南東部の宇栄原地区には大規模な団地がある』。『小禄はここ20~30年で発展し、ほぼ全域で土地区画整理を盛んに行なってきた。人口も増加しつつあり、県外からの移住者の転居地としても人気のある地域といわれている』。『古くから小禄に定住している人は、ウルクンチュ(小禄の人、小禄人)と呼ばれ、ムンチュー(門中)意識が強い。特に年配者は、ウルクムニー(小禄喋り)と呼ばれる独特のイントネーションで話す』とある。

 

……そもそも、この詩は全体に現在形で示されているのだけれど、詩を詠じている詩人自身の現在時間の実景、実際の久方ぶりに帰郷した今の沖繩で現に詩人が見ている懐かしい変わらぬ風景、その嘱目吟なのだろうか?……

 

……と私は三十五年前、この詩を東京の大学近くの神社の参道を歩みながら読んでいて、ふと戸惑いして立ち止まってしまったのを覚えているのだ……

 

……その時の私には――そうではない――ように思われたからであった……

 

……これは……今は失われた……詩人の中にある/中にのみある……戦前の平和な時代の典型的な沖繩人(うちなんちゅ。だからこそ「むんちゅー」意識の強い「うるくむにー」を喋る「うるくんちゅ」の老人であることを示す「赤嶺」でなくてはならなかったのではないか?――と、今現在の五十七歳の私は心づいているのであるが――)のいる懐かしい風景なのではないか?……

 

……そう……私は漠然と感じていたのであった……そうして……

 

……そうして私は、その詩のコーダに幻視したのだった……

 

この朝もタンメーは縁先にいたのだが

煙管がつまってしまったのか

ぽんとたたいたその音で

タウチー達が一斉に

ひょいと首をのばしたのだ

 

……その日の「朝も」「タンメーは縁先にいたのだが」の――「この朝」――とは、一体どの日の朝だったのか?……

……「ぽんとたたいたその音」は確かに「煙管がつまってしまった」その音であったのか?……

……「煙管がつまってしまった」らそうするのは当たり前で、わざわざ「煙管がつまってしまったのか」と「のか」をつける必要がどうしてあったのか?……

……確かに「タウチー達」は癇が強い。しかし、庭中の「タウチー達が一斉に」「煙管がつまってしまった」煙管を一度「ぽんとたたいたその音」ぐらいで……「ひょいと首をのば」すだろうか?……

――「タウチー達が一斉に」「ひょいと首をのばした」そのアップの映像!

――「タウチー達が一斉に」「ひょいと首をのばした」のは――もっと別な音ではなかったか?!

――それは――あの――鉄の暴風の――最初の砲声――では、なかったろうか?!

 

……これは私の勝手な幻影であった/であるのかもしれない。しかし私は今もそう信じて疑わないのである。

 大方の御批判を俟つものではある。

 しかしまさに今回、松下博文氏の「稿本・山之口貘書誌(詩/短歌)」(及び後日の同氏の書かれた「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題)の初出データを知って、遅まきながら、この詩が故郷沖繩を再訪する二年近くも前に書かれたものであったことを知るに及んで、私は何か体が震えるような感慨に襲われているのである! これは愚鈍な私にとっての驚きであると同時に、二十二歳の大学生最後の年の、しょぼくれた私自身の不思議な感じの記憶を、懐かしく蘇らせて呉れもしたからなのである。……]

島での話   山之口貘

 島での話

 

来たぞ くろいのが

とそう云えば

女たちはもちろんのこと

こども達までがあわてふためいて

一目散に逃げたものだと云う

それでそれとすぐにわかるような

いかにもくろい男の子なのだが

くろいのが来たぞと云えば

その子までもあわてて

みんなといっしょに

一目散だと云うのだ



[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。以前に注していた内容には複数の誤りがあったため、注を改稿した。】初出は昭和三四(一九五九)年十一月号『小説新潮』。]

正月と島   山之口貘

 正月と島

 

つかっている言葉

それは日本語で

つかっている金

それはドルなのだ

日本みたいで

そうでもないみたいな

あめりかみたいで

そうでもないみたいな

つかみどころのない島なのだ

ところでさすがは

亜熱帯の島

雪を知らないこの風土は

むかしながらの沖縄で

元旦のパーティーに

扇風機のサービスと来た



[やぶちゃん注:【2014年月日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部を改稿した。】初出は昭和三五(一九六〇)年一月一日号『全繊新聞』で、同一月十五日発行の『季刊 沖縄と小笠原』第十一号にも載る。くどいが、バクさんの沖繩帰郷は昭和三三(一九五八)年十月末から翌年一月初旬のことであった。]

2014/03/30

飯田蛇笏 靈芝 昭和七年(七十二句) Ⅵ



たちよれば花卯盛りに露のおと

 

日中の微雨きりきりと四葩かな

 

[やぶちゃん注:「きりきり」の後半は底本では踊り字「〱」。「四葩」は「よひら」でアジサイ(紫陽花)の異名。「きりきりと」のオノマトペイアが斬新。]

 

雨に剪る紫陽花の葉の眞靑かな

 

水葬の夜を紫陽は卓に滿つ

 

[やぶちゃん注:鬼趣の句である。この「水葬」とは、水を張った平鉢に浮かべた紫陽花の花をかくもイメージしたものか。]

 

舞踏靴はき出て街の驚破や秋

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「驚破や」は感動詞「すわや」。斬新で面白い句である。]

 

秋の晝書にすがりたる命かな

 

すゞかけに秋立つ皇子の輦(くるま)かな

 

提げし大鎌の刃に殘暑かな

 

[やぶちゃん注:上五「提げし」は「ぶらさげし」と訓じていよう。]

 

雲井なる富士八朔の紫紺かな

 

果物舖雨月の光さしそひぬ

 

[やぶちゃん注:これは如何なる光景であろう。「雨月の光」の「雨月」は明らかに秋の季語で名月の日の雨で無論、月は顕在的には照っていないのであるが、それはそれで相応の仄かな夜の明るさがあって、夜の果物屋の、それぞれの総天然色の果実の輝きに、それ(幽かな雨月の夜のぼぅっとした夜明かり)を添えているというのであろうか? 梶井基次郎の「檸檬」を偏愛する私は即座にそのような光景をイメージしてしまったのだが……。]

杉田久女句集 166 緋鹿子にあご埋めよむ炬燵かな



緋鹿子にあご埋めよむ炬燵かな

 

[やぶちゃん注:「緋鹿子」は炬燵の掛け布団の模様であろうが、そこに頤(おとがい)なですっぽりと埋めて読み耽っているのは、「伊達娘恋緋鹿子」、八百屋お七の浄瑠璃本ででもあろうか。――久女とお七……こんなに相応しい組み合わせはあるまいと、私は思うのだが……]

杉田久女句集 165 柚子湯出て身伸ばし歩む夜道かな


柚子湯出て身伸ばし歩む夜道かな

杉田久女句集 164 な泣きそと拭へば胼や吾子の顏


な泣きそと拭へば胼や吾子の顏

杉田久女句集 163 雪道や降誕祭の窓明り


雪道や降誕祭の窓明り

杉田久女句集 162 橇やがて吹雪の渦に吸はれけり


橇やがて吹雪の渦に吸はれけり

杉田久女句集 161 空似とは知れどなつかし頭巾人


空似とは知れどなつかし頭巾人

杉田久女句集 160 歌留多 書初め 縫初め



凧を飾りて子等籠りとるかるたかな

 

胼の手も交りて歌留多賑へり

 

書初やうるしの如き大硯

 

縫初の糸の縺れをほどきけり

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅸ 信濃抄四(6)



朝刊に日いつぱいや蜂あゆむ

 

冬河に海鳥むるる日を訪へり

 

冬の月明るきがまま門(と)を閉ざす

雲の上  山之口貘

 雲の上

 

たった一つの地球なのに

いろんな文明がひしめき合い

寄ってたかって血染めにしては

つまらぬ灰などをふりまいているのだが

自分の意志に逆ってまでも

自滅を企てるのが文明なのか

なにしろ数ある国なので

もしも一つの地球に異議があるならば

国の数でもなくする仕組みの

はだかみたいな普遍の思想を発明し

あめりかでもなければ

それんでもない

にっぽんでもなければどこでもなくて

どこの国もが互に肌をすり寄せて

地球を抱いて生きるのだ

なにしろ地球がたった一つなのだ

もしも生きるには邪魔なほど

数ある国に異議があるならば

生きる道を拓くのが文明で

地球に替わるそれぞれの自然を発明し

夜ともなれば月や星みたいに

あれがにっぽん

それがそれん

こっちがあめりかという風にだ

宇宙のどこからでも指さされては

まばたきしたり

照ったりするのだ

いかにも宇宙の主みたいなことを云い

かれはそこで腰をあげたのだが

もういちど下をのぞいてから

かぶった灰をはたきながら

雲を踏んで行ったのだ


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を全面改稿した。】初出は昭和三五(一九六〇)年一月一日発行とある『季刊詩誌 無限』第三号冬季号。前年の昭和三四(一九五九)年十一月二十八日附『沖縄タイムス』にも載るが、実はそこには『転載』注記があり、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題で筆者の松下博文氏はこの『沖縄タイムス』『への作品掲載は「無限」発行後と推定される。雑誌の発行日と実際の発行期日にズレがあるのはそう珍しいことではない』とある。

 ネット上の情報では現在、日本雑誌協会のもとでは週刊誌は十五日先迄、月刊誌は四十日先までの発行日表示を許容するという協定が結ばれているそうで、しかもこうした発行日の前倒しは何時頃から行われるようになったかは不明とあり、また、これは購読者が先の日付のものを欲しがることと、書店からの返品(三ヶ月以内)に対応するためであるともあった。

 なお、新全集解題によれば、草稿原稿には『1959.10』のクレジットがあるとある。]

島   山之口貘

 島

 

おねすとじょんだの

みさいるだのが

そこに寄って

宙に口を向けているのだ

極東に不安のつづいている限りを

そうしているのだ

とその飼い主は云うのだが

島はそれでどこもかしこも

金網の塀で区切られているのだ

人は鼻づらを金網にこすり

右に避けては

左に避け

金網に沿うて行っては

金網に沿うて帰るのだ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三五(一九六〇)年一月発行の『政治公論』で、同年三月二日発行の『青年座 沖縄』十八号にも再録された。これは劇団青年座の発行していたものらしい(リンク先は同劇団公式サイト)。バクさんの沖繩帰郷は一九五八年十月末から翌年一月初旬のことであった。


「おねすとじょん」オネスト・ジョン(英
: Honest John)は正式名をMGR-1と呼ぶアメリカ合衆国初の核弾頭搭載地対地ロケット(弾)。ウィキの「MGR-1より引用する。『想定された主な用途は戦術核攻撃であったが、核弾頭の代わりに通常の高性能炸薬弾頭を搭載することもできるように設計されていた。当初の制式名は基本型がM31、改善型がM50であった』。『1951年6月に初めて試験され、1954年から在欧米軍に配備された。当初は臨時的な配備を予定していたが、運用が簡単で即応性が高かったことから、地対地誘導ミサイルが次々に代変わりしていく中、30年弱にわたって運用され続け、アメリカ陸軍では1982年に退役した』。『「Honest John」は日本語に直訳すると「正直者のジョン」という意味になるが、米軍では若い新兵を当人の本名にかかわらず「Hey, John!」と呼ぶ場合があるので、意訳すると「命令に忠実な新兵」ということになる。この愛称は「狙いどおりに命中してくれる」という含意でもある』とある。他所のデータによれば沖繩には昭和二八(一九五三)年十二月に配備されたとある。私はこれを「原子砲」(小型原子爆弾を砲弾化した核砲弾を発射する火砲)と記した書物を小学生の時に読み、長くそう記憶していたが、ネット上のデータからみると、「原子砲」(アメリカ陸軍の核砲弾射撃専用大型大砲M65 280mmカノン砲。別名アトミック・キャノン(Atomic Cannon)。一九五三年から一九六三年まで運用されたとウィキ「M65 280mmカノン砲にある)は地対地核ミサイルである「オネスト・ジョン」とは全く別物である(但し、同時に沖縄にやはり配備されていたらしい)。ただ、バクさんも「おねすとじょんだの/みさいるだのが」と分けて綴っているところを見ると、バクさんもやはり「オネスト・ジョン」を核ミサイルではなく、原子砲と認識されていたようにも読める。【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。】


追伸:私の池内了氏の人クローンのオリジナル教材の授業を受けた諸君に訂正しておく。おぞましい命名の部分だ。

「ドリー」「ふげん」「もんじゅ」「リトル・ボーイ」「ファット・マン」に次いで「オネスト・ジョン」を挙げたね。

あれは「原子砲」ではなく、地対地核ミサイルの「愛称」であった。

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年十二月



稻妻のあをき翼ぞ玻璃打てり

 

稻妻の巨き翼ぞ嶺(ネ)を打てる

   建築現場

鐡骨に夜々の星座の形正し

 

鐡骨に忘れたやうな月の虧(カケ)

 

[やぶちゃん注:二句連作。以上四句は総て、十二月発行の『天の川』掲載句。個人的にこの建築場の二句を好む。「鐡骨に忘れたやうな」という部分は推敲の余地があるように(特に中七の直喩が今一つという感じがする)は思われるが、「鐡骨」という近代性と「星座」及び「虧」けた「月」とのシュールレアリスティックな取り合わせ、「鐡骨」という近代の象徴物が悠久の天然自然の「星座」と「月」をかっちりとトリミングする手法が、憎いまでにモダンで洒落ている。]

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年十一月

   月光と塑像

月のかげ塑像の線をながれゐる

 

月光のおもたからずや長き髮

 

そそぎゐる月の光の音ありや

 

窓に入る月に塑像壺をかつぎ

 

背の線かひなの線の靑月夜

 

[やぶちゃん注:ここまでの五句が十一月発行の『傘火』の「月光と塑像」連作と思われる。同月の『天の川』にも載るが、それは頭の三句のみである。

 壺を担ぐ乙女像というと……私は何をさておいてアングルの絵「春」(IngresLa Source”)をイメージしてしまう部類の人間である(グーグル画像検索「Ingres La Source。]

 

闇涼し蒼き舞台のまはる時

 

[やぶちゃん注:これは野外公演であるが、場所は不詳。時期的には宮古ではなく鹿児島か。何か、御存じの方、御教授を乞う。これは『現代俳句 3』(恐らくは鳳作没後の昭和一五(一九四〇)年に河出書房から刊行された「現代俳句」第三巻)の掲載句とある。以上、六句は十一月の発表句及び同パート(最後の句)に配されたもの。]

2014/03/29

杉田久女句集 159 玻璃の海全く暮れし煖爐かな / ホ句たのし松葉くゆらせ煖爐たく



玻璃の海全く暮れし煖爐かな

 

ホ句たのし松葉くゆらせ煖爐たく

 

[やぶちゃん注:これらの二句も間違いなく櫓山荘での句であろう。]

杉田久女句集 158 寢ねがての蕎麥湯かくなる庵主かな


寢ねがての蕎麥湯かくなる庵主かな

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅸ 信濃抄四(5)

  四日市に誓子先生をお訪ひする 五句

 

つゆじもや發つ足袋しろくはきかふる

 

ほのぼのと襟あたたかし石蕗も日に

 

濤うちし音返りゆく障子かな

 

[やぶちゃん注:「濤」は底本の用字。]

 

砂をゆく歩々の深さよ天の川

 

濤ひびく障子の中の秋夜かな

 

[やぶちゃん注:「濤」は底本の用字。]

酔漢談義   山之口貘

 酔漢談義

 

ぼくに2号があるとは

それは初耳だと言うと

そうじゃないかよそれで毎晩

帰りがおそいんじゃないかよと言う

飲んで酔っぱらって

おそくなったにすぎないのだが

ないものをあるみたいに探るので

腹が立って来て

損をしているみたいだ

[やぶちゃん注:【2014年月日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を改稿した。】初出は昭和三五(一九六〇)年四月号『文藝春秋』。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題によれば草稿原稿には『1959.12.6』のクレジットがあり、そこでのタイトルは「酔漢談議」となっているとある。]

底を歩いて   山之口貘

 底を歩いて

 

なんのために

生きているのか

裸の跣で命をかかえ

いつまで経っても

社会の底にばかりいて

まるで犬か猫みたいじゃないかと

ぼくは時に自分を罵るのだが

人間ぶったぼくのおもいあがりなのか

猫や犬に即して

自分のことを比べてみると

いかにも人間みたいに見えるじゃないか

犬や猫ほどの裸でもあるまいし

一応なにかでくるんでいて

なにかを一応はいていて

用でもあるみたいな

眼をしているのだ


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。本注を追加した。】初出は昭和三五(一九六〇)年六月号『小説新潮』。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題によれば、草稿原稿の裏側に『1959.10.26』という附記があるとある。]

ろまんす・ぐれい   山之口貘

 ろまんす・ぐれい

 

ラジオ屋さんが帰ったあとだ

ぼくの顔を見て

ミミコが云ったのだ

うちのにしては上出来で

真新しいものを買ったと云えば

ラジオがはじめてなんでしょうと云った

すると横から

女房が云ったのだ

パパはなんでもお古が好きなんで

机がお古で本棚もお古だ

電気スタンドだってなんだって

古道具屋さんのが好きなんだと云った

そこでぼくにしてみればだ

余計なことはしたおぼえがないので

余計なことは云うなと云った


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらにこの初出注を追加した。】初出は昭和三五(一九六〇)年十月号『小説新潮』。]

僕は

人がやってないことでは不十分だ――人がやっても「つまらん」と思うようなことを独り「面白がって」やってみること――そこから思わぬ瓢箪から駒、人形から魂があくがれ出でる――これを僕のコンセプトとしなくてはいけない――

牛とまじない   山之口貘

 牛とまじない

 

のうまくざんまんだばざらだんせんだ

まかろしやだそわたようんたらたかんまん

ぼくは口にそう唱えながら

お寺を出るとすぐその前の農家へ行った

そこでは牛の手綱を百回さすって

また唱えながらお寺に戻った

お寺ではまた唱えながら

本堂から門へ門から本堂へと

石畳の上を繰り返し往復しては

合掌することまた百回なのであった

もう半世紀ほど昔のことなのだが

父は当時死にそこなって

三郎のおかげで助かったと云った

牛をみるといまでも

文明を乗り越えておもい出すが

またその手綱でもさすって

きのこ雲でも追っ払ってみるか

のうまくざんまんだばざらだんせんだ

まかろしやだそわたようんたらたかんまん

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部を追加した。】初出は昭和三六(一九六一)年一月一日附『沖縄タイムス』で、同年同月の一月二十日附『全繊新聞』にも掲載されているが、初出の詩題は孰れも「牛」である。前者にはバクさん自筆の絵も添えられているらしい。

「のうまくざんまんだばざらだんせんだ/まかろしやだそわたようんたらたかんまん」は少し音表記に違いはあるが、ほぼ正しく真言宗系の不動明王真言、

のうまく さんまんだ ばざら だん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらたかんまん

を写している(次の注も参照のこと)。

「牛の手綱を百回さすって」このお百度参りはよく分からない。ネット上でも検索に掛からないのだが、これは例によって私のトンデモ直感なのだが、丑の刻参りの「丑」と「牛」の類感呪術的敷衍ではなかろうか? 識者の御教授を乞う!

「もう半世紀ほど昔」本詩の最初の作詩年代を厳密に同定出来ないが、初出が昭和三六(一九六一)年一月一日であること、半生記五十年で少年のバクさんが不思議な「まじない」をし得た年齢(三、四歳以上で尋常小学校でも高学年ではあるまい)であったことを勘案するなら、起点は自ずと、昭和三一(一九五六)年~昭和三五(一九六一)年となり、そこから五十年前の明治三九(一九〇六)年(満三歳)~明治四四(一九一一)年(満八歳・バクさんの那覇甲辰小学校入学は明治四十三年で満六歳の時であった)の間と考えてよかろう。そうして実は、この事蹟をもっと狭く同定出来る資料があるのである。バクさんの書いた随筆「牛との対面」(昭和三五(一九六〇)年十二月二十七日附『産経新聞』掲載)である。以下に全文を掲げる(底本全集の第三巻随筆に拠る。太字は底本では傍点「ヽ」)。

   *

 

 牛との対面

 

 この間から、催促を受けている原稿がある。そういうと、いかにも売れる原稿でも書く人みたいで自分ながらきざな感じであるが、ぼくの場合は売れないものを押し売りした上、それを書く仕事までものろいからなのであって、売れっ子の受ける催促とは、その性質がはなはだ異ったものなのである。

 過日、郷里のある新聞社の重役が上京したことを幸に、電話で借金を申し込んだところ非常に気持ちよく引受けてくれた。借金をするにも相手によっては、向かっ腹の立つ場合もあるわけであるが、かれの貸しっぷりは借りるぼくの気分を爽快にするほどずばりとしたものであった。その上、借りた金は、金で返すのではなくて、原稿で返すことを約束したのである。つまりはその原稿の催促を受けているわけで、原稿の催促を受けているとはいっても、正確には借金の催促を受けているわけなのである。それはしかし、重役のかれから直接に受けた催促なのではなくて、東京にあるその新聞社の支社からなのである。ぼくのつもりでは四枚ばかりの随筆風の原稿で借金の返済にあてる筈なのであったが、支社の編集部員は「詩をいただきたい。」と言った。「随筆のつもりでいたが。」というと「いや詩をいただきたいんです。」とかれは言った上に、「絵もいっしょにほしいんです。」と来たのである。ばくにとっては意外な結果となってしまったが、さて、問題はその詩のことなのである。

 ぼくには最近、「無限」と「近代詩猟」の両詩誌から詩の依頼があった。書きかけの詩が一つはあるにはあったが、両方に応じ得るだけの自信は到底なかったので、「無限」には前に一度は書いたこともあるしとおもい、こんどは「近代詩猟」に書かせてもらいたいからとのことを電話で「無限」編集部のHさんに言いわけをして、「近代詩猟」の方だけに応じることにし、岡崎清一郎氏へ承諾の返事を出したのである。ところが締切の指定の期日を過ぎても、書きかけのその詩がなかなか詩にならず、ついに岡崎氏へは詫びの手紙を出すより外にはなくなって、結局どちらにも書かずじまいになってしまった。こんなことをおもい出しながら、ぼくは借金のかわりに返さなければならない詩を別に書かなくてはならない破目になったのである。

 その詩は、絵と共に新聞の新年号に出すものなので、そのつもりのものを書いてほしいとのことなのである。そのつもりで考えてみると、来年は牛の年であることに気がついた。同時に、この気のつき方はいささかジャーナリスティックであるとおもわぬでもなかったが、牛については、いまから半世紀ほども前のことで、牛にまつわるぼくの思い出があるからでもあった。

 大正の初めごろといえば、ぼくの小学生のころである。父が難病をわずらったために、ぼくはお寺でお百度を踏まされたことがあった。そのとき奇妙なまじないを経験したが、お寺さんの指図によって、その近所の農家へ行き、うす暗い牛小屋で、牛の手綱を百回さすったのである。ぼくはこどもごころに、こんなことをして病気が治るものなら、医者も薬もいらないじゃないかとおもったが、父や母はいかにもまじないごとが好きだった。沖縄にはユタ、あるいはカミンチュといわれていて神につかえているおばさんがあちらこちらにいたが、父や母は好んでユタに来てもらい、家屋敷の隅々までユタに拝んでもらったりして、もっともらしくおまじないをしてもらうことが度々あったのである。

 ぼくはそういうとりとめもない昔の沖縄でのことを思い出しながら、借金のかわりに返す詩を書かねばならなくなったが、自業自得とはいえその詩がまたまた途中で足踏みしたままで、いっこうはかどらないのである。仕方がないので、絵を先に描くことにして、歳末のせっぱつまった気持ちに駆られながら、雨のなかを大泉の東映撮影所の近所まで出かけた。そのあたりに乳牛を飼っている家があるとのことを、娘がバスの窓から見かけたことがあると聞いたからなのであった。やっとその家を見つけて牛小屋に案内されたが、小屋というよりは邸宅といった方がふさわしく、うずくまっているもの、立ちつくしているもの、あるいは子持ちなどの牛が十頭余りもそこにいたのである。ぼくはその垂れさがった大きなおっぱい、割れた蹄など、部分部分をスケッチして、最後に大きなその顔と向き合ったが、実に半生記ぶりのまともな対面で、あのお百度詣りのとき牛の手綱を百回さすったり繰り返し唱えたまじないのあの文句まで思い出さずにはいられなかった。

 なうまくざんまんだばざらだんせんだまかろしやだそわたやうんたらたかんまん。

   *

最後の不動明王の真言は詩のものと微妙に異なるが、実は天台宗系の同真言は、

 なまく さまんだ ばさらなん せんだ まかろしゃな そわたや うんたらた かんまん

である。ここで四つを試みに並べてみようではないか。

 

のうまく ざんまんだ ばざら だん せんだ まかろしやだ そわたよ うんたらた かんまん  (詩「牛とまじない」の真言に間隙を施した)

 

のうまく さんまんだ ばざら だん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらたかんまん   (真言宗系不動明王真言)

 

なまく さまんだ ばさら なん せんだ まかろしゃな そわたや うんたらた かんまん    (天台宗系不動明王真言)

 

なうまく ざんまんだ ばざら だん せんだ まかろしやだ そわたや うんたらた かんまん   (随筆「牛との対面」の真言に間隙を施した)

 

面白くないてか? そうかなぁ、私はとっても面白いんだけどなぁ……。まあ、いいや、ともかくもこれによって、

 

この詩「牛とまじない」の創作されたのは昭和三五(一九六〇)年であること

 

この詩「牛とまじない」に語られる五十年前の父の病い平癒のための牛の呪(まじな)いは「大正の初めごろ」とあるから、私の推測よりやや後の、バクさん満九歳の「ぼくの小学生のころ」、大正元・明治四五(一九一二)年(尋常小学校三年)か翌年若しくは翌々年のことであること

 

が分かるのである(一九六一年の五十年前で一九六二年だと四十九年前ではあるが、これは「半世紀ほど昔」と言って無論、問題ない)。

 

「父は当時死にそこなって/三郎のおかげで助かったと云った」辻淳氏の手になる底本全集の年譜によれば、バクさんは明治三六(一九〇三)年九月十一日に沖縄県那覇区東町大門前に生まれ、戸籍上の本名は山口重三郎、幼名は「さんるー」(三郎)。父山口重珍(訓は「しげよし」か)の三男であった。山口家は三百年続く沖繩の名家の一つで、もとは薩摩の商人松本一岐重次を祖として、薩摩の琉球への侵攻以降に琉球王国へ移住帰化した子孫に当たる(山口という姓はその先祖の中で知念山口の地頭職に任ぜられた者があってその地名から称するようになった)。重珍は当時三十三歳で第四十七銀行那覇支店に勤務していた。なお、重珍はその後、大正八(一九一九)年に銀行を退職後、沖縄産業銀行八重山支店長(【2014年7月3日追記】「石垣市教育委員会市史編集課 八重山近・現代史略年表」の八重山近・現代史年表 明治12年~昭和20年8月14日までによれば同支店の開設は大正九(一九二〇年一月である)となり、鰹節製造業などに手を出すも不漁続きでうまくゆかずに家を手放すなどし、翌大正九年の経済恐慌(当時、沖縄ではこの経済恐慌が「そてつ地獄」と呼ばれたとある。蘇鉄は古来から沖繩の究極の救荒植物であったが処理を誤って食用すれば死亡するほどに有毒である。残酷乍ら言い得て妙であると言える)事業は失敗、大正十二年頃までに一家(母カマト他七人兄弟姉妹であった)は離散したものと推定されている(この大正九年十一月には父重珍と沖縄県八重山郡与那国町の新城ヨホシとの間に庶子の男子が生まれてもいる。その後の昭和九(一九三五)年十月に重珍は大阪市北区都島中通に戸籍を移しているが住んではいないようである。彼は昭和二八(一九五三)年四月、八十三歳で与那国で亡くなっている。バクさん五十歳の年であった)。バクさんと父の関係(その愛憎)は今一つ、はっきりしない。この牛の詩からは相応の肉親としての愛情は無論、感じられるものの、やはり、今は何かもやもやとしている。因みに、彼の母カマトは夫に先立つこと二年前の昭和二十六年六月にやはり、与那国の、しかし、『弟重四郎の家で死亡。その訃を聞いても帰る旅費もなく、一夜白湯を飲んで遙かに通夜をした』と年譜に記されるのとは、この父の死の記載、如何にも対称的な記載ではある。]

山之口貘 詩三篇  満員電車 / 胃 / 鼻

 満員電車

 

爪先立ちの

靴がぼやいて言った

踏んづけられまいとすればだ

踏んづけないでは

いられないのだが

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を変更した。】初出は昭和三六(一九六一)年三月十四日附『沖縄タイムス』。]

 

 胃

 

米粒ひとつも

はいっていないのだから

胃袋が怒りで

いっぱいなのだ

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。】初出は昭和三六(一九六一)年三月二十五日号『季刊 沖縄と小笠原』で、初出時は詩題が「胃袋」、次の「鼻」とともに掲載された。同誌は「沖縄協会」(公益財団法人沖縄協会。沖縄平和祈念堂の管理・運営などを行っている公益財団法人)の前身である特殊法人南方同胞援護会が発行していた機関紙。]

 

 鼻

 

その鼻がいいのだ

と答えたところ

鼻はあわてて

掌に身をかくした

祟り   山之口貘

 祟り

 

ひとたび生れて来たからには

もうそれでおしまいなのだ

たとえ仏になりすまして

あの世のあたりに生きるとしたところで

かかりのかからないあの世はないのだ

棺桶だってさることながら

おとむらいだのお盆だの

お寺のおつきあいだのなんだのとかかって

あの世もこの世もないのでは

はじまらないからおしまいなのだ

金はすでにこの世の生を引きずり廻し

あの世では死を抱きすくめ

仏の道にまでつきまとい

人間くさくどこにでも崇ってくるのだ

たとえまずしい仏の住む墓が

みみずのすぐお隣りに建ったとしても

ロハってことはない筈なのだ

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三六(一九六一)年六月号『小説新潮』。

 五行目「かかり」は「掛かり」で、物事をなすのに必要な費用。]

頭をかかえる宇宙人   山之口貘

 頭をかかえる宇宙人

 

青みがかったまるい地球を

眼下にとおく見おろしながら

火星か月にでも住んで

宇宙を生きることになったとしてもだ

いつまで経っても文なしの

胃袋付の宇宙人なのでは

いまに木戸からまた首がのぞいて

米屋なんです と来る筈なのだ

すると女房がまたあわてて

お米なんだがどうします と来る筈なのだ

するとぼくはまたぼくなので

どうしますもなにも

配給じゃないか と出る筈なのだ

すると女房がまた角を出し

配給じゃないかもなにもあるものか

いつまで経っても意気地なしの

文なしじゃないか と来る筈なのだ

そこでぼくがついまた

かっとなって女房をにらんだとしてもだ

地球の上での繰り返しなので

月の上にいたって

頭をかかえるしかない筈なのだ

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三六(一九六一)年六月十三日附『朝日新聞』で、その八日後の同年六月二十一日附『琉球新報』にも掲載された。]

昇天した歩兵   山之口貘

 昇天した歩兵

 

村ではぼくのことを

疎開と呼んでいた

疎開はたばこに困ると

東の家をのぞいては

たばこの葉っぱにありついて

米に困ると

西の家をのぞいて

閻の米にありついたりしたのだ

その日も疎開は困り果てて

かぼちゃの買い出しに出かけたのだが

途中で引き返して来ると

庭の片隅にこごみ

奉公袋に火をつけた

日本ではつまりその日から

補充兵役陸軍歩兵なんてのも

不要なものに

なったからなのだ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三六(一九六一)年七月三十一日附『新潟日報』夕刊であるが、掲載時の詩題は「昇天した歩兵 ―まもなく八月十五日だ―」。

「奉公袋」「帝国陸海軍と銃後」というサイトの「奉公袋」に『奉公袋は、陸軍において入営及び戦地に赴くとき、必需品を入れていった袋で軍隊手牒、勲章、記章、適任証書、軍隊における特業教育に関する証書、召集及び点呼令状、その他貯金通帳など応召準備、応召のために必要と認めるものを収容するように袋の裏側に記されている。またこのほかに遺髪、爪袋、遺言書封入などが収められたという。そして在郷軍人はこの袋を常に準備していつでも召集により戦争に行けるよう、意識を高めていた』と解説されてある(リンク先では実物のそれが写真で見られる)。即ち、この詩にはまさに十六年前の昭和二〇(一九四五)年八月十五日の景(疎開していた茨城県結城妻静江さんの実家である)が描かれているのである。敗戦のこの時、バクさん、四十二歳。【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。】

月見草談義   山之口貘

 月見草談義

 

昼間の明るいうちは眼をつむり

昨日の花もみすぼらしげに

萎びてねじれたほそい首を垂れ

いまが真夜なかみたいな風情をして

陽の照るなかをうつらうつら

夢から夢を追っているのだ

やがて日暮れになると朝が来たみたいに

露の気配でめをさますのか

ぼっかりと蕾をひらいて身ぶるいし

身ぶるいをしてはぽっかりと

黄色い蕾をひらくのだが

真夜なかともなれば一斉にめざめていて

真昼顔して生きる草なのだ

ぼくはそれでその月見草のことを

梟みたいな奴だと云うのだが

うちの娘に云わせると

パパみたいな奴なんだそうな


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。この注を追加した。】初出誌未詳。草稿のタイトルは「月見草談議」。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題では他では作品の評に類する内容に禁欲的な松下氏が珍しく、バクさんが「談義」と「談議」を厳密に使い分けていた(詩集「鮪に鰯」には後掲する「酔漢談義」がある)とする解説が載り、本作は元の草稿タイトルの『「談議」が適切』であると結論されておられる。この解題にはすこぶるお世話になっている関係上、是非、お買い求め戴いてお読みになられるよう、お願い申し上げる。]

癖のある靴   山之口貘

 癖のある靴

 

投げて棄てた吸殻の

火を追って

靴がそれを踏んづけたのだが

おもしろいことをする靴なのだ

いつもの癖で

止むを得なかったにしても

巷は雨でぬれているのだ



[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】
初出は昭和三六(一九六一)年九月九日附『琉球新報』。]

ぼろたび   山之口貘

 ぼろたび

 

季節はすでに黄ばんでいた

公園のベンチをねぐらにしている筈の

食うや食わずの詩人のかれが

めしを食いに行こうと来たのだ

食うや食わずにビルディングの

空室をねぐらにしている詩人のぼくが

どうなることかともじもじしていると

かれは片方のぼろたびを脱いで

逆さにそれを振ってみせたのだが

めし代ぐらいはあるとつぶやきながら

足もとの銀貨を拾いあげた


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、初出注を追加した。】初出は昭和三六(一九六一)年十月二十五日附『毎日新聞』。]

表札   山之口貘

 表札

 

ぼくの一家が月田さんのお宅に

御厄介になってまもなくのことなんだ

郵便やさんから叱られてはじめて

自分の表札というものを

門の柱にかかげたのだ

表札は手製のもので

自筆のペ字の書体を拡大し

念入りにそれを浮彫りにしたのだ

ぼくは時に石段の下から

ふり返って見たりして街へ出かけたのだ

ところがある日ぼくは困って

表札を取り外さないではいられなかった

ぼくにしてはいささか

豪華すぎる表札なんで

家主の月田さんがいかにも

山之口貘方みたいに見えたのだ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三六(一九六一)年十一月号『婦人之友』。「ペ字」の「ン」の字は、表記のように底本ではやや右寄りに明らかにポイント落ちで示されてある。誤植の可能性もあるが、一応、再現しておいた。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」ではそのような仕儀はなされておらず、普通に『自筆のペン字の書体を拡大し』である。

「月田さん」底本第四巻の辻淳氏の編になる年譜に、昭和二三(一九四八)年三月に戦前の昭和十四年(静江さんとの婚姻後二年目)から勤めてきた東京府職業安定所の職(生れて始めての、そしてただ一度の社会的な意味での定職であった)を退き、文筆一本の生活に入ったとあり、その四ヶ月後に上京(バクさん一家は昭和十九年に茨城県結城の妻静江さんの実家に本人も一緒に疎開、驚くべきことに東京まで四時間近くかけての汽車通勤を戦後も続けていた)、練馬区貫井(ぬくい)町の月田家に間借りしたとある。な、この詩と同じ「表札」という表題を持つ石垣りんの詩(持っているはずの詩集が見つからないので、後藤人徳氏の「人徳の部屋」内の石垣詩」からコピー・ペーストさせて戴いた)、

 

 表札

 

自分の住むところには

自分で表札を出すにかぎる。

 

自分の寝泊りする場所に

他人がかけてくれる表札は

いつもろくなことはない。

 

病院へ入院したら

病室の名札には石垣りん様と

様が付いた。

 

旅館に泊まつても

部屋の外に名前は出ないが

やがて焼場の鑵(かま)にはいると

とじた扉の上に

石垣りん殿と札が下がるだろう

そのとき私はこばめるか?

 

様も

殿も

付いてはいけない、

 

自分の住む所には

自分の手で表札をかけるに限る。

 

精神の在り場所も

ハタから表札をかけられてはならない

石垣りん

それでよい。

 

と、このバクさんの詩を並べて感懐を記された、五十嵐秀彦氏のブログ「無門日記」の表札行方」がなかなか面白い。お読みあれ。【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部に脱字あったのを補正した。】

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年九月及び十月 /  「海の旅」句群



浪のりの白き疲れによこたはる

 

浪のりの深き疲れに睡(ゐ)も白く

 

[やぶちゃん注:「浪のり」は船が大きな波のうねりに乗ることもいうが、私にはどうも「白き疲れ」「よこたはる」「睡も白く」(船の波乗りであれば眠くなる前に気持ちが悪くなろうし、それを「白き疲れ」と表現するだろうか?……しないとは言えぬか……船酔いのぼーっとした感覚は「白き疲れ」としてもおかしくないな)、そして続く句(この二句と次の句は同じ九月発行の『天の川』掲載の三句なのである)をセットに読んだ初読時、やはりこれは船上の詠ではなく、サーフィンとしての「浪のり」をし疲れた後の、白砂の浜での景であるとしか読めなかったである。

 因みに「浪のり」の本邦での起源はウィキの「サーフィン」で見ると、『江戸時代の文献に、庄内藩・出羽国領の湯野浜において、子供達が波乗りをしている様子を綴った記述や、「瀬のし」と呼ばれる一枚板での波乗りが行われたという記録が残っている。すなわち、現在の山形県庄内地方が日本の波乗りの文献的な発祥の地と見なせる』とある。但し、『現在の形式の日本でのサーフィンの発祥の地は、神奈川県藤沢市鵠沼海岸、鎌倉市、千葉県鴨川市、岬町太東ビーチと言われており、第2次大戦後日本に駐留した米兵がそれらのビーチでサーフィンをしたのがきっかけという説がある』とあり、ここでの「浪のり」というのも今のサーフィンのようなものとは大分様子の異なるもののようにも思われる。宮古島のサーフィンの歴史にお詳しい方の御教授を乞うものである。

……が……ところが、である。

……どうも残念なことに、これは、やはり、サーフィンなんどというのはトンデモ解釈で、やはり、船の「浪のり」=波乗り=ピッチングであるらしい。次の次の「しんしんと肺碧きまで海のたび」の私の注及び次の月の「海の旅」句群の注を参照されたい。……ちょっと淋しい気がしている……]

 

海燒の手足と我とひるねざめ

 

しんしんと肺碧きまで海のたび

 

[やぶちゃん注:これは謂わずと知れた鳳作の絶唱にして第一の代表作である。実はこれは底本では次の十月の発表句の中に配されてある。それは次の月の句群を見て戴けば分かる通り、この句がまず単独で九月の『天の川』の前の三句と一緒に示され(それと前三句との配列は不詳であるから、取り敢えずここでは最後に置いた)、翌月の『傘火』には、この「しんしんと」を含むまさに鳳作会「心」の「海の旅」句群五句が纏めて発表されたことによる(即ち、底本は基本が時系列編年体でありながら、こうした句群部分では編者による操作が行われているために正しく並んでいない箇所があるということである。これは今回の電子化で初めて気づいた。特にこの知られた鳳作の作でそれが行われていようとは想像だにしなかったのでちょっとショックである)。……そうして……そこではやはり知られたように船がまさに「浪のり」して「シーソー」を繰り返す景が二句も詠み込まれているのである。――残念ながら、やはり――前にあった「浪のり」の句のそれは、船の「波乗り」――ピッチングを指していると考えざるを得ないということになろう。但し、ここにお一人だけこれをやはり真正のサーフィンと解釈されている方がいることも附記しておきたい。それは何度も引いているあの前田霧人氏の「鳳作の季節」である。そこで霧人氏は『現在、「波乗り(サーフィン)」は夏の季語であるが、当時はまだ代表的な歳時記にも載録されておらず、既に彼が有季、無季にこだわらない新しい素材、新しい表現の開拓に意欲を見せていることが分かる』と述べておられるのである。少し、嬉しくなった。


 なお、前田霧人氏の「鳳作の季節」では、この句について、この鳳作の本句発表の二ヶ月前に発表されている川端茅舎の、

 

 いかづちの香を吸へば肺しんしんと

 

という句を掲げられ、鳳作の「新興俳誌展望」(『傘火』昭和九(一九三四)年)の中の「『走馬灯』」句評にある、『長い間病床にある茅舍氏の句には何時も珍しい感覺と異常な力とが漲みなぎつてゐる。茅舍氏の句とする對象は病床にあるせいか決して所謂新しい素材ではない。氏は常に平凡なる題材を、新しい感覺と力強い表現とで全く別個な新しい香氣あるものとされてゐる』(私の底本とする「篠原鳳作全句文集」所載のものを恣意的に正字化して示した)という叙述をも引かれて、『雲彦も生来体が頑健でなかったから、茅舎に共感する所は大なるものがあ』り、本句の誕生に茅舎のこの句が『大きな影響を与えたことは、両句を比較すれば誰の眼にも明らかなのである。それは、単に「しんしんと」、「肺」という言葉の共通点に留まらず、「平凡なる題材を、新しい感覚と力強い表現とで全く別個な新しい香気あるもの」としている所が共通するのである』と述べておられる。これはまさに正鵠を射た優れた評である。

 前に注した通り、以上四句は九月発行の『天の川』掲載句である。]

 

   海の旅

滿天の星に旅ゆくマストあり

 

船窓に水平線のあらきシーソー

 

しんしんと肺碧きまで海のたび

 

幾日はも靑うなばらの圓心に

 

幾日はも靑海原の圓心に

 

甲板と水平線とのあらきシーソー

 

 (註) シーソーは材木の兩端に相對し跨

     り交互に上下する遊戲。

 

[やぶちゃん注:鳳作畢生の句群であれば、全体を示した上で、最後に煩を厭わずに一括注することとする。まず、掲載誌であるが(発行は総て昭和九(一九三四)年。『現代俳句』は底本に示されたクレジットを号数と推定した)、

 滿天の星に旅ゆくマストあり   『天の川』十月/『傘火』十月

 船窓に水平線のあらきシーソー  『傘火』十月

 しんしんと肺碧きまで海のたび  『天の川』九月/『傘火』十月

 幾日はも靑うなばらの圓心に   『天の川』十月/『現代俳句』三号

 幾日はも靑海原の圓心に     『傘火』十月

 甲板と水平線とのあらきシーソー 『傘火』十月

である(最後の句の「註」も当然、『傘火』十月のもの)。

 以上から、この「海の旅」という前書きを持つ決定稿は『傘火』のそれと考えてよく、それは以下のようになる。

 

   海の旅

 

滿天の星に旅ゆくマストあり

 

船窓に水平線のあらきシーソー

 

しんしんと肺碧きまで海のたび

 

幾日はも靑海原の圓心に

 

甲板と水平線とのあらきシーソー

 (註) シーソーは材木の兩端に相對し跨り交互に上下する遊戲。

 

なお、「幾日はも靑海原の圓心に」の「はも」は終助詞「は」+終助詞「も」で、深い感動(~よ、ああぁ!)を表わす。

 これらとの連関性が、前月の「浪のり」の句に強く認められる(しかもそこには「しんしんと肺碧きまで海のたび」がプレ・アップされてもいる)ことから、やはり「浪のり」は乗船している船の波乗り、ピッチングであるということになる。お騒がせした。

【2013年3月30日追記】年譜によれば、この昭和九(一九四三)年十月、沖繩県立宮古中学校から鹿児島県立第二中学校教諭として転任しており、この時、俳号を「雲彦」から「鳳作」と改めたとある。また、当該年の年譜の転任記事の後には、

   《引用開始》

現在の宮古高校行進曲は、作詞作曲とも鳳作である。

    宮中行進曲

  一、香りも高き橄欖の

      ときはの緑かざしつつ

    希望の満てる清新の

      我が宮中を君知るや(以下六連まで続く)

   《引用終了》

とある(現在、個人的にこの楽曲については沖縄県立宮古高等学校に問い合わせを行っている)。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅷ 信濃抄四(4)



角あはす雄鹿かなし道の端

 

木犀の香や縫ひつぎて七夜なる

 

後の月縫い上げし衣かたはらに

 

[やぶちゃん注:「後の月」言わずもがな乍ら、「のちのつき」とは陰暦八月十五夜の月を初名月というのに対する九月十三夜の名月。十三夜月。十三夜。秋の季語である。]

杉田久女句集 157 娘たち――昌子と光子を詠む

 

椿色のマント着すれば色白子

    

[やぶちゃん注:「色白子」は「いろじろご」と読んでいよう。]

 

遊學の我子の布團縫ひしけり

 

[やぶちゃん注:【2014年6月3日 本注全面改稿】これはずっと後に載る「遊學の旅にゆく娘の布團とぢ」の極めて酷似した類型句で、しかも「遊學の旅にゆく娘の布團とぢ」の方は角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」で『〈昭和四年――昭和十年〉(創作年月未詳)』のパートにある。長女昌子は明治四四(一九一一)年八月二十二日生、次女の光子は大正五(一九一六)年八月二十二日生で、後に「光子県立小倉高女卒業」と前書する昭和八(一九三三)年作の「靑き踏む靴新らしき處女ごころ」以下二句が載ることから、昭和四(一九二九)年時点でも昌子満十八歳・光子十三歳である。

 さてここからちょっと迂遠な注になる。実は当初私は以上の事実から次のように注を続けていた。

『従って、この「遊學」というのが泊を伴う修学旅行のことであり、久女の縫っているのがそれに持参する蒲団であるとすればそれは光子の修学旅行である。高等女学校の修学旅行は四年で実施されたという体験者の記載がネット上にあるから、光子の高等女学校四年は昭和七(一九三三)年となり(高等女学校は五年制)、本句の創作年代が限定出来ることになる。また、当時ならば蒲団持参であったとして不思議ではない。穿って考えると、前の句の鮮やかな紅い「椿色のマント」を「着すれば色白子」に見えるというのは実は修学旅行のための装いででもあったものかも知れぬ。』

 ところが底本全集第二巻に載る昭和八(一九三三)年の「日記抄2」を見ると、小倉高等女学校を卒業後すぐに次女光子は合格していた東京の女子美術専門学校(現在の女子美術大学)に「遊學」していることが分かった(坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば夫宇内の強い『反対を押し切って』『送り出した』とある。以下の日記でもそれが分かる)。そしてその日記には冒頭(この部分は日付が入っていないが二月三日以前)から彼女の学資のための倹約の誓いが記され、

 

遊學の春まつ娘なり靴みがく

 

遊學やかゝとの高き春のくつ

 

という句が載る一方、三月五日に『ホトトギス』雑詠欄へ投句したものの一句として、

 

ひなかざる子の遊學は尚ゆりず

 

とある(「ゆりず」は「許りず」で下二段活用「許る」は、許される・許可が下りるの意味の古語である)。次に続く日附不詳(三月六日から十二日の間)の項に、『此頃光子出立のしたくのフトンわたぬき』『洗濯、テガミ、セン句、歳時記しらべ等にて、十二時前ねし夜はまれ也。多忙多忙』とか、『光子』『フトン布地五円也』とあり、三月二十日の条には『光子遊學の三年間は世とたち、習字と藝術著作等自分も勉強して暮さう。一点に集中すべし。』、続く三月二十一日の条では『光子の遊學問題を中心にして、夫との爭ひますます深刻。金も百円以上に入用なのに、夫はがみがみ叱言と朝夕の怒罵叱言のみにて、一銭も出してくれぬから私はしかたないなけなしの預金をはたいて皆出してやらねばならぬ。私はどこまでも光子の味方だ。いのりてすゝむ所、よき方法あらんか?』と綴る。光子の東京への「遊學の旅」立ちは三月二十八日であったが、『光子東上。/夜來より風雨はげしくかつ夫の異議出たれば、光子もしくしくなく。』『「いんきな出立ね」と光子のしづむもあはれ也。』光子を送った後、『誰もゐぬ家へ十二時歸宅して心うつろ、淋しさにたへず。』とある。また、三月二十九日の条にも後送の荷作りが語られ、『荷ごしらへす。/まだ布団團袋一個のこしあり。カルトンを入れる。』とまたしても「蒲團」が出るのである。以上からこの句は東京での生活のために母久女が布団を縫っているのであった。都合三度に亙ってこの注は改稿した。お騒がせの段、深謝するものである。]

 

六つなるは父の布團にねかせけり

 

[やぶちゃん注:この句は編年式編集の角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」には大正七(一九一八)年のパートに載る。前句の注に示した通り長女昌子は明治四四(一九一一)年八月二十二日生であるから、この句は前年大正六年末の冬(季語「布團」)の作と考えられる(満年齢で昌子六歳。次女光子は大正七年では数えでもまだ三歳である)。実は私は当初、作句年代の同定をいい加減にし、これらを完全な連作と思い込んだ上、さらに救いようもなく、「遊學」を姉昌子の方の修学旅行だと思い込み誤認し上に、

   *

……姉が修学旅行でいなくなって一人では寝られぬと光子がむづがるから「父の布團にねかせ」たと本句を読むなら、これら三句と次の夫婦で「右左に」一人次女の光「子をはさみ寢る」という一句は実は四枚の組写真、連作と読めるようになっているように私には感じられる。二句後に続く風邪をひいた娘(これも次女光子であろう)の連作の方にこれらを属させるとする考え方も出来ようが、であるならば、風邪をひいていることをこの句で示さなければ連作句としてはおかしい、失敗となると私は思う。久女にしてそんなミスはしない。大方の御批判を俟つものではある。

   *

などという(トンデモ)解釈をしていた。これはもうお笑いの世界であった。……]

 

右左に子をはさみ寢る布團かな

 

風邪の子や眉にのび來しひたひ髮

 

瞳うるみて朱唇つやゝか風邪に臥す

 

熊の子の如く着せたる風邪かな

 

その中に羽根つく吾子の聲すめり

 

笑み解けて寒紅つきし前齒かな

杉田久女句集 156 足袋



軒の足袋はづしてあぶりはかせけり

 

白足袋に褄みだれ踏む疊かな

 

絨毯に足袋重ねゐて椅子深く

2014/03/28

杉田久女句集 155 足袋つぐやノラともならず教師妻



足袋つぐやノラともならず教師妻

 

[やぶちゃん注:久女一番の代表句と言ってよい。それはスキャンダラスなものであり、そうしてあらゆる意味で久女伝説の濫觴ともなった句ではある。底本の久女の長女石(いし)昌子さんの編になる年譜の大正一一(一九二二)年の項によれば、『二月、「冬服や辞令を祀る良教師」(ホトトギス2)の句をめぐり家庭内の物議をかもす。このときの発表句は次の五句』として句を掲げる(以下、恣意的に正字化した)。

 

足袋つぐやノラともならず教師妻

 

遂に來ぬ晩餐菊にはじめけり

 

戲曲讀む冬夜の食器漬けしまゝ

 

枯れ柳に來し鳥吹かれ飛びにけり

 

冬服や辭令を祀る良教師

 

この連作の特に奇数句の流れは確かに鮮烈である。

 さて、大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)によれば、昭和二七(一九五二)年角川書店刊の「杉田久女句集」には、

 

足袋つぐや醜ともならず教師妻

 

として収めている、とある。ところが、私の所持する立風書房版全集には、この句形が何処にも載っていないのである。これは如何にも不思議なことである。しかも、この初出形を知る人は少ないと思う(不肖、私も今回、この電子化作業の中で実は初めて知った)。以下、この一句について徹底的に追究した倉田紘文氏の素晴らしい論文「杉田久女の俳句――ノラの背景――」(PDFファイル)に拠りながら簡単に述べたい。

 まず、この句は大正一一(一九二二)年の『ホトトギス』二月号に発表された句であるが、それが「杉田久女句集」(昭和二七(一九五二)年角川書店刊)では中七が、かく「醜ともならず」と推敲された形で入集されている、とある。ところが、再版本(昭和四四(一九六九)年角川書店刊)や私が底本としている立風書房全集では、初出の「ノラともならず」に再び改められている、とある。倉田氏は『久女は昭和二十一年に五十六歳で没しており、昭和二十七年の句集で「醜ともならず」となっていることについては、同句集が久女生前に自ら編集されていたということで理解できるが、再版及び全集で「ノラ」に改められたいきさつは分らない』と記しておられる。これについて倉田氏は注で小室善弘「鑑賞現代俳句」の言を引き、「ノラともならず」の斬新な措辞には及ばない、というような意見によって再び改められたのであろう、と記してはおられるが、後の全集に「醜ともならず」の句形が全く示されていないというのは、頗る奇怪と言わざるを得ない。また、作者の没後に『「ノラともならず」の斬新な措辞には及ばない、というような意見によって再び改められ』るなどということが行われているとしたら、これは文芸創作上、とんでもない行為ということになり、そう指示したのが何者であるのかは明らかにされなければならない。

 考証部分はリンク先の原典で確認して戴くとして(大変興味深い)、まず倉田氏は本句が大正一〇(一九二一)年作と同定され、さらに「ノラ」は実はイプセンの「人形の家」の主人公であると同時に、当時、スキャンダラスな事件として新聞で報道され巷を騒がせた夫との離縁状の公開、そして情人宮崎龍介(辛亥革命の志士宮崎滔天の長男)へと走った歌人柳原白蓮その人であった、という極めてリアリズムに富んだ魅力的な推理を展開しておられる。最後には更に、この句の製作時期を大正一〇(一九二一)年の冬十一月初旬から十二月初旬(もっと厳密にいうなら立冬の日から投句稿が十二月十五日までに『ホトトギス』に必着するまでの閉区間)でなくてはならないと、快刀乱麻切れ味鋭く同定なさってもおられるのである(個人的にこういう拘った手法はすこぶる私好みである)。

 ここで再び大野林火氏の評釈に戻ろう。氏はまず、この句集の句の『「醜」の意曖昧であ』るとして、「ノラ」の方を提示句としては採っている。これは無論、先の小室氏の謂いとともに肯んずるものではある。しかし彼は続いて、以下のように語り始めるのである(下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

 この句については久女の略歴に触れねばならない。煩をいとわず記せば、明治二十三年鹿児島に生れた赤堀久女は、幼時、大蔵省官吏であった父の任地、琉球、台湾等に転住、のち、束京に移り、名門お茶の水高等女学校を卒業した。同級にのち理学士三宅恒方に嫁いだ加藤やす子がいた。やす子の文才は同輩に重きをなし、久女はひそかにやす子にライバル意識を燃やした。卒業翌年(明治四十二年)、上野美術学校群画科出身の杉田宇内と結婚、収入は乏しくも、苦しくも、芸術に生きる画家の妻たり得たよろこびを久女は持った。結婚と同時に杉田宇内は小倉の中学の図画の教師となった。久女は芸術家の妻でありたかったが、良人の宇内はただ謹直な図画の教師であり、一枚の絵も描こうとしなかった。久女はそれを責めたが、良人は謹直な教師であることに満足した。久女は金子元臣の注釈つきの源氏物語をひろげ、ノートに注釈と首引きで意訳の文章を書き綴ってみずからを慰める。しかし、良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう遺子石昌子は「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」(『久女句集』あとがき[やぶちゃん注:ここは底本では割注でポイント落ち二行。])とその幼時を語るが、その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないかそのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する

 この句は田舎教師の妻として、凡々の日夜を送り、そこから脱しようとしない自分を嘲る句だが、その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろういずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり、それが有名にもしたのだが、親しめない。「足袋つぐや」に一抹のあわれさがただようにしても――。しかし、久女を知るには欠くことの出来ない句といえようか。

   《引用終了》

これをお読み戴いて、あなたはこの句の評釈が正統にして冷静なアカデミックな(私はアカデミズムをせせら笑う人間ではあるが、少なくともこれは俳句評論という公的認知の頂点にある書籍であることは疑いようがない。実際に多くの国語教師がこれを虎の巻とし、恰も自分が鑑賞したかのように(!)俳句の授業を実際にしている事実をかつて高校の国語教師であった私はよく知っている。詩歌ぐらい、一般の国語教師が避けようとする苦手な教材はないと言ってよく、実際に詩歌教材に関してオリジナルな授業案を創れる国語教師というのは一握りしかいないと思う。感想を書かせてお茶を濁す、やらずに読んでおきなさいというのはまだよい方で、受験勉強には不要という伝家の宝刀を抜いて堂々とスルーするのを正当化する同僚も悲しいことに実に多かった)「近代俳句の鑑賞と批評」と名打つに足るものであると思われるか? 私は断じて到底肯んじ得ないのである! それはまず、大野氏の引用が、大野氏自身が自分の中に創り上げてしまった歪んだ久女像に合わせて、極めて恣意的に情報のパッチ・ワークを行っているという事実に於いてである。

 氏は最初に、全集年譜にも載らず、倉田氏の緻密な論文にさえも出ない、加藤(三宅)やす子を登場させて、この句の遙かな淵源としている。三宅やす子(明治二三(一八九〇)年~昭和七(一九三二)年)は作家で評論家、本名は安子。京都市生。京都師範学校校長加藤正矩の娘で久女とは同い年である。お茶の水高等女学校卒業後、夏目漱石・小宮豊隆に師事、昆虫学者三宅恒方と結婚するも、大正一〇(一九二一)年に夫が死去すると文筆活動に入って、大正十二年には雑誌『ウーマン・カレント』を創刊、作家宇野千代とも親しかった人物である(以上はウィキの「三宅やす子」に拠る)。この句は先に示した通り、大正十一(一九二二)年二月の発表句であり、それは確かに三宅やす子の文壇デビューと軌を一にしているようには見える。新しい女性の文化進出の旗手として登場してくるかつてのライバルやす子を、この時、小倉の中学教師の妻であった久女が強く意識したということは十分あり得る話ではある。しかし何より二人が同級生であったのは東京女子高等師範学校附属お茶の水高等女学校を卒業した明治四〇(一九〇七)年以前の話で(大野氏は久女の卒業年を一年間違えているので注意)、ここまでに実に十五年以上の隔たりがある。この句の情念が、その後、連絡も文通もなかった(と思われる)、十五年も前の特定の同級生に対するライバル感情を濫觴とする、などという仮説は私なら鼻でせせら笑う(後文で「その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろう」と述べておられるが、これは一体、如何なる一次資料から論証されるものなのか? 亡き大野氏に訊いてみたい気が強くする。そのような特殊な偏執的淵源があるとすれば倉田論文も当然それを示さないはずはない)。ともかくもこの三宅やす子を枕、否、額縁とするこの評釈の論理展開や論理的正当性は――その推理の出典や情報元の提示が殆んどない上に、如何にもな推量表現だらけの文末を見ただけでも――失礼乍ら、どう考えても全くないと私には思われるのである。

 次に、夫宇内が美術の教師でありながら一枚の絵も描こうとせず、「久女はそれを責めたが、良人は謹直な教師であることに満足した」とあるが、これはどうも、久女の小説「河畔に棲みて」の「十一」辺りからの謂いであろうということに注意せねばならない。同小説は明らかなモデル私小説ではある。しかし『小説』である。大野氏は恰もこれらを何らか客観的な事実記録や杉田家をよく知る親族知人の確かな証言によって書いているかのように読める(但し、私は次に示す二冊の「杉田久女句集」に石昌子さんの書いた文章を読んでいないのでその中にそうした叙述が全くないと断言は出来ない)。しかし、続く叙述から見えてくるのは、これらは寧ろ、既に出来上がってしまっていた久女伝説に基づく尾鰭や曲解・噂の類いを都合よく切り張りした謂いであるという強い感触なのである。しかもそこで大野氏は「満足した」「良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう」と鮮やかな断定と、久女の心に土足で踏み込んで指弾するような推定を附しては、結局、読者をして――我儘な久女は強烈な欲求不満のストレスを抱え夫を追い詰め、病的なまでに只管にその利己的な鬱憤を溜めに溜めていったのだ――と思わせるように仕向けているとしか読めない点に注意しなければならない。

 続く長女昌子さんの引用であるが(この割注の書名は正確ではない。句集名は「杉田久女句集」である。また、ここには「あとがき」とあるから、これは大野氏の著作が後に改訂されたものと考えれば(私の所持するものは昭和五五(一九八〇)年刊の改訂増補八版である)、これは昭和二七(一九五二)年の角川書店版「杉田久女句集」ではない。何故なら、その巻末の石昌子さんの文章は「あとがき」という題名ではなく「母久女の思ひ出」であり、「あとがき」と題する昌子さんのそれは昭和四四(一九六九)年の角川書店版「杉田久女句集」の巻末にあるものだからである。但し、残念ながら私は両原本ともに所持しないので内容の確認は出来ない)、ここで大野氏は昌子さんの幼時の記憶として「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」という箇所をのみ採り、そこから畳み掛けるように「その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないか。そのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する」と、またしても久女の異様なヒステリー状態の想像を安易に開陳し、しかも「推察」という語で読者をナーバスで病的な久女像へと確実に導こうとしているのが見てとれる。

 ところが翻って、私が底本としている立風書房版全集の石昌子さんの編になる、まことに素晴らしい年譜の叙述を見ると、これ――相当に印象が違う――のである。これは無論、永年、異常なまでに歪曲された久女伝説に基づく久女像を正そうと努力されてきた昌子さん(底本全集出版の一九七九年当時で既に七十八歳であられた。ネット上の情報では既に鬼籍に入られている)の中で、美化された母親像への正のバイアスがかからなかったとは言わない。昌子さんご自身の人生経験も当然そこに加わった述懐ともなってはいよう(因みに御主人の石一郎氏(故人)はスタインベックの「怒りの葡萄」の翻訳で知られる米文学者)。しかしともかく、その叙述はどうみても大野氏が誘導するような――内部崩壊寸前の愛情の通わぬ夫婦や狂気へと只管走る悲劇の才媛の物語――なんぞでは、これ、全くないのである。

 幾つかの記載を見てみよう。

 昌子さんの母の記憶は『玩具を玩具箱にしまってくれた母、その箱が張り絵で美しかったこと、破いた絵本を和綴じにして人形の絵など描き、ワットマン紙で表紙をつくってもらった』という映像に始まり、小倉での生活は『この頃の宇内は釣やテニスを趣味とし、玄海の夜釣や沖釣などをたのしんだ。田舎育ち』(宇内の実家は愛知県西加茂郡小原)『の野性的な一面があり、久女の方はおだやかな人といえた』(大正三(一九一四)年の項)。翌五年から俳句にのめり込んでいった久女は、大正六年一月の『ホトトギス』台所雑詠に初めて五句掲載、虚子や鳴雪の好評を得て、大正八~九年まで句作はすこぶる順調であったが、他の注で述べるように大正九年八月の実父の納骨に赴いた信州で腎臓病を発症、東京の実家へ帰ったのを機に離婚問題が起きた。同年の項には『小倉での生活が痛ましすぎると実家では考えた。旅暮らしの家庭生活に波風が多く、二十代は泣いて暮らしたと久女はよく言ったが、編者にはおとなしい静かな印象しか残っていない』(当時久女三十歳)とある。翌大正十年七月に小倉へ戻るが、その項には以下のようにある(下線やぶちゃん)。

   《引用開始》

編者の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持を夜昼責めたてた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的な単純なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている。

   《引用終了》

「怒れば久女の方が強かった」という辺りはご愛嬌であるが、寧ろ、昌子さんはちゃんと真実をなるべく公平に語ろうとしていることが、ここからも逆に垣間見れるとも言えよう。これ以降、久女のキリスト教への接近・宇内の受洗・久女の教会からの離反、などが記されるが省略する(また、久女の人生を大きく狂わせ、まさに天地が裂けたに等しかった『ホトトギス』除名(昭和一一(一九三六)年十月)もあるが、これも宇内との関係ではないからこの注釈では記さない)。この頃から逝去するまでの部分の年譜上には、宇内との軋轢や具体な記載は殆んど書かれていない。敢えて附記しておくなら、昌子さんは昭和一六(一九四一)年に次女光子さんの結婚式のために上京して来た久女について、『精神に精彩なく、悲痛で胸が痛んだ』と記され、また最後の対面となった昭和一九(一九四四)年七月の上京(実母赤堀さよの葬儀のため)対面の項には、『何時にもなくあせりも消えて、落ちついていた』『「俳句より人間です」「私は昌子と光子の母として染んでゆこうと思う」「子供を大切に育てなさい」「もし句集を出せる機会があったら、死んだ後でもいいから忘れないでほしい」といっ』たとある。『自分に好意を持たない人とは没交渉だったにちがいないが、編者宅では子供を遊ばせてくれ、子どもにやさしかったし、「子供をあまり叱ってはいけない。のびのびした子に育てるように」と言いおいて帰った』とある。翌昭和二十年十月末に福岡市郊外大宰府の県立筑紫保養院に入院、翌昭和二一(一九四六)年一月二十一日、この病院で腎臓病の悪化により久女は亡くなった。満五十五歳であった(久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日生まれである)。夫宇内は小倉を引き上げて実家の愛知に戻ったがその際、久女の遺品は句稿・文章・原稿などを含め、宇内の手で収集整理がなされていた。この事実、夫宇内の優しさもしっかりと押さえておくべきことであろう(宇内は実際、当時の教え子たちからも非常に人気があったという)。宇内は昭和三六(一九六二)年五月十九日に七十八歳で亡くなった。

 さて、ここで、大野氏の物言いと昌子さんのこれらの叙述とを煩を厭わず再掲して比較してみよう(大野氏の割注と改行は除去した)。

《石昌子さんの叙述》

編者の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持を夜昼責めたてた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的な単純なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている。

《大野林火氏の叙述》

しかし、良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう遺子石昌子は「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」とその幼時を語るが、その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないかそのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する。この句は田舎教師の妻として、凡々の日夜を送り、そこから脱しようとしない自分を嘲る句だが、その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろういずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり、それが有名にもしたのだが、親しめない

   *

 前者は親しく久女の傍にいた肉親である長女の生(なま)の証言である。後者は赤の他人の、スキャンダラスなものを女に帰する傾向の強い普遍的な男性の属性を有する一人の男の(それが「俳人」であろうが何であろうが実は余り関係ない)、不完全な伝聞と、ただの憶測に基づく記述である。

 先に述べた昌子さんの母に対するバイアスを考慮に入れるとしても、この叙述は同一の夫婦の心的複合を叙述しながら、ほぼ正反対のそれとなっているといってよい。そうしてこれは、単に――母と娘対女と男――の感じ方の相違――どころの騒ぎではなく(但し、女流俳人に対する評価にはこの評者の側の性差の問題が「絶望的」なまでに影響すると私は思っている。これは女流歌人や小説家等よりも、シンボリックな要素が大きい俳句の場合、遙かに「絶望的」に顕著なのである)、明らかに――この大野林火氏の認識そのものに致命的な誤りがある――としか私には言いようがないのである。

 大野林火(明治三七(一九〇四)年~昭和五七(一九八二)年)は、まさに昌子さんの言った「亭主関白ともいえる時代」に生きた〈男〉の俳人である。そうした彼にして「いずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり」「親しめない」という如何にもなそっけなく、乱暴な評言は反対に実に私には腑に落ちるのである。その代わりに、異様なまでに、ここまでの枕や分析が長いのは、まさに〈男〉の俳人としての大野が(単なる俳人としてではない!)〈女〉としての久女(「女の俳人としての久女」ではない!)を断罪しているに過ぎぬからである。私は過去現在未来を通して、少なくともこの句に対する大野氏のこの「鑑賞と批評」は「鑑賞」なんぞでも「批評」なんどでもない、只管、バレだらけになった小道具をふんだんに使った、おぞましく誤った、男の女への、物言いの安舞台でしかないと断ずるものである。]

杉田久女句集 154 炭つぎ



炭つぐや髷の粉雪を撫でふいて

 

炭ついでおくれ來し人をなつかしむ

 

[やぶちゃん注:この二句、中七の確信犯の字余りが如何にも久女らしく、心地よい。しかも……「つぐ」が――次の驚天動地の――あの句の――凄絶な予兆となっている――]

杉田久女句集 153 櫛卷に目の緣黑ずむ冬女



櫛卷に目の緣黑ずむ冬女

 

[やぶちゃん注:大正九(一九二九)年三十歳の時の句。「櫛卷」女性の髪の結い方の一つで、鬢(びん)・髱(たぼ)・前髪・髷(まげ)などを紐で結んだり成形することをせずに全体に一体として崩し、その束ねた髪の毛先を一枚の櫛の歯に巻きつけて、頭頂部で束ね留めただけの簡単なもの。洗髪後などの仮の髷。若い女は櫛の棟(むね)を上にして根を高く作り、年増は櫛の歯を上に根は幾分低く結った。]

かれの奥さん   山之口貘

 かれの奥さん

 

煙草を吸えば吸うたんびに

吸いすぎるだのなんだのと来て

いまにも肺癌とかに

なるみたいなことを云い

酒を飲めば飲むたんびにだ

飲みすぎるんだのなんだのと来て

すぐにも胃潰瘍だか胃癌だかで

死ぬより外にはないみたいなことを云い

帰りが夜なかになったりすると

おそすぎるんだのなんだのとはじまって

隠し女があるんだのとわめき立て

安眠の妨害をするとのことなのだ

それでかれは昨夜もまた

なぐりつけたと云うのだが

亭主のふるまいはとにかくとしてだ

よく似た奥さんもあるもので

うちのだけではないようだ

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部を手直しした】初出は昭和三六(一九六一)年十二月号『小説新潮』。

バクさんには

だからなんだと云われるだろうが

バクさんは

この二年後の一九六三年七月十九日に

 

胃癌であの世にいってしまったのだ――]

十二月のある夜   山之口貘

 十二月のある夜

 

十二月のある夜 金のことで

ホテルのマダムを詩人が訪ねた

マダムはそっぽを向いて言った

お金のことなんて

詩人らしくもないことです

俗人の口にするみたいなことを

詩人がおっしゃるもんじゃないですよ

お金に用のないのが詩人なんで

詩人は貧乏であってこそ

光も放ち尊敬もされるんです

詩人はそこでかっとなり

借りに来たことも忘れてしまって

また一段と光を添えていた


[やぶちゃん注:【2014年7月追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を追加した。】初出は昭和三六(一九六一)年十二月十五日号『週刊朝日』及び同年十二月十五日附『琉球新報』(但し、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題に掲載紙の末尾に『週刊朝日十二月十五日号より』という記載があり、実際にはクレジット以前に発行された前者からの転載であるということが分かる)。草稿の詩題は「十二月のある日」であるらしいことが松下氏「稿本・山之口貘書誌(詩/短歌)」のデータにある。]

元旦の風景   山之口貘

 元旦の風景

 

正月三ヵ日はどこでも

朝はお雑煮を

いただくもので

仕来たりなんじゃありませんか

女房はそう言いながら

雑煮とやらの

仕来たりをたべているのだ

ぼくはだまって

味噌汁のおかわりをしたのだが

正月も仕来たりもないので

味噌汁ぬきの朝なんぞ

食ったみたいな

感じがしないのだ


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三七(一九六二)年一月号『全繊新聞』。]

ある家庭   山之口貘

 ある家庭

 

またしても女房が言ったのだ

ラジオもなければテレビもない

電気ストーブも電話もない

ミキサーもなければ電気冷蔵庫もない

電気掃除機も電気洗濯機もない

こんな家なんていまどきどこにも

あるもんじゃないやと女房が言ったのだ

亭主はそこで口をつぐみ

あたりを見廻したりしているのだが

こんな家でも女房が文化的なので

ないものにかわって

なにかと間に合っているのだ


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、初出注を追加した。】初出は昭和三七(一九六二)年三月号『電信電話』。同誌は日本電信電話公社総裁室広報課の月刊誌。]

首をのばして   山之口貘

 首をのばして

 

出版記念会と来ると

首をすくめてそれを見送り

歓送会を来ると

首をすくめてそれを見送り

祝賀会と来ると

首をすくめてそれを見送り

歓迎会とくると

首をすくめてそれを見送り

会あるたんびに

首をすくめては

いろんな会を見送って来た

ある日またかとおもって

首をすくめていると

いいえお顔だけで結構なんです

会費の御心配など

いらないんですと言う


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三七(一九六二)年六月号『小説新潮』。]

核   山之口貘

 核

 

もうお年ですからと言えば

なにがこの青二才がと

老人は怒ってしまったのだが

年甲斐もない顔をしてまで

握っていたいもの

それはつまり若さなのだ



[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三七(一九六二)年十月二十九日号『全繊新聞』。同誌は全国繊維産業労働組合同盟の中央機関紙。

 私は思うのだが――こう言い切れるところこそ――バクさんの若さ――詩人たる由縁――なのだなぁと――思うのだなぁ――]

飯田蛇笏 靈芝 昭和七年(七十二句) Ⅴ



花とつて臘白の頰や墓詣

 

[やぶちゃん注:「臘白」不詳。従って句意汲めず。識者の御教授を乞う。蛇笏に散見されるホラー調の句から考えれば、凄絶に抜けるような白さを持った墓参の女の頰を「白蠟(びゃくろう)」と表現したものとも考えたが、底本自体がこの「臘」であること(「臘」に「蠟」の意はない)、文字列が「臘白」であるのが不審。]

 

盆過ぎのむらさめすぐる榛の水

 

[やぶちゃん注:「榛」は音「ハン」、落葉低木のブナ目カバノキ科ハシバミ属 Corylus ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を指すが、実は本邦ではしばしば全くの別種である落葉高木のブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica に誤って当てる。この光景は村雨の後に垂れ落ちてくる雨滴を詠んでいるもののように思われ、後者を指しているか。]

 

瀧川に沿うたる旅や蟬しぐれ

 

夏菊に透垣をうつ狐雨

 

神農にさゝげて早き胡瓜かな

 

[やぶちゃん注:この句、篠原鳳作昭和八(一九三三)六月発表の、彼の俳句開眼の句とされ、代表作としても知られ、私も好きな一句(リンク先は私の電子テクスト)、

 

 炎帝につかへてメロン作りかな

 

と非常によく似ているように思われる。これはちょっと偶然とは思われない。鳳作のそれは、実はこの蛇笏のモノクロームの画像を、確信犯で総天然色ハレーション化させたインスパイアだったのではあるまいか?]

 

砂丘沃ゆ西瓜の黝き蜑の晝

 

[やぶちゃん注:「沃ゆ」は「こゆ」(肥ゆ)、「黝き」は「くろき」と訓じていよう。「黝」は青黒い色をいうから色彩は自然。この句、前の句と初出誌が同一かどうかは分からぬが、どうであろう、

 

神農にさゝげて早き胡瓜かな

砂丘沃ゆ西瓜の黝き蜑の晝

炎帝につかへてメロン作りかな

 

と三句並べてみると、ますます私には私の推測が確かなものに思われてくるのだが……。]

 

採る茄子の手籠にきゆアとなきにけり

 

葉びろなる茄子一ともとの走り花

 

[やぶちゃん注:「走り花」不詳。茎から逸れて出た花か? 早咲きの謂いでは実がなっているからおかしい。識者の御教授を乞うものである。]

 

格子戸に鈴音ひゞき花柘榴

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年八月

   ひまはり

向日葵の照り澄むもとに山羊生るる

 

向日葵と蟬のしらべに山羊生れぬ

 

向日葵の向きかはりゆく靑嶺かな

 

向日葵の日を奪はんと雲走る

 

[やぶちゃん注:以上の四句は八月発行の『天の川』及び同月発行の『傘火』掲載の句であるが、実は底本ではこれらの前の七月発行の『天の川』に載る「向日葵は實となり實となり陽は老いぬ」の前書「ひまわり」が、これら四句を含む連作の前書である旨の編者注記が載る。しかし、月違いの発表句の連作、それも「向日葵は實となり……」一句だけを載せて『連作』というのは如何にも解せない。さらに言えば、向日葵連作なら「向日葵は實となり……」の前にある「夕立のみ馳けて向日葵停れる」(更に言わせてもらうならその二句前の「向日葵の照るにもおぢてみごもりぬ」も)「ひまわり」の連作中の句であると言っておかしくない(何と言ってもこれらは総て同じ七月号『天の川』所載句なのである)。これは恐らく、七月号の「向日葵は實となり……」の単独一句の前には「ひまわり」と言う前書があり、そして改めて八月号のこの四句の前にも今度は連作としての前書「ひまわり」があるのであろう。全集として纏める際の手間を省いたものであろうが、如何にも違和感のある仕儀と言わざるを得ない。そこで私のテクストでは改めて「ひまわり」という前書を附させて貰った。[やぶちゃん注:以上の四句は八月発行の『天の川』及び同月発行の『傘火』掲載の句であるが、実は底本ではこれらの前の七月発行の『天の川』に載る「向日葵は實となり實となり陽は老いぬ」の前書「ひまわり」が、これら四句を含む連作の前書である旨の編者注記が載る。しかし、月違いの発表句の連作、それも「向日葵は實となり……」一句だけを載せて『連作』というのは如何にも解せない。さらに言えば、向日葵連作なら「向日葵は實となり……」の前にある「夕立のみ馳けて向日葵停れる」(更に言わせてもらうならその二句前の「向日葵の照るにもおぢてみごもりぬ」も)「ひまわり」の連作中の句であると言っておかしくない(何と言ってもこれらは総て同じ七月号『天の川』所載句なのである)。これは恐らく、七月号の「向日葵は實となり……」の単独一句の前には「ひまわり」と言う前書があり、そして改めて八月号のこの四句の前にも今度は連作としての前書「ひまわり」があるのであろう。全集として纏める際の手間を省いたものであろうが、如何にも違和感のある仕儀と言わざるを得ない。そこで私のテクストでは改めて「ひまわり」という前書を附させて貰った。

 なお、これらの「向日葵」連作は鳳作にとってエポック・メーキングなものとなった。前田霧人氏の「鳳作の季節」によれば、『天の川』の編集責任者であった北垣一柿が『天の川』八月号の「軽巡邏船(一)」でこの第一句を「雲彦時代―断じて夢ではなさそうである。」と絶賛、『むき[やぶちゃん注:太字は引用元では傍点「ヽ」。]になってしかも句としてのこの静謐、用語、音律、共にきわだった特異性を有しない。此処が私にとっては尚更うれしいのである』と述べ、『次いで、波郷が「俳句研究」十月号の「『天の川』に与う」で、これら一連の向日葵の句を取り上げ、一柿の評に共感を示すと共に、「晦渋ならざる天の川作家とは雲彦[やぶちゃん注:太字は引用元では傍点「・」。]氏の如きをいうのである。」と評価する。「馬酔木」、「天の川」が甘美・晦渋論争で応酬している間も、若い波郷と雲彦はこうしてお互いを認め合う。雲彦の作品が「傘火」、「天の川」以外から評価を受けるのは恐らくこれが初めてであり、しかも、それが総合誌「俳句研究」

に掲載されたのである。彼の名が全国に知られるようになる端緒であった』と記しておられる。

 

   山路

草苺あかきをみればはは戀し

 

[やぶちゃん注:「草苺」バラ目バラ科バラ亜科 Rubeae 連キイチゴ属 Rubus subg. Idaeobatus 亜属クサイチゴ Rubus hirsutus 。グーグル画像検索Rubus hirsutus。私も懐かしい……白い花の甘い小さな赤いつぶつぶの実……裏山でよく採って食べたね、母さん……]

 

一碧の水平線へ籐寢椅子

 

[やぶちゃん注:以上、六句は八月の発表句。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅶ 信濃抄四(3) 增面に八月の月の落ちかかる

  奈良二月堂に靑衣女人の能を觀る

增面に八月の月の落ちかかる

 

[やぶちゃん注:「靑衣女人の能」「靑衣女人」は「しやうえによにん(しょうえにょにん)」と読む。これは土岐善麿作になる喜多流の新作能。不比等氏のブログ「奈良」の記事に司馬遼太郎の「街道をゆく・奈良散歩」に、まさにこの昭和一八(一九三三)年十月六日に二月堂で喜多実により演じられたとある。私は見たことはないが、これは東大寺二月堂で三月一日から十五日(旧暦では二月)に行われる修二会の中の、古いエピソードに基づくものであろう。ウィキ修二会の「大導師作法と過去帳読誦」の項に、『初夜と後夜の悔過は「大時」といわれ特別丁寧に行われ、悔過作法の後に「大導師作法」「咒師作法」を』修し、『大導師作法は聖武天皇、歴代天皇、東大寺に縁のあった人々、戦争や天災に倒れた万国の人々の霊の菩提を弔うとともに』、為政者が『天下太平、万民豊楽をもたらすよう祈願する』ものとあり、『初夜の大導師作法の間には「神名帳」が読誦される。これも神道の行事で』、一万三七〇〇余柱の『神名が読み上げられ呼び寄せる(勧請)。お水取りの起源となった遠敷明神は釣りをしていてこれに遅れたと伝えられている』。そして三月五日と十二日の二回『過去帳読誦が行われる。過去帳では聖武天皇以来の東大寺有縁の人々の名前が朗々と読み上げられる』とあって、そこに以下のようなエピソードが書かれている。

   《引用開始》

これには怪談めいた話がある。鎌倉時代に集慶という僧が過去帳を読み上げていたところ、青い衣を着た女の幽霊が現れ、

「など我が名をば過去帳には読み落としたるぞ」

と言った。なぜ私の名前を読まなかったのかと尋ねたのである。集慶が声をひそめて「青衣の女人(しょうえのにょにん)」と読み上げると女は満足したように消えていった。いまでも、「青衣の女人」を読み上げるときには声をひそめるのが習わしである。

   《引用終了》

水墨画作家杉崎泉照(せんしょう)氏のブログ「水墨画作家 杉崎泉照の日常」の青衣の女人考の記事に、『ちなみに、あからさまに名前を呼べないがかなり高い位まていった人物「藤原薬子」をわたしは挙げたが、では、このころの「礼服」を「衣服令」に照らしてみるに、「緑色」を含む「青い色」の衣は「薬子」にふさわしからぬ、低位の色』。『薬子は死後「冠位」を剥奪されているが、この「青衣の女人」という言葉が「恩赦」を表しているとすれば、「改めて低位の縹色」を身につけて修二会に参列してもおかしくないかもしれない』とある(最初の箇所の先行記事は)。日本画家であられるだけに色の問題も語っておられ、興味深い。

「增面」「ぞうめん」と読んでいるか。能面の増女(ぞうおんな)のことであろう。「イノウエコーポレーション」の「能面ホームページ」の女」に解説と写真が載る。

 さても私は奈良も能も不案内なれば、これまでと致す。]

杉田久女句集 152 唇をなめ消す紅や初鏡


唇をなめ消す紅や初鏡

杉田久女句集 151 冬川やのぼり初めたる夕芥



冬川やのぼり初めたる夕芥

 

[やぶちゃん注:私の偏愛の句。写生とは単なる実景ではない。タルコフスキイ風に言えば、それをスカルプティング・イン・タイムする瞬間の詩人の心象として焼き付けてこそ、その風景はまさに写「生」として「生」を享けるのだと思う。]

杉田久女句集 150 枯野路に影かさなりて別れけり

枯野路に影かさなりて別れけり

杉田久女句集 149 寒林の日すぢ爭ふ羽蟲かな



寒林の日すぢ爭ふ羽蟲かな

 

[やぶちゃん注:「蟲」は底本「虫」。しかしこの句の場合、断然、「虫」ではなく「蟲」でなくてはならぬ。]

杉田久女句集 148 寒風に葱ぬくわれに絃歌やめ



寒風に葱ぬくわれに絃歌やめ

 

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年二十九の時の作。「絃歌」の「絃」は広く和楽器の琵琶・琴・三味線などの弦楽器であるが、特に三味線を弾き鳴らして歌を謳う、「絃歌の巷(ちまた)」「絃歌さんざめく傾城の街」という風に用いるような、町屋や遊郭での遊興のさまをいう。私はこの「やめ」という命令形に久女を強く感ずる。]

杉田久女句集 147 寄鍋やたそがれ頃の雪もよひ


寄鍋やたそがれ頃の雪もよひ

杉田久女句集 146 北風



更けて去る人に月よし北の風

 

北風に訪ひたき塀を添ひ曲る

 

夫留守や戸搖るゝ北風におもふこと

 

北風の藪鳴りたわむ月夜かな

杉田久女句集 145 初凪げる湖上の富士を見出でけり



初凪げる湖上の富士を見出でけり

 

[やぶちゃん注:「初凪げる」「初凪」は一般には「はつなぎ」で、元日の風も波もない穏やかな海や湖の様をいう新年の季語であるが、私は韻律上、「そめなげる」と読みたくなる。なお、逆さ富士を写すところからは富士五湖の孰れかと考えられ、そうすると在京していた大正一〇(一九二一)年の年初の嘱目吟かとも思われるが、病み上がりの久女でもあり、不審。]

桃の花 山之口貘

  桃の花

 

いなかはどこだと

おともだちからきかれて

ミミコは返事にこまったと言うのだ

こまることなどないじゃないか

沖縄じゃないかと言うと

沖縄はパパのいなかで

茨城がママのいなかで

ミミコは東京でみんなまちまちと言うのだ

それでなんと答えたのだときくと

パパは沖縄で

ママは茨城で

ミミコは東京と答えたのだと言うと

一ぷくつけて

ぶらりと表へ出たら

桃の花が咲いていた

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を一部追加した。】初出は昭和三八(一九六三)年二月二十一日号『家庭通販』(同誌と同名の信販会社の詳細は不明である)。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題によれば、『同面に岡田譲のエッセイ「桃の節句」を掲載。「桃の花」も企画のひとつとして掲載されたか』という非常に興味深い推理が記されてある。則ち、この詩は桃の節句に合わせてと所望された一種の題詠のような、バクさんの詩の中では超例外的な一篇である可能性があるということである。新全集は清書原稿によるが異同はない。

 「ミミコ」はバクさんの長女山口泉さん(昭和一九(一九四四)年生まれ)の愛称で、しばしば詩に登場するのだが、実は今日の今日まで何故「ミミコ」なのかに疑問を持ったことがなかった。後掲される詩「ミミコ」によれば、これは「隣り近所」の子供たち(?/私の推定)が「泉(いずみ)」という「子」を持たない女子名が当時はやや奇異で(?/これも私の推定)、「いずみ」という発音がやや面倒臭かったものか(?/これも私の推定)、「この子のことを呼んで」初めは「いずみこちゃん」だったものが、「いみこちやん」「いみちゃんだのと来てしまって」しまいには「泉にその名を問えばその泉が」「すまし顔して」「ミミコと答える」ようになってしまったとあるから、これは周囲の子らと泉さん本人が選び取った綽名であるらしい。実に面白い。

 本詩は前後に故郷沖繩への帰省時の感懐を詠んだ詩があることと、会話から詩中の泉さんは小学生(昭和三四(一九五九)年十二月発行の『随筆サンケイ』掲載の「娘の転校」によれば、ミミコさんは私立大学の付属小学校に通っておられたことが分かる)であるが、初出時にはミミコさんは既に十四歳(彼女は三月生まれ)になっており、以上からこの詩は有意な回想詩であることが分かる(先に示した通り、詩集刊行時に泉さんは二十歳であった)。彼女の口振りからは小学校中高学年で、昭和二十年代の終わりに相当する感じであり、バクさんの推敲が実に数年に及ぶものであることがまたここで知れるのである。]

2014/03/27

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 三ケ岡

    ●三ケ岡

眞名瀨(まなせ)の東に續ける海濱なり、葉山村に屬す、東鑑に佐賀岡と記すもの是なり。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

東鑑曰養和元年六月十九日武衛爲納凉逍遙渡御三浦上總權助廣常者依兼日仰恭會佐賀岡濱郎從五十餘人悉下馬各平伏沙上廣常安轡而敬屈于時三浦十郎義連令候御駕之前に示可下馬之由廣常云公私共三代之間未成其禮者

[やぶちゃん注:現在の一色海岸。バス停に「三ヶ丘」公営駐車場に「三ヶ岡駐車場」の名が残る。

「眞名瀨」現在は「しんなせ」と読む。森戸の北の鼻の東側の海岸をいう。サイト「花の家」のページが附近の地図も写真もあって一目瞭然。

「吾妻鏡」の引用はやや不備があり、面白い顛末部分がカットされているので、「吾妻鏡」の養和元・治承五(一一八一)年六月十九日の条全文を以下に示す。

 

〇原文

十九日甲子。武衞爲納凉逍遙。渡御三浦。彼司馬一族等兼日有結搆之儀。殊申案内云々。陸奥冠者以下候御共。上總權介廣常者。依兼日仰。參會于佐賀岡濱。郎從五十余人悉下馬。各平伏沙上。廣常安轡而敬屈。于時三浦十郎義連令候御駕之前。示可下馬之由。廣常云。公私共三代之間。未成其禮者。爾後令到于故義明舊跡給。義澄搆盃酒垸飯。殊盡美。酒宴之際。上下沈醉。催其興之處。岡崎四郎義實所望武衞御水干。則賜之。依仰乍候座著用之。廣常頗嫉之。申云。此美服者。如廣常可拜領者也。被賞義實樣老者之條存外云々。義實嗔云。廣常雖思有功之由。難比義實最初之忠。更不可有對揚之存念云々。其間互及過言。忽欲企鬪諍。武衞敢不被發御詞。無左右難宥兩方之故歟。爰義連奔來。叱義實云。依入御。義澄勵經營。此時爭可好濫吹乎。若老狂之所致歟。廣常之體又不叶物儀。有所存者。可期後日。今妨御前遊宴。太無所據之由。再往加制止。仍各罷言無爲也。義連相叶御意。倂由斯事云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十九日甲子。武衞、納涼逍遙の爲に三浦に渡御す。彼の司馬一族等は兼日(けんじつ)に結搆の儀有りて、殊に案内申すと云々。

陸奥冠者以下、御共に候ず。上総權介廣常は、兼日の仰せに依つて、佐賀岡の濱に參會す。郎從五十余人悉く下馬し、各々沙上に平伏す。廣常、轡を安じて敬屈(きやうふく)す。時に三浦十郎義連(よしつら)、御駕の前に候ぜしめ、下馬すべきの由を示す。廣常云はく、

「公私共に三代の間、未だ其禮を成さず。」

てへり。伱(しか)る後、故義明舊跡に到らしめ給ふ。義澄、盃酒垸飯(わうばん)を搆へ、殊に美を盡す。酒宴の際、上下沈醉して、其の興を催すの處、岡崎四郎義實、武衞の御水干(ごすいかん)を所望す。則ち之を賜はる。仰せに依つて座に候じ乍ら之を著用す。廣常、頗る之を嫉(ねた)み、申して云はく、

