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2014/03/31

篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年二月 除夜風景

  除夜風景

氷雨する空へネオンの咲きのぼる

 

   ダンスホール

除夜たぬし警笛とほく更くるとき

 

[やぶちゃん注:「たぬし」は「楽(たぬ)し」で「楽し」と同義の近世古語。「日本国語大辞典」によれば、万葉仮名で現在、「の」の甲類とされている「怒」「努」などを、近世の万葉の訓詁学で「ぬ」と読んだことから出来た歌語である。]

 

   理髮舖

廻轉椅子くるりくるりと除夜ふくる

 

年あけぬネオンサインのなきがらに

 

[やぶちゃん注:以上、四句は二月発行の『天の川』及び三月発行の『俳句研究』に冒頭標記の「除夜風景」の連作として発表されたもの。連作であることから、「除夜風景」は二字下げで一行空け、後の二つの個別前書は三字下げとした。]

貘   山之口貘

 貘

 

悪夢はバクに食わせろと

むかしも云われているが

夢を食って生きている動物として

バクの名は世界に有名なのだ

ぼくは動物博覧会で

はじめてバクを見たのだが

ノの字みたいなちっちゃなしっぽがあって

鼻はまるで象の鼻を短くしたみたいだ

ほんのちょっぴりタテガミがあるので

馬にも少しは似ているけれど

豚と河馬とのあいのこみたいな図体だ

まるっこい眼をして口をもぐもぐするので

さては夢でも食っていたのだろうかと

餌箱をのぞけばなんとそれが

夢ではなくてほんものの

果物やにんじんなんか食っているのだ

ところがその夜ぼくは夢を見た

飢えた大きなバクがのっそりあらわれて

この世に悪夢があったとばかりに

原子爆弾をぺろっと食ってしまい

水素爆弾をぺろっと食ったかとおもうと

ぱっと地球が明るくなったのだ

 

[やぶちゃん注:【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部を改稿した。】この詩はなんと、昭和三〇(一九五五)年二月特別号『小学五年生』が初出で、二年後の昭和三二(一九五七)年八月二十日附『琉球新報』に再掲されたものであった。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題によれば、後に出る「郵便やさん」とともに、『児童向け雑誌から『鮪に鰯』に採用された二作品の内の一篇』で『小学五年生』初出時のタイトルは「バク」であったとある。

「水素爆弾」ウィキの「水素爆弾」及びそのリンク先の記載によれば、人類最初の水素爆弾の実験はアメリカ合衆国によって一九五二(昭和二七)年十一月一日にエニウェトク環礁で行われた(“Operation Ivy”アイビー作戦)。が実施され、続く翌一九五三年にはソビエト連邦が小型軽量化した水爆の実験(RDS-6)に成功したと報じた(但し、この爆発実験自体は実際には水爆ではなかったと言われている)。翌一九五四年には再びアメリカが一連の核実験“Operation Castle” (「羊」作戦)が実施された、その中の一つ“Castle Bravo”、ビキニ環礁で行われたブラボー・ショットにより、実際の大幅な小型化に成功した………

これによって第五福竜丸が

そうして

鮪が被爆し

そうして

ゴジラが生まれてしまったのであった

これは決して冗談や酔狂で言っているのではないのだ

僕は大真面目で言っているのだ

おぞましい原爆や水爆の連鎖に

人類が手を血に染めずにすんだんだったら

ゴジラは生まれずにすんだんだ

バクさんも

ただ

長閑な羊を謳う詩だけを

よめたはずなのだ………]

雲の下   山之口貘

 雲の下

 

ストロンチウムだ

ちょっと待ったと

ぼくは顔などしかめて言うのだが

ストロンチウムがなんですかと

女房が睨み返して言うわけなのだ

時にはまたセシウムが光っているみたいで

ちょっと待ったと

顔をしかめないでいられないのだが

セシウムだってなんだって

食わずにいられるものですかと

女房が腹を立ててみせるのだ

かくて食欲は待ったなしなのか

女房に叱られては

目をつむり

カタカナまじりの現代を食っているのだ

ところがある日ふかしたての

さつまの湯気に顔を埋めて食べていると

ちょっとあなたと女房が言うのだ

ぼくはまるで待ったをくらったみたいに

そこに現代を意識したのだが

無理してそんなに

食べなさんなと言うのだ



[やぶちゃん注:【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三二(一九五七)年十月一日附『信濃毎日新聞』。]