「此の美服は廣常がごときが拜領すべき者なり。義實の樣なる老者に賞せらるの條、存外。」と云々。

義實、嗔(いか)りて云はく、

「廣常、功有るの由を思ふと雖も、義實、最初の忠に比べ難し、更に對揚(たいやう)の存念有るべからず。」

と云々。

其の間、互ひに過言に及び、忽ち鬪諍(とうじやう)を企てんと欲す。武衞、敢へて御詞を發せられず。左右(さう)無く、兩方を宥(なだ)め難きの故か。爰に義連、奔(はし)り來り、義實を叱(しつ)して云はく、

「入御に依つて、義澄、經營を勵ます。此の時、爭(いかで)か濫吹(らんすい)を好むべけんや。若しや老狂の致す所か。廣常の體(てい)、又、物の儀に叶はず。所存有らば、後日を期(ご)すべし。今、御前の遊宴を妨ぐるは、太だ據所(よんどころ)無し。」

の由、再往(さいわう)、制止を加ふ。仍つて各言を罷(や)めて無爲(ぶゐ)なり。義連、御意に相ひ叶ふこと、倂(しかしなが)ら斯の事に由ると云々。

 

・「司馬」三浦介の「介」の唐名。

・「兼日」その日より前。

・「陸奥冠者」毛利(源)頼隆(平治元(一一五九)年~?)。頼朝の曽祖父源義家七男陸奥七郎義隆の三男。以下、ウィキの「源頼隆」に拠る。父義隆が相模国毛利庄を領していたことから毛利頼隆とも呼ばれる。信濃国水内郡若槻庄を領してからは若槻を号した。平治の乱で父義隆は竜華越で源義朝の身代わりとなって討死、源氏が敗北すると平家方による源氏の縁者に対する厳しい探索が行われ、生後五十日余りの乳飲み子であった頼隆も捕えられ、翌年、下総国の豪族千葉常胤の下に配流された。常胤は源氏の貴種である頼隆を庇護し、大切に育てた。治承四(一一八〇)年八月に挙兵した頼朝は石橋山の戦いに敗れて房総に逃れたが、この時いち早く頼朝への加勢を表明していた千葉常胤の館に入った。九月十七日、常胤は頼隆を伴って頼朝の前に伺候し、頼隆を用いるよう申し入れ、頼朝は頼隆が源氏の孤児であることに温情を示し、大軍を引き連れて随身した常胤よりも上座に据えるなどの厚遇を施したという(この時、頼隆は満二十一歳、頼朝は三十三歳)。その後も源氏一門として遇され、文治元(一一八五)年九月三日に頼朝が父義朝の遺骨を勝長寿院に埋葬した際には遺骨を運ぶ輿を頼隆と平賀義信に運ばせ、頼隆・義信・惟義のみを御堂の中に参列させている。建久元(一一九〇)年十月の頼朝上洛、建久六(一一九六)年三月の東大寺落慶供養などにも随行しており、頼朝の死後は所領の信濃国若槻庄に下って従五位下伊豆守に叙せられている。

・「三浦十郎義連」佐原義連(さわらよしつら ?~建仁三(一二〇三)年)。三浦義明末子。義澄は兄。三浦氏の本拠相模国衣笠城東南の佐原(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居住していたため佐原氏を称した。ウィキの「佐原義連」によれば、『治承・寿永の乱では一ノ谷の戦いで源義経率いる搦手軍に属し、「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下りた武勇が『平家物語』に描かれて』おり、文治五(一一八九)年の『奥州合戦にも従軍し、その功により、陸奥国会津を与えられ』た。同年の北条時政の子時房の元服の際には頼朝の命により烏帽子親ともなっている。建久三(一一九二)年の頼朝上洛にも従い、『左衛門尉に任ぜられる。関東御領遠江国笠原荘の惣地頭兼預所も務めた』とあって、末尾の頼朝の信任の厚かったことも分かる。『なお、三浦氏の庶流である佐原氏は、その多くが』宝治元(一二四七)年の宝治合戦で宗家三浦氏とともに滅んだが、『北条氏方に付いた佐原盛時が残り、後に相模三浦氏として再興した。また、鎌倉時代から会津に分かれた庶流は蘆名氏を称して有力な戦国大名となった』とある。

・「岡崎四郎義實」(天永三(一一一二)年~正治二(一二〇〇)年)は三浦義明の弟で三浦氏庶家岡崎氏の祖。相模国大住郡岡崎(現在の平塚市岡崎及び伊勢原市岡崎)を領し、岡崎氏を称した。参照したウィキの「岡崎義実」よれば、『三浦氏は古くからの源氏の家人で、義実は忠義心厚く平治の乱で源義朝が敗死した後に鎌倉の義朝の館跡の亀谷の地に菩提を弔う祠を建立している。義朝の遺児源頼朝の挙兵に参じ石橋山の戦いで嫡男の義忠を失ったが、挙兵直後の頼朝をよく助け御家人に列した。晩年は窮迫したが』、八十九歳の長寿を全うした、とある。また、頼朝が挙兵した際には、嫡男の与一義忠とともに直ちに参じており、『挙兵を前に義実は源氏の御恩のために身命を賭す武士として、特に頼朝の部屋に呼ばれて合戦について相談され「未だに口外していないが、汝だけを頼りにしている」との言葉を受け、感激して勇敢に戦うことを誓った。実は、このように密談をしたのは義実だけではなく、工藤茂光・土肥実平・宇佐美助茂・天野遠景・佐々木盛綱・加藤景廉も同じことを頼朝から言われている。ただ、義実・義忠父子が特に頼みにされていたのは事実で、挙兵前にあらかじめ土肥実平』(義実は実平の姉妹を妻にしていて土肥氏とも関係が深かった)『と伴に北条館へ参じるよう伝えている』とあって、頼朝の信頼が厚かったことは確かである。この時、義実は満六十九歳である。ここの主な登場人物の中で頼朝を除くと生年が明確なのは彼だけであるので、ここで広常が「義實の樣なる老者」と表現し、義連が諌めの言葉の中で「若しや老狂の致す所か」と述べていることから、逆にこの二人の年齢の大まかな相対推定が出来る。広常は五十代か? 義連の方は「老狂」のきつい言葉を面と向かって言い放てること、傲慢な広常をぴしゃりと封じていることからは広常よりも年上で、没年から見ても義実とはそれほど離れていないように思われるから六十代かと思われる。

・「更に對揚の存念有るべからず」「対揚」は匹敵・対等で、ため張って思うような資格はない、儂のなして参った手柄と比較出来るような余地などお前にはない、の謂いであろう。

・「經營」饗応。

・「濫吹」本来は無能な者が才能があるかの如く振る舞うこと、実力がないのにその地位にあることをいう。斉の宣王は竽(う)という笛を聞くのが好きで楽人を大勢集めていたが、竽を吹けない男が紛れ込み、吹いているような真似をして俸給を貰っていたという、「韓非子」の「内儲説(ないちょせつ)上」の故事に基づく。但し、ここは場違いの単なる乱暴狼藉の意で用いている。]

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬

 

海馬 海中ニ生スル小蟲ナリ頭ハ馬ノコトク腰ハ蝦ノ如ク

尾ハトカゲニ似タリ海中ノ小魚ノ内ニマシリテ市ニウルコトア

リ乾シテ貯置テ婦人産スル時是ヲ手裏ニ把レハ子ヲ

産ヤスシ本草ニ魚鰕ノ類也トイヘリ雌雄アリ對ヲ成

ヘシ雌ハ黄ニ雄ハ靑シ本草ニ并手握之トイヘリ世人

コレヲシヤクナゲト云ハアヤマレリシヤクナケハ蝦蛄ナリ

〇やぶちゃんの書き下し文

海馬 海中に生ずる小蟲なり。頭は馬のごとく、腰は蝦の如く、尾はとかげに似たり。海中の小魚の内にまじりて市にうることあり。乾かして貯へ置きて、婦人の産する時、是を手裏〔たうら〕に把れば、子を産みやすし。「本草」に『魚鰕の類なり。』といへり。雌雄あり、對を成すべし。雌は黄に、雄は靑し。「本草」に『手を并(あは)せて之を握る。』といへり。世人これを『しやくなげ』と云ふはあやまれり。『しやくなげ』は蝦蛄なり。

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus 。ヨウジウオ科のタツノオトシゴ属は一属のみでタツノオトシゴ亜科 Hippocampinae を構成し、世界で約五〇種類ほどが知られる。泳ぐ時は胸鰭と背鰭を小刻みにはためかせて泳ぐが、動きは魚にしては非常に鈍い。その代わりに体表の色や突起が周囲の環境に紛れこむ擬態となっており、海藻の茂みなどに入り込むと発見が難しい。食性は肉食性で、魚卵、小魚、甲殻類など小型の動物プランクトンやベントスを吸い込んで捕食する。動きは遅いが捕食は速く、餌生物に吻をゆっくりと接近させて瞬間的に吸い込んでしまう。また微細なプランクトンしか食べられないと思われがちだが意外に獰猛な捕食者で、細い口吻にぎりぎり通過するかどうかというサイズの甲殻類でも積極的に攻撃し、激しい吸引音をたてて摂食する(この点からは防禦型だけでなく採餌用の攻撃型擬態とも言えよう)。タツノオトシゴ属の♂の腹部には育児嚢という袋があり、ここで♀が産んだ卵を稚魚になるまで保護する。タツノオトシゴ属の体表は凹凸がある甲板だが、育児嚢の表面は滑らかな皮膚に覆われ、外見からも判別出来る。そのためこれがタツノオトシゴの雌雄を判別する手掛りともなる。繁殖期は春から秋にかけてで、♀は輸卵管を♂の育児嚢に差し込み、育児嚢の中に産卵、育児嚢内で受精する。日本近海産のタツノオトシゴ Hippocampus coronatus の場合、♀は五~九個を産卵しては一休みを繰り返し、約二時間で計四〇~五〇個を産卵する。大型種のオオウミウマHippocampus kelloggi では産出稚魚が六〇〇尾に達することもあるという。産卵するのはあくまで♀だが、育児嚢へ産卵されたオスは腹部が膨れ、ちょうど妊娠したような外見となる。このため「オスが妊娠する」という表現を使われることがある。種類や環境などにもよるが、卵が孵化するには一〇日から一ヶ月半程、普通は二~三週間ほどかかる。仔魚は孵化後もしばらくは育児嚢内で過ごし、稚魚になる。♂が「出産」する際は尾で海藻などに体を固定し、体を震わせながら(見た目はかなり苦しそうである)稚魚を産出する。稚魚は全長数ミリメートル程と小さいながらも既に親とほぼ同じ体型をしており、海藻に尾を巻き付けるなど親と同じ行動をとる。ヨウジウオ科ヨウジウオ亜科にもタツノイトコ Acentronura gracilissima やリーフィー・シー・ドラゴン Phycodurus eques などの類似種が多いが、首が曲がっていないこと、尾鰭があること、尾をものに巻きつけないことなどの差異でそれぞれタツノオトシゴ属とは区別出来る(以上は主にウィキの「タツノオトシゴ」及びそのリンク先に拠った)。属名“Hippocampus”(ヒッポカンプス)はギリシア語の“hippos”(馬)+“kampos”(海の化け物)で、元来、ギリシア神話に登場する半馬半魚の海馬“hippokampos”の名ヒッポカンポスを指す。体の前半分は馬の姿であるが、鬣(たてがみ)が数本に割れて鰭状になり、前脚に水掻きがあり、胴体の後半分は魚の尾になっている。ノルウェーとイギリスの間の海に棲み、ポセイドンの乗る戦車を牽くことでも知られたが、この神獣名のラテン語を、実は全くそのままに(頭文字を大文字化して)学名に転用したものである。なお、大脳側頭葉にある大脳辺縁系の一部で、記憶や空間学習能力に関わる脳器官名も全く同じ“Hippocampus”で日本語でも「海馬」とするが、これは同器官の縦断面がまさにタツノオトシゴに似ているからである。ウィキの「海馬(脳)」にある画像をリンクしておく。

「婦人の産する時、是を手裏〔たうら〕に把れば、子を産みやすし」この習俗はかつてはかなり一般に知られたものであった。しかもこれは真摯な博物学的な観察に基づく類感呪術である点で私は興味深い。以下、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「タツノオトシゴ」の記載を借りると、即ち、タツノオトシゴの雄(これは無論、雌に誤認されていた。荒俣氏の引用によれば例えば「重修本草綱目啓蒙」には『雌なるは腹ふくれ、雄なるは腹瘠』とあるとある)が、その育児嚢から孵化した稚魚を『陣痛よろしく大きな腹を収縮させて、小魚を外へ送り出す』その『涙ぐましい努力』を観察した昔の人が『タツノオトシゴは安産の守り神と』信じたという点である。また、荒俣氏は「南州異物志」には『婦人が難産で割烈して分娩するほどのときでも、タツノオトシゴを手に持たせると羊のように安産になる』とあり、『さらに、海馬を干すか、火で乾かして難産にそなえる』と引くが、これは前半部と同じものが「本草綱目」の「海馬」の「集解」の冒頭で、

藏器曰、「海馬出南海。形如馬、長五六寸、蝦類也。『南如守宮、其色黃褐。婦人難割裂而出者、手持此蟲、即如羊之易也。』。」

と引用されてある。時珍はさらに、「発明」の項で、

海馬雌雄成對、其性溫暖、有交感之義、故難及之、如蛤蚧、郎君子之功也。蝦亦壯陽、性應同之。

と記していて、荒俣氏はこれをタツノオトシゴは雌雄一対で一つの生物であって、『その性は温暖で、夫婦交歓の意味があるから、難産、陽虚』(真正の冷え症)『房中術に多く用いる』と分かり易く総括訳しておられる。また、本邦の人見必大の「本朝食鑑」(元禄一〇(一六九七)年刊。本書の刊行(宝永七(一七〇九)年)に先立つこと十二年前)によれば、『漁師はあえてタツノオトシゴを捕らないが、網の中に雑魚(ざこ)に混じって捕れると、薬屋に売る』とあり、『当時の流行として、妊婦は、雌雄を小さな錦の袋に包みこんで身に帯び、安産を祈願したという』とも引く(この必大の記載は微妙に益軒の記述に似ており、益軒はどうも同書のこの記載を参考にしているのではないかと思っている)。

「雌は黄に、雄は靑し」誤り。観賞魚の養殖及び販売業を営むシーホースウェイズ株式会社(鹿児島県南九州市頴娃(えいちょう)町別府)の公式サイト「タツノオトゴハウス」の「はじめせんか?タツノオトシゴ飼育 Q&A」に色のことが解説されているが、そこには『タツノオトシゴは海の中で身を守るために体の色を変化させる習性をもちます。1種類のタツノオトシゴにおよそ3~4色程度のバリーエーションがあります』。『タツノオトシゴハウスで養殖しているジャパニーズポニーは黒、黄、茶、オレンジなどに変色し、タスマニアンポニーは白、黄、黒、パールなどに変色します』。『ジャパニーズポニーは標準和名では「クロウミウマ」』(Hippocampus kuda)『と呼ばれていますが、英名では「イエローシーホース」などとも呼ばれます。はじめに名前を付けた人がその時の色で判断してしまったということが想像できますね』。『またこれにまだら模様や縞模様などが加わりますので、実際のバリエーションはとても多彩であることがわかります』。『体色変化は水槽内の環境によって異なります。ときには極めてささやかなレイアウト用の置物によって体色変化を起こします』。『体色変化は、水槽内に置かれている物の色彩や光によって起こると考えられています』とあって、雌雄の違いではない。「本草綱目」の「海馬」の「集解」の中には「聖済総録」(北宋の政和年間(一一一一年~一一一七年)に宋の徽宗の主宰で編纂された医書)からの引用があって、そこに『海馬、雌者黃色、雄者青色。』とあるから、益軒は無批判にこれを引いたものと思われる。

『「本草」に『魚鰕の類なり。』といへり』「本草綱目」では「海馬」は「鱗之四」の「無鱗魚」に含まれ、冒頭の「釈名」には、

水馬。弘景曰是魚蝦類也。狀如馬形、故名。

とある。

『「本草」に『手を并せて之を握る。』といへり』「本草綱目」の「海馬」の「主治」の項に、

婦人難産、帶之於身、甚驗。臨時燒末飲服、並手握之、即易及血氣痛(蘇頌)。暖水臟、壯陽。

とある。これを見ると陣痛が起こったらタツノオトシゴを焼いて粉末にしたものを服用すると同時に、雌雄二尾を掌に並べてこれを握れば、陣痛や血の道による痛みを和らげて安産となる、と述べているようである。

「世人これを『しやくなげ』と云ふはあやまれり。『しやくなげ』は蝦蛄なり」甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚(シャコ)目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria 及び口脚目 Stomatopoda に属するシャコ類の総称である。「シャコ」という和名の由来は、茹で上げた際に石楠花(シャクナゲ)の花のような淡い赤紫色に変ずることから江戸時代に「シャクナゲ」と呼ばれていたものが縮まってものとされる(和名の由来は「大阪府立環境農林水産総合研究所」公式サイト内の図鑑のシャコ」の記載に拠る)。ここに示された誤称は現在は残っていないように見受けられる。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和七年(七十二句) Ⅳ



手向けたる七個の池の水の色

 

[やぶちゃん注:「七個の池」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

歸省子にその夜の故園花幽き

 

[やぶちゃん注:「幽き」は「かそけき」ではなく、「あはき」(淡き)と訓じているか。]

 

鏡みるすがしをとめや暑氣中り

 

鬱々と蒼朮を焚くいとまかな

 

[やぶちゃん注:「蒼朮」は「さうじゆつ(そうじゅつ)」と読み、キク目キク科オケラ属ホソバオケラ Atractylodes lancea の根茎の生薬名。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用などがあり、啓脾湯・葛根加朮附湯などの漢方調剤に用いられる。参照したウィキの「ホソバオケラ」によれば、『中国華中東部に自生する多年生草本。花期は9〜10月頃で、白〜淡紅紫色の花を咲かせる。中国中部の東部地域に自然分布する多年生草本。通常は雌雄異株。但し、まれに雌花、雄花を着生する株がある。日本への伝来は江戸時代、享保の頃といわれる。特に佐渡ヶ島で多く栽培されており、サドオケラ(佐渡蒼朮)とも呼ばれる』とある。]

 

凉趁うて埠頭の闇や夏帽子

 

[やぶちゃん注:「趁うて」は「おうて」で「追うて」と同義。]

 

帶の上の乳にこだはりて扇さす

 

蚊遣火のなづみて闇の咫尺かな

 

[やぶちゃん注:蚊遣火が闇に圧倒され、しかもその闇が間近に接近してきて、その闇に恰も摑まれんとするかのような、ある種の無音の凄絶感がよく出ている名句である。]

 

雷神をのぞめる僕や富士登山

 

下山して西湖の舟に富士道者

 

  五合目附近、石楠花咲きみだるゝ邊りの地に、

  強力の茯苓を掘れる。

茯苓を一顆になへり登山杖

 

[やぶちゃん注:「茯苓」菌界担子菌門菌じん綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科 Poria 属マツホド Poria cocos の菌核。アカマツ・クロマツ等のマツ属植物の根に寄生して形成する球形の茸(子実体はほとんど見られず球状の菌核のみが見つかることが多い)で表面は暗褐色、内は白色。漢方で利尿・鎮痛・鎮静などに用いる。]

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年七月



向日葵の照るにもおぢてみごもりぬ

 

[やぶちゃん注:この妊婦は不詳(この時鳳作はまだ独身で、彼の子ではないので注意)。表現の親愛感から見ると、那覇市の歯科医に嫁いだ姉の幸がおり、また、鳳作の招きで同じく歯科医の実兄国彬(くによし)が同じ宮古島の平良港に開業していたから、この孰れかの親族の妊婦のようには思われる。]

 

枕邊に苺咲かせてみごもりぬ

 

夕立のみ馳けて向日葵停れる

 

   ひまはり

向日葵は實となり實となり陽は老いぬ

 

[やぶちゃん注:以上、四句は総て七月発行の『天の川』の発表句。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅶ 信濃抄四(2)



百日紅つかれし夕べむらさきに

 

曼珠沙華ひそかに息をととのふる

 

早稻の香のしむばかりなる旅の袖

 

筆洗ふ蜩とみに減りしよと

杉田久女句集 144 訪れて山家は暗し初時雨


訪れて山家は暗し初時雨

八木重吉詩集「秋の瞳」 序文 加藤武雄「巻首に」 附 「秋の瞳」広告文

   卷首に

 八木重吉君は、私の遠い親戚になつてゐる。君の阿母さんは、私の祖母の姪だ。私は、祖母が、その一人の姪に就いて、或る愛情を以て語つてゐた事を思ひ出す。彼女は文事を解する。然う言つて祖父はよろこんでゐた。

 私は二十三の秋に上京した。上京の前の一年ばかり、私は、郷里の小學校の教鞭をとつてゐたが、君は、その頃、私の教へ子の一人だつた。――君は、腹立ちぽい、氣短な、そのくせ、ひどくなまけ者の若い教師としての私を記憶してくれるかも知れないが、そのころの君の事をあまりよく覺えてゐない。唯、非常におとなしいやゝ憂欝な少年だつたやうに思ふ。

 小學校を卒業すると、君は、師範學校に入り、高等師範學校に入った。私が、その後、君に會つたのは、高等師範の學生時代だつた。その時、私は、人生とは何ぞやといふ問題をひどくつきつめて考へてゐるやうな君を見た。彼もまた、この惱み無くしては生きあはぬ人であったか? さう思つて私は嘆息した。が、その時は私はまだ、君の志向が文學にあらうとは思はなかつた。

 君が、その任地なる攝津の御影から、一束の詩稿を送つて來たのは去年の春だった。君が詩をつくつたと聞くさへ意外だつた。しかも、その時が、立派に一つの境地を持つてゐるのを見ると、私は驚き且つ喜ばずにはゐられなかつた。

 私は詩に就いては、門外漢に過ぎない。君の詩の評價は、此の詩集によつて、廣く世に問ふ可きであつて、私がここで兎角の言葉を費す必要はないのであるが、君の詩が、いかに純眞で淸澄で、しかも、いかに深い人格的なものをその背景にもつてゐるか? これは私の、ひいき眼ばかかりではなからうと思ふ。

 

 大正十四年六月

 

           加藤武雄

 

[やぶちゃん注:加藤武雄(明治二一(一八八八)年~昭和三一(一九五六)年)は小説家。神奈川県津久井郡城山町(現在の相模原市緑区)生。高等小学校卒業後、小学校訓導を務めながら投書家として次第に名を知られるようになった。明治末に新潮社創始者佐藤義亮と親しくなり、明治四四(一九一一)年に新潮社に入社、編集者として『文章倶楽部』『トルストイ研究』などの編集主幹を務めた。大正八(一九一九)年に農村を描いた自然主義的な短編集「郷愁」で作家として認められた。後、通俗小説・少女小説作家となって大正末から昭和初期にかけては売れっ子作家として中村武羅夫・三上於菟吉らとともに一世を風靡した(三作家の作品を併載した「長編三人全集」も刊行されている)。戦時下にあっては戦意高揚小説を書き、戦後も通俗小説を量産したが、今では最早忘れられた作家と言ってよい(以上は主にウィキの「加藤武雄」に拠った)。個人サイト「屋根のない博物館ホームページ」内のこちらのページに、本詩集出版に関わる加藤武雄の尽力の記載が詳しい。それによれば、加藤武雄は大正一四(一九二五)年八月発行の『文章倶楽部』八月号の中で、「緑蔭新唱 新進四家」と題して松本淳三・三好十郎・宮本吉次三名の詩人とともに、初めて八木重吉の九篇の詩を紹介(リンク先に同号「緑蔭新唱 新進四家」の画像有り)、『また同号には加藤武雄の執筆と思われる、重吉の詩集「秋の瞳」の宣伝文も添えられてあ』ると記しておられる。リンク先に示された、その宣伝文を以下に電子化しておく。

   *

八木重吉詩集 菊半版特裝美本百六十頁

詩集 秋の瞳 定價七拾錢 送料六錢

 新詩人の新詩集!

 眞詩人の眞詩集!

 此の詩の著者は、この數年の間、默々として、一人、詩を作つてゐた。詩壇とか、さういふものとは絶對に無關係に、乾燥な、散文的な空氣の中で、友もなく、師もなく、たとへば、曠野に歌ふ一羽の鳥のやうに、その感じ、思ひ、考へた事を歌ひ續けてゐた。心境は月光の如く靜かに、神經は銀針の如く尖鋭に、しかも、常に人間性の根本に立つて、自由に、恣に歌ひつゞけた此等の詩は、雜音に充つる現今の詩壇に朗かなる一道の新聲を傳ふるものであらう。

 發賣所 東京牛込・矢來 新潮社 爲替貯金口座 東京一七四二

 發行所 東京市小石川區西江戸川町 富士印刷株式會社出版部

   *

広告の実際の字配はリンク先を見られたい。本広告が加藤本人の執筆になるという推定は他の情報でも見られ、私もその広告文からも加藤のものと考えてよいと思う。]

柳も かるく   八木重吉  / 八木重吉詩集「秋の瞳」詩全篇 了

    柳も かるく

 

やなぎも かるく

春も かるく

赤い 山車(だし)には 赤い兒がついて

靑い 山車には 靑い兒がついて

柳もかるく

はるもかるく

けふの まつりは 花のようだ

 

[やぶちゃん注:「ようだ」はママ。本詩を以って詩集「秋の瞳」全篇が終わる。]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。「西」の抹消線(実際は太い)と「東」の訂正(実際は印字がやや右に傾く)はゴム印と思われる。]

 

Akinohitomioku

 

 秋 の 瞳   ㊞

 

大正十四年七月廿八日印刷

大正十四年八月一 日發行

 

       定價七拾錢

    東

 千葉縣西葛飾郡千代田村

 著作者

      八 木 重 吉

 發行者

   東京小石川區西江戸川町廿一

 印刷者  佐 々 木 俊 一

   東京小石川區西江戸川町廿一

 印刷所  富士印刷株式會社

   東京小石川區西江戸川町廿一

          印刷

發行所   富士  會社出版部

          株式

  東 京 市 牛 込 區 矢 來 町 三

大賣捌所 新  潮  社

弾を浴びた島   山之口貘




 弾を浴びた島
 

 

島の土を踏んだとたんに

ガンジューイとあいさつしたところ

はいおかげさまで元気ですとか言って

島の人は日本語で来たのだ

郷愁はいささか戸惑いしてしまって

ウチナーグチマディン ムル

イクサニ サッタルバスイと言うと

島の人は苦笑したのだが

沖縄語は上手ですねと来たのだ 

 

 

 

  「ガンジューイ」=「お元気か」

  「ウチナーグチマディン ムル」=「沖縄方言までもすべて」

  「イクサニ サッタルバスイ」=「戦争でやられたのか」 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注の一部を追加した。】初出は昭和三八(一九六三)年三月号『文藝春秋』で、その後、同年十二月には十二月号「現代詩手帖」にも再掲された。沖繩帰郷から実に五年後に絞り出した苦渋の一篇であった。
 本詩については、底本通りの電子化を行っていない。底本では詩中の沖繩方言部分にはそれぞれ方言部の最終字(具体的には「ガンジューイ」の「イ」・「ウチナーグチマディン ムル」の「ル」・「イクサニ サッタルバスイ」の「バスイ」の「イ」)の右にポイント落ちでそれぞれ『(1)』『(2)』『(3)』の注記記号が附され、詩の後に一行空きがなされた後、二字下げのポイント落ちで、
  (1)お元気か
  (2)沖縄方言までもすべて
  (3)戦争でやられたのか
と後注されている。また、清書原稿を基にした新全集では注記記号が『*1』『*2』『*3』となっており、後注が『*1 お元気か』『*2 沖縄方言までも すべて』(字空けが入っているのに注意)『*3 戦争で やられたのか』(字空けが入っているのに注意)となっている以外、本文の異同はない。
 私は二十の時にこの詩に出逢って以来、今に至るまで、この詩を偏愛するものであるが、実は今もずっとその最初の違和感が持続し続けている。それは個人的にこの注記記号の詩文中への挿入が、今一つ好きになれないでいるということである。これによって心内での私の朗読――バクさんの肉声の「うちなーぐち」――はその都度、中断され、無意識に後注に視線が右往左往してしまうからである。寧ろ、注を「読」んで記憶したら、それらを視界から消去して今一度、沖繩方言としてのここに散りばめられたそれを――そのままに「詠」むべきである――と私は思っている。如何にも偉そうではあるが、そうした私の愛するこの詩への思いの中で、注記記号の省略と注記表記の変更さらに詩本文と注記との間を有意に空けるという恣意的な操作を行った。バクさん、お許しあれ――
 昭和三三(一九五七)年十月末、五十五歳の時、バクさんは実に三十四年振りで占領下の沖繩に帰省した(大正一三(一九二四)年の二十九の時の二度目の上京以来)。母校県立首里高等学校(但し、バクさんは旧制県立第一中学校で四年生で中退している)を皮切りに各高等学校などで講演を行い、大城立裕ら若き沖繩の作家や詩人らと逢い、約一ヶ月半滞在して翌年初に帰京した。この直後の昭和三十四年四月には先の再版『底本山之口貘詩集』で第二回高村光太郎賞している。しかし、この詩に示されたようにバクさんは沖繩の激しい変化に大きなショックを受け、この年の夏の終わりまで詩が書けない(参考にした底本年譜では『仕事ができない』とある)状態が続いた。
 最後に。私はこの詩に就いては、「沖縄」の文字が入っている点に於いて、そしてこれがバクさんの、若き日の故郷への痛恨詩であることからも、どうしても正字で表記したくなる願望を押さえきれない(私は「縄」という新字が生理的に嫌いである。また実は「弾」も「蝉」同様に「彈」や「蟬」でないとむずむずする人間なんである)。戦後の詩であるが、私の我儘で敢えて正字化した詩篇本文を以下に示したい(さらに言えば私は実は沖繩方言に限らず、方言を外来語のようにカタカナ書きするのを生理的に激しく嫌悪する人間であるが、流石にそこまでの表現操作はバクさんに悪いので諦める)

 

 彈を浴びた島

 

島の土を踏んだとたんに

ガンジューイとあいさつしたところ

はいおかげさまで元氣ですとか言って

島の人は日本語で來たのだ

郷愁はいささか戸惑いしてしまって

ウチナーグチマディン ムル

イクサニ サッタルバスイと言うと

島の人は苦笑したのだが

沖繩語は上手ですねと來たのだ

 

バクさん、ごめんね――]

ひそかな対決   山之口貘

 ひそかな対決

 

ぱあではないかとぼくのことを

こともあろうに精神科の

著名なある医学博士が言ったとか

たった一篇ぐらいの詩をつくるのに

一〇〇枚二〇〇枚だのと

原稿用紙を屑にして積み重ねる詩人なのでは

ぱあではないかと言ったとか

ある日ある所でその博士に

はじめてぼくがお目にかかったところ

お名前はかねがね

存じ上げていましたとかで

このごろどうです

詩はいかがですかと来たのだ

いかにもとぼけたことを言うもので

ぱあにしてはどこか

正気にでも見える詩人なのか

お目にかかったついでにひとつ

博士の診断を受けてみるかと

ぼくはおもわぬのでもなかったのだが

お邪魔しましたと腰をあげたのだ

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を全面改稿した。】初出は昭和三八(一九六三)年三月号『小説新潮』。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では清書原稿を本文テクストとしており、有意な異同が見られるので以下に全篇を示す。


 ひそかな対決


ぱあではないかとぼくのことを

こともあろうに精神科の

著名なある医学博士が言ったとか

たった一篇ぐらいの詩をつくるのに

一〇〇枚二〇〇枚三〇〇枚だのと

原稿用紙を屑にして積み重ねる詩人なのでは

ぱあではないのかと言ったとか

ある日ある所でその博士に

はじめてぼくがお目にかゝったところ

お名前はかねがね

存じ上げていましたとかで

このごろどうです

詩はいかがですかと来たのだ

いかにもとぼけたことを言うもので

ぱあにしてはどこか

正気にでも見える詩人なのか

お目にかゝったついでにひとつ

博士の診断を受けてみるかと

ぼくはおもわぬのでもなかったのだが

お邪魔しましたと腰をあげたのだ


……このバクさんを……「ぱあではないか」……「たった一篇ぐらいの詩をつくるのに」「一〇〇枚二〇〇枚三〇〇枚だのと」「原稿用紙を屑にして積み重ねる詩人なのでは」「ぱあではないか」……と言ったと心理学者とは……O――あいつかなぁ?……それとも、T――あいつかぁ?……M……S……いやいや、あいつかも? と穿鑿してみるのも、これ、すこぶる心地よいのである……]

山之口貘詩集「鮪に鰯」電子化始動 / 野次馬

 

鮪に鰯

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:本記事全体に複数の誤りを発見したため、訂正「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」との対比検証に入るためにこの注を大幅に改稿した。】山之口貘の実質的な戦後の新詩集で同時に遺稿詩集となった「鮪に鰯」は昭和三九(一九六四)年十二月一日原書房から出版された。

 なお、注に示した初出誌データは先と同じく、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題データに基づく。また新全集では「鮪に鰯」に限っては清書原稿の残っているものはそれを正規本文テクストとして採用しているため、驚くような違いがある。それは注で示すこととした。現在、この対比検証作業は過去のブログ公開記事を訂正する形で随時進行中である。この記事以降で対比検証を行ったその旨の明記が注にないものは未だそれを行っていないことを示すので注意されたい

 バクさんはこの前年の昭和三八(一九六三)年七月十九日、新宿区戸塚の大同病院にて胃癌のため永眠していた。全百二十六篇、「山之口貘詩集」とダブる詩は一篇も含まれていない。詩集冒頭には『日本のはえぬきの詩人と言えば、萩原朔太郎、それ以後は、貘さんだろう』と末尾に綴る金子光晴の「小序」(クレジットなし)、掉尾には『1964・11』のクレジットを持つ当時二十であった娘山口泉(バクさんの愛称はミミコ)さんの「後記にかえて」が載るが、孰れも著作権が存続しているため省略する。しかし特に、泉さんの三連からなるそれは関係者への謝辞が過半の短いものながら、非常に胸打たれるものである。ここではその第二連のみを引用し、その詩的な愛の香気をお伝えしておきたい。――


『空が青くきらきら溢れています。冬に向かって歩いている寒さを今朝はふと忘れます。』

 

 

 

 野次馬

これはおどろいたこの家にも

テレビがあったのかいと来たのだが

食うのがやっとの家にだって

テレビはあって結構じゃないかと言うと

貰ったのかいそれとも

買ったのかいと首をかしげるのだ

どちらにしても勝手じゃないかと言うと

買ったのではないだろう

貰ったのだろうと言うわけなのだが

いかにもそれは真実その通りなのだが

おしつけられては腹立たしくて

余計なお世話をするものだと言うと

またしてもどこ吹く風なのか

まさかこれではあるまいと来て

物を摑むしぐさをしてみせるのだ 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を全面改稿した。】初出は昭和三八(一九六三)年四月号『地上』。『地上』は元農林水産省所管で現在は全国農業協同組合中央会が組織する農協グループ総合農協(JA)の出版・文化事業を営む団体「一般社団法人 家の光協会」の発行する雑誌の一つ。しばしば誤解されるが、同団体は宗教とは無関係である。なお、松下博文氏の緻密な初出誌検証によって旧詩集類と同様、この詩集「鮪に鰯」もほぼ正しく逆編年体(後に行くほど新しい)の組み方となっていることが判明している。

 思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では清書原稿を本文テクストとしており、表記に有意な異同が見られるので以下に全篇を示す。

 

 野次馬

これはおどろいたこの家にも

テレビがあったのかいと来たのだが

食うのがやっとの家にだって

テレビはあって結構じゃないかと言うと

貰ったのかいそれとも

買ったのかいと首をかしげるのだ

どちらにしても勝手じゃないかと言うと

買ったのではないだろ

貰ったのだろと言うわけなのだ

いかにもそれは真実その通りなのだが

おしつけられては腹立たしくて

余計なお世話をするものだと言うと

またしてもどこ吹く風なのか

まさかこれではあるまいと来て

物を摑むしぐさをしてみせるのだ

 

「だろ」の方が遙かにリアリズムである。]

かげろふの我が肩に立つ紙子哉 芭蕉 元禄2年2月7日=1689年3月27日 作

本日二〇一四年三月二十七日(陰暦では二月二十七日)

   元禄二年二月  七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年三月二十七日

である(この大きなズレはこの年が閏年で一月が二回あったことによる)。

★注:今回より単純な現在の当日の陰暦換算の一致日ではなく、実際の芭蕉の生きたその時日の当該グレゴリオ暦との一致日にシンクロさせることとする。その方が、少なくとも季節の微妙な変化の共時性により正確に近づくことが可能だからと判断したためである。例えば、今年の陰暦二月七日はグレゴリオ暦三月七日で一六八九年三月二十七日とは二十日もズレてしまって、明らかに季節感が違ってくるからである。

 

  元祿二年仲春、嗒山旅店にて

かげろふの我が肩に立つ紙子哉

 

[やぶちゃん注:元禄二(一六八九)年芭蕉四十六歳同年二月七日の作。

 「仲春」は陰暦二月の異名である。「嗒山」は「たふざん」と読む。新潮日本古典集成「芭蕉句集」の今栄蔵氏の注によれば、大垣の俳人で大垣藩士であったかとし、『その江戸滞在中の旅亭で』曾良や此筋(しきん)らと『巻いた七吟歌仙の発句。真蹟歌仙巻二に「元禄二年仲春七日」と奥書がある。真蹟句切には「冬の紙子いまだ着がへず」と前書』がある、とする(下線やぶちゃん)。脇句は曾良の、

    水やはらかに走り行(ゆく)音

である(歌仙を巻いた連衆と脇句は山本健吉「芭蕉全発句」(講談社学術文庫二〇一二年刊行)に拠る)。

 「紙子」は「かみこ」と読み(「紙衣」とも書く)、紙子紙(かみこがみ:厚手の和紙に柿渋を引いて日に乾かしてよく揉み和らげた上で夜露に晒して臭みを抜いたもの。)で作った衣服のこと。当初は律宗の僧が着用を始め、後に一般に使用されるようになった。軽くて保温性に優れ、胴着や袖無しの羽織に作ることが多かった。かみぎぬ。特に近世以降は安価ことから貧者の間で用いられた。現在は冬の季語とされるが、本句の場合無論、季詞は「かげろふ」(陽炎)であって春である。

 芭蕉は凡そ二月前(六十六日前。冒頭に記した如く、この年は閏一月があった)の当年の歳旦吟として、やはり知られた、

 

元日は田ごとの日こそ戀しけれ

 

を詠んでおり、同じくその正月早々に去来に送ったともされる文(この確かな確証はないが)には、

 

おもしろや今年の春も旅の空

 

と記し、やはりこの時期に門人に名所の雑の句のあり方を説いた時に示したとされる句には(新潮日本古典集成所収。但し、この句、他では掲げぬものも多い)、

 

朝夜(あさよ)さを誰(たが)まつしまぞ片心(かたごころ)

 

と詠んでもいるとされる(「片心」は片思いの意)。

 本句を読んだ八日後の二月十五日附桐葉(熱田門人)宛書簡の中には、

 

拙者三月節句過早々、松島の朧月見にとおもひ立候。白川・塩竃の櫻、御浦(おうら)やましかるべく候。

 

と綴ってもいる。

――元日から前年秋の越人との木曽路の旅を思いやっては、その旅心のままに想像の、「田毎月」ならぬ「田毎の初日」の輝きを恋慕い、――去来には俳言もない子供染みた手放しの旅情を知らせ、――遂には掛詞で松島を詠み込んで、あからさまにそのそぞろ神に惹かれるおのが旅心の切ない恋情を歌っては彷徨の先をはっきりと詠み込んでいる。――そこにあるのは「片心」の狂おしいまでの旅に誘(いざな)われる芭蕉の魂であり、それは遂に芭蕉の身からあくがれ出でて、自身の春立つ旅立ちの日の、その後ろ影に立つ陽炎さえも、幻視するに至るのである。――

……では御一緒に

……芭蕉とともに

……奥の細道の旅へ旅立たんと致そう……]

2014/03/26

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 鼓蟲

鼓蟲 マヒマヒムシ筑紫ノ方言カイモチカキト云水上ニウカ

フ小黑蟲也螢ニ似テ少長シツ子ニ水上ヲオヨキメクリテ

ヤマス本草ニシルセリ但メクル事ハシルサス

〇やぶちゃんの書き下し文

鼓蟲 まひまひむし。筑紫の方言、『かいもちかき』と云ふ。水上にうかぶ。小黑〔おぐろ〕き蟲なり。螢に似て少し長し。つねに水上をおよぎめぐりてやまず。「本草」にしるせり。但し、めぐる事はしるさず。

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目飽食亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae に属するミズスマシ類。ウィキの「ミズスマシ科」によれば、成虫の体長は孰れの種も数ミリメートルから二〇ミリメートルほどの小型の甲虫で、日本では三属十七種類ほどが知られる。『成虫の体の上面は光沢のある黒色で、楕円形で腹背に扁平な体型である。触角は短く、6本の脚も全て体の下に隠せる。前脚は細長いが、中脚と後脚はごく短い。複眼は他の昆虫と同様2つだが、水中・水上とも見えるように、それぞれ背側・腹側に仕切られている』。『成虫は淡水の水面を旋回しながらすばやく泳ぐ。同様に水面で生活する昆虫にアメンボがいるが、アメンボは6本の脚の先で立ち上がるように浮くのに対し、ミズスマシは水面に腹ばいに浮く。また、アメンボは幼虫も水面で生活するが、ミズスマシの幼虫は水中で生活する』。『日中に活動する姿を見ることができるが、流水性のオナガミズスマシ類などは夜行性が強く、夜間にだけ水面に浮上して活動する。成虫は翅を使って飛ぶこともでき、他の水場から独立した水たまりなどにも姿を現す。食性は肉食性で、おもに水面に落下した他の昆虫や、水面で羽化したばかりの水生昆虫の成虫などを捕食する』。『幼虫はゲンゴロウの幼虫を小さくしたような外見をしているが、腹部の両脇に鰓が発達し、水面に浮上して空気呼吸する必要がない。幼虫も肉食性で、アカムシなど小型の水生生物を捕食しながら成長する』とある。ミズスマシ(水澄)は本文にあるように別名「鼓虫」「まひまひ(まいまい)」とも呼ばれる。

「かいもちかき」すぐに連想されるのは「掻餅」(かいもちひ(かいもちい)」で、「もちい」は「もちいひ(餅飯)」の音変化で餅米粉・小麦粉などをこねて煮たもの(一説には蕎麦掻きのこととも)。色に問題があるが、そのようにこねて千切ってご飯粒のように円錐形にしたものに似るか、若しくは水面上での旋回運動が恰もそうしたこねる動作にでも似ているものか。]

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 水黽

水黽 本草ニ出タリ有毒ト云リ水馬トモ云水上ニウカ

ヒ游フ身長クシテ四足アリ足ナカシ後足最長シ畿内ニテ

鹽ウリト云筑紫ニテアメタカト云其臭糖ノ如シ雞犬食

ヘハ死ス

〇やぶちゃんの書き下し文

水黽[やぶちゃん注:右に「シホウリ」とルビし、「黽」の左に「マウ」と振る。] 「本草」に出でたり。毒有りと云へり。水馬とも云ふ。水上にうかび游〔ただよ〕ふ。身、長くして四足あり、足、ながし。後ろ足、最も長し。畿内にて『鹽うり』と云ひ、筑紫にて『あめたか』と云ふ。其の臭ひ、糖の如し。雞犬、食へば死す。

[やぶちゃん注:「水黽」「水蠆」の功に既出既注。「水上にうかび游ふ。身、長くして四足あり、足、ながし。後ろ足、最も長し」「其の臭ひ、糖の如し」は異翅(カメムシ)亜目アメンボ科アメンボ亜科アメンボ(飴坊)Aquarius paludum とよく合致するが、ここに記されたような毒性はない。

「畿内にて『鹽うり』と云ひ」「鹽うり」(しほうり(しおうり)という別名はサイト「昆虫研究所」のアメンボ」の別名に「シオウリ」を見出せる(逆の「アメウリ」もある。静岡県の児童の自由研究と思われるアメンボ不思議」(PDFファイル)の方言の項を見ると山口県の方言として「アメウリ」が見出せる)。

「筑紫にて『あめたか』と云ふ」見出せない。上に示したアメンボ不思議」の地図を見ると、佐賀県の位置に「アメヤリン」、福岡に「ガロッパ」(これは水神としての河童とアメンボの強い連関性を示すもので、「能登方言」のコラムにある全国のアメンボ方言収集によれば実際に各地で「ミズノカミサン」「スイジンサン」「カワノカミサン」「ミズノカンサマ」といった方言名を見出せる)、「アナンチョ」、鹿児島に「ガラッペムシ」(これも河童関連であろう)といった呼称は見出せる。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 葉山御用邸

    ●葉山御用邸

森戸を過ぎて南に往けば、海邊に嚴かなる黑門、衛士肅然と控へて、淸き海汀(なぎさ)に玉の宮居(みやゐ)のたてる、是なん葉山の御用邸

皇女の御方々常に御座あらせ玉ふとかや、申すも恐れ多きことにこそ。

   葉山村のなりところにてよめる    高崎 正風

 わかやとは相模の海をいけにして

        ふし大島を庭のつき山

[やぶちゃん注:現存する御用邸にして「申すも恐れ多きことにこそ」、ウィキの「御用邸」のリンクを張らさせて戴くに止めんとぞする。

「高崎正風」(たかさきまさかぜ 天保七(一八三六)年~明治四五(一九一二)年)は公武合体派の志士で二条派歌人。薩摩藩士高崎五郎右衛門温恭長男。薩会同盟の立役者となり、京都留守居役に任命されたが、武力討幕に反対して西郷隆盛らと対立、維新後は不遇をかこった。明治四(一八七一)年に新政府に出仕し、岩倉使節団の一員に任じられて二年近く欧米諸国を視察した。明治八(一八七五)年に宮中の侍従番長、翌年から御歌掛などをつとめ、明治一九(一八八六)年二条派家元三条西季知の後を受けて御歌係長に任命され、さらに明治二一(一八八八)年には御歌所初代所長に任命された。明治二三(一八九〇)年、皇典講究所所長山田顕義の懇請により初代國學院院長(明治二十六年まで)。明治二八(一八九五)年、枢密顧問官を兼ねた(以上はウィキ高崎正風に拠る)。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 二階明神

    ●二階明神

明神と號すれと祠廟(しべう)あるにあらず、墳墓にて村の西北陸田の間にあり、塚上松樹あり、圍六尺、樹下五輪塔三基あり、一基は大乾元二年七月の字仄(ほのか)に見ゆ、二基は小にして文字剝落す、二階堂出羽入道沙彌行然の墓所と云傳ふ。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

二階堂系圖を按ずるに、藤原行盛入道行然は行光の子、初左衛門少尉に任し、建保六年十二月民部少尉に轉じ、元仁元年閏七月政所執事となり、嘉祿元年剃髮して行然と號す、此年評定衆に加はる、建長五年十二月九日卒す、年七十三、乾元は建長を下る事凡五十年の後なり、行光の弟行村の曾孫左衛門尉行藤、後出羽守に任し、正安三年剃髮して道我と號す、乾元元年八月廿七日卒、年五十七、若くは此人の碑なるにや、村内慶增院は寛治中行然開基すと傳ふれば、二小碑の内、若くは行然の墓標あるも知べからず。

[やぶちゃん注:この大型の五輪塔一基は現在、京急神武寺駅直近の逗子市池子二丁目にある東昌寺(鎌倉の廃寺で北条氏が滅亡した名刹東勝寺の後身と伝える)境内にある。同寺公式サイト内の「境内・宝物」の頁に「旧慶増院五輪塔」とあってそこには、『東昌寺本堂の前に、国の重要文化財(建造物)に指定されている五輪塔が祀られています。この五輪塔は、かつて葉山町堀内の慶増院という真言宗の寺の墓地にあったものです。この寺は、後に高養寺と改名されました』とあって、五輪塔の写真も附されている。解説によれば安山岩製で高さ一四一センチメートル、地輪に「沙弥行心帰寂、乾元二年癸卯七月八日」の銘が刻まれているとあって、そこでも『鎌倉時代の武将の二階堂行然のの墓であろうと伝えられてい』るとし、さらにこの墓は昭和五一(一九七六)年に東昌寺に移転安置されたとある。更に逗子市の公式サイト内の「逗子市内の重要文化財」を見ると、『この五輪塔は、かつて葉山町堀内の慶増院にあったものと伝えられています。近世に無住となった慶蔵院は、昭和初期に葉山に別荘を持っていた政治家の高橋是清と犬養毅らの援助を得て再興されました。この際に寺名を「高養寺」と改められたのち、逗子市小坪の「波切不動」の再興に伴って、本堂と五輪塔が移築され』たものの、後に高養寺がこの池子の東昌寺の持ち分となったことから、昭和五十一年に東昌寺に移設されて現在に至っているという事蹟が判明する。加えて、『水輪には金剛界大日如来をあらわす梵字の「バン」』が刻まれており、『鎌倉時代末期の中型五輪塔として、地域の基準となる貴重な文化財』であるという記載もある。これらが伝承としての行然墓をそのままに載せているのに対し、本文の記載は寧ろちゃんとした考証を試みようとしていて好感が持てる。なお、ネット上の画像の視認であるが(私はこの寺に参ったことはない)、同墓には現在、説明版が建てられてあって、そこにはこの「行心」を、第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)の御家人二階堂信濃守行心入道の墓と伝えられているとある。さらに当該リンク記事では、この墓石の年号についての複数の記載の、奇妙な齟齬を指弾されてもいる。必読。

「六尺」約一・八メートル。

「乾元二年」嘉元元・乾元二年は西暦一三〇三年。

「二階堂出羽入道沙彌行然」二階堂行盛(養和元(一一八一)年~建長五(一二五三)年)は二階堂行政の孫で政所執事・評定衆。父二階堂行光の後は政所執事は行光の甥伊賀光宗となったが、光宗が元仁元(一二二四)年の伊賀氏の変(伊賀光宗とその妹で義時後妻(継室)であった伊賀の方が伊賀の方の実子政村の執権就任と娘婿一条実雅の将軍職就任を画策した事件)によって流罪となり、行盛が任ぜられた(「吾妻鏡」貞応三(一二二四)年閏七月二十九日の条)。嘉禄元(一二二五)年に出家して法名を行然と名乗ったが、致仕した訳ではなく、七十二歳で没するまで同現職にあった。以降、この家系がほぼ政所執事を世襲した。没後は行盛の子二階堂行泰が継いだが、その子の早死になどで行盛の他の子、行泰の弟の二階堂行綱、二階堂行忠の家に移り、弘安九(一二八六)年には行忠からその孫の二階堂行貞に受け継がれた(以上はウィキの「二階堂行盛」に拠る)。さらにウィキの「二階堂氏」によると、『二階堂氏は藤原姓で、南家藤原武智麻呂の子孫を称している。工藤行政が文官として源頼朝に仕え、二階堂が存在した鎌倉の永福寺周辺に屋敷を構えたので二階堂氏を称したという。行政には行光と行村の二人の子がいた。行光は鎌倉幕府の政所執事に任命され、一時親族の伊賀光宗が任じられた以外は二階堂氏から同職が補任される慣例が成立した。当初は行光を祖とする「信濃流」と呼ばれる一族が執事職を占めていたが、鎌倉時代中期に信濃流嫡流の執事の相次ぐ急逝によって信濃流庶流や行村を祖とする「隠岐流」を巻き込んだ執事職を巡る争い』『が発生し、鎌倉時代末期には信濃流の二階堂行貞の系統と隠岐流の二階堂行藤の系統が交互に執事の地位を占め、前者は室町幕府でも評定衆の地位にあった』。『二階堂氏の子孫は実務官僚として鎌倉幕府、室町幕府に仕え、その所領は日本全国に散在しており、多くの庶子家を輩出した』と記す。

「左衛門尉行藤」(寛元四(一二四六)年~正安四(一三〇二)年)政所執事。二階堂行有(彼は二階堂行政―行村―行義の次男)の子で弘安五(一二八二)年に引付衆となった。同年、検非違使六位尉、正応元(一二八八)年に出羽守、永仁元(一二九三)年政所執事、同三年に評定衆・寄合衆の在任が確認されており、正安元(一二九九)年には引付五番頭人となった。同三年に出家、法名を道暁、後に道我と改めている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「寛治中」西暦一〇八七年~一〇九四年。これでは時代齟齬も甚だしく、誤り。一部データには慶増院を乾元二・嘉元元(一三〇三)年に行然が開基したとするが、これも行然はとっくに死んでいる。寧ろ、この前年に没している行藤が生前に開基を志し、没後の翌年に開かれたとするならば通ずる。そしてその二階堂家の縁者(それがその時に亡くなった北条貞時の御家人二階堂行心なる人物なのかも知れない)が二階堂家に政所執事の世襲を齎した行然の供養塔をも建てたものかも知れない(それは現存しないか、何処かへ消えたか。この本文に書かれた小さな二基の墓が気にはなる)。その後、伝承が誤って伝えられ、近代以降の寺の変遷も相俟って、時代錯誤や埋葬者の誤認というどうしようもないまでの状況へと進んでしまったものかも知れない。「知れない」尽くしで恐縮だが、私の中の鎌倉の圏外の事蹟なれば、悪しからず。識者の御教授を乞うものである。]

耳嚢 巻之八 又 (芭蕉嵐雪の事)

   又

 

 右に同じき咄しなれど少し趣意も違ひ、いづれ後に附合(つけあは)せし事ならん。芭蕉翁と嵐雪行脚して、山の上に二人休(やすら)ひたりしが、右山の下にて、唯あじきなく廻しこそすれと口ずさみける女の聲しけるをきゝて、いかなる事にや、あの句を下にして、前を附(つけ)すべきとて、嵐雪、

  本復の憂身に帶の長すぎて

と云けるを、芭蕉翁、左にあるまじ、我附(つく)べしとて、

  ひとり子のなき身の跡の風ぐるま

と云て、兩人山を下りて、彼(かの)泣ける女子(をなご)に尋(たづね)しに、果して芭蕉が附句の通り、子を失ひし女の口ずさみなりとぞ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:極めて相似的シチュエーションの仮託作の別譚であるが、遙かにこちらの方がよい。それは前話が明らかな倒叙的書き方で、狂女の凄愴な映像をあからさまに描いて読後の後味がひどく悪いのに対して、ここでは「唯あじきなく廻しこそすれ」という謎掛け染みた上五に、嵐雪が恋路に迷って痩せさらばえた「娘」の身の自己愛としての憐れを附句したのを、師芭蕉が「母」たる子を失った「若き女」の絶対の悲しみとして読み解き、それが最後に解き明かされるという形式の中で、我々がこの哀れなる「女」の映像を決して直視しない点でよく出来ている(鈴木氏の謂いを借りれば、『まだ』しも『巧みである』)。謂わば前の宗祇宗長のそれは薄気味悪さを漂わす狂女物(それは過去の時制に生きる女だけの悲惨な夢幻能的世界でさえある)の失敗作のようであり、この芭蕉嵐雪のそれはしみじみとした現在能(そこでは寧ろ、控えめの朧げな憐れを催させる子を失った若き女の面影が読むものの心の内だけに果敢なくも美しい夢幻のように浮かび上がるのである)余香を伝えるからだと私は思うのである。

・「又」この又は現代語訳ではおかしなことになるので「芭蕉嵐雪の事」と読み替えた。

・「嵐雪」服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年)は蕉門十哲の一人芭蕉第一の高弟。江戸湯島生。元服後約三十年間に亙って転々と主を替えながら武家奉公を続けた。芭蕉への入門は満二十一歳の延宝三(一六七五)年頃で(芭蕉満三十一歳)、元禄元(一六八八)年一月には仕官をやめて宗匠として立ち、榎本其角とともに江戸蕉門の重鎮となったが、後年の芭蕉が説いた「かるみ」の境地には共感が出来ず、晩年の芭蕉とは殆んど一座していない。それでも師の訃報に接しては西上し、義仲寺の墓前に跪いて一周忌には「芭蕉一周忌」を編んで追悼の意を表すなど、師に対する敬慕の念は終始厚かった。青壮年期に放蕩生活を送り、最初は湯女を、後には遊女を妻としたが、晩年は俳諧に対して不即不離の態度を保ちつつ、専ら禅を修めた。内省的な人柄でそれが句にも表われて質実な作品が多く、嵐雪門からは優れた俳人が輩出し、中でも大島蓼太の代になって嵐雪系(雪門)の勢力は著しく増大した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「本復の憂身に帶の長すぎて」は「ほんぷくのうきみにおびのながすぎて」と読む。未だに恋の憂いの病いから解き放たれることなく、すっかり痩せ細ってしまったこの身には帯が長すぎる、というのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 芭蕉と嵐雪の発句の事

 

 先の話柄と同じい咄(はなし)にては御座るが、少しばかり趣意も違い、まあ、孰れも後の世にて附会致いた作り話にてはあろうものの、別に一話の、これ、御座れば添えおくことと致す。

 

 芭蕉翁と高弟の嵐雪、これ、ある折り、行脚致いて、とある峠にて、二人して一休み致いて御座った。

 とその峠を少し下った辺りより、

 

  唯あじきなく廻しこそすれ

 

と若き女の声にて、か細く口ずさむのが聴こえた。

 芭蕉翁は、

「……あれは……如何なる謂いで御座ろう……さても、あの句を下の句にし、前句を附けてみられよ――」

との仰せなれば、嵐雪、

 

  本復の憂身に帯の長すぎて

 

と附けた。

 すると芭蕉翁は、凝っと眼を閉じたまま、

「――そうでは――御座るまい。……一つ、我らが附け申そう――」

と、静かに、

 

  ひとり子のなき身の跡の風ぐるま

 

と詠まれた。

 そうして両人、峠を下ったところが、じきに、かの句を詠んだと思しい、しきりに涙にむせんでおる女子(おなご)の御座った。

 そこで、翁は、

「……御身は先に『唯あじきなく廻しこそすれ』とお詠みになられなんだか?……」

と優しく訊ねられた。

 女子は泣きながら、静かに肯んじた。

 されば、

「……そも……かの句……これ、如何なる謂われの御座るものかのぅ?……よろしければ……お聴かせ下さらぬか?……」

と訊ねた。

 すると果して芭蕉が附句致いた通り、

「……はい……妾(わらわ)は先に……がんぜない子(こぉ)を……失(うしの)うて御座いますれば……かく……口ずさんで御座いました……」

と答えた。

耳嚢 巻之八 宗祇宗長歌の事

 宗祇宗長歌の事

 

 宗祇、宗長連れ出(いで)行脚してある馬宿(うまやど)に宿もとめしに、若き女勝手において帶を解(とき)、又は帶をしめ、風車を手に持(もち)て泣(なき)、また捨(すて)ては泣ける故、兩人不審し、是(これ)全(まつたく)亂心なるべしといゝしが、宗長詠(よめ)る、

  戀すれば身はやせにけり三重の帶廻して見ればあじきなの世や

 宗祇之を聞(きき)て、左にあるべからずとて、

  みどり子がなきが記念の風車廻して見ればあじきなの世や

と詠ぜしとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。和歌技芸譚であるが、底本の注で鈴木氏は、『連歌史上の最高峯である宗祇が、高弟の宗長と連れ立って行く途中、頓才を競うというのは類型説話である』が、『後世の仮託であるにしてもこの例は出来が悪い。次の芭蕉嵐雪の取合せの方がまだ巧みである』と酷評されておられる。私も二首の和歌はこれ狂歌の類いで俳言の味わいもなく、宗長の読みの浅さが目立つばかり、しかも前のリアルな悲惨哀れなる光景が光景だけに、如何にも後味の悪い話柄と感じる。これは「耳嚢」中では珍しく、私にとっても厭な一篇である。

・「宗祇」(応永二八(一四二一)年~文亀二(一五〇二)年)言わずもがな乍ら、室町時代の連歌師。生国は紀伊とも近江とも言われ、姓は飯尾とされる。別号に自然斎(じねんさい)・見外斎。連歌を高山宗砌(そうぜい)・専順・心敬に学び、文明四(一四七二)年には東常縁(とうのつねより)より古今伝授を受けた。上京の種玉庵に三条西実隆や細川政元ら公家や大名を迎えては連歌会等を開き、また越後の上杉氏・周防の大内氏らにも招かれて連歌を講じた。長享二(一四八八)年には北野連歌会所奉行・将軍家宗匠となった。文亀二年七月三十日宗長・宗碩(そうせき)らに伴われて越後から美濃に向かう途中、箱根湯本の旅宿に没して駿河桃園(現在の静岡県裾野市)定輪寺に葬られた。享年八十二歳。連歌の代表作には「水無瀬三吟百韻」(長享二(一四八八)年)や「湯山三吟百韻」(延徳三(一四九一)年)がある。(ここまでは主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。ウィキ宗祇には、『宗祇は、連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心」を表現した。全国的な連歌の流行とともに、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった』と記す。

・「宗長」(文安五(一四四八)年~天文元(一五三二)年)は駿河国島田(現在の静岡県島田市)に鍛冶職の子として生まれた。号は柴屋軒。寛正六(一四六五)年に出家し、後に駿河の今川義忠に仕えたが、義忠が戦死すると上洛、宗祇に師事して連歌を学び、「水無瀬三吟百韻」「湯山三吟百韻」などの席に列した。また大徳寺の一休宗純に参禅し、大徳寺真珠庵の傍らに住んで、宗純没後は山城国薪村(現在の京都府京田辺市)の酬恩庵に住んで宗純の菩提を弔った。明応五(一四九六)年、駿河に戻って今川氏親に仕えた。文亀二年に宗祇が箱根湯本で倒れた際にはその最期を看取っている。宗祇没後は連歌界の指導者となり、有力な武将や公家との交際も広く、三条西実隆・細川高国・大内義興・上杉房能らとも交流を持ち、今川氏の外交顧問であったとも言われる。永正元(一五〇四)年には斎藤安元の援助により駿河国丸子の郷泉谷に柴屋軒(現在の吐月峰柴屋寺)を結び、京駿を頻繁に往還、大徳寺山門造営にも関わり、その晩年の見聞を記した「宗長手記」は洒脱な俳諧連歌の生活の外、当時の戦乱の世の世相・地方武士の動静などを綴った優れた記録である(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「馬宿」駅馬・伝馬に用いる馬を用意しておく家、又は自分の馬で旅をする者が宿に泊まる際にその馬を宿で預かるが、その馬を預かる設備のある宿屋のことをいう。後者で採る。

・「記念」底本では「かたみ」と鈴木氏がルビを振っておられる。ここまで和歌類にはルビを振らぬことを私の原則としてきたので、ここは本文に入れずに注で示した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 宗祇と宗長の和歌の事

 

 宗祇(そうぎ)と高弟宗長(そうちょう)とが連れ立って風雅行脚の旅に出、ある馬宿(うまやど)に宿を得た折りのことで御座った。

 その宿屋の身内と思しい若き女が、見通せる厨(くりや)の口にて、

――しきりに帯を解いては締め――また解いては締め

――玩具の風車を手に取っては泣き――またそれを投げ捨てては泣く

といったことを繰り返すのを垣間見て御座った。

 両人ともに不審に思うた。

 宗長は哀れと思いつつも、

「……これは……全くの……乱心にて御座いましょうのぅ……」

と師に耳打ち致いて、一首、

  恋すれば身は痩せにけり三重の帯廻してみればあじきなの世よ

と詠んで御座った。

 すると、宗祇は凝っと女から目を離さず、

「――そうでは――ない――」

と呟かれると、

  みどり子がなきが記念の風車廻して見ればあじきなの世や

と詠じたと申す。

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(5) たそがれ Ⅱ



何やらん我が若者は白壁に

かくれ語りす雪どけの朝

 

始めての床に女を抱く如き

ものめづらしき不安なるかな

 

[やぶちゃん注:朔太郎満二十三歳の時の、『スバル』第二年第一号(明治四三(一九〇二)年一月発行)に掲載された連作の一首、

 始めての床に女を抱く如きものめづらしき怖れなるかな

の類型歌。]

 

八疊の柱どけいのちくたくと

母の忍ばゆ家を思へば

 

春の夜は芝居の下座(げざ)のすりがねを

たゝく男もうらやましけれ

 

[やぶちゃん注:前に同じく『スバル』第二年第一号に前の一首に続けて載る、

 春の夜は芝居の下座のすりがねを叩く男もうらやましけれ

の表記違いの相同歌。]

 

祭の日寢あかぬ床に寺々の

鐘きく如きものゝたのしさ

 

[やぶちゃん注:同じく『スバル』第二年第一号に前の一首に続けて載る、

 祭の日寢あかぬ床に寺寺の鐘きく如きもののたのしさ

の表記違いの相同歌。]

 

民はみなかちどきあげぬ美しき

捕虜(とりこ)の馬車のまづみえしとき

 

[やぶちゃん注:朔太郎満二十三歳の時の、『スバル』第二年第四号(明治四三(一九〇二)年四月発行)に掲載された連作の一首、

 民はみなかちどきあげぬ美しき捕虜(とりこ)の馬車のまづ見えしとき

の表記違いの相同歌。]

 

幼き日パン買ひしに行きしその店の

額のイエスの忘られぬかな

 

[やぶちゃん注:「幼き」の「幼」の字は原本で「力」が「刀」であるが、誤字と断じて校訂本文同様に「幼き」とした。「買ひしに行きし」の「買ひし」の「し」はママ。校訂本文は誤字(衍字)として除去している。以下の先行作から見ても衍字の可能性が極めて強いが、敢えてここはママとする。前に同じく『スバル』第二年第四号に掲載された連作の一首、

 幼き日パン買ひに行きし店先の額のイエスをいまも忘れず

の類型歌。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和七年(七十二句) Ⅲ



さみだれて苔蒸すほどの樒かな

 

[やぶちゃん注:「樒」仏前に供えられるシキミ目シキミ科シキミ Illicium anisatum。「櫁」とも書く。ウィキの「シキミ」によれば、『地方によりシキビ、ハナノキ(カエデ科にも別にハナノキがある)、ハナシバなどともいう。学名にはリンネが命名したIllicium anisatum L.と、シーボルトが命名したI. religiosum Sieb. et Zucc.(“religiosum”は「宗教的な」という意味)が存在するが、リンネのものが有効となっている』。『シキミの語源は、四季とおして美しいことから「しきみ しきび」となったと言う説、また実の形から「敷き実」、あるいは有毒』(全草有毒。特に種子にアニサチンなどの有毒物質を含み、多量に含む果実食べた場合は死に至る危険性もある)『なので「悪しき実」からともいわれる。日本特有の香木とされるが、『真俗仏事論』2には供物儀を引いて、「樒の実はもと天竺より来れり。本邦へは鑑真和上の請来なり。その形天竺無熱池の青蓮華に似たり、故に之を取りて仏に供す」とあり、一説に鑑真がもたらしたとも言われる』とあり、更に『シキミ(樒)は俗にハナノキ・ハナシバ・コウシバ・仏前草という。弘法大師が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた。なにより年中継続して美しく、手に入れやすいので我が国では俗古来よりこの枝葉を仏前墓前に供えている。密教では葉を青蓮華の形にして六器に盛り、護摩の時は房花に用い、柄香呂としても用いる。葬儀には枕花として一本だけ供え、末期の水を供ずる時は一葉だけ使う。納棺に葉などを敷き臭気を消すために用いる。茎、葉、果実は共に一種の香気があり、我が国特有の香木として自生する樒を用いている。葉を乾燥させ粉末にして末香・線香・丸香としても使用する。樒の香気は豹狼等はこれを忌むので墓前に挿して獣が墓を暴くのを防ぐらしい。樒には毒気があるがその香気で悪しきを浄める力があるとする。インド・中国などには近縁種の唐樒(トウシキミ)があり実は薬とし請来されているが日本では自生していない。樒は唐樒の代用とも聞く。樒は密の字を用いるのは密教の修法・供養に特に用いられることに由来する』とある。]

 

花鉢を屋形も吊りて薄暮かな

 

麥秋の紫蘇べらべらと唐箕さき

 

[やぶちゃん注:「唐箕」は「たうみ(とうみ)」と読み、穀粒を選別するための農具。箱形の胴に装着した羽根車で風を起こして秕(しいな:うまく実らずに殻ばかりで中身のない籾のこと。)・籾殻・塵などを吹き飛ばし、穀粒を下に残す装置のこと。]

 

星合の薰するやこゝろあて

 

[やぶちゃん注:「星合」七夕。「薰するや」は「ふすべするや」と読んでいるか。七夕飾りは終えた後に灰が天へ上って願い事が叶うよう(「こゝろあて」)にと、お焚き上げなどと称して燃やす(習合した日本古来の魂祭りから考えると、川や海に流すものが古形であったと私は思う)。]

 

石枕夜闌の水にうつりけり

 

[やぶちゃん注:「石枕」夏に用いる陶製の枕。陶枕(とうちん)。「夜闌」は「やらん」で真夜中の意。]

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年六月



トマト賣る裸ともしは鈴懸に

 

[やぶちゃん注:「裸ともし」は「裸灯し」であろう。ホヤなしのランプかアセチレンか。]

 

太陽を孕みしトマトかくも熟れ

 

灼け土にしづくたりつつトマト食ふ

 

月靑く新聞紙(カミ)をしとねのあぶれもの

 

ルンペンの寢に噴水の奏でけり

 

[やぶちゃん注:以上の二句は『現代俳句 3』とあるが、これは雑誌ではなく、鳳作没後の昭和一五(一九四〇)年に河出書房から刊行された「現代俳句」第三巻のことと思われる。

 鳳作得意のルンペン句。「ルンペン」はドイツ語“
Lumpen”(ルムペン:動詞では「のらくらと暮らす・放蕩生活をする」、名詞では「襤褸布(ぼろきれ)・襤褸服」「屑・がらくた」で、無頼の徒・ゴロツキや広く浮浪者を指す場合には正しくは“Lumpengesindel”(ルムペングズィンデル)と言う)を語源とする。作家下村千秋(しもむらちあき 明治二六(一八九三)年~昭和三〇(一九五五)年)が震災恐慌から世界大恐慌へと続いた経済破綻によって大正末から昭和初期にかけて巷に溢れていた失業者や浮浪者のどん底生活の実態を克明に描いた新聞小説「街のルンペン」(昭和五(一〇三〇)年朝日新聞夕刊連載)が評判となったことから一般に広まった語である(彼の作品は『ルンペン小説』『ルンペン文学』とも呼ばれた)。後半部は茨城県稲敷郡阿見町の公式サイト内「観光」の阿見が生んだルンペン文学の小説家 下村千秋を参照した。]

 

   公園所見

ルンペンの早やきうまゐに夜霧ふる

 

ルンペンに今宵のベンチありやなし

 

[やぶちゃん注:本句も『現代俳句 3』とある。]

 

南風の岩にカンバス据ゑて描く

 

海描くや髮に南風ふきまろび

 

[やぶちゃん注:前田霧人氏の「鳳作の季節」によれば、この句について、『この頃、彼は教師の欠員に伴い、公民、英語以外に図画の授業を受け持つようにな』り、それは『こんな句があるから、新学年のこの四月からのことなのであろう。彼は生徒と一緒に野山に海に出掛け、実に熱心に指導する。その結果、赴任当初の短歌や俳句指導の時と同じように、学校全体が絵に熱中し出す。そして、尚介が幹事となって「宮古中学白陽画会」が出来て、「美術賞」を設け展覧会を催すまでになる。このように、何時でも誰にでも直ぐに火を付ける雲彦であった』として、宮中健(これは下宿の同僚の慶徳健で彼のペンネームとある)氏の「篠原鳳作の印象」から『「天の川」昭和三十六年三月号篠原さんは、下宿では絵も書きました。スケッチブックに水彩といった簡素なものでしたが、トランプを真上から描いたものは、今でも鮮明に頭にのこっています。この構図も感覚も、句につながるものがあると思います』と引用、『雲彦は生徒の前では余り絵を描く姿を見せなかったが、彼にとっては絵画も写真も大いなる俳句の糧であり、人知れず努力を惜しまないのであった』とある。

 

 以上、九句は六月のパートに載る。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅵ 信濃抄四(1)

 信濃抄四

 

いづこにもいたどりの紅木曾に泊つ

 

一夜寢て晩ひぐらしを枕もと

 

足袋買ふや木曾の坂町夏祭

 

いなびかりつひに我灯も消しにけり

 

走り出て湖汲む少女いなびかり

 

秋燕にしなのの祭湖(うみ)荒れて

 

[やぶちゃん注:「秋燕」特に秋の社日(しゃにち:元来は産土神(社)を祀る日で春分と秋分に最も近い、その前後の戊の日を指す)である秋社(あきしゃ)の日に南へと渡り帰ってゆく燕を指す。例えば今年二〇一四年のそれは九月二十四日に当たる。]

 

草の中ひたすすみゆく秋の風

 

雀ゐて露のどんぐり落ちる落ちる

 

木の實落つわかれの言葉短くも

杉田久女句集 143 水焚や入江眺めの夕時雨



水焚や入江眺めの夕時雨

 

[やぶちゃん注:「水焚」は「みづたき(みずたき)」で水辺での榾火と思われるが、これもロケーションから見て私は高い確率で櫓山荘での景と思う。]

日和   山之口貘 / 「山之口貘詩集」了

 

   日 和

 

とうさんの商賣はなんだときくと

ひつぱつてゆくんだと彼女は云つた

おまはりさんなのかと思つてゐると

ひつぱつてゆくんだがうちのとうさんは人夫ではないよと彼女は云つた

ひつぱつてゆくんだが人夫ではない

おまはりさんでもなかつたのか

いつたいなんの商賣なんだときくと

人夫を多勢ひつぱつてゆくんだと云ふ

けれども彼女のとうさんは線路の傍に立つてゐて

人夫達のするしごとを

見てゐるだけだと彼女は云つた

人夫のかんとくさんだらうと云ふと

身悶えしながら彼女は云つた

おまへもうちのとうさんに

職を見つけてもらへと云つた

だまつてゐると

話をしろと云ひ

話をするとする話をもぎとつて

すぐに彼女は挑むで來る

どうせ職ならいつでもほしくなるやうにと僕のおなかはいつでもすゐてゐるのだが

男みたいな女を

こひびとなんかにしてしまつたこのことばかりは生れてはじめてのこと

おまへとはなんだいと呶鳴つてやれば

おまへのことだよなんだいと云ひ

女のくせになんだいと呶鳴つたら

るんぺんのくせになんだいと來た。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】初出は昭和一四(一九三九)年四月特大号『新潮』。次の「あとがき」でお分かりの通り、この詩がこの「山之口貘詩集」の中で追加された新作の中で、最古(最も前に創作された)の詩である。発表時、バクさん三十六歳。この二ヶ月後の六月に生まれて初めてのそしてたった一度の定職としての東京府職業安定所に勤めることとなる。但し、ここに現われる女性は内容からして当時の妻の静江さんではない(静江さんの父は小学校校長)。従ってこのシークエンスは昭和一二(一九三七)年十二月の結婚よりも遙か前の時制であるので注意されたい。

 原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本山之口貘詩集」では最後の句点が除去され、十九行目が、

 

すぐに彼女は挑んで來る 

 

となり、また二十行目が、

 

どうせ職ならいつでもほしくなるやうにと僕のおなかはいつでもすいてゐるのだが 

 

と訂されてある。

【二〇二四年十一月六日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で校訂した。当該部はここから。

 

 

 あとがき 

 

 この詩集の初版本は、昭和十五年(一九四〇)の十二月に、山雅房から出した「山之口貘詩集」である。

 ぼくは、昭和十三年(一九三八)の八月に、むらさき出版部から「思弁の苑」を出してゐるので、「山之口貘詩集」は第二詩集なのであるが、このなかには「思弁の苑」がそつくり含れてゐるのである。

 「思弁の苑」にをさめた詩篇は、大正十二年(一九二三)から昭和十三年(一九三八)までのもの五十九篇であつて、それにその後のもの昭和十五年(一九四〇)までの十二篇を新に加えて、七十一篇をまとめたのが「山之口貘詩集」である。

 この詩集は、間もなく、紙さへ入手出出来れば版を重ねたいとのことであつたがあの戦時下、紙はつひに入手困難となつて、再版の話がそのまま立ち消えになつてしまつたのである。

 敗戦後の昭和二十三年には、「山之口貘詩集」以後のものを一巻にまとめたいとの話が、八雲書店からあつたが、当時、ぼくにはまだその気がなく、「山之口貘詩集」の再版を希望したのである。と云ふのは、この詩集を探してゐる人達のあることを、時に、手紙で知つたり、人づてに知つたり、あるひは訪ねて来る人の口から知つてゐたからなのであつて、どの人も古本屋など探し廻つた揚句の様子なのであり、ぼく自身も、機会あるごとに探してゐたからなのである。見つからないのは、おそらく、戦災で灰になつたのではないかと思ふより外にはなく、そんなわけで、八雲書店から再版を出すことになつたのである。ところが原稿が校了になつたかと思ふとまもなく、印刷所で紙型が焼失の目に逢ひ、そのうちに八雲書店の解散でまたも再版は立ち消えとなり、ゲラ刷だけが、ぼくの手許に戻つて来て、今日までそのままになつてゐたのである。

 そこへ、最近、同郷の若い人達から、またまた再版を出したいとの話があつて国吉昭英、山川岩美の両君が、並々ならぬ厚意を寄せて色々と相談の途上にあつたところ、突然ではあつたが、両君にはぼくから諒解を求めた上、別に、原書房から、定本として出すことになつたのである。これは、佐藤光一、並びに、原書房の成瀬恭の両氏のお骨折りによるもので、両氏に感謝するとともに、山川、国吉の両君またなにかとお手数煩した会田綱雄の三君の名をここに記して感謝のしるしとしたい。

 なほ、初版本で、目次にある作品番号と旧歴年号、木炭と詩集ケースのデザイン、肖像写真の撰定などは、當時の山雅房と深い親交のあつた詩友平田内蔵吉氏の厚意によつて配慮されたものであるが、定本を出すに当つてこれを割愛し、また著者自身の校正が不行届のために、誤字誤植もあつたわけで、これの訂正もこころがけ、本来、詩の上ではなるべく句読点を避けて来た自分に即して、句読点を取り除いたことを記し、忙中この定本の校正をこころよく引き受けてくれた畏友光永鉄夫氏に感謝する。

 1958・7・8

           山之口貘    

 

  附記

三四頁―二行三行目はもと一行。(上り列車)

一二九頁―終りから三行目、四行目はもと一行。(夢の後)

一三七頁―終りから三行目、四行目はもと一行。(青空に囲まれた地球の頂点に立つて)

一三八頁―終りから三行目、の「はつきり」はもと「つきり」(同)

一四四頁―二行目と三行目の頭から―を除いた。(妹へおくる手紙)

一五二頁―二行目の「おとなしく」はもと「しく」(無題)

一五三頁―一行目の「鞴」ほもと「吹鼓」(同)

一七八頁―二行目の「いいえ」はもと「否え」(座談)

二〇二頁―三行目の頭から―を除いた。(晴天)

二〇三頁―二行目の頭から―を除いた。(同)

 その外、ゝ、をあらため、蟲を虫、喰を食にあらためたことを記しておきたい。詩篇の配列は初版本とおなじで、巻末から巻頭へ製作の順である。

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、「あとがき」にミス・タイプや旧字を多数発見したため、本文を訂正、さらにこの注も改稿した。】「附記」の中の太字部分は底本では傍点「。なお、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題に載る「附記」を見ると、各項の下のポイント落ちの( )のついた詩題は旧全集編者によるものであるらしいことが分かった。以上の「あとがき」と「附記」は戦後の原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」で初めて附されたものである。従って漢字表記は底本通りの新字体とした。因みに、「附記」にある訂正は私の電子テクストでは総て原型のそれであり、改稿の異同は句読点の有無を含めて(底本の旧各注ではこれは校異に示されていないので、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」で対比検証した)附してある。

【二〇二四年十一月六日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここから(最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で校訂した。当該部はここから。

春   八木重吉

 

春は かるく たたずむ

さくらの みだれさく しづけさの あたりに

十四の少女の

ちさい おくれ毛の あたりに

秋よりは ひくい はなやかな そら

ああ けふにして 春のかなしさを あざやかにみる

2014/03/25

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 五 受精 (1)

    五 受精

 動物植物ともに單爲生殖により卵細胞のみで繁殖する場合もあるが、これは寧ろ例外であつて、まづ卵と精蟲とが相合しなければ子が出來ぬのが一般の規則である。卵細胞と精蟲との合することを受精と名づける。雞のやうな大きな卵と極めて微細な精蟲とが相合する所を顯微鏡で見ることは困難であるが、小さな卵ならばこれに精蟲が入り込む有樣を實際に調べることは何の困難もない。例へば夏雌の「うに」を切り開いて成熟した卵細胞を取り出し、海水を盛つた硝子皿の中に入れ、これを顯微鏡で見て居ながら、別に雄の「うに」から取り出した精蟲を海水に混じたものを、一滴その中へ落し加へると、無數の精蟲は尾を振り動かして水中を游ぎ、卵細胞の周圍に集まり、どの卵細胞も忽ち何十疋かの精蟲に包圍せられるが、その中たゞ一疋だけが卵細胞の中へ潜り込み、殘餘のものは皆そのまゝ弱つて死んでしまふ。以上は人工受精と名づけて臨海實驗場などで、學生の實習として年々行ふことであるが、注意して觀察すると、なほさまざまなことを見出す。まづ第一には精蟲が卵に出遇ふのは、決して目的なしに游ぎ廻つて居る中に偶然相觸れるのではなく、殆ど直線に卵を目掛けて急ぎ行くことに氣がつく。その際精蟲は恰も目無くして見、耳なくして聞くかの如く、最も近い卵を狙つて一心不亂に游ぎ進むが、これは如何なる力によるかといふに、下等動物の精蟲が、悉く砂糖や林檎酸の溶液の方へ進み行く例を見ると、或は卵が何か或物質を分泌し、それが水に混じて次第に擴がつて近邊に居る精蟲を刺激し、精蟲はその物質の源の方へ游ぎ進むので、終に卵に達するのかも知れぬ。いづれにせよ、卵は精蟲を自分の方へ引き寄せる一種の引力を有し、精蟲はこの引力に對して到底反抗することが出來ぬものらしく見える。

[やぶちゃん注:「卵が何か或物質を分泌し、それが水に混じて次第に擴がつて近邊に居る精蟲を刺激し、精蟲はその物質の源の方へ游ぎ進むので、終に卵に達するのかも知れぬ」ここで丘先生によって語られるところの受精の際に見られる精子の卵に対する正の走化性の存在は、植物から動物まで広く見られる現象であって、精子が最初に同種の卵を識別した上、更には精子を卵まで導くシステムが厳然としてあることは間違いないことは明らかとなっている。但し、卵が放出する精子誘引物質が種によって異なることが知られてはいるものの、放出されるその精子誘引物質が極微量であることから、その化学物質が同定されている動物種は未だ十種に満たず、その分子メカニズムも殆ど解っていないのが現状である(以上は東京大学の二〇一三年の報告になる吉田学氏他の「ホヤ精子走化性の種特異性をもたらす精子誘引物質の構造の違いを解明の記載を参照した)。]

中島敦 南洋日記 一月二十七日

        一月二十七日(火) ガスパン

 午前中農園内散歩。コーヒー・カカオ(赤き實)丁香・胡椒・マンゴステイン等。午後小林氏の案内にて又歩き廻る。蔓草ヷニラ。芭蕉に似たるマニラ麻。パナマ草。食用べに。黄色のトマトの如き茄子。アボガドオ・ペア其の他。地に舖けるサラワク・ビーンズ。園内の荒廢せると、地味の瘦せたるに一驚。小林氏方にて紅茶、蜂蜜。ミルク。三時出發、天氣快晴。秋の如し。一寸道を誤りて熱産波止場の方に出で、引返して、川傍を行く。粘土道。一時間足らずにしてガスパン莊に達す。この邊にては川は既に溪谷の趣あり。志水氏の世話に成る。子供多勢。事務所に行きし土方氏、志水氏と歸り來る。臺北帝大に永く勤めし人にて下川氏とも良く知れりと。又泱ちやんのことも知れり。芋の如く太きバナナ。夜、庭に席を出し、椅子卓子を出して月を觀る。小學校長も來る。頗る涼し。飛行機鳥の聲。九時就寢。

[やぶちゃん注:「丁香」中黒点が前にないが、「カカオ丁香」ではあるまい。丁香は音「ちやうかう(ちょうこう)」で、所謂、丁子(ちょうじ)・クローブ(英語:Clove)即ち、バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum のことであろう。これで「ちやうじ(ちょうじ)」と読んでいる可能性も高い。但し、狭義には「丁香」と書くとチョウジノキの開花前の蕾(つぼみ)を乾燥させた生薬や香辛料の名である。インドネシアのモルッカ群島原産の常緑高木で東南アジアやアフリカなどで栽培される。芳香があり、葉は楕円形で両端が尖る。筒状の花が房状に集まってつき、蕾は淡緑色から淡紅色へと変化して開花すると花弁は落ちる。つぼみからは油も採取だれる。

「蔓草ヷニラ」バニラ・ビーンズ、バニラ・エッセンス、バニラ・オイルを採取する蔓性植物である単子葉植物綱ラン目ラン科バニラ Vanilla planifolia。種小名“planifolia”はラテン語で「扁平な葉」の意(以上はウィキの「バニラ」に拠る)。

「芭蕉に似たるマニラ麻」単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属マニラアサ Musa textilis。ご覧の通り、「芭蕉に似たる」は当然。参照したウィキの「マニラアサ」によれば、『丈夫な繊維が取れるため、繊維作物として経済的に重要で』、『名称の「マニラ」は原産地であるフィリピンの首都・マニラに由来する。分類上はアサの仲間ではないが、繊維が取れることから最も一般的な繊維作物である「アサ」の名がついている。他にアバカ、セブ麻、ダバオ麻とも呼ばれる』。『フィリピン原産で、ボルネオ島やスマトラ島にも広く分布する。植物学的には多年草であるが、高さは平均』六メートル『に達するため木のように見える。これは同属のバナナと同様であり、外見もよく似ている』。『葉は楕円形で大きく、基部は鞘状で茎を包むようになっており(葉鞘)、ここから繊維が取れる』。『マニラアサの繊維は植物繊維としては最も強靭なものの1つである。またマニラアサは水に浮き、太陽光や風雨などに対しても非常に高い耐久性を示す。ロープをはじめ、高級な紙(紙幣や封筒)、織物などに用いられている。マニラアサは3―8ヶ月ごとに収穫される。生長した個体は根を残して切り倒し、葉鞘を引き剥がす。残された根からは新しい植物が生長する』。『葉鞘からは肉質などを除去し、繊維だけを取り出す。繊維はセルロース、リグニン、ペクチンなどで構成されており、長さは』一・五~三・五メートル『である。これをよりあわせるとロープができる』。『フィリピンでは1800年代からロープ用に栽培されており、1925年にはフィリピンでの栽培を見たオランダ人によってスマトラ島に大規模なプランテーションが作られ、続いて中央アメリカでも米国農務省の援助で栽培が始まった。英領北ボルネオでは1930年に商業栽培が始まった』とある。

「パナマ草」単子葉植物綱ヤシ亜綱パナマソウ目パナマソウ科 Cyclanthaceae に属し、ヤシに似た葉を持つ。主に熱帯に産し、凡そ十二属百八十種を含む。この内のパナマソウ Carludovica palma がパナマ帽(この帽子の発祥は実はパナマではなくエクアドルで、「パナマ帽」の名称由来はパナマ運河であるとする説が強く、「オックスフォード英語辞典」では「一八三四年にセオドア・ルーズヴェルトがパナマ運河を訪問したときから一般に広まった」としている。ここはウィキの「パナマ帽」に拠る)の材料であったために同類総体の植物にも「パナマソウ」の名がついたという。自生種は熱帯アメリカと西インド諸島に分布し、高さ一~三メートルほど、大きな団扇状の葉が広がる。花はサトイモ科に似、果実は熟すと剥け落ちて朱赤色の果肉が現れる。葉を天日で乾燥させ、さらに煮沸した後に漂白したものをパナマ帽の材料とする(ここは「Weblio 辞書」の「植物図鑑」の「パナマソウ」に拠った)。

「食用べに」種子から搾ったサラダ油として使用される紅花油(サフラワー油)やマーガリンの原料としたりする、エジプト原産とされるキク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ Carthamus tinctorius のことであろう。

「黄色のトマトの如き茄子」現在、“Eggplant Thai Yellow Egg”と呼ばれるタイ料理ではポピュラーな鮮やかな黄色い卵型のまさにプチ・トマトのような茄子があるが、それか、その仲間か。グーグル画像検索「Eggplant Thai Yellow Egg

「アボガドオ・ペア」ここはこれの一語でクスノキ目クスノキ科ワニナシ属アボカド Persea Americana を指す。アボガドは英語で“avocado”であるが、別名“alligator pear”とも言う。ウィキの「アボガド」によれば、昭和四十(一九六五~一九七五)年代『までは、果実の表皮が動物のワニの肌に似ていることに由来する英語での別称 alligator pear を直訳して、「ワニナシ」とも呼んでいた』とある。

「サラワク・ビーンズ」ネット上ではサラワク豆と呼称する豆類は見たらない。マレーシア産のホワイト・ペッパーを現在ではサラワク・ペッパーと呼んでいるが、英文検索で“Sarawak beans”を掛けると、圧倒的に“Coffee Beans in Sarawak”が引っ掛かる。これかと思えば、どうもこれは一種の胡椒入りフレーバー・コーヒーで、同一物であるようにも見える。御存じの方の御教授を乞うものである。

「泱ちやん」人名であろうが不詳。呉音は「アウ(オウ)」、漢音は「アウ(オウ)・ヤウ(ヨウ)」で、意味は、水面が広々とした・洋々たる、気宇壮大な・堂々たるという意。人名漢字としては「ひろし」とも読めるのでここでもそうかもしれない。

「飛行機鳥」不詳。敦の「環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――」の「眞晝」の末尾に、

   *

 少年について一歩日向の砂の上に踏出した時、タマナ樹の梢から眞白な一羽のソホーソホ鳥(島民が斯う呼ぶのは鳴き聲からであるが、内地人は其の形から飛行機鳥と名付けてゐる)が、バタバタと舞上つて、忽ち、高く眩しい碧空に消えて行つた。

   *

とある(底本は筑摩版旧全集を用いた。「バタバタ」の後半は底本では踊り字「〱」)とはある。鳥類にお詳しい識者の御教授を乞う。

飯田蛇笏 靈芝 昭和七年(七十二句) Ⅱ 長禪寺に、故四俳人の追悼會をいとなむ。五句

  長禪寺に、故四俳人の追悼會をいとなむ。五句

雲へだつ筑紫の春の紅々忌

 

[やぶちゃん注:「長禪寺」現在の山梨県甲府市愛宕町にある臨済宗で甲府五山の一つである長禅寺か。以下の四人は甲府若しくは山梨の出身の『ホトトギス』系俳人ででもあったものか。但し、「紅々忌」紅々という俳人若しくは「紅々忌」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

巨人忌の大嶺に日はたゞよへり

 

[やぶちゃん注:「巨人忌」巨人という俳人若しくは「巨人忌」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

まつりたる皷緒忌の花の馬醉木かな

 

[やぶちゃん注:「皷緒忌」「こちよ(こちょ)」か。皷緒という俳人若しくは「皷緒忌」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

夢拙忌の供華しろじろと籠の中

 

[やぶちゃん注:「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」。「夢拙」ネット上の情報では一九一〇年代(明治四十三年~大正八(一九一九)年)のアメリカで『ホトトギス』派であったサンフランシスコの『日米新聞』の「蝉蛙会(せんあかい)」の主力メンバーに古屋夢拙(ふるやむせつ 本名(?)晃)という人物がいることが分かるが、彼か?]