十二月   山之口貘

 十二月

 

銀杏の落葉に季節の音を踏んで

訪ねて見えたはじめての

若いジャーナリストがふしぎそうに

ぼくの顔のぐるりを見廻して云うのだ

 

こんな大きなりっぱな家に

お住いのこととは知らなかったと云うのだ

それで御用件はとうかがえば

かれは頭をかいてまたしても

あたりを見廻して云うのだ

 

それが実は申しわけありません

十二月の随筆をおねがいしたいのだが

書いていただきたいのはつまり先生の

貧乏物語なんですと云うのだ



[やぶちゃん注:【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、注を一部改稿した。】昭和三二(一九五七)年十一月三十日附『新潟日報』夕刊で、翌日十二月一日附の同じ『新潟日報』朝刊にも再掲載された。

「貧乏物語」この作品自体は昭和二六(一九五一)年十二月号の『中央公論』に載った、現在、全集第二巻の小説篇に所収する『第四「貧乏物語」』であるらしい(松下博文氏の「稿本・山之口貘書誌(詩/短歌)」注記データに拠る)。とすれば、この詩のシチュエーション自体は発表時から更に六年も前に遡るものであることが分かる。]

石に雀   山之口貘

 石に雀

 

ペンを投げ出したのが

暁方なのに

寝たかとおもうと

挺子を仕掛ける奴がいて

いつまで寝ているつもりなんですか

起きてはどうです

起きないんですかとくるのだ

何時なんだい

と寝返りをうつと

何時もなにもあるもんですか

お昼というのにいつまでも

寝っころがっていてなんですかとくるのだ

降っているのかい

とまた寝返りをうつと

照っているのに

ねぼけなさんなとくるのだ

降っている音がしているんじゃないか

雨じゃないのかい

と重い頭をもたげてみると

女房は箒の手を休め

トタン屋根の音に耳を傾けたのだが

あし音なんです

雀の と来たのだ



[やぶちゃん注:【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三三(一九五八)年四月一日号『産経時事』。初出時のタイトルは「石と雀」。]

たぬき   山之口貘

 たぬき

 

てんぷらの揚滓それが

たぬきそばのたぬきに化け

たぬきうどんの

たぬきに化けたとしても

たぬきは馬鹿に出来ないのだ

たぬきそばのたぬきのおかげで

てんぷらそばの味にかよい

たぬきうどんはたぬきのおかげで

てんぷらうどんの味にかよい

たぬきのその値がまたたぬきのおかげで

てんぷらよりも安あがりなのだ

ところがとぼけたそば屋じゃないか

たぬきはお生憎さま

やってないんですなのに

てんぷらでしたらございますなのだ

それでぼくはいつも

すぐそこの青い暖簾を素通りして

もう一つ先の

白い暖簾をくぐるのだ。



[やぶちゃん注:【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した結果、以下の事実を確認、本文を改めることに決し、さらに本注を追加した。】初出は昭和三三(一九五八)年七月号『小説新潮』。最後の句点は思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証によって追加した。底本の旧全集には句点はない。

足袋つぐやノラともならず教師妻 杉田久女 附注版(再掲)



足袋つぐやノラともならず敎師妻
 

 

[やぶちゃん注:久女一番の代表句と言ってよい。それはスキャンダラスなものであり、そうしてあらゆる意味で久女伝説の濫觴ともなった句ではある。底本の久女の長女石(いし)昌子さんの編になる年譜の大正一一(一九二二)年の項によれば、『二月、「冬服や辞令を祀る良教師」(ホトトギス2)の句をめぐり家庭内の物議をかもす。このときの発表句は次の五句』として句を掲げる(以下、恣意的に正字化した)。 

 

足袋つぐやノラともならず敎師妻 

 

遂に來ぬ晩餐菊にはじめけり 

 

戲曲讀む冬夜の食器漬けしまゝ 

 

枯れ柳に來し鳥吹かれ飛びにけり 

 

冬服や辭令を祀る良敎師 

 

この連作の特に奇数句の流れは確かに鮮烈である。

 さて、大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)によれば、昭和二七(一九五二)年角川書店刊の「杉田久女句集」には、 

 

足袋つぐや醜ともならず敎師妻 

 