 

山池のそこひもわかず五月雨るゝ

 

[やぶちゃん注:「そこひ」は「底方」で水底の意。]

杉田久女句集 142 戲曲讀む冬夜の食器漬けしまゝ



戲曲讀む冬夜の食器漬けしまゝ

 

[やぶちゃん注:久女が「冬」の「夜」に「食器」を厨の桶の中に「漬けしまゝ」に食い入るように「讀」んでいる「戲曲」――となれば――これは如何にもながら――イプセンの「人形の家」――でなくてはなるまい――。[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年の作。久女が「冬」の「夜」に「食器」を厨の桶の中に「漬けしまゝ」に食い入るように「讀」んでいる「戲曲」――となれば――これは如何にもながら――イプセンの「人形の家」――でなくてはなるまい――。編年式編集の角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」ではまさにこの句の後に「足袋つぐやノラともならず教師妻」が載る――

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅴ



冬雲の北のあをきをわが恃む

 

雨風の連翹闇の中となる

 

縫ひすすむ針よりも衣ひゆる夜ぞ

 

子とあれば吾いきいきと初蛙

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年五月



麥秋の丘は炎帝たたらふむ

 

トマトーの紅昏れて海暮れず

 

トマトゥの紅昏れて海くれず

 

[やぶちゃん注:前者が五月発行の『天の川』の、後者が六月発行の『傘火』の発表句。

最後の句を除く、三句は五月の発表句。]

紙の上   山之口貘

 

   紙の上

 

戰爭が起きあがると

飛び立つ鳥のやうに

日の丸の翅をおしひろげそこからみんな飛び立つた 

 

一匹の詩人が紙の上にゐて

群れ飛ぶ日の丸を見あげては

だだ

だだ と叫んでゐる

發育不全の短い足 へこんだ腹 持ちあがらないでつかい頭

さえづる兵器の群をながめては

だだ

だだ と叫んでゐる

 

だだ

だだ と叫んでゐるが

いつになつたら「戰爭」が言へるのか

不便な肉體

どもる思想

まるで砂漠にゐるやうだ

インクに渇いたのどをかきむしり熱砂の上にすねかへる

その一匹の大きな舌足らず

だだ

だだ と叫んでは

飛び立つ兵器をうちながめ

群れ飛ぶ日の丸を見あげては

だだ

だだ と叫んでゐる。 

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一四(一九三九)年六月号『改造』。二年後の一九四一年十二月二十日山雅房(本詩集の刊行元)発行の『現代詩研究第一輯 戦争と詩』にも再掲されている。「定本 山之口貘詩集」では最後の句点が除去されてある。全共闘世代の「詩人」と自称しておられる黒川純氏のブログ「懐かしい未来」の『検閲逃れた反戦の叫び 山之口貘の傑作詩「紙の上」』が、非常に分かり易く本詩の持つ反戦性について語っておられる。必読である。【2014年月日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加・改稿した。】

【二〇二四年十一月六日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で校訂した。当該部はここから。一部の本文を私がミスしていた。これが、正規表現である。

耳嚢 巻之八 狸縊死の事

 

 狸縊死の事

 

 狐狸といへど、狸は人を欺(あざむき)迷わす事抔、狐には遙に劣りて其性(しやう)魯鈍なる事多し。近き頃の事なりとや、本鄕櫻馬場のあたりに、酒屋とか又は材木屋とかありしが、久敷(ひさしく)召(めし)仕ふ丁稚上りの若き者あり。又田舍より出て同じく仕へし小女ありしが、いつの程にかわりなく契りを結び、始終夫婦に成(なる)べしとかたく約しけるに、不計(はからず)も彼(かの)女の在所より、聟(むこ)とるとて暇乞(いとまごひ)願ひけるを聞(きき)て、二人とも大きに驚き、かくては兼ての契約も事遂(とげ)ずと、互に死を極(きは)めて、俱(とも)に未來の事抔約し、夜々櫻の馬場へ忍びて相談せしが、無程(ほどなく)主人よりも暇可遣(つかはすべき)期日など申渡(まうしわたし)ける故、最早延々に難成(なりがたく)、あすの夜こそ櫻の馬場にて首縊(くくら)んと約し、男は外(そと)へ使(つかひ)に行(ゆき)し間、何時(なんどき)ごろ右馬場に待合(まちあへ)よと申合(まうしあはせ)て、男は主用(あるじよう)の使に出、其事とゝのひて暮過(くれすぎ)に馬場へ來りしに、はや女は來り居て、彌(いよいよ)と約を極め、男女支度の紐を櫻に結び付(つけ)、二人とも首へまとひ、木より飛(とび)けるに、女はなんの事なく縊(くび)れ死し、男も首しめけれど、地へ足とゞきけるゆゑ、誠に死に不至(いたらず)。然るにかの約せし女又壹人來り、男のくるしむ體(てい)、且(かつ)我にひとしき女首縊(くく)り居(をり)候ゆゑ驚き入(いり)、聲たてければ、あたりより人集(あつま)りて見るに男は死にやらず居(をり)ければ、藥抔あたへ息(いき)出るに付(つき)、いさいの樣子を尋(たづね)ければ、いまは隱すに所なく、男女とも有(あり)のまゝに語りけるゆゑ、さるにても縊死(いし)せし女はいかなる者と尋しに、惣身(さうみ)毛生(はへ)出で狸にぞありける故、早々驚(おどろき)て主人へも告(つげ)けるに、男女とも數年實體(じつてい)に相勤(あひつとめ)、死をまで決するとは能々(よくよく)の事、何か死するに及ぶべしとて、主人より親元へも申含(まうしふくめ)、夫婦(めおと)に成しける由。しかるに彼(かの)狸はいかなる故にて縊死せるや、其分(わけ)は不知(しらざれ)ども、彼男女度々櫻の馬場にて密契(みつけい)死(し)を約せしを聞(きき)て、慰む心ならん、我死すべきとは思はざれど誤りて己(おのれ)死して、却(かへつ)て男女の媒(なかだち)せしと一笑して、或(ある)人語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。意味不明の間の抜けた妖狸譚ではある。

・「本郷櫻馬場」文京区一丁目の東京医科歯科大学が建っている付近。湯島聖堂の東北直近であるが、「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年夏頃には既に馬場はなくなっており、切絵図を見ると「江川太郎左エ門掛鉄砲鋳場」とある。

・「彌(いよいよ)」は底本のルビ。

・「早々」底本では右に『尊經閣本「左右」』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 狸の縊死の事

 「狐狸」と並べて謂い慣わしはするものの、狸は人を欺き迷わす事なんどに於いても狐に比ぶれば遙かに劣っており、その性(しょう)はこれ、大方、魯鈍なところの多いものにて御座る。

 近き頃の事とか、本郷は桜の馬場辺りに――酒屋であったか材木屋であったか――ともかくも、とある大店(おおだな)の御座った。

 ここに年久しぅ召し仕(つこ)うて御座った丁稚(でっち)上りの若き手代のあり、また、同じお店(たな)に田舎より出で来て、同じく年来仕うて御座った下働きの小女(こおんな)も一人あったが、この二人、いつとはなしに惹かれ合い、秘かに恋仲ともなって、契りなんどまでも結んで、常日頃より、近い将来、きっと夫婦(めおと)になって添い遂げんと、堅く約束致いて御座った。

 ところが図らずも、かの女の在所方より、娘には聟(むこ)をとることと相い成ったればとて、娘奉公の暇乞(いとまごい)を願い出でて御座った。

 このこと聞くや、二人ともに大きに驚き、かくなる上は、かねてよりの固き契りの約束事も、最早これまで、遂ぐる能(あた)わざることとなったればこそ、と、今度は互いに、秘かに死なんと決し、ともに来世の契りなんどまでも約しては、夜々(よなよな)二人、桜の馬場へと忍び出でて、ただただ、その相対死(あいたいじに)の仕儀に就きて、心寂しゅう、語り合って御座ったと申す。

 さてもほどのぅ、主人よりも、娘への奉公の暇(いとま)遣すべき期日なんどまで申し渡されたによって、最早、心中の儀、これより延引なり難きことと相い成ったれば、男は、

「――明日の夜こそ、桜の馬場にて首縊(くびくく)ろうぞ。――我ら、外(そと)へ使いに参るによって、〇時(どき)頃――かの馬場にて待ち合わすと――致そうぞ……」

と『桜の馬場心中』と約し、委細申し合わせて御座った。

 かくして男は主(あるじ)の用にて使いに出で、最後のご主人さまから受けた仕事をしっかりとやり終えた上で、暮れ過ぎには馬場へと辿り着いて御座った。

 約束の刻限にはいまだ間のあったれど、早々既に女の来たっておったによって、

「……さても……いよいよ……よいな……」

と心中の契りを確かめ、

……桜の太き下枝に二人して乗り

……そこより男も女も

……支度の紐を高き枝に結いつけ

……二人同時に首へと紐を纏い

……乗りかけたる木(きぃ)より

――飛んだ!…………

――さても

――女はあっと言う間に縊びれ死んでしもうた

――が

――男も紐に首を絞められはしたものの

――最初に乗りかけた下枝の高さがこれ

――男の身の丈に十分に足りておらなんだによって

――地面へ足先が

――届いてしもうた。

 されば、辛くも死に至らず、苦し紛れに爪先立ち、喉(のんど)掻き毟っては苦しんで、兎か飛蝗(ばった)の如く、跳ね回って御座った。

……ところがそこへ

……かの心中を約した女と

……そっくりの女が!

……また一人来った!

――男の苦しむ体(てい)!

――かつうは!

――自分に寸分違(たが)わぬそっくりな女が!

――これ! 首縊(くびくく)って桜の木(きぃ)に!

――ぶらんと!

――ぶら下がって――おる!!

さればこそ、驚くまいことか、腰を抜かして地べたに引っ繰り返ると同時に、

「ああぁれえぇっ!!!」

と金切声を立てた。

 されば、馬場近辺より人々の集まり来っては、手分けして救わんものと、ぶら下がって御座った方の女の紐を切って地に横たえてはみたものの、とうにこちらはこと切れて御座った。

 されど、男は辛うじて爪先を地に突っ挿して死にもせずに気を失って御座ったればこそ、すぐに紐を裁って気付け薬なんど与えたところが、息を吹き返したによって、かくなったる仕儀の委細様子を糺いたところ、

「……今となっては……我ら……隠しようも……御座らぬ……」

と男女とも神妙に、ありのままのことを語って御座った。

 話を聴き終えた一人が、

「……いや……それにしても、かの縊死(いし)致いた娘は……これ……如何なる者じゃ?……」

と、恐る恐る遺骸の傍に寄ってよぅ見てみた――ところが!

――娘の顔や髷や首

――手(てえ)や足

――その惣身(さうみ)に

――これ

――毛(けえ)の

――モジャモジャ――モジャモジャ――

――生え出でて!

――小袖を被った狸と――相い成って御座った!

されば、その場におった者どもは皆、これまた、吃驚仰天致いて御座った。

 ともかくもと、二人を見知っておった者が、早々にお店(たな)へと走って、主人(あるじ)方へも告げ知らせて御座ったが、顛末を聴いた主人(あるじ)は、

「……二人とも数年に亙って実体(じってい)に相い勤めてくれた者たちじゃ……死をまでも決すると申すは、これ、能々(よくよく)のこと……二人の思いは、確かに知れた!――何の! 死するに及ぶことの、これ、あろうものか!」

とて、主人より娘の親元へも重々言い含めて、二人を晴れて夫婦(めおと)となした、とのことで御座る。

 ……それにしても……この娘に化けたる狸……如何なる訳にて、これ、縊死致いたもので御座ろう?……

……これ、かの男女、度々桜の馬場にて密会致いて、果ては密契(みっけい)して死をも約して御座ったるその顛末を……この狸の、笹藪の内にあって一部始終聞いておったるうちに……

……畜生ながらも……何やらん、同情の心でも起ったものか?……

……流石に狸自身は死のうとは思うては御座らなんだはずであるが……

……自らの身の丈をうっかり忘れ、高きに下枝に誤りて登ったればこそ……

「……この狸、自身は死して、かえって、この男女(ふたり)の媒酌(なかだち)を致いたという訳で御座る。……」

と一笑して、ある御仁の語って御座ったよ。

怒り   八木重吉

 

かの日の 怒り

ひとりの いきもののごとくあゆみきたる

ひかりある

くろき 珠のごとく うしろよりせまつてくる

2014/03/24

芥川龍之介手帳 1-5

femme homme(梅毒)

     ←―

      │

     別居

[やぶちゃん注:「femme」フランス語で女・婦人、「homme」フランス語で男・(俗語で)夫。この図式は大正九(一九二〇)年発表の「南京の基督」のシノプシスと関連があるように私には感じられなくもない(リンク先は私の電子テクスト)。]

 

○揉然 圓柄方鑿 炳燿 錘鍊の功 婉孌綽約 鏤骨腐心亢として窮晷を白頭に惜む

[やぶちゃん注:語彙集メモ。

「揉然」は「じうぜん(じゅうぜん)」で、「揉」は揉み和らげる・和らげ懐かせる・撓めるという謂いであるから、ひいては懐柔するというニュアンスも含むものあろう。

「圓柄方鑿」は「えんぜいほうさく」と読み、「円鑿方枘(えんさくほうぜい)」「円孔方木(えんこうほうぼく)」と同義。円い穴に四角な枘(ほぞ)を入れようとする意で、物事がうまく嚙み合わぬ譬え。「史記」の「孟子荀卿伝」に基づく。

「錘鍊の功」「錘鍊」は「ついれん」と読み、鍛えること、鍛錬と同義であるから、刻苦勉励した結果の業績をいうのであろう。

「婉孌綽約」「婉孌」は「ゑんれん(えんれん)」で、年若くして美しく可憐なことで、「綽約」は「しやくやく(しゃくやく)」姿がしなやかで優しいさま、嫋(たお)やかなさまであるから、若く魅力的な女の容姿の形容である。

「鏤骨腐心亢として窮晷を白頭に惜む」この一連の文字列では類似の文は見当たらない。「鏤骨」は「るこつ」「ろうこつ」で、骨身を削るようなの苦心や努力のことで、一般には「彫心鏤骨(ちょうしんるこつ/ちょうしんろうこつ)」で心に彫りつけ、骨に刻みこむ意から、苦心して作り上げること、苦心して詩文を練ることをいう。「腐心」はある事を成し遂げようと心を砕くことであるから、「彫心」とは相同ではある。「亢として」の「亢」は「かう(こう)」と読み、原義は頭を上げてすっくと立つことで、「亢として」は強い自負心とともに奢り昂ぶるの謂い、「窮晷」は「きゆうき(きゅうき)」で、「晷」は日影のことであるろうから、日がすっかり翳る、老年に至るの謂いと思われ、下の「白頭を惜む」に対応する。詩や文才への自信を甚だしく持って傲然と生きてきた詩人が遂に正しく評価されることなく老いさらばえた焦燥を表現していよう。]

 

○夜 小便 學校

[やぶちゃん注:これは盟友を語った「恒藤恭氏」(大正一一(一九二二)年発表)の以下の部分と関係するものと思われる。

   §

 恒藤は又謹嚴の士なり。酒色を好まず、出たらめを云はず、身を處するに淸白なる事、僕などとは雲泥の差なり。[やぶちゃん注:中略。]しかもその謹嚴なる事は一言一行の末にも及びたりき。例へば恒藤は寮雨をせず。寮雨とは夜間寄宿舍の窓より、勝手に小便を垂れ流す事なり。僕は時と場合とに應じ、寮雨位辭するものに非ず。僕問ふ。「君はなぜ寮雨をしない?」恒藤答ふ。「人にされたら僕が迷惑する。だからしない。君はなぜ寮雨をする?」僕答ふ。「人にされても僕は迷惑しない、だからする。」[やぶちゃん注:後略。]

   §

龍之介は一高時代、南寮の中寮三番でともに生活した(一高は原則全寮制であったが、龍之介は寮生活を嫌って自宅からの通学願書を出していた。しかし、十九歳の時の明治四四(一九一一)年九月からの二年生の時は止むを得ず、一年間の寮生活を余儀なくされている)。]

 

○豐臣秀吉傳

[やぶちゃん注:これだけの記載なので一概に同定は出来ないが、浅井了意の寛文四(一六六四)年板行の「将軍記」に「豊臣秀吉伝」がある。新全集未定稿で仮題「秀吉と悪夢」とされる断片があり、新全集の「手帳1」の後記にはこの箇所とは明記していないものの、本手帳と関わりの認められる作品として掲げられてあるが、新全集の後記ではこの未定稿の執筆は大正三(一九一四)~四年としてあるのに対し、本手帳は大正五(一九一六)~七年と推定されているから大きな時間的齟齬があり、直接的な関わりの可能性は低いように私には思われ、私は寧ろ、後の「秀吉と神と」(大正九(一九二〇)年発表)との関係性の方が強いように思われる。]

 

○或方向への力の sense の美 蓮華往生

[やぶちゃん注:叙述からは大正一〇(一九二一)年発表の「往生絵巻」との関係が窺われる。殺生を尽くした五位が阿弥陀仏への「或方向への力の sense の美」、専心の求道の美によって、その口から真っ白な蓮華を咲かせて美事にまさに文字通り、「蓮華往生」するという点で、という意味でである。]

 

○隆國をかけ

[やぶちゃん注:平安後期の公卿宇治大納言源隆国(寛弘元(一〇〇四)年~承保四(一〇七七)年)のことと思われ、これは形式上の主人公に彼を配した「龍」(大正八(一九一九)年発表)との関係性が窺われる。なお、ウィキの「源隆国」には『井澤長秀(肥後細川藩士、国学者、関口流抜刀術第三代)によって、『今昔物語』の作者とされたが(『考訂今昔物語』)、現在では否定説が有力である。なお、隆国は『宇治大納言物語』の作者ともされている』とあり、「今昔物語集」を多くの種本とした龍之介との接点は多いとも言える。「をかけ」(「を書け(!)」?)は不詳。「隆國を」という文字列は「龍」にはない。]

中島敦 南洋日記 一月二十六日

        一月二十六日(月) アイミリーキ

 アラカべサン、アミアンス部落の移住先を尋ねんと、九時頃土方氏と出發、昨日の道を逆行。如何にするも濱市に到る徑を見出し得ず。新カミリアングル部落の入口の島民の家に憩ひ、一時間餘待つた末、爺さん(聾)に筏を出して貰ひ、マングローブ林中の川を下る。マングローブの氣根。細長き實の水に垂れたる、面白し。三十分足らずにして、濱市の小倉庫前に達し、上陸。兒童の案内にてアミアンス部落に入る。頗る解りにくき路なり。移住村は今建設の途にあり。林中を伐採し到る所に枯木生木、板等を燃しつゝあり。暑きこと甚だし。切株の間を耕して、既に芋が植付けられたり。アバイ及び、二三軒の家の外、全く家屋なく、多くの家族がアバイ中に同居せり、大工四五人、目下一軒の家を造りつゝあり。朝より一同働きに出て今歸り來りて朝晝兼帶の食事中なりと。又、一時となれば皆揃つて伐採に出掛くる由。粥を炊かせ、新屋の竹のゆかの上にて喰ふ。今日の粥にはディスを掛けたり。食後少時晝寐。時に小雨あり。二時出發。丘上なる濱市の民間學校を目掛けて行く。前日遙かに望みし階段狀丘陵地なり。うつぼかつら多し。眺望良し。涼し。學校下の琉球人の家にて道を訊ぬるに、主人は内にありて子供をして云はしむるに、子供は徒らに人を恐れてハツキリせず。タピオカの所の道云々。されど、それらしき路も無きまゝに、大通より分岐せる小道を下り行きしが、忽ちにして道盡く。畑より畑へと、さまよへどもつひに澤に下りる能はず、丘上の道より見れば熱研は直ぐ其處に見ゆるに、何としても近づく能はず、再び舊路に戻り學校に到り先生に教へられて所謂タピオカの所の道を發見す。分らぬが當然。道とは思へぬ道なり。沿えかゝりし徑を叢を分けつゝ進み、小川を渡るに及んで漸く路らしくなる。山の中腹を縫ひて、澤に出で、危き倒木橋を渡り、やうやくにして本道に出づ。四時過熱研に着。をかしき一日の遊行なりし。さるにてもカミリヤンガル部落の靑年の傲岸と、琉球人の曖昧・不親切とは全く腹の立つことなり。夜、小林氏より今日迄の新聞を借りて讀む。月明るし。

[やぶちゃん注:太字「ゆか」は底本では傍点「ヽ」。

「濱市」アラカべサン島の和名固有地名と思われるが、位置同定出来ず。

「ディス」不詳。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和七年(七十二句) Ⅰ

 昭和七年(七十二句)

 

伊勢蝦に懸蓬萊のうすみどり

 

[やぶちゃん注:「懸蓬萊」床の間の壁などにつり下げる形式の蓬萊。蓬萊は原義は中国で東方の海上にあって仙人が住む不老不死の地とされる霊山であるが、本邦ではこの蓬萊山を模った飾りを正月の祝儀物として用いる。その飾台を蓬萊台、飾りを蓬萊飾りという。蓬萊飾は三方の上に一面に白米を敷き、中央に松竹梅を立ててそれを中心に橙・蜜柑・橘・勝ち栗・神馬藻(ほんだわら)・干し柿・昆布・海老を盛って譲葉(ゆずりは)・裏白を飾る。これに鶴亀や尉(じょう)と姥(うば)などの祝儀物の造り物を添えることもある。京阪では正月の床の間飾りとして据え置いたが、江戸では蓬萊のことを「喰積(くいつみ)」ともいい、年始の客に先ずこれを出し、客も少しだけこれを受けて一礼してまた元の場所に据える風があった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

 

  山居即事

八重雲に雞鳴くや飾り臼

 

[やぶちゃん注:「飾り臼」正月に農家では臼に注連縄を張って鏡餅を供えた。]

 

春の星戰亂の世は過ぎにけり

 

落木のくだけし地や別れ霜

 

[やぶちゃん注:「地」は「つち」と訓んじているか。]

 

禮容をうしなはぬ娘や春炬燵

 

[やぶちゃん注:「娘」は「こ」と訓んじているか。]

 

雛まつる燈蓋の火の覗かれぬ

 

[やぶちゃん注:「燈蓋」は「とうがい」と読み、灯火の油皿をのせる台。くもで・灯架ともいう。]

 

杣のみち靄がゝりして獵期畢ふ

 

燒芝や昨日の灰の掬はるゝ

 

蘖の眼をつく丈や山平

 

[やぶちゃん注:「蘖」は「ひこばえ」。「孫(ひこ)生え」の意で、切り株や木の根元から出る若芽のこと。余蘖(よげつ)。]

 

咲きそめし椿にかゝる竹の雨

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年四月



氷上へひびくばかりのピアノ彈く

 

ふるぼけしセロ一丁の僕の冬

 

[やぶちゃん注:鳳作の名吟。前後の句を見るにこれらを宮澤賢治の句だと言っても信じてしまいそうな気がする。]

 

雪晴のひかりあまねし製圖室

 

[やぶちゃん注:以上、四月の発表句。]

杉田久女句集 141 正月や胼の手洗ふねもごろに



正月や胼の手洗ふねもごろに

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「胼」は「たこ」で胼胝(たこ)のこと、「ねもごろに」は後に音変化した「懇ろ」の万葉以来の古形の形容動詞。清音「ねもころに」の方が古いか。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅳ 野々宮 來し方や昏き椿の道おもふ

  野々宮

來し方や昏き椿の道おもふ

 

[やぶちゃん注:単なる直感に過ぎないが、この「野々宮」とは京都市右京区嵯峨野の野宮(ののみや)神社のように私には感じられる。]

彈痕   山之口貘

 

   彈 痕

 

アパートの二階の一室には

陰によくある女が一匹ゐた

その飼主は鼻高の色はあさぐろいめがねと指環の光つた紳士であつた

鼻高の紳士は兜町からやつて來た。

かれの一日は

夜をあちらの家に運び

ひるまをこちらの二階に持ち込んで來てひねもす女を飼ひ馴らした

かれらの部屋がまた部屋でふたりがそこにゐる間

眞晝間ドアに鍵してすましてゐた

八百屋でござゐ

が來ると鍵をはづし

米屋でござゐ

が來ると鍵をはづし

いちいち鍵をはづしては鼻を出し直ぐまた引つ込めて鍵してしまふ

ずゐぶんふざけた部屋だつたが

すましかへつてゐたある日

外では煙硝のにほひが騷いでゐた

鼻高の紳士は鍵をはづして出て見たがやがてそのまゝ出て行つた

まもなく部屋には物音どもが起きあがりそこらあたりに搔き亂れた

いぶる世紀と

くすぶる空

鼻高さんはもう歸らない

そこに突つ立ち上つたかなしいアパート

アパートの橫つ腹にぽつこりと開いたひとつの穴だ

そこからこぼれる食器や風呂敷包

そこからはみ出る茶簞笥と女。

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部を追加訂正及び除去(不要と思われる再掲データ)した。】初出は昭和一四(一九三九)年七月発行の『歴程』。

 原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」では、三行目が、

 

その飼主は鼻高で色はあさぐろいがめがねと指環の光つた紳士であつた

 

と逆接の接続助詞「が」が挿入されてある。また十行目と十二行目が、

 

八百屋でござい

 

と、

 

米屋でござい

 

とに改められてあり、最後の句点は除去されている。

【二〇二四年十一月五日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で校訂した。当該部はここから。

哭くな 兒よ   八木重吉

なくな 兒よ

哭くな 兒よ

この ちちをみよ

なきもせぬ

わらひも せぬ わ

ばんえい競馬

生れて始めて賭け事やった。
仲間は競馬新聞を買って熱心に予想を立てる。
僕は馬の名前や妻や自分の誕生日の組み合わせやらで選んだものの、
8レースすべてばんえい競馬場に貢献した(当たらなかった)。

第二障害で力尽きる馬が数頭いて、
それは何か痛ましい感じがしたが、
半ばは観光客で子どもたちが馬場の脇を一緒に走って応援する様子は、
何かとてもほのぼのとしている。

僕の人生の最初で最後の賭け事はこれで終わり。
人生という賭けにはとっくに大敗を喫しているから、

外れ馬券も気持ちがよかった――

2014/03/21

北への旅にて三日間閉店 心朽窩主人敬白

年に一度の男旅にて北海道へ今払暁旅立つに依つて三日間閉店致す 心朽窩主人敬白

上り列車  山之口貘

 

   上り列車

 

これがかうなるとかうならねばならぬとか

これがかうなればかうなるわけになるんだから かうならねばこれはうそなんだとか

兄は相も變らず理窟つぽいが

まるでむかしがそこにゐるやうに

なつかしい理窟つぽいの兄だつた

理窟つぽいはしきりに呼んでゐた

さぶろう

さぶろう と呼んでゐた

僕は自分がさぶろうであることをなんねんもなんねんも忘れてゐた

どうにかすると理窟つぽいはまた

ばく

ばく と呼んでゐた

僕はまるでふたりの僕がゐるやうに

ばくと呼ばれては詩人になり

さぶろうと呼ばれては弟になつたりした 

 

旅はそこらに鄕愁を脫ぎ棄てゝ

雪の斑點模樣を身にまとひ

やがてもと來た道を搖られてゐた 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を全面改稿した。】初出は昭和一四(一九三九)年三月発行の『むらさき』。

 原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」では、第一連が二行目を途中で改行して、残りを、新たに一行として続けている。特にここでは新字化されたその全篇を示すこととする。 

   *

 

 上り列車

 

これがかうなるとかうならねばならぬとか

これがかうなればかうなるわけになるんだから

かうならねばこれはうそなんだとか

兄は相も変らず理屈つぽいが

まるでむかしがそこにゐるやうに

なつかしい理屈つぽいの兄だつた

理屈つぽいはしきりに呼んでゐた

さぶろう

さぶろう と呼んでゐた

僕は自分がさぶろうであることをなんねんもなんねんも忘れてゐた

どうにかすると理屈つぽいはまた

ばく

ばく と呼んでゐた

僕はまるでふたりの僕がゐるやうに

ばくと呼ばれては詩人になり

さぶろうと呼ばれては弟になつたりした 

 

旅はそこらに鄕愁を脫ぎ棄てて

雪の斑点模様を身にまとひ

やがてもと来た道を搖られてゐた

 

   * 

 「兄」は洋画家長兄山口重慶(十歳上)であろう。但し、年譜ではこの兄の上京は載らない。重慶は敗戦の年の十一月、栄養失調によって亡くなった。

 私はこの第二連が殊の外、気に入っている。多分これは、雪の地方(私の場合は富山県高岡市伏木)に住んだことのある人間だけに真に分かる仄かに哀しい死に至る郷愁=懐郷病・НОСТАЛЬГЙЯ(ノスタルギア)であると勝手に思っているのである。

【二〇二四年十一月五日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここ奥附はここ)で校訂した。当該部はここから。

ちいさい ふくろ   八木重吉

 

これは ちいさい ふくろ

ねんねこ おんぶのとき

せなかに たらす 赤いふくろ

まつしろな 絹のひもがついてゐます

けさは

しなやかな 秋

ごらんなさい

机のうへに 金絲のぬいとりもはいつた 赤いふくろがおいてある

2014/03/20

杉田久女句集 140 松とれし町の雨來て初句會

 

松とれし町の雨來て初句會

杉田久女句集 139 松の内


松の内社前に統べし舳かな

 

松の内海日に荒れて霙けり

杉田久女句集 138 元旦や束の間起き出で結び髮


元旦や束の間起き出で結び髮

杉田久女句集 137 ゆく年や忙しき中にもの思ひ


ゆく年や忙しき中にもの思ひ

杉田久女句集 136 栗むくやたのしみ寢ねし子らの明日


栗むくやたのしみ寢ねし子らの明日

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(4) たそがれ Ⅰ

 たそがれ

 

海ちかき殖民地をばたそがれて

そゞろありきす如きさびしみ

 

[やぶちゃん注:「殖民地」はかく書く場合もある。]

 

淡雪の解くる岡邊に一人きて

はこべをつむもなぐさまぬ哉

 

冬の日は淋しく沈む野に出でゝ

日暮れはものを思ふならはし

 

ちゆうりつぷの花咲く頃はうらぶれし

我も野に出で口笛を吹く

 

君まつと昔いくたび佇みし

門の扉にかゝる落日

 

場末なる酒屋の窓に身をよせて

悲しき秋の夕雲を見る

 

[やぶちゃん注:朔太郎満二十六歳の時の、大正二(一九一三)年十月二十八日附『上毛新聞』に発表した連作の一首、

 塲末(ばすへ)なる酒場(さけば)の窓(まど)に身(み)をよせて悲(かな)しき秋(あき)の夕雲(ゆうぐも)を見(み)る

の表記違いの相同歌。]

 

宿醉のあしたの床にふと思ふ

そのたまゆらの鈍き悲しみ

 

晝過ぎのホテルの窓に COCOA のみ

くづれし崖の赫土をみる

 

[やぶちゃん注:「赫土」はママ。朔太郎満二十三歳の時の、『スバル』第二年第一号(明治四三(一九〇二)年一月発行)に掲載された連作の一首、

 窓ひるすぎの HOTEL の窓に COCOA のみくづれし崖のあかつちをみる

の表記違いの相同歌。]

杉田久女句集 135 わが歩む落葉の音のあるばかり



わが歩む落葉の音のあるばかり

                     

[やぶちゃん注:私の愛する久女の一句である。]

杉田久女句集 134 落葉道掃きしめりたる箒かな


落葉道掃きしめりたる箒かな

杉田久女句集 133 塀そとの盧橘かげを掃き移り



塀そとの盧橘(たちばな)かげを掃き移り
 

 

[やぶちゃん注:「盧橘」普通に我々が呼ぶ橘(たちばな)はムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana であるが、「盧橘」(ろきつ)と書くと、一般にはミカン属ナツミカン Citrus natsudaidai 又はミカン科キンカン属 Fortunella のキンカン類の別名としての用法が一般的ではあり、また、盧橘で食用柑橘類を広く総称する語としても用いられる。個人的にはキンカンがこの句柄には合うと思っている(私の亡き母が好きな木で今も私の家の猫の額の庭に実をつけているから)。]

杉田久女句集 132 日面に搖れて雪解の朱欒かな



日面に搖れて雪解の朱欒かな
 

 

[やぶちゃん注:「朱欒」は「ざぼん」でムクロジ目ミカン科ミカン属ザボン Citrus maxima 。ボンタン・ブンタンとも呼ばれる。ウィキザボン」によれば、『原生地は東南アジア・中国南部・台湾などであり、日本には江戸時代初期に』『鹿児島県の阿久根市』に伝わったとされ、『第二次世界大戦前にはジャボンと呼ばれるのが一般的であり、これは文旦貿易に関与したジアブンタン(謝文旦)の略と考えられるが、ジャボンから転じたザボンの名前については、ポルトガル語の zamboa(元の意味は「サイダー」)から転じたという説もある』とある(但し、最後の説には出典要請が附されてある)。]

杉田久女句集 131 萬難に堪えて萱草五年振



萬難に堪えて萱草五年振

 

[やぶちゃん注:「萱草」は「くわんざう(かんぞう)」で単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科ワスレグサ属(標準種はワスレグサ Hemerocallis fulva )に属する多年草の総称で、ノカンゾウHemerocallis fulva var. longituba・ヤブカンゾウ Hemerocallis fulva var. kwanso・ハマカンゾウ Hemerocallis fulva var. littorea・ユウスゲ Hemerocallis citrina var. vespertina ・ニッコウキスゲ(ゼンテイカ・禅庭花) Hemerocallis dumortieri var. esculenta などを含む。葉は刀身状で、夏に黄や橙色のユリに似た大きい花を数個開く。多くの園芸品種や近縁種がある。「けんぞう」ともいう(生薬として知られる双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ(甘草)属 Glycyrrhiza とは全くの別種であるので注意)。ワスレグサ(忘れ草)という和名は概ね花が一日限りで萎むことに由来し、英語でも“Daylily”と呼ばれる。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅲ



枯萩を人焚き昏るる吾も昏る

 

枯萩の焰ましろくすぐをはる

 

[やぶちゃん注:「焰」は底本の用字。]

 

木枯のひととき夕燒つのり來る

 

ひばり野やあはせる袖に日が落つる

 

水打つてけふ紅梅に夕凍てず

 

[やぶちゃん注:「夕凍」は一般には「夕凍(ゆふし)む」で、夕暮れ時、対象が氷結してしまうような寒さやその氷結してしまう、若しくはそうした感じに見える、感じることをいう語と思われるが、ここは「ゆふいてず」と訓じている。]

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年三月

   時計臺

冬木空時計のかほの白堊あり

 

おでん喰ふそのかんばせの鋭(と)きゆるき

 

おでん食ふよ轟くガード頭の上に

 

おでん食ふよヘッドライトを横浴びに

 

[やぶちゃん注:「ヘッドライト」の拗音はママ。これ以前の句には認められない大きな変化である。]

 

冬木空大きくきざむ時計あり

 

大空の風を裂きゐる冬木あり

 

   時計臺

冬木空するどく聳てる時計あり

 

冬木あり自動車ひねもす馳せちがふ

 

[やぶちゃん注:以上、八句は三月の発表句。]

夢を見る神   山之口貘

 

   夢を見る神

 

若しも生れかはつて來たならば

彫刻家になりたいもんだと云ふ小說家 

 

若しも生れかはつて來たならば

生殖器にでもなりすますんだと云ふ戀愛 

 

若しも生れかはつて來たならば

お米になつてゐたいと云ふ胃袋 

 

若しも生れかはつて來たならば

なちすになるかそれんになるかどちらになるのかあのすぺいん 

 

若しも生れかはつて來たならば

なんにならうと勝手であるが

若しも生れかはつて來たならばなんにならうと勝手なのか

とある時代の一隅を食ひ破り神の見知らぬ文化が現はれた

こがね色のそれん

こがね色のなちす

こがね色のお米

こがね色の彫刻家

こがね色の生殖器 

 

あゝ

文明どもはいつのまに

生れかはりの出來る仕掛の新肉體を發明したのであらうか

神は鄕愁におびえて起きあがり

地球のうへに頰杖ついた 

 

そこらにはゞたく無數の假定

そこらを這ひ摺り廻はつては血の音たてる無數の器械。 

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一四(一九三九)年三月号『知性』(河出書房発行)。

 原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」では、十一行目を、 

 

なちす になるか それん になるか どちらになるのか あのすぺいん 

 

とし、また最終行を、 

 

そこらを這ひ摺り廻つては血の音たてる無數の器械

 

と「廻はつては」を「廻つては」とし、句点を除去する(「定本 山之口貘詩集」も恣意的に正字化補正した)。

 この詩が昭和十五年刊行の詩集にあるということは驚異に値すると私は思う。そこでは最後に地球「はゞたく無數の假定」としての「そこらを這ひ摺り廻はつては血の音たてる無數の器械」としての相対化されてあるあらゆる政治思想が、正当化されて行く戦争状態に対し、強烈な否定が示されていることは誰が読んでも明白であるからである。この反戦詩が官憲の目を逃れていたとは(後掲される現在、バクさんの「反戦詩」として比較的知られている「紙の上」よりも遙かに直裁的であるにも拘わらず、だ)、何か私にはとても痛快無比なこと、なんである。【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】

【二〇二四年十一月五日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で校訂した。当該部はここから。

友引の日   山之口貘

 

   友引の日

 

なにしろぼくの結婚なので

さうか結婚したのかさうか

結婚したのかさうか

さうかさうかとうなづきながら

向日葵みたいに咲いた眼がある

なにしろぼくの結婚なので

持參金はたんまり來たのかと

そこにひらいた厚い唇もある

なにしろぼくの結婚なので

いよいよ食へなくなったらそのときは別れるつもりで結婚したのかと

もはやのぞき見しに來た顏がある

なにしろぼくの結婚なので

女が傍にくつついてゐるうちは食へるわけだと云つたとか

そつぽを向いてにほつた人もある

なにしろぼくの結婚なので

食ふや食はずに咲いたのか

あちらこちらに咲きみだれた

がやがやがやがや

がやがやの

この世の杞憂の花々である。 

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一五(一九四〇)年七月発行の『歴程』。 原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」では、

 

そつぽを向いて臭(にほ)つた人もある 

 

と改稿している。なお、この「にほつた人」というのは面白い語である。大方の人々は、これを、

「女が傍にくつついてゐるうちは食へる」ということを、嫌な臭いとして感じて「そつぽを向いた」

という謂いに採る、と思われる。それでよいとは思うが、私は寧ろ、

ある人の秘かな匂いを嗅ぎ分けるためには、その人に知られぬように、わざと「そつぽを向いて」嗅ぎ分けるものだ

の意であると思う。「にほふ(におう)」という動詞には、他動詞として、「においを嗅ぎ分ける」という意味がある。ここは、まさに、

そうしたお前が、秘かに「女が傍にくつついてゐるうちは食へる」ということを、俺は「そつぽを向いて」いるけれど、ちゃあんと嗅ぎ分けてるぜ、といった感じの「人もある」

と読むのである。大方の御批判を俟つ。

【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部削除(不要と判断した再録データ)した。】

【二〇二四年十一月四日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で校訂した。当該部はここから。

結婚   山之口貘

 

   結 婚

 

詩は僕を見ると

結婚々々と鳴きつゞけた

おもふにその頃の僕ときたら

はなはだしく結婚したくなつてゐた

言はゞ

雨に濡れた場合

風に吹かれた場合

死にたくなつた場合などゝこの世にいろいろの場合があつたにしても

そこに自分がゐる場合には

結婚のことを忘れることが出來なかつた

詩はいつもはつらつと

僕のゐる所至る所につきまとつて來て

結婚々々と鳴いてゐた

僕はとうとう結婚してしまつたが

詩はとんと鳴かなくなつた

いまでは詩とはちがつた物がゐて

時々僕の胸をかきむしつては

簞笥の陰にしやがんだりして

おかねが

おかねがと泣き出すんだ。



[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を改稿した。】初出は昭和一四(一九三九)年九月号『文藝』。「定本 山之口貘詩集」では最後の句点が除去されてある。【二〇二四年十一月四日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で校訂した。当該部はここ。「とうとう」はママである。

思ひ出   山之口貘

 

    思ひ出

 

枯芝みたいなそのあごひげよ

まがりくねつたその生き方よ

おもへば僕によく似た詩だ

るんぺんしては

本屋の荷造り人

るんぺんしては

煖房屋

るんぺんしては

お炙屋

るんぺんしては

おわい屋と

この世の鼻を小馬鹿にしたりこの世のこころを泥んこにしたりして

詩は、

その日その日を生きながらへて來た

おもへば僕によく似た詩だ

やがてどこから見つけて來たものもか

詩は結婚生活をくわへて來た

あゝ

おもへばなにからなにまでも僕によく似た詩があるもんだ

ひとくちごとに光つては消えるせつないごはんの粒々のやうに

詩の唇に光つては消える

茨城生れの女房よ

沖繩生れの良人よ 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】初出は昭和一五(一九四〇)年一月新年特大号『中央公論』。原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本山之口貘詩集」では一箇所ある「詩は、」の読点が除去され、九行目の「お炙屋」が「お灸屋」に訂されている(「炙」は音「シャ/シャク/セキ」で「あぶる」と訓ずるものの誤字である)。また、十七行目も「くわへて」を正しく「くはへて」に訂してある。バクさんの妻静江さんは茨城県結城の生まれである。

【二〇二四年十一月四日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、 奥附はここ)で校訂した。 当該部はここから。

しづかなる ながれ   八木重吉

 

せつに せつに

ねがへども けふ水を みえねば

なぐさまぬ こころおどりて

はるのそらに

しづかなる ながれを かんずる

 

[やぶちゃん注:「けふ水を みえねば」はママ。後の諸本も同じようである(以下はモノローグ……この詩を朗読するとして、私なら、すこぶる戸惑った末に「けふ水の」と捏造して誤魔化すであろう。「は」では恣意的な意識の限定性が侵入して意味が歪曲するし、汚らしい「が」などは無論、韻律上からも論外である。「おどる」はママ。]

2014/03/19

実相寺昭雄 波の盆

14年も前に買っていながら、放置していた実相寺監督の「波の盆」を今夜、何故か初めて封を切って見る気になった。……これは……笠さん畢生の演技ではあるまいか? 黒沢の「夢」なんぞより遙かに笠さんのライフ・ワークと感じた(笠さんの家は私の行き帰りの道の辺にあって、庭で焚火をする笠さんには何度か無言で挨拶をしたものだった。笠さんは映画の中と全く同じようにこの僕にもあの深々とした礼儀正しい挨拶を返してくれたものだった)。そして――加藤治子の何と美しいことか! 武光の曲も実相寺の映像も素晴らしい!……母の命日に呼ばれるように、僕はこの映画に出逢った気がした――ありがとう……母さん……

二伸:
エンド・ロールで撮影の中堀、美術の池谷、記録の穴倉(往年のスタッフ・スチールの彼女はとてもキュートで女優のようだった)と円谷組の名が並ぶのも懐かしい。編集もとっても上手いなぁ、と思ったら浦岡じゃないか、これは上手くて当たり前だわ。

三伸:
昔、私が生まれる前後の話である。
まだ二十代だった若き日の母が、笠さんとすれ違った。
俳優の笠智衆だわ、と思いながらも恥ずかしいので知らんふりして数メートルほど過ぎてから、そっと振り返ってみたら――
――なんと笠さんも立ち止まって、不思議そうに母をまじまじと見ていたそうだ――
(それはその話を聴いていた十代の僕に小津安二郎の映画の中のワン・シーンのように焼きついた。その光景を僕は実際に見た記憶として錯覚して持っているのである)
――思うに笠さんは、母を女優の誰彼と見紛うていたもののように思われる。
(と言ったのは僕。母は笑いながら黙っていたが)

……生前の母が如何にも嬉しそうに話ししていたエピソードである。……そんなことを今朝方、思い出していた。――

耳嚢 巻之八 盲人頓才奇難をまぬがれし事

 盲人頓才奇難をまぬがれし事

 

 北尾檢校いまだ遊子(いうし)といゝて、唄うたひ三味線など引(ひき)て所々(しよしよ)座敷抔勤(つとめ)しころ、飯田町に住居して、本所邊の出入屋敷へよばれ夜更(よふけ)歸るべき由を申(まうし)ければ、召使中間二人におくらせ、夜更にも成(なり)候間、途中より駕かり贈り候樣との事也。それより柳原通りを歸りけるに、途中にて駕籠を借(かり)けるが、右駕の者、飯田町まではいまだ餘程あり、送りの中間は途中より歸り可然(しかるべく)候、飯田町へ無滯(とどこほりなく)おくり候段、右中間へ駕の者申けるゆゑ、中間は得たりかしこしにて、しからばおくり行(ゆか)んも無益なりとて、右場所より歸りぬ。然るに右の駕の者の樣子、何とも心得がたく、あたらし橋の邊にて、爰らよろしかるべきと、壹人の駕の者申けるを、相棒ささへて、爰は人近(ひとぢか)なり今少し先(さき)可然(しかるべし)との事、何とも心得がたく、必定(ひつぢやう)此駕の者は惡黨にて我を剝取(はぎとる)の輩ならんと思惟して、睡り居候體にて風(ふ)と目覺(めざめ)たる樣子に取(とり)なし、大きに驚き、我等大切の品を落したり、扨いかゞ可致(いたすべき)やと歎息し、こゝはいづ方やと尋ねければ、駕の者新らし橋の由をいゝけるゆゑ、さてさて大儀にはあれど、極(きはめ)ある代(しろ)より增錢(ましせん)をあたふべき間、本所辨天小路邊、かくかくの屋敷へ立戻り呉(くれ)候樣賴みければ、夫はいかなるゆゑと尋ねしゆゑ、晝程右の屋敷へ至り、鼻紙袋を差置(さしおき)たり、鼻紙袋は是非といふにあらず、印形(いんぎやう)をも入置(いれおき)、其外入用(いりよう)の書付類もあり、是(これ)なくてはなりがたし、賴むよし言ければ、駕の者兩人何か相談し、何もかせぎ成(なり)迚、またまたかつぎて、北尾が名指(なざす)屋敷までかき戻し、右屋敷の門をたゝきけるに、内より人出て、何故遊子は今頃歸りしやと尋(たづね)けるゆゑ、大事の事を忘れたりとて座舖(ざしき)へ上り、しかじかの事ゆゑ無據(よんどころなく)立戻りし譯をかたりければ、右屋敷の家來、駕の者へ、遊子は夜もふけたれば此方(こちら)に泊(とまり)候なり、駕貸(かごちん)は可遣(つかはすべし)と申けるに、駕の者、故ありて送りの者より、飯田町へ送りとゞけよとの事請負(うけおひ)たれば、是非飯田町へ送り候由を申(まうし)、合點せざるゆゑ、夫(それ)は心得がたき事なり、此方へ出入の者にて、泊め遣(やり)候を、是非返るべきとの事怪しけれ、全く盲人を捕へ不屆いたすべきしれ者、それ召(めし)捕へよと申けるに驚き、駕をも捨(すて)、駕代をも不請取(うけとらず)、迯(にげ)去りしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。

・「北尾檢校」不詳。検校については「耳嚢 巻之二 思はず幸を得し人の事」に既注。

・「飯田町」現在の千代田区の九段下から飯田橋一帯の旧町名。

・「途中より駕かり贈り候樣」底本では「贈」の右に『(送)』と注がある。

・「柳原通り」底本の鈴木氏注に、『神田川右岸、筋違御門(のちの万世橋辺)から』現在のJR秋葉原駅南を経て現在の浅草橋が架かる『下流浅草御門辺までの土手。柳が植えられ、夜鷹が現れるような淋しい道』とある。

・「あたらし橋」底本の鈴木氏注に、『神田川に架かり、柳原と神田久右衛門町をつなぐ。神田川の橋は下流から柳橋、浅草橋、新シ橋、和泉橋、筋違橋、昌平橋、水道橋、小石川橋の順』とある。現在の台東区東神田の美倉橋。

・「ささへて」「ささふ」は「支ふ」で、防ぎ留める・阻むの意であるから、遮って、の謂いであろう。

・「我を剝取の輩ならん」何となく表現がおかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、『我を剝取(はぎとる)の心中ならん』で腑に落ちる。これで訳した。

・「風(ふ)と」は底本のルビ。

・「本所辨天小路」岩波版長谷川氏注に、『本所竹蔵の北東、清雲山弁天社前の東西の小路をいう。墨田区本所一丁目』とある。尾張屋版江戸切絵図(嘉永年間(一八四三年~一八五三年)刊)を見ると、同小路近くには大きな屋敷では「向井将監」と「土佐能登守」の屋敷が見える。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 盲人が機転を利かせて奇難を免れたる事

 

 北尾検校殿、未だ遊子(ゆうし)と称し、唄を歌い、三味線など弾いては、所々の御武家なんどの座敷にて、音曲の披露などを勤めておられた頃のことと申す。

 その頃、北尾殿は飯田町に住まいしておられたが、本所辺りの出入りの屋敷へ呼ばれて、夜更けとなって、そろそろお暇せん由申されたところが、召使いと中間の二人をつけて送らせ、

「夜もすっかり更けておれば、途中より駕籠を借りて送るがよかろう。」

との仰せで御座った。

 それより柳原通りを帰って参ったところ、途中にて召使いの者が流しの空駕籠を見つけたによって、主人の命に従って借り受けて、その召使いは中間に見送りを頼み帰って行ったと申す。

 ところがしばらく行ったところで、この駕籠搔きの者が、

「……飯田町までは、これ、いまだ余程、ありやすぜ。……お見送りの方は、これ、途中よりお帰りになられたが、よろしゅうござんせんか?……なに、飯田町へは、これ、儂(あっし)らが滞りなくお送り致しやすんで。ご安心、ご安心。……」

と中間へ水を向けた。

 と、一杯やりとうて、うずうずして御座った中間は『これは、しめた! 渡りに舟じゃ!』と思うと、

「……いや! 確かに! そちらに任せたとなれば、心配も、これ、ない。このまま、ただ添い附きてお見送りせんは、これ、無益なることじゃ。――それでは、宜しゅう頼むわ!」

と、そこより帰ってしもうたと申す。

 ところが、北尾殿、その後、駕籠内より聴き耳を立てておると……どうもこの駕籠搔きの者どもの様子……これ……何とも心得難き怪しきところの御座った。……

 さても、新橋(あたらしばし)辺りにてのこと、

「……さぁて……ここらで……よかろうが……」

と、一人の駕籠搔きが囁くのが聴こえた。

 と、相棒は、

「……いや!……」

と遮る声が微かにし、

「……ここは如何にも……人家に近場じゃ……今少し先が……よかろうぞ……」

と応じるのが、蚊の鳴くように幽かに耳に入って御座ったと申す。

 北尾殿、先程来の様子より、これ、何とも心得難き怪しの話柄にて御座ったれば、

『……これはもう、間違いなく……この駕籠の者どもは、これ、悪党の護摩の灰じゃ!……我らを追い剥ぎせんとの心積もりに、これ、相違ない!……』

と思い至って御座った。

 さてそこで、即座に、

――恰も今まで、ぐーっすりと安眠致いて御座った体(てい)になし

――ふと目覚め

――何かに気づき

――大いに驚き慌てたる感じにて、

「――こ、これは!……いかん!……まずい!……大、変、じゃ!!」

と駕籠内より突拍子もき声を挙げ、

「――わ、我ら!……大切の品を!……落してしもうた!……さてもさて!……一体……どうしたらよかろうかのぅ!……」

と駕籠も揺れんばかりに大きな溜息をついた上、

「――お駕籠の衆!……ここは今、どの辺りで御座るかのぅ?」

と訊ねる。すると駕籠搔きの者は、

「……へぇ……新橋(あたらしばし)で、ごぜやすが……」

と答えるや、

「――さてもさても!……一つ、大儀にては御座ろうが、定めの駕籠賃には、これ、更に加えの増銭(ましせん)をも添えるによって!――本所弁天小路に御座る〇〇の守様の御屋敷へと枉げて、返して下さるまいか!?……」

と切に頼んだ。駕籠搔きは、

「……そりゃ、また……一体、どうなすったんで?」

と訊ねたゆえ、

「――実は今日の昼つ方、かの御屋敷へと至り、財布を置き忘れて御座ったに、今、気がついたのじゃ!……いやいや、財布内にはたかが数十両、これは別にどうということもないはした金なれば惜しくも御座らねど……その内には大事なる印章をも入れて御座っての……その外にも重大な大切なる書付の類いも入れて御座る……これら、なくては、我らの生業(なりわい)、これ、成り難き大事のものじゃ!……どうか一つ、枉げて、立ち戻ること、お頼み申すッ!……」

と懇請致いたところが、駕籠屋両人、何やらん相談致いて御座る風なれど、

「――アイよ! なにぃ! これも稼ぎの内じゃ! 早速、返(けえ)しやすぜ!」

と、またまた担ぎ直すと、北尾が名指した弁天小路のお屋敷まですたこら搔き戻したによって、辿りついた北尾殿は、駕籠搔きに厚く礼を申すと、

「――あいや、暫くお待ちあれ。すぐにとって返し――またゆるりと飯田町まで――お送り願うによっての――」

と告げると、そのお屋敷の門を静かに叩いた。

 内より人の出で来て、

「……遊子殿にては御座らぬか? さても何故に今頃また、お戻りになられたのじゃ?……」

と質いたが、すぐ背後に駕籠搔きの御座ったればこそ、北尾殿は笑顔にて、

「――いやさ! 大事な物を置き忘れて御座ったによって……相い済まぬことにて御座いまする!……」

と、そのまま座敷へと通されたと申す。

 座敷へ上がるや、案内(あない)の者に、

「――いや! 実は……かくかくのこと、これ、御座ったによって、よんどころのぅ――肝の潰れん思いのうちにも、しかじかのこと、これ、仕儀致いて――かくも立ち戻って参った次第……」

と、かかる顛末を語って御座った。

 聴き及んだかのお屋敷の御家来衆、大いに合点致いて、何食わぬ顔にて門前へと出でると、かの駕籠搔きらに、

「――かの者は、夜も更けたによって、此方(こちら)に泊ることと相い成った。――されば駕籠は言いなりの代(しろ)を遣わすによって――さぁて、幾らじゃ?……」
と穏やかに申したところが、駕籠搔きども、

「な、何んじゃて!?……」

「い、いんや!……そりゃ、いけねぇ! いけねよ!……だってよ、故あってよ、お見送りのお方より、あのお人を飯田町へ、きっと、送り届けよと、これ、確かに請け負うてきた者(もん)なんじゃ!……」

「……そ、そうじゃ!……これはよ! だからよ! 是が非でも、飯田町へとお送りせずんばならんのじゃい!!……」

と二人して訳の分からぬ管を巻いては一向に合点致さなんだ。

 されば、それを見た御家来衆、さっと顔色(がんしょく)を一変さするや、駕籠搔きどもをねめつけ、

「――それは心得がたきことじゃ! 当方へ出入りの者にてあればこそ泊めやらんと申しておる! それを、是が非でも帰すべきとの申しよう――これ、大いに怪しき物言い!――うぬら――全く――盲人を捕えて不届きを致さんとする痴れ者じゃな?!――それ! 者ども! 召し捕えよ!」

と内へと大きに呼ばわったによって――

――駕籠搔きどもは、大きに驚き、駕籠をも門前にうち捨てたまま

――勿論、払わんとした駕籠代をも受け取らずして

――這う這うの体にて逃げ去って御座った。……

 

 これは北尾検校殿御自身が、私に語って下すった物語りで御座る。

鷄   萩原朔太郎 (「鷄」初出形)

 鷄

 

しののめきたるまへ、

家家(いへいへ)の戸の外で鳴(な)いてゐるのは庭鳥(にはとり)です。

聲(こゑ)をばながくふるはして、

さむしい田舍(ゐなか)の自然(しぜん)からよびあげる母(はゝ)の聲(こゑ)です、

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

 

朝(あさ)のつめたい臥床(ふしど)の中(なか)で、

私(わたし)のたましひは羽(は)ばたきをする、

この雨戸(あまど)の隙間(すきま)からみれば、

よもの景色(けしき)はあかるくかがやいて居(ゐ)るやうです、

されどもしのゝめきたるまへ、

私(わたし)の臥床(ふしど)にしのびこむひとつの憂愁(いうしう)、

けぶれる木々(きぎ)の梢(こずゑ)をこえ、

遠(とほ)い田舍(ゐなか)の自然(しぜん)からよびあげる鷄(とり)の聲(こゑ)です、

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

 

戀(こひ)びとよ、

戀(こひ)びとよ、

ありあけのつめたい障子(しやうじ)のかげに、

私(わたし)はかぐ、ほのかなる菊(きく)のにほひを、

病(や)みたる心靈(しんれい)のにほひのやうに、

かすかにくされゆく白菊(しらぎく)の花(はな)のにほひを、

戀(こひ)びとよ、

戀(こひ)びとよ。

 

しのゝめきたるまへ、

私(わたし)の心(こゝろ)は墓場(はかば)のかげをさまよひあるく、

ああ、なにものか私(わたし)をよぶ苦(くる)しきひとつの焦燥(せうさう)、

この薄(うす)い紅色(べにいろ)の空氣にはたえられない、

戀(こひ)びとよ、

母上(はゝうへ)よ、

はやくきてともしびの光(ひかり)を消(け)してよ、

私(わたし)はきく、遠(とほ)い地角(ちかく)のはてを吹(ふ)く大風(おほかぜ)のひゞきを、

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

 

[やぶちゃん注:『文章世界』第十三巻一号・大正七(一九一八)年一月号に掲載された。第二連七行目は初出では「けぶれの木々(きぎ)の梢(こずゑ)をこえ、」であるが、奇体な語彙で誤植の可能性が大きいので、以下に示す詩集再録版にある「けぶれる」に訂した。「たえられない」はママ。本詩は後に詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)や「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)などにも所収されたが、多くの句読点の除去や「庭鳥」を「鷄」とする等の他は殆ど大きな詩句の改変はない。但し、「靑猫」再録の際に、最終連終わりから二行目の「大風(おほかぜ)」を「大風(たいふう)」のルビに変えている。]

母に贈る 篠原鳳作 七句

  *口笛吹かず 

月光の衣(そ)どほりゆけば胎動を

 

みごもりし瞳のぬくみ我をはなたず

 

をさなけく母となりゆく瞳(メ)のくもり

 

  *映畫「家なき兒」 五句(より四句) 

靑麥の穗はかぎろへど母いづこ

 

陽炎にははのまなざしあるごとし

 

碧空に冬木しはぶくこともせず

 

母求(と)めぬ雪のひかりにめしひつつ

母に贈る 杉田久女 七句

 

わが歩む落葉の音のあるばかり

 

われにつきゐしサ夕ン離れぬ曼珠沙華

 

蟬涼し汝の殼をぬぎしより

 

羅(うすもの)の乙女は笑まし腋を剃る

 

龍胆も鯨も摑むわが雙手

 

蝶追うて春山深く迷ひけり

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅱ 母葬る

  八十二歳の母を郷土に葬る 二句

武藏野の樹々が眞黄に母葬る

 

母葬る土美しや時雨降る

 

[やぶちゃん注:多佳子の実母山谷津留はこの昭和一七(一九四二)年十一月七日に多佳子の日々の看取りを受けつつ、東京で亡くなられた。享年八十二歳。浅草山谷堀端、東京都台東区浅草にある浅草寺子院の聖観音宗金龍山遍照(へんじょう)院に葬られた。リンク先は「白田(はくた)石材店」のサイト内の寺院案内であるが、このサイト、なかなか侮れない。]



今日は僕の母の三年目の祥月命日である――
母もまたまさに武蔵野の多磨霊園の木立の中に葬られてある――

ゆくはるの 宵   八木重吉

 

このよひは ゆくはるのよひ

かなしげな はるのめがみは

くさぶえを やさしい唇(くち)へ

しつかと おさへ うなだれてゐる

おもひなき 哀しさ   八木重吉

 

はるの日の

わづかに わづかに霧(き)れるよくはれし野をあゆむ

ああ おもひなき かなしさよ

母四回忌

母聖子テレジア四回忌――

2014/03/18

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 御殿蹟

    ●御殿蹟

社後の海濱を御殿原と云、相傳ふ賴朝別館の跡なりと、案するに將軍賴朝、實朝、賴經の諸公、屢此地に遊覽の事、東鑑に見ゆ、然らは此館當時休憩の爲に設けられしなるべし。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

東鑑曰元曆元年五月大十九日武衛相伴池亞相右典厩等逍遙海濱給自由比浦御乘令着杜戸岸給御家人等面々餝舟船海路之間各取棹爭前途其儀殊有興也於杜戸松樹下有小笠懸是士風也非此儀者不可有他見物之由武衛被仰之客等入興建保二年二月十四日將軍家被催炬霞之興令出杜戸浦給長江四郎明義儲御駄餉於彼所有小笠懸壯士等各施其藝漸及昏待明月之光棹孤舟自由比濱還御安貞二年四月十六日將軍家爲御遊覽渡御杜戸武州駿河前司以下郎從及夜陰還御六月大廿六日將軍家爲御遊興御出杜戸有遠笠懸相撲以下御勝負武州被獻垸飯又長江四郎以下進御駄餉盃酒之間有管絃等入夜自船還着由比浦寛喜元年二月二十二日竹御所以下自三崎還御駿河前司兼遣四郎家村於杜戸邊儲御駄餉盡善極美者也案するに竹御前は將軍賴經卿の御臺所なり九月七日將軍家爲海邊御遊覽御出杜戸浦是御不例御平愈之後御出始也相州武州被參有犬追物數輩供奉二月七日將軍家渡御杜戸遠笠懸流鏑馬犬追物二十四等也

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の引用は頼経の遊覧記事の「九月七日」が「九月十七日」の誤りである以外は、比較的正しく引用されている。但し、一部に省略や略述している部分があるので、それぞれを以下に正しく引用し、書き下しておく。

 まず最初の元暦元(一一八四)年五月十九日の頼朝遊覧の記事から。当時、頼朝は満二十七歳。

 

〇原文

十九日丙午。武衞相伴池亞相〔此程在鎌倉。〕右典厩(うてんきふ)等。逍遙海濱給。自由比浦御乘船。令著杜戸岸給。御家人等面々餝舟舩。海路之間。各取棹爭前途。其儀殊有興也。於杜戸松樹下有小笠懸。是士風也。非此儀者。不可有他見物之由。武衞被仰之。客等太入興云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十九日丙午。武衞、池亞相(いけのあしやう)〔此の程、鎌倉に在り。〕右典厩等を相ひ伴ひ、海濱を逍遙し給ふ。由比浦より御乘船、杜戸の岸へ著かしめ給ふ。御家人等、面々に舟舩(しふせん)を餝(かざ)り、海路の間、各々棹を取りて前途を爭ふ。其の儀、殊に興有り。杜戸の松樹の下に於いて小笠懸(こかさがけ)有り。

「是れ、士風なり。此の儀に非ずば、他の見物、有るべからず。」

の由、武衞、之を仰せらる。客等、太(はなは)だ興に入ると云々。

 

・「池亞相」平清盛の異母弟池大納言頼盛。彼の母池禅尼の助命を受けた頼朝から厚遇されていた彼は、この前年寿永二年の木曽義仲の京都制圧の直後に京を脱出したものと思われ、「玉葉」の寿永二年十一月六日条には頼盛が既に鎌倉に到着したという情報が記されてある。「亞相」は丞相(じょうしょう)に亜(つ)ぐの意で大納言の唐名。当時五十一歳。

・「右典厩」親幕派の公卿で頼朝の義弟に当たる一条能保。彼も前年の閏十月に叔父で平頼盛の娘婿でもあった公卿持明院基家とともに京都から鎌倉へ脱出していた。右典厩は馬寮(めりょう)の唐名。当時三十七歳。

・「小笠懸」「笠懸」は馬に乗って走りながら弓を射る競技の総称で、平安末期から鎌倉時代にかけて盛んに行われた。本来は射手の笠を懸けて的としたが、後には円板の上に牛革を張り、中に藁などを入れたものを用いた。「小笠懸」は四寸(約十二センチメートル)四方の小さな的を馬上から射る笠懸である。

・「士風」坂東武士の士風。

 

 次に、建保二(一二一四) 年二月十四日の実朝の遊覧記事。実朝は当時、満二十一歳。

 

〇原文

十四日己酉。霽。將軍家被催烟霞之興。令出杜戸浦給。長江四郎明義儲御駄餉。於彼所有駄餉。壯士等各施其藝。漸及黄昏。待明月之光。棹孤舟。自由比濱還御云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十四日己酉。霽る。將軍家、烟霞の興を催され、杜戸浦に出でしめ給ふ。長江四郎明義、御駄餉(おんだしやう)を儲(まう)く。彼の所に於いて小笠懸有り。壯士等、各々其の藝を施し、漸くに黄昏に及ぶ。明月の光を待ち、孤舟に棹さして、由比の濱より還御すと云々。

 

・「餉」平凡社「世界大百科事典」によれば、本来は「だしょう」で馬につけて送る飼葉をいう語であったが、平安・鎌倉時代以降は通常「だこう」「だごう」と読んで外出先での食事を指す語となった。上は貴族・将軍から一般武士・僧侶等まで身分ある者について広く用いられたが、用例からすると、外出や従軍の際に持参する旅籠(はたご)・腰兵粮(こしびょうろう)や招待先の邸宅での正式の供応を「駄餉」と呼ぶことはなく、専ら旅行・行軍・巻狩・遊山などに於ける宿所・仮屋・野営地などでの臨時の逗留地で摂る食事を呼んだとある。幕府公文書であることを鑑み、「だしやう(だしょう)」で読んだ。

 

 次に安貞二(一二二八)年四月十六日の第四代将軍藤原頼経の遊覧記事。当時の頼経は未だ満十歳であった。

 

〇原文

十六日己未。將軍家爲御遊覽。渡御杜戸。武州。駿河前司以下扈從濟々焉。及夜陰還御云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十六日己未。將軍家、御遊覽の爲に杜戸へ渡御す。武州、駿河前司以下の扈從濟々(せいせい)たり。夜陰に及びて還御すと云々。

 

・「武州」北条義時。当時六十五歳。

・「駿河前司」三浦義村。生年は不詳乍ら、当時は七十歳を越えていたと考えられる。頼経に近侍していた。

・「濟々たり」多くて盛んなさま。

 

 同じく頼経遊覧の同安貞二(一二二八)年六月二十三日の記事。

 

〇原文

廿六日丁夘。天霽。將軍家爲御遊興。御出杜戸。有遠笠懸相撲以下御勝負。

射手

 相摸四郎     同五郎

 越後太郎     小山五郎

 結城七郎     佐原三郎左衞門尉

 上総太郎     小笠原六郎

 城太郎      佐々木八郎

 伊賀六郎左衞門尉 横溝六郎

武州被獻垸飯。又長江四郎以下進御駄餉。盃酒之間有管絃等。入夜。自船還著由比浦。被儲御輿於此所。即入御幕府云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿六日丁夘。天、霽る。將軍家、御遊興の爲に、杜戸へ出御す。遠笠懸・相撲以下の御勝負有り。

射手(いて)

 相摸四郎     同五郎

 越後太郎     小山五郎

 結城七郎     佐原三郎左衞門尉

 上総太郎     小笠原六郎

 城太郎      佐々木八郎

 伊賀六郎左衞門尉 横溝六郎

武州、垸飯(わうはん)を獻ぜらる。又、長江四郎以下、御駄餉を進ず。盃酒の間、管絃等有り。夜に入りて、船より由比の浦に還著す。此の所に於いて御輿を儲けられ、即ち幕府に入御すと云々。

 

 続いて、安貞三(一二二九)年二月二十二日の竹の御所の遊覧記事。竹の御所(建仁二(一二〇二)年~天福二(一二三四)年)は本文に注する通り、第四代将軍藤原頼経の正妻。第二代将軍源頼家娘。寛喜二(一二三〇)年、二十八歳で十三歳の頼経に嫁いだ。婚姻の四年後に懐妊、源氏将軍の後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、難産の末に男子を死産、本人も死去した。享年三十三歳。彼女の死によって頼朝の血筋は完全に断絶した。頼経との夫婦仲は円満であったと伝えられる(ここはウィキの「竹御所」に拠った)。

 

〇原文

廿二日辛酉。晴。竹御所已下自三崎還御。駿河前司兼遣四郎家村於杜戸邊。儲御駄餉。盡善極美者也。及黄昏。入御武州御亭。依爲凶會日。竹御所今夜御止宿也。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿二日辛酉。晴る。竹御所已下、三崎より還御す。駿河前司、兼ねて四郎家村を杜戸邊に遣はし、御駄餉を儲く。善を盡し、美を極める者なり。黄昏に及び、武州の御亭へ入御す。凶會日(くゑにち)たるに依つて、竹御所は今夜、御止宿なり。

 

「凶會日」暦注の一つで、干支の組み合わせに基づき、ある事柄をするに際して最凶であるとされる日。二十数種あって月毎に定められた。悪日。

 

 次が誤りの寛喜元(一二二九)年九月十七日の頼経遊覧記事。

 

〇原文

十七日辛巳。晴。將軍家爲海邊御遊覽。御出于杜戸浦。是御不例御平愈之後御出始也。〔去七八月之間御不豫御顏腫云々種々御祈禱在之〕相州武州被參。有犬追物。射手大炊助有時主。足利五郎長氏。小山五郎長村。結城五郎重光。修理亮泰綱。武田六郎信長。小笠原六郎時長。々江八郎。佐原左衛門四郎。佐々木八郎已下數輩也。相州被仰云。駿河次郎折節上洛。尤遺恨云々。駿河前司喜悦顯顏色云々。其後射訖。犬三十餘疋。又御覽例作物。長村時長等施射藝云々。未斜俄暴風起。少其興。及申斜。風猶不休之間。還御云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十七日辛巳。晴る。將軍家、海邊御遊覽の爲に、杜戸浦に御出。是れ、御不例御平愈の後の御出始(はじめ)なり〔去ぬる七、八月の間御不豫(ふよ)、御顏腫ると云々。種々の御祈禱、之れ在り。〕。相州・武州參らる。犬追物(いぬおふもの)有り。射手、大炊助(おほひのすけ)有時主(ぬし)・足利五郎長氏・小山五郎長村・結城五郎重光・修理亮泰綱・武田六郎信長・小笠原六郎時長・長江八郎・佐原左衛門四郎・佐々木八郎已下、數輩なり。相州、仰せられて云はく、

「駿河次郎、折節、上洛す。尤も遺恨。」

と云々。

駿河前司、喜悦の顏色を顯すと云々。

其の後、射訖んぬ。犬三十餘疋。又、例の作物を御覽す。長村・時長等、射藝を施すと云々。

未の斜(ななめ)、俄に暴風起こりて、其の興、少なし。申の斜に及び、風、猶ほ休(や)まずざる間、還御すと云々。

 

・「不豫」「予」は悦ぶの意で、天皇や貴人の病気。不例。

・「相州」幕府連署であった北条時房。当時、五十四歳。

・「武州」第三代執権北条泰時。当時、四十六歳。

・「犬追物」騎馬で犬を追射する競技。馬場を設けて犬を放ち、これを馬上より射るもの。矢は的である犬を傷つけないように鏃(やじり)の代わりに鳴鏑(なりかぶら)を大きくした蟇目(ひきめ)を装着した。馬場は七十杖(一杖は約七尺五寸、凡そ二・三メートル)四方の竹垣や杭を廻らしたその中央に縄で同心円を二重に設け、通常は三手に分かれて十二騎が一手となり、検見の合図によって開始、白犬百五十匹を十匹ずつ十五度に分けて射た。笠懸・流鏑馬とともに「騎射三物(きしゃみつもの)」の一つとされた(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「駿河次郎」三浦泰村。三浦義村次男。当時、二十五歳(生年元久元(一二〇四)年に従う)。承久の乱の宇治川渡河では足利義氏とともに果敢に攻め込むなど、武勇の誉れ高い武者であった。しかし、後の宝治合戦によって彼の代で三浦一族は滅んだ。

・「例の作物」的打ち用の作り物。

・「未の斜」「斜」は時刻が半ばを過ぎて終わりに近いことをいう。午後三時頃。

・「申の斜」午後五時頃。

 

 最後の寛喜二(一二三〇)年二月七日の頼経遊覧の記事。

 

〇原文

七日己未。天晴。將軍家渡御杜戸。遠笠懸。流鏑馬。犬追物〔廿疋。〕等也。例射手皆以參上。各施射藝云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

七日己未。天、晴る。將軍家、杜戸に渡御す。遠笠懸・流鏑馬・犬追物〔廿疋。〕等なり。例の射手、皆、以て參上し、各々射藝を施すと云々。

 

・「遠笠懸」小笠懸に対する普通の笠懸。的は直径一尺八寸(約五十五センチメートル)の円形(鞣し革で造る)で、これを「疏」(さぐり:馬の走路)より五杖から十杖(約十一・三五~二十二・七メートル)離れたところに立てた木枠に紐で三点留めして張り吊るす。的は一つ(流鏑馬の場合は三つ)。矢は「大蟇目(おおひきめ)」と呼ばれる大きめの蟇目鏑を付けた矢を用い、馬を疾走させながら射当てる(ここはウィキ笠懸に拠った)。]

中島敦 南洋日記 一月二十五日

        一月二十五日(日) アイミリーキ

 五時起床。飯もくはず船に乘込む。潮が干てゐるため、カヌーにのつて、ちゝぶ丸迄行く。砂濱に見送る島民共。バスケ、バスケ、バスケ。白砂と森との上に明け行く空。濱に立つて見送る黑き女達。六時十五分出帆。天野の店の女に貰つたビンルンムと燻製と椰子水とオレンヂの朝食。九時半頃コンレイに着くや、交通課の伊藤氏より、クカオ一籠を贈らる。うまし。するめ。アルコロンに着けば、一島女より、マンゴー一籠貰ふ。頗る美味。その他、バナナとオレンヂの大籠一つ。ガラルドにて佐藤校長より彫物一つ。西海岸風穩かにして快し。ガラスマオを經て三時前にアイミリーキに着く。赫土の新開道路を一時間餘歩きて、熱研に着く。途中へゴ羊齒を多く見る。熱研の倶樂部に落着く。眺望の展けし所。一寸滿洲あたりの新開地の如し。夜、情ないラヂオを聽く。

[やぶちゃん注:「バスケ、バスケ、バスケ」不詳。見送りの島民たちが皆持っている籠のことをいうか。

「熱研」このアイミリーキにあった南洋庁熱帯産業研究所。九州大学松原孝俊教授の公式サイト「松原研究室」の「パラオ調査日記」の「Palau通信第5便」(二〇〇九年一月九日のクレジットがある)で当地に熱帯産業研究所があったことが確認出来、「熱帯産業研究所」で諸書誌を調べると、南洋庁と冠していることが分かった。松原氏の記載には『地元の人々が「Nekken」と記憶する』まさに敦が記すこの旧南洋庁熱帯産業研究所跡を訪ねた部分があり、『その一帯は確かに人工的に植樹された椰子の木に囲まれた地域であり、研究目的に人為的な植林が実施されたと推測できるが、現在、その研究所が存在した痕跡を探すことは不可能なほど密林に覆われている。木々を取り除き、草を刈り、表面の土壌を除去すれば、何かの支柱石などが発見できようが、その努力は無駄であり、むしろ自然に還るようにすべきであろう。人々の記憶の中に、「Nekken」という言葉が残り続けようとも』と印象的に擱筆しておられる。椰子などの熱帯植物の農事・林業試験のような研究をしていた場所のように見受けられる。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(3)



かなた日はてるてる海の靑たゝみ

八疊ひける室(へや)に晝睡(ひるい)す

 

[やぶちゃん注:「ひける」はママ。校訂本文は「しける」と訂する。]

 

八月や日向葵(ひぐるま)さきぬさかんなる

花は伏屋(ふせや)の軒をめぐりて

 

[やぶちゃん注:「日向葵」はママ。「伏屋」は屋根の低い小さい家、みすぼらしい家。]

 

朝靄の中をわれ行く君に寄り

ぱいぷくわへて今日もきのふも

 

[やぶちゃん注:「くわえて」はママ。]

 

ぶらじるの海の色にもよく似ると

君の愛でこしオツパアスかな

 

[やぶちゃん注:「オツパアス」新発見の明治四二(一九〇九)年九月一日消印萩原栄次宛葉書に載る同年二月から五月までに作歌したとする「かゝる日に」歌群の中に、

 ぶらじるの海の色にもよく似ると。君の愛(め)でこし靑玉(オツパース)かな

という相同歌が載る。ところが、ここに記された「靑玉」という漢語は「サファイア」のことを指す。しかし英語の文字列“Sapphire”や発音は、どう考えても「オツパアス」又は「オツパース」とは読めない。これに近いのは同じ宝石の「黄玉」、則ち、「トパーズ」、“topaz”しかない。ただこれを誤用と指弾出来るかと言うと、実はトパーズにはブルー・トパーズという青色のものがあるから、これ、一概にトンデモ誤用とは言えない気がするのである。取り敢えず注はしておくこととしたい。]

 

止めたまへかゝる譬(たとへ)は方便歌

説く口振りに似てあさましゝ

 

理想など高き聲にて言ひし故

あまたの人にうとまれしかな

 

指たてゝ驚かす如き眼付する

女をさへも三月戀しぬ

 

日ぐらしの唱などきゝて居り給ふ

ぱいぷに火をばつくるあひだも

 

目覺ましの自鳴機(オルゴル)の鳴る音をきゝ

ところも知らぬ、支那の街ゆく

 

自働車の馳せ行くあとを見送りて
涙ながしき故しらぬなり

 

常盤津の復習(さらへ)もよほす貸席の

軒提灯の下に別れぬ

 

[やぶちゃん注:「常盤津」はママ。正しくは「常磐津」。]

 

芝居見て河添ひかへる夜などは

よくよく人の戀しかりけり

 

[やぶちゃん注:「川添ひ」はママ。ここはどうみても正しくは「河沿ひ」であろうが、珍しく底本は誤字指示がなく、そのまま校訂本文も採っている。]

 

     大坂の夜は美くし

思ひ出は道頓堀の細小路

小間物店の花瓦斯のいろ

 

[やぶちゃん注:「美くし」はママ。「道頓堀」は原本では「道紺堀」であるが、誤字と断じて「道頓堀」とした。校訂本文も同じく訂する。「花瓦斯」は「はなガス」と読み、種々の形や色に飾りたてた装飾・広告用のガス灯のこと。

 この一首の次行に、前の「花瓦斯のいろ」の「斯」位置から下方に向って、最後に以前に示した特殊なバーが配されて、この無題の「午後」冒頭歌群の終了を示している。]

北條九代記 蒲原の殺所謀 付 北陸道軍勢攻登る 承久の乱【二十二】――砥並・志保・黒坂合戦、幕府軍連戦連勝

心安く押通り、越中と加賀の境なる、砥竝(となみ)山に掛りて、黑坂(くろざか)と志保山(しほのやま)と兩道のありけるを、砥竝へは仁科(にしなの)次郎、宮崎左衞門むかひたり。志保山へは糟屋有名(ありな)左衞門、伊王左衞向ひけり。加賀國の住人林、富樫(とがし)、井上、津旗(つばた)、越中國の住人野尻、河上、石黑の者共京方として、七百餘騎集り、殺所を切(きり)塞ぎて、防(ふせぎ)戰ふといへども、大軍の寄手なれば、叶はずして、砥竝、志保、黑坂悉く破れて、次第次第に攻上(せめのぼ)る。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十二】――砥並・志保・黒坂合戦、幕府軍連戦連勝〉

「砥竝山」砺波山は倶利伽羅山の旧称。倶利伽羅山は木曽義仲の倶利伽羅峠の戦いでよく知られ、これはまさに直前の部分に出た「火牛の計」でも知られる古戦場(この時代には「古」ではない)である。

「黑坂」北黒坂(倶利伽羅峠北東麓)と南黒坂(同峠南東麓)があるが、戦略的には恐らく両方である(倶利伽羅峠の戦いで義仲は両所に軍を配位置している)。

「志保山」能登国と越中国の国境の古い山名。現在の石川県宝達山から北に望む一帯の山々を指す。ここも寧ろ、義仲の志保山の戦い(自軍の源行家が敗走、倶利伽羅合戦勝利後の義仲が反撃に転じた戦い)で知られる。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号53パート)の記載。最後の部分は、「北條九代記」では次のシークエンスの頭となる。

 

 越中ト加賀ノ堺ニ砥竝山ト云所有。黑坂・志保トテ二ノ道アリ。トナミ山へハ仁科次郎・宮崎左衞門向ケリ。志保へハ糟屋有名左衞門・伊王左衞門向ケリ。加賀國住人林・富樫・井上・津旗、越中國住人野尻・河上・石黑ノ者共、少々都ノ御方人申テ防戰フ。志保ノ軍破ケレバ、京方皆落行ケリ。其中ニ手負ノ法師武者一人、カタハラニ臥タリケルガ、大勢ノ通ルヲ見テ、「是ハ九郎判官義經ノ一腹ノ弟、糟屋ノ有名左衞門尉ガ兄弟、刑喜坊現覺ト申者也。能敵ヲ打テ高名セバヤ」ト名乘ケレバ、タレトハ不ㇾ知、敵一人寄合、刑部坊ガ首ヲトル。式部丞、砥竝山・黑坂・志保打破テ、加賀國ニ亂入、次第ニ責上程ニ、山法師美濃豎者觀賢、水尾坂ヲ掘切テ、逆茂木引テ待懸タリ。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和六年(四十一句) Ⅳ

雲漢の初夜すぎにけり磧

 

[やぶちゃん注:「初夜」六時(仏教で一昼夜を晨朝(じんじょう)・日中・日没(にちもつ)・初夜・中夜・後夜(ごや)の六つに分けたもので、この時刻毎に念仏や読経などの勤行を修した)の一つ。戌の刻で現在の午後八時頃。宵の口。「そや」とも読む。]

 

くづれたる露におびえて葦の蜘蛛

 

山びこに耳かたむくる案山子かな

 

山田なる一つ家の子の囮かな

 

よろよろと尉のつかへる秋鵜かな

 

[やぶちゃん注:「よろよろ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

浪々のふるさとみちも初冬かな

 

極月やかたむけすつる桝のちり

 

温石の抱き古びてぞ光りける

 

  牧岡神社

雪ふかく足をとゞむる露井かな

 

[やぶちゃん注:「牧岡神社」不詳。これは大阪府東大阪市出雲井町にある枚岡神社の誤りではなかろうか? この境内にはかつては楠正成の嫡男「楠木正行公首洗いの井戸」と呼ばれた井戸がある。サイト「大坂再発見!」のYoshi氏の正行井戸」の記載によれば、『東大阪市の枚岡神社境内に隣接する枚岡梅林の入り口に井戸がある。伝わるところでは1348年(正平3年)1月、楠木正行・正時兄弟、和田高家・賢秀兄弟を始め一族郎党が高師直率いる北朝の大軍と戦い、一族郎党30数名は討ち死にしたが、討ち取られた正行の首はこの井戸で洗われたという』。『この話は、四條縄手の合戦の場所が現在の四條畷市では成り立ちにくく、東大阪市四条町を中心としたならばありうる話と思われる。いずれにしてもその時正行の首はどこに埋葬されたのだろうか』と記しておられるが、この「露井」(雨曝しの井戸の謂いと思われる)はリンク先の現状を見てもそれっぽくはある。但し、実は「山廬集」でもここは「牧岡」となっている。以下、当該の「大阪行 八句」と前書きする全句を引いておく。

       大阪行 八句

雪    こゝろえて緒口とる雪の宴(ウタゲ)かな

     牧岡の神代はしらず雪曇り

     雪ふかく足をとゞむる露井かな

     神山や霽れ雲うつる雪げしき

     詣路や木々の古實の雪まじり

     古りまさる雪の籬とおぼえたり

     小柴門出入のしげき深雪かな

       魚駒樓即事

     雪おちて屋をゆるがす天氣かな

「魚駒樓」は不詳。訪ねた俳人仲間の庵名か。識者の御教授を乞う。]

 

  東行庵

松風にきゝ耳たつる火桶かな

 

鰒鍋や醉はざる酒の一二行

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年二月



冬木影しづけき方へ車道(みち)わたる

 

冬木影戛々ふんで學徒來る

 

冬木影解剖(ふわけ)の部屋にさしてゐる

 

夕木影解剖の部屋のカーテンに

 

[やぶちゃん注:以上四句は二月発行の『天の川』の発表句。一種の組写真のような連作モンタージュであるが、時間の切り取りは上手くなされたものの、初五を恣意的にほぼ統一したことと「解剖の部屋」の固定化によって、折角の二句目のカツカツという足音のSEが後二句で十全に生かされず、腑分けの臭いも消毒消臭されてしまった。]

杉田久女句集 130 菊

菊畠に干竿躍りおちにけり

 

菊苗を植ゑゐる母にきかすこと

 

菊の日に雫振り梳く濡毛かな

 

しろしろと花びらそりぬ月の菊

 

白菊に棟かげ光る月夜かな

 

日の緣に羽織ぬぎ捨て菊に掃く

 

夏菊に病む子全く癒えににけり

 

黄豆菊に汲みあぐる水や輝けり

 

[やぶちゃん注:「黄豆菊」は「きまめぎく」で黄の小菊であろう。井筒の脇に一叢をなしていると見たい。]

 

野菊摘んで水にかゞめば愛慕濃し

 

咲きほそめて花辨するどき野菊かな

 

わが傘の影の中こき野菊かな

 

[やぶちゃん注:菊は正しく久女の花である。菊枕なんどの話ではない。清廉にして気品高く、そうしてどこか慄っとさせるような堪の鋭い香を匂わせる、稀有の才媛久女にとって、まさに菊の香は彼女そのものなのである。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅰ

 昭和十八年
 
時雨月夜半ともなれば照りわたり
 
[やぶちゃん注:「時雨月」は陰暦十月の異名である。但し、ここは同時に事実、昼から宵に時雨れていて、夜半となって雲を払晴れ渡った夜空としっとりと濡れた大地の映像を想起すべきであろう。季語の病いはしたり顔で月の異名と述べるばかりで実景を見ぬ。]
 
山茶花のくれなゐひとに訪はれずに

空と光   八木重吉

 

彫(きざ)まれたる

空よ

光よ

宇宙の 良心   八木重吉

 

宇宙の良心 ― 耶蘇

ひとつの ながれ   八木重吉

 

ひとつの

ながれ

あるごとし、

いづくにか 空にかかりてか

る、る、と

ながるらしき

炭   山之口貘

 

    

 

炭屋にぼくは炭を買ひに行つた

炭屋のおやぢは炭がないと云ふ

少しでいゝからゆづつてほしいと云ふと

あればとにかく少しもないと云ふ

ところが實はたつたいま炭の中から出て來たばつかりの

くろい手足と

くろい顏だ

それでも無ければそれはとにかくだが

なんとかならないもんかと試みても

どうにもしやうがないと云ふ

どうにもしやうのないおやぢだ

まるで冬を邪魔するやうに

ないないばかりを繰り返しては

時勢のまんなかに立ちはだかつて來た

くろい手足と

くろい顏だ。

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を全面改稿した。】初出は昭和一五(一九四〇)年三月発行の「詩原」(第一巻第一号。発行所は東京市小石川区駕籠町「赤塚書房」)。因みに、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題によると、戦後の昭和三五(一九六〇)年十二月二十五日附『全繊新聞』(「全国繊維産業労働組合同盟」の中央機関紙で、戦後は、バクさんの詩がよく発表された)に再掲された際には、『古田熊蔵撮影』になる『焚き火で暖を取っている写真』が掲載されている、とある。この『焚き火で暖を取っている』のはバクさんとしか読めないが、そうするとなかなか凄い(というかバクさんの詩の中ではとびっきり変わった)演出ということになる。実物を見てみたいものである。また、翌一九六一年二月号の学習研究社『6年の学習』にも再掲されているとあり、これは恐らく、戦前の詩集未収録の児童詩を除いて(恐らく最も古いものは昭和一六(一九四一)年十一月号『國民六年生』(小学館発行)に載った「希望」か)、バクさんの公刊詩集の中の詩では本格的児童向け雑誌に載った最初のものではなかろうか。

 原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本山之口貘詩集」では、最後の句点が除去され、十一行目が、『どうにもしやうのないおやじだ』と改められているが、この「おやぢ」だけを現代仮名遣に直しておいて、二行目は「おやぢ」のままであるのは、これ、甚だ不審と言わざるを得ない(思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」でもそうなっているが、私はこれこそ解題で注記して、本分を訂正して何ら構わない部類のものだと個人的には思うのだが、解題には、この表現の齟齬注記さえないのは、大いに不満である)

【二〇二四年十一月四日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で、正規表現に補正を開始する。当該部はここ

遅れて花幻忌に

少し遅れた――


 
  碑銘   原民喜
 
遠き日の石に刻み
 
      砂に影おち
 
崩れ墜つ 天地のまなか
 
一輪の花の幻
 
 
Hana
原民喜 昭和26(1951)年3月13日自死
 
添えた絵はあくまで僕のイメージで配したもので、僕の父の作品「NOTO 華」(1980-6-20)である。
 

2014/03/17

郷愁   八木重吉



このひごろ

あまりには

ひとを 憎まず

 

すきとほりゆく

郷愁

ひえびえと ながる

ベルナルド・ベルトルッチ「暗殺のオペラ」

光の眩暈――
音楽の絶妙さ(私はオープニング・タイトルのそれから完全に引き込まれた)――
アリダ・ヴァリが「彼」のために蚊遣をつける――
生ハムの、まさに饐えた美香が漂うあのシーン――
ターン・テーブルの上で踊るようなあの二人――
そしてエンディング……
カメラが右にパンすると、鉄路を覆う雑草――
それは総てがまさに仮構の町で起ったように……総ての僕たちが「彼」と見た話は幻のように消えてしまう……
TVドラマという制約上、音響や音楽の特に編集上のまずさが散見されるが、しかし、僕はタルコフスキイの作品を除いて、これはという作品を挙げよ、と言われれば、躊躇なくこの「暗殺のオペラ」を挙げる人間である――

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(2)



拳固(こぶし)もて石の扉をうつ如き

愚かもあへて君ゆへにする

 

[やぶちゃん注:原本は「愚かもあへて」は「禺かもあへて」であるが、以下の重出作同様に訂した(底本校訂本文も同じく訂している)。本歌は七首前、本「午後」の第二首目の、

 拳もて石の扉をうつ如き

 愚かもあへて君ゆへにする

の重出。手書き作成したものであるから、恐らく後から気がついたものの、修正を施さなかった(施せなかった)ものと思われる。]

 

言ひ給へけしうはあらず我とても

この頃知りぬ少しく知りぬ

 

紅(くれない)の軍服着たる友の來て

今日も語りぬワグネルのこと

 

[やぶちゃん注:「くれない」はママ。この「友」は軍人ではなく(日本の軍服に赤いものは襟章を除いてない)イギリスの近衛兵の上着のような(若しくはそのもの)「紅の軍服」を伊達に着ているものと思われる。]

 

かにかくと何を思ふや嬉しき日

何故わがやうにものを言はれぬ

 

春ゆうべとある酒屋の店さきに

LIQUR の瓶を愛でゝかへりぬ

 

春の夜の酒は泡だつ三鞭酒(シヤンパニユー)

樂はたのしき戀のメロデイ

 

[やぶちゃん注:「シヤンパニユー」はママ。]

 

樂しされどやゝ足らはぬよ譬ふれば

序樂をきかぬオペラ見るごと

 

[やぶちゃん注:朔太郎満二十三歳の時の、『スバル』第二年第一号(明治四三(一九〇二)年一月発行)に掲載された歌群の一首、

 たのしされどやや足らはぬよ譬ふれば序樂をきかぬオペラみるごと

の表記違いの相同歌。]

 

妹が折々すなる態(しな)をして

もだして居りぬ女の中に

 

[やぶちゃん注:不思議な一首である。この「女の中に」「居」るのは「妹が折々すなる態をして」黙ったままでいる朔太郎自身である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 29 吉備楽の返礼としてのメンデンホール・フェノロサ・リーランド・モース四重合唱団公演!

 文部省が外国人教授に聞かせてくれた音楽会の返礼として、大学教授が四人、四重唱団を組織し、いくつかの歌を練習した。四重唱団はメンデンホール、フェノロサ、リーランド及びモースの四教授から成立していた。我々が練習した歌の中には、「巡礼の合唱」、アリオン集中の若干、「オールド・ハンドレッド」〔讃美歌の一〕、「すべての名誉を兵士に捧ぐ」その他があった。二百人という日本人の先生達が集ったが、各々が鉛筆と紙とを持ち、選曲は順序書に印刷され、そして先生達は、彼等の印象を記録することを委嘱された。これ等の記録は取りまとめられ、大部分は飜訳されずに、いまだに歌手の一人の手もとにある。「すべての名誉を兵士に捧ぐ」は大いに勢よく歌ったが、この感情が静かな日本人にとって、むしろいやらしかったと知った時、我々は多少耻しい気がした。その後我々は、日本人が、詩ででも散文ででも、戦争の栄光を頌揚したりしたことは、決して無いということを知った。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の二四九~二五〇頁に、明治一二(一八七九)年一月のモースの多忙ぶりが日録風に記されている中に、『〇二十九日、昌平館で、モース、フェノロサ、メンデンホール、リーランド(東大体操伝習所教師)の四名が四重唱』とあることから、年月日が特定される。しかも、この「昌平館」とは間違いなく旧昌平坂坂学問所=旧昌平黌=湯島聖堂のことと思われ、先の吉備楽の演奏会が、私が推測した通りにやはり同じ場所で行われた可能性を強く示唆するものと思われる。

「メンデンホール」モースが招聘した当時の東京大学理学部物理学教授トマス・メンデンホール(Thomas Corwin Mendenhall 一八四一年~一九二四年)はアメリカ合衆国オハイオ州生まれ。高卒後に独学で数学と物理学を習得し、高校教師からオハイオ州立大学物理学教授となった。モースの推薦で明治一一(一八七八)年十月一日附で東京大学に迎えられた彼は、富士山頂で重力測定や天文気象の観測を行うなど、本邦に於ける地球物理学の濫觴となり、また、モースの官舎の裏に当たる本郷区本富士町(現在の文京区本郷七丁目)に竣工した東京大学理学部観象台(気象台)の初代台長(観測主任)となって、翌明治一二(一八七九)年一月から二年間に亙って気象観測に従事、本邦での地震の頻発を考慮して、観象台への地震計設置を主張したり、日本地震学会の創立にも貢献した。明治一四(一八八一)年の帰国後はオハイオ州立大学教授・陸軍通信隊教授・ローズ工科大学学長・アメリカ科学振興協会(AAAS)会長・海岸陸地測量局長(アラスカの氷河の一つである彼の名を冠したメンデンホール氷河はこの局長時代の仕事を記念して命名されたもの)・ウースター工科大学学長などを歴任し、科学行政にも関与した。米政府のメートル法採用に果たした役割も大きい。明治四四(一九一一)年に日本を再訪している(以上はウィキの「トマス・メンデンホール」に磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」のデータを加えてある)。

「フェノロサ」東洋美術史学者で、モースが招聘した当時の東京大学文学部政治学及び理財学教授アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa 一八五三年~一九〇八年) はアメリカ合衆国マサチューセッツ州セーラム生まれ。ハーバード大学で哲学を学び、一八七四年に首席で卒業、二年後に同大学院修了後、一八七七年にボストン美術館付属美術学校で油絵を学んでいた。モースの推薦で明治一一(一八七八)年八月九日附で東京大学に迎えられた彼は、二年後の明治十三年度からは哲学・理財学・論理学担当に変わった。彼の政治学講義は社会有機体説を提唱したハーバート・スペンサーの学説が中心で、当時の自由民権運動の思想的支柱として少なからぬ影響を及ぼし、哲学講義ではヘーゲルなどのドイツ哲学を初めて本邦に紹介した功績が挙げられる。また、来日後間もなく、彼は日本美術に並々ならぬ関心を寄せ、その収集と研究を開始(以前にも注したが、これもモースの陶器収集に触発されたものともいう)、狩野友信・狩野永悳(えいとく)に師事して鑑定法を学んだ。フェノロサの鑑定力は人々に大きな驚きを与えたようであり、後に永悳から「狩野永探理信」という画名をも受けている。一方、日本美術の復興を唱え、明治一五(一八八二)年に龍池会(財団法人日本美術協会の前身)で「美術真説」という講演を行い、日本画と洋画の特色を比較する中で日本画の優秀性を説いて日本美術界に大きな影響を及ぼしてもいる。明治十七年には自ら鑑画会を結成、狩野芳崖・橋本雅邦らとともに新日本画の創造を図った(これらの作品はフェノロサ自身の収集によって現在ボストン美術館・フィラデルフィア美術館・フリーア美術館などに収蔵されている)。 同年に図画調査会委員となって以降、美術教育制度の確立にも尽力、明治二〇(一八八七)年には東京美術学校(現在の東京芸術大学)を設立(開校は明治二十二年)、同校では美術史の講義を行い、これが本邦初の美術史研究の濫觴となった。古美術保護にも尽力する一方、仏教にも傾倒、明治一八(一八八五)年にはビゲローとともに天台宗法明院(三井寺北院)で桜井敬徳師により受戒、「諦信」の法号も受けている。明治二三(一八九〇)年に帰国してボストン美術館中国日本美術部主任となったが、六年後に辞任、その後も数度来日している。一九〇八(明治四十一)年、ロンドンの大英博物館での調査中に心臓発作で客死した。当初、英国国教会の手によりハイゲート墓地に埋葬されたが、フェノロサの遺志によって火葬された後に日本に送られ、大津の法明院(三井寺(園城寺)寺塔頭で滋賀県大津市園城寺町にある)に改めて葬られた。近代日本での華々しい功績とは裏腹に、フェノロサの後半生は必ずしも恵まれたものではなかった(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「アーネスト・フェノロサ」とを比較参照しつつ、より正確と思われる記載を探り、それに「磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」のデータを加えたものである)。

「リーランド」当時の官立体操伝習所(明治一一(一八七八)年十月に現在の東京都千代田区に設立された体育教員及び指導者の養成機関)教授ジョージ・アダムス・リーランド(George Adams Leland 一八五〇年~一九二四年)。アメリカ合衆国ボストン生まれの医師・教育者。以下、ウィキの「ジョージ・アダムス・リーランド」によれば、明治十一年九月に日本政府の招聘によって来日し、明治一四(一八八一)年七月の離日まで体操伝習所教授として学校体操の指導者養成に尽力した。アマースト大学からハーバード大学医学部に入学、一八七八年医学博士となる。これより先、一八七二年に札幌農学校のクラーク博士の紹介でアマースト大学を訪れていた日本の文部大丞田中不二麿が体操場を見学、田中はここでの体操教育に深く感銘し、日本の学校でもアマースト式体操を課そうと決意、一八七六年にフィラデルフィアでの博覧会視察のために再度訪米した田中が同校学長に体操教師招聘の交渉を行い、その結果として適任者として推薦されたのがリーランドであった。リーランドは明治一一(一八七八)年九月六日に来日、各地の学校を視察して日本の学校体操は軍隊式操練の影響が強過ぎると指摘、同年十月には体操伝習所の開設が決裁され(初代主幹は伊沢修二)、リーランドが指導に当たった。教授内容については当時アマースト大学で行われていた二種類の体操(器械を使ったドイツ体操「重体操」と女性や少年向としてあった「軽体操」)から軽体操を当て、翌年には軽体操で用いられる唖鈴(鉄アレイ)・球竿・棍棒・木環、クロッケー・クリケット・ベースボール用具一式の他、握力器・胸囲巻尺・身長測器等も準備された。明治一二(一八七九)年四月に体操伝習所第一期給費生二十五名が入学、内二十一名が二年後の明治十四年に卒業している。同年七月三十一日附でリーランドは離職、離日した(主に財政上の理由で契約が更新されなかったためとされる。その後、体操伝習所は明治一九(一八八六)年四月に廃止されて高等師範学校体操専修科に引き継がれ、またリーランドもたらした軽体操は彼の通訳を努め自ら体操家となった坪井玄道によりその理論が構築され、「兵式体操」に対して「普通体操」と呼ばれるようになり、この普通体操は明治三三(一九〇〇)年頃にスウェーデン体操が登場するまで学校体育の主たる形式としての地位を保った)。離日後のリーランドはヨーロッパで咽喉学・耳学の研究に専念し、一八八二年十月に帰国、翌年のボストンYMCA体育館医務責任者から本来の医学の道に進み、一九一二年に米国咽喉学会会長就任、一九一四年にはダートマス医学校咽喉科名誉教授となった。大正八(一九一九)年、日本政府から勲四等章を受章した、とある。

「巡礼の合唱」原文“Pilgrim's Chorus”。ワーグナーが一八四五年に完成させた楽劇「タンホイザー」の中でも屈指の名曲。幾つかの動画を見聴きしたが、私は何故か、“Gay Men's Chorus of San Diego performs Wagner's Chor der Pilger (Pilgrim's Chorus) from his Opera Tannhäuser. From GMCSD's "Really Big Songs" show in April 2009.の合唱を推したくなった。

「アリオン集」原文“the Arion collection”。不詳。ドイツ系アメリカ人が一八五〇年に組織した合唱団“Arion Gesangverein”の作った唱歌集か? “Arion”はギリシャの詩人で音楽家の名で、“Gesangverein”(ゲザング・フェァアイン)はドイツ語で合唱団・歌唱サークルの意である。識者の御教授を乞う。

「オールド・ハンドレッド」原文“Old Hundred”。底本では直下に石川氏の『〔讃美歌の一〕』という割注が入る。プロテスタントの頌栄として著名な「詩篇旧百番」。旋律はフランス・ルネサンス期の音楽家ルイ・ブルジョワ(Loys Bourgeois)が作曲したものとされる。ピンとくる合唱に行き当たらないが、取り敢えずをリンクしておく。

「すべての名誉を兵士に捧ぐ」原文“All honor to the soldier be”。最も検索が容易と思われたこの曲がまるで分からない。原文文字列では動画は勿論、ウェヴ検索でもヒットしない。これはお手上げである。識者の御教授を俟つものである。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和六年(四十一句) Ⅲ



七夕のみな冷え冷えと供物かな

 

[やぶちゃん注:「冷え冷え」の後半は底本では踊り字「〱」。「〲」ではないので注意。]

 

梶の葉に二星へそなふ山女魚

 

[やぶちゃん注:「二星」は「にせい」で牽牛星と織女星のこと。]

 

草市の人妻の頰に白きもの

 

[やぶちゃん注:「草市」(くさいち)。旧暦七月十二日の夜から翌朝にかけて盂蘭盆の仏前に供える草花である蓮葉・茄子・胡瓜・鬼灯や真菰筵・燈籠・土器などの祭具を売るために開かれる市。盆市。花市。一般には初秋の季語であるが、晩夏とする歳時記記載もあり、次の句を見て戴いても分かる通り、夏の季語として蛇笏は用いていて、この句は「山廬集」でも夏の部に入っている。こういう齟齬を伝統俳句を作る人々は少しも不思議に思わぬのであろうか? 自由律から入り、無季を指示する私としては、そういう曖昧な神経が分からないのである。芭蕉の如く、季詞ならざるものなし、で好かろうに、と――]

 

なつまけの足爪かゝる敷布かな

 

忌中なる花屋の靑簾かゝりけり

 

[やぶちゃん注:「靑簾」は韻律上、どう考えても「あをすだれ(あおすだれ)」ではなく漢詩訓読調の「せいれん」である。但し、「山廬集」では並べて、

 雲水もともに仮泊や靑すだれ

を掲げている。誠実な読者なら私はこれを見ると、もしや、前の句も「あをすだれ」ではあるまいか? と一瞬、戸惑うことは間違いない(臍曲がりの私でさえそうである)。こうした字余りでないことを後世の私のような凡夫が安堵するためにも、定型有季の作句者は読みの振れる可能性のある語には必ずルビを打つべきであると思う。こうした苛立ちを少なくとも自由律から入った私などは伝統俳句に対して常に感ずるのである。そんな読みはあるはずがない、という定型俳句の創作者や鑑賞者の思い込みには私は全くついてゆけないと表明しておく。いや、そんな不文律のセオリーが厳として存在するのであれば、そうした解説や理論(字余りでないことを示す定理を含めて)を歳時記なんぞにでも闡明するがよいと私は常々思うのである。]

 

月さして燠のほこほこと鮎を燒く

 

[やぶちゃん注:「ほこほこ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

風波をおくりて深き蓮の水

 

秋たつや川瀨にまじる風の音

[やぶちゃん注:昭和六年の立秋は八月八日土曜日であった。]



口紅の玉蟲いろに殘暑かな

 

[やぶちゃん注:蛇笏の妖艶調の佳句である。]

 

杣の火にゆく雲絶えて秋の空

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十七年 Ⅶ 信濃抄三

 信濃抄三

 

はまなすの紅姥捨も霧に過ぎ

 

髮匂ふことも親しく螢の夜

 

きりぎりす日が射せるより露あつく

 

膝前(さき)に秋爐もえつく山の日々

 

硯洗ふ墨あをあをと流れけり

 

身の邊り狐のかみそり日日に立つ

 

草照りて十六夜雲を離れたり

 

靑胡桃地にぬくもりて拾はるる

 

靑栗にしなのの空がすき透る

 

いなびかりひとゐて爐火を更けしめず

 

わがひざに小猫がぬくしいなびかり

 

ひざ前(さき)に爐火が燃えつぐきりぎりす

 

朝刊のつめたさ螽斯(ぎす)が歩み寄る

 

牛乳(ちち)飮みに日日や秋立つ切通し

 

母と子に落葉の焰すぐ盡きぬ

 

   一茶終焉の土藏にて

あさがほや家をめぐりて十數歩

 

[やぶちゃん注:小林一茶(宝暦一三(一七六三)年~文政一〇(一八二八)年)は放浪の後、信濃北部の北国街道柏原(かしわばら)宿(現在の長野県上水内郡信濃町大字柏原)の実家への帰還後、継母や弟と遺産相続係争の末、文政一〇(一八二七)年閏六月一日(グレゴリオ暦一八二七年七月二十四日)に柏原宿を襲った大火のために住んでいた母屋を失い、焼け残った土蔵に住んだが、同年十一月十九日(グレゴリオ暦の一月五日)にそこで三度目の脳卒中の発作のために亡くなった。享年六十五歳であった。復元された一茶終焉の土蔵は現在、終焉の地であった長野県上水内郡信濃町柏原の一茶記念館にある。但し、この一茶記念館は後の昭和三二(一九五七)年にこの土蔵が国史跡として指定された後、昭和三五(一九六〇)年に開館したもので、土蔵もその後二度に亙って解体保存工事が施されたもので、多佳子がこの時見たものとはかなり異なるものと思われる(以上は一茶記念館公式サイトウィキの「小林一茶」その他信頼出来る複数の記載を参考に記した)。]

 

鳥兜花盡さぬに我等去る

 

 

[やぶちゃん注:「鳥兜」は「とりかぶと」。モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum のヤマトリカブト Aconitum japonicum か。見「盡さぬ」うち「に」の謂いか。]

 

道の邊に捨蠶の白さ信濃去る

 

[やぶちゃん注:「蠶」は底本では「蚕」。「捨蠶」は「すてご」で、養蚕に於いては病気又は発育不良の蚕は野原や川に捨てられる。それを言う。

 

日が射せる秋の蚊遣や忌を訪はる

 

[やぶちゃん注:「忌」九月三十日の夫豊次郎(昭和一二(一九三七)年逝去)の祥月命日、六回忌のことと思われる。]

杉田久女句集 129 むかご



みがかれて櫃の古さよむかご飯

 

露けさやこぼれそめたるむかご飯

 

蔓起せばむかごこぼれゐし濕り土

 

むかごもぐまれの閑居を訪はれまじ

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年一月

昭和九(一九三四)年

 

幕合ひの人ながれくる花氷

 

花氷藝題のビラを含みゐる

 

天翔るハタハタの音(と)を掌にとらな

 

秋天に投げてハタハタ放ちけり

 

ハタハタの溺れてプール夏逝きぬ

 

颱風をよろこぶ血あり我がうちに

 

[やぶちゃん注:この句は鳳作の没した昭和一一(一九三六)年九月十七日から一年後の翌昭和十二年九月発行の『セルパン』に朝倉南男編「篠原鳳作俳句抄」として載ったものの一句。ここに配されている以上は句作データが残るものと思われる。]

 

  *冬たのし

好晴の空をゆすりて冬木かな

 

好晴の空をゆすりて冬木あり

 

[やぶちゃん注:前者が昭和九(一九三四)年一月発行の『傘火』の、後者が同年三月発行の『天の川』の句形。「好晴」は「かうせい(こうせい)」で快晴と同義であるが、冬の季語でもあるらしい。余談であるが、同義語でありながら「快晴」が季語だという話は聴いたことがない。如何にも奇怪な話である。これだから有季の非論理性には虫唾が走る。それは伝統俳句の文学性の核心であるなどとというのであれば、後生大事の歳時記は実際の季節や生物生態とおぞましいほどに齟齬する無数の博物学的記載を金輪際やめたがいい。以下、「うたたねや」までの五句は『傘火』に前書「冬たのし」で連作で載ったものである。

 

筆たのし暖爐ほてりを背にうけ

 

室咲や暖爐に遠き卓の上

 

[やぶちゃん注:「室咲」(むろざき)は盆栽や切り枝を室内の炉火などで暖めて早咲きさせたものを指す。]

 

椅子の脚暖爐ほてりにそり返る

 

うたたねや毛糸の玉は足もとに

 

[やぶちゃん注:以上、十一句は底本の昭和九年一月相当のパートに配されたもの。]

疊   山之口貘

 

    

 

なんにもなかつた疊のうへに

いろんな物があらはれた

まるでこの世のいろんな姿の文字どもが

聲をかぎりに詩を呼び廻はつて

白紙のうへにあらはれて來たやうに

血の出るやうな聲を張りあげては

結婚生活を呼び呼びして

をつとになつた僕があらはれた

女房になつた女があらはれた

桐の簞笥があらはれた

藥罐と

火鉢と

鏡臺があらはれた

お鍋や

食器が

あらはれた

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を一部改稿した。】初出は昭和一五(一九四〇)年五月号『文藝」で、戦後の昭和三二(一九五七)年一月発行の時間社(東京都新宿区須賀町)『現代詩入門』(第三巻第一号)に再掲されており、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題によれば、そこにはバクさんの手になる自作解説と Satoru Sato なる人物による英訳も併載されている、とある。

 戦後出版された原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本山之口貘詩集」では、四行目が、

 

聲をかぎりに詩を呼び廻つて

 

となっている(但し、漢字は正字化して示した)。

 バクさんの安田静江さんとの事実婚は昭和一二(一九三七)年十二月(婚姻届は二年後の昭和十四年十月)であった。

【二〇二四年十一月三日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で、正規表現に補正を開始する。当該部はここ

秋の 壁   八木重吉

 

白き

秋の 壁に

かれ枝もて

えがけば

 

かれ枝より

しづかなる

ひびき ながるるなり

 

[やぶちゃん注:「えがけば」はママ。]

2014/03/16

あなたにとって死とは?

アインシュタインは、

「あなたにとって死とは?」

という記者の質問に、

「死とはモーツァルトを聴けなくなることだ。」

と応えたという。

私はその後塵を拝して確かに言おう。

「死とはタルコフスキイの映像に涙を流せなくなることだ。」

と――

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 シマキ蟲

【和品】

シマキ蟲 水中ニ生ス長一二尺色黑シ如絲其大如鬠頭

尾難辨

〇やぶちゃんの書き下し文

【和品】

しまき蟲 水中に生ず。長さ一、二尺。色、黑し。絲の如く、其の大いさ、鬠〔もとゆひ〕の頭〔かしら〕のごとし。尾は辨(わか)ち難し。

[やぶちゃん注:「しまき蟲」の「しまく」は「繞く」で、取り巻く・取り囲むの意。長さが三〇・三~六〇・六センチメートル、黒い糸状で大きさ形状は、丁度、元結(髪の髻(もとどり)を結び束ねる紐・糸の類。古くは組紐または麻糸を用いたが、近世には糊で固くひねったこよりで製したものを用いたから、所謂、閉じ紐の類いを想起すればよい)のようだと言っている。しかも尾が分かり難いと言っているのは、実は頭も分からないということではなかろうか? とすれば、これは全くの細い紐状の蟲である。私はズバリ、真正後生動物亜界冠輪動物上門紐形動物門 Nemertea のヒモムシ類ではないかと思う。記載が少ないのは、人間との関係が無縁であるからで、本類にもよく合致する。問題は多くの種が海産であること(僅かに湿った土壌や淡水中に棲息する種もあることはある)、殆んどが砂浜海岸の砂泥や干潟の泥土内及び岩礁の隙間などの底生であること(僅かに浮遊性の種もいる)で、足に纏いつくような性質はないことである。前の「足まとひ」のような炎症記載があれば、同じ刺胞動物のどれそれが挙げられるが、全く記されていないところからは、そうした傷害は起こさないものと見られる。クシクラゲなどの触手動物ならばそれに合致するが、こんなに細くはなく、逆にもっと遙かに長い個体が頻繁に見られるはずであるから、やはり違う。そうなると、思い切って動物ではないものと考えてみると、「髻」の字が着目されるのである。私が何を想定しているか、もうお分かりであろう。「龍宮の乙姫の元結の切り外し」、最も長い植物和名として知られる――リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ――顕花植物(種子植物)である海草の被子植物門単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ Zostera marina である。イネ科と同じ草本類で、節のある長い地下茎と鬚(ひげ)状の根を持ったイネに似た細長い葉を持つ、葉は緑色で、先端はわずかに尖り、五~七本の葉脈が先端から根元まで平行に走る、ジュゴンの餌である、そうして何より沿岸の海洋生物の搖り籠となるところのアマモ場を形成するところの、あれである。葉は長さ二〇センチメートルから一メートル、幅は三~五ミリメートルで、まさにこの記載に相応しいのである。特にその断裂したものは私の観察では暫く経つと黒味を帯びてもくるのである。「大和本草」の水草類を見ても、それに同定されるものはなさそうだし、特にここで益軒がこれを漁師の伝聞から綴ったとすれば、決しておかしくないものと思うのである。大方の御批判を俟つ。よろしくお願い申し上げる。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(1)

[やぶちゃん注:引き続き、「ソライロノハナ」(昭和五二(一九七七)年に萩原家が発見入手したもので、それまで知られていなかった自筆本自選歌集。死後四十年、製作時に遡れば実に六十余年を経ての驚天動地の新発見であった。「自敍傳」のクレジットは『一九一三、四』で一九一三年は大正二年で同年四月時点で朔太郎は満二十七歳であった)の歌群「午後」の章から順次短歌を掲載する。]

床這ひ行く午後の

日脚をみつめつゝ

悲しき人は何をか思へる

まだ年もうら若きに


[やぶちゃん注:以上は「午後」の標題頁の裏に掲げられている序詩。]


切愛すそのひとことのきゝたさに

あへても死なずありし身なれど

 

拳もて石の扉をうつ如き

愚かもあへて君ゆへにする

 

[やぶちゃん注:原本は「拳もて石の扉をもつ如き」、「愚かもあへて」は「禺かもあへて」であるが、以下の先行発表作に基づき、訂した(底本校訂本文も同じく訂している)。朔太郎満二十三歳の時の、『スバル』第一年第十一号(明治四十二(一九〇九)年十一月発行)に「萩原咲二」名義で掲載された歌群の一首、

 拳もて石の扉を打つごとき愚(おろか)もあへて君ゆゑにする

の表記違いの相同歌。]

 

體温機管(つらぬく)極熱を

つめたき手してすかし見る君

 

[やぶちゃん注:「體温機」体温計。校訂本文は「體温器」と訂している。]

 

野守等の唄ふをきけば忘れぐさの

きのふ始めて思ひきざすと

 

[やぶちゃん注:「思ひきざすと」は原本では「思ひざきすと」であるが、意味不明なので、錯字と断じて校訂本文通り、「思ひきざすと」と訂した。]

 

寢ざめして淋しき夜なり浪の音を

風のやうにもきく明石潟

              (明石の宿にて)

 

西洋の習慣(ならはし)好む君ゆへに

別るゝきはも手を口にあつ

 

[やぶちゃん注:「ゆへに」はママ。]

 

我が肺にナイフ立てみん三鞭酒

栓ぬく如き音のするべし

 

[やぶちゃん注:二首目と同じく、朔太郎満二十三歳の時の『スバル』第一年第十一号(明治四十二(一九〇九)年十一月発行)に掲載された歌群の一首、

 心臟に匕首たてよシヤンパアニユ栓拔くごとき音のしつべし

の類型歌。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和六年(四十一句) Ⅱ



月影に種井ひまなくながれけり

[やぶちゃん注:「種井」は「たなゐ(たない)」又は「たねゐ(たねい)」と読み、苗代にまく籾種(もみだね)を浸すのに使う井戸または池。]

 

草萌や詣でゝ影す老の者 

 

溪流のをどる日南や竹の秋

[やぶちゃん注:「日南」は「ひなた」と読んでおく。この問題は「明治四十年」のパートの「雷やみし合歡の日南の旅人かな」に既注。そちらを参照されたい。]

 

  千鶴女、小倉に我を迎ふ

春泥に影坊二つあとやさき

[やぶちゃん注:「千鶴女」福岡の蛇笏の弟子安田千鶴女(ちづる)。]

 

  大谷山大德坊

神山や風呂たく煙に遲ざくら

[やぶちゃん注:「大谷山大德坊」不詳。識者の御教授を乞う。] 

 

夜の秋や轡かけたる厩柱

[やぶちゃん注:「厩柱」読み不詳。「うまやばしら」は如何にも韻律が悪い。「きうばしら(きゅうばしら)」ならいいがこの重箱読みが通用するか。] 

 

雲ふかき筍黴雨の後架かな

[やぶちゃん注:「筍黴雨」は「たけのこづゆ」と読み、筍梅雨で一語の風向きを示す言葉。伊勢や伊豆地方の船乗りの言い方に由来するもので、竹の子の出る陰暦四~五月ころに吹く南東風を指す。湿気が多く、雨を伴うことが多い。筍流し。初夏の季語。] 

 

大南風をくらつて尾根の鴉かな

[やぶちゃん注:「大南風」は「おほみなみ(おおみなみ)」で、夏の季節風である南風を指す。] 

 

夏山や常山木の揚羽鴉ほど

[やぶちゃん注:「常山木」は「くさぎ」と読む。シソ目シソ科クサギ Clerodendrum trichotomum 。臭木。名の通り、葉に独特の臭気があるが、乾燥させて茶葉としたり、若葉を茹でて山菜として食用にもする。果実は草木染に使うと媒染剤なしで絹糸を鮮やかな空色に染めることが出来、赤い萼は鉄媒染で渋い灰色の染め上がりを得ることの出来る染料ともなる(以上はウィキクサギ」に拠った)。] 

 

  某、自作になる二尺餘りの陶壺を贈らるゝに

大陶壺さす花もなく梅雨入かな

 

世はさまざま   山之口貘

 

    世はさまざま

 

人は米を食つてゐる

ぼくの名とおなじ名の

獏といふ獸は

夢を食ふといふ

羊は紙を食ふ

南京蟲は血を吸ひにくる

人にはまた

人を食ひに來る人や人を食ひに出掛ける人もある

さうかとおもふと琉球には

まあ木といふ木がある

木としての器量はよくないが詩人みたいな木なんだ

いつも墓場に立つてゐて

そこに來ては泣きくづれる

かなしい聲や淚で育つといふ

まあ木といふ風變りな木もある。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を一部改稿した。】初出は昭和一五(一九四〇)年五月十日附『日本学藝新聞』。「定本 山之口貘詩集」では最後の句点が除去されてある。「うまあ木」の「む」は右寄せ小文字であるが、下附きで示した。

「うまあ木」バラ亜綱フトモモ目シクンシ科モモタマナ Terminalia catappa 。マレー半島原産とされる熱帯植物(沖縄や小笠原にも自生)で英名では“tropical almond”とか“Indian almond”と呼んで種子の仁を食用とする。材は硬くて良質であるため、建築用材や家具に用いられ、街路樹・庭木・海岸の防風林として植栽される(以上は高橋俊一氏のサイト「世界の植物-植物名の由来-」の「モモタマナ」に拠った)。多くのネット記載が、しばしば、バクさんの、この「世はさまざま」の詩を引用した折り、モモタマナに同定している。沖繩方言(うちなーぐち)では「うむまーぎー」「うむやーぎー」「くゎーでぃーさー」とも呼ばれるともある。

【二〇二四年十一月三日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で、正規表現に補正を開始する。当該部はここ

篠原鳳作句集 昭和八(一九三三)年十二月

   大阪天王寺公園

月靑しかたき眠りのあぶれもの

 

月靑し寢顏あちむきこちむきに

 

夜もすがら噴水唄ふ芝生かな

 

なにはづの夜空はあかき外寢かな

 

[やぶちゃん注:以上の四句は十二月発行の『天の川』掲載句。「大阪天王寺公園」は現在、大阪府大阪市天王寺区茶臼山町にある市立公園。ウィキの「天王寺公園」によれば、上町台地の西端に位置しており、総面積は約二十八万平方メートルで、園内には天王寺動物園・大阪市立美術館・慶沢園を擁する大阪を代表する都市公園である。かつては天王寺図書館や天王寺公会堂、野外音楽堂もあった。明治三六(一九〇三)年に開かれた第五回内国勧業博覧会第一会場(第二会場は大阪府堺市堺区大浜で現在の大浜公園となっている)跡地の東側を。明治四二(一九〇九)年に会場公園として整備して「天王寺公園」としたもので(通天閣を含む西側は「新世界」となった)、その後、大正四(一九一五)年には東京上野・京都岡崎に次ぐ国内三番目の天王寺動物園が開園、大正九(一九二〇)年には住友家邸宅敷地が大阪市に寄付されて大阪市立美術館として開館していた。私はここの地理や沿革について暗いが、このウィキの記載の昭和六二(一九八七)年の項に、『天王寺博覧会開催に伴い、園内を再整備。映像館(マルチイメージシアター)などを設置する(閉幕後、公園主要部分はフェンスで囲われ、入場が有料となった。あいりん地区に近いため、公園内にはホームレスが多かったが、有料化と夜間が閉園となったことにより野宿ができなくなった)』という記載があり、それ以前の鳳作の吟詠時にも、この公園はそうした浮浪者が多くたむろしていたものか。鳳作にはこうした社会の底辺層の貧しい人々の、ある意味、強い生のエネルギーを詠んだ句が多い。それはプロレタリア俳句とは一線を画すものではあるが、鳳作俳句のこの社会的な視線には戦後の社会性俳句に通ずる極めて鋭いものが私には感じられるのである。]

 

颱風のあしたに地(ツチ)のすがしさよ

 

口に入る颱風の雨は鹽はゆし

 

[やぶちゃん注:「鹽」は底本では「塩」。]

 

ハタハタは野を眩しみかとびにけり

 

[やぶちゃん注:「ハタハタ」はバッタのことであろう。秋の季語である。直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目に属するバッタ上科 Acridoidea・ヒシバッタ上科 Tetrigoidea・ノミバッタ上科 Tridactyloidea のバッタ類の総称であるが、ここは有意に飛ぶ様からバッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科 Acridini 族ショウリョウバッタ属 Acrida cinerea やバッタ科トノサマバッタ Locusta migratoria また、バッタ亜目イナゴ科イナゴ亜科 Oxyinae・ツチイナゴ亜科 Cyrtacanthacridinae・フキバッタ亜科 Melanoplinae に属するイナゴ類をイメージした方がよいかとも思われる(本邦産のバッタ類は四十種を超える。但し、ウィキの「バッタ」によれば、バッタには『イナゴ(蝗)も含まれるが、地域などによってはバッタとイナゴを明確に区別する』とあるのでイナゴは除外しておいた方が無難かも知れない)。

「眩しみか」は形容詞シク活用「眩し」の終止形に+「~ので」「~から」の意の原因・理由を表わす連用修飾語を作る接尾語「み」+疑問の係助詞「か」の文末用法。眩しいと感ずるからなのか、の意であろう。

 なおこの句、昭和八(一九三三)年刊の篠田悌二郎の句集「四季薔薇」に所収されているという、

 はたはたのをりをり飛べる野のひかり

と、シチュエーションが驚くほどよく似ている(「学習院大学田中靖政ゼミOB・OG会 深秋会」のこの記事を参照されたい)。なお、この句は同年十二月発行の『傘火』に載ったのものであるから、時間的には篠田悌二郎の句の方が先行している。朗詠してみると、鳳作の句は一旦、中七に大きな――まさにグロテスクなバッタの足のような――ぎくしゃくしたブレイクがあって頗る求心的接写的、映像的にはクロース・アップの技法が意識されているように感ぜられるのに対して、篠田の句は、広角的魚眼的――まさに昆虫の複眼のような――マルチな光彩があるのに加え、圧倒的に韻律の滑らかさが心地よく優れている。]

 

唇の色も日燒けて了ひけり

 

妹が居やことにまつかき佛桑花

 

[やぶちゃん注:「佛桑花」(ぶつさうげ/ぶっそうげ)はビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科フヨウ属ブッソウゲ Chinese hibiscus はハイビスカスの和名。]

 

獨り居の灯に下りてくる守宮かな

 

蛾をふ肢はこびゆく守宮かな

 

機窓に鏡のせある小春かな

 

[やぶちゃん注:「機窓」は「はたまど」で機織り機の置いてある別棟の機屋(はたや)若しくは機織り部屋の窓のことか? それとも何か独特の(機織り機に似た)構造の窓のことか? 「日本国語大辞典」にも「機窓」は乗らない。ネットで引っ掛かるのは、これ、飛行「機」の「窓」ばかりである。私は既にこの疑問を杉田久女の、

 燕に機窓明けて縫ひにけり

注で提示しているのだが、どうもここまでくると最初の私の解への確信度が増す。ここでしかもそれが宮古島の景であってみれば、そこに独特の南国のちゅらかーぎー(美人)の面影の立ってすこぶる雰囲気のある映像が浮かんでくるのである。]

 

新糖のたかきにほひや馬車だまり

 

[やぶちゃん注:「新糖」現在の黒糖新糖には特にルビはなく使われているから「しんたう(しんとう)」の読みでよいものと思われる。]

 

松蟬が鳴いてゐるなり午前五時

 

[やぶちゃん注:「蟬」は底本の用字。「松蟬」半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ Terpnosia vacua の異名。ウィキの「ハルゼミ」によれば、『日本と中国各地のマツ林に生息する小型のセミで、和名通り春に成虫が発生する。晩春や初夏を表す季語「松蝉」(まつぜみ)はハルゼミを指す』。『ヒグラシを小さく、黒くしたような外見である。オスの方が腹部が長い分メスより大きい。翅は透明だが、体はほぼ全身が黒色』か『黒褐色をしている』。『日本列島では本州・四国・九州、日本以外では中国にも分布する』。『ある程度の規模があるマツ林に生息するが、マツ林の外に出ることは少なく、生息域は局所的である。市街地にはまず出現しないが、周囲の山林で見られる場合がある』。『日本では、セミの多くは夏に成虫が現れるが、ハルゼミは和名のとおり4月末から6月にかけて発生する。オスの鳴き声は他のセミに比べるとゆっくりしている。人によって表現は異なり「ジーッ・ジーッ…」「ゲーキョ・ゲーキョ…」「ムゼー・ムゼー…」などと聞きなしされる。鳴き声はわりと大きいが生息地に入らないと聞くことができない。黒い小型のセミで高木の梢に多いため、発見も難しい』。『日本ではマツクイムシによるマツ林の減少、さらにマツクイムシ防除の農薬散布も追い討ちをかけ、ハルゼミの生息地は各地で減少している。各自治体レベルでの絶滅危惧種指定が多い』。ここで鳳作が聴いているのは、もしかするとヒメハルゼミ属ヒメハルゼミ亜種ヒメハルゼミの

さらなる亜種オキナワヒメハルゼミ Euterpnosia chibensis okinawana Ishihara,1968 であるかも知れない(としても、種としての命名はご覧の通り、後のことである)。]

 

埼々に法螺吹きならす良夜かな

 

[やぶちゃん注:「埼々」は「さきざき」で、島の「崎々」の謂いであろう。万葉以来の古語である。これは宮古島で行われる悪霊払いの伝統行事の嘱目吟であろう。以下、ウィキの「パーントゥ」によると、『宮古島の歴史について書かれた『宮古島庶民史』(稲村賢敷、1948年)によれば、「パーン(食べる)+ピトゥ(人)」が訛化した言葉であると言う説が述べられている』。現在、平良島尻と上野野原の二つの地区で行われているが、両地区で内容が大きく異なる。その内の野原のパーントゥは旧暦十二月最後の丑の日に行われる(地元では「サティパライ」(里祓(さとばら)い)ともいう)。男女で構成し、女達は頭や腰にクロツグ(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科クロツグ Arenga engleri ウィキの「クロツグ」へのリンク。)とセンニンソウ(双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科センニンソウ Clematis terniflora ウィキの「センニンソウ」へのリンク。)を巻き、両手にヤブニッケイ(双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科クスノキ属ヤブニッケイ Cinnamomum tenuifolium ウィキの「ヤブニッケイ」へのリンク。)の小枝を持つ。男の子の一人はパーントゥの面を着け、他のものは小太鼓と法螺貝で囃す(下線やぶちゃん)。夕方祈願のあと集落内の所定の道を練り歩き厄払いをする、とある。一方の平良島尻のものは来訪神の演出がマッドメンさながらで、仮面の蔓草を纏い全身に泥を塗った姿で三体登場し、誰彼構わず人や新築家屋に泥を塗りつけて回るもので、泥を塗ると悪霊を連れ去るとされているとある。]

 

   飛行場三句

近づけばみな着ふくれてローラ曳き

 

ひもすがら冬の海みてローラ曳き

 

ローラーの曳きすててあり芝枯るる

 

[やぶちゃん注:これら三句は昭和八(一九三三)年の末句であるが、この飛行場なるものがよく分からない。実は現在の宮古空港は昭和一八(一九四三)年に旧日本軍により海軍飛行場として建設されたものであるが、ネット上の諸記載を見る限りでは、それ以前には宮古島には飛行場に相当するものはなく、総ては交通を船舶に頼っていたとあるばかりだからである。まさか、実にこの年に起工してやっと十年後に出来上がったとでもいうのであろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

 

海鳴のさみしき夜學はげみけり

 

[やぶちゃん注:以上、十九句は十二月の発表及び創作句。]

おもひ   八木重吉

 

かへるべきである ともおもわれる

 

[やぶちゃん注:「おもわれる」はママ。言わずもがなであるが、「かへる」は「歸る」の謂いであろう。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十七年 Ⅵ



花おふち梢のさやぎしづまらぬ

 

[やぶちゃん注:「花樗」は「はなあうち(はなおうち)」と読む。センダン、一名センダンノキの古名。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach の花。初夏五~六月頃に若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数円錐状に咲かせる。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album)なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。]

 

どくだみの白妙梅雨の一日昏る

 

   美代子入試のため曉よりはげむ 二句

 

こがね虫吾子音讀の燈をうちうつ

 

學ぶ子に曉四時の油蟬

 

[やぶちゃん注:橋本多佳子の四女橋本美代子(大正一四(一九二五)年~)はこの後、母に倣って『天狼』に入会、同じく山口誓子に師事した。昭和三五(一九六〇)年に『天狼』同人となり、その後、『七曜』同人から堀内薫より主宰を継承(一九九一年)、現在、奈良県在住。年譜の昭和一七(一九四二)年の冒頭(?!)には『四女美代子、女学部入試のため午前四時ごろ起床し勉学』とあるが、この「女学部」とは彼女の卒業した帝塚山学院文学部高等科のことを指すと考えられる。この年譜は異様に饒舌な、拘りのある頗る特異な年譜なのであるが、ここも一読誰もが奇異に思われようところである。種明かしをすれば、この橋本多佳子年譜自体が美代子の師堀内薫よるものだからである。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十七年 Ⅴ 木曽馬籠 十一句

    木曽馬籠 十一句

   加藤かけい氏に御案内頂き、永昌寺に泊る

   かけい氏は即日雨の中を歸へられた

牡丹にあひはげしき基礎の雨に逢ふ

 

ひとをかへすおだまきの雨止むまじく

 

薄荷の葉嚙んで子供等雨が降る

 

おだまきやどの子も誰も子を負ひて

 

入學の一と月經たる紫雲英道

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「紫雲英道」は「げんげみち」又は「れんげみち」と読む。]

 

薄荷の葉嚙みすてし唇(くち)巒氣ひゆ

 

[やぶちゃん注:「巒氣」は「らんき」と読み、山中で感じられる特有の冷気を指す。]

 

山吹の黄の鮮らしや一夜寢し

 

牡丹照るしづけさに仔馬立ねむる

 

牡丹照り鷄は卵を抱きをり

 

吾去りて山は蠶飼の季(とき)むかふ

 

燕來ぬ山家の障子眞白に

 

[やぶちゃん注:昭和一七(一九四二)年の春、次女国子とともに木曽馬籠へ旅行した際の句群。

「加藤かけい」(明治三三(一九〇〇)年~昭和五八(一九八三)年)は俳人。名古屋生。少年の頃に大須賀乙字に師事し、その没後は高浜虚子に師事、実兄加藤霞村と『名古屋ホトトギス会』を結成したが、昭和六(一九三一)年に『ホトトギス』を離脱、水原秋櫻子の『馬酔木』に入り、更に昭和二三(一九四八)年には山口誓子の『天狼』に移って同人となり、『荒星』『環礁』を主宰した。句集に「夕焼」「浄瑠璃寺」など(思文閣「美術人名辞典」などに拠る)。俳句空間―豈weekly冨田拓也他から拾っておく。

 靑蘆や水の蟹江の鮒鯰

 かはほりやわがふところに人の遺書

 たましひのぬけゆくおもひ初螢

 草競馬人生の涯まつさをに

 凧の子に天の扉のいま閉まる

 糞の上瑠璃絢爛の揚羽蝶

 萬綠に靑きラムネの白激す

 くちなしのはなのねぢれのあぶな繪よ

 菫掘るむらさきの時間に耽り

 麥爛熟太陽は火の一輪車

 うぐいすやわが絶命も妙なるかな

「永昌寺」岐阜県中津川市馬籠にある臨済宗妙心寺派西沢山永昌寺。島崎藤村の先祖島崎七郎左衛門が弘治四・永禄元(一五五八)年に開創したと伝えられている島崎家代々の菩提寺。本尊釈迦如来。藤村は多佳子が訪れたこの翌昭和一八(一九四三)年に七十一歳で大磯の自宅で亡くなって大磯の地福寺に葬られたが、分骨された遺髪と遺爪がこの菩提寺永昌寺に埋葬された(藤村の妻冬子と三人の娘もここに眠っている)。

「おだまき」「をだまき」が正しい。苧環。紡いだ麻糸などを内側を空にして球状に巻いた糸玉のこと。糸を順々に巻きつけて端から引き出す。糸を巻きつけてあってまたそこから繰り出すことから、静御前の和歌、

 しづやしづ しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな

で知られるように「繰り返し」の序詞のように用いられる語である。ここでは絶え間なく繰り返し降る、その木曽路の篠突く雨を、「おだまきの雨」「おだまきや」と転じて用いているものと思われる。]

杉田久女句集 128 くゞり摘む葡萄の雨をふりかぶり


くゞり摘む葡萄の雨をふりかぶり

杉田久女句集 127 櫓山荘っぽい句



紅葉狩時雨るゝひまを莊にあり

 

[やぶちゃん注:「莊」はつい、櫓山荘を想起してしまう。何故、「しまう」かであるか?――そう想起すると、この句柄には必ずしもしっとりと落ち着いたものとしての感懐の背後に、そうでない微かな心の動きが感じられようになってしまうからである。しかも私はそれを秘かに楽しんでもいるのであるが。]

 

知らぬ人と默し拾へる木の實かな

 

[やぶちゃん注:これもやはり櫓山荘っぽい。]

 

髮よせて柿むき競ふ燈下かな

 

[やぶちゃん注:大正八(一九二九)年「燈」は底本の用字。角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」は下五を「燈火」とする。従えない。この句の背景は作句年代から櫓山荘ではない。]

 

甕たのし葡萄の美酒がわき澄める

 

[やぶちゃん注:これもまたしても櫓山荘っぽい。但し、本句集は編年型ではあるものの、季題別編集であるから、これらの句が全く別々のシーンの中で作られた(それは全く同じか幾つか同じ場所かも知れず、また、そうではないのかも知れない)可能性も当然あるわけではある。]

杉田久女句集 126 唐黍を燒く間待つ子等文戀へり



唐黍を燒く間待つ子等文戀へり

 

[やぶちゃん注:私が莫迦なのか、下五の意が今一つ、分からない。句柄から「文」を恋うているのは子等であるが、その相手は今ここにいない父か、実家の親族の久女方の祖母か? 「子等」とあり、「唐黍を燒く」で季語は秋だから、久女方の祖父は考えにくい(次女光子は大正五(一九一六)年生まれであるが、久女の祖父廉蔵は大正七年七月に脳溢血で死去している。四歳の昌子はいいとして、未だ一歳の光子は「唐黍を燒く間待つ子等」「文戀」う「子等」には含まれ得ないからである)。そうすると、これはもう少し後年、大正九年八月に信州松本に父の骨を納骨に行った際(恐らく二人の子を連れて)、腎臓病を発症、東京上野の実家へ戻って入院加療に入り、そのまま実家にて療養に入った(この時、当然の如く、専ら久女側からの意志で離婚問題が生じたことが年譜に記されてある)。この時の夫宇内との別居は約一年の及んでいる(小倉への帰還は大正十年七月)。この句はその病み上がりの大正九年秋の句かも知れない。父と離れて数ヶ月、昌子九歳・光子四歳、「唐黍を燒く間待つ子等」が父の「文戀」う「子等」であって不思議ではない。]

2014/03/15

北條九代記 蒲原の殺所謀 付 北陸道軍勢攻登る 承久の乱【二十一】――北陸道の朝時軍、親不知小不知を突破

      ○蒲原の殺所謀 付 北陸道軍勢攻登る

北陸道より向はるゝ式部丞朝時(ともとき)は、五月晦日に越後國府中に著て勢揃し、加地(かぢの)入道父子三人、太湖(たいこの)太郎左衞門尉小出〔の〕四郎左衞門尉五十嵐黨(たう)を始として、都合その勢四萬餘騎、越後、越中の境なる蒲原(かんばら)と云ふ所に行(ゆき)掛る。此所は極めたる殺所(せつしよ)なり。一方は岸高くして、人馬更に通ひ難く、一方は荒磯にて風烈しき折節は船路も亦心に任せず。岸に添ひたる細道を認めて行くには、馬の鼻を四五騎並べても通(とほり)得ず。僅に一二騎づつ身を峙(そばだ)てゝ打過ぐる。市降淨土(いちふりじやうど)といふ所に、逆茂木(さかもぎ)を引きて、宮崎〔の〕左衞門尉政時と云ふのもの、近邊の溢者共(あぶれものども)三百餘人を集めて堅めたり。上の山には石弓を張(はり)設けて、敵押掛(おしかゝ)らば弛(はづ)し掛けんと用意したり。關東勢如何すべきと案じ煩ふ所に、加地入道申しけるは、「善(よき)謀(はかりごと)の候ぞや」とて、近邊の在家に人を遣し、七八十疋の牛を取集め、兩の角に續松(たいまつ)を結(ゆひ)付けて日の暮るるをぞ待掛けたる。既に夜に入りければ、かの續松に火を燈して、道筋を追(おひ)續けたりしかば、數多の牛共續松に恐れて走り掛り突(つき)通る。上の山より是を見てすはや敵の寄るぞとて、石弓のある限り一同に弛(はづ)し掛けたれば、數多の牛共これに打たれて死す。軍兵等は事故なく打過ぎて、夜も曙になりける比、逆茂木近く押寄せて見たりければ、折節海の面は凪になりて、風靜(しづか)に波もなし、究竟(くつきやう)の時分なりとて汀(なぎさ)に添うて馬を打入れ、海を渡して向ふもあり。足輕共は. 手に手に逆茂木取除けて、打て通る。逆茂木の内には、郎従共僅に四五十人計(ばかり)篝(かゞり)を燒(た)いて居たりけるが、大勢の向ふを見て、皆打捨てて山の上に逃げ上(のぼ)る。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十一】――北陸道の朝時軍、親不知小不知を突破〉この章も分割する。標題は「蒲原の殺所(せつしよ)謀(はかりごと) 付(つけたり) 北陸道軍勢攻(せめ)登る」と読む。「殺所」は難所のこと。

「越後、越中の境なる蒲原」「蒲原」郡は越後の中央北部の地名であるが、ここで語られる「此所は極めたる殺所なり。一方は岸高くして、人馬更に通ひ難く、一方は荒磯にて風烈しき折節は船路も亦心に任せず。岸に添ひたる細道を認めて行くには、馬の鼻を四五騎並べても通得ず。僅に一二騎づつ身を峙てゝ打過ぐる」という場所は寧ろ、まさに「越後、越中の境」にある「殺所」即ち難所、親不知子不知に相応しい。また、すぐ後に「市降淨土」とあって、この「市降」とはまさにあの「奥の細道」の現在の新潟県糸魚川市大字市振のことである。因みにこの「淨土」という名称は更に「市振」の東の直近にある、親不知の西の端の「浄土崩れ」のことを指し、東から来た旅人が難所の親不知を越え来た果てに「ここは浄土のようだ」と安堵したことに由来すると伝わっている海岸沿いの地形の呼称である。

「七八十疋の牛を取集め、兩の角に續松を結付けて日の暮るるをぞ待掛けたる。……」以下は、「源平盛衰記」の木曽義仲の倶利伽羅(この場所は次文で「砥竝山」として出る)合戦でよく知られた火牛の計である。ここまでそっくり(しかも位置も相対的には近い)だと、やはりこの本邦の「火牛の計」そのものが後代の潤色である可能性が高いと言えよう(ネタ元は中国戦国時代の斉の武将田単が用いた「火牛の計」で、原話では角に剣を、尾に松明を括り付け、突進する牛の角の剣が敵兵を刺し殺しつつ、しかも尾の炎が敵陣に燃え移って大火災となるという設定になっている。この「火牛の計」の部分は
ウィキ倶利伽羅峠の戦いの記載を参照した)。

 以下、「承久記」(底本の編者番号51及び52のパート)の記載。

 式部丞朝時ハ、五月晦、越後國府中ニ著テ勢汰アリ。枝七郎武者・加地入道父子三人・大胡太郎左衞門尉・小出四郎左衞門尉・五十嵐黨ヲ具シテゾ向ケル。越中・越後ノ界ニ蒲原卜云所アリ。一方ハ岸高クシテ人馬更ニ難ㇾ通、一方ハ荒磯ニテ風烈キ時ハ船路心ニ任セズ、岸ニ添タル同ソ道間ヲ傳フテトメユケバ、馬ノ鼻五輪十騎雙べテ通ルニ不ㇾ能、僅ニ一騎計通ル道也。市降淨土ト云フ所ニ道茂木ヲ引テ、宮崎左衞門堅メタリ。上ノ山ニハ石弓張立テ、敵ヨセバ弛シ懸ント用意シタリ。人々、「如何ガスベキ」トテ、各區ノ議ヲ申ケル所ニ、式部丞ノ謀ニ、濱ニイクラモ有ケル牛ヲトラヘテ、角サキニ續松ヲ結付テ、七八十匹追ツヾケタリ。牛、續松ニ恐レテ走リ突トヲリケルヲ、上ノ山ヨリ是ヲ見テ、「アハヤ敵ノ寄ルハ」トテ、石弓ノ有限ハズシ懸タレバ、多ノ兵、被ㇾ討テ死ヌ。

[やぶちゃん注:「同ソ道」不詳。「ホソ道」か。]

 去程ニ石弓ノ所ハ無事故打過テ、夜モ明ボノニ成ケルニ、逆茂木近押寄テ見レバ、折節海面ナギタリケレバ、賤木尻吹ノ早雄ノ若者共、汀ニ添テ、馬強ナル者ハ海ヲ渡シテ向ケリ。又足輕共、手々ニ道茂木取ノケサセテ通ル人モアリ。逆茂木ノ内ニハ、人ノ郎從トヲボシキ者二三十人、カヾリ燒テ有ケルガ、矢少々射懸ルトイへ共、大勢ノ向ヲ見テ、皆打捨テ山へニゲ上ル。其間ニ無事故通リヌ。

 

・「賤木尻吹ノ早雄」不詳。「賤木」は樵若しくはそうした林業に携わった人々の呼称か?また「尻吹」は北陸道へ抜ける際に通過した現在の福島県大沼郡金山町尻吹峠か?(「賤木尻吹」でセットの地名かも知れない) 「早雄」が分からぬが、神名(諏訪大社の祭神建御名方命の子出早雄命)に由来する神社若しくは何らかの神事に纏わる担当職の呼称か? もしかすると「賤木尻吹ノ早雄ノ」は単に徒歩侍の「若者共」を指し修飾しているだけの語かも知れぬ。識者の御教授を乞うものである。]

栂尾明恵上人伝記 73 / 「栂尾明恵上人伝記」了

 又、城介入道覺知、高野山に住せしが、上人の御違例難治の由を傳へ聞きて、急ぎ出でゝ今夜栂尾に着く。十八日の夜なり。上人則ち對面し給ひて、終夜法門仰せられけり。

[やぶちゃん注:「城介入道」安達景盛。既注。

「十八日」寛喜四(一二三二)年一月十八日。実に臨終の前日のことである。]

 

 同十九日、今日臨終すべしとて、別の衣袈裟着替へて、又法門聊か云ひ給ふ。我れ幼少の當初に諸扁種諸冥滅、拔衆生出生死泥、敬禮如是如理師と讀み始めしより、志す所偏に聖教の深旨(しんし)を得て、名利の繫縛(けばく)に纏(まと)はされざらんことを思ひき。人は只名利が知れずして身に添ひ心を離れぬ者なり。山中の衆僧穴賢(あなかしこ)用心すべしなんどゝて、其の期近づく程に、高聲に打ち揚げて唱へ給ふ所、於第四都率天、四十九重摩尼殿、晝夜恒説不退行、無數方便度人天と誦し、其の後又稽首大悲淸淨智、利益世間慈氏尊、灌頂地中佛長子、隨順思惟入佛境と誦して後、此の五字に八萬四千の修多羅藏(しゆたらぞう)を攝(せつ)す。五字を誦せよとて、誦せさせて、我は理供養(りくやう)の作法を以て行法あり。行法終つて後、合掌して唱へて云はく、我昔所造諸惡業(がしやくしよざうしよあくごふ)、皆由無始貪恚癡(かいゆうむしどんじんち)、從身語意之所生(じうじしんごいししよしやう)、一切我今皆俄悔(いつさいがこんかいざんげ)と誦して、定印(ぢやういん)に住して坐禪す。良(やゝ)久しくして出定し告げて云はく、其の期近付きたり、右脇に臥すべしとて臥し給ふ。手を蓮花拳(れんげけん)に作りて、身の上に横たへて胸の間に置く。右の足を直く伸べたり。左の足をば少し膝を屈して上に重ねたり。面貌(めんめう)歡喜の粧(よそほひ)、忽に顯はれ、微咲(みせう)を含み、安然として寂滅し給ふ。春秋六十歳也。

 

 同二十一日の夜、禪堂院の後に葬斂(さうれん)す。其の間、形色敢て改まらず。眠れる粧ひ誠に殊勝なり。十八日の夕方より異香常に匂ふ。諸人多く是を嗅ぐ。葬斂の後兩三日の間、異香猶散ぜず。凡そ此の上人、大小・權實(ごんじつ)・顯密二教・因明(いんみやう)・内明(ないみやう)何れこそ知り給はずと云ふことなかりき。又五薀・十二處(しよ)・十八界・四諦・十二因緣等の説、千聖の遊履(いうり)する處、只爲無我法門説之趣深以悟得(只だ無我法門の爲に説の趣、深く以つて悟得す)故に文に云はく、故大悲尊、初成佛已(しよじやうぶつい)、仙人鹿苑、轉四諦輪(てんしたいりん)、説阿笈摩、除我有執(じよがうしよ)、令小根等(れいせうこんとう)、漸登聖位(ぜんとうしやうゐ)と云ひて、始めて人空(にんくう)の一理を開きて、小機聖流(せうきしやうる)に預ると云ふより、般若畢竟平等眞空、五法・三自性(じしやう)・八識・二無我の法門、華嚴の六相圓融(ろくさうゑんゆう)・十玄緣起、眞言の五相・三密・三平等、字輪瑜伽(じりんゆが)の觀行(くわんぎやう)、併て玉鏡(ぎよくしやう)を懸けたるが如し。乃至孔子・老子の教説、大易自然(たいえきしぜん)の道、又數論外道(しゆろんげだう)の二十五諦(たい)を立て、自性(じしやう)・大我慢(だいがまん)・五唯量(ゆゐりやう)・五大(だい)等、勝論外道の建立(こんりう)實(じつ)・德・業(ごふ)・有(う)・同異・和合と云ふまでも、極め知り給はずと云ふことなかりき。

 

 豫多年隨逐(ずゐちく)の間あらあら九牛の一毛を注す。定めで謬(あやま)りあらん外見に備ふべからず。

喜 海   

 

 

 

梅尾明惠上人傳記終



以上を以って「
梅尾明惠上人傳記」の電子化を終わったが――これはまた同時に――総ての始まりである。――ではまた――お逢い致そう――

明恵上人夢記 36

36

一、又、正義房(しやうぎばう)之魂とて、たこの如き躰(てい)の物の生類なるあり。家の中に動き行く。義林房、之を取りて、刀を以てこそげ、なやして池中に投ぐ。其の形、龜に似て、向ひの岸へ行くべしと思ふに、底に沈み了んぬ。

[やぶちゃん注:この夢、フロイト派なら……タコにカメ……にんまりして如何にもな性象徴を持ち出しそうな動物である。……それにしても私も大分、フロイトの呪縛からは解き放たれたらしい。……今日日(きょうび)、そういう解釈への興味がまるで働かなくなっている自分に、ちょっと吃驚しているのだ。……

「又」とあるから、これは前の建永元(一二〇六)年六月十日に「35」夢に続いてみた夢と解釈する。前夢に比して、見た目はかなりグロテスク(断っておくが、私が気持ちが悪いというのではない。一般的に見るならば、である)ではある。仏舎利授受から、モンストロムの寺内侵入である。実に興味深い。

「正義房之魂」不詳。「の魂」とある以上、この正義房という僧は実際に亡くなっているいるということであろう。彼の事蹟が分かると解釈も俄然面白くなるところなのだが。

「たこの如き躰の物の生類なるあり。家の中に動き行く」この謂いはあくまで比喩形容であり、実際のタコを指していない。タコのような軟体動物に似た頭と自由に伸びる複数の吸着するような(後の「こそげ」から。後注参照)触手(手足)を持ったグニャグニャとした形状の(恐らくは「魂」から白みを帯びた)生物で、「家の中に動き行く」という表現からは、その行動性能が恐らく実際の陸揚げしたタコなどよりも遙かに高く速いのだと考えるべきであるそれは一見、まがまがしいモンストロムの姿形である。あくまで「一見」としておくことが夢分析の提要である。何故なら、一貫して明恵はそれを「まがまがしいもの」としては描写形容はしていないからである。寧ろ、「正義房之魂」が「家の中に動き行く」ということの目的を明らかにすべきである。正義房の魂は何かを必死に探しているかのように見えると私は採りたい。明恵は少なくともその傍若無人に這い回る正義房の魂の意図を冷静に捉えんとしていると読むのである。

「義林房」既注。明恵の高弟喜海。単なる直感でしかないが、喜海のこの後の「一見」残忍な行為を見ても、この「正義房」とは、行半ばに先に亡くなってしまった明恵の弟子、この喜海も知っている兄弟弟子なのではなかろうか?

「こそげ」他動詞ガ行下二段活用「刮(こそ)ぐ」の連用形。削る・剥がす・削ぐ。

「なやして」「なやし」は他動詞サ行四段活用「萎(な)やす」の連用形で、①柔らかにする。しなやかにする。②くたくたにするの意。まさにタコ状怪物体に対する処置として相応しい、打って叩いて、ぐにゃぐにゃに打ちのめしたことを指す。

「其の形、龜に似て、向ひの岸へ行くべしと思ふ」ここも興味深い。義林房が打擲して寺の庭の池に投げ込まれたその正義房の魂の変化物であるタコ状の怪生物は、投げ入れられたなり、亀のような形状の生物に変化したということである。これは義林房が打擲した結果として単に「物理的」にそうなったものではない。寧ろ、何らかの大きな別な要因が正義房の魂に与えられたことによって蛸狀形態が亀形態に変化したと読み解かねばならぬ。そして、明恵が――その亀のようなものになったそれが池の向こうに岸へと泳いで行くな――と思ったところが――意に反して――亀化した正義房の魂は池の底へと沈んでしまった――のである。この部分にこそ、私はこの夢の重大な意味が隠れていると読むのである。]

 

■やぶちゃん現代語訳

36

一、また前の舎利の夢に続いて見た夢。

「正義房(しょうぎぼう)の魂と称するもので、蛸の如き形状をなしたるもので、明らかに生きているものが――そこに、いた。――

 それが何かを求めるかのように頻りに家の中にしきり動き行く。――

 そこで義林房が、これを捕えんとして、へばりついたそれを刀を以って削ぎ剥がし、さんざんに打ちのめした末、庭の池の中へと投げ捨てた。――

 見ていると、その投げ捨てられたものは、今はすっかり様子が変わって亀によく似たものに変じていた。

 私はそれを見ながら、

『正義房の魂はこれより向いの池の岸へ上がらんと向かって行くに違いない。』

と思ったのだが、亀は――ふっと――底に沈んでしまったのだった。」

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 四 精蟲 (3) 精子とその発生

Samazamanaseisi
[種々の動物の精蟲

(い)猿 (ろ)猫 (は)犬 (に)もぐら (ほ)馬 (へ)鹿 (と)兎]

 

 さて精蟲は實際如何なる形のものかといふに、「えび」・「かに」や、蛔蟲などの精蟲の如くに著しく他と形の異なつたものもあるが、これらは寧ろ例外であつて、一般には高等動物でも下等動物でも殆ど同じである。人間のでも犬・猫・馬・牛のでも、乃至は「はまぐり」・「あさり」・珊瑚・海綿の如きものでも、精蟲といへば皆形が相似たもので、いづれも小さな頭から細長い尾が生じ、これを振り動かして液體の中を泳ぎ廻ることが出來る。尤も詳細に調べると、動物の種類が違へば、その精蟲お形にもさまざまの相違があり、精蟲を見ただけでその種類を識別し得る如き場合もあるが、多くはたゞ頭が長いとか、眞直ぐであるとか曲つて居るとか、全體が少し大きいとか小さいとかいふ位の比較的些細な相違に過ぎぬ。かくの如く精蟲には一種固有の形が定まつてあり、普通の細胞とは餘程形狀が違ふから、出來上つて游いで居る精蟲を見たのでは、それが各々一個の細胞であるか否かは容易に判斷し難い。

[やぶちゃん注:『「えび」・「かに」や、蛔蟲などの精蟲の如くに著しく他と形の異なつたものもある』エビ・カニを含む甲殻類の一種である甲殻亜門顎脚綱貝虫亜綱ミオドコパ上目ミオドコピダ目ウミホタル亜目ウミホタル科ウミホタル Vargula hilgendorfii や同じ貝虫亜綱ポドコーパ目 Podocopida に属するカイミジンコ類には異様に巨大な精子が持つ一群がいるようである。「ナショナルジオグラフィック ニュース」の貝虫類の巨大精子、古代の進化戦略かで興味深い説明と画像が見られる。それによれば、貝虫類の巨大な精子は体長の最大十倍の長さにまで達するケースがあるとする(人間の場合、以下で丘先生が述べるように、平均的な精子の長さはおよそ〇・〇五ミリメートル(五〇ミクロン)で、ヒト成体(身長)の三万分の一にも満たない)。『この巨大な精子が古代にさかのぼる進化上の適応戦略の一環として現れたものなのかどうかを調査するため、ブラジルの1億年前の堆積層から発掘された保存状態の非常に良い5匹の貝虫類の内臓をX線で分析した。すると、巨大精子そのものは朽ち果てていたが、おそらく最も重要と考えられるオスの器官が残っていた。巨大精子を体の外へ押し出すポンプの役割をする射精器官(ゼンカー器)だ』。『研究チームの一員で滋賀県にある琵琶湖博物館のロビン・スミス氏は、「この射精器官を持っているのは、巨大精子を生成する貝虫類に限られる」と話す。さらに、同じ堆積層から発見された2匹のメスの化石標本には、巨大な生殖腔(せいしょくこう)が備わっていた』。『研究チームのリーダーでドイツのミュンヘンにあるルートヴィヒ・マクシミリアン大学(通称ミュンヘン大学)のレナーテ・マツケ・カラズ氏は、「このような精子受容器は、精子を抱えているときにしか膨張しない。つまり、この2匹のメスは死ぬほんの直前に交尾を行っていたはずだ」と話す』。『巨大精子の役割については、おそらくクジャクの尾と同じもので、メスを引き付けるための手段だと研究チームは結論付けている』。『 その巨大さにはメスの生殖腔に“栓をする”効果もあったようで、ほかのオスと交尾できないようにするための意味もあったという。子どもを育てるための栄養源だった可能性もある』。『巨大精子が効果的な適応戦略であるなら、ほかの動物の中にも同じ戦略で進化したものがいるはずだと思うかもしれない。その通り、実際にいるのだ。カエルや巻貝、昆虫の中には、貝虫類と同様に並外れて巨大な精子を持つ種がある 』と記されている。実に面白い。我々が人体の十倍の精子を放出していたらと考えるとだな……これはもう……「進撃の巨人」だわ!……。また、回虫の方では、文科省の助成を受けているサイト「運動超分子マシナリーが織りなす調和と多様性」のビデオ・アーカイブの中に、宇部工業高等専門学校島袋勝弥氏のアメーバ運動する豚回虫精子を見出せた。それによればこれは線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫目回虫上科回虫科回虫亜科 Ascaris 属ブタカイチュウ(豚回虫)Ascaris suum の精子の動画で、『豚回虫の精子には鞭毛がなく、 アメーバのように動きます。豚回虫の精子はMSPと呼ばれる独自の細胞骨格タンパク質を使ってアメーバ運動をします』とある。これは確かに変わってるわ……見てると……これ……殆んど「影が行く」(映画「遊星からの物体X」の原話)……じゃん!]

Seisinohaseei

[精蟲の發生]

 

 精蟲の出来るところは睾丸の内であるが、大概の動物では、睾丸はほかの臟腑と同じく腹の内に隱れてある。例へば魚類などでは睾丸は腹の内にある白い豆腐のやうなもので、俗にこれを「白子」と名づける。たゞ獸類だけは睾丸は特別の皮膚の嚢に包まれ、腹から外に垂れて居る。顯微鏡で調べて見ると、獸類の睾丸は細い管の塊つた如きもので、その管の壁を成せる細胞が漸々變形して精蟲と成るのである。即ち始め普通の細胞と同じく、原形質の細胞體と嚢狀の核とを具へた細胞が一歩一歩變化し、核は小さくなつて精蟲の頭となり、細胞體の一部は延びて精蟲の尾となり、いつとはなしに精蟲の形が出來上ると、終に他の細胞の仲間から離れ、輸精管を通過して粘液と共に體外へ排出せられるに至る。されば精蟲は形は著しく違ふが、やはり各々一個の細胞であつて、たゞ特殊の任務を盡すために、それに適する特殊の形狀を有するだけである。出來上つた精蟲は、自由に運動して恰も獨立せる小蟲の如くに見えるが、睾丸の組織から離れ出す前には慥に親の身體の一部を成して居たので、この點に於ては精蟲も卵も毫も違はない。

 

 殆どすべての動物で卵細胞が球形なるに反し、精蟲が絲の如き形を呈するのは何故かといふに、これは雙方ともその役目に應じたことで、始めはいづれも普通の細胞であるが、卵の方は出來るだけ多量の滋養分を含むに適した形を採り、精蟲の方は出來るだけ自由な運動を成し得るやうな形を取つたのである。自由に運動するには身體の輕い方が便利で、抵抗を受けぬためには身體の細い方が宜しい。また同じ一斗〔約十八リットル〕の餅でも、大きな鏡餅にすれば一つか二つより造れぬが、金柑程の小餅にすれば幾千個も出來る如く、小さければ小さい程數が多く出來る利益がある。それ故、精蟲は卵に比べると遙に小さいのが常で、人間などでも精蟲の長さが僅に三粍の五十分の一にも足らず、頭の幅は三粍の千分一にも達せぬから、その體積は卵に比べて僅に二百萬分の一にも當らぬ。その代り多いことは實に驚くばかりで、卵が年々僅に十數個より成熟せぬに反し、精蟲は毎囘何萬疋も排出せられる。

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 足マトヒ

【和品】

足マトヒ 水中ニアリ水中ヲ泳ク大サ燈心草ノ如ク其長

キ事六尺餘或丈餘其首魚ノ如ク又ヘヒニ似テ小ナリ

堅シ人ノ足ヲマトヘハ皮肉切ルヽト云

〇やぶちゃんの書き下し文

【和品】

足まとひ 水中にあり。水中を泳ぐ。大いさ、燈心草のごとく、其の長き事、六尺餘、或いは丈餘。其の首、魚のごとく、又、へびに似て小なり。堅し。人の足をまとへば、皮肉、切るゝと云ふ。

[やぶちゃん注:不詳。「水中」が「海中」であるならば、これはその「六尺」(一・八メートル)から「丈餘」(三メートル超)という異常な長さと、「皮肉、切るゝ」という激しい外傷(炎症)から観察するならば、これはもう、春から夏にかけて海浜にも出現する刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ Physalia physalis かその断裂した触手のように感じられるのだが(気泡体は「魚のごとく」に見えぬとは言えぬし、触手だけなら「へび」(蛇)と表現出来ぬでもない)、「堅し」というのがピンとこない。淡水産水生生物である脱皮動物上門類線形動物門線形虫(ハリガネムシ)綱 Gordioidea の形状にも似、ハリガネムシは外皮がクチクラ層で覆われているために乾燥すると針金のように硬くなりはするが、「其の首、魚のごとく」はおかしいし(イワナなどに寄生した個体が肛門から出ている状態とするには……これ、厳しいなぁ)、第一、長過ぎ、最後にある重大な人体損傷というのは認められないから、違う。お手上げである(但し、因みに底本元の中村学園の目次では「ハリガネムシ」に同定している)。仮に海産だと他に、カツオノエボシと同じ管クラゲ類の一種で暖海性で春季に見られる嚢泳亜目ボウズニラ科ボウズニラ Rhizophysa eysenhardtii がいるが、どうも「足まとひ」(足纏ひ)という名称からは砂浜海岸で海中を歩行している最中に襲われるシチュエーションが思い浮かぶ。だとするとボウズニラなんぞよりも沿岸に吹き寄せられたカツオノエボシによる刺傷例の方が遙かに頻繁に起こるケースであると思うのである。……「足纏い」……皆さんの「足手纏い」にならぬ程度に、御教授を乞うものである。

「燈心草」単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ Juncus effusus var. decipens 。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 名島

    ●名島

森戸の西、海中十二間許にあり、廣二三町、賴朝遊覽の舊跡といふ、島中に井戸あり。里俗菜島(なしま)に作る、又七島(なしま)とも、七島はむかし七ツの島あり、故に七島といふ、後ち巨浪(きよらう)に洗はれて、一島を存すと。

[やぶちゃん注:現在は地図上では「菜島」と明記されている。

「十二間」二一・八メートル。現在、名島の岩礁として地図上に指示されてある海岸部分と森戸の鼻との距離は有に二六〇メートルはある。古くは陸繋島であったと思われ、また関東大震災や海食の影響もあろう(但し、同震災では隆起した箇所が多いはずである)が、この「十二間」というのはおかしい。「新編鎌倉志卷之七」には、

名島(なじま) 杜戸(もりど)の西の海濵、六町ばかりにあり。賴朝、遊興の所なりと云傳ふ。賴朝の腰掛石とてあり。賴朝卿杜戸へ遊興の事、【東鑑】に往々見へたり。

とある。「六町」は六五四・五メートルであるからかなり今度は長くなるが、起点位置を「杜戸の西の海濵」に於いて徒歩で干潮時の岩礁帯を歩くとすれば五〇〇メートル以上の距離感はあると思われれるのでしっくりくる。「新編鎌倉志卷之七」の「杜戸圖」も参照されたい。

「二三町」一・九八~二・九八平方キロメートル。]

中島敦 南洋日記 一月二十四日

        一月二十四日(土) カヤンガル

 六時前起床。暗き中にてヤイチの女房が炊きし粥を喫し、波止場に向ふ。たこの木。洗身場・小川。水浴せる男兒。休み場に船客多勢。蟹の足を炙りて喰ふもの。靴を穿ち、しやれのめして、幼年倶樂部を讀む娘。燒玉の音を聞きて、一同あわてゝ乘込む。コンレイに寄つてから海は相當に荒る。四時間ばかりにしてカヤンガル島に着く。タマナのすばらしき玉樹。その下の竹の休み場。そこに集へる、赤褌、手斧のルバック達。娘共は少し離れて集まり立ち船を迎ふ。エラタラオ(不在)の家に上り込む。少女ブルブルト。晝食はビンルンムと鮪燻製。椰子水。土方氏に連れられ南村へ行つて見る。アバイ。書かれたディルン・ガイ。南村へ通ずる直線路。印度素馨の竝木。椰子林。ショウカイサンの家で一休。ヤシ蜜作り。猩々木。林の中の村長の家を訪ねしも留守。海岸傳ひに戻る。恐ろしく美しく白き濱。カヤンガル・ゲリュソス・ウルブラス・オルラック四島にて環礁をなし、礁湖を抱けるなり。淺き水の美しさ。貝を拾ふ。カラールバイ女の家に行きバナナを喰ひ蜘蛛貝を貰ふ。面白き女なり。エラタカオの家に戻り一休みしてから獨りで島を歩き廻り、東海岸に出づ。西側の礁湖とは事變り、荒濱なり。歸りてバナナを喰ふ。夕食はブルブルトに飯を炊かせる。アルコロンの天野の店の島民女と其の助手らしき女も此の家に泊る。土方氏背中痛。月夜の屋外に歌聲するにつられて外に出で素馨竝木、海岸等を逍遙。たまなの黑き影の大きさ。濱の白さ。女共。水底の砂もよまるゝ水の明るさ。ポクポクと曲りて葉を落せる素馨の枝を透かして見るオリオン星。夜具無しでゴザの上に寐る。遲く迄女共べチヤクチヤしやべる聲。いやに靜かになつたのに氣付き見ればランプの光の下、誰一人をらぬ如し。(朝見れば、皆隅の方にかたまつて寐てゐたものの如し)

[やぶちゃん注:「燒玉」焼玉エンジン。ウィキの「焼玉エンジン」によれば、『(英:Hot bulb engine)とは、焼玉(やきだま、英:Hot bulb)と呼ばれる鋳鉄製の球殻状の燃料気化器を兼ねた燃焼室をシリンダーヘッドに持ち、焼玉の熱によって混合気の熱面着火を起こし燃焼を行うレプシロ内燃機関の一種。焼玉機関とも言われる。英語では "Hot bulb engine" と呼ばれる』とあるイギリス人ハーバート・アクロイド=スチュアートが一八八六年が試作機を製作、一八九〇年に特許申請、一八九二年には『イギリスのリチャード・ホーンスビー・アンド・サンズ社がスチュアートの特許により初めて商品化した』とある。その後改良されたボリンダー式機関が生まれ、『日本では漁船などの小型船用エンジンとして大いに普及し、焼玉エンジンの代名詞にもなった。小型船用で普及した焼玉エンジンのシリンダー数は普通1本4本で、直列配置で、竪型である。小型船用の焼玉エンジンの1気筒当たりの出力は、およそ3~30日本馬力を出すことができた』が、『後の小型ディーゼルエンジンの普及とガソリンや軽油の入手性向上(石油精製工業の発展による供給量の拡大)により、1950年代以降に焼玉エンジンは衰退し駆逐された』とある。このウィキの光学的部分はとても専門的で、私なんぞにはよく解らない。「プラグのあれこれ」というサイトのページが私のような者にも原理と発動がよく分かる。起動したそれと独特の何だか懐かしい音はかなり動画でアップされている。例えば、とか、

「ビンルンム」十二月二十一日日記に「タピオカのちまき( Binllŭmm )」とある。中島敦の「環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――」にも『ビンルンムと稱するタピオカ芋のちまき』(筑摩版旧全集第一巻に拠る。太字は底本では傍点「ヽ」)とある。

「蜘蛛貝」貝殻に独特の七本の棘状突起を持つ腹足綱盤足目スイショウガイ超科スイショウガイ(ソデボラ)科クモガイ属 Lambis lambis 。老婆心乍ら、食用である。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(14)「晩秋哀悼歌」(総てが「ソライロノハナ」のみに載る短歌群) / 「若きウエルテルの煩ひ」了

 晩秋哀悼歌

 

      わが夢多き少年の日はこゝに終れり

      哀悼歌以後われ長く詩を思はざりき

すべて仇敵たれすべて愛人も

面(おもて)そむけぬ世は劫火たれ

 

[やぶちゃん注:「劫火」は原本は「却火」。誤字と断じて訂した。校訂本文も「劫火」とする。]

 

なまじいにつらき御胸をきく日なく

許すべかりしさいはひ人と

 

[やぶちゃん注:「なまじい」はママ。一首末原本は「さいはひ人ど」であるが、誤字と断じて「と」と訂した。校訂本文も「さいはひ人と」とする。]

 

いかんせん君に捨てられ思ひ子は

石となりても世にありがたき

 

君といふつめたく美しき石彫お

女神戀して身はやせにけり

 

執着の涙ぞせめておん髮に

涙となりても降りそゝげかし

 

われに一人あめつち代へぬ愛人の

ありて樂しときのふ思ひぬ

 

何となく美しければ戀しければ

君とよびしを罪ありやいな

 

火にくべて大方やくに惜しからぢ

いまは要なき歌のすてがら

 

[やぶちゃん注:「惜しからぢ」はママ。

 この一首の次行に、前の「歌のすてがら」の「の」位置から下方に向って、以前に示した特殊なバーが配されて、本「晩秋哀悼歌」歌群の終了を示している。また、これを以って大きな歌群である「若きウエルテルの煩ひ」の章を終わる。

 因みに、この最後の「晩秋哀悼歌」歌群は「ソライロノハナ」の中でも数少ない、類似歌稿の存在しない全く新発見の歌群である。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和六年(四十一句) Ⅰ

 昭和六年(四十一句)

 

船のりの起臥に歳立つ故山かな

 

一管の笛にもむすぶ飾りかな

 

雲ふかく蓬萊かざる山廬かな

 

わらんべの溺るゝばかり初湯かな

 

大和路や春たつ山の雲かすみ

 

古き代の漁樵をおもふ霞かな

 

やまぐにの古城にあそぶ餘寒かな

 

  別府郊外、果秋の墓に詣づ

春寒くなみだをかくす夫人かな

 

[やぶちゃん注:「果秋」不詳。句柄から若くして亡くなった俳人か。気になる。識者の御教授を乞う。]

 

  長門東行庵

春さむく尼僧のたもつ齡かな

 

[やぶちゃん注:「東行庵」山口県下関吉田町にある曹洞宗曹洞宗清水山東行庵(せいすいざんとうぎょうあん)。高杉晋作の霊位礼拝堂として明治一七(一八四四)年に創建され、本尊は白衣観音菩薩。初代庵主は高杉晋作の愛妾「おうの」で、晋作の死後、明治一四(一八四一)年に曹洞宗総本山永平寺貫主久我環渓禅師から得度を受け、「梅処」(ばいしょ)と称して晋作の眠るこの地で菩提を弔うことを余生としたと伝えられ、二代「梅仙」、三代「玉仙」から現在は松野實應兼務住職へ受け継がれている。当初は晋作の盟友であった山縣有朋所有の建物「無隣庵」を当てていたが、後に旧藩主毛利元昭を初め、伊藤博文・井上馨等の寄付によって東行庵として同庵に隣接して新築され、現在に至る。庵内の仏壇には高杉晋作とともに山縣有朋の位牌も安置されていると、「東行庵」公式サイトの縁起」にある。早春の梅・初夏の菖蒲・秋の紅葉の名所としても知られているらしい。]

 

  心齋橋寒々居

春宵の枕行燈灯を忘る

春も 晩く   八木重吉

 

春も おそく

どこともないが

大空に 水が わくのか

 

水が ながれるのか

なんとはなく

まともにはみられぬ こころだ

 

大空に わくのは

おもたい水なのか

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十七年 Ⅳ 蕗畑ひかり身にしつなつかしき

   伊賀芭蕉生家

蕗畑ひかり身にしつなつかしき

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年、二十三の多佳子が俳句に導かれるその年の底本の堀内薫氏の手になる年譜中には、『今まで多佳子は俳句は古くさいものと思い、芭蕉の翁姿は嫌いであった』とあり、二十年後のこの句はまっこと、いろいろな感慨を感ぜしむるものではある。]

喪のある景色   山之口貘 / 山之口貘詩集 新作分十二篇電子化開始

 

   山 之 口 貘 詩 集

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年十二月二十日山雅房から刊行された。全七十一篇からなるが、冒頭の十二篇が新作で、以下の五十九篇は先行する「思辨の苑」をそのまま再録したものであるから、それらは省略して、新作分十二篇、及び、戦後の昭和三三(一九五八)年七月十五日原書房から刊行された、この山雅房再版である「定本 山之口貘詩集」(これは国立国会図書館デジタルコレクションでは見ることが出来ない)に新たに附された「あとがき」と「附記」を恣意的に正字に直して掲げる。戦後の「あとがき」と「附記」は新字とするのが正しいが、附記は、正字体の「思辨の苑」絡みであること、「附記」を正字にしておいて、その前の「後記」のみが新字であるというのは私の趣味に反することから敢えて正字とした。悪しからず。なお。所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 全詩集」は山雅房初版本を親本としている。【2014年6月26日追記】入手した思潮社新全集二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」が拠った、その決定版である原書房「定本 山之口貘詩集」とは異同があるので、これ以降の詩篇全部を、対比検証し、注で追記を行った。ここの注も一部を改稿した。【二〇二四年十一月三日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で、正規表現に補正を開始する。当該部はここなお、原本では標題が太字のように見えるが、これは活字が大きいために、黒インクがくっきりと印字されているに過ぎないので、太字にはしていない。

 

    喪のある景色

 

うしろを振りむくと

親である

親のうしろがまた親である

その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに

親の親の親ばつかりが

むかしの奧へとつゞいてゐる

まへを見ると

まへは子である

子のまへはその子である

その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに

子の子の子の子の子ばつかりが

空の彼方へ消えいるやうに

未來の涯へとつゞいてゐる

こんな景色のなかに

神のバトンが落ちてゐる

血に染まつた地球が落ちてゐる。


[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注も全面改稿した。】初出は昭和一五(一九四〇)年七月号『中央公論』。底本解題によれば初出の目次のタイトルは「喪のある風景」とある。なお、この詩は戦後も『琉球新報』などに再録されるが、特に目を引くのは昭和三三(一九五八)年四月文理書院刊の「道徳―高校生の生きかた2―」というおぞましい(と私は感ずる)本にも収録されている。原書房「定本 山之口貘詩集」では最後の句点が除去されてある。]

ものもらひの話   山之口貘  / 詩集「思弁の花」 後記 詩集「思弁の花」(金子光晴の序文を除く)全電子化終了

 

   ものもらひの話

 

家々の

家々の戶口をのぞいて步くたびごとに

ものもらひよ

街には澤山の恩人が增えました。

 

恩人ばかりを振ら提げて

交通妨害になりました。

狹い街には住めなくなりました。

 

ある日

港の空の

出帆旗をながめ

ためいきついてものもらひが言ひました

俺は

怠惰者(なまけもん) と言ひました。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプ(最後の句点の脱落)を発見、本文を訂正、さらに注を改稿した。】初出は昭和四(一九二九)年九月『爬竜船』とするが、詳細書誌は不詳(「爬竜船」(はりゅうせん)は沖縄のハーリーで用いられる船のことで琉球方言では「はーりーぶに」と読む)。次の「後記」で知れるように、本詩集の中で、製作年代が最も古いバクさんの詩である。初出発表月でバクさんは満二十六歳であった。

 「定本 山之口貘詩集」では四箇所の句点総てが除去され、第二連一行目が、「恩人ばかりをぶら提げて」と改められてある。

 この詩については、バクさんの「ぼくの半生記」(一九五八年十一月から十二月にかけての『沖繩タイムス』への二十回連載)の中で言及がある。かの呉勢(ぐじー)との関係が完全に解消(そこでは実は彼女はバクさんとの婚約を一方的に解消したのだが、その後一度復縁を迫ったことがあったが最早断ったとある)後のこと、呉勢を知る以前の小学生時代に好きだった年下の「M子」に恋い焦がれたのだが、結局、『大正十三年の秋』、この『M子のことを断念して、二度目の上京をしたが、そのときの詩に「ものもらひの話」がある』と記す。失恋のためというのではないにしても、失恋の失意がスプリング・ボードとなっての沖繩出郷であったことが、この詩と文章から強く窺われる。]  

 

     後  記 

 

 ここにをさめた作品は、一九二三年以後のもの五十九篇である。

 作品の配列を、卷尾の方から卷頭へと製作順にして置いた。

 これらの作品は、殆ど、發表したものであるが、詩集を出すに當つて、近作の中には手を加へたのもある。又、ずつと後になつてから、發表するために手をいれた舊作などあつたが、それらのものはみんな、再び舊態のまんまをここに採用した。 

 

  ○

 

 佐藤春夫氏の玉稿は、五年も前に頂戴してあつた。

 金子光晴氏の玉稿もまた、三年前に頂戴してあつた。但し、氏の題目は別に本日いたゞいて來た。

 兩氏、並びに、すゝんでこの書出版の勞をとつて下すつた小笹氏とに深く感謝する次第である。 

 

  ○ 

 

 表紙の唐獅子は兄の作。

          一九三八年六月十九日 夜 

               山 之 口  貘

 

[やぶちゃん注:「兄」十歳違いの長兄重慶であろう(当時のバクさんは三十五歳)。底本全集年譜によれば、『洋画家として既に沖縄画壇に重きをなしていた』と大正六(一九一七)年の八月に十四歳のバクさんが沖繩の美術集団「丹青美術協会」の会員となった記載に載る。重慶は同協会の幹事であり、バクさんはその手助けをしたともある。あまり知られているとは思えないが、バクさんは若き日は画家を志していた。なお、この兄重慶は敗戦から三か月後の昭和二〇(一九四五)年十一月、栄養失調で亡くなっている。以上で山之口貘詩集「思弁の苑」は終わっている。佐藤春夫と金子光晴の著作権は未だ存続中であるので電子化はしない。但し、佐藤春夫は著作権の消滅する来年一月一日以降に電子化する予定ではある。【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。】

【二〇二四年十月二十八日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。現在、進行中だが、先日、佐藤春夫の序文を電子化した関係上、この最後を、少し早めに訂正したものである。原本の奥附はここ。【二〇一四年十一月二日追記】上記原本に拠る正字表現修正を終了した。但し、驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの初版本は、多量の落丁があることが作業中に判明した。それは「無題」右の「九八」ページで終って、その左丁が、突然、「一一五」ページとなって、「雨と床屋」の最終部分の四行だけが載っているのである。本書內の十六ページ分が、ごっそり脱落しているのである。これは、実に「夜景」・「生活の柄」・「論旨」・「大儀」・「鏡」・「喰人種」・「自己紹介」・「立ち往生」の八篇分が全く載らず、前に述べたように、「雨と床屋」の八行からなる詩篇の前半四行が載っていないのである。しかも、本国立国会図書館デジタルコレクションの底本詩集のどこを探しても、この呆れ果てた落丁についての修正や差し込みなどは――ない――のである。バクさん、最終製本の校正をしなかったのか? それとも、国立国会図書館に献本する際に、間違って、校正前の不良落丁本を提出してしまったものか? この驚くべき事態は、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にも記されていないのである。国立国会図書館デジタルコレクションでは、同詩集は一冊しか、ない。途方に暮れた。しかし、★――一つの光明はあった――★のである。本詩集発行から二年後、バクさんは、この「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加して第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)を出しており、その原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左のリンクは標題ページ。奥附はここ)にあるから、である。仕方がないから、これで、正規表現を、落丁の八篇と一篇の前半部について校訂することとする。但し、この「山之口貘詩集」の九篇が「思辨の苑」と全く同じである確証はない。バクさんは、詩一篇を完成させるのにも、驚くべき多数の改稿をするからである。また、初出は勿論、先行する詩集からの再録するに際しても、頻繁に改作を行うからである。これは、しかし、私が四苦八苦してやるよりも、所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 詩集」と、上記の「新編」版で、校異されているものと、勝手に抱っこにオンブで、信頼することとする(実は、これは、実は、殆んど信頼出来るものではない。何故かって? 一九七五年七月刊の全集の「詩集校異」の冒頭『思弁の苑』のパートには、『誤字、誤植を訂正し、句読点とくりかえし符号をとりのぞき、若干の行かえと表記の訂正もほどこされている。そのうち』(☞)『おもなものを』(☜)『列記しておく』とやらかしてあるからである。一方、最大の頼みの綱である「新編」版は、第一巻が出たっきり、もう十一年になるのに、残りの二巻以降は未だに出版されていないのだ。しかも、校異は、最後の第四巻に付されることになっているんだ! おいッツ! 俺が生きている間に、全巻! 出せよ! そうしないと、キジムナーに化けて、呪い殺すぞッツ!