として収めている、とある。ところが、私の所持する立風書房版全集には、この句形が何処にも載っていないのである。これは如何にも不思議なことである。しかも、この初出形を知る人は少ないと思う(不肖、私も今回、この電子化作業の中で実は初めて知った)。以下、この一句について徹底的に追究した倉田紘文氏の素晴らしい論文「杉田久女の俳句――ノラの背景――」(PDFファイル)に拠りながら簡単に述べたい。

 まず、この句は大正一一(一九二二)年の『ホトトギス』二月号に発表された句であるが、それが「杉田久女句集」(昭和二七(一九五二)年角川書店刊)では中七が、かく「醜ともならず」と推敲された形で入集されている、とある。ところが、再版本(昭和四四(一九六九)年角川書店刊)や私が底本としている立風書房全集では、初出の「ノラともならず」に再び改められている、とある。倉田氏は『久女は昭和二十一年に五十六歳で没しており、昭和二十七年の句集で「醜ともならず」となっていることについては、同句集が久女生前に自ら編集されていたということで理解できるが、再版及び全集で「ノラ」に改められたいきさつは分らない』と記しておられる。これについて倉田氏は注で小室善弘「鑑賞現代俳句」の言を引き、「ノラともならず」の斬新な措辞には及ばない、というような意見によって再び改められたのであろう、と記してはおられるが、後の全集に「醜ともならず」の句形が全く示されていないというのは、頗る奇怪と言わざるを得ない。また、作者の没後に『「ノラともならず」の斬新な措辞には及ばない、というような意見によって再び改められ』るなどということが行われているとしたら、これは文芸創作上、とんでもない行為ということになり、そう指示したのが何者であるのかは明らかにされなければならない。

 考証部分はリンク先の原典で確認して戴くとして(大変興味深い)、まず倉田氏は本句が大正一〇(一九二一)年作と同定され、さらに「ノラ」は実はイプセンの「人形の家」の主人公であると同時に、当時、スキャンダラスな事件として新聞で報道され巷を騒がせた夫との離縁状の公開、そして情人宮崎龍介(辛亥革命の志士宮崎滔天の長男)へと走った歌人柳原白蓮その人であった、という極めてリアリズムに富んだ魅力的な推理を展開しておられる。最後には更に、この句の製作時期を大正一〇(一九二一)年の冬十一月初旬から十二月初旬(もっと厳密にいうなら立冬の日から投句稿が十二月十五日までに『ホトトギス』に必着するまでの閉区間)でなくてはならないと、快刀乱麻切れ味鋭く同定なさってもおられるのである(個人的にこういう拘った手法はすこぶる私好みである)。

 ここで再び大野林火氏の評釈に戻ろう。氏はまず、この句集の句の『「醜」の意曖昧であ』るとして、「ノラ」の方を提示句としては採っている。これは無論、先の小室氏の謂いとともに肯んずるものではある。しかし彼は続いて、以下のように語り始めるのである(下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

 この句については久女の略歴に触れねばならない。煩をいとわず記せば、明治二十三年鹿児島に生れた赤堀久女は、幼時、大蔵省官吏であった父の任地、琉球、台湾等に転住、のち、束京に移り、名門お茶の水高等女学校を卒業した。同級にのち理学士三宅恒方に嫁いだ加藤やす子がいた。やす子の文才は同輩に重きをなし、久女はひそかにやす子にライバル意識を燃やした。卒業翌年(明治四十二年)、上野美術学校群画科出身の杉田宇内と結婚、収入は乏しくも、苦しくも、芸術に生きる画家の妻たり得たよろこびを久女は持った。結婚と同時に杉田宇内は小倉の中学の図画の教師となった。久女は芸術家の妻でありたかったが、良人の宇内はただ謹直な図画の教師であり、一枚の絵も描こうとしなかった。久女はそれを責めたが、良人は謹直な教師であることに満足した。久女は金子元臣の注釈つきの源氏物語をひろげ、ノートに注釈と首引きで意訳の文章を書き綴ってみずからを慰める。しかし、良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう遺子石昌子は「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」(『久女句集』あとがき[やぶちゃん注:ここは底本では割注でポイント落ち二行。])とその幼時を語るが、その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないかそのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する