篠原鳳作句集 昭和八(一九三三)年十一月



颱風に倒れし芭蕉海にやる

 

颱風や守宮のまなこ澄める夜を

 

颱風や守宮は常に壁守り

 

颱風や守宮は常の壁を守り

 

[やぶちゃん注:前句は十月発行の『傘火』掲載句、後者は翌昭和九(一九三四)年一月発行の『天の川』掲載の句形であるが、前者の掲載誌とクレジットは頗る不審である。その前の「颱風や守宮のまなこ澄める夜を」という句は、同じ『傘火』の昭和八年十一月発行分に載ることが明記されている。何故、この十月の二句をその後に配したのか意味が分からないからである。私はこの二句はクレジットの誤りで十一月発表句ではないかと疑っており、そう断じてこのままここに十一発表句として示すこととする。なお、十月の「地下室の窓のみ灯る颱風かな」が『傘火』最初の掲載句である。『傘火』は『天の川』同人であった勝目楓溪・浜田泊鷗らが創刊した同人誌で、鳳作はこの昭和八年九月に参加し、これによって俳壇で注目されるようになる(年譜の記載)。この『傘火』の『雑誌欄「火の柱」選者に横山白虹を迎え』、後の『昭和十一年一月より「生活高唱」欄を新設、西東三鬼がその選に当たり、これが、戦後、社会性俳句の第一歩といわれる』ようになるとある。六月に開眼の句「炎帝につかえてメロン作りかな」を発表、謂わば、俳人篠原鳳作にとって最初の恵み多き年であったといってよい。鳳作、未だ満二十七歳であった。]

 

山羊が鳴く颱風(アラシ)の跡に佇ちにけり

 

   宮古中學より夏休歸郷

熊ん蜂夏期大學の窓に入る

 

[やぶちゃん注:八月の帰省時に参加したどこかの「夏期大學」講座であろうが、年譜上での記載はないので不詳。八月十五日に『福岡市の禅寺洞居、銀漢亭』に吉岡禅寺洞『を訪ね歓迎句会に出席、午後宮島に向かう』とあるのが、ややそれらしい感じはする。]

 

鳶の笛夏期大學の正午を告ぐ

 

歸省子に年々ちさき母のあり

 

つれだてる老母の小さき歸省かな

 

[やぶちゃん注:改稿の「颱風や守宮は常の壁を守り」一句を除き、ここまでの八句は十一月の発表及び当該時期に配されたもの。]

杉田久女句集 125 瓢 附 杉田久女 随筆「瓢作り」



この夏やひさご作りに餘念なく

 

咲き初めし簾越しの花は瓢垣

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年三十九歳の時の句。「簾越し」は「すごし」、「瓢垣」は「ふすべがき」か「ふくべがき」か「ひさごがき」か。私は初読、個人的な韻律の好みから「ふすべがき」と読んだが、次の句の「繭瓢」を角川書店昭和二七(一九五二)年刊の「杉田久女句集」では「まゆひさご」と読んではいるから、「ひさごがき」か。]

 

露けさやうぶ毛生えたる繭瓢(まゆひさご)

 

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年三十七歳の時の句。「繭瓢」とは聞きなれない語であるが、後掲する昭和二(一九二七)年九月発行の『天の川』に掲載された、随筆「瓢作り」によって、久女が好んだ自庭での瓢簞作りの中で、『子供のつくつてゐるので、二尺たらずのかはいゝ棚に小まゆ程のが、二つ三つ漸く最近になりはじめた』とある、まさにその「小まゆ程の」ものを「繭瓢」と呼んでいると考えてよかろう。造語っぽいが、ヒョウタンを育てたことのある方や親しく見たこのとある方は、当該随筆を読まずともこのイメージは比較的容易に腑に落ちるものである。少なくとも私はそうである。なお、当時久女三十七歳、長女昌子は満十六、次女美津子は十一歳であった。]

 

靑ふくべ地をするばかり大いさよ

 

晩凉やうぶ毛生えたる長瓢

 

[やぶちゃん注:底本は「晩涼」であるが、ここは後掲する久女の随筆「瓢作り」の表記を採用した。]

 

颱風に傾くまゝや瓢垣

 

枯色の華紋しみ出し瓢かな

 

[やぶちゃん注:夕刻に咲くスミレ目ウリ科ユウガオ属 Lagenaria siceraria種 変種ヒョウタン Lagenaria siceraria var. gourda の白い花弁には独特の紋様がある。グーグル画像検索「ひょうたん 花。]

 

反古入れの大瓢簞に左右の塵

 

[やぶちゃん注:「瓢簞」の「簞」の字は底本のママ。

 以下、底本第二巻にある昭和二(一九二七)年九月発行の『天の川』に掲載された、随筆「瓢作り」の全文を恣意的に正字化して示す。太字は底本では傍点「ヽ」、踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

   *

 

 瓢作り

 

 今年私は瓢作りを樂しみに、毎朝起きるとすぐ畠へ出てゆく。

 まづ門傍のポプラの枝へはひ登つて、ぶらりと下がつてゐる大瓢が一つ。これはまるでくくりのない、丁度貧乏德利みたいにそこ肥りのした奴。私がこないだ虛子先生にお目にかかりに別府迄行つてきて、汗の單帶をときすてるとすぐ見に行つたら、ほんの二日の間に見違へるほど快よくまつ靑く太つてゐた。あんまりのつぺりとくくりがないので一體瓢簞だらうか白瓜か、もしくは信州邊でゆふごと言つてゐるかんぺうを作る瓜なのか、などと家中で評定とりどりだつたが、やはりずぼらながら瓢簞であるらしい。實に大まかな氣樂げなかつかうをして、夕立雨の時などはうぶ毛の生えたまつ靑な肌をポトポトと雫がつたふ。夕立晴の雲がうごく頃には、柄の長い純白な瓢の花が、涼しげに咲き出す。この外にもポプラの樹に這ひついてゐる瓢が三木。之れはアダ花が咲くのみで、まだドンな形のとも見當がつかない。

 一體うちでは棚をつらうつくらうと話しあつてゐる中に、樹に垣に地面にどの蔓もが靑々と這ひまはり、そこら中に花が咲き出したのであつた。

 さて私は、茄子や葉鷄頭の露にふれつつ徑を歩むと、そこには瓢の葉をきれいにまきつけた低い垣根が、あちこちに長瓢をぶら下げてゐた。この瓢簞は頸の長い、瓢逸ないかにもごまな呑氣げなかほして、一とゝころに四つも五つもよりあひ、はては蔓が重くなつて地べたに尻を落ちつけてしまつてゐるのもある。こつちのえにしだの枝に抱きついてゐる一尺餘りの長瓢は、丁度窓から見るのにころあひな長短で、かつかうよく宙ぶらになつてゐた。そしてその一つの蔓先は、隣の爺さんの畠へ垣根ごしに侵入し、そこに尻曲りの長瓢が、くびをもたげかげんに二つ。ころりと地上に露出してゐる。そこぎりで蔓先をとめてしまつたので徑のへりに尻をむけたこの靑瓢簞は、時々雨露をいつぱいふりため、靑草を敷いて涼しげに太つてゆくのであつた。幸ひに朝夕潮あびのゆきかへりにこの畠徑をぬける近所の子供らにももがれず、此の頃はむしろに敷きかへて先づ健在。

 それに引かへ、垣根の方の長瓢は敷わらも吊もかけなかつたので、地面につけた尻の先がすこし黒いしみになりかけて來た。二三目前の朝、露つぽい草の間にかゞんで私は瓢を吊したり、わらをしいたりしてやつたが、今朝行つて見ると、折角きれいに抱きついた靑い葉は、むざんにうらがへしに亂れ、瓢は誰かに頗るぐわんこに荒繩でうごきのとれぬ樣しばりあげられてゐた。そして鄰畠の南瓜の蔓が勢よく幾筋も瓢垣ねのあほひからこちらへ侵入してゐた。

 旭はすでにポプラ並木を透して光り、征矢の如く輝き出し、大向日葵の濃蕊の霧がきらめく。市街の空は煤煙でにごりそめ、海上の汽笛にあはせて、所々の工場の笛がなりつゞける。私は更らに愛すべき千成瓢簞の垣へと歩を移し、きまりの樣にかがみこんで眺め入る。

 蔓毎にたれ下つた小瓢簞の愛らしさ。くゝり深く丸々と小肥りの靑い瓢はうぶ毛が柔らかくはえてゐる。小さい蟻が這つてゐたり、時には曉雨の名殘の小つぶな玉が汗をかいたやうにたまつてゐたりして一層愛着をまさしめる。子供らも毎日こゝへ必らずしやがみにきては、二十五なつてゐるとか、葉のかげにもう三つなつてたとか、數へてはたのしみにしてゐた。

 更らにその横手の樹に、やせこけた一本の蔓が中位の瓢をつけてはひのぼつてゐた。澤山の瓢の中これが一番形も面白く俗ぬけがしてゐて、しかもひねくれすぎず、私の一番好きな瓢なのであるが、肥が足らぬのか木かげのせゐか一向ずばずばと成長せず、ほんとの一瓢きりなのである。

 最後にもう一本。之れは子供のつくつてゐるので、二尺たらずのかはいゝ棚に小まゆ程のが、二つ三つ漸く最近になりはじめた。

  此の夏や瓢作りに餘念なく

  靑々と地を這ふ蔓や花瓢

  晩凉やうぶ毛はえたる長瓢

 數年前俳句をつくりはじめた頃、板櫃河畔の假寓でも大瓢簞をつくつたが、その美事な青瓢は軒に吊るす中作りかたを知らず腐らしてしまつた。

  くくりゆるくて瓢正しき形かな

  梯子かけて瓢のたすきいそぎけり

 今年はどうかして一つでも實が入つて、ほんとの瓢簞を得たいものである。(八月十日雨の草庵にて)

(「天の川」昭和二年九月) 

   *

・「いかにもごまな」の「ごまな」は不詳。底本にも右にママ注記がある。

・「板櫃河畔の假寓」大正三(一九一四)年から大正七年八月に小倉市堺町に移るまで住んでいた、小倉市外の福岡県企救(きく)郡板櫃(いたびつ)村字日明(ひあかり)の家。長女晶子氏の年譜によれば、『郊外の板櫃川河口に面し、極楽寺橋より五〇メートルぐらいの場所。海鳴りも聞こえ、朝夕の潮の干満が家の石段まで及んだ』とある。北家登巳氏のサイト「北九州あれこれ」の板櫃川河口 小倉北区に詳細な解説や地図とともに、まさにその頃、久女が住んでいた家が写真で紹介されている。

 この実に巧みのない美しい文章がそのまま、前に掲げた瓢簞の句群の優れた評釈、自然な映像化を誘って余りある。]

杉田久女句集 124 龍胆



好晴や壺に開いて濃龍胆
 

 

龍胆や莊園背戶に籬せず 

 

龍胆や入船見入る小笹原 

 

[やぶちゃん注:角川学芸出版二〇〇八年刊の坂本宮尾「杉田久女 美と格調の俳人」に、『龍胆も久女が好んだ花で、門司近くの大里(だいり)の野にこの花を摘みに行った』として、前の二句と、

 

龍胆の夕むらさきは昃りけり

 

の句を引く(「昃りけり」は「かげりけり」と読む)。そして、『一句目、気持ちよく晴れた日に、摘んできて活けた野の花が咲けば、家の中にも爽やかな秋の気が満ちてくる。「好晴(こうせい)や」という固い響きの上五は、「濃龍胆(こりんどう)」という古武士のように凛とした花のイメージ、また画数の多い漢字三文字とよく調和している』と、読みを含め、まさに目から鱗の評釈をなさっておられる。なお、大里は現在の福岡県北九州市門司区の地名及び地域名で門司区の南西部に位置する。参照したウィキの「大里」によれば、『九州最北端の宿場町として古くから繁栄し』、『かつては内裏(だいり)であったが、享保年間』(一七一六年~一七三六年)『に大里に変更された』。この旧地名は、寿永二(一一八三)年にこの地に安徳天皇の御所であった柳の御所があったことに由来し、現在、御所神社がある門司区大里戸ノ上一丁目辺りが、その柳の御所の比定地となっているとある。『享保の頃、この地に海賊が出没し、内裏の海に血を流すのは恐れ多いとして大里に変更された』とあり、明治三五(一九〇二)年の明治天皇熊本行幸の際には『御所神社の社殿が明治天皇の休憩場所に使われた。安徳天皇の慰霊が目的だったとされる』ともある。]

2014/03/14

杉田久女句集 123 聖壇や日曜毎の秋の花


聖壇や日曜毎の秋の花

杉田久女句集 122 蕎麦の花



花蕎麥に水車鎖して去る灯かな

 

花蕎麥や濃霧晴れたる莖雫

 

淺間曇れば小諸は雨よ蕎麥の花

杉田久女句集 121 露草



露草や飯(いひ)噴くまでの門歩き

 

[やぶちゃん注:竈(へっつい)で朝餐の御飯が炊けるまでの、一時のそぞろ歩きの折りの、朝露に瑞々しい花の色を見せている露草の嘱目吟。]

 

草むらや露草ぬれて一ところ

耳嚢 巻之八 川上翁辭世の事

 川上翁辭世の事

 

 文化四年身まかりし川上不白(ふはく)といえるは、千家の茶事(ちやじ)の和尚と京都に名高かりしが、死せる時、辭世也とて認置(したためおき)しを、人に見せける儘、

 借用地水火風空返却焉今月今日

 妙々々妙なる法に生れ來て又妙々に行くぞ妙なる

 不白は文盲のおの子と聞(きき)しが、流石に茶事にくわしく心ある、言葉よりも氣象面白きか。尤(もつとも)不白日蓮宗の信者なる由、此辭世の歌の末に題目二篇を書(かき)て、仍(よつ)て證文如件(くだんのごとし)と書しは、滑稽の一つなるべし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:和歌技芸譚で連関。そこには、

本文川上不白悴(せがれ)當(たう)不白、當時沼津之藩中にて茶道勤居(つとめゐ)候間、右辭世の寫(うつし)爲見(みせ)候處、「相違無之(これなき)」由不白申聞(まうしきけ)る。天保二卯年

とあると記す(恣意的に正字化した)。『天保二卯年』辛卯(かのとう)は西暦一八三一年で、根岸没(文化一二(一八一五)年)から十六年後のことである。

・「川上翁」「川上不白」(享保四(一七一九)年~文化四(一八〇七)年)は現在まで続く茶道江戸千家の始祖。以下、「江戸千家」公式サイト内の「川上不白略伝」より引用する。『紀州新宮に水野家の家臣川上家の次男として生まれた。水野家は紀伊藩江戸詰家老職にあり、江戸に仕官した不白は、十六歳の時に主君の指示により、水野家茶頭職になるために表千家七代如心斎の元で修業を続けた』。『茶の湯は当時、社交接待、稽古事として大衆化の時代に入り始めていたが、不白は師如心斎から茶の湯のあるべき姿を学んだ。延享二年(一七四五)、如心斎より茶湯正脈が授与され、寛延三年(一七五〇)には真台子が伝授された』。『江戸に帰府した不白は、水野家茶頭職としての活動を始め、江戸の武家社会に千家流の茶を伝えた。現在、各地に江戸千家の茶が伝承されているのも、当時江戸に集る大名やその家臣により不白の茶が受け入れられ、各々の国に持ち帰られたことによる』。『安永二年(一七七三)、五十五歳になった不白は嗣子自得斎へ水野家茶頭職の家督を譲る。京都修行時代に師から授かった「宗雪」の安名を自得斎が名乗ることになり、この時以後、やはり京都修行時代に玉林院大竜宗丈和尚より授かった「孤峰不白」と名乗る』。『不白は活躍の場をさらに広げ、江戸の町人文化の影響を受けながら、京都とはまた違った江戸前の茶風を作り上げ、江戸の一般庶民の間にも広めていった』。『不白は当時としては九十歳という稀にみる長命で』、没するまで勢力的に『活動し、長寿茶人としても幅広く人気を博した。今日、晩年に集中する数多くの遺墨ほか茶碗、茶杓等の遺作からも不白の人物像が浮かび上がってくる』。『不白は生前に自ら菩提所とした』谷中にある『日蓮宗安立寺に葬られている』。因みに、「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、この辞世を廻る話はすこぶる直近の出来事である。

・「茶事の和尚」「和尚」は武道・茶道の師匠など技芸に秀でた者を指す場合がある。ここでも茶道の師匠を指す。

・「借用地水火風空返却焉今月今日」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の長谷川氏の訓点を参考に訓読すると、

 借用の地水火風空、今月今日に返却す。

・「地水火風空」は仏教に於いて万物を構成している五つの元素、五大・五輪をいうが、ここではそれから成った不白一個の身体を指す。

・「妙々々妙なる法に生れ來て又妙々に行くぞ妙なる」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 妙々が妙なる法に産れ來て又妙々に行くぞ妙なる

となっている(二ヶ所の「々」は踊り字「〱」)。音数律からは後者がよいが、後段の日蓮宗の御題目との絡みからいうなら前者の方が圧倒的に面白い。「妙」は無論、御題目の「妙」と響き合わせるためであるが、岩波で長谷川氏が注されている通り、「妙々」は同時に奥深くて暗い謂いの「冥々」を掛けている。即ち、カオスとしての『冥々の中より妙法により生れ、また冥々に帰するは妙という』謂いである。

・「此辭世の歌の末に題目二篇を書て、仍て證文如件と書しは、滑稽の一つなるべし」「滑稽」とは辞世の和歌を記したそれの末尾に「題目二篇」に添えて、証文(特に金品の借用証文の如き)の末尾の常套句「仍て證文如件」を配して身体の借用証文の体(てい)に成したことを言っている。しかし、この口ぶりにはやはり、根岸の日蓮宗嫌い――「耳嚢 巻之八 古札棟より出て成功の事」では一度、嫌悪感情が緩やかになったかと私は注したが――はやっぱり健在であったという感が強くする。この根岸の苦笑にはやや蔑視感が私には感ぜられるのである。その証拠に、何の手数も掛からないはずの辞世のあとの「題目二篇を書」いて、「仍て證文如件」と書した部分を再現していない(訳では再現してみた。そのため、辞世以下その部分を正字で示すこととした)。

……しかし私は今一つ……別なものをも想起している。……

……もうお分かりであろう。……宮澤賢治のあの詩である。

 

雨ニマケズ

風ニマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモ マケヌ

 丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨク ミキキシ ワカリ

ソシテ

ワスレズ

野原ノ松ノ林ノ䕃ノ

 小サナ萓ブキノ 小屋ニヰテ

東ニ病氣ノコドモ アレバ

行ッテ看病シテ ヤリ

西ニツカレタ 母アレバ

行ッテソノ 稻ノ朿ヲ 負ヒ

南ニ 死ニサウナ人 アレバ

行ッテ コハガラナクテモ イヽ トイヒ

北ニ ケンクヮヤ ソショウガ アレバ

ツマラナイカラ ヤメロトイヒ

ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ

サムサノナツハ オロオロアルキ

ミンナニ デクノボート ヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

  サウイフ モノニ

  ワタシハ ナリタイ

  南無無邊行菩薩

  南無上行菩薩

 南無多寶如來

南無妙法蓮華經

 南無釋迦牟尼佛

  南無淨行菩薩

  南無安立行菩薩

 

現在、多くのネット上で電子化された本詩があるがそれらについては個人的に微妙に不満がある。そこで今回は筑摩書房昭和五〇(一九七五)年刊の「校本宮澤賢治全集第十二巻(上)」所収の手帳写真版を底本として活字に起こした。手帳に書かれたそのままの字配りだと読み難い箇所があるため、一部は現行の字配を参考にしたものの、今回の自分の眼による字起こしで、私は知られた本詩の区切りとは異なる賢治の口調のリズムを見出すことが出来たと感じている。また、末尾の御題目の連打は私は本詩と一体のものと信じて疑わない。これを省略した「雨ニモマケズ」(この詩には題名はない。これは通称である)は偽物であると私は教師時代にしばしば表明したが、その気持ちは今も変わらない。但し、言っておくが私は日蓮宗信徒なんどではなく、寧ろ、根岸と同様に日蓮宗嫌いでさえある。しかし、天才賢治の宇宙を極めんとする者は日蓮宗に目を瞑っては到底その光輝を味わうことは永遠に出来ないとも真剣に考えている。無論、従って私もそれを味わえないそうした凡夫の一人であることを甘んじて受け入れるという意味に於いて、である。――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 川上不白翁辞世の事

 

 文化四年に身罷られた川上不白と申す御仁は、千家の茶事(ちゃじ)の宗匠として、京都にてその名も高こう御座った御方で御座ったが、死せんとせし折り、

「……これが辞世ぞ……」

とて、認(したた)めおいたものを、人に見せた、そのままに以下に示す。

   ――――――

 借用地水火風空 返却焉今月今日

 妙々々妙なる法に生れ來て又妙々に行くぞ妙なる

 南無妙法蓮華經

 南無妙法蓮華經

  仍證文如件

   ――――――

 不白殿は文盲の御方と聞いて御座ったれど、流石に茶事に精通致いて、その心をも捉(つら)まえておられたものか、ほんに、その辞世の和歌そのものよりも、寧ろ、かくも自ら認められたところの、その御気性の面白きことと拝察仕る。

 もつとも、不白殿、日蓮宗の信者で御座った由なれば、この辞世の歌の後にはかく、題目二篇を書きて御座る。

 しかも御丁寧なことにその掉尾にはご覧の通り、

――仍(よ)って證文件(くだん)のごとし

と書かれたは、これ我らなんどから見れば、まっこと、滑稽の一つとのみ感ぜらるるものと申し添えおくことと致そう。

中島敦 南洋日記 一月二十三日

        一月二十三日(金) マガンラン

 朝食はツ・ドン(オトキチ)の作りしおぢやに豚肉罐詰。桃缶詰。後、伊藤氏よりパパイヤとバナナ揚を持たせ來る。十時シロウの動かす纖維工場の船にのせて貰ひ、幅廣きリーフを海岸傳ひにアコール迄行く。一帶の見事なる椰子林。マウイの許にて一休。中々しやれた家なり。アコール部落唯一人のインテリなりと。伊藤氏を待てども來らざれば、マガンランに向つて立つ。途中のアカヅ(赭土丘陵地)のタコの木の景觀は實に宜し。兩側に海・リーフの眺望。獨乙時代に運河を掘らんとせし趾といふがあり。パラオ傳説によれば、パラオはオポカズ女神の身體にして、今、通りつゝある地峽は頸に當ると。一時前にマガンランに入る。ヤイチ留守。子供等のみあり。村吏事務所前のアミアカの下の休み場の竹の腰掛にて、ひるねす。やがてヤイチが家の二階に入る。頗る風通しよし。粥を炊かせて喰ふ。アミアカ下の休み場の賑はふは、今日船がコロールより入ればニュースを聞かんとてなり。夕方、土方氏と一島女と共に石柱址を見に行く。左右に海を見下す章魚木多き良き路なり。マンゴーを喰ひつゝ古き石柱を見る。┛形に續ける三列の石柱群。中に人面石數箇。たゞそのあたり一面タピオカ畑となれるには驚かされたり。六時半頃歸る。ヤイチ既に在り。配給に忙し。カムヅックルのさしみと鹽煮とタピオカ。夜、室内は暗けれど、外の月は明るし。月下に、路を距てし一舊家とその前庭の趣、仲々に良し。夜、小便に起れば、ヤイチが板の間に裸體にて熟睡しをれり。

[やぶちゃん注:太字は底本では総て傍点「ヽ」。「┛」は底本では細く、「L」の左右反転型。

「カムヅックル」刺身でも潮煮でも食える海産生物らしいが不詳。識者の御教授を乞う。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(13)「はなあやめ」(Ⅳ) 「はなあやめ」了



ひとゝせにひとゝき逢ひてひと日をば

千日まつと悲しきたより

 

水の音蛙の唄につゝまれて

かゝる夕べをもの言ひしひと

 

千石の水あぶ心地ひぐらしの

一時に鳴きぬ木陰路入れば

 

[やぶちゃん注:この一首は朔太郎満二十二歳の時の、第六高等学校『交友会誌』明治四一(一九〇八)年十二月号に掲載された歌群「水市覺有秋」の一首、

 千石の水あぶ心地日ぐらしの一時に啼きぬ木蔭路入れば

の表記違いの相同歌。]

 

むらさきの路傍の花のちいさきを

愛でしかばかりに行く車びと

          (以上二首鹽原温泉途上ノ作)

 

[やぶちゃん注:「路傍」の「傍」は原本では「亻」ではなく(こざとへん)であるが、校訂本文を採った。「ちいさき」はママ。底本年譜の明治四一(一九〇八)年八月(朔太郎満二十一歳)の条に、『一家で鹽原温泉へ行く。一人で日光へ廻り、中禪寺湖畔に泊る』とある。この一首も前歌と同じく、歌群「水市覺有秋」の一首、

 むらさきす路上の花のちひさきを愛づるばかりにゆく車かな

の表記違いの相同歌。なお、この折りの中禅寺湖湖畔での経験を素材としたと思われる萩原朔太郎の小説「夏帽子がある(リンク先は私のブログの電子テクスト)。未読の方には是非お勧めしたい作品である。

 

驚きぬ日輪みれば紅熱(ぐねつ)して

日葵向(ひぐるま)花とくちずけするに

 

[やぶちゃん注:「日葵向花」「日葵向」の文字列はママ。朔太郎満二十歳の時の、『無花果』(明治三九(一九〇六)年十一月発行)に「美棹」の筆名で掲載された歌群の一首、

 おどろきぬ日輪みれば紅熱してひまわりばなとくちづけするに

の表記違いの相同歌。

 この一首の次行に、前の「くちづけするに」の「ち」位置から下方に向って、以前に示した特殊なバーが配されて、本「はなあやめ」歌群の終了を示している。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和五年(四十二句) Ⅳ 昭和五年 了



ほけし絮の又離るゝよ山すゝき

 

[やぶちゃん注:「絮」草木の綿毛の意で、音は「じよ(じょ)」、訓なら「わた」であるが、私は「じよ」で読みたい。]

 

折りとりてはらりとおもきすゝきかな

 

[やぶちゃん注:言わずと知れた蛇笏の名吟。大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」によれば、『大阪で各派合同の蛇笏歓迎大会が催され、その席上で成った作』とあり、以下の自注があるとある(例によって恣意的に正字化した)。

穗芒が拔け出して、いくぶん霑を帶びた感じなのが、重いといふほどでなくても、鳥渡手にこたへる安排を。

次に山本健吉の評言を引き、『視覚的な美しさが、すべて重量に換算され、折り取つた瞬間のづしりと響くやうな重さを全身で感じとつたやうな感動』が添うのがこの句の美しさであると述べておられる。これはまさに梶井基次郎の「檸檬」の感覚である。]

 

深山木のこずゑの禽や冬の霧

 

  十二月二十日午前零時半溘焉として物故

  せる畫伯岸田劉生氏を深悼す。

逝く年や冥土の花のうつる水

 

[やぶちゃん注:「溘焉」は「かふえん(こうえん)」と読み、多くは人の死の俄かなさまをいう。「溘」の字は白川静氏の「字統」によれば、『形声 音符は盍(こう)。[説文新附」に『奄忽(えんこつ)なり』とあり、ことの速やかである意。[楚辞、離騒]に、『寧むしろ溘すみやかに死して以て流亡すとも、余われ此の態を爲すに忍びざるなり』という。溘死・溘逝・溘焉(こうえん)のように用いる。このような副詞的用法のほかに本訓がないのは、もと擬声的な語であるからであろう』とある由。Octave ブログより孫引きさせて戴いた。

 画家岸田劉生はこの前年末の昭和四(一九二九)年十二月二十日に滞在先の山口県徳山(現在の周南市)で三十八の若さで尿毒症のため逝去していた。蛇笏はこれを昭和五年のパートに配しているのは誤認ではない。「山廬集」では前書の頭に「昭和四年十二月二十日……」と正しくクレジットしている。蛇笏の弟子で友人の西島麦南は絵では岸田劉生に師事しており、その関係から知り合いであったものかと思われる(但し、二人が実際に逢ったことがあるかどうかは不明。識者の御教授を乞う。そもそも例えば芥川龍之介は俳句に於いて蛇笏を高く評価した一人であったが、生前は遂に一度も面識はなかった。]

 

ゆく雲や霰ふりやむ寺林

 

瘦馬にひゞきて雪の笞かな

 

冬服や襟しろじろと恙めく

 

[やぶちゃん注:「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」。「恙めく」とは奇体な表現であるが、その抜けるような眩しい白さが、逆に何か日常的でない不吉な病んだ方向へのベクトルの連想させるということか?]

 

一二泊して友誼よき褞袍かな

 

[やぶちゃん注:「褞袍」は「どてら」と読む。]

 

飄々と雲水參ず一茶の忌

 

[やぶちゃん注:小林一茶の忌日は陰暦十一月十九日で、グレゴリオ暦で換算すると実は昭和五(一九三〇)年の新暦には陰暦十一月十九日は存在せず(昭和五年の一月一日は旧暦十二月二日で、十二月三十一日は旧暦十一月十二日に相当するため)、翌昭和六年の一月七日(水曜)に相当する。これから蛇笏のこの句は新暦の十一月十九日(水曜)に詠まれたものであることが分かる。]

 

土器にともし火燃ゆる神樂かな

 

落月をふむ尉いでし神樂かな

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「尉」は「じよう(じょう)」で翁の面を被った神楽舞いの登場人物。]

 

杣山や鶲に煙のながれたる

 

[やぶちゃん注:既注であるが「鶲」は「ひたき」と読む。スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科ヒタキ科 Muscicapidae に属する鳥類の総称。分類は近年大きく変化しているので、ウィキの「ヒタキ科」を参照されたい。蛇笏はこのヒタキが好きだったものらしい。]

杉田久女句集 120 草の花



草の花靡くところに井戸掘らん

 

草花にかげ澄む纜をほどきけり

 

[やぶちゃん注:「纜」は船尾にあって船を陸につなぎとめる「ともづな」「もやいづな」であるが、ここは「つな」と訓じていよう。]

 

穗に出でて靡くも哀れ草の花



[やぶちゃん注:前句「草花」及びこの「草の花」は秋に咲く草々の花で晩秋の季語である。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十七年 Ⅲ

   奈良春日神社節分宵宮

万燈籠たかきへたかきへ道いざなふ

 

[やぶちゃん注:「奈良春日神社節分宵宮」既注。]

 

万燈籠幽けしひとの歩にあはす

 

[やぶちゃん注:「幽し」老婆心乍ら、「かそけし」と読む。光や色のかすかで、今にも消えそうなさまをいう。]

 

身にさして万燈ほのかなるひかり

 

かぎろへる遠き鐡路を子等がこゆ

 

春月の明るさをいひ且つともす

動物園   山之口貘

 

   動 物 園 

 

港からはらばひのばる夕暮をながめてゐる夜烏ども 

 

椽側に腰をおろしてゐて

軒端を見あげながら守宮の鳴聲に微笑する阿呆ども

 

空模樣でも氣づかつてゐるかのやうに

生活の遠景をながめる詩的な凡人ども

 

錘を吊したやうに靜かに胡坐をかいてゐて

酒にぬれてはうすびかりする唇に見とれ合つてゐる家畜ども 

 

僕は、 僕の生れ國を徘徊してゐたのか

身のまはりのうすぎたない鄕愁を振りはらひながら

動物園の出口にさしかゝつてゐる 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】初出は昭和一〇(一九三五)年五月倍大号『羅曼』に総標題「動物園」で本詩以下、前の「春愁」・「座談」の三篇が掲載された。「定本山之口貘詩集」では、第二連一行目冒頭の「椽側」が「緣側」(底本の校異は新字体「縁側」)に、同第二連第二行目の「守宮」に「やもり」のルビが振られてある。

【二〇二四年十一月二日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

晴天   山之口貘

 

   晴 天

 

その男は

戶をひらくやうな音を立てゝ笑ひながら

―― ボクントコヘアソビニオイデヨ

と言ふのであつた 

 

僕もまた考へ考へ

東京の言葉を拾ひあげるのであつた

―― キミントコハドコナンダ 

 

少し鼻にかゝつたその發音が氣に入つて

コマツチヤツタのチヤツタなど

拾ひのこしたやうなかんじにさへなつて

晴れ渡つた空を見あげながら

しばらくは輝やく言葉の街に彳ずんでゐた 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】初出は昭和一一(一九三六)年八月発行の『むらさき』。「定本 山之口貘詩集」では、第一連三行目と第二連三行目の頭に附された「――」が除去されており、最終行の「彳ずんでゐた」の漢字表記が「佇ずんでゐた」に変えられてある。

【二〇二四年十一月二日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。]

毛蟲を うづめる   八木重吉

 

まひる

けむし を 土にうづめる

篠原鳳作句集 昭和八(一九三三)年十月



飛魚や右手にすぎゆく珊瑚島

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「右手」は「めて」で、「珊瑚島」は字書見出しとしては「さんごとう」である。音からして「じま」より「とう」であろう。]

 

飛魚の翔(か)けり翔けるや潮たのし

 

飛魚の我船波のあるばかり

 

飛魚をながめあかざる涼みかな

 

飛魚のついついとべる行手かな

 

飛魚や船に追はれて遠翔けり

 

煙よけの眼鏡ゆゆしや鰹(かつを)焚き

 

鰹鳥魚紋(うず)なす波に下りもする

 

[やぶちゃん注:種としてはペリカン目カツオドリ科カツオドリ Sula leucogaster・同亜種カツオドリ Sula leucogaster plotus・及び同亜種シロガシラカツオドリ Sula leucogaster brewsteri などを指す。ウィキの「カツオドリ」によれば、『熱帯や亜熱帯の海洋に生息』し、全長六四~七四、翼開張一三〇~一五〇センチメートル、体重は約一キログラムで『全身は黒い褐色の羽毛で被われる。腹部や尾羽基部下面(下尾筒)は白い羽毛で被われる。種小名 leucogaster は「白い腹の」の意。翼の色彩も黒褐色だが、人間でいう手首(翼角)より内側の下中雨覆や下大雨覆は白い』。『嘴や後肢の色彩は淡黄色』で『オスは眼の周囲にある露出した皮膚が黄緑色。メスは眼の周囲にある露出した皮膚が黄色。幼鳥や若鳥は腹部や下尾筒に黒褐色の斑紋が入る』とある。但し、『カツオなどの大型魚類に追われて海面付近に上がってきた小魚を狙い集まる事から、漁師からカツオなどの魚群を知らせる鳥とみなされた事が由来。しかし大型魚類に追われた小魚目当てに集まる(魚群を知らせる)のは本種やカツオドリ科の構成種に限らず、本種の和名も元々は魚群を知らせる鳥類の総称だった』ともあり、ここでも漁師や水夫が「カツオドリ」と呼称していると考えるならば、そもそもがカツオドリ Sula leucogaster に限定する必要はないかも知れない。

「魚紋」は通常「ぎよもん(ぎょもん)」と読み、魚の動きによって水面に出来る波の模様のことを指す。ここはそうした現象が「渦」となって見えることから「うず」と当てたものか。若しくは「鱗」の「うろくず」(魚などの鱗の意から転じて魚そのものを指す。いろくず。)の省略形か。但し、「渦」「鱗」も孰れにしても歴史的仮名遣では「うづ」でなくてはならぬので不審ではある。識者の御教授を乞うものである。]

 

地下室の窓のみ灯る颱風かな

 

颱風をよろこぶ子等と籠りゐる

 

秋燕を掌に拾ひ來ぬ蜑が子は

 

[やぶちゃん注:「秋燕」は「しうえん(しゅうえん)で歳時記では「去ぬ燕」「巣を去る燕」「帰燕」「残る燕」などとともに――本土ににあっては――春に渡って来た燕が夏の間に雛を孵し、秋九月頃群れをなして南方へと帰ってゆく――空っぽの巣に淋しさが残る――なんどとまことしやかに書かれている――が――ここはその燕が帰ってくる南国の景である――しかも「蜑が子」が「掌に」「拾ひ來」た「秋燕」は――遂に最後に力尽きた一羽ででもあったか――ここには南国の陽射しとともに歳時記の陳腐な常套的記載とは全く異なった反転した世界がリアルに詠まれているのである。季語なんする者ぞ!

 以上十一句は十月の発表及び創作パートに配されてある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 28 吉備楽を聴く

M329

図―329

M330_2  

図―330

M331

図―331

 

 今日の午後、我々は文部省から、古い支那学校で行われる音楽会へ招待された。音楽はキビガクとして知られる、二百年にもなる古い形式で、備前の国から来た。音楽会の開かれた広間には、敷物や椅子があり、椅子は広間の両側に三列をなしてならべられ、中央に空地を残してあった。二百人に近い聴衆の、殆ど全部は日本人で、その中には、女子師範学校と幼稚園の先生が、二十名いた。彼等はいずれも、立派な婦人連だった。お互に会うと、如何にも低く、そして儀礼的にお辞儀をしあうのは、興味があった。床の中央にはコト(図329)、即ち日本の竪琴が二台置かれてあった。この楽器は長さ五フィートに近く、支那から来た古い形式である。しばらくすると、総数六人の演技者が入って来た。琴堅に二人、歌い手が二人、他の二人の一人は笛を吹き、一人は古代の支那の書籍に屢々出て来る、ショーと呼ぶ奇妙な楽器(図330)を吹く。これは椰子(やし)の実を半分に切ったような、まるい底部から、長さの異る何本かの竹管が縦に出ているもので、吹奏口は底部の横についている。演奏者は写生図(図331)にあるように、それを両手で持つ。指導者は年とった男で、笛を吹き、時に途法もない音を立てる一種の短いフラジオレット〔篳篥?〕を吹いた。

[やぶちゃん注:「支那学校」原文は“the old Chinese college”。不詳。文字通りの中国語の高等語学学校であるとするならば、学校外務省による「漢語学所」の開設は六年前の明治四(一八七一)年、民間の「興亜会支那語学校」 は前年の明治一〇(一八七七)年開設であるから“old”はおかしい(東京音楽学校の前身である東京府下谷区の官立音楽取調掛(音楽専門学校)は後の明治二〇年の敷設)。内容からは現在の宮内庁式部庁の楽部が相応しいように思われるが、当時、現在のような庁舎内の雅楽舞台があったかどうか定かではなく、しかもそこをモースが“the old Chinese college”と誤認するというのもやや妙な感じがする。……そこで考えてみた。……これはもしや、「湯島聖堂」、のことではあるまいか? ウィキの「湯島聖堂によれば、現在、「日本の学校教育発祥の地」とされ、元禄三(一六九〇)年『林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた』。翌元禄四年二月には神位奉遷が行われて完成『林家の学問所も当地に移転している』。その後、火災や幕府の実学重視政策で荒廃したが、寛政九(一七九七)年、『林家の私塾が、林家の手を離れて幕府の官立の昌平坂学問所となる。これは「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれる。「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなった。これ以降、聖堂とは、湯島聖堂の中でも大成殿のみを指すようになる。また』、この二年後の寛政十一年には、『長年荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は一万二千坪から一万六千坪余りとなり、大成殿の建物も水戸の孔子廟にならい創建時の二・五倍規模の黒塗りの建物に改められた』。『ここには多くの人材が集まったが、維新政府に引き継がれた後』(ここの箇所、アラビア数字を漢数字とし、記号の一部を改めた)、明治四(一八七一)年に閉鎖されたとあるものの、『この大成殿は明治以降も残っていた』とあるから、ここが会場とされたとしても何の不思議もない。――しかも創建から当時で既に一八七年が経過しているから十分に“old”だ。――しかも「大成殿」は孔子廟であるから、これは見た目にはまさに“Chinese”であろう。――さらにそこが元の幕府官立昌平坂学問所であったと通訳から聴けばそれはもう、モースは“college”と呼ぶに間違いない! 識者の御教授を乞うものであるが、これは直感的にはかなり自信がある。なお、次の「キビガク」の注も参照されたい。

 

「キビガク」吉備楽 。岡山地方に起った雅楽楽器を用いる明治期成立の音楽で、明治五(一八七二)年頃に岡山藩の伶人(れいじん:明治三(一八七〇)年に太政官に設けられた雅楽局の楽人の呼称。)岸本芳秀が雅楽を元に創始した芸能音楽。古歌などを歌詞とする歌に箏(そう)・篳篥(ひちりき)・笙(しょう)の伴奏がつく(ここまでは平凡社「世界大百科事典」に拠る)。の一部を掲載しています。岸本芳秀(文政七(一八二一)年~明治二三(一八九〇)年)は現在の岡山市内の神社の神官を務めて岡山藩楽人でもあった岸本家に生まれた。明治五(一八七二)年頃に雅楽を基盤とした大和舞の要素も加味しつつ、大衆化させた「吉備楽」を創作、まさにこの明治一一(一八七八)年に岡山県令高崎五六の要請を受けて上京、青山御所を初めとして東京各所で吉備楽の演奏会を行ない、一躍、吉備楽は全国へと広がった、と岡山県立図書館のレファレンスデータベースの「岸本芳秀」にある。この記載と文部省主催であることなどからは、この青山御所(旧紀州徳川家江戸中屋敷跡、現在の迎賓館のある赤坂離宮の敷地内の一画)が、モースのいう「支那学校」のであった可能性はある。しかし、だとすればそこを“the old Chinese college”と誤認する要素が今一つであると私は思う。湯島聖堂の方が遙かに可能性が高いことがご理解頂けるものと思う。

「女子師範学校」東京女子師範学校。明治七(一八七四)年に設立された官立師範学校。明治一八(一八八五)年の東京師範学校への統合を経て、明治二三(一八九〇)年に女子高等師範学校として分離・改組され、明治四一(一九〇八)年東京女子高等師範学校に改称された。現在のお茶の水女子大学の旧制前身校(以上はウィキの「東京女子師範学校」に拠った)。

「指導者は年とった男」岸本芳秀と思われる。但し当時は未だ今の私と同じ五十七歳である。四十歳の外国人のモースから見ると、その風体は相当な老人に見えたものか。

「時に途法もない音を立てる一種の短いフラジオレットを吹いた」底本では「フラジオレット」の下に石川氏の『〔篳篥?〕』という割注が入る。「一種の短いフラジオレット」(原文“a kind of short flageolet”)のフラジオレットはフラジョレット(英語:Flagioletto tones)とは西洋音楽におけるフィップル・フルートファミリーに属する木管楽器で、十六世紀に開発され、ティン・ホイッスルに受け継がれ、二十世紀に至るまで製造され続けた楽器。今日では演奏されることは滅多にないが、この楽器の音色は非常に柔和で上品であり、他の楽器に代え難い独特の魅力を有しているとィキの「フラジオレット」にある(フラジョレットには現在、この『楽器フラジオレットのような柔和な音を出すべく楽器を通常でない方法で奏することにより特定の倍音が浮き立つように発生させ、それを基音のように聞かせることで通常の奏法とは異なった音色をかもし出す特殊な奏法、あるいはその特殊な奏法により出される音』を指す音楽用語の解説が続く)。ウィキには別に「フラジオレット(楽器)」もあり、そこにある“Flageolettflöjt 1800-talet - Collection privée Dominique Enon”の写真を見ると、本邦の篳篥(グーグル画像検索「篳篥」)に似ている感じが私にはする。]

 

 演奏は先ず例の老人が、不愛想な唸り声を、単調な調子でいく度か発することによって開始された。食いすぎた胡瓜が腹一杯たまっていたとしても、彼はこれ以上に陰欝な音を立てることは、出来なかったであろう。事実それは莫迦げ切っていて、私は私の威厳を保つのに困難を感じた。彼がかくの如き音を立てている間に、一人の演奏者が、琴でそれに伴奏をつけ出した。これが一種の序曲であったらしく、間もなく若い男の一人が歌い始め、老人は笛を吹き、楽器はすべて鳴り出し、筝はバッグパイプに似た音で、一つか二つの音色の伴奏を継続した。曲の一つ一つは、その名こそ大いに異れ、私にはいずれも非常に似たものに聞えた。この吉備楽は、聞いていて決して不愉快ではないが、我々の立場からは、音楽とは呼び得ない。ある曲には、「春の夜の月」という名がついていた。別のには、ある将軍の名がついていた。また別なのは、有名な川に寄題され、更にもう一つの、これはいつ迄立っても終らぬぞと思った曲は、誠に適切にも、「時」という名で呼ばれていた。

[やぶちゃん注:「バッグパイプ」底本では直下に『〔スコットランド人の用いる風笛〕』という石川氏の割注が附く。ウィキの「バグパイプ」によれば、リード『の取り付けられた数本の音管(パイプ pipe )を留気袋(バッグ bag )に繋ぎ、溜めた空気を押し出す事でリードを振動させて音を出すものである。 バグパイプの発声原理は有簧木管楽器と同じであり、一種の気鳴楽器ではあるが、必ずしも一般的な意味での「吹奏楽器」ではない』とある。「風笛」という語は袋笛とともに現代中国語でもバグパイプを指す。

『ある曲には、「春の夜の月」という名がついていた。別のには、ある将軍の名がついていた。また別なのは、有名な川に寄題され、更にもう一つの、これはいつ迄立っても終らぬぞと思った曲は、誠に適切にも、「時」という名で呼ばれていた』個人的には悪いけれど、興味がないものの、これらの楽曲の名の記載は現代に伝わる吉備楽(現在は教派神道の金光教や黒住教と深く関わって継承されているらしい)の向後のためにも、これらの曲を同定しておく必要があるように思われるとのみ記しおくこととする。]

 

 長い休憩時間に、私は室外へ出、葉巻に火をつけて、しばらく構内を散歩した。再び管絃楽が開始された時、私の葉巻はまだ残っていたので、私は注意深くそれを風が吹いても吹き散らさせぬ、一隅の、階段の上に置いた。次の休憩時間に、葉巻を求めて出て来た所が、それは失踪している。いく分不思議に思って見廻していると、巡査が一人来て、質問するような様子をしながら、厳粛に私が葉巻を置いた場所を据さした。私が日本語で「イエス」と答えると、彼は廊下の端に置いてある、いくつかの火の箱、即ちとヒバチを指示した。行って見ると私の葉巻が、一つの火桶の端に注意深く、燃えさしが落ちても灰の中へ置ちるようにして置いてあった。日本人は火事に対しては、このように深く注意する。

 

 一人の男が、日本の、緩慢な、そして上品な舞踊の一つを舞った。これは明確な意味に於るダンスではなく、足を踏みつけたり何かして、いろいろな身振をする劇なのである。これは劇の古い形式を示している点で興味が深かった。「これは我々の言葉の意味に於る音楽だろうか」という質問が、間断なく起った。音楽ではあるが、我々のとは非常に違う。演奏者の真面目な、受働的な顔に微笑が浮ぶというようなことは決してない。我々の歌い手は、歌詞に霊感を感じると、鼻孔を大きくし、眼を輝かし、頭を振るが、こんなことも丸でない。こんなに単調な音からして、霊感なり興奮なりを受けることは、不可能であろうと思われる。最も近い比較は、我国の、音楽のまるで分らぬ老人が、たった一人材木小屋にいて、間ののびた、どっちかといえば陰気な讃美歌を、ボンヤリ思い出そうとしていることである。この印象は、日本の音楽に就ては全然何も知らぬと、正直に白状した人が、感じた所のものなのである。我々は日本の絵画芸術のある形式、例えば遠近法を驚く程無視した版画や、野球のバットのような釣合の大腿骨を持ち、骨格は、若しありとすれば、新しい「属」として分類されるであろうような人体画やを、莫迦気ていると考えたが、而も我国の芸術家は、これ等の絵に感嘆している。だから日本の音楽も、あるいは、現在我々にはまるでわからぬ、長所を持っていることが、終局的には証明されるようになるのかも知れない。

[やぶちゃん注:この段はすこぶる面白い。既に以前から日本人の非音楽性を述べ、和旋律には美を感じ得ないモースが、それでも最後には邦楽の美の発見へ好意的な将来的期待を抱いている辺り、まっこと日本が好きで好きでたまらない彼の姿が垣間見えるシーンである。]

2014/03/12

お休み

では――諸君――僕は「いい」夢を見るために――床に就く

おやすみ――

杉田久女句集 119 葉鶏頭



葉雞頭のいただき踊る驟雨かな

 

葉雞頭に土の固さや水沁まず

杉田久女句集 118 箒おいてひき拔きくべし雞頭かな



箒おいてひき拔きくべし雞頭かな

 

[やぶちゃん注:私偏愛の句。「雞頭」は「けいと」と読んでいよう。これを「けいと」と読む例は、例えば白神山地は西津軽郡深浦町にある、十二湖の一つ「鶏頭場の池」を「けいとばのいけ」(或いは「けとばのいけ」とも)と読む例を挙げれば十分であろう。なお、この「雞頭」は残念なことに、後に続く二句が葉鶏頭の句であることによって――私にとっての第一読の印象は間違いなくあの鮮烈な紅い色そして独特の形状の花穂を持ったヒユ科ケイトウ属 Celosia argentea であったのだが――鶏頭ではなくて葉鶏頭の可能性が高いことが分かる。ナデシコ目ヒユ科 Amaranthoideae 亜科ヒユ属ヒユ亜種ハゲイトウ Amaranthus tricolor var. mangostanus である。……しかし……ここに至っても個人的にはやはり、これは葉鶏頭ではなく真正の鶏頭の方が「絵」になると感じてしまう私がいる。孰れも晩秋の季語であるから、必ずしもこれを葉鶏頭に同定する必要はないし、久女の家の庭に両種が植えられていたとしても何らおかしくはない。ここはやはり私はあの真正の鶏頭と採って鑑賞する。

 ここで久女は自身の行動を映画のようにモンタージュしている。

――庭掃除をする私

――ふと何か堪走った視線を送る私の眼!(クロース・アップ)

――箒を タン! と置き放つ私

――花壇に近づく私

――枯れかけ萎みかけた赤い鶏頭(クロース・アップ)

――摑む私の手(クロース・アップ)

――力を込めて一気に! ひき抜く!

――庭の落ち葉焚き

――投げ入れられる赤い鶏頭

――くすぶり煙を上げて燃え始める鶏頭

――見つめる私……

……そうして……その「私」が、あの妖艶な久女の顔であってみれば……この句、凄絶と謂わずして何と言おう。]

杉田久女句集 117 萩



白萩の雨をこぼして束ねけり

 

草苅るや萩に沈める紺法被

杉田久女句集 116 相寄りて葛の雨きく傘ふれし


相寄りて葛の雨きく傘ふれし

飯田蛇笏 靈芝 昭和五年(四十二句) Ⅲ



瀧上や大瀨のよどむ秋曇り

 

庵の露木深く月の虧けてより

 

[やぶちゃん注:「虧けてより」は「かけてより」と読む。月の満ち欠け(盈ち虧け)の「欠ける」こと。]

 

霧さぶく屋上園の花に狆

 

やがて又下雲通る案山子かな

 

風雨やむ寺山うらの添水かな

 

[やぶちゃん注:「添水」は「そうづ(そうず)」又は「そふづ(そうず)」と読む。田畑を荒らす鳥獣を音で脅すための仕掛けである鹿威(ししおど)しのこと。「僧都(そうず)」からとも、「案山子(かかし)」の古語「そほど」「そほづ」の音変化からともいう。後には庭園などに設けられてその音を楽しむようになった。秋の季語。参照にした「大辞泉」の「添水」にはまさに本句が例に引かれている。]

 

月虧けて山風つよし落し水

 

[やぶちゃん注:「落し水」(おとしみづ(おとしみず))は、稲を刈る前に田を干すために流し出すこと。]

 

山がつに雲水まじる夜學かな

 

いくもどりつばさそよがすあきつかな

 

[やぶちゃん注:私が莫迦なのか、初五「いくもどり」の意が分からぬ。識者の御教授を乞う。]

 

螽燒く燠のほこほこと夕間暮

 

[やぶちゃん注:「ほこほこ」の後半は底本では踊り字「〱」。「螽」は「いなご」。「燠」は「おき」で赤く熾(おこ)った炭火。熾火(おきび)。字余りが気になる。「燠」の音は「ウ」であるが、それでは聴いても分からぬ。「ひ」(熾火の火)と訓じているか。]

 

霧罩めて日のさしそめし葛かな

 

[やぶちゃん注:「霧罩めて」は「きりこめて」と読む。「罩む」は原義は入れて包むの意で。霧が立ち込めるの意。「葛」は「山廬集」のルビで「かつら」と読んでいることが分かる。蔓性植物の総称。つるくさ・かずらぐさ。]

沼と風   八木重吉

 

おもたい

沼ですよ

しづかな

かぜ ですよ

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十七年 Ⅱ

  明比ゆき子夫人に

 

[やぶちゃん注:「明比ゆき子」恐らくは『馬酔木』の俳人仲間と思われるが、詳細不詳。ネット上ではかろうじて、

 柚子湯して厨に殘す柚子ひとつ   明比ゆき子

の一句を見出せた。「明比」は「あけひ」又は「あけび」と読む。この女流俳人について情報をお持ちの方、御教授をお願いしたい。]

 

燈ともして梅はうつむく花多き

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

さびしさといふこと紅梅身邊りに

 

二月の雲象(かたち)かへざる寂しさよ

篠原鳳作句集 昭和八(一九三三)年九月



靑空に飽きて向日葵垂れにけり

 

向日葵の垂れすうなじは祈るかに

 

向日葵に海女のゆききの夕さりぬ

 

泳ぎ子の電車のうなり夕澄みぬ

 

くり舟の上の逢瀨は月のまへ

 

  パナマ編みは濕氣を要し南洋にては月明

  の夜、沖繩にては洞窟にて編む。水の滴

  るくらがりにてパナマ編む男女あはれな

  り。

木洩れ日の徑をしくればパナマ編み

 

簪のぬけなんとしてパナマ編み

 

パナマ編む顏のゆがめる男女かな

 

筵戸をすこしかゝげてパナマあみ

 

岩窟にともりゐる灯はパナマあみ

 

[やぶちゃん注:「灯」は筑摩書房「現代日本文学全集 巻九十一 現代俳句集」でも「灯」。]

 

まどゐしてみんな胡坐やパナマ編み

 

丁髷を落さぬ老やパナマ編み

 

[やぶちゃん注:「パナマ」は先行する昭和五(一九三〇)年三月発表の句椽先にパナマ編みゐる良夜かなの私の注を参照されたい。]

 

   獨居

干ふどしへんぽんとして午睡かな

 

[やぶちゃん注:以上、十三句は九月の発表及び創作パートに配されてある。]

散步スケツチ   山之口貘

 

   散步スケツチ

 

柔毛のやうな叢のなかの

蹲まつてゐる男と女 

 

べんちの上の男と女 

 

あつちこつちが男と女 

 

なんと

男と女の流行る季節であらう 

 

友よ

僕らは、

 

きみはやつぱり男で

ぼくもあひにく男だ。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証、注を一部追加した。】初出は昭和一二(一九三七)年十二月二十六日附『都新聞』。

 「定本 山之口貘詩集」では、題名が「散步スケッチ」と拗音化され(但し、同書を底本とする思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では「散步スケツチ」のママである。不審である)、第一連(一・二行目)が、

 

產毛のやうな叢のなかの

蹲つてゐる男と女

 

と「柔毛」が「產毛」に変えられ、「蹲まる」の送り仮名が改められており、九行が、

 

男と女の流行(はや)る季節であらう

 

と「流行る」にルビが打たれている。

 私は個人的な偏愛的語彙感覚から「產毛」(うぶげ)より「柔毛」(にこげ)の方が、断然、好きである。バクさんが「柔毛」を「うぶげ」と読んでいたのだとすると(その可能性がないわけではない)、激しく失望する程度に、私は「にこげ」のイメージと音色を偏愛する人間なのである。因みに、亡き母に、昔、小学校六年生の時、この話をしたら、「私は『煮焦げ』を思い出して、何だか、いやだわ。」と笑いながら一蹴されたのを懐かしく思い出す)。

【二〇二四年十一月二日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

天   山之口貘

 

    

 

草にねころんでゐると

眼下には天が深い 

 

太陽

 

有名なもの達の住んでゐる世界 

 

天は靑く深いのだ

みおろしてゐると

體軀が落つこちさうになつてこわいのだ

僕は草木の根のやうに

土の中へもぐり込みたくなつてしまふのだ。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注に一部追加した。】初出は昭和一〇(一九三五)年一月一月発行の『日本詩』。総標題を「天」として本詩前の「教會の處女」・「生活の柄」・「妹へおくる手紙」・「無題」の順で五篇を掲載している。「こわい」はママ。「定本山之口貘詩集」では最後の句点が除去され、この十二行目、「體軀」にルビが振られ、「こわい」が訂されて、

 

體軀(からだ)が落つこちさうになつてこはいのだ

 

と改められてある。

【二〇二四年十一月二日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

2014/03/11

文楽「イエスキリストの生涯」と能「聖パウロの回心」

文楽「イエスキリストの生涯」の讃美歌のオルガンとともに去ってゆく敢然とした勘十郎のイエス――そして能「聖パウロの回心」でバッハのパッサカリア(ハ短調BWV582)とともに演じられる後ジテ観世清河寿の清冽な復活のキリストの舞い――私は実に独り涙したことを秘かに告白したい……そうして――これは私への確かな黙示であった……

追伸:但し、能舞台で主遣が下駄を履かないために足と左遣が(特に足遣)見るからに痛々しい。まずは何よりも文楽「イエスキリストの生涯」は文楽劇場で演ぜられるべきであると強く思う。 

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蝎 (?)

蝎 日本ニモアリト云蠆ノ類ナリ全蝎ハ全體ヲ用ヲ云尾

ヲ用ルヲ蝎稍ト云其力緊シ本草ニ見エタリ

〇やぶちゃんの書き下し文

蝎 日本にもありと云ふ。蠆〔たい〕の類なり。全蝎〔ぜんかつ〕は全體を用ふるを云ひ、尾を用ふるを蝎稍〔かつせう〕と云ふ。其の力、緊〔つよ〕し。「本草」に見えたり。

[やぶちゃん注:節足動物門鋏角亜門クモ綱サソリ目 Scorpiones の仲間。前項の絡みで附したのであろうが、普通に項として立てられていておかしい。益軒先生! 水族じゃあ、ありまっセン!……まさか……四億六千万年前の古生代オルドビス紀後期に出現してシルル紀からデボン紀にかけて栄えた肉食性水棲動物のチャンピオン鋏角亜門カブトガニ綱 Merostomata(異説あり)広翼(ウミサソリ)目 Eurypterida のウミサソリってか!?(但し、参照した「サソリ」「ウミサソリ」によれば、『初期のサソリには海生で鰓を有する等、ウミサソリと共通の特徴を持つ物が存在したことが化石から推測されて』はいるとある。確かに形態的な類似点が多いことからウミサソリが陸に上がってサソリの祖先になったとする説もないことはないが、これには疑義も多いとある)。

「日本にもありと云ふ」不審。現在ではサソリ目コガネサソリ科 Liocheles 属ヤエヤマサソリ Liocheles australasiae とキョクトウサソリ科マダラサソリ Isometrus maculatus の二種が知られているが、前者は沖縄県八重山諸島に、後者は八重山諸島・宮古諸島及び小笠原諸島に分布するもので、益軒がその事実を認識していたとは思われないし、認識していたとしてもそれを「日本」と果して言い得たかという点でも疑問である(しかも孰れの種の毒性も強くない)。この辺、かなり益軒先生、いい加減に書いている気がする。

「蠆」前項で述べた通り、前項でも引用する「三才図会」にある通り、これはサソリを意味する象形文字である。

「全蝎」現在でも漢方で生きたサソリ(検索によく出るのはキョクトウサソリ上科キョクトウサソリ科キョクトウサソリ Buthus martensi )を食塩水で丸ごと煮て全一個体を乾燥させたものを「全蝎」と呼ぶ。急性及び慢性の驚風(小児のひきつけ。癲癇の一型や髄膜炎の類い)・卒中・顔面神経麻痺などの痙攣に効果があるとする。

「其の力、緊〔つよ〕し」毒を持って毒を制すという薬法であるから、非常に強力に作用することを言っているのであろう。漢方記載でも過量使用を戒めている。なおサソリ毒は神経のナトリウム・チャネルが閉じるのを遅らせて筋肉の収縮を引き起こす α-toxin や、同チャネルに作用する(流入を増大 → 興奮を高めるように作用 → 筋肉の痙攣 → 呼吸が出来なくさせる)テイテイウストキシンなど六群に分類される数百種に及ぶペプチド性の毒が知られていると、福岡大学「機能生物化学研究室」公式サイト内の生物毒」ページにある。

『「本草」に見えたり』「本草綱目」の「蟲之二」の「蠍」に、

古語云、「蜂、蠆垂芒、其毒在尾。今入藥有全用者、謂之全蠍。有用尾者、謂之蠍梢、其力尤緊。」。

とある。

飯田蛇笏 靈芝 昭和五年(四十二句) Ⅱ



遠泳やむかひ浪うつ二三段

 

負馬の眼のまじまじと人を視る

 

[やぶちゃん注:「まじまじ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

匂はしく女賊の扇古りにけり

 

[やぶちゃん注:「女賊」は「によぞく(にょぞく)」と読むが、老婆心乍ら、無論、女の盗賊のことではない。仏教用語で女性のことを指す。求道心が女色によって損なわれ易いことから賊に喩えた差別表現である。蛇笏真骨頂の妖艶俳句と読めるが、「山廬集」では、

 豪華なる女犯(ニヨボン)の扇なぶりけり

が並置(但し、連作かどうかはまた別ではあるが)されており、これが目に入ってしまうとこの扇を持っているのが生臭坊主となって妖艶どころではなくなる。この場合、女犯の句は見ない方がマシという部類に属すといえよう。私も見たくなかった。だからこの読者の方々にもその私の失意をしっかりとお裾分けしておくこととしよう。]

 

宵盆や幽みてふかき月の水

 

山川に流れてはやき盆供かな

 

紫蘇の葉や裏ふく風の朝夕べ

 

秋口のすはやとおもふ通り雨

 

佛壇や夜寒の香のおとろふる

 

飄として尊き秋陽ひとつかな

 

旅人に秋日のつよし東大寺

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十七年 Ⅰ

 昭和十七年

 

  紀州白濱

冬薊海界(うなさか)高くのぼり來ぬ

[やぶちゃん注:「海界(うなさか)」は「海境」「海坂」とも書く、古代語。海の境、海の果ての意。舟が水平線の彼方に見えなくなるのは、海に傾斜があって他界に至ると考えたことに基づく語とされ、従って原義は神話に於ける海神の国と人の国との境界を指す。]
 

冬の霧手套の黑き指を組む

 

霧ながら冬うつくしき夕べ得ぬ

篠原鳳作句集 昭和八(一九三三)年八月



向日葵に吐き出されたる坑夫かな

 

向日葵に暗き人波とほりゆく

 

[やぶちゃん注:両句、炭鉱の景であるが場所は不詳。福岡か? 但し、年譜からは彼が福岡に行っているのは前年の八月である(『天の川』発行所及び吉岡禅寺洞を銀漢亭に訪ねている)。このまさに当月である昭和八年八月十五日にも銀漢亭を訪ねてはいるが、この「向日葵」の二句はその八月発行の『天の川』の掲載句で、当時の雑誌発刊事情を知らないが、即吟が即掲載されたとするのは考えにくい。]

 

大和田やただよひ湧ける雲の峯

 

[やぶちゃん注:この「大和田」はまず地名とは思われない。当初、「やまとだ」で沖繩(うちなー)に対する内地の大和(やまと)にある田圃の意ではなかろうか、などとヘンテコな解釈をしていた。しかも、この句は八月発行の『泉』の句で彼がこの年鹿児島に帰省したのは八月であるから直近の嘱目吟ではないことになるから望郷吟か? などとホントに半ば真剣に悩んだのである。しかし、如何に続く句群を並べて見ると、そこから見えてくるのはやはり沖繩の抜けるような青い空と「雲の峯」であり、エメラルド・グリーンの海、「わたつみ」であることが分かる。即ち、「大和田」は「おほわだ(おおわだ)」で海神(おおわたつみ)ということなのであった。我ながらトンデモ逡巡、実に情けない気がした。]

 

カヌー皆雲の峯より歸りくる

 

夕凪や海にうつりしひでり星

 

[やぶちゃん注:「ひでり星」旱星は、旱続きの夜を象徴する如き、妖しい赤く強い光りを放っている星、火星や蠍座のアルファ星アンタレス(中国名「大火」「火」で夏の宵の南天地平線近くに見える)などを指す。私は天文に暗いが、「夕凪」「海にうつりし」からは後者アンタレスかと思われる。なお、言わずもがな――というより――皮肉に言えば「旱星」は伝統俳句では――夏の季語――ではある。

 以上二句は「雲彦沖繩句輯」に所収。]

 

夕凪をかこち合ひつつ濱涼み

 

濱涼み若人等は夜をあかす

 

遊女等もたむろしてをり月の濱

 

遅月ののぼれば機を下りにけり

 

蟬の音も人なつかしき下山かな

 

鷄頭燃ゆれど空は高けれど

 

玉芙蓉折れてしまひし嵐かな

 

この秋の芭蕉の月の淋しさよ

 

[やぶちゃん注:以上の三句は編者データによれば昭和八年八月の『久木田みどりへの弔吟』とある。久木田みどりなる女性については不詳。追悼吟を三句残すというのは相当に親密な間柄であったことが偲ばれる。因みに久木田という姓は鹿児島県を筆頭に熊本県や宮崎県に多い姓ではある。二句目の「玉芙蓉」は牡丹(ユキノシタ目ボタン科ボタン属 Paeonia)の園芸品種の名。グーグル画像検索玉芙蓉 園芸品種

 以上、十三句は八月の発表若しくは創作句。]

感傷   八木重吉


赤い 松の幹は 感傷

杭   山之口貘

 

   

 

一匹の守宮が杭の頂點にゐる

 

三角の小さな頭で空をつゝいてゐる 

 

ぽかぽかふくらみあがつた靑い空 

 

僕は土の中から生えて來たやうに 

 

杭と並んで立つてゐる 

 

僕の頂點によよぢのぼつて來た奴は 

 

一匹の小さな季節 かなしい春 

 

奴は守宮を見に來たふりをして 

 

そこで煙のやうにその身をくねらせてゐる。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプ(というか、「僕の頂點によよぢのぼつて來た奴は」を以下のように訂せずにいた)を発見、本文を訂正して、さらに注も一部改稿した。】初出は昭和一三(一九三八)年三月三十日号『グラフイツク』(第三巻第六号)で発行所は東京市京橋区木挽町の創美社。掲載誌での表題は「守宮」であった旨の記載が思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にある。

 

 六行目は底本では、

 

僕の頂點によよぢのぼつて來た奴は

 

であるが、これは間違いなく原詩集自体の衍字と思われ、昭和一五(一九四〇)年山雅房刊の「山之口貘詩集」(国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここ)でも、また原書房刊の「定本 山之口貘詩集」でも、「僕の頂點によぢのぼつて來た奴は」と訂されてある。但し、原詩集を重んじてママとした。

 本詩は表記通り、有意に行間が空く。昭和三三(一九五八)年原書房刊の「定本 山之口貘詩集」では、この行空けはなく、最後の句点も除去されている。

 また、「定本 山之口貘詩集」では一行目の「守宮」に「やもり」とルビが振られてある。

 個人的には「思辨の苑」の中で、一読、忘れ難い、最も印象的な数篇の一つである。

【二〇二四年十一月二日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

 

求婚の廣告   山之口貘

 

   求婚の廣告

 

一日もはやく私は結婚したいのです

結婚さへすれば

私は人一倍生きてゐたくなるでせう

かやうに私は面白い男であるとおもふのです

面白い男と面白く暮らしたくなつて

私ををつとにしたくなつて

せんちめんたるになつてゐる女はそこらにゐませんか

さつさと來て吳れませんか女よ

見えもしない風を見てゐるかのやうに

どの女があなたであるかは知らないが

あなたを

私は待ち侘びてゐるのです



[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。この注を追加した。】初出未詳。

【二〇二四年十一月二日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。]

3・11鎮魂公演 能「聖パウロの回心」文楽「イエスキリストの生涯」へ

本日は――3・11鎮魂公演 能「聖パウロの回心」文楽「イエスキリストの生涯」に行く。
未知の個人の方のブログであるが、本公演について書かれた「朝日新聞」の勘所を得た記事が読めるのでリンクさせて戴く。

2014/03/10

芥川龍之介手帳 1-4

[やぶちゃん注:底本では頭に『1月25日分破損』という編者注がある。]

○【1月26日】 今までぼくは彼等の愛の中に生きた これからは彼等をぼくの愛の中に生かしてやる たとへその境に彼等がぼくをにくみぼくが彼等をにくむ事があらうとも 海軍士官の話をかきつゞける 間歇的にくるYの memory に壓倒された

[やぶちゃん注:「海軍士官の話」大正五(一九一六)年九月刊の『新思潮』に「猿――或海軍士官の話――」(後に「猿」として第一作品集「羅生門」に所収された)として発表される作品。遠洋航海を終えて横須賀港に入った軍艦が舞台で、主人公の「私」は士官候補生である。

「Y」龍之介にとって恐らくは生涯のトラウマとなった失恋の相手吉田弥生。その破局(陸軍中尉との縁談話が持ち上がっていた弥生に対し、求婚の意志を親族に話すも伯母フキを初め芥川家全体から強く反対されてそれを龍之介は受け入れた)はこの前年大正四年の早春のことであった(推定一月か二月の初旬か。その顛末を綴った井川恭宛書簡の日附は二月二十八日附である)。] 

 

○【1月27日】 夜山本から平塚の入院をしらせて來た その時己の心には victor の感じがうすいながらあつた 人間は同胞の死をよろこぶものらしい 恐しいが事實だ 上瀧へ手紙を出した

[やぶちゃん注:「山本」山本喜誉司。既注。なお、龍之介の大正一四(一九二五)年二月発行の『中央公論』に発表した「学校友だち」では、『山本喜譽司 これも中學以來の友だちなり。同時に又姻戚の一人なり。東京の農科大學を出で、今は北京の三菱に在り。重大ならざる戀愛上のセンティメンタリスト。鈴木三重吉、久保田萬太郎の愛讀者なれども、近頃は餘り讀まざるべし。風采瀟洒たるにも關らず、存外喧嘩には負けぬ所あり。支那に棉か何か植ゑてゐるよし』とある。

「平塚」府立第三中学校時代の友人平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。「学校友だち」では特に最後に彼を挙げて、次のように綴っている。

   §

平塚逸郎 これは中學時代の友だちなり。屢僕と見違へられしと言へば、長面瘦軀なることは明らかなるべし。ロマンティツクなる秀才なりしが、岡山の高等學校へはひりし後、腎臟結核に罹りて死せり。平塚の父は畫家なりしよし、その最後の作とか言ふ大幅の地藏尊を見しことあり。病と共に失戀もし、千葉の大原の病院にたつた一人絶命せし故、最も氣の毒なる友だちなるべし。一時中學の書記となり、自炊生活を營みし時、「夕月に鰺買ふ書記の細さかな」と自ら病軀を嘲りしことあり。失戀せる相手も見しことあれども、今は如何になりしや知らず。

   §

なお、次の【1月28日】の私の注も必ず参照のこと。

victor」勝者。ここについては敢えて英語表記したところに龍之介の内発的呵責による抑制を私は微かに感じる。

「上瀧」上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いたと関口安義氏の新全集の「人名解説索引」にある。龍之介の「學校友だち」では巻頭に『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小説にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり。』とある。文中の「秦豐吉」(明治二十五(一八九二)年~昭和三十一(一九五六)年)は、翻訳家・演出家・実業家。七代目松本幸四郎の甥。東京帝国大学法科大学卒業後、三菱商事(後に三菱合資会社)に勤務する傍ら、ゲーテ「ファウスト」などのドイツ文学の翻訳を行い、昭和四(一九二九)年刊行のレマルクの「西部戦線異状なし」の翻訳はベストセラーとなった。昭和八(一九三三)年に東京宝塚劇場に転職、昭和十五(一九四〇)年には同社社長となった(同年より株式会社後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)社長も兼務(昭和二十八(一九五三)年迄同社会長)。敗戦後直後に戦犯指定を受けるも、昭和二十二(一九四七)年から東京帝都座に於いて日本初のストリップ・ショーを上演、成功を収めた。昭和二十五(一九五〇)年には帝国劇場社長国産ミュージカルの興業で成功を収める。後、日本劇場社長時代に小林一三に買収され、東宝社長となった(以上はウィキの「秦豊吉」によった)。同じく龍之介の「学校友だち」では、『秦豊吉 これも高等學校以來の友だちなり。松本幸四郎の甥。東京の法科大学を出、今はベルリンの三菱に在り、善良なる都會的才人。あらゆる僕の友人中、最も女に惚れられるが如し。尤も女に惚れられても、大した損はする男にあらず。永井荷風、ゴンクウル、歌麿等の信者なりしが、この頃はトルストイなどを擔ぎ出すことあり。僕にアストラカンの帽子を呉れる約束あれども、未だに何も送つて呉れず。文を行るに自由なることは文壇の士にも稀なるべし。「ストリントベリイの最後の戀」は二三日に訳了せりと言ふ。』とある。] 

 

○【1月27日】 平塚を見舞 殆何事もなかつた Spitzen だが

犬が二匹共犬ころしにころされたらしい かはいさうだ おやぢがふさぎきつてゐる

Fを思ふ

[やぶちゃん注:「Spitzen」ドイツ語で「シュピッツェン」と発音し、尖ったとか、辛辣な、皮肉なという意味であるが、これはどうも前日の記載の「victor の感じがうすいながらあつた」のを受けての、自省的な冷徹な「辛辣な、皮肉な」の謂いとも思われる。

 しかしこの「Spitzen」の解釈は難解である。

 即ち、この「殆何事もなかつた」という感懐は――実は龍之介が平塚逸郎の病態悪化やその療養生活に対して、「殆何事も」シンパシーを感じ得なかった、「皮肉な」ことに――という謂いにまずは採れる。しかし――

――本当にそうだろうか?

 寧ろ私は――昨日、平塚が入院したということを聴いた時に、図らずも『その時己の心には victor の感じがうすいながらあつた 人間は同胞の死をよろこぶものらしい 恐しいが事實だ』とまで醒めた露悪的な感想を記してしまった自分自身が、実際の平塚を見舞ってみたところが、『殆』内心に於いて昨日感じたような『victor の感じ』も『同胞の死をよろこぶ』恐ろしい感覚に基づく落着きも何も『何事もなかつた』のだ、「皮肉な」ことに――

という謂いであると私は解釈したいのである。そう解釈した時、私には龍之介が「Spitzen だが」と記した思いを最も腑に落ちて理解出来るのだと言ってもおこう。大方の御批判を俟つものではある――あるが――私はその反論に恐らく肯んずることは出来ないとも言っておきたい。悪しからず――

 実は既にお気づきのことと思うが、この平塚逸郎をモデル(特に、この時の見舞いのシークエンスはすこぶる印象的に綴られてある)に龍之介は後年、私のすこぶる附きで好きな一篇「彼」(大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に掲載され、後に『湖南の扇』に所収)をものしているのである。リンク先の私の電子テクストでは、かなりマニアックな分析を含む注も附してある。是非、お読み戴きたい。「彼」は無論、創作であり、龍之介特有のポーズもそこここに見られはする。例えば、彼の「victor の感じ」は美事にKに外化されてはいる。――しかし――どうだろう? そのトリック・スターのすり替えなど、実はどうでもいいことではあるまいか? この時、漠然とした「生」の勝者としての意識を持っていた龍之介が、この「彼」を書いた晩年の時点にあっては、まさに尾羽打ち枯らした、平塚以上に救い難い/救われ得ぬ――敗者――としての認識の中にあった以上(これは誰が何と言おうと私は譲るつもりはない)、私は決して龍之介は――自己に繋がる全人的な事実を――実は――少しも枉げてなどいないのだと――感ずるのである。……

「犬が二匹共犬ころしにころされたらしい かはいさうだ おやぢがふさぎきつてゐる」「おやぢ」は養父芥川道章で、どうも飼っていた犬が野犬扱いされて殺されたものらしい。犬嫌いの芥川にしては、この「かはいさうだ」は異例に見えるが、以下の後の二十九日の記事に「おやぢが犬のしんだのでしょげてゐる」というのを見ると、どうもこれは――犬が「かはいさう」――というのではなくて――「おやぢがふさぎきつてゐる」のが「かはいさうだ」――という意味と思われる。

F」塚本文。] 

 

○【1月29日】 久米から赤門雜誌の事をきく 成瀨久米とパウリスタヘゆく Art Monism Polygenism についてはなす 矢代をとふ 夜熱が少しあるやうだ おやぢが犬のしんだのでしよげてゐる

E flat by Chopin ――變ホ調

[やぶちゃん注:「赤門雜誌」不詳。一つの推測であるが、これは同年四月一日の創刊に動きつつあった『新思潮』のことではあるまいか? 『新思潮』という雑誌名を出さないのはやや不審ながら、ウィキの「新思潮」によれば、『新思潮の名は前任者の了解を取れば誰でも使用する事が出来た』とあることから、久米がそうした『新思潮』の復刊の方向で動いていたことをこれは指すのかもしれないとも思われるのだが。識者の御教授を乞う。

「パウリスタ」大正二(一九一三)年に銀座に開店した珈琲店で、現在、場所を変えて同じ銀座に現存する。同社の公式サイト「小説の中のパウリスタ」には、『カフェーパウリスタの真前が時事新報社でした。時事の主幹は文壇の大御所と言われた菊池寛です。その菊池に原稿をとどけるために芥川龍之介はパウリスタを待ち合せの場として利用しました。龍之介の小説の中によくパウリスタが登場するのはこの理由です』とあり(これは無論、この記載より後の事実に基づく)、また参考として全日本珈琲商工組合連合会「日本コーヒー史上巻」から、『カフェーパウリスタは横浜の西川楽器店から「自動ピアノ」を購入、五銭白銅貨を入れると好みの名曲が一』曲聞けるなどという趣向でコーヒーの客寄せをした、とある。岩波版新全集の「彼 第二」の注で、三島譲氏は『一九一一年一二月に京橋区南鍋町二丁目(現、中央区西銀座六丁目)開業、他のカッフェと異なって女給を置かず、直輸入のブラジルコーヒーを飲ませる店として名高く、文士の常連も多かった。店内には自動オルガンを備え、五銭の白銅貨を投入すると自動的に演奏した。「グラノフォン」(gramophone 英語)は蓄音機の商標名であるが、この自動オルガンを指していると思われる。』とも記しておられる。「彼 第二」のリンク先は私の電子テクストで、やはりマニアックな分析と注を附してある。御笑覧戴ければ幸いである。

Monism」一元論。平凡社「世界大百科事典」によれば、世界と人生との多様な現象をその側面乃至全体に関して、ただ一つの(ギリシア語のモノス“monos”)根源、即ち、原理乃至実在から統一的に解明し、説明しようとする立場をいう。単元論(singularism)とも呼ばれ、二つ及びそれ以上の原理乃至実在を認める二元論や多元論に対立する。哲学用語としては近世の成立で、ドイツの哲学者クリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff 一六七九年~一七五四年:ドイツ啓蒙主義を代表する哲学者・数学者。ライプニッツの哲学を継承して合理主義の哲学体系を演繹的に構成することを試み、その思想はカントへと引き継がれた)が初めて、唯一の種類の実体を想定する哲学者のことを一元論者と呼んだ。即ち、一切を、精神に還元するところの唯心論や、物質に還元する唯物論、精神と物質とをともにその現象形態とする第三者に還元する広義の同一哲学などは総て一元論に属する、とある。

Polygenism」多元発生論。前に「Monism」を並置しているから、多元論(pluralism)と同義で用いているようである。平凡社「世界大百科事典」によれば、原語は,複数形を意味するラテン語“pluralitas”をエリウゲナが用いたことに遡り得るが、哲学の用語としては前注に出した十八世紀のウォルフが観念論者を思惟する単独の自我のみを認める自我論者(Egoisten)と複数の思惟する存在者を認める多元論者(Pluralisten)とに分けたことに始まり、カントにも全く同じ用法があるという。今日では複数の実在によって世界乃至人生の全体又は部分、特にその変化・多様を顧慮して説明する立場を指し、二元論はその一種であって、ともに一元論に対立する、とある。

「矢代」美術史家・美術評論家の矢代幸雄(明治二三(一八九〇)年~昭和五〇(一九七五)年)。東京帝国大学英文科卒業(龍之介より一年上)。東京美術学校(現在の東京芸術大学)や第一高等学校で教職を務めた後、欧州へ留学、ボッティチェッリ研究を行い、その滞在中に川崎造船社長で美術収集家であった松方幸次郎のロンドン・パリでの絵画購入に同行、印象派や当時評価を高めつつあったポスト印象派の作品購入をアドヴァイスして「松方コレクション」(後に一部が国立西洋美術館の常設コレクションとなる)の形成に大きく貢献した。帰国後は東京美術学校教授、昭和一一(一九三六)年に美術研究所(現在の東京文化財研究所)所長に就任、戦後は大和文華館初代館長として活躍し、文化財保護委員会の委員を務めた。米のハーヴァード大学、スタンフォード大学でも教鞭を取っている(以上はウィキの「矢代幸雄」に拠った)。龍之介が後の「その頃の赤門生活」(初出は昭和二(一九二七)年二月二十一日付『帝國大學新聞』に、「その頃の赤門生活(二十七) 芥川龍之介氏記」のシリーズ記事見出しに、「眞夏の卒業式に冬服で汗みどろ」の題と「三十圓が拂へなくて除名處分を受けた頃」の副題を付して掲載)。の掉尾の「六」で、

   §

 僕は二年生か三年生かの時、矢代幸雄、久米正雄の二人と共にイギリス文學科の教授方針を攻撃したり、場所は一つ橋の學士會館なりしと覺ゆ。僕等は寡(くわ)を以て衆にあたり、大いに凱歌を奏したり。然れども久米は勝誇りたるため、忽ち心臓に異狀を呈し、本郷まで歩きて歸ること能はず。僕は矢代と共に久米を擔(かつ)ぎ、人跡絶えたる電車通りをやつと本郷の下宿へ歸れり。 (昭和二・二・一七)

   §

と記している中に登場する矢代幸雄である(リンク先は私の電子テクスト)。

E flat by Chopin ――變ホ調」恐らくは最も知られたショパンの変ホ長調の「夜想曲第二番作品9-2」(Nocturne No.2 E-flat major Op.9-2)と思われる。ピアノ曲好みの龍之介の嗜好が窺えるメモである。 

 

○【1月31日】 甲の前で乙をほめるのは甲が全くらをしらないか or 乙に感心してゐる時に限る 甲が乙を輕蔑してゐたら決して乙をほめない

目と烙印と

Fを思ふ

[やぶちゃん注:「甲の前で乙をほめるのは甲が全く乙らをしらないか or 乙に感心してゐる時に限る 甲が乙を輕蔑してゐたら決して乙をほめない」何の小説の素材か不詳。何かピンとこられるものがあった方は是非、御教授を乞うものである。

「目と烙印と」不詳。]



以上の記載についてはまだ言い足りていない部分が多過ぎる。……ここには実は芥川龍之介のホモ・セクシャリズムが強く働いている。……これは研究者の中では半ば知られたことではあろうが、それを正面切って語った『学術』論文はない。……また何れはこれ全体をリニューアル・リロードしたいと考えている。……

飯田蛇笏 靈芝 昭和五年(四十二句) Ⅰ

 昭和五年(四十二句)

 

年たつや旅笠かけて山の庵

 

山國の年端月なる竈火かな

 

[やぶちゃん注:「竈火」は「かまど」と訓じていよう。]

 

春愁や淨机の花の凭れば濃き

 

いちじるく岨根のつばき咲き初めぬ

 

[やぶちゃん注:「岨根」は「そね」で、険しい崖の下。]

 

紺靑の夜凉の空や百貨店

 

藥獵や八百重の雲の山蔽ふ

 

[やぶちゃん注:「薬獵」は「薬猟(くすりが)り」と読むのが正しいが「やくれふ」と音読みしていないという断定は出来ない。中七以下の圧倒的な訓読みから「くすりがり」で字余りである可能性もあるものの、「ヤくれふ」「ヤほへ」「ヤま」の頭韻も捨て難い。薬猟りとは、五月五日に鹿の若角や薬草を摘んだ日本古代の習俗で「日本書紀」推古十九年五月五日の条(西暦六一一年六月二十日相当)に見えるのを初見とする。この日は宇陀野(うだの:現在の奈良県宇陀郡大宇陀町の一帯。)に於いて薬猟が行われている。従った諸臣は髻華(うず:儀式の際に冠に挿す飾物。本邦の古来の頭髪に草花枝葉を挿した習慣が、中国の制に倣って冠の飾りとなったもので、推古帝の頃に定められて身分によって金・豹尾(ひょうのお)・鳥尾(とりのお)が、孝徳帝の時には金・銀・銅が用いられた。これが後に挿頭(かざし:神事や饗宴の際などに冠の巾子(こじ:冠の頂上後部に高く突き出ている部分・)にさす造花の飾り。)に変化した。)をつけた冠や冠色に従った服を着用していてこれが宮廷を上げての公式行事であったことが分かる。翌年には羽田(現在の奈良県高市郡高取町羽内(ほうち)付近)で、天智七(六六八)年には蒲生野(がもうの:現在の滋賀県近江八幡市から八日市市にかけての一帯)で薬猟が行われている(以上「薬猟り」については平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

 

香水や眼をほそうして古男

 

五色縷の垂もたれたり肘枕

 

[やぶちゃん注:「五色縷」「ごしきる」と読み。端午の節供に用いる飾物「薬玉(くすだま)」のこと。元来は中国から伝来した習俗で中国では続命縷(しょくめいる)・長命縷などと称し、五月五日にこれを男児の肘に懸けると邪気を払って悪疫を除き、寿命を伸ばすとして古くから用いられた。日本では当初はショウブとヨモギの葉などを編んで玉のように丸く拵えてこれに五色の糸を貫き、ショウブやヨモギなどの花をも挿し添えて飾りとした(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

 

納涼やつまみてむさき君の櫛

 

[やぶちゃん注:「むさき」は汚れてきたならしい・むさくるしい、心がきたない・卑しいの謂いであるが(他に酔って正気のないさまをもいう)、ここは妻が摘まんだその櫛が如何にもみすぼらしく、「納涼」でありながら、夏の暑さを倍加させる己れの甲斐性の無さへと照射される古びた櫛へのアップであろうか。]

若しも女を摑んだら   山之口貘

 

   若しも女を摑んだら

 

若しも女を摑んだら

丸ビルの屋上や煙突のてつぺんのやうな高い位置によぢのぼつて

大聲を張りあげたいのである

つかんだ

 

つかんだ 

 

つかんだあ と張りあげたいのである

摑んだ女がくたばるまで打ち振つて

街の橫づらめがけて投げつけたいのである

僕にも女が摑めるのであるといふ

たつたそれだけの

人並のことではあるのだが。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証し、注の「定本 山之口貘詩集」版の再現の改行の一部に誤りがあったことが判明したため、一部を訂正した。】初出未詳。

 バクさんの詩の中でも人気の一篇である。原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、

 

   若しも女を摑んだら

 

若しも女を摑んだら

丸ビルの屋上や煙突のてつぺんのやうな高い位置によぢのぼつて

大聲を張りあげたいのである

 

つかんだ

つかんだ

 

つかんだあ と張りあげたいのである

摑んだ女がくたばるまで打ち振つて

街の橫づらめがけて投げつけたいのである

僕にも女が摑めるのであるといふ

たつたそれだけの

人並のことではあるのだが。

 

と連構成が大きく変更されている。無論、四行目の「つかんだ」が初読時に叫び声として読者に響かない虞れがあるので、改稿の方が遙かによい。

【二〇二四年十一月二日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

敎會の處女   山之口貘

 

 敎會の處女

 

禁欲すると欲は胸に溜るのか

咽喉までいつぱい欲がつかへてゐるかのやう 

 

苦しさうな

マリアです 

 

けれども彼女は每日祈つてゐます

おめぐみによりましてなんとかかんとかと祈りつゞけてゐるのです

なんの祈りをあげてゐるのか

彼女のぐるりに立ちのぼる

噂々にきくところ

ある男とある女がある所であれだつた と言ふのです

むろんその女にをつとなんかあるもんですか と言ふのです

風に孕んだマリアをおもひつめては

 

風は彼女にだつて吹いて來るのです 

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一〇(一九三五)年一月発行の『日本詩』で、総標題を「天」として前の「天」・本詩、前の「生活の柄」・「妹におくる手紙」・「無題」の順で五篇を掲載している。後の昭和一三(一九三八)年八月二十五日附『日本読書新聞』に再掲された。

 

 旧全集校異では原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、一行目の「欲」が「慾」と改字されて、

 

禁慾すると慾は胸に溜るのか

 

とあるが、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では「欲」になっている。不審である。「欲」は「慾」の書き換え字であって正字・新字の関係ではないし、そもそも新全集は「定本 山之口貘詩集」を底本としているはずだからである。

【二〇二四年十一月二日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

 

春愁   山之口貘

 

   春 愁

 

小母さん

小母さんの小父さんは得なんですよ

朝は

小父さんのやうに僕も寢不足の眼をしてみたいんです

小父さんが小母さんにするやうなことをしてみたいんです

蛾のやうに

鈍重なはゞたきの音をたてゝみたいんです

小父さんの

小母さんよ

小母さんの

小父さんはなんといつてもそれは得なんですよ



[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。この注を追加した。】初出は昭和一〇(一九三五)年五月倍大号『羅曼』に総標題「動物園」で後に出る「動物園」と本詩と前の「座談」の三篇が掲載された。

【二〇二四年十一月二日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

現金   山之口貘

 

   現 金

 

誰かが

女といふものは馬鹿であると言ひ振らしてゐたのである。

そんな馬鹿なことはないのである

ぼくは大反對である

諸手を擧げて反對である

居候なんかしてゐてもそればかりは大反對である

だから

女よ

だから女よ

こつそりこつちへ𢌞はつておいで

ぼくの女房になつてはくれまいか。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】初出不詳。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、二箇所の句点が除去され、二行目が、

 

女といふものは馬鹿であると言いふらしてゐたのである

 

に、十行目が、

 

こつそりこつちへ𢌞つておいで

 

と改められてある。

【二〇二四年十一月二日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

端書   山之口貘

 

   端 書

 

むかし

私のこひびとだつたあなたに就て

あなたがあのひとと寢るのであるといふことに就て

私は今日もおもふのです

おもつただけでも暑さうだつたあの臺灣

いまではおもふほど

たまらなく暑さうに。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。ブログ・タイトルの誤字を訂正、注を一部追加した。】初出不詳。原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、最後の句点が除去され、二行目と三行目の二箇所の「就て」が「就いて」に改められてある。【二〇二四年十一月二日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

 

篠原鳳作句集 昭和八(一九三三)年七月



龍舌蘭(トンビヤン)すくすく聳てば島の夏

 

[やぶちゃん注:「龍舌蘭(トンビヤン)」これは完全な当て読みで、「トンビャン」とは元来はこの龍舌蘭(単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科リュウゼツラン亜科リュウゼツラン属 Agave の一種)から採取される繊維を用いて作った琉球の幻の織布の名称である。ネット上の記載では「桐板」と書いて「トンビャン」「トゥンビャン」「トンバン」と読んだのが発音の由来であるらしく思われ、中国から入った織物で琉球王朝時代には中・上流階級で愛好されていたが、二十世紀に入って技術が途絶えたとある。最も信頼のおける沖縄県立図書館の「貴重資料デジタル文庫」内にある琉球の染織に関する基礎知識には、

   《引用開始》

桐板は琉球王府時代から戦前まで用いられていた織物素材で中国から輸入されていた。 中・上流階級の間で使用され、繊維は非常に透明でハリがあり、ケバがほとんどなく撚りをかけずに織られるのが特徴で、独特のひんやりとした触感があり夏用素材として珍重された。 糸が撚りつぎで作られていることにも特徴がある。この東恩納寛惇文庫『琉球染織』資料には、桐板を使用した織物が多く収集されており、 桐板の利用状況を知る上で貴重な資料である。

染料には藍、ハチマチバナ(紅花)クール(紅露)、鬱金(ウコン)、テカチ(車輪梅)、グールー(サルトリイバラ)、楊梅、福木、ユウナ(オオハマボウ)、梔子、日本・海外との交易による蘇木、臙脂など主に植物染料を用いていた。

《引用終了》

とある。ところが、不思議なことにここには原繊維をリュウゼツランと同定する記載がない。ネット上をいろいろ調べてみると、この中国から輸入されたそれの繊維素材若しくは織布は実はリュウゼツランではなくて苧麻(ちょま:双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea )であった可能性もあるらしいが(しかし、琉球では織物の原繊維に苧麻も使われているから誤認や混同は不審である)、例えばこちらの沖縄の衣生活(戦前の昭和一六(一九四一)年田中薫調査時の記録よりとある)の「沖縄 着物の着方(ウシンチー) 1941年撮影 田中薫」のキャプションには(一部記号を変えた)、

   《引用開始》

典型的な琉装着物の前を合せ、ハカマ(下着)の堅く締めた紐に挟み込むだけで帯を用いない。この着方を「ウシンチー」と言う。着崩れなく着こなすことは現代の若者にはもう出来ない。着丈は短く、袖は広く短く袂がなくて「きもの」として最も通気性が高い。

 左の画像は夏の通常着であるが布地は経糸が「とんびゃん(桐板)」といって龍舌蘭の一種からとる繊維、緯糸は芭蕉の糸で織ったもの。汗をよくはじく。この写真では右前(右衽)に合せているが、古くは左前(左衽)に着た。1941年には左前が40%くらい見られた

   《引用終了》

とあってリュウゼツランを原繊維としていたことがはっきりと書かれている(「衽」は「おくみ」と読み、着物の左右の前身頃(まえみごろ)に縫いつけた襟から裾までの細長い半幅(はんはば)の布のこと)。

【「龍舌蘭(トンビヤン)」についての追記】その後、ミクシィの友達で、小生が「姐さん」と呼んで敬愛申し上げている、染色から織りまで手掛けていらっしゃるHN「からからこ」姐さんという女性の方に個人的にレスキューをお願いしたところ、先日、以下のような御消息を頂戴した(一部表現やリンクなどを加工させて戴いた)。

   *

多々良尊子「長田須磨が描いた明治時代の奄美の衣生活文化 -芭蕉布から木綿へ-」(PDFファイル)のP35に「桐板」についての記述があります。

   《引用開始》

注6:桐板(長田さんは,とゥンビャンと表している)は,沖縄で用いられた白く透き通った高級な夏用織物である。中国福建省から原糸が輸入されていたが,第二次世界大戦により途絶えたため「幻の織物」と言われている。一般には,竜舌蘭から採った繊維ではないかとされてきたが,近年,中国産の苧麻であるとの研究結果が報告されている。『わが奄美』では,桐板が奄美に残っていたことや,竜舌蘭の葉を灰汁で煮て葉脈から繊維を採ったという経験も述べられている。しかし,竜舌蘭の繊維は硬く,衣服ではなく網や綱として用いられたのではないかと思われる。

   《引用終了》

長田須磨(おさだ すま)さんは、明治三五(一九〇二)年生まれで、筆者の多々良尊子さんは現在、鹿児島県立短期大学生活科学科教授です。

 また、沖縄県立図書館の貴重資料から「桐板の繊維」も見てみました。

 琉球染織1-41(経糸:木綿 緯糸:桐板)

 琉球染織42(経糸:白は桐板・茶色は木綿 緯糸:芭蕉 絣糸:経・緯ともに木綿)

これでも[やぶちゃん注:リンク先には繊維の拡大写真があり、簡単な解説も附されている。]、分かるように木綿のガサガサとした、感じとは雲泥の差があり、非常に柔らかな感触が伝わってきます。透明感もあり、また、ふっくりとしていて空気をよく含むので、夏も涼しいというのも納得できます。庶民には到底手の届くような代物ではなかったのでしょうね。

 意外なのは、「一般財団法人 ボーケン品質評価機構」のサイト内の「繊維の基礎知識」のリネン亜麻・ラミー苧麻・ヘンプ大麻麻繊維についての記載に、『苧麻の代表的な欠点』として、『繊維が粗硬なので肌をチクチク刺激する』とあることで、上の沖縄県立図書館の資料写真からは一寸、想像できません。

 そこで今一度、沖縄県立図書館の貴重資料の琉球の染織に関する基礎知識の中の織りの項を見てみると、「桐板」は撚りつぎをして撚りをかけないとあります。で、苧麻は、普通撚りをかけて糸にするようです。したがって、糸に撚りをかけると木綿のようなよじりが見えるはずなのですが、沖縄県立図書館の貴重資料の写真「桐板」には全くと言っていいほど撚りが見られません。撚りのかかった苧麻の繊維写真があれば比較できるのですが今のところ、見つけることが出来ません。

 そこで、とりあえず、これらのことから考えられるのは、

◎中国・福建省から、輸入されていたのは

(1)苧麻は、苧麻でも、特別な苧麻で、撚りを掛ける必要のない苧麻だったのか?