 この句は田舎教師の妻として、凡々の日夜を送り、そこから脱しようとしない自分を嘲る句だが、その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろういずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり、それが有名にもしたのだが、親しめない。「足袋つぐや」に一抹のあわれさがただようにしても――。しかし、久女を知るには欠くことの出来ない句といえようか。

   《引用終了》

これをお読み戴いて、あなたはこの句の評釈が正統にして冷静なアカデミックな(私はアカデミズムをせせら笑う人間ではあるが、少なくともこれは俳句評論という公的認知の頂点にある書籍であることは疑いようがない。実際に多くの国語教師がこれを虎の巻とし、恰も自分が鑑賞したかのように(!)俳句の授業を実際にしている事実をかつて高校の国語教師であった私はよく知っている。詩歌俳諧ぐらい、一般の国語教師が避けようとする苦手な教材はないと言ってよく、実際に詩歌教材に関してオリジナルな授業案を創れる国語教師というのは一握りしかいないと思う。感想を書かせてお茶を濁す、やらずに読んでおきなさいというのはまだよい方で、受験勉強には不要という伝家の宝刀を抜いて堂々とスルーするのを正当化する下劣な同僚も悲しいことに実に多かった)「近代俳句の鑑賞と批評」と名打つに足るものであると思われるか? 私は断じて到底肯んじ得ないのである! それはまず、大野氏の引用が、大野氏自身が自分の中に創り上げてしまった歪んだ久女像に合わせて、極めて恣意的に情報のパッチ・ワークを行っているという事実に於いてである。

 氏は最初に、全集年譜にも載らず、倉田氏の緻密な論文にさえも出ない、加藤(三宅)やす子を登場させて、この句の遙かな淵源としている。三宅やす子(明治二三(一八九〇)年~昭和七(一九三二)年)は作家で評論家、本名は安子。京都市生。京都師範学校校長加藤正矩の娘で久女とは同い年である。お茶の水高等女学校卒業後、夏目漱石・小宮豊隆に師事、昆虫学者三宅恒方と結婚するも、大正一〇(一九二一)年に夫が死去すると文筆活動に入って、大正十二年には雑誌『ウーマン・カレント』を創刊、作家宇野千代とも親しかった人物である(以上はウィキの「三宅やす子」に拠る)。この句は先に示した通り、大正十一(一九二二)年二月の発表句であり、それは確かに三宅やす子の文壇デビューと軌を一にしているようには見える。新しい女性の文化進出の旗手として登場してくる嘗つてのライバルやす子を、この時、小倉の中学教師の妻であった久女が強く意識したということは十分あり得る話ではある。しかし何より二人が同級生であったのは東京女子高等師範学校附属お茶の水高等女学校を卒業した明治四〇(一九〇七)年以前の話で(大野氏は久女の卒業年を一年間違えているので注意)、ここまでに実に十五年以上の隔たりがある。この句の情念が、その後、連絡も文通もなかった(と思われる)、十五年も前の特定の同級生に対するライバル感情を濫觴とする、などという仮説は私なら鼻でせせら笑う(後文で「その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろう」と述べておられるが、これは一体、如何なる一次資料から論証されるものなのか? 亡き大野氏に訊いてみたい気が強くする。そのような特殊な偏執的淵源があるとすれば、倉田論文も、当然、それを示さないはずはない)。ともかくもこの三宅やす子を枕、否、額縁とするこの評釈の論理展開や論理的正当性は――その推理の出典や情報元の提示が殆んどない上に、如何にもな推量表現だらけの文末を見ただけでも――失礼乍ら、どう考えても全くないと私には思われるのである。

 次に、夫宇内が美術の教師でありながら一枚の絵も描こうとせず、「久女はそれを責めたが、良人は謹直な教師であることに満足した」とあるが、これはどうも、久女の小説「河畔に棲みて」の「十一」辺りからの謂いであろうということに注意せねばならない。同小説は明らかなモデル私小説ではある。しかし『小説』である。大野氏は恰もこれらを何らかの客観的な事実記録や、杉田家をよく知る親族知人の確かな証言によって書いているかのように読める(但し、私は次に示す二冊の「杉田久女句集」に石昌子さんの書いた文章を読んでいないので、その中にそうした叙述が全くないと断言は出来ない)。しかし、続く叙述から見えてくるのは、これらは寧ろ、既に出来上がってしまっていた久女伝説に基づく尾鰭や曲解・噂の類いを都合よく切り張りした謂いであるという強い感触なのである。しかもそこで大野氏は「満足した」「良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう」と鮮やかな断定と、久女の心に土足で踏み込んで指弾するような推定を附しては、結局、読者をして――我儘な久女は強烈な欲求不満のストレスを抱え夫を追い詰め、病的なまでに只管にその利己的な鬱憤を溜めに溜めていったのだ――と思わせるように仕向けているとしか読めない点に注意しなければならない。

 続く長女昌子さんの引用であるが(この割注の書名は正確ではない。句集名は「杉田久女句集」である。また、ここには「あとがき」とあるから、これは大野氏の著作が後に改訂されたものと考えれば(私の所持するものは昭和五五(一九八〇)年刊の改訂増補八版である)、これは昭和二七(一九五二)年の角川書店版「杉田久女句集」ではない。何故なら、その巻末の石昌子さんの文章は「あとがき」という題名ではなく「母久女の思ひ出」であり、「あとがき」と題する昌子さんのそれは昭和四四(一九六九)年の角川書店版「杉田久女句集」の巻末にあるものだからである。但し、残念ながら私は両原本ともに所持しないので内容の確認は出来ない)、ここで大野氏は昌子さんの幼時の記憶として「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」という箇所をのみ採り、そこから畳み掛けるように「その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないか。そのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する」と、またしても久女の異様なヒステリー状態の想像を安易に開陳し、しかも「推察」という語で読者をナーバスで病的な久女像へと確実に恣意的に導こうとしているのが見てとれる。

 ところが翻って、私が底本としている立風書房版全集の石昌子さんの編になる、まことに素晴らしい年譜の叙述を見ると、これ――相当に印象が違う――のである。これは無論、永年、異常なまでに歪曲された久女伝説に基づく久女像を正そうと努力されてきた昌子さん(底本全集出版の一九七九年当時で既に七十八歳であられた。ネット上の情報では既に鬼籍に入られている)の中で、美化された母親像への正のバイアスがかからなかったとは言わない。昌子さんご自身の人生経験も当然そこに加わった述懐ともなってはいよう(因みに御主人の石一郎氏(故人)はスタインベックの「怒りの葡萄」の翻訳で知られる米文学者)。しかしともかく、その叙述はどうみても大野氏が誘導するような――内部崩壊寸前の愛情の通わぬ夫婦や狂気へと只管走る悲劇の才媛の物語――なんぞでは、これ、全くないのである。

 幾つかの記載を見てみよう。

 昌子さんの母の記憶は『玩具を玩具箱にしまってくれた母、その箱が張り絵で美しかったこと、破いた絵本を和綴じにして人形の絵など描き、ワットマン紙で表紙をつくってもらった』という映像に始まり、小倉での生活は『この頃の宇内は釣やテニスを趣味とし、玄海の夜釣や沖釣などをたのしんだ。田舎育ち』(宇内の実家は愛知県西加茂郡小原)『の野性的な一面があり、久女の方はおだやかな人といえた』(大正三(一九一四)年の項)。翌五年から俳句にのめり込んでいった久女は、大正六年一月の『ホトトギス』台所雑詠に初めて五句掲載、虚子や鳴雪の好評を得て、大正八~九年まで句作はすこぶる順調であったが、他の注で述べるように大正九年八月の実父の納骨に赴いた信州で腎臓病を発症、東京の実家へ帰ったのを機に離婚問題が起きた。同年の項には『小倉での生活が痛ましすぎると実家では考えた。旅暮らしの家庭生活に波風が多く、二十代は泣いて暮らしたと久女はよく言ったが、編者にはおとなしい静かな印象しか残っていない』(当時久女三十歳)とある。翌大正十年七月に小倉へ戻るが、その項には以下のようにある(下線やぶちゃん)。

   《引用開始》

編者の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持を夜昼責めたてた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的な単純なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている。