(2)柔らかさを、そのままにするために苧麻にわざと撚りをかけなかったのか?

(3)苧麻だと思われて(言われて)いても苧麻ではない、別な繊維、まさに「桐板」と呼ばれるもの「そのもの」ではなかったのか? 

のいずれかではないか? ということです。

 参考までに、この沖縄県立図書館の貴重資料を幾つか並べてみると、違いがよく分かります。

 まず、こちらでは木綿の繊維の流れが良く分かります。桐板と比較して、撚りがかかっているのが良く見え、硬い感じですね。以下、比較してみましょう。

 木綿・木綿

 桐板・桐板

 苧麻・苧麻

 木綿・木綿

 絹・絹

 絹・

 やはり、桐板は、撚りがかかっていない(よじりがない)。特に最後の「絹・桐板」は絹も桐板も撚りがほとんど見られず、また木綿や苧麻などのような、硬さというか、がさつきが感じられませんね。

 そこで、もう一度、琉球の染織に関する基礎知識をゆっくり読み直してみると、「沖縄の染め 紅型」の「工程」のなかに、『布地は木綿、苧麻、芭蕉、絹、桐板(トンビャン)などが身分、用途によって……』とあります。

 これを、どのように解釈すればよいのか?

 「桐板」というのは苧麻以外の糸なのか、どうなのか?

 1931年に満州事変が起きて以来、972年の日中国交回復まで、戦前、一時的な国交回復はあったとはいえ、それ以前のような交易はなかったでしょう。また、1972年以降についても、福建省との交易によって「桐板」が、また輸入されるようになっているのかどうか?……ネットで文献を探すだけでは、限界があるようですね。

 仮に福建省から輸入されているとして、「桐板」というのは、過去の名称では使われていない、現代では『別な名前』になってるのか? 既に福建省では、日本への輸出が止まって以来、栽培もされなくなっているのか?……ゆえに……幻の糸と言われる?……現地の、輸入業者や組合・織り手さんなどに尋ねないと分からないのかな?……

 以上、取り敢えずここまで……。繊維に関しては、私は全くの素人で、ネットで分かる範囲の資料をあれこれ比べ、想像した限りです。まだまだ、探し切れていないのだと思います。知り合いに尋ねてはみますが、その程度で、これ以上先に進めるかどうか……どうぞ、悪しからずご了解くださいませ。

   *

 以上のメールに対する、私の返信文を次に引用しておく。

   *

 姐さん、本当にありがとう御座います。大変なお手数をお掛けしてしまい、誠に恐縮致しております。

 沖縄県立図書館のデジタル文庫は御指摘戴いた細かな資料まで見ておらず、驚きでした。特に織ったものの拡大写真は「幻」でないトンビャンのリアルな(しかし元は何かは分からない)実像を伝えて、とても感動しました。

 これらの標本のトンビャンとされるものを、それぞれ微量にサンプリングして定量分析をすれば、そのものの元が何なのか恐らくはっきりすることが出来るとは思われますが、どうも姐さんのおっしゃるように、それらは一種類ではなく、中国産苧麻や龍舌蘭かも知れず、全くの未知の別種の何かが元なのかも知れないという気もしてきます。

 そこで思ったのは、特別で複雑な手間と見た目でも原材料が幻的存在であれば(若しくはそう見えるようなものであれば)、それだけ織布の神聖性や高級性は強く保持されますから、これは謂わば、曖昧で幻のままにしておくことがよかったのかも知れないですね……などと考えているうち――定量分析やDNA分析なんぞを夢想していた小生は……これ如何にも無粋という気がしてきました。(後略)

   *

 「からからこ」姐さんには、何度、感謝申し上げても、し切れぬほどに感激している。改めて、この場を借りて深く御礼申し上げるものである。

……今……トンビャンと姐さんが……私を……遙かな美しき琉球織りの歴史の幻影の中に誘ってくれている……]

「聳てば」は普通なら「そばだてば」であるが、如何にも音数律が悪い。「たてば」と訓じているものと思われる。]

 

龍舌蘭(トンビヤン)の花刈るなかれ御墓守

 

笛吹けるおとがひほそき雛かな

 

蛇皮線に夜やり日やりのはだかかな

 

[やぶちゃん注:「夜やり日やり」夜遣日遣。計画や予定など立てずに勝手気まま間に進んでゆく、進行させることをいうと小学館「日本国語大辞典」にある。]

 

龍舌蘭(トンビヤン)の花のそびゆる城址かな

[やぶちゃん注:前田霧人氏の「鳳作の季節」(沖積舎平成一八(二〇〇六)年刊。リンク先はPDFファイルの全文)に、この当時(昭和七(一九三二)年の夏休み明けに移転)いた日の丸旅館について、教え子喜納虹人氏の「雲彦と宮古島」(『傘火』昭和一二(一九三七)年四月号)にある『この旅館は坐して、肺まで徹(とお)る紺の海が見え、数十歩すれば先生が常に愛していた竜舌蘭が生えている岬に行かれた。先生の室は小じんまりした六畳で南向きの机の上には硯箱、本、雑誌、ハサミ、鏡、電気スタンド等其他が雑然として、机の下には何時でも菓子箱が二つ三つころがっていた。押入れには本がつめてあった。夜、この室に居れば、浪の音が聞えかもめが時折なき、夜釣のポッポ船などがひびくだけでひっそりしていた。先生はこの室でこそ颱風の響をきき伝統の不合理に一矢を放ち、蒼穹へ蒼穹へと手をのばして行った。(略)先生はそのかわりよく勉強された。私が行くと何時も机の前で書き物か読書かして居られた。鹿児島新聞に載せた文は切り抜いて、スクラップブックにはってあった。文章を書かれると原稿を見せて『何処が悪いか云って呉れ』と相談された。私も率直に思うままをのべると喜んでおられた』という思い出を引用された後、『この「坐して肺まで徹る紺の海が見える」部屋で、彼の代表作「しんしんと肺碧きまで海のたび」が密かに宿されたのであろうか。また、「竜舌蘭が生えている岬」は旅館から直ぐ北に続いているポー岬で、波打ち際、竜舌蘭、細い道、お墓の列、そして丘の上の家という散歩道になっている』と記しておられ、まさにこれらの句がその光景と一致することが分かる。鳳作の薫陶を受けて俳句や短歌の道に進んだという喜納氏の文章は非常に印象的であるが、哀しいかな、前田氏によれば彼は後に中国大陸で戦死した。

 

龍舌蘭の花に旱のつづきけり

 

   歸省近し

大隈に湧く夏雲ぞ目に戀し

 

[やぶちゃん注:以上七句は七月の発表句。

 なお、この昭和八(一九三二)年七月の『天の川』に鳳作は、「句作自戒」という以下の頗る印象的な文章を発表している(底本からやはり恣意的に正字化して示す。改行もママ)。

   *

 

   句作自戒

一、生の愛しさに徹せよ

  過去三年の句作は小生に生命のか

  なしさを教へてくれました。今後

  共、生の愛しさに徹する事を句作

  の第一義にしたいと思ひます。

一、生活感情の心髓をとらへよ。

  いたづらに新奇な材料を探しまは

  る事なく、力強い生活感情に裏づ

  けられた現象を句にしたい、歌ひ

  あげたいと思ひます。

一、雲彦の出てゐる句をつくれ、

  一句々々をさながらに、血の通つ

  てゐる自己の分身たらしめたいと

  思ひます。

 

   *

 まさに禅の趣きさえ持った自己拘束である。

白い 路   八木重吉



白い 路

まつすぐな 杉

わたしが のぼる、

いつまでも のぼりたいなあ

橋本多佳子句集「信濃」 信濃抄二 (Ⅶ) 信濃抄二 / 昭和十六年 了



さびしさを日々のいのちぞ雁わたる

 

鷄頭の花のみ視野にしてひさし

 

睡られぬ月明き夜のつづくなる

橋本多佳子句集「信濃」 信濃抄二 (Ⅵ) 

  夫の忌に

月光に一つの椅子を置きかふる

 

いわし雲忌日きのふに過ぎゆける

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、夫豊次郎昭和一二(一九三七)年九月三十日に享年五十歳で逝去しているから、この年は死後四年目に当たる。多佳子四十二歳。年譜から夫の祥月命日もこの野尻湖畔で過ごしていたことが分かる。]

橋本多佳子句集「信濃」 信濃抄二 (Ⅴ) 秋の蝶きりぎしのもといそぎつつ


秋の蝶きりぎしのもといそぎつつ

橋本多佳子句集「信濃」 信濃抄二 (Ⅳ) 虹消えて荒磯に鐡路殘りたる



  北陸線親不知邊り

虹消えて荒磯に鐡路殘りたる

 

[やぶちゃん注:私は列車で何度もここを往復したものだった。――夜行急行列車のドアを開けて闇夜に浮かぶ親不知子不知の空気を知る者だけが――この匂いを――嗅ぎ分ける――]

杉田久女句集 115 あてもなく子探し歩く芒かな



あてもなく子探し歩く芒かな


[やぶちゃん注:私偏愛の句である。]

杉田久女句集 114 摘み摘みて隱元いまは竹の先



摘み摘みて隱元いまは竹の先

 

[やぶちゃん注:「摘み摘み」の後半は底本では踊り字「〱」。]

杉田久女句集 113 朝顏や濁り初めたる市の空


朝顏や濁り初めたる市の空

2014/03/09

妻の姪夫婦と江の島

名古屋の妻の姪の若夫婦がディズニーランドへ来た序でに訪ねてきた――江の島に連れて行き食った店は奇しくもモースが臨海実験所を設けた場所にあった――14年振りにチンケな岩屋にも案内して潜った――やっぱり噴飯チンケだった――帰りの稚児が淵の登りの最後で流石に年を感じた――未だ若い姪とその夫やすれ違う若いカップルに37年前の二十の時にここを歩いた日の僕と恋人の映像を知らず知らずのうちに重ねていた……

2014/03/08

杉田久女句集 112 大輪の藍朝顏やしぼり咲き


大輪の藍朝顏やしぼり咲き

杉田久女句集 111 降り足らぬ砂地の雨や鳳仙花


降り足らぬ砂地の雨や鳳仙花

杉田久女句集 110 花散りて甕太りゆく柘榴かな



花散りて甕太りゆく柘榴かな

 

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年二十九の時の作。この句、何か慄っとする妖しさがある。]

杉田久女句集 109 鯊煮るや夜寒灯にありし子等は寢て

鯊煮るや夜寒灯にありし子等は寢て

耳嚢 巻之八 逍遙卿和歌堪能の事

 逍遙卿和歌堪能の事

 

 ある公卿衆御會(おんかい)の時、山家鳥(やまがのとり)といふ題にて、

  暮近み松吹嵐鳥の聲都にかわる山のおくかな

 逍遙院御覽ありて、此歌は心くだけるとて御直し、

  暮近み松の嵐も鳥の音も都にかわる山の奥かな

 然(しかれ)ども松吹嵐鳥の聲と詠みたく思はゞ、下の句を都にも似ぬ山の奧哉、とありたし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前の禅話の最後で『和歌など、題に執着して此病ひ多くあり』とあったのを受けて、そうした題詠の失策の例を挙げて直連関しているのはなかなかに上手いジョイントである。

・「逍遙卿」三条西実隆(さんじょうにしさねたか 享徳四(一四五五)年~天文六(一五三七)年)の号。室町から戦国期の公卿で和学者。内大臣三条西公保(きんやす)次男。応仁元(一四六七)年の応仁の乱の発生に伴い、鞍馬寺へ疎開(乱によって三条西邸は焼失)、文明元(一四六九)年に元服、永正三(一五〇六)年には内大臣となり、後土御門天皇・後柏原天皇・後奈良天皇の三代に亙って仕えたが、後土御門天皇の寵妃や後柏原天皇女御で後奈良天皇生母の勧修寺藤子は義姉妹に当たり、天皇家とは深い縁戚関係にあった。永正一三(一五一六)年に出家(浄土宗)している。飛鳥井雅親(あすかいまさちか)に和歌を学び、宗祇から古今伝授を受け、一条兼良(かねよし)からは古典学を受けるなど、中世和学の興隆に尽くした人物であった。家集に「雪玉集」、日記に「実隆公記」。源氏物語に関しては系図として革新的な「実隆本源氏物語系図」も作っている。

 花も木もみどりに霞む庭の面(も)にむらむら白き有明の月 (「雪玉集」)

以上は講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「三条西実隆」をカップリングして示した。

・「堪能」これは本来、「かんのう」と読み、元来は仏語で、よく堪え忍ぶ能力、転じて深くその道に通じていること、また、そうした人を指す。我々が現在、これを「たんのう」と読んでいるのは誤った慣用表現で、こちらは「足(た)んぬ」が音変化したものに「堪能」の字を当ててしまったことによる誤用である。しかも「たんのう」が正しい意味であるところの、十分に満足すること・気が済むこと・納得することの謂い以外に正しい「堪能(かんのう)」の意味と混同されて、やはり技芸・学問などに優れているさまに用いられるようになってしまったために、非常に始末のつかない状態になってしまったというのが真相である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも正しく「かんのう」とルビを振るので、ここでもそう読むこととする。

・「暮近み松吹嵐鳥の聲都にかわる山のおくかな」「かわる」はママ。「くれちかみまつふくあらしとりのこへみやこにかわるやまのくかな」と読むことになるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 庵近み松吹嵐鳥の聲都にかわる山の奥かな

となっていて、これだと「いほちかみまつふくあらしとりのこへみやこにかはるやまのくかな」である。後者の「庵近み」方が私は和歌的であり自然な感じがする。

・「心くだける」「くだく」は他動詞カ行四段活用と思われ、「心」と合わせて用いられ、歌題に拘り過ぎて、あれやこれやと思い悩み過ぎてしまったという謂いで採りたい。

・「暮近み松の嵐も鳥の音も都にかわる山の奥かな」「かわる」はやはりママ。「くれちかみまつふくあらしもとりのねもみやこにかわるやまのくかな」と読む。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、無論、

 庵近み松の嵐も鳥の音も都にかはる山の奥かな

とある。

・「下の句を都にも似ぬ山の奧哉」再現してみよう。

 暮近み松吹嵐鳥の聲都にも似ぬ山の奧哉

序でに、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に合わせるなら、

 庵近み松の嵐も鳥の聲も都にも似ぬ山の奧哉

となる。「似ぬ」という断固として謂い切った感じが寂寥の深山を伝えて、よく歌を引き締めてはいる。しかしこれは和歌嫌いの私には係助詞の「も」が重なって如何にも五月蠅く、今一つという気がする。

・「とありたし」底本では右に『(尊經閣本「たるべしと可申)』と傍注する。「可申」は「(まうすべし」。因みに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 然れ共松吹嵐鳥の聲と詠み度思はゞ、下の句を都にも似ぬ山の奧かな。

で終わっている。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 逍遙卿の和歌に堪能(かんのう)なる事

 

 ある公卿衆、和歌吟詠の御会(おんかい)の時、「山家鳥(やまがのとり)」という題にて、

  暮近み松吹嵐鳥の声都にかわる山のおくかな

と詠ぜられた。

 と、逍遙院三条西実隆殿、この和歌をご覧になられ、

「――この歌――出だされし題に、あれこれと思い悩み過ぎてしまわれておじゃる。――」

とてお直しになられ、

  暮近み松の嵐も鳥の音も都にかわる山の奥かな

となさったと申す。そうして、

「――然れども――もし、どうしても『松吹嵐鳥の声』と詠みたく思われるのでおじゃるならば――そうさ――下の句を『都にも似ぬ山の奧哉』となさるれば、よう、おじゃる。」

と仰せられたとか申す。

飯田蛇笏 靈芝 昭和四年(三十七句)

 昭和四年(三十七句)

 

苑の端の木立おもてや初霞

 

慾無しといはるゝ君や春袋

 

[やぶちゃん注:「春袋」は「はるぶくろ」と読み、女児が新年に縫い初めに作る袋。平安以降の風習で、「春」に袋が「張る」ほど一杯に幸せを詰めて縫うという縁起をかついでいるという。嘉永元(一八四八)年板行の「季寄新題集」には『巾着財布の類を祝ふて縫ふことなり』とあるので縫った袋は元来は財布であったと思われ、ここでもそれらしい雰囲気がする。新年の季語。]

 

花がるた夜々のおもゝち愁ひあり

 

肅として閨中の灯や花がるた

 

早春の日のとろとろと水瀨かな

 

[やぶちゃん注:「とろとろ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

春立つや山びこなごむ峽つゞき

 

溪橋に見いでし杣も二月かな

 

春さむき月の宿りや山境ひ

 

行くほどにかげろふ深き山路かな

 

巖苔もうるほふほどの雪間かな

 

ほど遠く深山風きく雪解かな

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では「山庵即事」という前書を持つ。]

 

天氣よき水田の畔を燒きはじむ

 

撃ちとつて艶なやましき雉子かな

 

雨降るや鮠ひるがへる池の底

 

春蘭の花とりすつる雲の中

 

後架にも竹の葉降りて薄暑かな

 

露涼し鎌にかけたる葛の蔓

 

空蟬をとらんと落す泉かな

 

首なげて帰省子弱はる日中かな

 

夏帽に眼の黑耀や戀敵

 

[やぶちゃん注:「黑耀」は「こくえう(こくよう)」と音読みしているか。黒光り。面白い句である。]

 

おもざしのほのかに燈籠流しけり

 

雲ふかく結夏の花の供養かな

 

[やぶちゃん注:「結夏」は「けつげ」と読み、安居(あんご)開始又はその開始日をいう。安居は元来はインドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにや。寺院)の内に籠って座禅修学することを言った。安居は別に雨安居(うあんご)・夏安居(げあんご)ともいい、本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。安居の開始を結夏、終了を解夏(げげ)というが、解夏の日は多くの供養が行われて僧侶は満腹するまで食べることが出来る。(平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした)。]

 

水向や貧一燈につかまつる

 

[やぶちゃん注:「水向」は「みづむけ(みずむけ)」で広義には一般に霊前に水を手向けることをいうが、狭義の季語としては御魂祭・祖霊祭・精霊を祀る盆の異名。]

 

墓に木を植ゑたる夢も初秋かな

 

秋風や水薬をもる目分量

 

秋霖や蕨かたむく岨の石

 

[やぶちゃん注:「岨」は「そは(そわ)」又は「そば」と読む。「稜(そば)」と同語源で古くは「そは」と読む。山の切り立った険しい崖や絶壁などをいう。]

 

高西風に秋闌けぬれば鳴る瀨かな

 

秋の繭しろじろ枯れてもがれけり

 

[やぶちゃん注:「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

送行の雨又雲や西東

 

[やぶちゃん注:「送行」は唐音で「そうあん」と読む。先に注した夏安居が終わって(解夏(げげ)、修行僧が各地に行脚のために別れ行くことをいう。秋の季語。]

 

雲霧や嶽の古道柿熟す

 

杣山や高みの栗に雲かゝる

 

寒風呂に上機嫌なる父子かな

 

冬霞む鳶の鳴くなり五百重山

 

[やぶちゃん注:「五百重山」は「いほへやま」と読む、万葉以来の上代語。重なり聳え立っている山々の意。]

 

冬雲や峯木の鴉啞々と鳴く

 

[やぶちゃん注:「峰木」には「山廬集」では「オネギ」とルビを振る。]

 

寂として座のあたゝまる火鉢かな

 

野鶲のすこし仰向く風情かな

 

[やぶちゃん注:「鶲」既注。「ひたき」と読む。スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科ヒタキ科 Muscicapidae に属する鳥類の総称。]

 

  永井ノ偸伽寺

小雪や古り枝垂れたる糸櫻

 

[やぶちゃん注:「永井ノ偸伽寺」フェイスブックの知人が、これは山梨県笛吹市八代町永井にある臨済宗向嶽寺派の無碍山瑜伽寺(ゆかじ)であると情報を寄せて呉れた。]

芥川龍之介手帳 1-3

〇【1月18日】 久米土屋來る 大龍寺へゆく 夕日 夜ベルリオをよむ 興奮する

[やぶちゃん注:「久米」久米正雄。

「土屋」土屋文明であろう。

「大龍寺」現在の東京都北区田端にある真言宗霊雲寺派の大龍寺であろう。豊島八十八ヶ所霊場二十一番札所。古くは不動院浄仙寺と号し、慶長年間(一五九六年~一六一五年)の創建で天明年間(一七八一年~一七八九年)に観鏡光顕が中興して大龍寺と改称した。別名、子規寺とも呼ばれ、俳人正岡子規の墓がある。

「ベルリオ」「幻想交響曲」で知られるフランス・ロマン派の作曲家ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz 一八〇三年~一八六九年)か。ウィキの「エクトル・ベルリオーズ」によれば、『ベルリオーズは作曲家として最も有名である半面、多作な著作家でもあり、長年にわたって音楽評論を執筆して生計を立てていた。大胆で力強い文体により、時に独断的かつ諷刺的な文調で、執筆を続けた。『オーケストラのある夜会』(1852年)は、19世紀フランスの地方の音楽界をあてこすりつつ酷評したものである。ベルリオーズの『回想録』(1870年)は、ロマン派音楽の時代の姿を、時代の権化の目を通して、尊大に描き出したものである。『音楽のグロテスク』(1859年)はオーケストラ夜話の続編として出版された』。『教育的な著作である『管弦楽法』(Grand Traité d'Instrumentation et d'Orchestration Modernes, 1844年、1855年補訂)によって、ベルリオーズは管弦楽法の巨匠として後世に多大な影響を与えた。この理論書はマーラーやリヒャルト・シュトラウスによって詳細に研究され、リムスキー=コルサコフによって自身の『管弦楽法原理』の補強に利用された。リムスキー=コルサコフは修業時代に、ベルリオーズがロシア楽旅で指揮したモスクワやサンクトペテルブルクの音楽会に通い詰めていた。ノーマン・レブレヒトは』、『「ベルリオーズが訪問するまで、ロシア音楽というものは存在しなかった。ロシア音楽という分野を鼓吹したパラダイムは、ベルリオーズにあった。チャイコフスキーは、洋菓子店に踏み込むように『幻想交響曲』に入り浸って、自作の交響曲第3番を創り出した。ムソルグスキーは死の床にベルリオーズの論文を置いていた」』と述べているとある。龍之介が彼の著作を読んだとする研究記載はないが、ベートーベンやワグナーに人間的関心を持ち、相応にクラシックへの興味を持っていた龍之介にして(「あの頃の自分の事」に『その頃自分は、我々の中で一番音樂通だつた』と述べている。但し、続けて『と云ふのは自分が一番音樂通だつた程、それ程我々は音樂に緣が遠い人間だつたのである』とも述べてはいる)、強ち奇妙な取り合わせとは言えないように思われる。但し、もし龍之介が読んだとすれば、ベルリオーズの英訳か彼についての伝記であったものかとは思われる。]

 

○【1月19日】 Fの事を考へる Egoism of the unhappy ――夕方月の下で犬が二匹ねてゐるのを見る

artist の病に三つある (i)いいゝものの模倣 (ii)時代にのる事 (iii)人の惡作に對して安心する事 それ以上は病でない artist にとつてである

[やぶちゃん注:「F」後の彼の妻となる塚本文であろう。親友山本喜誉司の姪。]

 

○【1月20日】 「鼻」をかき上げる 久米と成瀨と夜おそく Café Lion ではなす かへりにCの事を考へる かはいさうになる

[やぶちゃん注:『「鼻」をかき上げる』「鼻」の脱稿は現在、大正五(一九一六)年一月二十日に同定されているが、その根拠はこの記載に基づく。「鼻」を載せた第四次『新思潮』創刊号の発刊は翌二月十五日で、その四日後の二月十九日土曜日には知られた夏目漱石から「鼻」を激賞する書簡を受け取っている。因みに、この同時期(二月中旬)には伯母フキや叔母新原フユ(やはり芥川の実母の妹で実父の後妻)に塚本文を会わせて二人が好印象を持ったことから、彼女との結婚の意志を固めた(結婚は二年後の大正七(一九一八)年二月二日。新全集の宮坂覺氏の年譜に拠る)。

「成瀨」成瀬正一。

Café Lion」カフェー・ライオンは明治四四(一九一一)年に開業した銀座を代表する飲食店。尾張町交差点の角(現在のサッポロ銀座ビル)で開業、三階建新築で、一階が酒場、二階が余興場になっていた。参照したウィキの「カフェー・ライオン」によれば、明治四十四年は『日本初のカフェ』とされるカフェー・プランタンの三月開業に続き、この八月のカフェー・ライオン、やはりしばしば芥川が訪れたカフェー・パウリスタ(十二月開業)とカフェーを冠する店が銀座に相次いで開店した年であった。パウリスタはコーヒー中心だったが、ライオンは料理や酒がメインであった。『築地精養軒の経営であり、規模が大きく、一般客にも入りやすかったとい』い、『美人女給が揃いの衣裳(和服にエプロン)でサービスすることで知られたが、当時は女給が客席に同席することはなかった』。『ビールが一定量売れると、ライオン像が吠える仕掛けになっていた。また、グランドホテル(横浜)出身の名バーテンダー・浜田晶吾がおり、「ライオンの宝」とも評された』とある。

「C」不詳。

 なお、底本ではこの後に『1月21日分破損』という編者注がある。]

 

○【1月22日】 成瀨へトルストイを送る □七枚 夜 Berson (Miss) & Ore (Mr) cocert へゆく Ginza Café で宮島の死んだ話をきく 死と Kunst と―― Nur Kraft ist der Kern der Kunst

[やぶちゃん注:「Berson (Miss) & Ore (Mr)」不詳。

Ginza Café」先の「Café Lion」と差異化して書いている点、「Ginza」と冠している点からは『日本初のカフェ』とされるカフェー・プランタン(現在の東京都中央区銀座八丁目の銀座会館付近)か。ウィキの「カフェー・プランタン」によれば、『相談役の小山内薫が「プランタン」(フランス語で春の意)と命名』、『珈琲と洋酒を揃え、料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューを出し』ていたとあり、また、『素人が始めた店であり不安もあったため、当初は会費50銭で維持会員を募り、2階の部屋を会員専用にしていた。会員には洋画家の黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、岸田劉生、作家の森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、岡本綺堂、北原白秋、島村抱月、歌舞伎役者の市川左團次ら当時の文化人が多数名を連ねた』。『もっとも、会員制は半年ほどで自然消滅した』とある。『常連の客が店の白い壁に似顔絵や詩などを落書きし、これが店の名物になっていた。永井荷風が当時入れあげていた新橋芸妓・八重次と通ったのもこの店で、荷風の『断腸亭日乗』にもしばしば名前が登場する』。『フランスのカフェにはいない「女給仕」(ウェイトレス)が人気を博したが、カフェー・ライオンなどに比べ、カフェー・プランタンは文学者や芸術家らの集まる店であり、普通の人には入りにくい店であったという』とある。

「宮島」不詳。この会話の相手が成瀬だとすれば、一高時代の二人の知人か。続く文から芸術家志望であったか。

Kunst」ドイツ語で「芸術」。

Nur Kraft ist der Kern der Kunst」「自然力(体力・勢力)のみが芸術の核心(本質)である」といった謂いか。仮に宮島某が病い(例えば結核)に斃れて夭折したとするならば、何となく腑に落ちないことはない。この直後の記載(一月二十七日の欄)にも友人平塚逸郎の結核入院の記事が載り、翌日には平塚を見舞っている(後述)。また翻って別な側面から見るならば、後に掲げる山本喜誉司宛書簡の中の、『僕は時々人生を貫流し藝術を貫流する力の前に立つ事がある』という表現からは、一種の芸術家の中のミューズの霊感の奔流のようなものをも想起出来る。]

 

〇【1月23日】 畔柳先生の所へゆく それから八田先生へゆく留守 Voltaire を買ふ 山本へ手紙を出す Fを思ふ Tod の問題が頭へこびりついてゐるらしい 何を見ても Tod ばかり考へる

[やぶちゃん注:「畔柳先生」英語学者で文芸評論家でもあった畔柳都太郎(くろやなぎくにたろう 明治四(一八七一)年~大正一二(一九二三)年)。山形生まれ。仙台二高を経て東京帝国大学に入学、同大学院在学中に『帝国文学』に執筆、以後、『太陽』『火柱』『明星』にも文芸評論を寄稿した。明治三一(一八九八)年より一高英語担当教授となり、龍之介は教え子。その間、早稲田・青山学院・正則学校でも教えた。明治四十一年からは「大英和辞典」編纂に心血を注いだが、完成前に病没した(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「八田先生」龍之介府立三中時代の校長八田三喜(はったみき 明治六(一八七三)年~昭和三七(一九六二)年)。石川県金沢出身。第四高等中学校本科二部理科卒業後、東京帝国大学理科大学数学科に入学するも、自らの能力に限界を感じ、同大学文科大学哲学科に再入学、明治三一(一八九八)年に卒業、同年より新潟県佐渡中学校(現在の県立佐渡高校)校長に着任。同校校長時代には国家と社会が共に進歩してゆく必要があるとする社会共棲論を説き、北一輝の国家社会主義思想形成に影響を与えた一人ともされている。明治三四(一九〇一)年、東京府第三中学校(後の府立三中/現在の都立両国高校)の校長に就任、府立一中や四中が上級学校への受験を一義としていたのに対し、八田は厳格なる指導を本分としながらも、生徒の自主自律精神を高める教育を実践、学友会を組織し、生徒の不祥事に対しては父兄と相談しつつ、罰を課するよりも直接に行を正すという方針をとった。忠君愛国教育の実施や教諭による体罰も日常的に課すなどのスパルタ教育も見られたが、同時にまた自由との共存をも図るという、この頃の明治人の共通項が窺える教育者であった。府立三中の校風の基礎を築き、同校校長を十八年間続けた後、大正八(一九一九)年に旧制新潟高等学校初代校長となり、『自由・進取・信愛』をモットーに学校発展に尽力した(以上は主にウィキの「八田三喜」に拠った)。龍之介は死の年の五月、改造社の円本全集宣伝講演のための東北・北海道旅行からの帰途、単身、新潟高等学校で「ポオの一面」と題した講演を行っているがこれはこの恩師八田三喜の依頼によるものであった。

「山本へ手紙を出す」「山本」は府立三中時代の友人で塚本文の叔父であった山本喜誉司のこと。この一月二十三日附書簡は旧全集書簡番号一九六として残る。以下に全文を示す。

   §

r..

僕のうちでは時々文子さんの噂が出る 僕が貰ふと丁度いゝと云ふのである 僕は全然とり合はない何時でもいゝ加減な冗談にしてしまふ 始めはほんとうにとり合はないでゐられた 今はさうではない 僕は文子さんに可成の興味と愛とを持つ事が出來る しかし僕は今でも冗談のやうにしてゐる 今でもごま化して取合はない風をしてゐる 何故かと云ふと僕は或豫感がある そして僕の Vanity は此豫感を利用して僕にお前の感情を露すなと云ふ 其豫感と云ふのは文子さんを貰ふ事は不可能だと云ふ豫感である 第一文子さんが不承知それから君の姉さんが不承知それから君が不承知それから色んな人が皆不承知と云ふ豫感である 豫感の外にまだある それはよしこの豫感が中らなくつても僕の良心がゆるさないかもしれないと云ふ事である まして少しでも豫感が中れば猶良心が許さないと云ふ事である 僕は自分の幸福の爲に他人の――殊に自分の愛する他人の幸福を害したくないと思つてゐる

だから僕の想像に從ふと何年かの後に文子さんの結婚を君と一しよに祝する時が來るだらうと思ふ そして事によつたらその人が僕の友だちで僕は其爲に嫉妬を感じる事があるだらうと思ふ しかし僕の感情は君を除いて誰も知らないだらうと思ふ 僕は又それに滿足してゐる ロマンチックな性情は自分の不幸さへ翫賞する傾がある 僕はさびしい中にも或滿足を以て微笑を洩し得る餘裕のある事を確信する僕は文子さんの話が出ると冗談にしてしまふ 此後もさうするだらう そして僕のうちの者が君の所へ何とか云つてゆくのを出來得る限り阻止するだらう 或は其後に思ひもよらない所から思ひもよらない豚のやうな女を貰つて一生をカリカチュアにして哂つてしまふかもしれない しかし僕の感情は君の外に誰も知つてはならないのである 君も亦恐らくは誰にも知らせはしないだらうと思ふ 誰もそれを知らない限り僕は安んじて君のおばあさんにも君の姉さんにも話しが出來る 知られたらもう二度とは行かないだらう

僕は時々人生を貫流し藝術を貫流する力の前に立つ事がある(立つたと思ふとすぐ又その力を見失つてしまふが)そして其力を見失つた瞬間に僕は僕の周圍にある大きな暗黑と寂寥とに畏怖の念を禁ずる事が出來ない 僕が僕以外の人間の愛を欲するのはかう云ふ時である 其時僕は個性の障壁にすべてと絶緣された僕自身を見る 悠久なる時の流の上に恒河砂の一粒よりも小なる僕自身を見る 僕はかう云ふ時心から愛を求める そして又かう云ふ時が僕には度度ある 僕はさびしい しかし僕は立つてゐる者の歩まなくてはならないのを知つてゐる たとへそれが薔薇の路でも涙の谷でも一樣に歩まなければならないのを知つてゐる だから僕は歩む 歩んでそして死ぬ 僕はさびしい

   §

文中の「Vanity」は虚栄心・自惚れの意。

「F」塚本文。

Tod」ドイツ語で「死」。]

 

○【1月24日】 小説をかく Cを思ふ さびしくなる

[やぶちゃん注:「小説」不詳。参考までに直近に発表する小説では、同年四月一日『新思潮』二号に発表した、養母トモから聴いた大伯父で幕末の大通であった細木香以をモデルとする「孤独地獄」がある。

「C」前出であるが不詳。]

座談  山之口貘

 

   座 談

 

   1

 

ある晩

否え每晩

その娘が

むかふにゐる男を好いてゐさうな目つきをするので

私はうすぼんやりしてゐるのです 

 

   2

 

むかふの男は俳優ださうです

こちらの私は詩人ださうです

どちらが娘を愛してゐるか

詩人の私であるといふより外はないのです

 

俳優は長居してゐるのでみつともないのです

考へてみると詩人も長居してゐるのです

どちらが娘を愛し得るかといふことになつたら

私は馳け出して

娘の首すぢを摑んでひつたぐるつもりでゐるのです 

 

   3 

 

娘は左の目蓋に小さなイボがある

お湯の歸りに ふとそのイボに指をふれてみたら血が出てゐたと娘は言ふ

それは戀の話である

戀の話はいろいろある

あゝこの娘よ

もしも私の女房になるならば

奧さんではなくておかみさんになるんだらうが

それは女房になつてみれば直ぐにわかるのである

馴れてしまふのである 

 

   4 

 

きのふの話によると

娘には許婚者があるんださうです

それが私でないところを見れば

あの俳優がさうなんだらうか 

 

ぼんやりしてゐるうちに

私の顎下を

夜はなんどもなんども流れてゐたやうです 

 

   5

 

膝のうへには汚れた履歷書がある

邦子といふのがその娘である

邦子は喫茶店の女給だつたのである

その前の

光子は小學校の敎師だつたのである

その前の

妙子も小學校の敎師だつたのである

だつたのであるが

だつたことばかりが私の眼には浮んでゐる。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。この注を一部追加した。】初出は昭和一〇(一九三五)年五月倍大号『羅曼』に総標題「動物園」で後に出る「動物園」・「春愁」・本詩の三篇が掲載された。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題に、発行所は東京市豊島区長崎南の現代詩研究所、編集者が伊福部隆輝、印刷者は村上信助とあり、これは恐らく同年に「羅曼叢書」を出している村上信義堂ではあるまいか。同叢書中には微妙に姓名が異なるが、伊福吉部隆著「日本詩歌音韻律論」という本も見出せる。思潮社一九七六年四月刊「山之口貘全集 第一巻 全詩集」では、アラビア数字は総てが、1・2・3・4・5 と、斜体になっており、それらは、総て行頭に配されてあるので、原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、そうなっているということを意味するようだ。

 また、原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、「1」の二行目が、 

 

いいえ每 

 

になっており、さらに、「4」の途中にある一行空きがなくなって、 

 

4 

 

きのふの話によると

娘には許婚者があるんださうです

それが私でないところを見れば

あの俳優がさうなんだらうか

ぼんやりしてゐるうちに

私の顎下を

夜はなんどもなんども流れてゐたやうです

 

となっている、とする。

【二〇二四年十月三十一日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

Charles Mengin Sappho 1877

1877_charles_mengin__sappho

篠原鳳作句集 昭和八(一九三三)年六月



   首里、尚家の桃原園所見

バナナ採る梯子かついで園案内

 

[やぶちゃん注:「尚家」は琉球王朝の王統であるが、その系譜は単純ではない。例えば琉球最後の王朝である第二尚氏の王統は第一尚氏尚泰久王の重臣であった金丸が尚泰久王の子尚徳王に代わって王位に就いて尚円王と名乗ったことに始まる。そうした経緯はウィキの「第二尚氏及びそこからリンクされる各記載に譲るが、最後の王第十九代尚泰王治世下の明治一二(一八七九)年に行われた琉球処分によって王家による琉球支配は終焉、尚泰は東京への移住を命ぜられて形ばかりの侯爵に叙せられ、分家も男爵に叙せられた。尚泰は沖縄との往来を禁止され、尚家一族の大半は沖繩に残ったとある。ここに出る首里にあった桃原園という庭園(若しくは次の知られた鳳作の名句や陸続とあるマンゴーやサボテンの句群がここで創られたものだとするならば、当時既にこの尚家所有のそれはバナナやメロンを栽培する果樹園や熱帯植物園のようなものになっていた可能性も浮上する)もそうした尚家所有のものであったものか? 現在ネット上では那覇市首里桃原町の地名以外にはそうした施設は地図上では現認出来ない。首里城の北西(龍潭から直線で五百メートルの直近)に位置する。鉄の暴風によって跡形もなく消失してしまって再現されなかったものか? 識者の御教授を乞う。]

 

炎帝につかへてメロン作りかな

 

よじのぼる木肌つめたしマンゴ採り

 

マンゴ採り森こだまして唄ひをり


[やぶちゃん注:この「首里、尚家の桃原園所見」の前書きを持つ『一聯四句』(底本年譜の表現)は六月発行の『天の川』の巻頭を飾ったもので、同誌で鳳作の句が巻頭を飾った最初であり、しかも二句目の「炎帝につかへてメロン作りかな」は鳳作『開眼の句といわれる』(年譜の表現)ものである。私も大好きな一句である。]

靑東風にゆられゆられてマンゴ採り

 

[やぶちゃん注:「靑東風」は「あをごち(あおごち)」と読み、一般には夏の土用(七月二十日頃から始まる四季節の一つである立秋前の十八日間を指す)の青空に吹く東風、土用東風(どようこち)を指すが、作句時期(『雲彦沖繩句輯』所収で推定六月)から、これは初夏の青葉の間を吹き抜ける東風の謂いである。]

 

サボテンの人を捕らんとはたがれる

 

サボテンの指さきざき花垂れぬ

 

浜木綿に佇ちて入り日を拜みけり

 

雛祭すみしばかりにみまかりぬ

 

[やぶちゃん注:以上九句は六月の発表若しくは創作句。]

杉田久女句集 108 西日して薄紫の干鰯


西日して薄紫の干鰯

橋本多佳子句集「信濃」 信濃抄二 (Ⅲ)



寂しければ雨降る蕗に燈を向くる

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

曉(あけ)殊に露けき蚊帳ぞ子のねむり

 

わかれ蚊帳母子に五位の聲つばら

 

露の楢夜はわが燈に幹ぬれて

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

母と子に夜も木の實の落ちしきる

 

黑姫も落暉負ふ山燕去る

 

數歩して狐のかみそり草隱る

 

白露や花を盡さぬ鳥かぶと

白い 雲  八木重吉



秋の いちぢるしさは

空の 碧(みどり)を つんざいて 横にながれた白い雲だ

なにを かたつてゐるのか

それはわからないが、

りんりんと かなしい しづかな雲だ

 

[やぶちゃん注:「いちぢるしさ」はママ。]

2014/03/07

芥川龍之介手帳 カテゴリ始動 / 手帳 1-1及び1-2

芥川龍之介の手帳の電子化評釈をカテゴリ始動する。

芥川龍之介のプライベートな秘跡であり、マジカルな作品群の種帖でもあるこれらは、まさに僕にとってのローチェ南壁そのものである。

底本は現在最も信頼の於ける岩波書店一九九八年刊行の「芥川龍之介全集」(所謂、新全集)の第二十三巻を用いつつ、同書店の旧「芥川龍之介全集」の第十二巻を参考にして正字化して示す。取消線は龍之介による抹消を示す。底本の「見開き」改の相当箇所には「*」を配した。適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。

再度、言おう。これは多分、僕の中の孤独なローチェ南壁登攀なのである――

……しかし……途中で遭難しない限り……登頂を目指す覚悟では――ある――

 

手帳1

[やぶちゃん注:大正五(一九一六)年の第一銀行横浜支店発行の革製手帳で、現存のそれは(一部に脱落箇所があるらしい)記載可能のページ数は八十七(龍之介によって書き入れられたページは六十七ページ分である。一頁が四日分の記載欄に分かれており、同年の月日曜日が印刷されたものである。【 】で示したものは、底本編者が記載とその日附との強い関連性を認めたものの月日である。なるべく同じような字配となるようにし、表記が難しいものはそのまま画像(特に注のないものは底本の新全集)で示した。各パートごとに《1-1》のように見開き(新全集のそれは物理的な見開きページではなく、少しでも芥川龍之介による記載がある箇所を便宜的に見開きで順列数字を与えたものである)ごとに通し番号を附け、必要に応じて私の注釈を附して、各条の後は一行空けとした。「○」は項目を区別するために旧全集・新全集ともに一貫して編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。判読不能字は底本では字数が記されているが、ここでは「■」で当該字数を示した。

 なお、編者によれば、その記載推定時期は大正五(一九一六)年から大正七(一九一八)年頃とある。]

 

二人に30づつ

 

[やぶちゃん注:「30」は底本では半角横組。]


The Sweet-Scented Name

[やぶちゃん注:これは次のソログープの童話の英訳題。“Sweet-Scented”は形容詞で、自然の香りを持つさまを言い、邦題では「よいにおいのする名まえ」「いい香のする名前」などと訳されている(私は未読)。ネット上の質問サイトの答えによれば、『いい香のする名前で呼ばれていた天使が、高慢さゆえ地上に堕とされ、名前も忘れ、マアガレット王女と人間の名前で呼ばれるようになりました。ある国の王子がいい香のする名前を捜してくれて、天使の名前を聞いていた子どもが見つかりました。その病気の子どもの前で王女が踊ると、あらゆる美しい色が見え、あらゆる美しい音が聞こえました。気分が良くなった子どもは、笑った拍子に思い出したいい香のする名前を告げ、王女も天使だった頃の記憶を取り戻します』という梗概があり、『いい香のする名前そのものは、具体的には書かれていません』とある。]

Sologub

[やぶちゃん注:“Sologub”はロシア象徴主義の詩人・小説家フョードル・ソログープ(Фёдор СологубFyodor Sologub 一八六三年~一九二七年)。本名 Фёдор Кузьмич Тетерников(フョードル・クジミチ・テテルニコフ)。ウィキの「フョードル・ソログープ」によれば、『世紀末の文学や哲学に特徴的な、陰気で悲観主義的な要素をロシアの散文に取り入れた最初の作家であり、しばしば死を主要な題材に選んでいる』。『最も有名な小説『小悪魔』は、ロシアで「ポシュロスチ(пошлость = ラテン文字転写でposhlost'として知られる(邪悪さと凡俗さの中間の、野卑な人間像を指す)概念を活写しようとする試みであった。1902年に連載小説として発表され、1907年に定本が出版されると、たちまちベストセラー入りを果たし、作者の存命中に10版を重ねた。内容は、人間性にまるでとりえのない田舎教師ペレドノフの物語である。この作品は、ロシア社会についての辛辣な告発として受け入れられたが、豊かな形而上学小説であり、またロシア象徴主義運動が生んだ主要な散文作品の一つである』。『次なる大作『創造される伝説』(1914年)は、「血の涙」「女王オルトルーダ」「煙と灰」の三部からなる長編小説であり、同じような多くの登場人物が出てくるが、むしろ楽天的で希望に満ちた世界観を示している』。『ソログープは代表作が小説でありながらも、研究者や文学者仲間からは詩人として最も敬意を払われてきた。象徴主義の詩人ヴァレリー・ブリューソフはソログープの詩の簡潔さを称賛して、プーシキン並みに完璧な形式を有していると評した。 他の多くの同時代の作家が新たな文学や、自分たちを代弁する美学的なペルソナを創り出すことを誇った中で、ソログープは(自らたびたび記したように)、仮面の下を瞥見することと――そして内なる真実を探究する機会であると――喝破した』とある。私は中山省三郎訳になる「かくれんぼ 白い母 他二篇」(岩波文庫一九三七年刊)と幾つかの短篇を読んだだけだが、ロシアの作家の中ではとても好きな作家である。]

Russia Librairie

[やぶちゃん注:“Librairie”フランス語で「書店」。こういう書店が当時のフランスにあったかどうかは未確認。]

〇北伊豆町一七

[やぶちゃん注:「北伊豆町」は現存する住所にはないが、現在の丹那トンネルのある静岡県田方郡函南町(かんなみちょう)がそれに相当する地域であるとは思われる。関連のある作家や芥川龍之介の作品は思い浮かばない。]

〇バアテキノシロヲ一ツゴマカシテトリマシタ

[やぶちゃん注:「バアテキノシロ」意味不明。]

【1月 15日】3 Weaknesses in me

                                                          
balancies

 i desire for wordly powers

                              
cowardly

  ii sensuality

iii indolence

Don’t forget these are my death-enemies!

[やぶちゃん注:“Weaknesses”は「優柔不断」か。

“wordly”は「世俗的な」「俗物的」か。

“balancies”は可算名詞であるから、「天秤にかけること」「差引勘定をして残高を確かめること」の謂いか。

“cowardly”は「卑劣な」「卑怯な」であるが、副詞か形容詞であるから、前の“balancies”との並列具合が悪い。“wordly powers”に形容を追加する謂いか。

“sensuality”は官能(肉欲)性又は官能(肉欲)に耽ること・好色の意。

“indolence” は怠惰の意。

“death-enemies”死に至らしめる敵、死を齎す天敵、の謂いか。]

○【1月16日】 弟來る 岸と共に來る 晴日

[やぶちゃん注:「弟」は異母弟新原(にいはら)得二と思われる。「岸」は不詳。]

また始めよう

さあ……また始めよう……孤独なそれを……それが所詮……僕の生きざまだ――何を?――少々の毒を?――芥川龍之介――さ……

飯田蛇笏 靈芝 昭和三年(三十一句)

 昭和三年(三十一句)

 

いんぎんにことづてたのむ淑氣かな

 

[やぶちゃん注:「淑氣」は「しゆくき(しゅくき)」と読み、新春の目出度く和やかな雰囲気のことを指す。新年の季語。因みに「大辞泉」では用例として本句が引かれてある。]

 

  戊辰水郷の旅、竹秋盡く、一句

ゆく春の月に鵜のなく宿りかな

 

[やぶちゃん注:「戊辰」昭和三(一九二八)年は戊辰(ボシン/つちのえたつ)。「竹秋」は「ちくしう(ちくしゅう)」で陰暦三月の異称。竹の秋。竹の葉がこの頃、黄ばむことによる。晩春の季語でもある。]

 

山寺や花さく竹に甘茶佛

 

[やぶちゃん注:「甘茶佛」灌仏会(かんぶつえ)の景。灌仏会は旧暦四月八日の釋迦の誕生日を祝う法会で、一般に本邦では草花で飾った花御堂(はなみどう)を作り、その中に灌仏桶を置いてそこに甘茶(本来の「甘茶」はミズキ目アジサイ科アジサイ属 Hydrangea アジサイ節 Hydrangea アジサイ亜節 Macrophyllae ヤマアジサイ Hydrangea serrata 〔亜種 Hydrangea macrophylla subsp. Serrata とする説もある〕変種ガクアジサイHydrangea macrophylla f. normalis 変種アマチャ Hydrangea macrophylla var. thunbergii〔これを独立種として認めずにアジサイ Hydrangea macrophylla 種としてのアジサイ及びガクアジサイ)の亜種 Hydrangea macrophylla subsp. serrata などとする説もある〕の若い葉を蒸して揉んで乾燥させたものを煎じて作った飲料である。スミレ目ウリ科アマチャヅル Gynostemma pentaphyllum の葉や全草から煮出した飲料も「甘茶」と称するが、本来の「甘茶」は前者のアマチャ Hydrangea macrophylla var. thunbergii が真正の甘茶である。この部分はウィキの「甘茶」及びそのリンク先などを勘案してなるべく正確なものを期して記述したつもりである。なお、私も飲んだことがあるが、微かな甘みと苦みをもったもので決して美味いものではない)を満たしておき、誕生仏の像をその中央に安置して柄杓で像に甘茶をかけて祝う(釈迦の誕生時に産湯を使わせるために九頭の龍が天から清浄の水を注いだという伝説に由来する仕儀)。明治以降の新暦になってより、この日(新暦四月八日が桜の時期と重なることから「花祭」とも呼ぶ。昭和三年の旧暦四月八日は五月二十六日であるが、これは新暦の四月八日に合わせて行われたそれであると思われる。この読み替えについては一部参照したウィキの「灌仏会」に(アラビア数字を漢数字に代えた)、『俗に言う「花まつり」の名称は、明治時代にグレゴリオ暦が導入され、灌仏会の日付の読み替えが行われた後の四月八日が、関東地方以西で桜が満開になる頃である事から、浄土真宗の僧・安藤嶺丸が提唱した。それ以来、宗派を問わず灌仏会の代名詞として用いられている。一方、明治以前の民間では灌仏会とは直接関係のない先祖の法要や花立て、あるいは山の神を祀るための祭礼や山開きなどが四月八日に行う場合があった(卯月八日)。祖先神でかつ農事の神でもあった山の神を祀る際には、花が一種の依代として用いられていたことから、花を用いて山の神(祖先神・農事神)や祖先を祀る民間習俗に仏教行事である灌仏会が習合した結果、「花まつり」となったとする解釈もある』とある。]

 

蝶颯つと展墓の花を搏ちにけり

 

[やぶちゃん注:「展墓」は「てんぼ」と読み、墓参りをすること。墓参。「展」は原義の一つ「見る」からこれ自体で「墓参りをする」の意を持つ。有季俳句では八月十三日の盂蘭盆会の墓参で秋の季語であるが、ここは「蝶」が季語で春である。]

 

草鞋して夏めく渡舟去る娘かな

 

夏の雨花卉あらはなる磯家かな

 

[やぶちゃん注:「磯家」は「いそや」で古語。磯近くにある漁師などの家。磯屋。]

 

夏風や竹をほぐるゝ黄領蛇(さとめぐり)

 

[やぶちゃん注:「黄領蛇(さとめぐり)」里回(さとめぐ)りは有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora の異名。日本固有種の無毒蛇。体色は主に暗黄褐色からくすんだ緑色を呈する(但し、個体差が大きい。ここはウィキの「アオダイショウ」に拠る。以下でも一部参考にした)が、以下、私の推測であるが、網面模様の間は黄色に見える個体が多いように思われ、この「領」は首筋・項(うなじ)以外に襟の意味を持つから、「黄領蛇」とは、その黄色の部分を模様の襟と見立てたものででもあろうか。鼠を主な餌とすることから「鼠取り」とも、また人里近くに棲息し、人家に営巣することもあり、また鼠を追って人家に侵入することも多いことから「屋敷守り」などとも呼ばれる。また本種のアルビノは各地で古来『神の遣い』として信仰の対象とされており、このアルビノ個体群が保存された山口県岩国市周辺では「岩国のシロヘビ」として国の天然記念物に指定されてもいる。

 さてネットを調べると、長谷川櫂氏が二〇一〇年五月二十四日附『読売新聞』のコラム「四季」で本句を鑑賞し、『(長谷川櫂・読売新聞)黄領蛇はさとめぐりと読み、里めぐりとは蛇の青大将のこと。青大将と言えばぎょっと驚くだろうが、里めぐりと言えば里をめぐり歩く巡礼の乙女のような印象がある。竹の穂にからまっていたのだろう、南風にあおられて蛇がどさりと落ちてきた。それを《ほぐるる》とは誠に優しい。』と評されておられることが分かる(引用は個人ブログ「NEKOSAN・HOUSE」のこちらより孫引き。他にも「黄領蛇」で検索すると複数掛かる)。

 ところがそれに対し、例えば、ななこさんのブログ「花に囲まれて」の「ななこの先祖は蛙だった」には、安部公房の『日常性の壁』(私が教師時代に好んで採り上げた教材でもあったから教え子の諸君の中には懐かしく思い出される方も多かろう)の生理的嫌悪感よろしく、『この「ほぐるる」様が私は耐え難いのだ』とされ、しかも『私だって物心ついてから今に至るまで具体的に蛇にまつわる怖い思い出は何もない』にも拘わらず、『母から聞かされた話、妹から聞かされた話、夫の蛇にまつわる武勇伝』等々、『すべて聞いて想像をふくらませて「ほぐるる」その瞬間を感じるだけで身の毛がよだつ』と述べておられる。『その恐怖心は年齢と共に和らぐどころか、実際に蛇に出くわす機会がないだけに、いよいよ想像の産物として巨大化していくのが辛い』とまで述べられた上で、御母堂がななこさんを妊娠しておられた折り、臨月のその御腹の上に梁から青大将がドサリと落ちてきたお話、実家の土蔵の屋根裏に青大将カップルが巣食っていた、御主人が一升瓶で蝮酒を造って物置に並べておられたという話を続けられ、最後に『私は「蛇ににらまれた蛙」のような人間だ。きっと太古の昔、祖先の蛙が大蛇に丸呑みされたに違いない。』と結んでおられるのを読むと、長谷川氏の評は『誠に優しい』リアルにおぞましいものと彼女がお感じなったことが痛いほど分かりもするのである。

 では私はどうか?

 私は幼稚園(練馬区大泉幼稚園卒)の頃、近くの田圃で友だちと一緒に青大将を捕っては長さ比べをしてみたり、首に巻いてみたり、また、その子蛇をこっそり盥に入れて飼って母に叱られたりした。

 即ち、私は蛇好きなのである(因みに妻もすこぶる蛇好きで、タイに一緒に旅行した折りにはニシキヘビを首に巻いて、にっこり笑って写真に納まっている)。

 では長谷川氏の評と、ななこさんの感想のどちらを支持するか? と言われれば――これ――どちらも捨てがたい――と言わざるを得ないのである。

 「なつかぜ」「たけ」「ほぐるゝ」「さとめぐり」(間違っても「黄領蛇」の文字列ではない。音である)という語彙の響きは、長谷川氏の評するような音楽的なスラーの感覚で心地よく、「さとめぐり」という『里をめぐり歩く巡礼の乙女のような』匂いが、ここで初めて「黄領蛇」という文字の「黄」色を画面に伴って、ほぐれてすうーっと空を切って降りてゆく、しなやかな――私の好きな――その青大将のスマートな蛇の肢体がイメージされるのである。山家の隠棲生活を送っていた蛇笏の感懐もそこにまずはあると考えて間違いではない。しかも、そもそも彼の俳号からしても彼は蛇好きであったと考えてよいのである。

 しかし……私は考えるのである。

 蛇嫌いの人がこの句を読んでこの句はおぞましくも凄い句だ、と評したとしたら(そう評する人は恐らく非常に稀であるほどには――阿部が言ったように――蛇嫌悪症の悪性度は強いとはいえるが、中にはいらっしゃるものと私は信ずる)が、それは誤釈だと言えるか? ということを、である。

 蛇嫌いの人『この「ほぐるる」様が私は耐え難いのだ』にこそそうした人々の眼目は集中する。私はその光景を見たとして、その「ほぐるる」さまを『耐え難い』と感じる感性を持たない――ない、のだが――どうだろう?

 そうした……竹に吹く、夏の暑さを少し忘れさせてくれる涼しい景の中に……突如――まさに阿部が言ったようにである――蛇がすうーっと……音もなく……空(くう)を這うかのように……降りてくる……のである……

 これはなかなかに慄っとする――と評したとしても――私は深く肯んずるのである。またもしかしたら、蛇笏はそうした鑑賞者がいるであろうことも分かっていて、確信犯でこの句を詠じたと考えることは、これ、私は強ち牽強付会とは思わない人間なのである。

 大方の御叱正を俟つものである。]

 

荊棘に夏水あさき野澤かな

 

山泉杜若實を古るほとりかな

 

[やぶちゃん注:「杜若」は「とじやく(とじゃく)」と音読みしていよう。なお、杜若は単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata の漢字表記の一つであるが(中国名は「燕子花」)、本来これは全く別種の単子葉植物綱ツユクサ目ツユクサ科ヤブミョウガ Pollia japonica の漢名であったものがカキツバタと混同されて慣用化されてしまったものである。]

 

くちつけてすみわたりけり菖蒲酒

 

[やぶちゃん注:「菖蒲酒」は「あやめざけ」又は「しやうぶざけ(しょうぶざけ)」と読む。単子葉植物綱サトイモ目ショウブ科ショウブ属ショウブ変種ショウブ Acorus calamus var. angustatusの根を細かく刻んで浸した酒。邪気を払うために端午の節句に飲む。夏の季語。]

 

いかなこと動ぜぬ婆々や土用灸

 

[やぶちゃん注:「土用灸」夏の土用(七月二十日頃から始まる四季節の一つである立秋前の十八日間を指す)に灸の療治をすること。他の時季に比して特効があるとされている。]

 

うろくづに雨降りしづむ盆供かな

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「うろくづ」は魚のこと、「盆供」は「ぼんく」で、盂蘭盆に修する供養。盆供養。]

 

蓮の葉にかさみて多き盆供かな

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、この「盆供」は盂蘭盆に修する盆供養の供物の意。]

 

たくらくと茄子馬にのる佛かな

 

[やぶちゃん注:「たくらく」卓犖。原義は、勝れて他から抜きん出ていること、又は、この上なく優れているさまをいう。ここは「ようようと」といった感じか。乗っているであろうその茄子の馬の雄姿に魂のそれを見ているのであろう。]

 

香煙や一族まゐる藪の墓

 

 

瀧しぶきほたる火にじむほとりかな

 

深山木に雲ゆく蟬のしらべかな

 

[やぶちゃん注:動と静の視覚に聴覚が加わる佳句である。]

 

桑卷いて晝顏咲かぬみどりかな

 

 

ほど遠き秋曉け方のかけろかな

 

[やぶちゃん注:「かけろ」元来は副詞「かけろと」で、鶏の鳴く「こけこっこう」の声をいう語。]

 

  若山牧水の英靈を弔ふ

秋の晝一基の墓のかすみたる

 

[やぶちゃん注:若山牧水(明治一八(一八八五)年~昭和三(一九二八)年)はこの年の九月十七日に沼津の自宅で逝去した。満四十三歳。沼津の千本山乗運寺に埋葬された。]

 

新月に牧笛をふくわらべかな

 

幮果てゝ夜の具嵩なくふまれけり

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「嵩」は「たか」。]

 

門前のやまびこかへす碪かな

 

[やぶちゃん注:「碪」は「きぬた」で砧に同じい。]

 

新酒   のむほどに顎したゝる新酒かな

 

落し水田廬のねむる闇夜かな

 

[やぶちゃん注:「田廬」は通常は「たぶせ」と読み、田に拵えた仮小屋、田圃に備えた番小屋のこと。田伏せ。但し、「山廬集」では「タフセ」と清音でルビを振るので、ここも「たふせ」と濁らずに読んでおく。]

 

  宗用海岸所見

秋風や浪にたゞよふ古幣

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では「ニギテ」とルビを振る。御幣のこと。にぎて。古くは「にきて」と清音であった。「和幣」「幣帛」などとも書く。後に「にぎて」「にきで」などと変化した。榊(さかき)の枝に掛けて神前にささげるための麻や楮(こうぞ)で織った布(後には絹や紙も用いた)のこと。

「宗用海岸」不詳。「山廬集」でも同じ。しかし、これは現在の静岡市駿河区用宗(もちむね)の駿河湾に面した用宗海岸の誤りではなかろうか? 識者の御教授を乞う。]

 

うら枯れて雲の行衞や山の墓

 

  御岳昇仙峽

紅葉見のやどかるほどに月の雨

 

[やぶちゃん注:「御岳昇仙峽」秩父多摩甲斐国立公園に属する名勝昇仙峡のこと。正式名称は御嶽昇仙峡。甲府盆地北側山梨県甲府市の富士川支流である荒川上流に位置する渓谷。長潭橋(ながとろばし)から仙娥滝までの全長約五キロメートルに亘る渓谷で奇岩多く、特に十一月頃の紅葉が美しいことで知られる(ウィキの「昇仙峡に拠った)。]

 

吹き降りの淵ながれ出る木の實かな

 

山平老猿雪を歩るくなり

 

家守りて一卷もとむ曆かな

 

燃えたけてほむらはなるゝ焚火かな

唇のやうな良心   山之口貘

 

   唇のやうな良心

 

死ぬ死ぬと口にしたばかりに

そんな男に限つて死に切れないでゐるものばかりがあるばかりに

私にまでも

口ばつかりとおつしやるんで

私は死にたくなるのである

あなたの目は佛檀のやうにうす暗い

蔑視々々と言つて私はあなたの視線を防いでばかりゐるので

あなたを愛する暇が殆どないのでかなしいのである

えぷろんのぽけつとからまつちをつまみ出したあなたの指を見てゐた時からだつた

私は私の良心がもしや唇のやうな格好をしてゐるのではないかとそれがかなしくなるばかりである

だから

愛する愛すると私が言ふてゐるのに

噓々とおつしやるのが素直すぎてかなしいのである 

 

[やぶちゃん注:【2014年月日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。】初出は昭和四(一九二九)年八月発行の『原詩』であるが、本誌の詳細は不詳。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、七行目が、

 

あなたの目は佛壇のやうにうす暗い

 

と「檀」を「壇」に訂正、九行目が、

 

えぷろんのぽけつとから まつちをつまみ出したあなたの指を見てゐた時からだつた

 

に、十行目目が、

 

私は私の良心が もしや唇のやうな格好をしてゐるのではないかとそれがかなしくなるばかりである

 

と字空けが施されてある。

【二〇二四年十月三十一日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。]

萌芽   山之口貘

 

   萌 芽

 

空家のやうにがらんとしてゐる夜である

誰かそこにゐて

これがあるか、 といふやうに

小指を僕に示して見せる相手があるならば

ないんだよ、 と卽答出來る自信で僕の胸はいつぱいなのである。

蟹の眼のやうに僕は眼をとんがらせて夜ぢゆう小指のシノニムを夢見てゐる

公設市場で葱を指ざしてゐたあの女

追ひついて行つて橫目で見てやつたときのあの女

女や女を

または女を思ひ出しながら

僕は夢見てゐる

今度といふ今度こそは女をみつけ次第

その場にひざまづいて僕は一言さゝげたいのである

女さまよ、と



[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。以下の注を追加した。】初出未詳。「定本 山之口貘詩集」では、三箇所の読点が総て除去されて字空けとなっている。

【二〇二四年十月三十一日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

雨と床屋   山之口貘

 

   雨 と 床 屋

 

雨の足先が豆殼のやうにはじけてゐる 

 

バリカンの音は水のやうに無色である 

 

頭らが野菜のやうに靑くなる 

 

山羊の仔のやうな 

 

ほそいおとがひの藝妓もゐる 

 

なんとまあよく降る雨だらう 

 

淸潔どもが氣をくさらして 

 

かはりばんこのあくびである。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月24日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】初出は昭和一二(一九三七)年六月二十日附『日本学藝新聞』。本詩は表記通り、有意に行間が空く。原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、この行空けはなく、最後の句点も除去されてある。

【二〇二四年十月三十日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて正規表現への訂正をしているが、驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの初版本は、多量の落丁があることが判った。それは「無題」右の「九八」ページで終って、その左丁が、突然、「一一五」ページとなって、「雨と床屋」の最終部分の四行だけが載っているのである。本書內の十六ページ分が、ごっそり脱落しているのである。これは、実に「夜景」・「生活の柄」・「論旨」・「大儀」・「鏡」・「喰人種」・「自己紹介」・「立ち往生」の八篇分が全く載らず、前に述べたように、「雨と床屋」の八行からなる詩篇の前半四行が載っていないのである。しかも、本国立国会図書館デジタルコレクションの底本詩集のどこを探しても、この呆れ果てた落丁についての修正や差し込みなどは――ない――のである。バクさん、最終製本の校正をしなかったのか? それとも、国立国会図書館に献本する際に、間違って、校正前の不良落丁本を提出してしまったものか? この驚くべき事態は、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にも記されていないのである。国立国会図書館デジタルコレクションでは、同詩集は一冊しか、ない。途方に暮れた。しかし、★――一つの光明はあった――★のである。本詩集発行から二年後、バクさんは、この「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加して第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)を出しており、その原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左のリンクは標題ページ。奥附はここ)にあるから、である。仕方がないから、これで、正規表現を、落丁の八篇と一篇の前半部について校訂することとする。但し、この「山之口貘詩集」の九篇が「思辨の苑」と全く同じである確証はない。バクさんは、詩一篇を完成させるのにも、驚くべき多数の改稿をするからである。また、初出は勿論、先行する詩集からの再録するに際しても、頻繁に改作を行うからである。これは、しかし、私が四苦八苦してやるよりも、所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 詩集」と、上記の「新編」版で、校異されているものと、勝手に抱っこにオンブで、信頼することとする(実は、これは、実は、殆んど信頼出来るものではない。何故かって? 一九七五年七月刊の全集の「詩集校異」の冒頭『思弁の苑』のパートには、『誤字、誤植を訂正し、句読点とくりかえし符号をとりのぞき、若干の行かえと表記の訂正もほどこされている。そのうち』(☞)『おもなものを』(☜)『列記しておく』とやらかしてあるからである。一方、最大の頼みの綱である「新編」版は、第一巻が出たっきり、もう十一年になるのに、残りの二巻以降は未だに出版されていないのだ。しかも、校異は、最後の第四巻に付されることになっているんだ! おいッツ! 俺が生きている間に、全巻! 出せよ! そうしないと、キジムナーに化けて、呪い殺すぞッツ! 本篇はここ。後半四行は、原本である、国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」の残骸で確認した。 ]

篠原鳳作句集 昭和八(一九三三)年五月



笹鳴きやけふ故里にある思ひ

 

受驗生かなしき莨おぼえけり

 

[やぶちゃん注:この「受驗生」は鳳作の勤めた旧制中学から旧制高校を受験する生徒であろうが、それでも旧制中学校は五年制で問題なく進んでも卒業時満十七歳で無論、違法な光景ではある(但し、今も喫煙する私は高校時代に既に煙草を吸っていたからこの情景はまことにリアルである)。因みに喫煙の本邦での規制は、ウィキ日本の喫煙」によれば、明治初期、『養生雑誌』(養健舎明治一三(一八八〇)年創刊)が煙草の害を外国文献の抄訳形式により掲載、明治一四(一八八一)年出版になる「内科要略」には、「慢性尼古質涅(ニコチネ)中毒」(ニコチン依存症)と慢性動脈内膜炎の関係に言及、喫煙を粥状動脈硬化の危険因子と見做す記載があるという。このように喫煙の有害性が一般に認められていた明治二二(一八八九)年には東京文理科大学初代学長三宅米吉が喫煙と健康について警告した論文「學校生徒ノ喫煙」を執筆、年少者にも及んでいた喫煙問題を受けて明治二七(一八九四)年に小学校での喫煙禁止の訓令「小学校ニ於ケル体育及衛生」(文部省訓令第六号)が発せされ、続いて明治三三(一九〇〇)年、未成年者の全面的禁煙を成文化した「未成年者喫煙禁止法」が、健全なる青少年の育成を目的として施行された。本法発布の背景には富国強兵策があって、『幼年者が喫煙で肺を悪くして徴兵できなくなることが憂慮されていた』ことが主たる理由であるとする。この「未成年者喫煙禁止法」は現在も改正を経て継続的に実施されている。日本の成人年齢は明治九(一八七六)年以来一貫して満二十歳であるが、『年齢に言及せず「未成年者」の文言だけであった同法に』、「満二十年ニ至ラサル者」の文言が加えられたのは昭和二二(一九四七)年の改正であった、とある。]

 

行人を戀ふることあり受驗生

 

大空の春さりにけり椰子の花

 

浜木綿に日がなこぼれて椰子の花

 

[やぶちゃん注:椰子の花をご存じない向きのために、グーグル画像検索「椰子花」をリンクしておく。]

 

椰子の花こぼるる土に伏し祈る

 

琉球のいらかは赤し椰子の花

 

[やぶちゃん注:以上七句は五月発表句及び当該時期のパートに配されたもの。]

杉田久女句集 107 玄海の濤のくらさや雁叫ぶ

玄海の濤のくらさや雁叫ぶ

橋本多佳子句集「信濃」 信濃抄二 (Ⅱ) ひとの子を濃霧にかへす吾亦紅



  日々手傳ひに來る子あり

ひとの子を濃霧にかへす吾亦紅

秋の日の こころ   八木重吉

 

花が 咲いた

秋の日の

こころのなかに 花がさいた

2014/03/06

本日これにて閉店

髪結いに行き晩は旅仲間と河豚――悪しからず 心朽窩主人敬白

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(13)「はなあやめ」(Ⅲ)



夏の風はにほひて吹きぬ街の子が

夕涼みする團扇づかひに

 

見かはせば何の奇もなく友はあり

あひ別れては胸やぶるまで

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十九歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された八首連作の一首、

 見代(みかは)せば何(なん)の奇(き)もなく友(とも)はあり相別れては胸(むね)やぶるまで

表記違いの相同歌。]

 

君を戀ふ眞玉白玉そが中の

ひとつ瓦とはぢらふわれは

中島敦 南洋日記 一月二十二日

        一月二十二日(木) ウリマン

 午前中公學校參觀。晝食は校長の所。但し Ngïll なる女より、卵と島民食屆けあり。食後、海岸。四時頃より土方氏に連れられ、アカラップなるシロウサンの許に御馳走になりに行く。芋田の間の石疊道。ウリマンの新アバイ。ガボクド部落。アバイ二つ。舊アバイの裝飾は蝙蝠模樣。途中教員補池谷さんイケヤサンの所にて、椰子水をのみ休憩。六時近くシロウの所につく。前庭の石疊に一老爺草をむしり、幼兒二人遊ぶ。一人の兒の腹無闇に大。びんろうじゆ數本矗として立つ。シロウは釣に出かけたりとて女房のウマイ、室の一方に竹床の上に疊を敷き蓆をのべて、もてなす。やがてシロウ魚數尾と網を手に歸り來る。體格の見事なる、好もしき青年なり。ウマイも、氣持良き女なり。土方氏の曾て連歩きし大工杉浦某の妻たりしといふ老婆(?)Treiked 馳走を運び來り、食事はじまる。先づ我々二人喰ひ、その殘りを各人に分つが禮なりと。クカオ。サツマ芋。バナナ。魚の鹽煮スープ。タピオカ。カンコンを椰子乳にてドロドロに煮たるスープ(  )。最後のもの最もうまし。腹一杯喰ふ。炊事場(ウム)に燃ゆる火。それに照らされし若き夫婦。漸く立ち始めし女の子。先程の老爺。公學校一年の女兒二人。もう一組の夫婦(この夫は、かの爺さんの實子にて、シロウは亡き婆さんの連れ子なりと)。男兒二人。赤ん坊。やがて來客二人。女の子と男の子と竹床に胡坐をかいて差向ひ、一皿のタピオカと一丼の煮魚を食ふ樣面白し。喰終れば各自水をのみ、その食器を洗ふ。竹の床(ゆか)なれば、水は其の場に棄つるなり。シロウが喰ふ時も、ちやんと我々の方を向き、之から戴きますと挨拶す。ルバック等に對する禮なりと。ウマイは老爺のために、タピオカを叩いて柔くしつゝありしも、老爺は何故か、しきりに急いで村へ行つてくるとて出掛ける。ランプの搖るゝ光の下の、この家の有樣は頗る和やかなり。食事終れば男の子はゴロリと横になつて眠り、女の兒は讀本を出し、欠伸をしつゝ、たどたどしく一字々々讀む。さきに料理を作り來りし Treiked は、魚と罐詰とを貰つて家で食事をするとて歸る。我々も八時半頃辭す。月も大分明るけれど、尚、懷中電燈の援を借りつゝ山路を下り、Ngean の郁子林中を通つて歸る。

[やぶちゃん注:ドキュメンタリーのパラオ紀行の映像を見るように、光景が実にリアルに蘇ってくる素晴らしい描写である。

池谷さんイケヤサン」この削除は恐らく本当に「池谷」と漢字表記するかどうか不確かだったからであったからなのではなく、彼がもしかすると日本人ではなく、現地人であったからではなかろうか? ここのように頻りに片仮名表記の人名が出るうちには、明らかに創氏改名よろしく純粋な現地の人々が日本名を名乗っているシーンが今までも頻出するからである。

「クカオ」カカオのことであろう。

「スープ(  )」の空欄はママ。後で現地音を表記しようとしたが、忘れたものと思われる。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和二年(三十三句) Ⅲ / 昭和二年 了



谷川に幣のながるゝ師走かな

 

積雪や埋葬終る日の光り

 

鶲きて棘つゆふくむ山椒かな


[やぶちゃん注:「鶲」は「ひたき」と読む。スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科ヒタキ科 Muscicapidae に属する鳥類の総称。分類は近年大きく変化しているので、ウィキヒタキ科」を参照されたい。]

 

  霜月十四日、病母の爲め忠僕二人

  と共に山に登り靈境を淨め山神を

  祀る。

落葉すや神憑く三つの影法師

飯田蛇笏 靈芝 昭和二年(三十三句) Ⅱ たましひのたとへば秋のほたるかな



  芥川龍之介氏の長逝を深悼す

たましひのたとへば秋のほたるかな

 

[やぶちゃん注:因みに「山廬集」では「秋の螢」の部立で、

 

  芥川龍之介氏の長逝を深悼す

たましひのたとへば秋のほたる哉

 

と並べて、

 

寂寞と秋の螢の翅をたゝむ

 

が挙げられてある。参考までに述べおく。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和二年(三十三句) Ⅰ

 昭和二年(三十三句)

 

聖芭蕉かすみておはす庵の春

 

戀々とをみなの筆や初日記

 

人の着て魂なごみたる春着かな

 

織初や磯凪ぎしたる籬内

 

端山路や曇りて聞ゆ機初

 

破魔弓や山びこつくる子のたむろ

 

山水のいよいよ淸し花曇り

 

[やぶちゃん注:「いよいよ」の後半は底本では踊り字「〱」。なお、「山廬集」では「山マ水の」と「マ」を送っている。]

 

雨霽れの名殘りひばりや山畠

 

春蘭や巖苔からぶけしきにて

 

小枕に假りねのさむき御祭風(ごさい)かな

 

[やぶちゃん注:「御祭風」ごさいかぜ。夏の土用半ば頃に一週間ほど連続して吹き続く北東の風のことで、六月十六日と十七日に伊勢の御祭があることに由来するという。]

 

夕立や水底溯る渓蛙

 

[やぶちゃん注:「溯る」は「さかる」と訓じていよう。]

 

苔の香や笠被てむすぶ岩淸水

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では「笠着て」とする。]

 

鍼按の眼のみひらけぬ浴衣かな

 

[やぶちゃん注:「鍼按」は「はりあん」と読むか。鍼灸按摩。]

 

たちよれば笞を舐ぶる汗馬かな

 

[やぶちゃん注:「笞」は「しもと」と訓じていよう。]

 

殪(お)つさまにひかりもぞする螢かな

 

[やぶちゃん注:「殪つ」は通常は「たふる」と訓じ、「倒ふる」「斃ふる」で、転ぶ、病んで臥すから、死ぬの意までも含む。]

 

花闌けてつゆふりこぼす牡丹かな

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「闌けて」は「たけて」と読む。]

 

秋の鷹古巣に歸る尾上かな

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「尾ノ上」は「をのへ(おのえ)」で「峰(を)の上(うへ)」の意で山の高い所・山の頂きの意。]

 

秋口の庭池の扉や月の雨

 

[やぶちゃん注:「扉」は「とぼそ」と読んでいるか。]

 

盆過ぎやむし返す日の俄か客

 

秋の日  秋の日の時刻ををしむ厠かな

 

月影や榛の實の枯れて後

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「榛」は「はしばみ」で、ブナ目カバノキ科ハシバミ属 Corylus 種変種ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii。]

 

秋雨や田上のすゝき二穗三穗

 

  仲秋某日下僕が老母の終焉に逢ふ、

  風蕭々と柴垣を吹き、古屛風のか

  げに二女袖をしぼる。二句

死骸(なきがら)や秋風かよふ鼻の穴

 

手をかゞむ白裝束や秋の幮

 

桔梗や又雨かへす峠口

 

吹き降りの籠の芒や女郎蜘蛛

 

山柿や五六顆おもき枝の先

篠原鳳作句集 昭和八(一九三三)年四月



一堂にこもらふ息やクリスマス

 

マドロスに聖誕祭のちまたかな

 

[やぶちゃん注:以上二句は四月の発表句。]

立ち往生   山之口貘

 

   立 ち 往 生

 

眠れないのである

土の上に胡坐をかいてゐるのである

地球の表面で尖つてゐるものはひとり僕なのである

いくらなんでも人はかうしてひとりつきりでゐると

自分の股影に

ほんのりと明るむ喬木のやうなものをかんじるのである

そこにほのぼのと生き力が燃え立つてくるのである

生き力が燃え立つので

力のやり場がせつになつかしくなるのである

女よ、 そんなにまじめな顏をするなと言ひたくなるのである

闇のなかにかぶりを晒らしてゐると

健康が重たくなつて

次第に地球を傾けてゐるのをかんじるのである。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】初出は昭和九(一九三四)年十一月号『日本詩』で、総標題「無機物」のもとに前の「無機物」及び「音樂」と併せて三篇が掲載された。

 原書房刊「定本山之口貘詩集」では最後の句点が除去され、十一行目が、

 

闇のなかにかぶりを晒してゐると

 

に改められてある。

 「股影」は「こえい」と読ませるか。「生き力」は「いきぢから」であろう。孰れも聴きなれず見慣れない熟語ながら、私は一読、腑に落ちるし、何か素敵に、いい言葉じゃないか! そうだ……独りっきりの自分の淋しい影っていうのは……何時だって……確かに丸い大地に屹立する孤独な「股影」だったではないか!……

【二〇二四年十月三十日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて正規表現への訂正をしているが、驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの初版本は、多量の落丁があることが判った。それは「無題」右の「九八」ページで終って、その左丁が、突然、「一一五」ページとなって、「雨と床屋」の最終部分の四行だけが載っているのである。本書內の十六ページ分が、ごっそり脱落しているのである。これは、実に「夜景」・「生活の柄」・「論旨」・「大儀」・「鏡」・「喰人種」・「自己紹介」・「立ち往生」の八篇分が全く載らず、前に述べたように、「雨と床屋」の八行からなる詩篇の前半四行が載っていないのである。しかも、本国立国会図書館デジタルコレクションの底本詩集のどこを探しても、この呆れ果てた落丁についての修正や差し込みなどは――ない――のである。バクさん、最終製本の校正をしなかったのか? それとも、国立国会図書館に献本する際に、間違って、校正前の不良落丁本を提出してしまったものか? この驚くべき事態は、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にも記されていないのである。国立国会図書館デジタルコレクションでは、同詩集は一冊しか、ない。途方に暮れた。しかし、★――一つの光明はあった――★のである。本詩集発行から二年後、バクさんは、この「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加して第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)を出しており、その原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左のリンクは標題ページ。奥附はここ)にあるから、である。仕方がないから、これで、正規表現を、落丁の八篇と一篇の前半部について校訂することとする。但し、この「山之口貘詩集」の九篇が「思辨の苑」と全く同じである確証はない。バクさんは、詩一篇を完成させるのにも、驚くべき多数の改稿をするからである。また、初出は勿論、先行する詩集からの再録するに際しても、頻繁に改作を行うからである。これは、しかし、私が四苦八苦してやるよりも、所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 詩集」と、上記の「新編」版で、校異されているものと、勝手に抱っこにオンブで、信頼することとする(実は、これは、実は、殆んど信頼出来るものではない。何故かって? 一九七五年七月刊の全集の「詩集校異」の冒頭『思弁の苑』のパートには、『誤字、誤植を訂正し、句読点とくりかえし符号をとりのぞき、若干の行かえと表記の訂正もほどこされている。そのうち』(☞)『おもなものを』(☜)『列記しておく』とやらかしてあるからである。一方、最大の頼みの綱である「新編」版は、第一巻が出たっきり、もう十一年になるのに、残りの二巻以降は未だに出版されていないのだ。しかも、校異は、最後の第四巻に付されることになっているんだ! おいッツ! 俺が生きている間に、全巻! 出せよ! そうしないと、キジムナーに化けて、呪い殺すぞッツ! 本篇はここ。]

自己紹介   山之口貘

 

   自 己 紹 介

 

ここに寄り集まつた諸氏よ

先ほどから諸氏の位置に就て考へてゐるうちに

考へてゐる僕の姿に僕は氣がついたのであります

 

僕ですか?

これはまことに自惚れるやうですが

びのぼうなのであります。

 

[やぶちゃん注:初出未詳。原書房刊「定本 山之口貘詩集」では最後の句点が除去されている。

【二〇二四年十月三十日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて正規表現への訂正をしているが、驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの初版本は、多量の落丁があることが判った。それは「無題」右の「九八」ページで終って、その左丁が、突然、「一一五」ページとなって、「雨と床屋」の最終部分の四行だけが載っているのである。本書內の十六ページ分が、ごっそり脱落しているのである。これは、実に「夜景」・「生活の柄」・「論旨」・「大儀」・「鏡」・「喰人種」・「自己紹介」・「立ち往生」の八篇分が全く載らず、前に述べたように、「雨と床屋」の八行からなる詩篇の前半四行が載っていないのである。しかも、本国立国会図書館デジタルコレクションの底本詩集のどこを探しても、この呆れ果てた落丁についての修正や差し込みなどは――ない――のである。バクさん、最終製本の校正をしなかったのか? それとも、国立国会図書館に献本する際に、間違って、校正前の不良落丁本を提出してしまったものか? この驚くべき事態は、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にも記されていないのである。国立国会図書館デジタルコレクションでは、同詩集は一冊しか、ない。途方に暮れた。しかし、★――一つの光明はあった――★のである。本詩集発行から二年後、バクさんは、この「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加して第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)を出しており、その原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左のリンクは標題ページ。奥附はここ)にあるから、である。仕方がないから、これで、正規表現を、落丁の八篇と一篇の前半部について校訂することとする。但し、この「山之口貘詩集」の九篇が「思辨の苑」と全く同じである確証はない。バクさんは、詩一篇を完成させるのにも、驚くべき多数の改稿をするからである。また、初出は勿論、先行する詩集からの再録するに際しても、頻繁に改作を行うからである。これは、しかし、私が四苦八苦してやるよりも、所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 詩集」と、上記の「新編」版で、校異されているものと、勝手に抱っこにオンブで、信頼することとする(実は、これは、実は、殆んど信頼出来るものではない。何故かって? 一九七五年七月刊の全集の「詩集校異」の冒頭『思弁の苑』のパートには、『誤字、誤植を訂正し、句読点とくりかえし符号をとりのぞき、若干の行かえと表記の訂正もほどこされている。そのうち』(☞)『おもなものを』(☜)『列記しておく』とやらかしてあるからである。一方、最大の頼みの綱である「新編」版は、第一巻が出たっきり、もう十一年になるのに、残りの二巻以降は未だに出版されていないのだ。しかも、校異は、最後の第四巻に付されることになっているんだ! おいッツ! 俺が生きている間に、全巻! 出せよ! そうしないと、キジムナーに化けて、呪い殺すぞッツ! 本篇はここ。]

杉田久女句集 106 秋蝶の羽すりきれしうすさかな



秋蝶の羽すりきれしうすさかな

 

[やぶちゃん注:久女マジック。蝶は久女になる――]

橋本多佳子句集「信濃」 信濃抄二 (Ⅰ)

 信濃抄二

 

霧降れば霧に爐を焚きいのち護る

 

霧の中おのが身細き吾亦紅

 

[やぶちゃん注:「吾亦紅」バラ目バラ科バラ亜科ワレモコウ Sanguisorba officinalisウィキの「ワレモコウ」によれば、『草地に生える多年生草本。地下茎は太くて短い。根出葉は長い柄があり、羽状複葉、小葉は細長い楕円形、細かい鋸歯がある。秋に茎を伸ばし、その先に穂状の可憐な花をつける。穂は短く楕円形につまり、暗紅色に色づく』。『「ワレモコウ」の漢字表記には吾亦紅の他に我吾紅、吾木香、我毛紅などがある。このようになったのは諸説があるが、一説によると、「われもこうありたい」とはかない思いをこめて名づけられたという。また、命名するときに、赤黒いこの花はなに色だろうか、と論議があり、その時みなそれぞれに茶色、こげ茶、紫などと言い張った。そのとき、選者に、どこからか「いや、私は断じて紅ですよ」と言うのが聞こえた。選者は「花が自分で言っているのだから間違いない、われも紅とする」で「我亦紅」となったという説もある』。当否は別としてこれ、命名説としては素敵に神がかっていて面白い。『別名に酸赭、山棗参、黄瓜香、豬人參、血箭草、馬軟棗、山紅棗根などがある』。また、根は地楡(ちゆ:中国語。ディーユー dìyú)『という生薬でタンニンやサポニン多くを含み、天日乾燥すれば収斂薬になり止血や火傷、湿疹の治療に用いられる。漢方では清肺湯(せいはいとう)、槐角丸(かいかくがん)などに配合されている』ともある。]

 

花賣りの擬宝珠ばかり信濃をとめ

 

十六夜わが寢る刻(とき)を草に照る

 

ひと去りしいなづまの夜ぞ母子の夜

 

しづめたる食器泉の邊に讀める

 

[やぶちゃん注:堀内薫のすこぶる抒情的な底本年譜によれば、十月までいた野尻湖畔の「神山山荘八七番」は、『松や白樺の林間にあって野尻湖を見下ろす位置にあ』り、氷室があり、近くには「海燕」の装幀を手掛けた『富本憲吉一家の借りている89番の山荘があり、両家は日々交遊、娘たちはボートに乗せてもらった。九月になると、どの山荘も釘付けとなり、娘たちは学校へ行くために帰り、多佳子と国子』(当時二十歳の次女)『だけが淋しい山中に取り残され』、『きつつきが木を叩く、とみるみる湖から霧が湧き起こり、二人を閉じこめる』とある。]

かすかな 像(イメヱジ)   八木重吉

 

山へゆけない日 よく晴れた日

むねに わく

かすかな 像(イメヱジ)

2014/03/05

喰人種   山之口貘

 

   喰 人 種

 

嚙つた

父を嚙つた

人々を嚙つた

友人達を嚙つた

親友を嚙つた

親友が絕交する

友人達が面會の拒絕をする

人々が見えなくなる

父はとほくぼんやり坐つてゐるんだろらう

街の甍の彼方

うすぐもる旅愁をながめ

枯草にねそべつて

僕は

人情の齒ざはりを反芻する。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】初出未詳。配置からは創作は昭和九(一九三四)年末以降、昭和十一年以前かと思われる。詩中、『父はとほくぼんやり坐つてゐるんだろらう』とあるが、年譜ではまさに昭和九年の項に、この年の十月、一家離散して与那国にあったと思われる父重珍が『大阪市北区都島中通五丁目四十八番地に戸籍を移す』とあるのが目を引く。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では標題が「喰人種」から「食人種」に変更され(これから、原標題は「しよくじんしゆ」と読んでおくこととする)、最後の句点が除去されている。

【二〇二四年十月三十日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて正規表現への訂正をしているが、驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの初版本は、多量の落丁があることが判った。それは「無題」右の「九八」ページで終って、その左丁が、突然、「一一五」ページとなって、「雨と床屋」の最終部分の四行だけが載っているのである。本書內の十六ページ分が、ごっそり脱落しているのである。これは、実に「夜景」・「生活の柄」・「論旨」・「大儀」・「鏡」・「喰人種」・「自己紹介」・「立ち往生」の八篇分が全く載らず、前に述べたように、「雨と床屋」の八行からなる詩篇の前半四行が載っていないのである。しかも、本国立国会図書館デジタルコレクションの底本詩集のどこを探しても、この呆れ果てた落丁についての修正や差し込みなどは――ない――のである。バクさん、最終製本の校正をしなかったのか? それとも、国立国会図書館に献本する際に、間違って、校正前の不良落丁本を提出してしまったものか? この驚くべき事態は、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にも記されていないのである。国立国会図書館デジタルコレクションでは、同詩集は一冊しか、ない。途方に暮れた。しかし、★――一つの光明はあった――★のである。本詩集発行から二年後、バクさんは、この「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加して第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)を出しており、その原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左のリンクは標題ページ。奥附はここ)にあるから、である。仕方がないから、これで、正規表現を、落丁の八篇と一篇の前半部について校訂することとする。但し、この「山之口貘詩集」の九篇が「思辨の苑」と全く同じである確証はない。バクさんは、詩一篇を完成させるのにも、驚くべき多数の改稿をするからである。また、初出は勿論、先行する詩集からの再録するに際しても、頻繁に改作を行うからである。これは、しかし、私が四苦八苦してやるよりも、所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 詩集」と、上記の「新編」版で、校異されているものと、勝手に抱っこにオンブで、信頼することとする(実は、これは、実は、殆んど信頼出来るものではない。何故かって? 一九七五年七月刊の全集の「詩集校異」の冒頭『思弁の苑』のパートには、『誤字、誤植を訂正し、句読点とくりかえし符号をとりのぞき、若干の行かえと表記の訂正もほどこされている。そのうち』(☞)『おもなものを』(☜)『列記しておく』とやらかしてあるからである。一方、最大の頼みの綱である「新編」版は、第一巻が出たっきり、もう十一年になるのに、残りの二巻以降は未だに出版されていないのだ。しかも、校異は、最後の第四巻に付されることになっているんだ! おいッツ! 俺が生きている間に、全巻! 出せよ! そうしないと、キジムナーに化けて、呪い殺すぞッツ! 本篇はここ。]

鏡   山之口貘

 

   

 

鏡のなかの彼にうちむかひ

殘飯でもあるなら一口僕に、 と言ひたがつてゐる僕なんですが

髯を剃りたまへ、 と彼は言ふのです

淸潔は淸潔なんですが

じれつたい淸潔です

僕は、 と僕は言ひかけて

僕も髯を剃らう、 と言ふてしまふた僕なんですが

言ひたいことが言ひたくて

僕は柄杓でバケツの水を飮んでしまふたのです

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を全面改稿した。】初出は昭和一一(一九三六)年十月発行の『歴程』で、先の「日曜日」と同時掲載であったが、「日曜日」との配置の距離から本詩の創作は遙かに古いことが分かる。

 「定本 山之口貘詩集」では二箇所の「髭」が「髯」に替わっている。厳密には「髭」は口ひげ、「髯」は頰ひげ、「鬚」は頤(あご)ひげで使い分けが行われているから、無精ひげとしては「髯」の方が相応しいかも知れない。

【二〇二四年十月三十日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて正規表現への訂正をしているが、驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの初版本は、多量の落丁があることが判った。それは「無題」右の「九八」ページで終って、その左丁が、突然、「一一五」ページとなって、「雨と床屋」の最終部分の四行だけが載っているのである。本書內の十六ページ分が、ごっそり脱落しているのである。これは、実に「夜景」・「生活の柄」・「論旨」・「大儀」・「鏡」・「喰人種」・「自己紹介」・「立ち往生」の八篇分が全く載らず、前に述べたように、「雨と床屋」の八行からなる詩篇の前半四行が載っていないのである。しかも、本国立国会図書館デジタルコレクションの底本詩集のどこを探しても、この呆れ果てた落丁についての修正や差し込みなどは――ない――のである。バクさん、最終製本の校正をしなかったのか? それとも、国立国会図書館に献本する際に、間違って、校正前の不良落丁本を提出してしまったものか? この驚くべき事態は、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にも記されていないのである。国立国会図書館デジタルコレクションでは、同詩集は一冊しか、ない。途方に暮れた。しかし、★――一つの光明はあった――★のである。本詩集発行から二年後、バクさんは、この「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加して第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)を出しており、その原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左のリンクは標題ページ。奥附はここ)にあるから、である。仕方がないから、これで、正規表現を、落丁の八篇と一篇の前半部について校訂することとする。但し、この「山之口貘詩集」の九篇が「思辨の苑」と全く同じである確証はない。バクさんは、詩一篇を完成させるのにも、驚くべき多数の改稿をするからである。また、初出は勿論、先行する詩集からの再録するに際しても、頻繁に改作を行うからである。これは、しかし、私が四苦八苦してやるよりも、所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 詩集」と、上記の「新編」版で、校異されているものと、勝手に抱っこにオンブで、信頼することとする(実は、これは、実は、殆んど信頼出来るものではない。何故かって? 一九七五年七月刊の全集の「詩集校異」の冒頭『思弁の苑』のパートには、『誤字、誤植を訂正し、句読点とくりかえし符号をとりのぞき、若干の行かえと表記の訂正もほどこされている。そのうち』(☞)『おもなものを』(☜)『列記しておく』とやらかしてあるからである。一方、最大の頼みの綱である「新編」版は、第一巻が出たっきり、もう十一年になるのに、残りの二巻以降は未だに出版されていないのだ。しかも、校異は、最後の第四巻に付されることになっているんだ! おいッツ! 俺が生きている間に、全巻! 出せよ! そうしないと、キジムナーに化けて、呪い殺すぞッツ! 本篇はここ。]

大儀   山之口貘

 

   大 儀

 

躓いたら轉んでゐたいのである

する話も咽喉の都合で話してゐたいのである

また、

久し振りの友人でも短か振りの友人でも誰とでも

逢へば直ぐに、

さよならを先に言ふて置きたいのである

あるひは、

食べたその後は、 口も拭かないでぼんやりとしてゐたいのである

すべて、

おもうだけですませて、頭からふとんを被つて沈澱してゐたいのである

言いかへると、

空でも被つて、側には海でもひろげて置いて、人生か何かを尻に敷いて、膝頭を抱いてその上に顎をのせて背中をまるめてゐたいのである。

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。この注を追加した。】初出は昭和一一(一九三六)年六月号『四季』。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題によれば、同誌の「後記」に神保光太郎が『詩の寄稿家、山之口、山村、小高根諸氏はいづれも敬愛するわれわれの友である』と記しているとある。

「あるひは」はママ。

 「定本 山之口貘詩集」では句読点が総て除去され、一文途中の読点は字空けとなっている。

【二〇二四年十月二十八日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて正規表現への訂正をしているが、驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの初版本は、多量の落丁があることが判った。それは「無題」右の「九八」ページで終って、その左丁が、突然、「一一五」ページとなって、「雨と床屋」の最終部分の四行だけが載っているのである。本書內の十六ページ分が、ごっそり脱落しているのである。これは、実に「夜景」・「生活の柄」・「論旨」・「大儀」・「鏡」・「喰人種」・「自己紹介」・「立ち往生」の八篇分が全く載らず、前に述べたように、「雨と床屋」の八行からなる詩篇の前半四行が載っていないのである。しかも、本国立国会図書館デジタルコレクションの底本詩集のどこを探しても、この呆れ果てた落丁についての修正や差し込みなどは――ない――のである。バクさん、最終製本の校正をしなかったのか? それとも、国立国会図書館に献本する際に、間違って、校正前の不良落丁本を提出してしまったものか? この驚くべき事態は、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にも記されていないのである。国立国会図書館デジタルコレクションでは、同詩集は一冊しか、ない。途方に暮れた。しかし、★――一つの光明はあった――★のである。本詩集発行から二年後、バクさんは、この「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加して第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)を出しており、その原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左のリンクは標題ページ。奥附はここ)にあるから、である。仕方がないから、これで、正規表現を、落丁の八篇と一篇の前半部について校訂することとする。但し、この「山之口貘詩集」の九篇が「思辨の苑」と全く同じである確証はない。バクさんは、詩一篇を完成させるのにも、驚くべき多数の改稿をするからである。また、初出は勿論、先行する詩集からの再録するに際しても、頻繁に改作を行うからである。これは、しかし、私が四苦八苦してやるよりも、所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 詩集」と、上記の「新編」版で、校異されているものと、勝手に抱っこにオンブで、信頼することとする(実は、これは、実は、殆んど信頼出来るものではない。何故かって? 一九七五年七月刊の全集の「詩集校異」の冒頭『思弁の苑』のパートには、『誤字、誤植を訂正し、句読点とくりかえし符号をとりのぞき、若干の行かえと表記の訂正もほどこされている。そのうち』(☞)『おもなものを』(☜)『列記しておく』とやらかしてあるからである。一方、最大の頼みの綱である「新編」版は、第一巻が出たっきり、もう十一年になるのに、残りの二巻以降は未だに出版されていないのだ。しかも、校異は、最後の第四巻に付されることになっているんだ! おいッツ! 俺が生きている間に、全巻! 出せよ! そうしないと、キジムナーに化けて、呪い殺すぞッツ! 本篇はここ。]

論旨   山之口貘

 

   論 旨

 

徹底しろ、 と僕に言つたつて

徹底する位なら

僕は浮浪人には徹底なんかしたくないのである 

 

金がなくて困まつてゐる、 と僕に話したつて

金がなくては困まるのである 

 

それが僕よりも困まつてゐると僕に說いたつて

僕よりも困まつてゐては

話がそれは困まるのである 

 

要するにこの男

どこまで僕をこわがるか

話をみないであんまり僕ばつかりをみてゐると

いまにみてゐろ

金を吳れと言ひ出すから。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を全面改稿した。】初出は昭和一〇(一九三五)年九月発行の『詩律』で、総題「夜景」として本詩と前に出た「夜景」の二篇が掲載された。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、句読点が総て除去され、読点は字空きとなり、五行目から九行目にかけては以下のように、



金がなくて困つてゐる と僕に話したつて

金がなくては困るのである

それが僕よりも困つてゐると僕に說いたつて

僕よりも困つてゐては

話がそれは困るのである

 

と、「困まる」の送り仮名が総て「困る」の形に改められている。また、十三行目は、

 

どこまで僕をこはがるか

 

と訂されてある。

【二〇二四年十月二十八日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて正規表現への訂正をしているが、驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの初版本は、多量の落丁があることが判った。それは「無題」右の「九八」ページで終って、その左丁が、突然、「一一五」ページとなって、「雨と床屋」の最終部分の四行だけが載っているのである。本書內の十六ページ分が、ごっそり脱落しているのである。これは、実に「夜景」・「生活の柄」・「論旨」・「大儀」・「鏡」・「喰人種」・「自己紹介」・「立ち往生」の八篇分が全く載らず、前に述べたように、「雨と床屋」の八行からなる詩篇の前半四行が載っていないのである。しかも、本国立国会図書館デジタルコレクションの底本詩集のどこを探しても、この呆れ果てた落丁についての修正や差し込みなどは――ない――のである。バクさん、最終製本の校正をしなかったのか? それとも、国立国会図書館に献本する際に、間違って、校正前の不良落丁本を提出してしまったものか? この驚くべき事態は、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にも記されていないのである。国立国会図書館デジタルコレクションでは、同詩集は一冊しか、ない。途方に暮れた。しかし、★――一つの光明はあった――★のである。本詩集発行から二年後、バクさんは、この「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加して第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)を出しており、その原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左のリンクは標題ページ。奥附はここ)にあるから、である。仕方がないから、これで、正規表現を、落丁の八篇と一篇の前半部について校訂することとする。但し、この「山之口貘詩集」の九篇が「思辨の苑」と全く同じである確証はない。バクさんは、詩一篇を完成させるのにも、驚くべき多数の改稿をするからである。また、初出は勿論、先行する詩集からの再録するに際しても、頻繁に改作を行うからである。これは、しかし、私が四苦八苦してやるよりも、所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 詩集」と、上記の「新編」版で、校異されているものと、勝手に抱っこにオンブで、信頼することとする(実は、これは、実は、殆んど信頼出来るものではない。何故かって? 一九七五年七月刊の全集の「詩集校異」の冒頭『思弁の苑』のパートには、『誤字、誤植を訂正し、句読点とくりかえし符号をとりのぞき、若干の行かえと表記の訂正もほどこされている。そのうち』(☞)『おもなものを』(☜)『列記しておく』とやらかしてあるからである。一方、最大の頼みの綱である「新編」版は、第一巻が出たっきり、もう十一年になるのに、残りの二巻以降は未だに出版されていないのだ。しかも、校異は、最後の第四巻に付されることになっているんだ! おいッツ! 俺が生きている間に、全巻! 出せよ! そうしないと、キジムナーに化けて、呪い殺すぞッツ! 本篇はここ。]

生活の柄   山之口貘

 

   生活の柄

 

步き疲れては、

夜空と陸との𨻶間にもぐり込んで寢たのである

草に埋もれて寢たのである

ところ構はず寢たのである

寢たのであるが

ねむれたのでもあつたのか!

このごろはねむれない

陸を敷いてはねむれない

夜空の下ではねむれない

搖り起されてはねむれない

この生活の柄が夏むきなのか!

寢たかとおもふと冷氣にからかはれて

秋は、 浮浪人のままではねれむれない。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を改稿した。】初出は昭和一〇(一九三五)年一月発行の『日本詩』。総標題を「天」として後の「天」・「教會の處女」・本詩・前の「妹へおくる手紙」・「無題」の順で五篇を掲載してある。「定本 山之口貘詩集」では、句読点が除去され、読点部分は字空きとなっている。

【二〇二四年十月二十八日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて正規表現への訂正をしているが、驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの初版本は、多量の落丁があることが判った。それは「無題」右の「九八」ページで終って、その左丁が、突然、「一一五」ページとなって、「雨と床屋」の最終部分の四行だけが載っているのである。本書內の十六ページ分が、ごっそり脱落しているのである。これは、実に「夜景」・「生活の柄」・「論旨」・「大儀」・「鏡」・「喰人種」・「自己紹介」・「立ち往生」の八篇分が全く載らず、前に述べたように、「雨と床屋」の八行からなる詩篇の前半四行が載っていないのである。しかも、本国立国会図書館デジタルコレクションの底本詩集のどこを探しても、この呆れ果てた落丁についての修正や差し込みなどは――ない――のである。バクさん、最終製本の校正をしなかったのか? それとも、国立国会図書館に献本する際に、間違って、校正前の不良落丁本を提出してしまったものか? この驚くべき事態は、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にも記されていないのである。国立国会図書館デジタルコレクションでは、同詩集は一冊しか、ない。途方に暮れた。しかし、★――一つの光明はあった――★のである。本詩集発行から二年後、バクさんは、この「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加して第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)を出しており、その原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左のリンクは標題ページ。奥附はここ)にあるから、である。仕方がないから、これで、正規表現を、落丁の八篇と一篇の前半部について校訂することとする。但し、この「山之口貘詩集」の九篇が「思辨の苑」と全く同じである確証はない。バクさんは、詩一篇を完成させるのにも、驚くべき多数の改稿をするからである。また、初出は勿論、先行する詩集からの再録するに際しても、頻繁に改作を行うからである。これは、しかし、私が四苦八苦してやるよりも、所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 詩集」と、上記の「新編」版で、校異されているものと、勝手に抱っこにオンブで、信頼することとする(実は、これは、実は、殆んど信頼出来るものではない。何故かって? 一九七五年七月刊の全集の「詩集校異」の冒頭『思弁の苑』のパートには、『誤字、誤植を訂正し、句読点とくりかえし符号をとりのぞき、若干の行かえと表記の訂正もほどこされている。そのうち』(☞)『おもなものを』(☜)『列記しておく』とやらかしてあるからである。一方、最大の頼みの綱である「新編」版は、第一巻が出たっきり、もう十一年になるのに、残りの二巻以降は未だに出版されていないのだ。しかも、校異は、最後の第四巻に付されることになっているんだ! おいッツ! 俺が生きている間に、全巻! 出せよ! そうしないと、キジムナーに化けて、呪い殺すぞッツ! 本篇はここ。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 森戸明神社 

    ●森戸明神社

小名森戸の海濱に在り東鑑には杜戸と記す葉郷の總鎭守なり。此地元山王の社地とぞ。

[やぶちゃん注:「葉郷」「新編相模国風土記稿」によれば、近世にはこの辺りに「木古葉郷」という郷名が見える。相模国三浦郡に属する唯一の村である木古庭(きこば)村で、これは現在の三浦郡葉山町木古庭辺りと考えられるから、この「葉郷」というのもその名残か。

 以下の「新編相模国風土記」の引用は、底本ではポイント落ちで全体が一字下げ(本文のポイントで二字下げ)。]

緣起畧曰治承四年賴朝三島明神を勧請す賴朝豆州配流の日源家再興の事を三島の神に祈りに志を得たり故に此擧ありと是年賴朝未豆州にあり十月に及ひて初て鎌倉に至る總劇の間恐らくは此の事あるべからず又所藏に治承四年九月賴朝の寄進狀あり其寫を藏し本書は失へりと云は又疑はし

と新編相模國風土記に載せたり。神官某が祕藏せらるゝ、院宣及び所謂賴朝公等の寄進狀の寫なるものを觀に。

[やぶちゃん注:「治承四年」西暦一一八〇年。

「總劇」は常に慌ただしいことを意味する「忽劇(そうげき)」の本画報の誤植である。

 以下、後二条院院宣から和田義盛寄進状までは、底本ではポイント落ちで全体が一字下げ(本文のポイントで二字下げ)。一部の字配を変更してある。]

     ⦅後二條院々宣⦆

               刑部助物部恒光職位

        院宣     寄置刑部助物部恒光

           院判  寄置刑部助物部恒光

  自關東被申下間直院宣處

                  刑部助殿者也

院宣御勅使 爲左中辨則實

 奉祇定刑部助殿也

右懸院宣者往昔古枯木得生萌落水逆流也況雖爲末世直至院宣身當亦今生者越武仕位連座天上衆中非名門限義神祇宜道御利生爲任祈念心於浮生業者永世堕惡道而十方佛土參詣者任我心者也仍刑部助位職如件

   正和三年十月望日

              院宣御勅使    佐中辨則實

[やぶちゃん注:「正和三年」西暦一三一四年。後二条天皇は徳治三(一三〇八)年に崩御しているから、このクレジットが正しいとすれば後二条院院宣というのはおかしい。]

     ⦅花園院々宣⦆

            寄置 刑部助物部賴元職位

            寄置 刑部助物部賴光

右雖爲末世此院宣致頂戴職位不長隱仍敬尊廟奠塔爲造營廻依之宣勅許云々

   院宣如斯候

院宣嘉元元年仲冬月八日    左中辨則實院宣旨以人神任以故濁世

   刑部助職位隨望申處也仍謹狀

  正和三年十月望日

[やぶちゃん注:「嘉元元年」西暦一三〇三年。この院宣も不審。後花園院の退位は文保二(一三一八)年で、最後のクレジットの正和三(一三一四)年(前の院宣と同じ)にあっても彼は院ではなく、現役の天皇である。]

      ⦅賴朝寄進狀⦆

     相摸國葉山郡内森戸大明神御供免莵田莵畠合貮町事

右奉爲 金輪聖王御願圓滿特武運昌榮令引募之仍神官可致祈禱兼又向社廰住國軍類敢不可遺失仰得惣郷者爲公家御料所時當宮社官者雖帶院宣論旨以國衙分割分容附之如斯故以狀

 治承四年九月九日十九日   源  朝  臣判

      ⦅二位尼寄進狀⦆

     判

下 婦美禰宜職

  田成畠三反並當代田一反御寄進事

右以刑部助所補任被職也任先例可致祈禱之狀如件

  曆應二年十二月十四日

[やぶちゃん注: 「曆應二年」西暦一三三九年。「二位尼」とは北條政子のことを指すが、全く時代が合わないので違う。「新編鎌倉志卷之七」では二位家と号した足利尊氏夫人赤橋登子(本文では「平時子」とあるが、これは清盛の妻との混同か。登子は従二位に叙せられてはいる)かとする。]

      ⦅和田義盛寄進狀⦆

義盛奉寄進

  森戸大明神

   相摸國葉山郡内成田大其外自昔寄進所不可相違之狀如件

右意趣者爲祈禱精誠並心中所願成就故也仍如件

  文和二年六月廿六日

[やぶちゃん注:「文和二年」文和二・正平八(一三五三)年。和田義盛は、その百四十年も前の建暦三(一二一三)年五月の和田合戦で一族郎党とともに滅んでいるから話にならない。]

     神寶

駒角  二本

短刀一腰  信國作長九寸五分、天和三年菅谷八郎兵衛長房寄進、長房は菅谷安房守四世の孫なり。

[やぶちゃん注:「九寸五分」約二八・八センチメートル・

「天和三年」西暦一六八三年。「新編鎌倉志卷之七」に載らないのは、同作板行後の寄進だから当然。]

横笛  一管靑葉の笛を模せり。

[やぶちゃん注:「靑葉の笛」は悪源太義平や平敦盛のエピソードで知られ、ここでは後者かとも思われるが、青葉と名付けられた名笛伝承は各種あり、古いものは天智天皇の頃まで遡るともいう。現在の神宝として残っているかどうかは不詳。]

小鼓の胴  一個阿古が作。

[やぶちゃん注:「阿古」は「あこう」と読み、鼓胴作りの名工の名。初世の阿古は室町中期将軍義政の頃に在世した。]

猿田彦の面  一枚運慶が作。

翁の木面  何時の頃にや、小坪の漁師一夜網を打ちけるに此面懸かりければ、漁師奇瑞として、之を明神に奉納したりといふ、又小坪村に翁氏の民二十餘人あるは皆彼漁夫の遠裔(ゑんえい)なりと云傳ふ。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之七」には載らない。

 以下、「奪ひ去らる。」までは底本では全体が一字下げ。なお、そこに記された硯のことは、「新編鎌倉志卷之七」には載っていない。「「新編相模国風土記稿卷之百八」には、これらの詳細な図が載る。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを参照されたい。失われた前浜の眺望の図もある。]

此外政子所用の硯の蓋は表、黑塗松に鶴、裏金梨地蘆雁の高蒔繪なるもの希世の逸品とて深く祕藏せられしに三四年前惜しむべし賊の爲めに奪ひ去らる。

祭神は大山祇命にして神體は鏡面に鑄出せし像なり。

本社慶長二年十二月再興の棟札を藏せり、天正十九年十一月社領七石の御朱印を賜ふ。同年制札を賜ひしとて今其寫を藏す、里老の話に今より四十年前の大風雨にて、明神の境内大に觀を損ひたるよし、今の祠(ほこら)は明治九年の建立にして毎年九月祭禮を行ふ。

[やぶちゃん注:「慶長二年」西暦一五九七年。

「天正十九年」西暦一五九一年。ここ編年で書いていない。

「四十年前」画報刊行の明治三一(一八九八)年からだと、四十年前は安政五(一八五八)年に当たる。

「明治九年」西暦一八七六年。

「毎年九月祭禮を行ふ」治承四 (一一八〇) 年九月八日を創建とする森戸大明神例大祭。例大祭。「森戸大明神」公式サイトはこちら

 以下、同明神近辺の名跡の「高石」まで、底本では全体が一字下げ。]

    ●飛混柏

社の北にあり、豆州三島より飛來(とびきた)るといふ、圍二抱許、此の餘社地に混柏多し。

[やぶちゃん注:「混柏」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属イブキ Juniperus chinensis か。現在も社域の五本が天然記念物に指定されている。その中でも海上に張り出した樹高約十五メートル・胸高の周囲約四メートルの一本は樹齢八百年と推定されており、尚且つ、野生種とも考えられている貴重なものである。]

    ●千貫松

社の西海濱に突出したる岩上にあり、圍二尺餘、松樹の形いと美にして、其價千貫を以て募るべし、故に名づく、東鑑に杜戸松樹と見えたり、今の松は後に植繼(うゑつ)きし者なりといふ。

[やぶちゃん注:一説に養和元(一一八一)年に頼朝が身を以て彼を守った三浦義明の追善のため、衣笠城へ向かう途次、この地で休息、海浜の岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えに参じていた和田義盛が「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたともされる。後世の作話とも思われるが掲げておく。

「二尺」六〇・六センチメートル。

「千貫」ネット上の情報ではやや後になるが、戦国時代の金換算で百億円を有に超え、銀換算でも二億円近いとある。]

    ●腰掛松

千貫松の西の岩上にあり、賴朝此樹に腰をかけて遊覽せしむといふ。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の元暦元(一一八四)年の五月十九日の条に、

〇原文

十九日丙午。武衞相伴池亞相〔此程在鎌倉。〕右典厩等。逍遙海濱給。自由比浦御乘船。令着杜戸岸給。御家人等面々餝舟舩。海路之間。各取棹爭前途。其儀殊有興也。於杜戸松樹下有小笠懸。是士風也。非此儀者。不可有他見物之由。武衞被仰之。客等太入興云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

五月大十九日丙午。武衞、池の亞相(あしやう)〔此の程鎌倉に在り。〕右典厩(うてんきう)等を相ひ伴ひ、海濱を逍遙し給ふ。由比浦より御乘船し、杜戸の岸へ着かしめ給ふ。御家人等面々舟舩(しうせん)を餝(かざ)り、海路の間、各々棹を取り前途を爭ふ。其の儀殊に興有るなり。杜戸の松樹下に於て小笠懸有り。是士風なり。此の儀に非ずば、他の見物有るべからざるの由、武衞、之を仰せらる。客等太だ興に入ると云々。

・「池亞相」は池大納言頼盛、平頼盛(長承元(一一三二)年~文治二(一一八六)年)のこと(「亞相」は大臣に次ぐ大納言を指す唐名)。平忠盛五男で清盛の異母弟に当たる。母は平治の乱で頼朝を救命した池禅尼(藤原宗兼娘宗子)。六波羅池殿に住んだことから池殿・池の大納言などと称された。清盛の政権下で正二位権大納言にまで登ったが、清盛との関係は良くなかった。寿永二(一一八三)年七月の平家都落ちの際には途中から京に引き返して後白河法皇の庇護の下、八条院に身を寄せたが、同年八月には解官されている。後、木曾義仲の追及を逃れて鎌倉に下向し、頼朝に謁見する。頼朝は頼盛の実母池禅尼の助命の恩義に報いるために頼盛を厚遇、平家没官領のうちの頼盛の旧所領の荘園を返付した上、朝廷に頼盛の本位本官への復帰を奏請、この「吾妻鏡」の記事の翌月、元暦元(一一八四)年六月に正二位権大納言に還任されて帰京、朝廷に再出仕している。但し、法住寺合戦を目前にした京都からの逃亡や頼朝の厚遇を受けたことが、後白河院近臣ら反幕勢力の反発を買ったものと推測され、同年十二月には子息光盛の左近衛少将奏請とともに官を辞した。文治元(一一八五)年に出家して重蓮と号し、翌年、没した。

・「右典厩」公卿一条能保(久安三(一一四七)年~建久八(一一九七)年)のこと。藤原北家中御門流の丹波守藤原通重の長男。但し、当時の彼は左馬頭(唐名左典厩)であったから「左典厩」の誤記。能保は妻に源義朝娘で頼朝同母姉妹であった坊門姫を迎えていたため、頼盛同様、頼朝の厚遇を受けた。

・「是士風なり。此の儀に非ずば、他の見物有るべからざる」の部分は、頼朝の直接話法に準じた記載である。本「新編鎌倉志」の記載との異同に注意されたい。「土風」ではなく、「吾妻鏡」は「士風」である。これは『(関東武士の)士風』の意である。「新編鎌倉志」の本文では、これを『土地の習わし』と読み、弓馬の芸の一つである小笠懸の仕儀を、この森戸辺の古来の土俗習俗であろう、と解説しているのだが、如何? 三浦氏の勢力下にはあったものの、近距離からの馬上からの射芸が、森戸のような狭い海浜での習俗として古くからあったとするのは、私にはやや疑問である(勿論、全否定出来る証左もないのであるが)。確かに「吾妻鏡」北条本は「土」であるが、現行「吾妻鏡」はこれを「士」とする。私は北条本は単なる「士」の字を「土」と誤ったに過ぎないと読む。ここは寧ろ登場人物に着目すべきで、都人として武士の風を失った頼盛や、姻族ながら公家である一条能保に対し、『これ、関東武士の誉れともいうべきものにて、この射芸にあらざれば、いかなる射芸も見物すること、これ、価値は御座らぬ!』と鎌倉武士の面目躍如たる自負を示したワン・シーンととるべきところであろう。]

    ●高石

千貫松の南、海濵にあり、高三間許。

耳嚢 巻之八 禪氣其次第ある事

 禪氣其次第ある事

 

 ある禪林、ふしんありて瓦師(かはらし)瓦釘(かはらくぎ)を打(うち)けるに、右瓦の下に蛇のありしをしらず、丈夫にと打ぬきしに、蛇の首を打ぬきしゆゑ蛇わだかまりくるしみけるを見て、大(おほき)に驚き早速下へおりて、蛇は執心深きものなればいかなる事かなさむ、兼て後生願(ねがひ)の瓦師なれば深く愁ひけるが、長老かへりける故、かゝる事有(あり)し故、心にかゝる趣(おもむき)咄しければ長老、夫(それ)は心得あしゝ、釘をこそうて釘をこそうてと申(まうし)ければ、御影(おかげ)にて心ひらけたりと、瓦師歡びけるを、和尚奧より出て、何を論ずるやと尋(たづね)けるゆゑ、ありし次第を申しければ、夫はまた心得あしゝ、釘を打けり釘を打けりと申ければ、彌(いよいよ)瓦師其意を悟り、歡(よろこび)しとなり。げにも釘をこそうてと諭しては、こそといふ字意また蛇に心あり。釘を打けりといえば、無心瓦釘の事のみなりと。和歌など、題に執着して此病ひ多くありと、古人かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:仙気から禅気(注参照)で何となく連関して感じられるのは錯覚か。

・「禪氣」禅機。禅に於ける無我の境地から出る働き。禅僧が修行者などに対する際の独特の鋭い言葉又は動作を指す。

・「禪林」禅寺。

・「瓦師」瓦屋根を葺く職人。

・「瓦釘」屋根瓦が辷り落ちるのを防ぐために打つ釘。

・「後生願」ひたすら来世の極楽往生を願う人。されば庶民の彼の宗旨は禅家のそれではなく、浄土宗か浄土真宗、日蓮宗の可能性が高いように思われる。とすると、これを一種公案に見立てるなら、瓦師はここで禅機に触れて宗旨を変えた可能性もあり、何だか面白いことになってくるように私は思う。

・「長老」必ずしも年長の老人である必要はなく、修行の年期が長く学徳の優れた僧を指し、禅宗では寺院の住職の称としても用いられるものの、上座・上席・耆宿(きしゅく)などと同義であり、この「上座」などは三綱(さんごう:寺内の管理・統制に当たる三種の役僧で上座の他に寺主(てらし/じしゅ:庶務・雑事を掌る。)・維那(いな/いの/いのう:庶務を掌り、またそれを指図する。都維那(ついな)。)の一つで、一般には年長にして有徳で、寺内の僧を監督したり事務を統括する役僧を指す。しかしまた、禅宗では単に相手の僧を敬っていう語でもあり、更に、曹洞宗の僧階の一つとしての「上座」は出家得度後に入衆(にっしゅ:修行僧の仲間に新たに入ること。)した僧をも指し、これら場合、必ずしも老人とは限らない。ここは「和尚」(次注参照)の下の上座の役僧と訳すこととする。

・「和尚」梵語の俗語の音写で「師」を意味する。戒を授ける資格を持つ師の僧や修行を積んだ僧の敬称であるが、広く寺の住職をも指す。この場合、話柄から本禅寺の住職と採る。

・「釘をこそうて釘をこそうて」「釘を打けり釘を打けり」孰れも底本は「釘をこそうて」及び「釘を打けり」のそれぞれの後に踊り字「〱」となっている。これは理屈から言えば「釘をこそうてうて」「釘を打けり打けり」という繰り返しとも読めるが、私は前者はいいとしても後者は禅語としてしっくりこないように思われるのである。禅問答に於ける禅の機迫力から敢えてかく総ての章句を繰り返して表わした。大方の御批判を俟つ。

・「また蛇に心あり」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「まだ蛇に心あり」である。その方がよい。「釘をこそ打て」係助詞「こそ」の持っている強い取立ての意識には『蛇をではなくまさに釘をこそ打ったのである』という言外の蛇への外延的意識が「まだ」連続しているのである(と私は思う)。「釘を打ちけり」、『私は釘を打ったのだ』という命題にはそうした夾雑物は排除されて、純正無心の透明な世界が在る(と私は思う)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 禅機にもその階梯のある事

 

 ある禅林に於いて、普請の御座って、瓦師が瓦釘を打っておったところが、かの瓦の下に蛇のおったを知らずに、丈夫にと、思い切り瓦を打ち抜いたところが、その蛇の首もろとも打ち貫いてしまい、屋根と屋根瓦に挟まれ、蛇は蜷を捲いて苦しみ悶えて御座ったを見、大きに驚き、直ぐに抜き放ったものの、蛇は血にまみれたままに、何処ぞへと消えてしもうたと申す。

 瓦師は直ぐに下へ降りて、

「……蛇は執念深きものなれば……かくなる上は……きっと恐ろしき祟りをなすに違いない……」

なんどと――かねてより後生願いの瓦師で御座ったによって――深く愁えて御座った。

 するとそこに丁度、寺の用にて外出して御座った上座の役僧が帰って参ったに出逢(お)うたによって、

「……かくかくのことが御座いましたによって……ひどぅ心に引っ掛かって仕方のぅ御座いまする……」

といった訴えを口に致いたところ、その役僧、

「――それは心得方が、これ、宜しゅうない!――釘をこそ打て!――釘をこそ打て!」

と喝破致いた。

 すると、瓦師は、

「――はッ?!……なるほど! お蔭様で、何とのぅ、我ら、心の晴れ晴れと致しまして御座りまするぅ!」

と、瓦師は悦びの声を挙げた。

 ところがその声を聴きつけたその寺の住持が奧より出でて、

「――さても――何を論じて御座る?」

と訊ねて御座ったによって、瓦師は、ことの顛末と役僧の言葉を申し述べた。すると、

「――それはまた――如何にも役僧の心得方こそ、これ、悪しき極み!――釘を打った! 打った!」

と申されたによって、いよいよ瓦師は住持の真意を悟り、殊の外、歓喜致いたと申す。

 確かに……

――「釘をこそ打て!」と諭して喝破致いたとしても――その――「こそ」――という字意には――これ、未だ『蛇に対する思い』が――在る――

――「釘を打った!」と申さば、無心の瓦釘のことのみが――そこには――在る――

ので御座る。……

 

「……禅機のことは凡夫の我らには到底分かるものにては御座らねど……この話は如何にも目から鱗……和歌なんどにては、出だされた題に執着(しゅうじゃく)するあまり、しばしば、よき歌をし損ずる病い……これ、多く御座るものじゃ……」

と、私の旧知の御仁が語って御座ったよ。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 27 植物学を教育する絵と額 / 飾り附き楊枝入れ / 車窓から / 丁髷あれこれ / 丁髷刃傷

M326
図―326

 図326は、植物学を教える、巧妙な方法を示している。板はその上に描いた花を咲かせる木の材であり、額縁はその樹皮でつくり、その四隅は枝の横断面で出来ている。

[やぶちゃん注:これは何だろう? サツキかツツジの花のように見えるが、額縁や板は相応の樹高と太さがないとおかしい感じがするからウツギ辺りか?]

M327
図―327
 

 今日高嶺夫人が、ジョンの遊び仲間である、小さな日本の子供達をつれて来られた。彼女は縮緬でつくつた、針差みたいな小さな品を三つ持って来た。これ等は、背部に、木製の小楊枝を入れる袋をそなえている。図327はその二個である。

[やぶちゃん注:飾り附きの楊枝入れである。] 

 先日、横浜から来る途中、私は汽車の窓から、滑稽な光景を見た。それは把(まぐわ)をつけた馬が一匹、気違いのように逃げて行くのを、農夫が止めようとしているのであった。今や田には水が満ちているので、把がはね上っては、泥と水とを農夫にあびせかける有様は、実に抱腹絶倒であった。

M328
図―328
 

 私は丁髷(ちょんまげ)の珍しい研究と、男の子、並に男の大人の髪を結ぶ、各種の方法の写生図とが出ている本を見た。これには百年も前の古い形や、現在の形が出ている。図328で、私はそれ等の意匠のある物をうつした。これ等の様式のある物は、よく見受けるが、およそ我々が行いつつある頭の刈りよう程、素速く日本人に採用された外国風のものはない。それが如何にも常識的であることが、直ちにこの国民の心を捕えたのである。頭を二日か三日ごとに剃り、その剃った場所へ丁髷を蠟でかため、しつかりと造り上げることが、如何に面倒であるかは、誰しも考えるであろう。夜でも昼でも、それを定位置に置くというのは、確かに重荷であったに違いない。漁夫、農夫、並にその階級の人々、及び老齢の学者や好古者やその他僅かは、依然として丁髷を墨守している。大学の学生は、全部西洋風の髪をしている。彼等の大部分は、頭髪を寝かせたり、何等かの方法でわけたりすることに困難を感じ、中には短く切った頭髪を、四方八方へ放射させたのもある。子供の頃から頭のてっぺんを剃って来たことが、疑もなく、髪を適当に寝かせることを、困難にするのであろう。

[やぶちゃん注:「蠟」
髱(たば)を固めた鬢付け油には古くは木蝋と松脂を溶かして練り合わせたものが使用されていたらしい。

 しばらくの間私と一緒に住んでいた一人の学生は、歩くのにびっこを引くので、リューマチスにかかっているのかと聞いて見た。すると彼は、これはある時争闘をして受けた刀傷が、原因していると答えた。私は好奇心が動いたので、ついに思いきって、どこかの戦争で、そんな傷をしたのかとたずねた。彼は微笑を浮べて、次のようなことを語った。初めて外国人を見、整髪法が如何にも簡単であるのに気がつき、そしてこのような髪をしていることが、如何に時間の経済であるかを考えた彼は、ある日丁髷を剃落して級友の前へ現れ、学校中を吃驚させた。一人の学生が特にしつっこく、彼が外国人の真似をしたとて非難した。その結果、お互に刀を抜き、私の友人は片脚に切りつけられたのである。だがその後半年も立たぬ内に、彼を咎めた学生も、外国風の整髪法が唯一の合理的方法であることを理解するに至り、丁髷を落して登校した。

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(12)「はなあやめ」(Ⅱ)



夏祭すこしはなれて粧ひし

君と扇の風かはしけり

 

ほとゝぎす女に友の多くして

その音づれのたそがれの頃

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十九歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された八首連作の中の一首、

 ほとゝぎす女(をんな)に友(とも)の多くしてその音(おと)づれのたそがれの頃

の表記違いの相同歌。]

 

ほとゝぎす卯の花垣にしば鳴くを

枕はづして聽きたまふさま

 

[やぶちゃん注:原本は「垣」を「桓」とするが、誤字と断じて校訂本文の「垣」を採った。]

飯田蛇笏 靈芝 大正十五年(二十二句)

 大正十五年(二十二句)

     ――昭和元年――

 

歳旦や芭蕉たゝへて山籠り

 

山風にながれて遠き雲雀かな

 

   如月のはじめ總州の旅路に麥南の草庵生活を訪ふ

風呂あつくもてなす庵の野梅かな

 

[やぶちゃん注:「麥南」俳人西島麦南(ばくなん 明治二八(一八九五)年~昭和五六(一九八一)年)。本名、九州男(くすお)。熊本県出身で武者小路実篤の『新しき村』で大正一一(一九二二)年まで開拓に従事、大正一三年に岩波書店に入社して校正者となり、『校正の神様』と呼ばれた。俳句を蛇笏に師事して深く傾倒、自ら『生涯山廬門弟子』」と称した。句集に「金剛纂(こんごうさん)」「人音(じんおん)」(主に講談社「日本人名大辞典」に拠る)。幾つかの句を示す。

 春さむや庵にととのふ酒五合

 いたつきや庵春さむき白衾

 梨花の月さし入る庵の筒井かな

 磯菜つみ春の雷雨にぬれにけり

 春の雷漁邑の運河潮さしぬ

 摩崖佛春たつ雲のながれけり

 圖書堆裡春たつ塵の微かなる

 炎天や死ねば離るゝ影法師

 木の葉髮一生を賭けしなにもなし

蛇笏より十歳年下であった。]

 

  宗吾神社へ詣づ

早春や庵出る旅の二人づれ

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では「麥南とゝもに我が尊崇する宗吾神社へ詣づ」とある。この「宗吾神社」というのは現在の埼玉県秩父郡小鹿野町長留にある宗吾神社(一名羽黒神社)であろうか。創祀は不詳で千葉成田の義民として知られる佐倉宗五郎を祀っている。]

 

  二月十八日歸庵、とりあへず麥南のもとへ

かへりつく庵や春たつ影法師

 

  悼内藤鳴雪氏

春さむや翁は魂の雲がくれ

 

[やぶちゃん注:『ホトトギス』の重鎮で弘化四(一八四七)年生まれの俳人内藤鳴雪は、この大正一五(一九二六)年の二月二十日に満七十八歳で亡くなった。]

 

夏旅や俄か鐘きく善光寺

 

夕雲や二星をまつる山の庵

 

盆市の一夜をへだつ月の雨

 

雲を追うこのむら雨や送り盆

 

[やぶちゃん注:「追う」はママ。「山廬集」では「追ふ」と訂されてある。]

 

ほこほことふみて夜永き爐灰かな

 

[やぶちゃん注:「ほこほこ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

ゆかた着のたもとつれなき秋暑かな

 

秋風や笹にとりつく稻すゞめ

 

夜のひまや家の子秋の幮がくれ

 

蟲の夜の更けては葛の吹きかへす

 

ひぐらしの遠のく聲や山平

 

冬風につるして乏し厠紙

 

襟卷にこゝろきゝたる盲かな

 

すこやかに山の子醉へる榾火かな

 

  富士川舟行

極寒のちりもとゞめず巖ふすま


[やぶちゃん注:大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」で大野氏は『蛇笏の気象の激しさを遺憾なく示している句で』、『この句の情景よりも、さらに多く背後の精神のきびしさを犇々とかんぜしめ』、『巌の厳粛さが、作者のそのとき精神の厳粛さとなって還ってくる句で』、『そこには蛇笏の文芸不抜の精神が籠められている』、『いえば青春挫折の抑圧された精神が、こうしたきびしい自然の姿に共感を呼んだともいえ』る『秀作である』と絶賛、また、山本健吉はこの句を芭蕉の「白菊の目に立てて見る塵もなし」と比較して、『「目に立てて見る塵もなし」が対者への言いかけを含んでいるのに対し、「極寒のちりもとどめず」は「言ひかけるべき対者を持たず、言ひかへれば談笑の場を持たず、孤独のつぶやきとして立つてゐる」という。そのことは「白菊の句がそれ自身として独立しながら、しかも脇句以下の三十五句を無限にさそひかけてゐるのに対して、この句はそのやうなさそひかけを持たず、孤絶の心において立つてゐる』と評しているとする(但し、この山本氏の謂いは江戸期の連衆の文学としての連句と西欧思想に感染した近代俳句の本質的属性に基づく相違であり、私には必ずしも本句一箇のオリジナリティに依る特異点とは言えないと思う)。更に、角川源義の「近代文学の孤独」(一九五八年近代文芸社刊)の評言を引き、『過去との離別を、蛇笏は富士川舟行のたびに感じた』。『蛇笏はまた巌の持つ思想を愛した人だ』。『夕日影をあび林間の青巌を坐禅三昧のすがたと感ずる人だ。蛇笏俳句は巌の思想だ』とも引く。ちょっとここまで言われると、逆に――ふーん、そういうもんですか――と言いたくなってしまう程度に、私は天邪鬼ではある。]

山柴におのれとくるう鶉かな

 

[やぶちゃん注:「くるう」はママ。「山廬集」では「くるふ」と訂されてある。]

 

山土の搔けば香にたつ落葉かな

夜景   山之口貘

 

   夜 景

 

あの浮浪人の寢樣ときたら 

 

まるで地球に抱きついて ゐるかのやうだとおもつたら 

 

僕の足首が痛み出した

 

みると、地球がぶらさがつてゐる

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一〇(一九三五)年九月発行の『詩律』(発行所は東京市豊島区巣鴨町の詩律発行所)で総題「夜景」として本詩と後に出る「論旨」の二篇が掲載された。本詩は表記通り、有意に行間が空くが、原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、 

   *

 

 夜景

 

あの浮浪人の寢樣ときたら

まるで地球に抱きついて ゐるかのやうだとおもつたら 

 

僕の足首が痛み出した

みると、地球がぶらさがつてゐる

 

   *

の形に改稿されている。

【二〇二四年十月二十七日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて正規表現への訂正をしているが、驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの初版本は、多量の落丁があることが判った。それは「無題」右の「九八」ページで終って、その左丁が、突然、「一一五」ページとなって、「雨と床屋」の最終部分の四行だけが載っているのである。本書內の十六ページ分が、ごっそり脱落しているのである。これは、実に「夜景」・「生活の柄」・「論旨」・「大儀」・「鏡」・「喰人種」・「自己紹介」・「立ち往生」の八篇分が全く載らず、前に述べたように、「雨と床屋」の八行からなる詩篇の前半四行が載っていないのである。しかも、本国立国会図書館デジタルコレクションの底本詩集のどこを探しても、この呆れ果てた落丁についての修正や差し込みなどは――ない――のである。バクさん、最終製本の校正をしなかったのか? それとも、国立国会図書館に献本する際に、間違って、校正前の不良落丁本を提出してしまったものか? この驚くべき事態は、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にも記されていないのである。国立国会図書館デジタルコレクションでは、同詩集は一冊しか、ない。途方に暮れた。しかし、★――一つの光明はあった――★のである。本詩集発行から二年後、バクさんは、この「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加して第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)を出しており、その原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左のリンクは標題ページ。奥附はここ)にあるから、である。仕方がないから、これで、正規表現を、落丁の八篇と一篇の前半部について校訂することとする。但し、この「山之口貘詩集」の九篇が「思辨の苑」と全く同じである確証はない。バクさんは、詩一篇を完成させるのにも、驚くべき多数の改稿をするからである。また、初出は勿論、先行する詩集からの再録するに際しても、頻繁に改作を行うからである。これは、しかし、私が四苦八苦してやるよりも、所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 詩集」と、上記の「新編」版で、校異されているものと、勝手に抱っこにオンブで、信頼することとする(実は、これは、実は、殆んど信頼出来るものではない。何故かって? 一九七五年七月刊の全集の「詩集校異」の冒頭『思弁の苑』のパートには、『誤字、誤植を訂正し、句読点とくりかえし符号をとりのぞき、若干の行かえと表記の訂正もほどこされている。そのうち』(☞)『おもなものを』(☜)『列記しておく』とやらかしてあるからである。一方、最大の頼みの綱である「新編」版は、第一巻が出たっきり、もう十一年になるのに、残りの二巻以降は未だに出版されていないのだ。しかも、校異は、最後の第四巻に付されることになっているんだ! おいッツ! 俺が生きている間に、全巻! 出せよッツ! そうしないと、キジムナーに化けて、呪い殺すぞッツ! 本篇はここ。【同日午後一時六分追記】先ほど、国立国会図書館にこの落丁の件をメールで通知しておいた。]

篠原鳳作句集 昭和八(一九三三)年三月



ストーブや國みなちがふ受驗生

 

   漂泊の露人とクリスマスをいとなむ

ガチヤガチヤの鳴く夜を以てクリスマス

 

[やぶちゃん注:「ガチヤガチヤ」ここでは十二月に鳴いているのが当たり前の感じからして宮古か沖繩本当の景と考えられ、とすれば直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス科 Mecopoda 属タイワンクツワムシ Mecopoda elongata と思われる。ウィキの「タイワンクツワムシ」によれば、同じ Mecopoda 属のクツワムシ Mecopoda nipponensis に『似ているが、羽根は細長く、前胸の側面に黒褐色の帯が上面に沿って現れる。別名ハネナガクツワムシ』ともいい、『伊豆半島以南の本州、四国、九州、沖縄などの他離島に分布』する(通常、我々が「ガチャガチャ」と呼ぶクツワムシ Mecopoda nipponensis は南西諸島には分布しない模様である)。体長は六・五~七・五センチメートルで、『メスはオスよりも大きい。体は緑かまたは褐色。オスの前胸はクツワムシより広がり方が弱い。発音器もやや小さい。また本種は脚や触角の体に対する割合が大きく、羽は丸みが少なく細長く、背面側の先端近くが緩やかに上にカーブし、凹んだように見える。個体によっては羽の側面に現れる黒斑もクツワムシより多く、大きい。特にメスで顕著。またメスの方が羽根が長くなることが多くこうした個体は灯りに向かって飛翔してくることさえある。産卵管は後脚腿節の半分ほどの長さで上に向かいカーブする。鳴き声も全く異なっており、「ギィッ!ギィッ!」と前奏を数回繰り返した後、本奏は「ギュルル…」と長く引き延ばす鳴き方をし、この部分はクツワムシの声に似たところもある』とする。『南方系種で海岸や線路沿い、土手などクツワムシよりも乾燥した、日当たりの良い環境を好み、普通は混生しない。本種とクツワムシとが生息している地域では平地に本種が、クツワムシは山地に住む傾向がある』。『夜行性であり、日が暮れてから活動する。昼間クツワムシは根元近くで休むのに対し、本種は葉の上で脚を広げ、じっとしていることが多い。食草はクツワムシ同様、クズが主食であり、その他乾燥草原に生える各種広葉雑草から低木の葉までを食べる。飼育下ではクツワムシと全く同じ物を食べ、多少の肉食もするが共食いは殆どしない』。『クツワムシより褐色個体の割合が高く、緑色型として羽化し外骨格の硬化が完了した個体であっても、日照量の少ない日陰や夜間での活動を続けると1ヵ月程度で褐色に変化してしまう。 本州のものは6月頃孵化し8月頃羽化、初霜の頃には死に絶えるというクツワムシと同様の一生を送るが、南に行くほど成虫の生存割合は高まり、亜熱帯地域では冬を越して幼虫が孵化する頃まで生きていることも珍しくない』とある(下線やぶちゃん)。]

 

手づくりの蠟燭たてやクリスマス

 

[やぶちゃん注:「蠟燭」は底本の用字。]

 

聖誕祭かたゐは門にうづくまる

 

[やぶちゃん注:ここまでの四句は三月の発表句。]

杉田久女句集 105 蟲なくや帶に手さして倚り柱


蟲なくや帶に手さして倚り柱

橋本多佳子句集「信濃」 信濃抄一 (Ⅲ)/「信濃抄一」了



掌に熱き粥の淸(すが)しさ夏やせて

 

機銃やみ一本の桔梗露に立つ

 

[やぶちゃん注:野尻湖周辺に軍の演習場でもあったものか(ネット上の検索では野尻湖周辺では見当たらなかった)。]

 

驟雨中ききそれし言そのままに

怒(いか)れる 相(すがた)   八木重吉

 

空が 怒つてゐる

木が 怒つてゐる

みよ! 微笑(ほほえみ)が いかつてゐるではないか

寂寥、憂愁、哄笑、愛慾、

ひとつとして 怒つてをらぬものがあるか

 

ああ 風景よ、いかれる すがたよ、

なにを そんなに待ちくたびれてゐるのか

大地から生まれいづる者を待つのか

雲に乘つてくる人を ぎよう望して止まないのか

 

[やぶちゃん注:太字「ぎよう」は底本では傍点「ヽ」。目的語からは「仰望」で仰ぎ望むこと、また、敬い慕うことの意が、また、あらゆる「怒れる」現界のそれらが「待ちくたびれてゐる」ことを考えるならば、「翹望」(「翹」は「挙げる」の意)、首を長く伸ばすように待ち望むこと、その到来を強く望み待つことの意の熟語がマッチはする。重吉がこの「翹」の字を思い出せなかったか、嫌いな(例えば事実、私藪野直史は「堯」という漢字に対して実は激しい生理的嫌悪感を持っている)漢字であったから敢えて平仮名表記したと考えると納得は出来る。但し、歴史的仮名遣は正しくは「仰望」なら「ぎやうばう」、「翹望」なら「げうばう」で孰れも合致はしない(但し、重吉は今まで見てきたようにしばしば歴史的仮名遣を誤用することも事実ではある)。「ぎよう望」が全く正しい表記ならば、これは「凝望」「ぎようばう(ぎょうぼう)」に相当する。これは目を凝らして眺めること、凝と遠くを見つめることをいう。寧ろ、風景の姿の持つ「怒り」と「待ちくたびれ」と「止まぬ待望」が詩の中に十全に横溢している以上は、ここでは寧ろ、最後の「凝望」の「姿」のみのシンプルな謂いで採った方がより相応しいように私は感ずる。]

2014/03/04

無題   山之口貘

 

   無 題

 

むろん理由はあるにはあつたがそれはとにかくとして

人々が僕を嫌ひ出したやうなので僕は溫しく嫌はれてやるのである

嫌はれてやりながらもいくぶんははづかしいので

つい、 僕は生きようかと思ひ立つたのである

煖房屋になつたのである

萬力臺がある鐵管がある

吹鼓もあるチェントンもあるネヂ切り機械もある

重量ばかりの重なり合つた仕事場である

いよいよ僕は生きるのであらうか!

鐵管をかつぐと僕のなかにはぷちぷち鳴る背骨がある

力を絞ると淚が出るのである

ヴイバーで鐵管にネヂを切るからであらうか

僕の心理のなかには慣性の法則がひそんでゐるかのやうに

なにもかもにネヂを切つてやりたくなるのである

目につく物はなんでも一度はかついでみたくなるのである

ついに僕は、僕の體重までもかついでしまつたのであらうか

夜を摑んで引つ張り寄せたいのである

そのねむりのなかへ體重を放り出したいのである。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月24日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を全面改稿した。】初出は昭和一〇(一九三五)年一月発行の『日本詩』。総標題を「天」として後の「天」・「教會の處女」・「生活の柄」・「妹へおくる手紙」・本詩の順で五篇を掲載している。

「煖房屋になつたのである」前に注したが、バクさん満二十六歳の昭和四(一九二九)年前後から翌昭和五年にかけては、前掲の「ぼくの半生記」によれば、暖房器具の配管工事の助手など、各種の仕事を転々としていた。これから推定するに、やはり「妹へおくる手紙」や本詩の作品内時制は発表時よりも五年以上遡ると考えてよいと思われる。

「吹鼓」鞴(ふいご)。以下の校異参照。

「チェントン」土木用語。英語の“Chain Tongs”から。棒の先にチェーンがついた道具で管にチェーンを巻き付けて回す。「チェーン・レンチ」「チェーン・トング」「鎖パイプレンチ」とも呼ぶ(英語の“Chain Pipe Wrench”“Chain Tongs”由来)。主に太いパイプの締付やボーリングのロッドの接合等に使用するレンチ(ウィキの「チェーンレンチ」などを参照した)。

「ヴイバー」“driver”(ドライバー)のことであろう。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では二箇所の読点を除去して字空けとし、二行目が、 

 

人々が僕を嫌ひ出したやうなので僕はおとなしく嫌はれてやるのである 

 

に、七行目に、 

 

鞴(ふいご)もある チェントンもある ネヂ切り機械もある 

 

とルビが振られた上、字空けが施され、十行目が、 

 

鐵管をかつぐと僕のなかにはぷちぷち鳴る脊骨がある 

 

と「背」が「脊」に変えられ、十四行目が、 

 

なにもかにもネヂを切つてやりたくなるのである 

 

と大きな変更が加えられ、十六行目が、 

 

つひに僕は 僕の體重までもかついでしまつたのであらうか

 

と「ついに」を訂してある。

【二〇二四年十月二十七日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。]

疲れた日記   山之口貘

 

   疲れた日記

 

雨天

晴天

曇天

大抵の天の下は潛つてしまふたのです

街を步いて拾ひ物を期待してゐるせいか

僕は猫背になつたのです

ある日

僕は言はなかつたのです

友よ空腹をかんじつくらしてみようぢやないか、 と

すると彼が僕に言つたのです

君には洋服が似合ふよ、と

僕もさう思ふ、 と僕は答えたのです

朝になると

僕は岩の上で目を覺ましてゐたのです

潮風にぬれた頭を陽に干しながら 空腹や孝行に就て考へながら

海鳥のやうに

海に口をさしむけてゐると

顎の下には渚の音がきこえるのです。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月24日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を改稿した。】初出は昭和一一(一九三六)年四月発行の『世代』。「定本 山之口貘詩集」では、句読点が除去されて読点が字空きとなり、九行目が、 

 

友よ 空腹をかんじつくらしてみようぢやないか と 

 

と「友よ」の後に字空けが施され、読点が字空けとなり、十五行目が、 

 

潮風にぬれた頭を陽に干しながら 空腹や孝行に就いて考へながら 

 

と「就て」に送り仮名が追加されてある。

【二〇二四年十月二十★日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

 なお、今回、再読してみて、遅まき乍ら、「空腹をかんじつくらして」という表現に躓いた。これは、「空腹を感じ造らして」としか思えないのだか、意味としては、「空腹を新たに生(産)み出させて」(空腹感を、既存の私の「空腹感」ではない、全く新たな空腹感を創造させて)或いは、「完全に偽わりの空腹感を表面上、装(よそお)わさせて」といった風にしか採れないのだが、どうもしっくりこないのである。これ、思うに、ダイレクトに「空腹を感じ尽くさせて」の誤りではなかろうか? 識者の御意見を乞うものである。

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(11)「はなあやめ」(Ⅰ)

 はなあやめ

 

共ずみの好み君にして

六月植えぬろべりやの花

 

[やぶちゃん注:「植え」はママ。「ろべりや」は再注すると、キキョウ目キキョウ科ミゾカクシ(溝隠)属 Lobeliaのロベリア・エリヌス Lobelia erinus、和名ルリチョウソウ(瑠璃蝶草)及びその園芸品種をいう。南アフリカ原産の秋播きの一年草で、高さ二十センチメートルほどでマウンド状に広がる。四月から七月頃に青紫色の美しい花を咲かせ、花色は赤紫色やピンク・白色などがある。(weblio辞書の「植物図鑑」にある「ロベリア・エリヌス(瑠璃蝶草)」に拠った。画像はグーグル画像検索「Lobelia erinusも参照されたい)。

 朔太郎満十九歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で掲載された七首連作の巻頭歌、

 共住(ともづみ)の好(このみ)少なき君にして六月植(う)ゑぬろべりやの花

の表記違いの相同歌。]

 

かきつばたいと美しき人妻は

朝靄いでゝ人思ふさま

 

春の夜やとある小路におどろきぬ

巨人のやうに見えし水甕(みがめ)に

 

[やぶちゃん注:前の一首と同じ雑誌に「ろべりや」歌群の後に載る八首連作の第六首目の、

 春(はる)の夜(よ)やとある小路(こじ)に驚(おどろ)きぬ巨人(きよにん)のように見えし水甕(みがめ)に

の表記違いの相同歌。]

飯田蛇笏 靈芝 大正十四年

 大正十四年(二十五句)

 

たゞ燃ゆる早春の火や山稼ぎ

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では、

 

たゞに燃ゆ早春の火や山稼ぎ

 

と改稿している。]

 

いきいきとほそ目かゞやく雛かな

 

[やぶちゃん注:底本では「いきいき」の後半は踊り字「〱」。]

 

夜の雲にひゞきて小田の蛙かな

 

燒けあとや日雨に木瓜の咲きいでし

 

はたはたと鴉のがるゝ木の芽かな

 

[やぶちゃん注:底本では「はたはた」の後半は踊り字「〱」。]

 

温泉山みち賤のゆき來の夏深し

 

夏旅や温泉山出てきく日雷

 

[やぶちゃん注:「日雷」は「ひがみなり」と読み、晴天にも拘わらず、鳴る雷。雨は伴わなず、またそれ故にか、旱(ひで)りの前兆ともされる。夏の季語。]

 

夏山や風雨に越える身の一つ

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では、

 

夏山や風雨に越ゆる身の一つ

 

山賤や用意かしこき盆燈籠

 

信心の母にしたがう盆會かな

 

[やぶちゃん注:「したがう」はママ。「山廬集」では「したがふ」と表記。]

 

身一つにかゝはる世故の盆會かな

 

秋虹をしばらく仰ぐ草刈女

 

山風にゆられゆらるゝ晩稻かな

 

[やぶちゃん注:「晩稻」老婆心乍ら、「おくて」と読む。稲の品種で普通より遅く成熟するものを指す。]

 

憎からぬたかぶり顏の相撲かな

 

臥て秋の一と日やすらふ蠶飼かな

 

せきれいのまひよどむ瀨や山颪

 

山寺や齋(とき)の冬瓜きざむ音

 

雲ふかく瀞の家居や今朝の冬

 

[やぶちゃん注:「瀞」「どろ」とも読むが、「とろ」と読みたい。川の水に浸食されて出来た深い淵で流れが緩やかな地形を指す。]

 

冬凪ぎにまゐる一人や山神社

 

雪見酒ひとくちふくむほがひかな

 

[やぶちゃん注:「ほがひ」は「祝ひ・寿ひ」で元来は言祝ぎの謂いであるが、「山廬集」では「樂(ホガ)ひかな」と表記しており、ささやかな内なる祝祭的エクスタシーを表現していよう。]

 

遅月にふりつもりたる深雪かな

 

[やぶちゃん注:「遅月」月の出の遅いことで、季語としては秋であるが、ここは冬のその時期を示している。「深雪」は「みゆき」と読んでおり、これが季語である。]

 

寒灸や惡女の頸のにほはしき

 

[やぶちゃん注:「惡女」は「しこめ」(醜女)と読んでいよう。蛇笏の句の中では諧謔的且つ妖艶な香を、まさに匂わせる好きな句である。]

 

胴着きて興仄かなる心かな

 

かしづきて小女房よき避寒かな

 

日に顫ふしばしの影や雞乳む

 

[やぶちゃん注:「雞乳む」は「とりつるむ」と読ませるのであろう。「乳」には鳥が卵を産むの意があるが、ここはそこから「鳥交(つる)む」、鷄の交尾を指していると考えられる。疑義のある方は、齋藤百鬼の俳句閑日ブログのコメントで本句が掲げられて「とりつるむ」と読むという記載があるので参照されたい。そもそも、「山廬集」では部立を「鶏乳む」としてこの句の次に、

 

雪天や羽がきよりつゝ鶏つるむ

 

句が並ぶ。「乳む」は字面もいい。私なんぞは「乳繰り合う」なんて語も妄想してしまうけれど……。

はらへたまつてゆく かなしみ   八木重吉



かなしみは しづかに たまつてくる

しみじみと そして なみなみと

たまりたまつてくる わたしの かなしみは

ひそかに だが つよく 透きとほつて ゆく

 

こうして わたしは 痴人のごとく

さいげんもなく かなしみを たべてゐる

いづくへとても ゆくところもないゆえ

のこりなく かなしみは はらへたまつてゆく

 

[やぶちゃん注:「こうして」「ゆえ」はママ。]

篠原鳳作句集 昭和八(一九三三)年二月



この辻も大漁踊さかりなる

 

廻りゐる籾すり馬に日靜か

 

[やぶちゃん注:以上二句は二月の発表句。]

杉田久女句集 104 岐阜提灯



岐阜提灯うなじを伏せて灯しけり

 

岐阜提灯庭石ほのと濡れてあり



[やぶちゃん注:私は個人的に岐阜提灯が好きである。]

橋本多佳子句集「信濃」 信濃抄一 (Ⅱ) 父三十三囘忌 想出は花火の空をふりかぶる

  父三十三囘忌

想出は花火の空をふりかぶる

 

[やぶちゃん注:橋本多佳子・本名・山谷多満は明治三二(一八九九)年一月十五日、東京市本郷区龍岡町八番地で山谷雄司・津留夫妻の子として生まれた。底本年譜によれば、『祖父の山谷清風は、山田流筝曲の家元で、検校。旗本屋敷に出入りし、黒田家に琴を教える。御維新で没落し、まもなく死亡。祖母は女手で三人の娘を育てる。その長女が津留である。津留に家を継がすため養子・雄司を迎える。雄司は役人』であったが、多佳子十歳の明治四二(一九〇九)年七月四日に父雄司は逝去している。年譜上の父の記載はこれだけである(因みに多佳子は大正三(一九一四)年十五歳の時に故祖父山谷清風の後継として琴の「奥許」を受けている。師は中田光勢・萩岡松韻)。]

妹へおくる手紙   山之口貘

 

   妹へおくる手紙

 

なんといふ妹なんだらう

――兄さんはきつと成功なさると信じてゐます。とか

――兄さんはいま東京のどこにゐるのでせう。とか

ひとづてによこしたその音信のなかに

妹の眼をかんじながら

僕もまた、六、七年振りに手紙を書かうとはするのです

この兄さんは

成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思ふのです

そんなことは書けないのです

東京にゐて兄さんは犬のやうにものほしげな顏してゐます

そんなことも書かないのです

兄さんは、 住所不定なのです

とはますます書けないのです

如實的な一切を書けなくなつて

とひつめられてゐるかのやうに身動きも出來なくなつてしまひ 滿身の力をこめてやつとのおもひで書いたのです

ミナゲンキカ

と、 書いたのです。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月24日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、この注を全面改稿した。】初出は昭和一〇(一九三五)年一月発行の『日本詩』。総標題を「天」として後の「天」・「教會の處女」・「生活の柄」・本詩・「無題」の順で五篇を掲載している。発表当時はバクさん満三十一歳、東京鍼灸医学研究所通信事務員を勤めながら、同医学校に学んでいた頃の作であるが、内容は寧ろ、それ以前、昭和二、三年の放浪時代のイメージが濃厚ではある。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では以下のように改稿されている。全詩を恣意的に正字化して示す。

   *

 

 妹へおくる手紙

 

なんといふ妹なんだらう

兄さんはきつと成功なさると信じてゐます とか

兄さんはいま東京のどこにゐるのでせう とか

ひとづてによこしたその音信(たより)のなかに

妹の眼をかんじながら

僕もまた 六、七年振りに手紙を書かうとはするのです

この兄さんは

成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思ふのです

そんなことは書けないのです

東京にゐて兄さんは犬のやうにものほしげな顏してゐます

そんなことも書かないのです

兄さんは 住所不定なのです

とはますます書けないのです

如實的な一切を書けなくなつて

とひつめられてゐるかのやうに身動きも出來なくなつてしまひ

滿身の力をこめてやつとのおもひで書いたのです

ミナゲンキカ

と 書いたのです

 

   *

「音信(たより)」の「たより」はルビ。個人的には初期形の二箇所のダッシュは残した方が効果的であったと思われる。]



 本日、ここまで公開した「思弁の苑」の主な校異を注に総て追加した。

 少し説明すると、底本全集の「詩集校異」冒頭には、昭和三三(一九五八)年七月原書房刊の「定本山之口貘詩集」は十二篇の新作に本詩集「思弁の苑」を再録した昭和一四(一九四〇)年刊「山之口貘詩集」の再版であるが、著者自身によって誤字誤植の訂正、句読点と繰り返し符号の除去及び若干の行替えと表記の訂正が施されているとあり、その主なものが校異リストとして示されてある。それらは新字体を採用しているものと思われるが、ここでは敢えて正字化して示したものである。【2014年6月24日追記:これは既に「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」との対比検証により改稿してしまったのだが、僕の仕事の跡を僕の記録として残すために、そのまま残しておくこととする。

【二〇二四年十月二十六日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

2014/03/03

杉田久女句集 103 髮すねて遂に留守しぬ秋祭



髮すねて遂に留守しぬ秋祭


[やぶちゃん注:きっと娘昌子を詠んだものであろうこの句、私はその光景が見えるまでに愛おしい……。]

杉田久女句集 102 走馬燈



走馬燈に木の間の月や子らは寢し

 

走馬燈俄の雨にはづしけり

 

[やぶちゃん注:両句とも「燈」は底本の用字。私は走馬燈を偏愛する人間である。]

杉田久女句集 101 文使や子規忌に缺けしかの女より



文使や子規忌に缺けしかの女より

 

[やぶちゃん注:「缺けし」は底本では「欠」。原句のも「欠」である可能性がある。昭和五(一九三〇)年四十歳の時の作。「子規忌」正岡子規の命日は九月十九日。糸瓜忌・獺祭忌ともいうが韻律の上で最も経済的で張りのある音のこれを久女なら選ぶであろう。そして女弟子と思われるその「女」(め)に対する彼女の癇の強さが、初五の「ふみづかひや」の字余りによって増幅されてひしひしと伝わってくる気が私にはする。これは恐らく前年に大阪に転居した橋本多佳子(当時三十一、当時の彼女の俳号は「多加女」であった)である。]

杉田久女句集 100 いつつきし膝の繪具や秋袷


いつつきし膝の繪具や秋袷

杉田久女句集 99 われに借す本抱へ來よ夜長入


われに借す本抱へ來よ夜長入

杉田久女句集 98 髮卷いて夜長の風呂に浸りけり


髮卷いて夜長の風呂に浸りけり

杉田久女句集 97 よそに鳴る夜長の時計數へけり


よそに鳴る夜長の時計數へけり

杉田久女句集 96 秋の雨



湯さめして足袋はく足や秋の雨

 

秋雨に縫ふや遊ぶ子ひとりごと

 

秋雨に髮卷く窓を明けにけり

 

燈に縫うて子に教ゆる字秋の雨

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

秋雨や母を乘せ去る幌車

 

片足あげて木戸押す犬に秋の雨

杉田久女句集 95 秋空につぶてのごとき一羽かな

秋空につぶてのごとき一羽かな

杉田久女句集 94 秋晴れ



秋晴や何を小刻むよその厨

 

秋晴や岬の外の遠つ洋

杉田久女句集 93 夜露下りし芝生を踏みて辭しにけり

夜露下りし芝生を踏みて辭しにけり

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 水蠆

水蠆 本草水黽ノ集解曰水蠆長身如蝎能變蜻蜓

三才圖繪曰蠆毒蟲今之蝎也通俗文云長尾爲

蠆短尾爲蝎一種俗ニタガメト云アリ其形小龜似テ足

多シ小魚ヲ捕ル園池ニアレハ魚ヲ害ストリテ殺スヘシ是

蠆ノ類ナリ又一種アリ人ヲカム其痕痛ム横狹ク長シ

是ハ化シテ蜻蜓トナル是ハ蛻アリ西土ノ俗タウメト云本草

及三才圖繪ニ云ヘル水蠆是ナリ又一種小ニシテ身狹ク

有四足長クシテ有手如蟷螂之斧有翼而飛又水中ニ黑

圓キ虫アリ時ニ水上ニ浮フ是亦田カメノ類ナリ腹ハ淡紅

ナリ

〇やぶちゃんの書き下し文

水蠆(〔すい〕たい) 「本草」、水黽(すいまう)の集解に曰く、「水蠆、長身、蝎のごとし。能く蜻蜓〔せいてい〕に變ず。」と。「三才圖繪」に曰く、「蠆は毒蟲。今の蝎なり。」〔と〕。「通俗文」に云ふ、「長尾を蠆と爲し、短尾を蝎と爲す。」〔と〕。一種、俗に「たがめ」と云ふあり。其の形、小龜に似て足多し。小魚を捕る。園池にあれば魚を害す。とりて殺すべし。是れ蠆の類なり。又、一種あり、人をかむ。其の痕(あと)痛む。横、狹く長し。是れは化して蜻蜓となる。是れは蛻(もぬげ)あり。西土の俗、「たうめ」と云ふ。「本草」及び「三才圖繪」に云へる「水蠆」、是れなり。又、一種、小にして身狹く、四足有り。長くして手有り、蟷螂の斧のごとし。翼有りて飛ぶ。又、水中に黑圓〔くろまろ〕き虫あり。時に水上に浮かぶ。是れ亦、「田かめ」の類なり。腹は淡紅なり。

[やぶちゃん注:半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目タイコウチ上科コオイムシ科タガメ亜科タガメ Lethocerus deyrolleiウィキの「タガメ」によれば、『日本最大の水生昆虫で、日本最大のカメムシ(半翅目)』。『背中に高野聖が笈(おい)を負ったような斑点があるので「高野聖」とも呼ばれ、食用に用いる地方もあったが、現在は絶滅が心配される昆虫となっている』。成虫の体長は五~六・五センチメートル。♀の方が大型で、雄で六センチメートル以上に達するものは稀であるとある。『体色は暗褐色で、若い個体には黄色と黒の縞模様がある。コオイムシに似るが、本種の方が遙かに大型であり、尻の呼吸管があることで識別できる。前肢は強大な鎌状で、獲物を捕獲するための鋭い爪も備わっている。中・後肢は扁平で、遊泳のために使われる』。『肉食性で、魚やカエル、他の水生昆虫などを捕食する。時にはヘビやカメ等の爬虫類やネズミ等の小型哺乳類をも捕食する。鎌状の前脚で捕獲し、針状の口吻を突き刺して消化液を送り込み、消化液で溶けた液状の肉を吸う(「獲物の血を吸う」と表記した図鑑や文献もあるが、体外消化によって肉を食べているのであり、血を吸っているわけではない。タガメに食べられた生物は、骨と皮膚のみが残る)。自分より大きな獲物を捕らえることが多い。その獰猛さから「水中のギャング」とも呼ばれ、かつて個体数が多かった時には、養魚池のキンギョやメダカ等を食い荒らす害虫指定もされていた』。本邦では『北海道を除く日本全土に分布するが局所的』で、『水田や水草が豊富な止水域に生息するが、農薬の普及や護岸などの環境破壊によって近年その数を急激に減らし、絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)に分類されている。都府県によっては絶滅危惧I類、もしくは既に絶滅種に指定している自治体もある。きれいな水質と餌が豊富な環境で無いと生息が難しいため、水辺の自然度を測る時の指標になる種と言える』。『タガメはカブトムシ等と同様、純自然的な環境ではなく、むしろ人の手の加わったいわゆる里山で繁栄してきた昆虫である。彼らにとって、自然の河川や湖沼は流速や水深がしばしば過剰であり、獲物となる適当な大きさの水生小動物も相対的に少ないため、人工的な水域である水田、堀上(温水のための素掘りの水路)、用水路等に最も好んで生息する』。『ミズカマキリなどに比べ、基本的にあまり飛行しない昆虫だが、繁殖期には盛んに飛び回り(近親交配を避けるためと考えられる)、灯火に集まる走光性もあってこの時期は夜になると強い光源に飛来することが多い。飛行の際には前翅にあるフック状の突起に後翅を引っ掛け、一枚の羽のようにして重ね合わせて飛ぶ。この水場から水場に移動する習性から、辺りには清澄な池沼が多く必要で、現代日本においてその生息域はますます狭められることとなっている』。『冬になると陸に上がり、草の陰や石の下など水没しない場所を選んで成虫越冬をする』。『越冬の様式は、水中で緩慢な代謝活動を続けつつ春を待つ個体と、上陸して落葉や石などの下で完全に活動を停止させて過ごす場合がある。この内、どちらかといえば、後者のほうがケースとしてメインであると考えられている』。繁殖行動はリンク先を参照されたいが、特徴的な行動として『時に、雄が世話をしている卵を別の雌が破壊することがある。これはその雄を獲得するための行動で、本種の習性としてよく知られている。ただしタガメ亜科の全ての雌が卵塊破壊をするわけではない』とあり、非昆虫元少年でも興味をそそる。

「水蠆」(「蠆」は文中で「三才図会」から引くようにサソリを意味する象形文字である)これは後注するように漢名でトンボ目の特に不均翅(トンボ)亜目の幼虫である肉食性水生昆虫のヤゴを指す。ウィキヤゴ」によれば、本邦の「ヤゴ」という名称はは『成虫であるトンボを表す「ヤンマの子」を略して「ヤゴ」と称された』とある。因みに大形のトンボの総称である「ヤンマ」の語源は諸説あり、古名「ヱムバ」や「エバ」が転じたという説や「山蜻蛉(ヤマヱンバ)」の義とする説などがある。「ヱムバ」の語源は、羽の美しい意で「笑羽(ヱバ)」からとする説、四枚ある羽が重なっていることから「八重羽(ヤヱバ)」が転じた説などでこちらも定説はない(「ヤンマ」語源説はネット上の「日本語辞典」のヤンマ・蜻蜒に拠った)。

「水黽」この漢字は現在、本邦では異翅(カメムシ)亜目アメンボ科アメンボ亜科アメンボ(飴坊)Aquarius paludum に当てる。「本草綱目」の「蟲之四」の「水黽」では「釋名」を「水馬」(やはり本邦のアメンボの別称)とし、その「集解」には、

藏器曰水黽群游水上、水涸即飛。長寸許、四。亦名水馬、非「海中主難」海馬之水。時珍曰水蟲甚多、此類亦有數種。今有一種水爬蟲、扁身大腹而背硬者、即此也。水爬、水馬之訛耳。一種水蠆、長身如蠍、能變蜻蜓。

とあって、蔵器の「水涸即飛」(水、涸るれば即ち飛ぶ)及び時珍の中間部の「今有一種水爬蟲、扁身大腹而背硬者、即此也。」(今、一種有り。水爬蟲、扁身・大腹にして背の硬きは、即ち此れなり。)という叙述はよくタガメに合致するにも拘わらず、益軒はそれらを引かずに、その後の箇所を引いているのは残念である。

「長身、蝎のごとし」というのは寧ろ、タイコウチ科ミズカマキリRanatra chinensis 辺りの方がしっくりくる。後の「小にして身狹く、四足有り。長くして手有り、蟷螂の斧のごとし。翼有りて飛ぶ」というのも優れた飛翔能力を持つそれに相応しい。

「蜻蜓」は漢名でも和名でもヤンマの類を指す。益軒も無批判にヤゴをこれらの水棲カメムシ類といっしょくたにしていることが分かる。

「通俗文」後漢の服虔(ふくけん)の撰になると伝える字書。

「蛻(もぬげ)」カ行下二段活用の動詞「蛻(もぬ)く」の名詞化。蟬や蛇が外皮を脱ぎ、脱皮したその殻の意。「もぬけのから」はここからで、しばしば見る「藻抜け」は当て字。

『西土の俗、「たうめ」と云ふ』この「西土」は西日本の謂いと読むが、そのようなタガメの方言は見出し得ない。他に「カッパムシ」「ドンガメムシ」、また関西で「ガタロー」と呼ぶというのは聴いたことがある。

「四足」昆虫であるタガメは無論三対六脚であるが、「本草綱目」の「四脚」など、これらは有意に目立つ脚部を備えることを言っているのではなかろうか。

「黑圓き虫あり。時に水上に浮かぶ」これはまたコウチュウ目オサムシ亜目オサムシ上科Caraboidea のゲンゴロウ類(若しくは狭義のゲンゴロウ科 Dytiscidae 又は同科のナミゲンゴロウ Cybister japonicus や、同オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae のミズスマシ類を含んだ叙述と見える。]

南と北 火野葦平 ブログ・アクセス550000突破記念

   南と北   火野葦平

 

        第 一 信

 

 北海道の河童殿へ、はじめてのお便りさしあげます。私は九州は筑後川(ちくごがは)に棲む河童です。われわれ河童族といふものは發生の歷史に徴(ちよう)してみれば、南に棲む者も北に棲む者も、その血液や思考、習俗等にそんなに差があるとは思へませんが、なにしろ日本の端と端、逢ふこともまつたくないわけでありまして、なにやら他人めいた疎遠の感がなくもありません。これはまことに殘念至極のことでありまして、日ごろからなにかの機會に連絡して、親善友交をはかりたいとの念願は長いことでありました。たまたま最近ひとつの事件に遭遇いたしましたので、かかる事態はわれわれ南方族の間のみに發生するところのものか、あなたがた北方族の間においても類似のことがあるやなきや、ことのあらましを記して御高説を拜聽させていただきたいと、唐突の書面をしたためる次第であります。

 聞くところによれば北海道の風物は規模雄大、天地自然の氣は胸もひらけるばかりといふことでありますが、九州もまた御國自慢ではありませんが、潤達廣茫(くわつたつくわうばう)の山野河川はいたるところに、その美しい景觀をひろげて居ります。北海道は、洞爺湖(とうやこ)、支笏湖(しこつこ)、摩周湖(ましゆうこ)、阿寒湖(あかんこ)など、すばらしい湖にめぐまれた土地柄のやうですが、九州にも、これに劣らぬ湖がたくさんあります。しかし、私がこれからお話し申しあげることば、そんな大きな湖で起つた出來事ではなく、或る山間のほんのささやかな沼でおこつた話なのです。

 その沼は水も澄んで居り、鮒、鮭、鯰(なまづ)、みぢんこ、えび、などもたくさんゐまして、河童の棲む條件が揃つてゐますから、大體ならばたくさんの河童がゐなくてはならない筈なのに、そこには一匹もゐませんでした。なぜかといふと、河童たちはこの沼を恐れてゐたからです。といつてもこの沼に河童たちの敵であるどんな怪物が棲息してゐたわけでもなく、人間どもがわれわれ河童のもつとも嫌惡する唾(つば)や小便を、やたらに放射するからでもありません。理由は、單に月のためです。

 晝間見れば、この沼はなんの變哲もありませんが、夜ともなれば恐しい形相を呈します。それはこの沼全體が一個の眼になるからです、楕圓形(だゑんけい)になつてゐる沼は長い方の端が切れてゐますから、それはあたかも眼の形になつてゐまして、岸邊のくさむらが睫毛(まつげ)のやうに感じられます。その眼型の沼へ夜になると、月が瞳を點じるのです。これは恐しいことです。人間たちは沼へうつる月を賞して、俳句をつくる男などが、名月や池をめぐりて夜もすがら、などとやに下つてゐますが、われわれ河童にとつては、沼をめぐるどころか、ひと目見ただけで肌が冷えあがり、背の甲羅がちぢんでひびが入るくらゐ恐しいことなのです。かういふことは傳説の掟にもとづいたことなので、あなたがた北方族の間でも共通なことではないでせうか。

 月が登つて來る。その月が沼の水面にうつる。それまでは死んだやうな沼だつたのに、月が瞳のやうに嵌(は)めこまれると、にはかに沼はいきいきとした巨大な一つの眼になつて、われわれを、山中(やまぢゆう)を、いや、夜氣に森閑としてゐる天地全體を睥睨(へいげい)しはじめる。滿月のときには沼の眼の中に靑銀色の瞳はもつと鋭く光り、弦月、半月となつてもその凄さは衰へない。三日月となると一屠不氣味です。猫の瞳のやうに沼の瞳が變化してゆくことは、われわれにさらに妖怪じみた恐怖をおぼえさせます。月が移動するにしたがつて瞳もうごく。すると、あたかも沼はなにかの意志や感情を持つてゐるかのやうに見えます。かういふ恐しい沼の表情を見ては、到底氣の弱いわれわれ河童は、棲まうにも棲めないではありませんか。はじめうつかりしてこの沼に棲んだり、覗いたりした河童が、恐怖のあまり眼をまはしたり、甲羅をうち割つたり、ひどいのは生命を絶つたりしたために、爾來、この沼には一匹の河童もよりつかなくなりました。

 しかし、ここに一人の勇者があらはれました。彼はこんな豐饒(ほうぜう)な食餌庫(しよくじこ)であり、住み心地のよい居住地たる沼があるのに、濁つた水の、あまり魚やみぢんこもゐない貧寒な附近の池や沼に、河童たちが棲まなくてはならぬことに義憤をおぼえたのです。救世主的な氣特にもなつたのでせう。どんな神聖な思想もおふむね慾望から出發するものですから、彼の英雄的發奮も、ひよつとしたら、これまで棲んでゐた沼のきたなさ、餌(ゑさ)の惡さに飽いた、新しい住居と豐富な食物に對するおさへがたい慾求であつたかも知れません。それは帝國主義の思想にちよつと似てゐますが、いづれにしろ、傳説の掟をくつがへし、恐怖を克服して實行にとりかかつた彼の勇氣は賞されなければなりません。

 彼は沼から月を除かうと考へたのです。沼が恐しいのは月が瞳と化すからでありまして、瞳さへなければ沼はあたり前の沼にすぎません。眼の形をしてゐるのはなんでもありません。しかし、一口に、月を除くといひましても、はたしてどういふ方法に寄つたらよいか? 彼は熟考しました。作戰を練りました。そのために瘦せたほどです。そして、結局、彼が最後に到達したプランは、月が沼の中心に瞳となつてあらはれたとき、網をかぶせて獲(と)るといふことでした。河童には多少の神通力がありますけれども、月そのものを天から除去するほどの力はありません。さうとすれば沼にうつつた月を捕へるしか方法がなく、その捕獲の方法といふものも、科擧や機械と緣のない河童であつてみれば、網でとるといふ原始的手段に歸するはかはなかつたわけでせうか。彼とてこの直接行動がどんなに危險をともなふ冐險であるかを知らなくもありませんでしたから、その覺悟のほどもなみなみならぬものでありました。あとで、この冐險に協力した河童の話をききますと、最初は沼の上をなにかで掩(おほ)つて月光をさへぎることを考へてゐたとのことです。しかし、それは大變な事業で、ほとんど不可能に近いことがわかつたので、直接に月を摘む簡單明瞭な手段に出たとのことでした。

 北海道の河童毆、この勇敢な河童の決心をどう思はれますか。さやうな無理をしなくてもよいではないかと考へられますか。しかし、先覺者といふものはいつでも行動の最初のときには嘲笑されてゐるものですが、今度の場合だけは、彼は仲間中から感謝されました。コロンブスのときとは違つてゐました。もし成功すれば、その結果がどんなに仲間中をうるほすか、想像に絶するものがあつたからです。一匹の河童もよりつかぬ沼は魚やみぢんこの天國でありまして、生み方題、殖(ふ)え方題、まるで魚の中に沼があるみたいに、鯉、鮒、鯰などが水面にもりあがつてはねまはつてゐる始末でした。それならば月の出ない晝間、これを獲ればよいではないかといはれさうですが、それは傳説の掟が許しません。もし晝間沼にもぐつて餌をとれば、夜になつて沼が眼なつたとき、その簒奪者(さんだつしや)は睨み殺されてしまふのです。餌が慾しくば月を除くの一手といふわけです。

 或る夜、彼は友人の協力を得て、これを實行にうつしました。友人が協力するといつても沼に飛びこむのは彼だけで、友人はものかげからその成果を見とどける役なのでした。これとて勇氣がなければできぬことです。眼になつた沼を見るさへ恐しいのに、ものかげに陰れてゐるとはいへ、始終、友人の行動を凝視するといふことはなみ大抵ではありません。しかし、友人は彼の犧牲的精神に感動してこの困難な役をひきうけたやうです。

 苦心してこしらへた網を小脇に抱いて、彼は沼の中心へ月が點じられるのを待ちかまへました。網は龍舌蘭の繊維を裂いて編んだ目の細いもので、もしこれで伏せることができれば逃さない自信がありました。友人は彼の肩をたたき手を振つて激勵しました。成功を祈るといはれたとき、彼の瞳にはうつすらと涙が光つてゐたといふことです。月が沼に浮かんだとき、高い樹の梢からその水面の月に向かつて一直線に飛び降りるといふのですから、あたかも嘗て日本空軍がやけ糞戰術のやうにして採用した特攻隊の突込みのやうなものだつたでせう。

 時が來ました。滿月が東方の山からしづかに登つて來ました。やがて、それはぽつかりと沼のうへに影を落しました。睫毛のやうなくさむらのあたりから、すこしづつ移動して沼の中心に來ます。それを見ると、二匹の河童の體はもはや恐怖ですくむ思ひでした。巨大な眼と化した沼は瞳をぎらぎらとかがやかし、そこに隱れてゐるのは何者だ、ちやんとこの眼で見てゐるのだぞ、と嘲笑してゐるやうにすら思はれました。はじめは月が沼の中心に來るまで待つつもりだつたのですが、彼はもはや忍耐をうしなひました。凝視することの方が行動するよりずつとむづかしいことです。彼はほとんど絶望的な勇氣をふるひおこし、これまで立つてゐた榎のてつぺんから、呻(うめ)きに似た掛け聲を發すると、一直線に、眼下の沼に向かつて、風をおこして飛び降りました。兩手にしつかり網が持たれてゐたことはいふまでもありません。

 はげしい水音とともに、沼の水面はかきみだされ、波紋が岸に向かつてひろがつて行きました。月に網をかぶせた河童は、狂氣のやうになつて、獲(と)つたぞ、獲つたぞ、もう月はないぞ、と叫び立てました。榎の上に待機してゐた友人の河童は恐る恐る眼をあげて、沼を見つめました。その友人の耳に、沼の水面にゐる河童の聲で、さあ、月はもうなくなつたぞう、沼は眼でなくなつたぞう、どこにも瞳はないぞう、といふ歡喜の絶叫がひびきました。しかし、友人はびつくりしたのです。どうしたことでせう? 勇敢な河童が網で月を伏せた筈なのに、その月は河童の頭の皿の中で光つてゐるのです。はじめからおづおづしながらの仕事でしたから、どちらの河童も冷靜さをうしなひ、その神經も錯倒してゐたにちがひありません。友人の河童は錯亂してしまつて、よせばよいのに、榎の上から沼に向かつて、月は君の頭の皿にあるぞう、とどなりました。どうして、かういふ戰慄すべき恐怖に、河童が耐へることが出來ませうか。恐るべき瞳の月が自分の頭の皿に入つたと知つて、河童は悶絶してしまひました。