   《引用終了》

「怒れば久女の方が強かった」という辺りはご愛嬌であるが、寧ろ、昌子さんはちゃんと真実をなるべく公平に語ろうとしていることが、ここからも逆に垣間見れるとも言えよう。これ以降、久女のキリスト教への接近・宇内の受洗・久女の教会からの離反、などが記されるが省略する(また、久女の人生を大きく狂わせ、まさに天地が裂けたに等しかった『ホトトギス』除名(昭和一一(一九三六)年十月)もあるが、これも宇内との関係ではないからこの注釈では記さない)。この頃から逝去するまでの部分の年譜上には、宇内との軋轢や具体な記載は殆んど書かれていない。敢えて附記しておくなら、昌子さんは昭和一六(一九四一)年に次女光子さんの結婚式のために上京して来た久女について、『精神に精彩なく、悲痛で胸が痛んだ』と記され、また最後の対面となった昭和一九(一九四四)年七月の上京(実母赤堀さよの葬儀のため)対面の項には、『何時にもなくあせりも消えて、落ちついていた』『「俳句より人間です」「私は昌子と光子の母として染んでゆこうと思う」「子供を大切に育てなさい」「もし句集を出せる機会があったら、死んだ後でもいいから忘れないでほしい」といっ』たとある。『自分に好意を持たない人とは没交渉だったにちがいないが、編者宅では子供を遊ばせてくれ、子どもにやさしかったし、「子供をあまり叱ってはいけない。のびのびした子に育てるように」と言いおいて帰った』とある。翌昭和二十年十月末に福岡市郊外大宰府の県立筑紫保養院に入院、翌昭和二一(一九四六)年一月二十一日、この病院で腎臓病の悪化により久女は誰にも看取られず孤独に亡くなった。満五十五歳であった(久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日生まれである)。夫宇内は小倉を引き上げて実家の愛知に戻ったが、その際、久女の遺品は句稿・文章・原稿などを含め、宇内の手で収集整理がなされていた。この事実、夫宇内の優しさもしっかりと押さえておくべきことであろう(宇内は実際、当時の教え子たちからも非常に人気があったという)。宇内は昭和三六(一九六二)年五月十九日に七十八歳で亡くなった。

 さて、ここで、大野氏の物言いと昌子さんのこれらの叙述とを煩を厭わず再掲して比較してみよう(大野氏の割注と改行は除去した)。

《石昌子さんの叙述》

編者の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持を夜昼責めたてた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的な単純なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている。

《大野林火氏の叙述》

しかし、良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう遺子石昌子は「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」とその幼時を語るが、その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないかそのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する。この句は田舎教師の妻として、凡々の日夜を送り、そこから脱しようとしない自分を嘲る句だが、その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろういずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり、それが有名にもしたのだが、親しめない

   *

 前者は親しく久女の傍にいた肉親である長女の生(なま)の証言である。後者は赤の他人の、スキャンダラスなものを女に帰する傾向の強い普遍的な男性の属性を有する一人の男の(それが「俳人」であろうが何であろうが実は余り関係ない)、不完全な伝聞と、ただの憶測に基づく記述である。

 先に述べた昌子さんの母に対するバイアスを考慮に入れるとしても、この叙述は同一の夫婦の心的複合を叙述しながら、ほぼ正反対のそれとなっているといってよい。そうしてこれは、単に――母と娘対女と男――の感じ方の相違――どころの騒ぎではなく(但し、女流俳人に対する評価にはこの評者の側の性差の問題が「絶望的」なまでに影響すると私は思っている。これは女流歌人や小説家等よりも、シンボリックな要素が大きい俳句の場合、遙かに「絶望的」に顕著なのである)、明らかに――この大野林火氏の認識そのものに致命的な誤りがある――としか私には言いようがないのである。

 大野林火(明治三七(一九〇四)年~昭和五七(一九八二)年)は、まさに昌子さんの言った「亭主関白ともいえる時代」に生きた〈男〉の俳人である。そうした彼にして「いずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり」「親しめない」という如何にもなそっけなく、乱暴な評言は反対に実に私には腑に落ちるのである。その代わりに、異様なまでに、ここまでの枕や分析が長いのは、まさに〈男〉の俳人としての大野が(単なる俳人としてではない!)〈女〉としての久女(「女の俳人としての久女」ではない!)を断罪しているに過ぎぬからである。私は過去現在未来を通して、少なくともこの句に対する大野氏のこの「鑑賞と批評」は「鑑賞」なんぞでも「批評」なんどでもない、只管、バレだらけになった小道具をふんだんに使った、おぞましく誤った、男の女への、物言いの安舞台でしかないと断ずるものである。こんな特定の女性を性差別した評論は差別文書として糾弾されるべきシロモノである!

花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ 杉田久女 注リロード版(再掲)

花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

 

[やぶちゃん注:「いろいろ」は底本では踊り字「〱」。大正八(一九二九)年二十九の時の作。言わずもがな、久女の句の艶を最もシンボライズするヌーヴェル・ヴァーグ風のモンタージュである「花衣」は春の季語で花見に着る晴れ着のこと。大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)で大野は本句の鑑賞文の中で、久女の作を『不羈奔放、華麗、情熱的で男をたじたじさせるものがある。始終誰かを恋いしないではいられなかったといわれるが、肯かれることだ。万葉の額田王、中国の魚玄機に擬せられる所以であろう』とし、同時期の画期的な女流俳人の中でも長谷川『かな女、久女ともにその作品で優に男に頡頏した作家である』と記す(こうした叙述はある意味で肥大した久女伝説を助長しており、的を射ている部分は部分として、批判的な読みも同時に不可欠であると言いたい)。本句について大野は、『肉体を幾重にも緊繋している紐類だが、それをいま、つぎからつぎへと解き捨ててゆくことに肉体の解放感が思われ、艶麗である。句に詠まれていることは作者の足許にすでに散らばり、また、まだ肉体にまつわり残る紐だが、脱ぐものが花見衣裳であるだけにこの紐類また華麗、肉体の解放感と相俟って艶麗さを一句に与えている。いえばヌード一歩手前であり、女の匂いが濃厚で、つつましやかとは裏腹である』と評している。しかしこの評言、実に男の脂ぎった視線が感じられてなんだかいやらしい。三文の中で「肉体」という語を四度も用い、「緊繋している紐類」という謂いには恰もそれが生々しい猥雑なクリチャーででもあるかのような生理的嫌悪感をさえ私は抱く。最後の一文などは評者自身の中年男性の如何にも猥褻な視線が感じられて、まさに「鑑賞と批評」という「つつましやか」な標題「とは裏腹である」と返したい気がしてくる。]

杉田久女句集 167 眉根よせて文卷き返す火鉢かな


眉根よせて文卷き返す火鉢かな

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十九年 Ⅰ

 昭和十九年

 

   名古屋に加藤かけい氏を訪ふ

   かすみ女樣に初めておめにかゝる、そしてこ

   れが最後となりし 三句

 

さめてまた時雨の夜半ぞひとのもと

 

臘梅のかをりやひとの家につかれ

 

枯るる道ひとに從ひゆくはよき

 

[やぶちゃん注:「加藤かけい」既注。

「かすみ女」不詳。女流俳人らしい名であるが、加藤氏の妻か? 識者の御教授を乞う。なお、個人的はこの前書は好きになれない。明らかに作句時から時間が経った後、もしかすると数年後(『信濃』出版は戦後の昭和二二(一九四七)年七月)のこの句集出版に際しての編集作業の中でこの前書の特に「そしてこれが最後となりし」の部分がつけ加えられたものと思われるが(直後に亡くなったとしてもそれは明らかな句作の「後」であり、前書は明らかに句の時制から後の時制で書かれていることになるということである)、これは作者の思いの中にのみ込めておけばよかったものと私は思う。何故なら、この三句には、その邂逅が遂に「これが最後とな」ったことの感懐は、当然の如く、詠み込まれてはいないからである(この三句の中にそうした運命的出逢いの感懐や運命のミューズが潜んでいると言われる方は、この愚鈍の私に是非とも分かり易くご説明願いたいと存ずる)。私の謂いは決して多佳子に対して非礼ではないと信ずる。寧ろ私は、追悼句でもない句で、その前書如きで人の死を遡って語ってしまい、その深い哀しみの感懐(その思いの深さは十全に分かる)を示しながら、しかも、はっきり言ってそれほど渾身の句とも思えぬ挨拶句三句を並べ立てるというのは、私には理解出来ないということなのである。因みにこの前書が、

   名古屋に加藤かけい氏を訪ふ

   かすみ女樣に初めておめにかゝる 三句

   (後日註 これがかすみ女樣との最後となりし)

であったなら、私はたいした違和感も持たずに、この句を読んだであろう。死は、実際の人の死は、文芸の装飾如きには決してならぬ/すべきでないという立場を私はとる。この前書に関してのみ言うなら、私は多佳子こそが軽率で非礼であると信じて疑わないのである。

 前書というのは余程注意しなければ(特に作後に附す場合には)、おぞましい亡霊となって逆に句に襲いかかり、遂には喰い尽くしてしまうものだと思うのである。]

篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年一月

昭和一〇(一九三五)年

 

   靑空に觸れて

紺靑の空に觸れゐて日向ぼこ

 

紺靑の空に觸れゐて日南ぼこ

 

手に足に靑空染むと日向ぼこ

 

手に足に靑空染(シ)むと日南ぼこ

 

[やぶちゃん注:以上四句は、それぞれ前の句が一月発行の『天の川』の、後の句が同じく一月発行の『俳句研究』の句形である。]

 

莨持つ指の冬陽をたのしめり

 

園のもの黄ばむと莨輪に吹ける

 

[やぶちゃん注:「園のもの」は者で園丁が苑の草花が冬に向かって「黄ば」んだ、と物謂いして「莨」を「輪に吹」いているのであろうか? そうではあるまい。「園の」物、その草花はすっかり季節の中で「黄ば」んでしまったという感懐の中、当の詩人がその景の中に立って「莨」を「輪に吹」いているのか? はたまた、「莨」の煙をそのまま吐いては「園の」美しい草木がヤニで「黄ば」んでしまうから、と、当の詩人は「莨」の煙を敢えて空高く「輪に吹」き上げているのであろうか? しかし、とするならば「黄ばむと」の引用の格助詞「と」は如何にもな客体表現でおかしいではないか? いやいや、これは園を独りで歩いているのではあるまい、詩人は恋人連れなのだ(次の注も参照のこと)、そして「園の草木が黄ばんじゃうといけない」と独り言ともつかぬ気障な台詞を吐いて、高々と「莨」の煙を空高く「輪に吹」き上げているんじゃないか?……いやはや……少なくとも私には意味がとれぬ句ではある。識者の御教授を乞いたい。]

 

新刊と秋の空ありたばこ吹く

 

秋の陽に心底(シンソコ)醉へりパイプ手に

 

   幻想

雪の夜はピヤノ鳴りいづおのづから

 

雪あかり昏れゆくピヤノ彈き澄める

 

[やぶちゃん注:以上、八句は一月の発表句。底本では頭の「日向ぼこ」二句の後(「日南ぼこ」とする二句のヴァリエーションは底本では補注として句集の後に配されてある)句群の後に「一碧の空に横たふ日南ぼこ」の句を配している。これはこれらの句と同字創作であるとしてここに置いたのであろう(事実、その可能性はすこぶる高いであろう)が、この「一碧の空に横たふ日南ぼこ」の句は二ヶ月後の三月発行の『俳句研究』掲載句である。私はあくまで編年を守るためにそちらに移した。

 因みに鳳作は、この昭和一〇(一九三五)年一月二十二日に鹿児島銀行頭取前田兼宝四女秀子と結婚、鹿児島市上之園町(うえのそのちょう)三十八番地に新居を構えた(前田兼宝という名は大正一三(一九二四)年五月に投票された第十五回衆議院議員総選挙の鹿児島県三区で当選した議員と同姓同名である。同一人物であろう)。]

首   山之口貘

 首

 

はじめて会ったその人がだ

一杯を飲みほして

首をかしげて言った

あなたが詩人の貘さんですか

これはまったくおどろいた

詩から受ける感じの貘さんとは

似てもつかない紳士じゃないですかと言った

ぼくはおもわず首をすくめたのだが

すぐに首をのばして言った

詩から受ける感じのぼろ貘と

紳士に見えるこの貘と

どちらがほんものの貘なんでしょうかと言った

するとその人は首を起して

さあそれはと口をひらいたのだが

首に故障のある人なのか

またその首をかしげるのだ



[やぶちゃん注:
【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三三(一九五八)年一月一日号『全繊新聞』。]

沖繩風景   山之口貘

 沖繩風景

 

そこの庭ではいつでも

軍鶏(タウチー)たちが血に飢えているのだ

タウチー達はそれぞれの

ミーバーラーのなかにいるのだが

どれもが肩を怒らしていて

いかにも自信ありげに

闘鶏のその日を待ちあぐんでいるのだ

赤嶺家の老人(タンメー)は朝のたんびに

煙草盆をぶらさげては

縁先に出て座り

庭のタウチー達のきげんをうかがった

この朝もタンメーは