 北海道の河童殿におたづねしたいのは、ここのところです。勇氣に滿ちた哀れな河童は遂に死んでしまひましたが、かういふ犧牲といふものは一切が無駄事でせうか。無論、月が山の沼に瞳を點じるのは相かはらずです。今でもこの沼にはわれわれ仲間は誰一人寄りつきません。そして、この沼の豐饒さを發見した人間どもが、このごろでは晝となく夜となくやつて來て、鯉鮒を多量に釣りあげて歸るのを、指を銜(くは)へて傍觀してゐるばかりです。この人間どもに發見の機會をあたへたのは、月をとらうとした河童の網です。彼は月をとらへようとしたのに、網に入つたのはたくさんの魚でした。そして、彼が悶絶したまま息絶えて沈んでしまふと、水面に殘つた網の中に、鯉や鮒などがぴちぴとはねまはつてゐるのでした。この網は目が細かくてなかなか沈まなかつたために、翌朝、沼のかたはらを通りかかつた人間によつて發見されたのです。それからこの沼にどつと釣人(つりびと)がおとづれて來るやうになりました。人間どもは月が出て沼にうつつて、沼が眼になつてもすこしも恐れません。それどころか、そんな月夜をかへつてよろこんでゐるのです。

 北方にはかういふことはないでせうか。御意見を聞かせて下きいますと幸です。

(十二月二十九日)

 

        第 二 信

 

 北海道の河童殿、私の長い手紙に對してどうして御返事を下さらないのですか。今日まで待ちましたが、なんの音沙汰もないので、實は少々殘念なのです、でも、きつと忙しいのにちがかありませんから、またこの手紙書きます。何故なら、前の事件と關聯してどうしても知らせなければならぬことが生じましたからで、前信とこの便りとにあはせて御返事賜はらばありがたいです。

 河童が沼の月を取らうとして失敗したことは、人間どもに漁場を教へる癪(しやく)な結果をもたらしたことは前便で傳へましたが、われわれ河童にとつても全然無駄ではなかつたのです。そのことが最近になつてやつとわかりました。それは私たちの藝術に大きなプラスをしたのでした。

 失敗にもかかはらず、彼の犧牲がわれわれを感動させた度合(どあひ)は少からぬものがありました。どんな場合でも反對者はゐますから、彼の行動を暗愚蒙昧(まうまい)、笑ふべき無智の然らしむるものだと嘲る者もありましたけれど、死をも恐れぬ冐險の動機が仲間へ幸福をもたらすためであつたことは明瞭ですから、彼の死を悼(いた)む者はたくさんありました。そこで藝術家たちはこれを讚へる制作をしたのです。作家は小説で、詩人は詩で、畫家は繪で、音樂家は音樂で、彫刻家は彫刻で。

 これらの成果のうち、もつとも話題を投げたのは彫刻です。或る若い彫刻家が月をとる男を主題にしたものを、全精魂と全才能とを傾けて制作にとりかかりました。彼はこの一作をもつて藝術界にデヴユゥし、一大金字塔をうちたてる野心に燃えてゐました。しかし、その意氣ごみと苦心にもかかはらず、なかなか會心の作はできない模樣でした。彼ははじめに、これを藝術化するのは自分をおいて他にないといふやうなことを傲語したり、聲明したりしてゐましたから、いつか責任のやうなものが生じて苦しくなつた樣子です。いく度か試作をしてみたのですが、批評家は寄つてたかつて惡口をいふばかりで、彼の焦躁は日とともに深まり、今や神經衰弱から分裂症狀的狀態にさへなつて來ました。

 彫刻家は月とり作業に協力した友人の河童を顧問にして、完壁な作品を作らうと心魂を注ぎました。しかし、彼にはたつた一だけ不足のものがありました。それは才能です。意慾、情熱、野心は申し分なく、宣傳もはつたりも充分でありましたが、肝心の才能が足りなかつたために、作品は幾十度作りなほしても滿足なものができませんでした。粘土(ねんど)をこねながら原型をつくりますと、批評家に一杯のませてこれを示しますが、どんなに御馳走になつてもそれは義理にも褒めやうがありません。

 彫刻家の立場はだんだん苦しくなりました。こつそり作つてゐたのならそんなこともなかつたのですが、大威張りではじめたので立つ瀨がなくなつて來たのです。さうして、遂に苦境におちいつた彫刻家は、或る日、自殺してしまひました。しかし、その後が大變でした。河童藝術界に大問題が起つたのです。

 彼は遺書を書いてゐますので、覺悟の離世たることに疑ひありませんが、その遺書がまた衒氣(げんき)に滿ちたもので、誰一人自分の進歩的藝術を認めないとは、ことごとく盲目ばかりだ、自分は天國に行つて自分の藝術の價値を問ふ、もう諸君など相手にしない、といふやうな文面なのでした。彼の屍の横はつてゐたアトリヱに知人が葬ひに訪れました。友人の藝術家も批評家もやつて來ました。さうして、彼等はおどろいたのです。アトリヱの中央、彫刻家の遺骸のかたはらにある一個の彫刻、なんともいひやうのない不思議な形、異樣に複雜で奇怪な線と圓、これまでの古くさい形式や故術を琴全に破壞してゐる斬新警拔(ざんしんけいばつ)最な構圖(コンストラクション)、いかにも、恐しい眼となつた沼から、瞳の月を除かうとする河童の情熱や犧牲の感動が、その彫刻のなかに、一つの抽象の形として表現されてゐるやうに見えました。一人の高名な批評家が、これはすばらしいと叫びました。その批評家はうるさいことで有名な男で、死んだ彫刻家をもつとも手きびしくやつつけてゐたのです。彼の眼には一流の藝術作品に接したときに浮かぶ恍惚としたものが溢れてゐました。すると、そこになみゐる連中はその批評家に追隨して、これは傑作だ、神品だ、新藝術の誕生だ、彼はやつぱり天才だつた、と、口々に述べはじめました。

 北海道の河童殿、いかがですか。死んだ彫刻家は天才といふことになり、その奇妙なアブストラクト風の作品はわが藝術界に革命的影響をもたらしたのです。死して新風を送つたわけです。恐しい眼の沼のために、二人の有名な河童が命をすてたわけですが、どちらが偉大でせうか。しかし、後者の場合、殘念なことを一つつけ加へておかねばなりません。それは人々を驚歎させた彼の最後の作品は、制作されたのではなくして破壞されたものだといふことです。どんなにしても滿足なものの完成できない彫刻家は、悲しみと怒りとに燃えて、それまで作つてゐた彫刻をめちやめちやに手や槌で、ぶちこはした後、毒をあふいだのでした。その破壞されたものが新藝術の傑作として認められたわけです。

 北方にはかういふことがあるでせうか。今度は御返事下さいませんか。

(一月二十日)

 

        第 三 信

 

 どうして返事をくれませんか。あんまり失禮ではないですか。僕はわれわれ河童の重大問題について、北方の河童族の意見を徴したのです。それといふのがこれまでの疎遠をあらためて、親善友交を共にしたいと考へたからです。それに對して一言も洩さぬとは、禮儀を知らぬにもほどがある。わけを聞かせて下さい。北方族には、われわれ南方族が遭遇したやうなテーマについて、なんらの問題はないのですか。當世流行のエロ話、河童も行儀がわるくなつて混血兒をたくさん産むやうになつたり、氣が荒くなつて暴力沙汰ばかり起してゐるやうな話題を提供すれば、返事をくれるのですか。いづれにせよ、なんとか意志表示をしていただきたいものだ。

(二月八日)

 

        第 四 信

 

 今日まで待つたが、まだ返事がない。あきれてしまつた。うんともすんともいはぬとは何事だ。我慢してゐたが、もう勘忍袋の緒が切れさうになつた。四通目のこの手紙によこさなかつたら、お前とは絶交だ。

(二月二十八日)

 

        第 五 信

 

 北の河童の馬鹿野郎、貴樣なんかと誰がつきあふものか。

(三月十日)

 

 

 

 北海道に、春が來た。大雪山の雪は消えなかつたけれども、マツカリヌプリのいただきに靑草が萌え、石狩川はにはかに水量を増した。凍結してゐる湖や沼も溶けて、春の花々はいたるところの山野に咲きみだれた。

 雪どけの水が地底を爽やかに流れる音を聞いて、河童は冬眠から醒めた。十二月はじめから三月の終りまで、北海道の河童は冬眠する。河童は寢ぼけ眼をこすつた。あたりを見まはした。かたはらに蓮の葉の手紙の束がある。その一番上の一遍をもの憂い手つきで取つた。讀んだ。第五信目である。河童は血相を變へた。怒りで甲羅をがちがち鳴らした。積んである手紙を蹴とばしずたずたに引き裂いた。それから、ペンを取りあげると、一氣呵成に一通の手紙をいた。

「南の河童の馬鹿野郎、貴樣なんかと誰がつきあふものか」

 

[やぶちゃん注:各書簡の末尾の丸括弧書きのクレジットは底本では最終行と同じ行の右インデントで有意にポイント落ちである。本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本日を以って550000アクセスを突破した記念として作成公開した。【2014年3月3日 藪野直史】

「マツカリヌプリ」北海道後志地方南部に位置する標高一八九八メートルの羊蹄山、別名、後方羊蹄山(しりべつ/しりべしやま)のアイヌの人々の呼称。「深ちゃんのホームページ」の後方羊蹄山によれば、これは「その後ろの部分を廻る川(尻別川と真狩川)がある山」という意味だそうである。]

飯田蛇笏 靈芝 大正十三年(十三句)

 大正十三年(十三句)

 

餅花や庵どつと搖る山おろし

 

[やぶちゃん注:「搖る」は「山廬集」の平仮名表記から「ゆる」と読んでいる。]

 

小野を燒くをとこをみなや東風曇り

 

挿木舟はや夕燒けて浮びけり

 

[やぶちゃん注:「挿木舟」不詳。「山廬集」では部立を「挿木」としてあり、ますます不明。識者の御教授を乞うものである。]

 

山ぞひや落下をふるふ小柴垣

 

ぬぎすてし人の温みや花衣

 

みめよくてにくらしき子や天瓜粉

 

[やぶちゃん注:底本「天爪粉」。誤植と断じ、訂した。]

 

盂蘭盆の出わびて仰ぐ雲や星

 

いちごつむ籠や地靄のたちこめて

 

秋旅や日雨にぬれし檜笠

 

むら星にうす雲わたる初秋かな

 

鰯雲簀を透く秋のはじめかな

 

秋扇やさむくなりたる夜のあはれ

 

ゆく雲にしばらくひそむ歸燕かな

篠原鳳作句集 昭和八(一九三三)年一月

昭和八(一九三三)年

 

和田津海の鳴る日は鷹の渡りけり

 

[やぶちゃん注:同年一月発行の『馬酔木』掲載句であるが、この句は前年の十二月発行の『泉』の発表句と全く同じであるにも拘わらず、何故か本文再掲となっている。一応、掲げておく。]

 

豚小屋に潮のとびくる野分かな

 

[やぶちゃん注:前年の末に配されてある「雲彦沖繩句輯」の中の、
 汐しぶき宮居を越ゆる野分かな

の類型句であるが、先行作が広角でパノラミックで映画的であるのに対して、こちらは豚の鳴き声や小屋の臭いと潮のべたつきがリアルに感じられる、それでいて如何にも諧謔味に富んだ佳句である。私は豚が好きなればこそこの句の方が遙かに親しく感じられるのである。]

 

石垣にともす行灯や浦祭

 

をとこらの白粉にほふ踊かな

 

踊衆に今宵もきびの花づくよ

 

[やぶちゃん注:残念ながら宮古島のこの祭りについて私は知見を持たない。識者の御教授を乞うものである。

 以上、最初の四句は一月の発表句、最後の「踊衆に」の句は「雲彦沖繩句輯」より。]

賑やかな生活である   山之口貘

 

   賑 や か な 生 活 で あ る

 

誰も居なかつたので

ひもじい、と一聲出してみたのである

その聲のリズムが呼吸のやうにひゞいておもしろいので

私はねころんで思ひ出し笑ひをしたのである

しかし私は

しんけんな自分を嘲つてしまふた私を氣の毒になつたのである

私は大福屋の小僧を愛嬌でおだてゝやつて大福を食つたのである

たとへ私は

友達にふきげんな顏をされても、 侮蔑をうけても私は、 メシツブでさへあればそれを食べるごとに、市長や郵便局長でもかまはないから長の字のある人達に私の滿腹を報告したくなるのである

メシツブのことで賑やかな私の頭である

頭のむかふには、晴天だと言つてやりたいほど無茶に、 曇天のやうな鄕愁がある

あつちの方でも今頃は

瘦せたり煙草を喫つたり咳をしたりして、 父も忙がしからうとおもふのである

妹だつてもう年頃だらう

をとこのことなど忙がしいおもひをしてゐるだらう

遠距離ながらも

お互さまにである

みんな賑やかな生活である

 

[やぶちゃん注:初出は昭和八(一九三七)年八月発行の『世代』(発行所は世代社で東京市品川区大井伊藤町)。
 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では読点が総て除去されて、字空けとなっており、八行目が、

 

たとひ私は

 

に、九行目が、

 

友達にふきげんな顏をされても 侮蔑をうけても私は メシツブでさへあればそれを食べるごとに 市長や郵便局長でもかまはないから 長の字のある人達に私の滿腹を報告したくなるのである

 

と、「市長や郵便局長でもかまはないから」と「長の字のある人達に私の滿腹を報告したくなるのである」の間に字空けが施されてあり、また、その後に出る、

 

「忙がしからう」と「忙がしい」

 

の二箇所がそれぞれ、

 

「忙しからう」「忙しい」

 

となっている(この最後の送り仮名の異同は旧全集には示されていない)。【2014年6月24日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証によって注を改稿した。】【二〇二四年十月二十六日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

杉田久女句集 92 ひろ葉打つ無月の雨となりにけり

ひろ葉打つ無月の雨となりにけり

ブログ・アクセス550000突破

今朝、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、550000アクセスを突破した。これより記念テクストに取り掛かる。いつものように火野葦平の「河童曼荼羅」からであるのはお許しあれ。

ニフティのブログ・アクセス解析システムがリニューアルされてしまって累積数値を積算出来なくなったため、手動で累積アクセスを計算しなくてはならなくなった。4月以降に新規カウンターが起動するまでは(正直言うとカウンターは別に置きたくはないのだが、この計算が如何にも面倒なので配置する予定である)この面倒な作業をしないといけないようである。

橋本多佳子句集「信濃」 信濃抄一 (Ⅰ) 

句集「信濃」

(昭和二二(一九四七)年七月五日臼井書房刊。昭和十六(一九四一)年から同二十一年(多佳子四十二歳~四十七歳)までの作品二百五十七句を収録する。戦前・戦中作が殆んどであるから恣意的に正字化した)

 

 昭和十六年

 

 信濃抄一

 

[やぶちゃん注:処女句集「海燕」の刊行から四ヶ月後の昭和一六(一九四一)年五月に多佳子は別荘(年譜には『家』とある)を探しに、次女国子と信州野尻湖へ行くとあり、当該箇所に『作品「信濃抄一」』と附す。]

 

雪山に野を界(かぎ)られて西行忌

 

[やぶちゃん注:「西行忌」西行は建久元(一一九〇)年二月十六日に享年七十三歳で没した。但し、広く「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃」の詠歌に従い、西行が臨んだ前日の釋迦入滅の同日二月十五日を忌日とする傾向が強いから、これも十五日であろうか(私はこの習慣を頗るおかしいと思っている。西行も後世のそのような風習を決して望んでいないと私は思う)。なお、旧暦だと昭和一六(一九四一)年の二月十六日は三月十三日(木曜)に相当する。]

 

翁草野の枯色はしりぞかず

 

[やぶちゃん注:「翁草」キンポウゲ目キンポウゲ科オキナグサ Pulsatilla cernuaウィキオキナグサ」によれば(アラビア数字を漢数字に換え、記号の一部を変更した)、『根出葉は二回羽状複葉で、長い柄をもち束生する。小葉はさらに深裂する。茎につく葉は三枚が輪生し、無柄で基部が合着し、線状の裂片に分裂する。葉や花茎など全体的に白い長い毛におおわれる。花茎の高さは、花期の頃十センチメートルくらい、花後の種子が付いた白い綿毛がつく頃は三〇~四〇センチメートルになる。花期は四~五月で、暗赤紫色の花を花茎の先端に一個つける。開花の頃はうつむいて咲くが、後に上向きに変化する。花弁にみえるのは萼片で六枚あり、長さ二~二・五センチメートルになり、外側は白い毛でおおわれる』。『白く長い綿毛がある果実の集まった姿を老人の頭にたとえ、翁草(オキナグサ)という。 ネコグサという異称もある』。『日本では、本州、四国、九州に分布し、山地の日当たりのよい草原や河川の堤防などに生育する。アジアでは、朝鮮、中国の暖帯から温帯に分布する』。『かつて多く自生していた草地は、農業に関わる手入れにより維持されていた面があり、草刈などの維持管理がなされくなり荒廃したこと、開発が進んだこと、それに山野草としての栽培を目的とした採取により、各地で激減している』。本種は『全草にプロトアネモニン・ラナンクリンなどを含む有毒植物』で、『植物体から分泌される汁液に触れれば皮膚炎を引き起こすこともあり、誤食して中毒すれば腹痛・嘔吐・血便のほか痙攣・心停止(プロトアネモニンは心臓毒)に至る可能性もある。漢方においては根を乾燥させたものが白頭翁と呼ばれ、下痢・閉経などに用いられる』とある。]

 

曉けて來るくらさ愉しく燕となる

 

雪白きしなのの山山燕來る

 

櫻散るしなのの人の野墓よき

 

南風(みなみ)吹く湖(うみ)のさびしさ身に一と日

 

[やぶちゃん注:「湖」野尻湖であろう。この翌六月には、一家で野尻湖畔の「神山山荘八七番」に行き、十月まで滞在すると年譜にある。]

 

子を負へる子のみしなのの梨すもも

 

[やぶちゃん注:その韻律の可憐にして哀感に富んだ佳句である。]

 

野の藤はひくきより垂り吾に垂る

 

野の愁ここだの藤を身に垂らし

 

[やぶちゃん注:「ここだ」幾許(ここだ)。副詞。万葉以来の古語で数量の多いさまをいう。こんなにも沢山・こうも甚だしくの謂い。また、程度の甚だしいさまをも示し、大変に・大層の謂いもある。両義を持たせてよかろう。]

 

五月野の雲の速きをひと寂しむ

 

辛夷に立ち冥き湖にも心牽かれ

 

愁なき瞳に落葉松(からまつ)の靑つきず

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 強羅 / 後記 「海燕」~了

 強羅

 

夕燒くるかの雲のもとひと待たむ

 

夕燒雲鐡路は昏るる峽に入る

 

ひととゐて露けき星をふりかぶる

 

ひとの肩蟋蟀の聲流れゐる

 

鵙啼けりひとと在る時かくて過ぐ

 

[やぶちゃん注:「鵙」は「もず」鳥綱スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus 。以上を以って「海燕」の句本文は終わる。底本全集の句末尾には編者によるものと思われる『(昭和一六年一月十日発行 交蘭社刊)』という附記がつく。]

 

 

 

 後記

 

 俳句を作り初めてから、既に十數年の歳月が過ぎたが、本當に勉強をしはじめたのは昭和十年「馬醉木」に據つてからのことである。

 思へばこの間常に勵まし、導いて下さつた山口誓子先生、又いつも温情を以てお目守り下さつた水原秋櫻子先生の下に今日迄歩みをつづけて來られた自分の作家としての幸福をつくづく勿體ないものに思ふのである。この度兩先生からのお勸めに從ひ、今迄の貧しい作品を纏めることになつた。私はこの句集を生前いつも私の句作をはげまして貰つた夫の靈前に捧げようと思ふ。多くの作品が夫と共にした旅行から生れたことも今はなつかしい想ひ出となつた。

 この句集の刊行に當つては、水原先生から題字を賜り、裝幀まで種々御配慮を戴いた。尚御病中の山口先生をもお煩し申上げ、その上序文まで賜つた。ここに厚く御禮申上ぐる次第である。

 美しい表紙繪を頂いた富本憲吉先生、私の我慮をすべて快く入れて御迷惑を顧られなかつた交蘭社主飯尾謙藏氏の御厚志にも深く感謝するものである。

 「海燕」は、夫との最後の旅行となつた上海行の途次、霧に停船してゐる宮崎丸にあまたの燕が翼を休めたことが忘れ難く、それを句集の名としたのである。

 

   昭和十五年十二月

              帝塚山にて

                 橋本多佳子

 

[やぶちゃん注:「俳句を作り初めてから、既に十數年の歳月が過ぎた」多佳子の最初の俳句との出逢いは大正一一(一九二二)年三月二十五日の櫓山荘での高浜虚子を迎えての俳句会で、年譜上の記載からは恐らくはその年のうちに杉田久女及び吉岡禅寺洞の薫陶を受けているから、昭和一五(一九四〇)年までは足掛け十八年、「十數年」という表現と一致する。

『昭和十年「馬醉木」に據つてからのことである』底本年譜によれば、昭和三(一九二八)年に発足した大阪在住の『ホトトギス』の同人クラスのメンバーからなる勉強会『無足会』に、昭和四、五年頃に入会、山口誓子の指導を受けるようになっており、この昭和一〇(一九三五)年四月には誓子の勧めによって、既に同人となっていた『ホトトギス』を離脱、『馬酔木』に入会、これによって『虚子を離れ、誓子に師事、俳句を積極的本格的に勉強する』ようになったとある。

「山口誓子」(明治三四(一九〇一)年~平成六(一九九四)年)は昭和一〇年に発表した句集「黄旗」を契機として『ホトトギス』を離れ、同じく『四S』の一人であり、盟友でもあった水原秋桜子の主宰していた『馬酔木』に同人として参加、ともに新興俳句運動の中心的存在となっていた。昭和十五年当時、満三十九歳。「御病中の山口先生」とあるが、彼が学生時代から胸部疾患(諸データは結核とは記していない)を患っており、勤務していた住友合資会社(主に労務関係を担当)をこの昭和十五年に休職していた。翌年には伊勢富田に転地し保養に努めたが、昭和十七年に病状が悪化して退職、その後は文筆活動に専念するようになった(以上は主に神戸大学研究推進部研究推進課の「山口誓子記念館」の「誓子について」を参照した)。

「水原秋櫻子」(明治二五(一八九二)年~昭和五六(一九八一)年)は先立つ昭和六(一九三一)年に主宰誌『馬酔木』の昭和六年十月号で「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表、『ホトトギス』から独立していた。これが契機となって青年層を中心とした反伝統・反『ホトトギス』を旗印とする新興俳句運動が起こった(以上はウィキの「水原秋桜子」に拠った)。昭和十五年当時、満三十八歳。

「富本憲吉」(明治一九(一八八六)年~昭和三八(一九六三)年)はバーナード・リーチの盟友としても知られる陶芸家。当時は帝国芸術院会員、後の昭和三〇(一九五五)年に人間国宝となった。昭和十五年当時、満五十四歳。

『「海燕」は、夫との最後の旅行となつた上海行の途次……』既注であるが、これはまさに前注の通り、多佳子が本格的に俳句に打ち込むようになって一か月後の、昭和一〇年五月の夫豊次郎との上海・杭州旅行を指す。「海燕」の同定については『句集「海燕」 昭和十年以前 八句』の私の注を参照されたい。]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 裾野

 裾野

 

靑野來し砲車の車輪湖荒るる

 

車輪の中遠き靑野の山が移る

 

夏草野砲車の車輪川渡る

 

砲車ゆく靑愛鷹山(あをあしたか)を野にひくく

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年夏当時、多佳子が避暑していた山中湖の直近、西五キロ圏内に陸軍の北富士演習場があった。現在の北富士演習場は富士山北麓の山梨県富士吉田市・山中湖村・忍野村に跨る演習場で総面積四千五百九十七ヘクタール。この四年前の昭和一一(一九三六)年十一月に旧日本陸軍により開設されていた(参照したウィキ北富士演習場によれば、昭和二〇(一九四五)年十月に敗戦により米軍が接収、昭和三三(一九五八)年に日本に返還され、昭和四八(一九七三)年四月に自衛隊管理の演習場に使用転換されている)。

 ここに出る「砲車」とは砲架に車輪をつけたものの謂いであろう。

 「愛鷹山」は静岡県の富士山南麓にある標高一一八七・五メートルの山。広義には愛鷹山塊・愛鷹連峰の総称として愛鷹山と呼ばれる。愛鷹山塊の最高峰は標高一五〇四・二メートルの越前岳であるが狭義にはこの山の南端にあるピーク、愛鷹山峰のことを指す(以上はウィキ愛鷹山」に拠る)。「靑」は美称。]

キーツに 寄す   八木重吉

    キーツに 寄す

 

うつくしい 秋のゆふぐれ

戀人の 白い 横顏(プロフアイル)―キーツの 幻(まぼろし)

 

[やぶちゃん注:題名と本文二ヶ所の「キーツ」の下線は縦書の底本では右傍線。英語教師でもあった重吉が敬愛したイギリスのロマン主義詩人ジョン・キーツ(John Keats 一七九五年十月三十一日~一八二一年二月二十三日)は結核により満二十七歳で、重吉(明治三一(一八九八)年二月九日~一九二七年十月二十六日)は同じ結核により満二十九歳で亡くなっている。]

2014/03/02

杉田久女句集 91 寒



うそ寒や黑髮へりて枕ぐせ

 

朝寒の窯(くど)焚く我に起き來る子

 

朝寒や小くなりゆく蔓の花

 

朝寒や菜屑ただよふ船の腹

 

朝寒の杉間流るゝ日すじかな

 

[やぶちゃん注:「日すじ」はママ。]

 

朝寒に起き來て厨にちゞめる子

 

朝寒の峯旭あたり來し障子かな

 

汲みあてゝ朝寒ひゞく釣瓶かな

 

髷結うて前髮馴れぬ夜寒かな

 

搔きあはす夜寒の膝や机下

 

歸り路の夜寒くなれる句會かな

 

髮くゝるもとゆひ切れし夜寒かな

 

夜寒さやひきしぼりぬく絹糸(きぬ)の音

 

夜寒灯に厨すむわれを待つ子かな

 

先に寢し子のぬくもり奪ふ夜寒かな

篠原鳳作句集 昭和七(一九三二)年十二月



舟にゐて家のこほしき雨月かな

 

[やぶちゃん注:「こほしき」は「こほし(こおし)」で「恋ほし」、形容詞シク活用の「恋(こひ)し」の古形。]

 

天津日に舞ひよどみける鷹の群

 

[やぶちゃん注:「天津日」「津」は「の」の意の格助詞で天の日輪、天空の太陽。]

 

鷹降りては端山鳥は啼きまどふ

 

[やぶちゃん注:「端山鳥」は、はしくれの山鳥どもの謂いであろう。]

 

夕されば小松に落つる鷹あはれ

 

  十月中旬毎日幾千とも知れぬ鷹つばさを

  つらねて渡り中天に舞ふさまは壯觀云は

  ん方なし琉球舞踊は鷹の舞ふさまより來

  しもの多しと云ふ

 

荒波に這へる島なり鷹渡る

 

和田津海の鳴る日は鷹の渡りけり

 

知らぬ童にお辭儀されけり野路の秋

 

つなぎ舟多くなりたる踊かな

 

織初めの女にまじる漢かな

 

[やぶちゃん注:「漢」は「をおこ」と訓じていよう。]

 

海の風ここにあつまる幟かな

 

たどたど蝶のとびゐる珊瑚礁(リーフ)かな

 

蝶々とゆきかひこげるカヌーかな

 

春曉や聲の大きな水汲女

 

村の童の大きな腹や麥の秋

 

鱶のひれ干す家々や島の秋

 

汐しぶき宮居を越ゆる野分かな

 

大いなる日傘のもとに小商ひ

 

傘日覆莚日覆の出店かな

 

靑簾つりし電車や那覇の町

 

[やぶちゃん注:我々は沖繩の鉄道は、二〇〇三年に開業した那覇市内のモノレール、沖縄都市モノレール線、通称ゆいレールが最初だと思い込んでいるが、実は戦前の沖縄本島には軽便鉄道や路面電車及び馬車鉄道があった。また、サトウキビ運搬などを目的とした産業用鉄道も南大東島をはじめとして各地に存在した。参照したウィキ沖縄鉄道」によれば、明治時代、『沖縄県内で初めて鉄道のレールが敷かれたのは南大東島で、1902年(明治35年)に手押しトロッコ鉄道が完成している。また、1910年(明治43年)には沖縄本島でもサトウキビ運搬用の鉄道が導入されている』。但し、『運輸営業用の本格的な鉄道路線は、1894年(明治27年)から県外の資本家などが沖縄本島内での起業を相次いで出願しているが、そのほとんどは却下されたり、あるいは資金力が伴わずに計画倒れに終わっている』。『1910年(明治43年)3月に沖縄電気軌道(後の沖縄電気)が特許を受けた軌道敷設計画は唯一実現する運びとなり、1914年(大正3年)5月に運輸営業を行う鉄道としては沖縄初となる路面電車が大門前―首里間に開業した。続いて半年後の11月には、東海岸側の西原にあったサトウキビ運搬鉄道を拡張する形で沖縄人車軌道(後の沖縄馬車軌道)の与那原 - 小那覇間が開業した』。『一方、明治時代の民間による鉄道計画の大半が挫折したことから、県営による鉄道敷設の気運も高まり、沖縄人車軌道の開業から1か月後の12月には沖縄県営鉄道が那覇―与那原間を結ぶ軽便鉄道を開業させた』。『大正末期には県営の軽便鉄道が那覇を中心に嘉手納、与那原、糸満を結ぶ3路線を完成させ、沖縄電気も路線を延伸。さらに那覇と糸満を結ぶ糸満馬車軌道が新たに開業し、沖縄本島の鉄道は最盛期を迎えた』。『昭和時代に入ると、沖縄本島では道路の整備に伴い自動車交通が発達し、鉄道はバスとの競争に晒される。県営鉄道は気動車(ガソリンカー)を投入するなどして対抗するが、沖縄電気の路面電車と糸満馬車軌道は利用者の減少で廃止に追い込まれた。この結果、沖縄本島内の鉄道は沖縄県営鉄道と沖縄軌道(旧・沖縄馬車軌道)だけとなるが、両者とも太平洋戦争末期の沖縄戦の直前である1944年(昭和19年)―1945年(昭和20年)に運行を停止し、鉄道の施設はミスによる引火事故や空襲・地上戦によって破壊された』とある。]

 

この辻も大漁踊にうばはれぬ

 

[やぶちゃん注:以上二十句は底本では十二月のパートに配されてある(但し、「知らぬ童に」以下の十四句は総て「雲彦沖縄句輯」からで、その前の句が十二月の発表句である)。]

耳嚢 巻之八 林霊素の事 

 林靈素の事

 

 或る襖(ふすま)、又長押(なげし)上の繪に、趙果老(てうくわらう)の鶴を吐(はく)の形あり。鶴なれば趙果老にはあらず、林和靖(りんわせい)にもあらんかと見れども、一體の模樣左にも非ず。ある人儒家畫家に尋(たづね)しに、林靈素(りんれいそ)なるべし。列仙傳の内に、林靈素、噀水一口、化成五色雲、々中有金龍獅子仙鶴、躍殿前云々。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「七夕」トンデモ由来譚からアヤシイ仙人画の人物同定・由来譚で連関。

・「林靈素」(Lín Líng sù ?~一一一九年)は北宋末の道士。字は通叟、本名は霊噩(れいがく)。温州永嘉(現在の浙江省)の人。初め僧となったが、修行の厳しさに堪えかねて道士に転向、道教に心酔していた徽宗の信任を得てつねに側近として侍した。徽宗が教主道君皇帝と称して道観を各地に建てて道士を優遇することとなったのも、彼の慫慂によるものであった。しかし後に信任に甘えて横暴な振る舞いが多くなった結果、徽宗の怒りに触れて故郷に追放となり、後、楚州(現在の安徽省淮安県)に流されて没した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。夢幻を善くし、特にその中でもここに出る水を口に含んで空中に吐き出すと、そこに五色の雲とともに金色の龍が現れたという奇瑞で知られている。大谷大学教授佐藤義寛氏のサイト内のこちで「列仙全傳」の彼のこの奇瑞の図が見られる。また、サイト「雄峯閣 ―書と装飾彫刻のみかた―」の「林霊素」には富山県高岡市伏木曳山祭りの上町山の山車に施されたその彫刻が出る。因みに、私はここの伏木中学校及び伏木高等学校の出身で、この曳山祭りというのは各町内所有の山車をぶつけ合う、別名「けんかやま」とも呼ばれる祭りで、山車に轢かれたり挟まったりして、たびたび死傷者が出る荒っぽいものであった。六年いたうちに数度見たが、そもそもが私は祭り嫌いで、残念ながら、この山車の彫刻の記憶も全くない。

・「趙果老」中国の代表的な仙人の名数である八仙の一人張果(生没年不詳)のことであろう。敬意を込めて「張果老」とも呼ばれる。唐代、玄宗(六八五年~七六二年)に招かれて様々な方術を見せ、天宝年間に尸解したとされるが、正史にも名を連ねており、多くの伝承を残す人物である。以下、ウィキの「張果」によると、幾つもの不確かでしかも知られた伝承によれば、『恒州の条山にこもり、近隣を歩き回り、数百歳と自称していた』が、高宗の皇后則天武后(六九〇年~七〇五年)『に招かれ、山を降りた時に死に、死体が腐敗していたにもかかわらず、後日、その姿は発見された』という。『張果は白い驢馬に乗り、一日に数千里を移動した。休むときに驢馬を紙のように折り畳んで箱にしまい、乗る時には水を吹きかけて驢馬に変えたという』。開元二二(七三四)年、玄宗は通事舎人(内舎人――和名では「うどねり」と読む――の別称。皇帝側近)の裴晤(ひご)『を使わして張果を迎えようとしたが、また死んでしまった。裴晤は死体に向かって玄宗の意を伝え、張果は息を吹き返した。玄宗は改めて中書舍人』徐嶠(じょきょう)『を送り、張果は朝廷に出仕することになった』。『張果は、玄宗に老いていることを問われ、髪を抜き、歯をたたき割った。すぐに黒髪、白い歯が生えてきたという。また、玄宗が娘の玉真公主を自分に嫁がせようとしているのを予言したこと、酒樽を童子に変えたことなどさまざまな方術を行った。食事は酒と丸薬だけしかとらず、方術について問われると、いつもでたらめな回答をしたと言われる。師夜光や邢和璞という方術を行うものたちにも正体を見定めることはできなかった』。『玄宗は高力士に相談し、張果に毒酒を飲ませ、本当の仙人か見定めることにした。張果は「うまい酒ではない」といい、焦げた歯をたたき落とし、膏薬を歯茎に貼って眠った。目を覚ました時には歯は生えそろっていたという。そのため、玄宗は真の仙人と認め、銀青光祿大夫と通玄先生の号を与えた』。『玄宗は道士の葉法善に張果の正体を問うた。葉法善は「正体を話すと、言った瞬間に殺されるので、その後で張果に命乞いを行って欲しい」と約束をとりつけた上で、張果の正体が混沌が生まれた時に現れた白蝙蝠の精であると話した。言い終わると、葉法善は体中の穴から血を流して死んだ。玄宗は張果に冠を脱ぎ、裸足になって命乞いをした。張果が葉法善の顔に水を吹きかけるとすぐに蘇生したという』。『張果は恒州に帰ることを願ったため、詔により許された。天宝元年』(七四二年)に今度は玄宗が『再び召し出したが、張果は急死してしまった。葬儀の後、棺桶を開くと死体は消えており、尸解仙になったと噂された』。『玄宗はこれを機に神仙を信じるようになったと言われる』。著作に開元二二(七三四)年に『献上した『丹砂訣』及び『陰符経太無伝』『陰符経弁命論』『氣訣』『神仙得道霊薬経』『罔象成名図』が伝えられ』、「隋唐演義」や「東遊記」にも登場する。『また、同時代の道士・羅公遠との術比べでは、及ばなかったという説話も伝わっている』とある。

・「林和靖」実在した宋代の詩人林逋(りんぽ 九六七年~一〇二八年)。字は君復。ウィキの「林逋」によれば、『杭州銭塘(浙江省)の出身。若くして父を失い、刻苦して独学する。恬淡な性格で衣食の不足もいっこうに気にとめず、西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。真宗はその名を聞いて粟帛を賜い、役人に時折見回るよう命じた。薛映・李及が杭州にいたときは彼らと終日政談し、妻子をもたず、庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。行書が巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。一生仕えず盧のそばに墓を造り、「司馬相如のように封禪の書を遺稿として用意してはいない」と詠み、国事に関心がないことを自認していた。その詩が都に伝わると仁宗は和靖先生と諡した』とある。

・「列仙傳の内に、林靈素、噀水一口、化成五色雲、々中有金龍獅子仙鶴、躍殿前云々」「列仙傳」は、この書名が正しいとすれば、前漢の伝劉向著と伝えるもの(但し、偽書説も根強い)。赤松之から玄俗に至る歴代の七十余人に及ぶ仙人の伝記集。黄帝や老子・東方朔らも含まれる。しかし、実は少なくとも私の知る「列仙伝」には彼は載っていない。また、この解説にある文字列も今のところ、出典が不明である。取り敢えず、この漢文部分を訓読して以下に示しておくこととする。識者の御教授を乞うものである。この「列仙傳」とは書名ではなく、仙人伝の総称として用いているか。

 林靈素は、水を噀(ふ)くこと一口、化して五色の雲と成り、雲中に金龍・獅子・仙鶴有りて、殿前に躍ると云々。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 林霊素の事

 

 しばしば、とある所の襖や、また、長押(なげし)の上に描かれたり彫られたりして御座る絵に、趙果老(ちょうかろう)が鶴を吐くという図柄を見る。

 鶴であるとすれば、これは趙果老ではなく、鶴を殊の外愛した詩人林和靖(りんわせい)であろうかと見てみると、どうも、全体の図柄から見ても、どうも違う感じがする。

 ある人が儒家や画家にこうした図の人物は、一体誰なのかと訊ねてみたところ、

「それは林霊素(りんれいそ)で御座ろう。「列仙伝」の内に、

『林霊素、噀水一口、化成五色雲、々中有金龍獅子仙鶴、躍殿前云々。』

と御座る。」

との答えで御座った由。

杉田久女句集 90 秋の叙景



編物やまつ毛目下に秋似日かげ

 

白豚や秋日に透いて耳血色

 

秋の日や啼き疲れ寢し縛り犬

 

秋の夜の敷き寢る袴たゝみけり

 

汝を泣かせて心とけたる秋夜かな

 

さみし身にピアノ鳴り出よ秋の暮

靑空に圍まれた地球の頂點に立つて   山之口貘

 

   靑空に圍まれた地球の頂點に立つて 

 

おさがりなのである

衣類も食物類も住所類もおさがりなのである。

よくも搔き集めて來たいろいろのおさがり物なのである

ついでに言ふが

女房といふ物だけはおさがり物さへないのである

中古の衣食住にくるまつて蓑虫のやうになつてはゐても

欲しいものは私もほんとうに欲しいのである

まつしぐらに地べたを貫いて地球の中心をめがける垂直のやうに

私の姿勢は一匹の女を狙つてゐるのである

引力のやうな情熱にひつたぐられてゐるのである

ひつたぐられて胸も張り裂けて手足は力だらけになつて

女房女房と叫んでゐるので唇が千切れ飛んでしまふのである

妻帶したら私は、女房の足首を摑んでその一塊の體重を肩に擔ぎあげたいのである

機關車・電車・ビルデイング・煙突など 街の體格達と立ち並んで汗を拭き拭き私は人生をひとまはりしたいのである

靑空に圍まれた地球の頂點に立つて

みるみる妻帶する私になつて兵卒の禮儀作法よりももつとすばやく明つきりと

『これは女房であります』と言つてしまつて

この全身を私は男になり切りたいのである。 

 

[やぶちゃん注:【2014年月日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を全面改稿した。】初出は昭和四(一九二九)年四月発行『現代詩評』第二号で先の「解體」とともに掲載された。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では句読点が除去されて最後の句点以外が字空けとなり(「妻帶したら私は、」の読点は以下参照)、さらに七行目が、

 

欲しいものは私もほんたうに欲しいのである

 

に訂され、十三行目が、

 

妻帶したら私は

女房の足首を摑んでその一塊の體重を肩に擔ぎあげたいのである

 

と「妻帶したら私は、」の読点が除去されて残りが新たに改行されて独立し、その次の行も、

 

機關車・電車・ビルデイング・煙突など 街の體格達と立ち並んで汗を拭き拭き私は人生をひとまはりしたいのである

 

と「煙突など」の跡に新たな字空けが施されてある。十六行目が、

 

みるみる妻帶する私になつて兵卒の禮儀作法よりももつとすばやくはつきりと

 

と「明つきりと」の表記が改められてある。

 個人的にとても好きな詩である。なお、勘違いしてはいけないが、バクさんが静江さんと結ばれるのは、昭和一二(一九三七)年の十月、バクさんがかく叫んでからも、実に八年の歳月が必要であったのである。【二〇二四年十月二十六日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

解體   山之口貘

 

   解 體

 

食べものの聯想を添えながら人を訪ねる癖があるとも言へる

ほんとうではあるが高尙ではない私なのである

私との交際は、 つきあはないことが得策なのである

主觀的なので誰よりもひもじい私なのである

方々の食卓に表現する食欲が枯木のやうな情熱となつて生えてゐるのである

もうろうと目蓋は開いたまゝなのである

私の思想は死にたいやうでもある

私の體格は生きたいやうなのである

私は、 雨にぬれた午後の空間に顏をつつこんでゐるのである

身を泥濘に突きさして私はそこに立ち止まつてゐるのである

全然なんにも要らない思想ではないのである

女とメシツブのためには大きな口のある體格なのである

馬鹿か白痴かすけべえか風邪のかの字にも價しない枯れた體格なのである

精神のことごとくが、 あるこうるのやうに消えて乾いてしまふた體格なのである

なんと言つたらよいか

私は材木達といつしよに建築材料にでもなるであらうか。

 

[やぶちゃん注:「添え」「ほんとう」はママ。【2014年6月22日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、一部の新字を正字化していなかったのを訂正、さらに注を全面改稿した。】初出は昭和四(一九二九)年四月発行『現代詩評』第二号(発行所は東京市外世田ヶ谷若林・詩人協会。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題によれば、前月三月発行の同誌創刊号の『會員動勢』の欄に一月から二月にかけての『新入會員』として『山之口獏』(「獏」はママ)の名が載るとある。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では句読点が除去されて最後の句点以外は字空けとなり、さらに一行目に、

 

食べものの聯想を添へながら人を訪ねる癖があるとも言へる

 

と、歴史的仮名遣の訂正が入り、五行目に、

 

方々の食卓に表現する食欲が 枯木のやうな情熱となつて生えてゐるのである

 

という字空けが施されてある。【二〇二四年十月二十六日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

夜   山之口貘

 

   

 

僕は間借りをしたのである

僕の所へ遊びに來たまへと皆に言ふたのである

そのうちにゆくよと皆は言ふのであつたのである

何日經つてもそのうちにはならないのであらうか

僕も、 僕を訪ねて來る者があるもんかとおもつてしまふのである

僕は人間ではないのであらうか

貧乏が人間を形態して僕になつてゐるのであらうか

引力より外にはかんじることも出來ないで、 僕は靜物の親類のやうに生きてしまふのであらうか 

 

大槪の人生達が休憩してゐる夜中である

僕は僕をかんじながら

下から照らしてゐる太陽をながめてゐるのである

とほい晝の街の風景が逆さに輝いてゐるのをながめてゐるのである

まるい地球をながめてゐるのである 

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一二(一九三七)年三月発行の『むらさき』。「定本 山之口貘詩集」では読点が除去されて字空き、また、これは旧全集校異に載らないが、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では、第二連の冒頭の一行が、

 

大槪の人生達が休憩してゐる眞夜中である

 

と改変されてある。

 個人的に好きな詩である。【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を追加した。】【二〇二四年十月二十六日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

 

夢の後   山之口貘

 

   夢 の 後 

 

飯を食べてゐるところで眼が開いてしまふた。

 鼻先には朝が來合はせてゐる。 顏の重みで

 草倒れてゐる。 昨夜、 置きつ放しの足

 が、 手が、 胴體が、 亂雜してゐる。 

 疲勞の重さで僕の寢てゐるところの土が窪ん

 でゐる。 それらの肉體を、 熊手のやうに

 僕は一所に搔き寄せる。 僕は僕を一纏めに

 すると、 さて、 立ち上らうとするんだ

 よろめいてしまふ。 よろめくたびの僕にゆ

 すぶられて、 そこに朝が綻びかけてゐる。

 この情景を𨻶見してゐるやうに、 僕は飯を

 食てゐたんだが、 と僕はおもふ。

夢にくすぐられて、 からまはりしてゐる生理

 作用。 生活のなかには僕がゐない。 僕は

 死んでしまつたかのやうに、 月日の上をう

 ろついてゐる。

『このごろはどうしてゐるんだ?』

あゝこのごろか! このごろもまた僕はひもじ

 いのである。

だから借して吳れ。

『ないんだ』と聲が言つた。 あんまり度々な

 んだから、 あるにしてもないんだらう。

僕は、 ガードの上の電車に眼を投げる。 眼

 は電信柱の尖端にひつかゝる。 往來の頭達

 の上に眼が落ちる。 この邊も賑やかになつ

 たもんだが、 は僕の上に落ちる。 食べ

 易いのであらうか、 くも情類のやうなや

 はらかいものばかりを僕は食べて步いてゐる

 もんだ。

 つんぼのやうになつて、 僕のゐる風景を目

 讀しゐると、 誰かゞ、 僕の肩を叩いて

 ゐる。

『空腹になるのがうまくなつたんだらう』

 

[やぶちゃん注:【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を全面改稿した。】初出は昭和九(一九三一)年四月号『改造』。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」によれば、この雑誌には旧全集に載らない新発見の長詩(バクさんにしては、である)「發聲」という詩と同時掲載されたとある(近い将来、この「發聲」は電子化するので、それまでお待ち戴きたい。新全集の「既刊詩集未収録詩篇」は順番に電子化しているので悪しからず)。

 本詩は一部に以上のような繋がった一行の一字下げとは異なる一字下げという特殊な技法が用いられている。底本では一行字数が多いので全体の行数はもっと少ないが、ブログの文字サイズを大きめにしても改行が起こらず、しかも貘の特殊字下げの差別化を有効に見せて、更に句読点や一字空けが行末で出っ張りとして生じないような字数を勘案し、以上のように表記した。太字「情類」は底本では傍点「﹅」である。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」との異同は以下の通り。

・句読点は除去され、読点と途中にある句点は字空けとなっている。

・一行目の「熊手のやうに僕は一所に搔き寄せる」が「熊手のやうに僕は一ケ所に搔き寄せる」。なお、新全集では「ケ」を「ヶ」で表記するが、旧全集校異は「ケ」である。

・「『ないんだ』と聲が言つた」で改行され、「あんまり度々なんだから、あるにしてもないんだらう」は次行送り。

・「この情景を𨻶見してゐるやうに、僕は飯を食つてゐたんだが、と僕はおもふ。」は行頭から記されている(「定本 山之口貘詩集」を底本とする思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」に拠る)。

・「つんぼのやうになつて、僕のゐる風景を目讀してゐると、誰かゞ、僕の肩を叩いてゐる。」は行頭から記されている(「定本 山之口貘詩集」を底本とする思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」に拠る)。則ち、ここ、底本の旧全集では前の「食べ易いのであらうか、よくも情類のやうなやはらかいものばかりを僕は食べて步いてゐるもんだ。」が行末で終わっているためにどうみても連続した詩句としか読めないものが、実は独立句であったことが分かるのである。これは大きな相違である。

 以上から、この特殊な字下げによって今まで旧全集に拠って読んでいた我々は、ある意味、間違った読み方をしてしまっていた可能性がここに浮上してくる。そこでこの特殊な字下げを無視した上で「定本 山之口貘詩集」通りの句読点を除去した詩形を読み易く示したいと思う。

   *

 

 夢 の 後 

 

飯を食べてゐるところで眼が開いてしまふた 鼻先には朝が來合はせてゐる 顏の重みで草が倒れてゐる 昨夜 置きつ放しの足が 手が 胴體が 亂雜してゐる 疲勞の重さで僕の寢てゐるところの土が窪んでゐる それらの肉體を 熊手のやうに僕は一ケ所に搔き寄せる 僕は僕を一纏めにすると さて 立ち上らうとするんだがよろめいてしまふ よろめくたびの僕にゆすぶられて そこに朝が綻びかけてゐる

この情景を𨻶見してゐるやうに 僕は飯を食つてゐたんだが と僕はおもふ

夢にくすぐられて からまはりしてゐる生理作用 生活のなかには僕がゐない 僕は死んでしまつたかのやうに 月日の上をうろついてゐる

『このごろはどうしてゐるんだ?』

あゝこのごろか! このごろもまた僕はひもじいのである

だから借して吳れ

『ないんだ』と聲が言つた

あんまり度々なんだから あるにしてもないんだらう

僕は ガードの上の電車に眼を投げる 眼は電信柱の尖端にひつかゝる 往來の頭達の上に眼が落ちる この邊も賑やかになつたもんだが 眼は僕の上に落ちる 食べ易いのであらうか よくも情類のやうなやはらかいものばかりを僕は食べて步いてゐるもんだ

つんぼのやうになつて 僕のゐる風景を目讀してゐると 誰かゞ 僕の肩を叩いてゐる

『空腹になるのがうまくなつたんだらう』

 

   *

 ここにきて、前の「挨拶」を見ても、この特殊な字下げは直接話法を含む詩に対して、バクさんが好んで用いる傾向が強い、一種のシナリオのト書き的な特殊な形式であるように私は感じている。但し、この詩の場合はそれが上手く機能していないように思われるが、如何であろう?

【二〇二四年十月二十五日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

光線   山之口貘

 

   光 線

 

一文もない、 と彼は言ふ

あつても健康なものにはもう貸さない、 と彼は言ふ

さうして僕のかんがへは

借りるつもりで來たんだらう

借りると貰つたつもりになるんだらう

貰つたらまたも借りるつもりになつて來るんだらう

さうして僕の肉體は

どこからみても健康か

恥を被つてゐると眩しくなつて

目蓋を閉ぢたがなほ眩しい。

 

[やぶちゃん注:【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。この注を追加した。】初出は前掲通り、「食ひそこなつた僕」と同時掲載の昭和一〇(一九三五)年九月号『行動』で、総標題を「食ひそこなつた僕」とする。

 「定本 山之口貘詩集」では句読点が除去され、読点は字空けとなっている。

【二〇二四年十月二十三日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

 

生きてゐる位置   山之口貘

 

   生きてゐる位置

 

死んだとおもつたら

生きてゐたのか、 と

僕の顏さへみればいふやうだが

世間はまつたく氣がはやい 

 

僕は生きても生きてもなかなか死なないんで

死んだら最後だ地球が崩れても

どこまでも死んだまんまでゐたいとねがふほど

それは永いおもひをしながらも

呼吸(いき)をしてゐる間は生きてゐるのだよ。

 

[やぶちゃん注:【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証し、この注を追加した。】初出は昭和一二(一九三七)年二月発行の『むらさき』。発表年より、創作年が、遙かに古い(前の「石」よりも古い)ことが、この配置から分かる。

 「定本 山之口貘詩集」では句読点が除去され、読点は字空けとなり、「僕は生きても生きてもなかなか死なないんで」が独立せず、次の「死んだら最後だ地球が崩れても」の連の冒頭行となっている。【二〇二四年十月二十三日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

 

 

石   山之口貘

 

  

 

季節々々が素通りする

來るかとおもつて見てゐると

來るかのやうにみせかけながら 

 

僕がゐるかはりにといふやうに

街角には誰もゐない 

 

徒勞にまみれて坐つてゐると

これでも生きてゐるのかとおもふんだが

季節々々が素通りする

まるで生き過ぎるんだといふかのやうに 

 

いつみてもここにゐるのは僕なのか

着てゐる現實

見返れば

僕はあの頃からの浮浪人



[やぶちゃん注:【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに初出注を追加した。】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」によれば初出は昭和一一(一九三六)年六月発行の『世代』(発行所は東京市中野区天神町「世代社」)で、『大売捌所「東海堂」』と注記がある。【二〇二四年十月二十三日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

中島敦 南洋日記 一月二十一日

        一月二十一日(水) ウリマン

 朝八時半。不平顏の島民に荷を擔はせて先に立たしむ、日の中にアルコロン迄行く男なり。九時出發、はじめは椰子林中の道にて快し。Ngalaiel にチャモロ家屋三軒。白人めきたる少年挨拶す。このあたりより道はマングローブ地帶を行き、泥濘甚だし。左右のタカホ廢田。カンコン。カンコンの花。猫二匹。所々の廢村。水溜り。椰子の葉。丸太。歩きにくきこと甚だし。十時半頃漸くガクラオに達す。コロールへの、割當農産物積出の日。女達の頭にのせし芋。十四五の一少女土方氏に慣々しく話しかけ、村まで同行す。土方氏のコンパの家の少女なり。但し、主人は人夫にとられて不在。その留守宅にて茶を沸かさせ晝食をとる。細君歸り來る。子供等三人。雞。アミアカの實旨し。一老人來り告ぐ、朝、荷を負はせて立たしめし島民はウリマン迄行かず、此處にリュックを置いて行きたりと。不埒な奴なり。リュックを置きし家もさだかならず。漸くにして探し出す。十一時半出發。今度は、ずつと道良し。鷺の聲など聞きつゝ、一時間足らずにしてウリマンに入る。村吏事務所に荷を置き佐藤校長の所に挨拶。戸井田氏に大谷氏よりのことづけものを渡す。晝寐。海岸に出て宿かりと遊ぶ。スコール、虹。貝拾ひの子供等。戸井田氏の息、八歳なるが來りて頻りに話し掛く。夕食はおじや。佐藤氏より小鰯の揚物。を一 食後、バス。歸りて、戸井田氏より到來のマングローブ蟹を食ふ。うまし。島民音吉なる者と無駄話をす。九時過就寢。時に椰子の實のドスンと落つる音。波の響

[やぶちゃん注:「アルコロン」パラオの最大の島バベルダオブ島の最北端に位置する地域。

Ngalaiel」現在のアルコロン州は英名“State of Ngarchelong”で何となく似ている。英語版のパラオの地図を見ると、アルコロン州に向う途中のバベルダオブ島内の地名には“Nga-”が接頭語のようについている場所が多い。

「カンコン」恐らくナス目ヒルガオ科サツマイモ属ヨウサイ(蕹菜) Ipomoea aquatica 、所謂、クウシンサイ(空心菜)のことと思われる。英名は“Water Morning Glory”とか“water spinach”で、推理の根拠はフィリピンでは“kang kong”(カンコン)、インドネシアでは“kangkung”(カンクン)と呼称するからである。参照したウィキヨウサイ」によれば、『つる性多年草だが、作物としては一年草扱い。東南アジア原産で、古くは沖縄県方面を経て九州に渡来した』とあり、『湿地で多く栽培され、水耕栽培も可能。外見はサツマイモに似ており、茎は中空で這う。葉は切れ目の入った長卵形。アサガオのような淡紫色または白色の花を付けるため、朝顔菜(あさがおな)の別名もある。最低気温が10度を下回ると、茎も根も枯れる。九州以北の露地栽培では花をつけても種をつけず、自生繁殖による生態系への影響は発生しない』。『汽水域や塩分を含む農地での栽培が可能であることが、恵那農業高等学校の研究で確認された(2010・2011年)。津波の流入した農地で栽培し塩分の吸収が確認できたことから、津波被災地や海岸近くの農地での栽培に期待が高まっている』。『水辺に生育し、水面に茎(空洞で節がありフロートと同じ)を浮かせて進出する。暑さに強く水上で栽培すると大量に根を伸ばして水をよく吸収することから、近年では湖沼などの水質浄化活動によく用いられている』。『茎葉を主に炒め物または中華風のおひたし』『として、中国やフィリピン、タイ、マレーシア、インドネシアなどの東南アジアで用いる。ニンニクといっしょに、塩味で炒めたり、魚醤の類や豆豉で味付けして炒めたりすることが多い』。また、『オーストラリアの先住民族アボリジニの間ではブッシュ・タッカーとして古くから消費されてきた』(但し、ここは出典要求が出されている)とあるから、パラオの廃田中に生えていたとしても強ち違和感がないように思われるが、如何? リンク先で朝顔に似た花も見られる。

「アミアカ」これは恐らくバラ亜綱フトモモ目 Myrtalesシクンシ科モモタマナ属 Terminalia catappa のことを指していると考えられる。「九月十日」の日記で既注であるが再掲すると、マレー半島原産とされる熱帯植物(沖縄や小笠原にも自生)。英名で“tropical almond”とか“Indian almond”と呼び、種子の仁が食用となる。材は硬く良質であるため、建築用材や家具に用いられ、街路樹・庭木・海岸の防風林として植栽される(以上は高橋俊一氏のサイト「世界の植物-植物名の由来-」の「モモタマナ」に拠り、そこには『種子の仁(ジン)は食用となり、アーモンドのような味ということだが食べたことはない』『茶色いタネを、持っていた小型ナイフで割ってみた。苦労して「仁」を取り出してみたが、食べられるような感じではなかった』とはある)。「九月十日」の日記にあ「(a mȉeh)」というこの木の名の現地音を写したものと思われる記載があるが、この「(a mȉeh)」は「アミアカ」という音にも近いようにも見えるのである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 26 地震の記

 先週強い地震があった。私は横浜のホテルの二階にいた。これは、私が初めて「聞いた」地震の一つであるから、ここに記録する。ニューインクランドで我々が感じる弱い震動は、耳に聞き得る鳴動を伴うが、今迄のところ、日本の地震は、震動が感じられる丈であった。然るに今度の奴には、まるで沢山の車馬が道を行く時みたいな、鳴動音が先立った。数年間日本にいたハバード夫人が私に、これは重い荷をつけた荷車が通り過ぎる音だといい、私はそれについては、何も心にかけなかったが、次の瞬間、砕けるような、きしむような、爆発するような、ドサンという衝撃が、建物全体をゆり動かし、まったく、もう一度この激動が来たら、建物は崩壊するだろうと思われた。ハバード夫人は気絶せんばかりに驚き、ホテルの人々は当もなく、恐れおびえた様子で右往左往した。これは私が今迄に経験した中で一番強い地震で、私は初めて多少の興奮を感じたが、恐らく他の人々が恐怖の念を示したからであろう。

[やぶちゃん注:「ハバード夫人」原文“Mrs. Hubbard”。不詳。]

 

 六月十六日。私はまたしても、家をゆすり、戸をガタガタさせ、そして三十秒ばかり継続した地震に、目をさまさせられた。

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(10)「ゆうすゞみ」(Ⅱ) ~ 「ゆうすゞみ」了



春の水山吹のせて流れずや

君が家居と指ざす方へ

 

女みなつどひてこゝに庵(いほり)せよ

美男ぞ多き行く春のくに

 

御染さまあれ久(ひさ)さまとよりそひて

二人ゆく手に闇のあやなき 

             (踊りさらへの日即興)

 

[やぶちゃん注:朔太郎満二十歳の時の、『無花果』(明治三九(一九〇六)年十一月発行)に「美棹」の筆名で掲載された一首、

 お染さまあれ久さまとより添ひてふたりゆく手に闇のあやなき

の表記違い相同歌。]

 

たゞ一人至る仁にいます母上の

おん世悲しく死はなづきえぬ

 

雨の日や庫裏(くり)に膝くみ物いはず

叩けど飽かぬ古木魚かな

 

大聲(ごゑ)に柩をあけて呼び出でん

我やとこしへ死なじ老ひじと

 

[やぶちゃん注:「老ひじと」はママ。]

 

夏の日や日蔭もとむる唐獅子の

渇きせまると胸やく心地

 

[やぶちゃん注: この一首の次行に、前の「胸やく心地」の「や」の位置から下方に向って、以前に示した特殊なバーが配されて、本「ゆうすゞみ」歌群の終了を示している。]

飯田蛇笏 靈芝 大正十一年(十句)

   大正十一年(十句)

 

ぱらぱらと日雨音する山椿

 

[やぶちゃん注:「ぱらぱら」の後半は底本では踊り字「〱」。「山廬集」では、

 

 ぱらぱらと日雨音しぬ山椿

 

と改稿する。「日雨」は「ひさめ」と読むか。「日本国語大辞典」にも載らず、ネット検索でも掛からないが、恐らくは天気がよく晴天であるのに降る天気雨のことであろう。同義語として日照雨(ひでりあめ)という呼称があると、参照したウィキ天気雨」にある(因みに他には「狐の嫁入り」「涙雨」「天泣」などの呼称があり、沖縄県では比較的日常的にみられる現象で方言で「太陽雨(てぃーだあみ)」と呼ばれる)。それによれば、天気雨は『雨粒が地面に到達するまでに雨雲が消滅・移動した場合に発生する。特に雲が対流雲だと、降雨後10分程度で雲が消えるため、天気雨が発生しやすい』。『また遠方で降った雨が強い横風に流されることで天気雨になることもある。特に山間部では、山越えの際に雲が消えてしまうので、山越えの風に雨粒だけが乗って飛んでくることになり、その場合、天気雨を見ることができる』とあり、蛇笏の隠棲していた山梨とよく附合する。]

 

秋分の時どり雨や荏のしづく

 

[やぶちゃん注:「時どり雨」不詳。「ときどりあめ」では「日本国語大辞典」にも載らない。ただ、同辞典には「時取」という語が載り、そこには意味の一つとして、『事を行うにさして際して、あらかじめ時間を取り決めておくこと』という意があり、これを拡大解釈すれば、――例えば、秋分の時節には、昔から決まって雨が降るという言い伝えが蛇笏がいた地方にはあって、この大正一一(一九二二)年の秋分の日にはその通りに雨が降った――ということであろうか? 但し、秋分の頃にそうした特異日があるという記載はネット上には見出せないし、そうした言い伝えが山梨にあるという話も聴いたことはないから、あくまで私の苦しい解釈ではある。識者の御教授を乞うものである。

 「荏」は「え」と読んでいよう。「山廬集」では、後に『註。荏は紫蘇に似たる植物にして食用に供するこまかき香氣強き實を簇生す』という蛇笏の自注がある。シソ目シソ科シソ属エゴマ変種エゴマ Perilla frutescens var. frutescens のこと。ウィキエゴマ」によれば、『シソ科の一年草。シソ(青紫蘇)とは同種の変種。東南アジア原産とされる。地方名に「ジュウネン」(食べると十年長生きできる、という謂れから)などがある』とあり、『古名、漢名は「荏」(え)。食用または油を採るために栽培される。シソ(青紫蘇)とよく似ており、アジア全域ではシソ系統の品種が好まれる地域、エゴマ系統の品種が好まれる地域、両方が栽培される地域などが見られるが、原産地の東南アジアではシソともエゴマともつかない未分化の品種群が多く見られる』。『葉などには香り成分としてペリラケトン(Perilla ketone)やエゴマケトン(Egoma ketone3-(4-Methyl-1-oxa-3-pentenyl)furan)などの3位置換フラン化合物が含まれ、大量に摂取した反芻動物に対して毒性を示す』。高さは六〇センチメートルから一メートル程度で、『茎は四角く、直立し、長い毛が生える。葉は対生につき、広卵形で、先がとがり、鋸状にぎざぎざしている。付け根に近い部分は丸い。葉は長さ』は七~十二センチメートル、『表面は緑色で、裏面には赤紫色が交る。花序は総状花序で、白色の花を多数つける。花冠は長さ』四~五ミリメートル、『花弁は4枚で下側の2枚が若干長い』。『日本ではインド原産のゴマよりも古くから利用されている。考古学においてはエゴマをはじめとするシソ属種実の検出が縄文時代早期から確認されており、エゴマ種実は縄文中期の長野県荒神山遺跡で検出されている』。『また、クッキー状炭化物からも検出されていることから食用加工されていたと考えられており、栽培植物としての観点から縄文農耕論においても注目されている。中世から鎌倉時代ごろまで、搾油用に広く栽培され、荏原など、地名に「荏」が付く場所の多くは栽培地であったことに由来する』。『種子は、日本ではゴマと同様に、炒ってからすりつぶし、薬味としたり、「エゴマ味噌」などとして食用にされる』。『岐阜県の飛騨地方では、「エゴマ味噌」の事を「あぶらえ」と呼び、五平餅や焼いた餅に付けたり、茹でた青菜や煮たジャガイモにあえて食べるなど、生活に密着して食用されている』とある。]

 

月の木戸しめ忘れたる夜風かな

 

谷橋に見る秋虹のやがて消ゆ

 

秋の雲しろじろとして夜に入りし

 

[やぶちゃん注:「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

出水川とゞろく雲の絶間かな

 

うす霧に日當る土の木の實かな

 

めぐまんとする眼うつくし小春尼

 

雪やんで月いざよへる雲間かな

 

老ぼれて子のごとく抱く湯婆かな

 

[やぶちゃん注:「湯婆」は「たんぽ」と読む。湯たんぽ。因みに「たんぽ」の語は「湯婆」の唐音から転用されたものといわれる。]

篠原鳳作句集 昭和七(一九三二)年十一月



麻衣がわりがわりと琉球女

 

   甘蔗畑

踊衆にきまつてゐるや甘蔗盗人(きびぬすと)

 

良い月にうかれて甘蔗ぬすみけり

 

[やぶちゃん注:前の二句は十一月発行の『天の川』の発表句。「良い月に」は「雲彦沖繩句輯」からここに配されてある。]

杉田久女句集 89 二百十日



二百十日の月穩やかに芋畠

 

二百十日の月玲瓏と花畠

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 湖畔日記

 湖畔日記

 

郭公を曉にきゝそれより寢き

 

言とぎれ面夏雲たゞ照るのみ

 

林中(りんちゆう)夕燒よめる書には來ず

 

夜草刈蠍(さそり)の星はしづみたり

 

天昏れて草原いつまでも蒼き

 

富士薊野のいなづまにかくれなき

 

寢られねばのいなづまを顏にする

 

月照りて野の露人をゆかしめず

 

ひとを送り野のいなづまに衝(う)たれ立つ

 

虫の聲かさなり四方(よも)の野より來る

 

露けくて富士は朝燒野にうつす

 

曼珠沙華吾が疲るゝに炎(も)えつきず

 

落葉松(からまつ)の散る野の椅子をたゝみて去る

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年七月から八月にかけて多佳子は山中湖畔に避暑した。これらはその折りの詠。]

皎々とのぼつてゆきたい   八木重吉

 

それが ことによくすみわたつた日であるならば

そして君のこころが あまりにもつよく

説きがたく 消しがたく かなしさにうづく日なら

君は この阪路(さかみち)をいつまでものぼりつめて

あの丘よりも もつともつとたかく

皎々と のぼつてゆきたいとは おもわないか

 

[やぶちゃん注:「おもわないか」はママ。]

第一印象   山之口貘

 

   第 一 印 象

 

魚のやうな眼である

肩は少し張つてゐる

言葉づかひは半分男に似てゐる

步き方が男のやうだと自分でも言ひ出した

ところが娘よ

男であらうが構ふもんか

金屬的にひゞくその性格の音が良いんぢやないか

その動作に艷があつて良いんぢやないか

さう思ひながら、 ひたひにお天氣をかんじながら僕は歸つて來る

僕は兩手をうしろにつつぱつて僕の胴體を支へてゐる

僕は椽の日向に足を投げ出してゐる

足の甲に蠅がとまる

蠅の背中に娘の顏がとまつてゐる



[やぶちゃん注:
【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注記をかく追加した。】出は昭和九(一九三四)年五月発行の『セルパン』。【二〇二四年十月二十日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。「椽」はママ。これは簷(ひさし)の下部に附ける椽(たるき)で、「緣(えん)」(縁側)が正しいであるが、芥川龍之介等、多くの近代作家は普通に、この誤用を確信犯で使っているので、問題はない。

2014/03/01

本日雛祭りにて閉店

本日雛祭りにて自宅にて妻の女子会のホスト役に徹するに附き閉店致す 心朽窩主人敬白

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(9)「ゆうすゞみ」(Ⅰ)

 ゆうすゞみ

 

[やぶちゃん注:「ゆう」はママ。]

 

花やかにかんてらともす緣日を

ふたり出づれば月のぼりけり

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十八歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇五)年七月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された「ゑかたびら」と題する十二首連作の七首目、

 花やかに、かんてら燭(とも)すえん日を、二人いづれば月のぼりけり。

と表記違いの相同歌。]

 

微(そよ)風のうたがたりふく途すがら

四の袂に螢おさへぬ

 

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された八首連作の四首目、

 微風(そよかぜ)の歌語(うたかた)り吹く途(みち)すがら四の袖(そで)に螢(ほたる)おさへぬ

の類型歌。]

 

夕づきや橋のたもとに衣しろき

人と別れぬ山百合のはな

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十八歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇五)年七月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された「ゑかたびら」と題する十二首連作の十一首目、

 夕月や橋の袂に衣白き、人と別れぬ山百合のはな。

と類型歌である。「たもと」と「袂」は大きな相違で、実は「袂」は誤りかと疑われる。]

 

夕月夜潮なる音にあこがれて

君くる路を浪に畫きぬ

 

櫻貝ふたつ重ねて海の趣味

いづれ深しと笑み問はれけり

 

[やぶちゃん注:同じく、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇五)年七月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された「ゑかたびら」と題する十二首連作の掉尾、

 さくら貝、ふたつ重ねて海の趣味、いづれ深しと笑み問(と)はれけり。

と表記違いの相同歌で、初出掲載で注した通り、彼はこの歌が好みだったらしく、その三年後の第六高等学校『交友会誌』明治四一(一九〇八)年十二月号に「水市覺有秋」という標題で掲載された連作中でも、

 櫻貝二つ並べて海の趣味いづれ深しと笑み問はれけり

と改作している(この改作は先行作より遙かに劣ると私は思う)。]

 

海近き河邊に添ひし柳みち

月は二人の肩をすべりぬ

 

里(さと)河の底にうつれる星くづを

いくつかぞへて君に逢ふべき

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十九歳の時の、『晩聲』創刊号(明治三九(一九〇六)年四月発行)に「美佐雄」の筆名で所収された六首の掉尾、

 里川の底にうつれる星くづをいくつ數へて人にあふべき

の表記違いの相同歌。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(8) 冒頭歌群終了

綾唄やあるひは牛の遠鳴(とほなき)や

君まつ秋の野は更けにけり

 

[やぶちゃん注:「あるひは」はママ。この歌は朔太郎満十八歳の時の、『白虹』第一巻第四号(明治三八(一九〇五)年四月発行)の「小鼓」欄に掲載された、

 綾唄やあるひは牛の遠鳴や、君まつ秋の野の更けにけり

及び、朔太郎満十九歳の時、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で載せた、

 綾唄や或は牛の遠鳴(とほ)なきや君待(ま)つ秋(あき)の野は更(ふ)けにけり

の表記以外の相同歌である。]

 

風ふきぬ木の實地をうつ秋の夜は

待たるゝ君がさびしさ思へ

 

[やぶちゃん注:この歌は前と同じく『白虹』第一巻第四号(明治三八(一九〇五)年四月発行)の「小鼓」欄に掲載された、

 風ふきぬ木の葉地をうつ秋の夜はまたる〻君かさびしさ思へ

の類型句(「木の葉」と「木の實」で有意に異なる)である。なお、底本全集の編者注にはもう一首を参照に掲げているのであるが、指示された頁には相同・相似歌は見当たらない。この注は前の注と全く同じなので、校正ミスが疑われる。]

 

み手とりて涙そゝがん日もあらば

歌は桂の根にしづむべし

 

たゞ願ふ君がかたへにある日をば

夢のやうなるその千とせをば

 

[やぶちゃん注:この歌は前と同じく『白虹』第一巻第四号(明治三八(一九〇五)年四月発行)の「小鼓」欄に掲載された、

 た〻願ふ君の傍へにある日をば夢のようなるその千年をば

の表記違いの相同歌である。]

 

われ君を戀す戀しき心より

君を思へば胸たゞ火なり

 

[やぶちゃん注:この歌も、同じく『白虹』第一巻第四号(明治三八(一九〇五)年四月発行)の「小鼓」欄に掲載された、

 われ君を戀はん戀しき心より君を思へば胸ただ火なり

の表記違いの相同歌。]

 

わが脣(くち)と君がみ脣とひたすらに

ふれよいつまで泣いてあるべき

 

[やぶちゃん注:原本は「ひとすらに」であるが、意味が通らないので、校訂本文「ひたすらに」を採る。]

 

夜は夜にて晝は晝にて戀はであらば

エトナの山は燃えであるべし

 

[やぶちゃん注:原本は「燒えであるべし」であるが、意味が通らないので、校訂本文「燃えであるべし」を採る。太郎満十九歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された

 夜(よ)は夜にて晝(ひる)は晝にて戀(こ)いてあらばエトナの山(やま)はもえであるべし

の類型歌。「戀いて」はママ。そこでの注したが再度注しておくと、「エトナ」はイタリア南部シチリア島の東部にあるヨーロッパ最大の活火山エトナ山(Etna)。ギリシャ神話ではガイアの息子で不死の怪物の王ティフォンが封じられているとされ、また鍛冶神ヘパイストスはこの山精であるエイトナを愛人とし、その情熱的な生涯の最後の仕事場としてこの山を選んだとも伝えられる。ただ、私が馬鹿なのかこの歌の意味は今一つ、よく汲み取れない。自分の恋情の炎が日夜絶えず激しければ、永遠の火を噴くはずのエトナ山でさえも、その私の情熱故に燃え尽きてしまうであろう、とでもいうのであろうか? どうも短歌の苦手な私には分からぬ。識者の御教授を乞うものである。]

 

     君が心、今は戀しさに狂はんとす

あゝ如何に君が戀しきなつかしき

たとへんやうもなき戀ひかな

 

[やぶちゃん注:原本は「なづかしき」であるが、校訂本文「なつかしき」を採った。]

 

あゝ二人戀しるものと見代はして

笑めばあまねく春はたらひぬ 

Sakujijyo_4

 [やぶちゃん注:「見代はして」は校訂本文では「見交はして」と訂する。「たらひぬ」は自動詞ハ行四段活用「たらふ」(十分である・不足がない/その表象に堪える・資格を持つ)の連用形+完了の助動詞「ぬ」の終止形。

 この一首の次行に、前の「春」の位置から下方に向って、最後に画像で示した特殊なバーが配されて、一つの歌群の終了を示している。但しこの歌群には次の「ゆふすずみ」のような総題はない。構造から見ると、ここは総題であるところの「若きウエルテルの煩い」の中の同じ「若きウエルテルの煩い」パートであると採れる。]

飯田蛇笏 靈芝 大正十年(五句)

   大正十年(五句)

 

わづか醉うてさめざるしなや秋女

 

月をみる眇もちたる樵夫かな

 

蠶部屋より妹も眺めぬ秋の虹

 

秋耕にたゆまぬ妹が目鼻だち

 

寒禽を捕る冬樹の雲仄か

篠原鳳作句集 昭和七(一九三二)年十月



蛇皮線をかかへあるける涼みかな

 

蛇皮線をかかへて歩く涼みかな

 

[やぶちゃん注:前者は十月発行の『天の川』の、後者は同十月発行の『泉』の掲載句形。]

 

日傘おちよぼざしして墓參り

 

かたびらのうるし光りや琉球女

 

[やぶちゃん注:「うるし光り」これは夏用の麻の帷子(かたびら)の紋付などに附ける漆で描いた紋所、「漆紋(うるしもん)」のことであろう。]

 

豚の仔の遊んでゐるや芭蕉林

 

[やぶちゃん注:以上五句は九月の発表句。]

杉田久女句集 88 新涼



障子しめて灯す湯殿や秋涼し

 

新涼や紫苑をしのぐ草の丈

 

[やぶちゃん注:「紫苑」キク目キク科キク亜科シオン連シオン Aster tataricus。別名はオニノシコグサ(鬼の醜草)・ジュウゴヤソウ(十五夜草)。参照したウィキの「シオン植物)によれば、草丈は一八〇センチメートル程までになり、『開花期は秋で、薄紫で一重の花を咲かせる』。本邦では園芸種として『花を観賞するためによく栽培されている』が、『九州の山間部に、少数であるが自生している』ともあり、また、『その花の色から紫苑という色名の語源となった。花言葉は「君の事を忘れない」・「遠方にある人を思う」』であるとする。]

 

新涼や日當りながら竹の雨

 

新涼の雨吸ひ足りて砂畠

 

新涼やほの明るみし柿の數

 

新涼や濡れ髮ほのと束ねぐせ

 

新涼や障子はめある化粧部屋

 

秋涼し朝刊をよむ蚊帳裾濃(すそご)

 

[やぶちゃん注:「裾濃」染めや織りの技法の一つ。同系色で、上方を淡くし、下方に向うに従って次第に濃くしてゆくもの。]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 羅針盤 

 羅針盤

 

短艇(ボート)甲板(デツキ)燬(や)くる靜けさ日も航けり

 

[やぶちゃん注:「燬」は音「キ」で、原義は(つくり)の「毀」(潰す)から焼き尽くすの意である。焼くこと・焼き払うことの意の「焼燬(しょうき)」以外ではあまり見かけない字であるが、烈火などの意もあり、じりじりと焼ける甲板のイメージとして特異的に表現するに相応しい効果的な用字を多佳子は選んでいる。]

 

羅針盤平らに銀河弧(こ)をなせり

 

羅針ともり天球銀河の尾を垂らす

 

海晦くいなづま船橋を透かせり

 

いなびかり船橋にひくき言いかはす

 

[やぶちゃん注:二句の「船橋」はルビを振っていないので、一応、「せんけう」と読んでおくが、一句目からは「ブリツジ(ブリッジ)」又は「ブリツヂ(ブリッヂ)」という読みの可能性も排除は出来ない。特に船旅を多く経験している多佳子は「船橋」を「せんきょう」とは呼ばず、「ブリッジ」と呼称していた可能性の方が寧ろ強いと私は思う。]

 

雷鳴下匂ひはげしく百合俯向く

玩具   山之口貘

 

   玩 具

 

掌にのこつたまるい物 

 

乳房のまんまの 

 

まるい溫度 

 

それからここにもうひとつ 

 

これはたしかに僕の物です と 

 

あの肌に 

 

捺した 

 

指紋 

 

[やぶちゃん注:初出不詳。本詩は表記通り、有意に行間が空く。原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、この行空けは、ない。【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。】【二〇二四年十月二十日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

岬   山之口貘

 

   

 

操ではないのよ、と女が言つたつけ

ひらがなのみさをでもないのよ カタガナで ミサヲ と書くのよ、 と女が言つたつけ

書いてあつた宛名の 操樣を ミサヲ樣に書きなほす僕だつたつけ

ふたりつきりで火鉢にあたつてゐたつけが

手が手に觸れて、そこにとんがつてゐたあの、岬のやうになつた戀愛をながめる僕だつたつけ

またはなんだつたつけ

もはや二十七にもなつたこの髯面で

女の手を握りはしたんだがそれでおしまひのはなしだつたつけ。 

 

[やぶちゃん注:貘は前掲の彼の「ぼくの半生記」によって、何人かの女性遍歴が明らかにされているが、この詩に現れた女性は「ミサヲ」という名と、「二十七」という年齢から、貘満二十六歳の昭和四(一九二九)年前後から翌昭和五年にかけて、「ぼくの半生記」の中で、暖房器具の配管工事の助手など、各種の仕事を転々としていた頃、行きつけの喫茶店「ゴンドラ」で知り合った女給(本文では店主を「女将さん」と呼び、彼女を「娘」と呼んでいるが、文脈上では、少なくとも実際の血縁者としての実の娘とは思われない)の「みさお」という人物であることが同定出来る。特に、この「女の手を握りはしたんだが」というシチュエーションは「ぼくの半生記」で、マントの下でこっそり彼女の手を握ったと印象的に描かれてある。貘はこの女性に甘え、彼女のツケは三百円にも達していたと述べている。結局、貘の定職に就かぬ放浪癖が原因で、彼女とは結婚には至らず、恋は破れている(彼女は結婚しないのなら借金は返さなくてよいという考えを持っていた。但し、貘はそれを踏み倒す動機として結婚しなかったわけではない、自分が「いつまでたつても浮浪人であった」から「恋愛がこわれてしまった」とのみ述べている)。面白いのは、それでも貘は相変わらず彼女のいる「ゴンドラ」に通っており、その頃には「すでに娘には、ぼくに代る新しい男が出来ていて、その男はぼくに見せつけるみたいに膝の上に彼女を抱いてみせたりし」たのだが、一向に意に介さず、『ぼくは詩を書き、ぼつぼつ詩集にまとめる準備にとりかかったのである。おもえば昭和十三年に出版したぼくの初めての詩集『思弁の苑』はゴンドラのボックスでその姿を整えたのであった』と記している。

 以上の検証からも、ここまでの女性を詠んだ詩は、妻となった安田静江一人ではなく(無論、彼女を詠んだものも当然含まれているに違いないが)、寧ろ、彼の青春時代に遍歴した複数の女性の影を有していると考えた方がよいことが分かる。そもそもが静江との実際婚は友人から紹介されたなり、即決しており、しばしば貘が詩で用いるところの、貘独特の、何か甘えた感じの「戀」とか「戀愛」とかの期間を感じさせないということ、彼の恋愛が、必ず、放浪性と密着して詠まれていること(これは無論、生涯を貫く貘の生得的性質であるが、それは魂の問題であって、実際的放浪性と言えば、やはり静江と出逢う以前の貘の特異点としての属性である)、という二点からも、そう断言し得るものと私は思っている。

 なお、この「ぼくの半生記」はまことに面白い。底本全集では六十五頁に及ぶものであるが、他が行わないようであれば、私が電子化したいと思っている。

 因みに、原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、総ての句読点が除去され、最後の句点を除いて、字空けとなっている。また、二行目は、

 

ひらがなのみさをでもないのよ カタカナで ミサヲ と書くのよ と女が言つたつけ

 

と、「カタガナ」が「カタカナ」となっている。

【二〇二四年十月二十日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここ)、正規表現に訂正した。

挨拶   山之口貘

 

   挨 拶

 

『さよなら』と僕は言つた

『今夜はどこへ歸るの?』と女が言つた。 

 僕もまた、 僕が歸るんださうだとおもひ

 ながら戶外へ出る。

 僕の兩側には、 寢ついたばかりの街の貌

 がほてつてゐる。 街の寢息は、 僕の足

 音に圓波をつくつて搖れてゐる。 巡査の

 開いた手帖の上を、 僕の足が步いてゐる。

 足は、 刑事に躓づいてよろける。 石に

 躓づいても、 足はよろけてしまふのであ

 る。

 足に乘つてゐると、 見覺えのある壁が近

 づいてくる。 玄關が近づいてくる。

 足が逡巡すると、 僕は足の上から上體を

 乘り出して、 戶の隙間に唇をあてる。

『すまないが泊めてくれ』

呼聲が地球外に彳ずんでゐるからなんだらら

 うか! 常識外れのした時刻(とき)を携

 へてゐるからか! 見るまでもなく返事を

 するまでもなく、 それは僕であることに

 定 めてしまつたかのやうに、 默々と開

 く戶で ある。 戶は默々と閉ざすのであ

 る。

ところで、僕は歸つて來たのであらうか。 

 這入つて見るとあゝこの部屋、 坐つて見

 るとこの疊、 かけて見るとこの蒲團、 

 寢て見るとこのねむり、 なにを見てもな

 にひとつ僕のものとてはないではないか。

ある朝である

『おはやう』と女に言つた

『どこから來たの?』と僕に言つた

流石は僕のこひびとなんだらうか。 僕もま

 た僕。 あの夜この夜を呼び起して、 こ

 の陸上に打ち建てた僕の數ある無言の住居、

 あの友情達を振り返つた。

『僕は方々から來るんだよ』 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月17日追記:ミス・タイプを訂正、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を全面改稿した。】初出は昭和一〇(一九三五)年三月発行の『羅曼』。但し、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題によれば原初出誌は確認されていないとある(この初出情報の出所その他はそちらを参照されたい)。

 本詩は一部に以上のような繋がった一行の一字下げとは異なる一字下げという特殊な技法が用いられている。底本では一行字数が多いので全体の行数はもっと少ないが、ブログ公開用に、文字サイズを大きめにしても改行が起こらず、しかも貘の特殊字下げの差別化を有効に見せて、更に句読点や一字空けが行末で出っ張りとして生じないような字数を勘案し、以上のように表記とした。なお、「呼聲が地球外に彳ずんでゐるからなんだららうか!」という一行の「なんだららうか!」は「なんだらうか!」の原詩集の誤植とも見られるが、ママとした(以下の校異を参照)。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、句読点は総て除去され、行末にある句点以外は総て字空きとなっている。以下、それ以外の異同を列挙する。

・三行目の中の「足は、刑事に躓づいてよろける」が「足は 刑事に躓いて よろける」に、同じく「石に躓づいても、足はよろけてしまふのである。」が「石に躓づいても 足はよろけてしまふのである」と送り仮名を変更してある。

・四行目の「足に乘つてゐると、見覺えのある壁が近づいてくる。玄關が近づいてくる。」が改行せずに三行目に続いている。

・七行目の「呼聲が地球外に彳ずんでゐるからなんだららうか!」が「呼聲が地球外に彳ずんでゐるからなんだらうか!」と改稿されている。これは旧全集校異及び思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」との比較検証によるが、後者の「定本 山之口貘詩集」を底本とする本文では、「彳ずんでゐる」の「彳」が「佇」となっている。しかし乍ら、これは、新全集の新字体採用という編集方針による改変と思われるので私は採らない。旧全集校異では、校異の「定本 山之口貘詩集」の方も同じ「彳」となっているからである。

 この奇妙な字下げはしかし、『 』で括られた直接話法部分が、科白・主旋律を成し、一字下げの部分が、その台本のト書きというか、それに就いたり離れたりする別な旋律というか、ともかくも不思議な対位法的効果を以って立ち現れてくる構造を持っている。ただ、この形式の欠点は、組み方によっては、それが改行なのか、そうでないのかが、判別しにくくなる致命的な欠点がある。少なくとも私は、当初、それが神経症的に気になったのである。そこで、バクさんにはまことに悪いのであるが、ここに以下、この特殊な字下げを無視した上で「定本 山之口貘詩集」通りの、句読点を除去した詩形を読み易く示したいと思う(但し、漢字は私が恣意的に正字化したママで、しかも「彳」を採用して、である)。バクさん、私の我儘を、どうか、お許しあれ。

   *

 

   挨 拶

 

『さよなら』と僕は言つた

『今夜はどこへ歸るの?』と女が言つた 僕もまた、僕が歸るんださうだとおもひながら戶外へ出る

僕の兩側には 寢ついたばかりの街の貌がほてつてゐる 街の寢息は 僕の足音に圓波をつくつて搖れてゐる 巡査の開いた手帖の上を 僕の足が步いてゐる 足は 刑事に躓いて よろける 石に躓いても 足はよろけてしまふのである 足に乘つてゐると 見覺えのある壁が近づいてくる 玄關が近づいてくる

足が逡巡すると 僕は足の上から上體を乘り出して 戶の隙間に唇をあてる

『すまないが泊めてくれ』

呼聲が地球外に彳ずんでゐるからなんだらうか! 常識外れのした時刻(とき)を携へてゐるからか! 見るまでもなく返事をするまでもなく それは僕であることに定めてしまつたかのやうに 默々と開く戶である 戶は默々と閉ざすのである

ところで 僕は歸つて來たのであらうか 這入つて見るとあゝこの部屋 坐つて見るとこの疊 かけて見るとこの蒲團 寢て見るとこのねむり なにを見てもなにひとつ僕のものとてはないではないか

ある朝である

『おはやう』と女に言つた

『どこから來たの?』と僕に言つた

流石は僕のこひびとなんだらうか 僕もまた僕 あの夜この夜を呼び起して この陸上に打ち建てた僕の數ある無言の住居 あの友情達を振り返つた

『僕は方々から來るんだよ』

 

   *

――この詩の発表当時の昭和十年三月現在、バクさんは満三十一歳。……

――この詩から私が即座に強烈な酷似性とともに想起したのは……

――安部公房の「赤い繭」であるが……

――安部公房の「赤い繭」の初出は無論、戦後の昭和二〇(一九五〇)年十二月号『人間』である……

――バクさんは世界のコウボウ・アベさえも、とっくのとっくに、喰っちゃってたんだなぁ!

【二〇二四年十月二十日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。なお 、「圓波」は「ゑんぱ」で、「球面波」のことであろう。波面が同心円状に外部に並ぶ伝わる波のことを指す。

日曜日   山之口貘

 

   日 曜 日 

 

鼻の尖端が淡紅色に腫れてゐる。 血液が不純なのか! 鼻が崩れ落ちたら、 死んでしまふより外にはないとおもふんだが、 僕には女がある

女はあちらの景色に見とれてゐる。 子を產むことが一番きらひと言つてゐる。 さうして一番すきなのは、 洋裝だとのことなんだが、 僕は女に所望した

鼻が落ちても一緖に步かうよ 

 

けれども女は立ち止まつた

僕も立ち止まつたのであるが、 ここには鼻が聳えてゐるだけなんだらうか。 そこに立ち塞がつて、 かなしくふくれあがつた膨大な鼻である

あゝ

なんといふ日曜日なのであらうか

既に黃昏れて

鼻の此方、 戀愛のあたりは未練を灯してゐる。 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を全面改稿した。】初出は昭和一一(一九三六)年十月発行の『歴程』で、後に出る「鏡」とともに掲載されている。

 「定本 山之口貘詩集」では総ての句読点が除去され、最後の句点箇所を除き、皆、字空けになっている。また、大きな改稿として、「鼻が落ちても一緒に歩かうよ」の一行が独立した連になっている点である。これはかなり印象が異なるので、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」所収の新字体のものを参考に掲げておく。

   *

 

 日曜日

 

鼻の尖端が淡紅色に腫れてゐる 血液が不純なのか! 鼻が崩れ落ちたら 死んでしまふより外にはないとおもふんだが 僕には女がある

女はあちらの景色に見とれてゐる。子を産むことが一番きらひと言つてゐる さうして一番すきなのは 洋裝だとのことなんだが 僕は女に所望した

 

鼻が落ちても一緒に歩かうよ

 

けれども女は立ち止まつた

僕も立ち止まつたのであるが ここには鼻が聳えてゐるだけなんだらうか そこに立ち塞がつて かなしくふくれあがつた膨大な鼻である

ああ

なんといふ日曜日なのであらうか

既に黄昏れて

鼻の此方 恋愛のあたりは未練を灯してゐる

 

   *

ここでは句読点の除去が、実際の会話を形而上的で詩的な高みへと誘っており、何より、「鼻が落ちても一緒に歩かうよ」という不思議に透徹した詩人の声が天上に木霊するように感じられる。【二〇二四年十月二十日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。

« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »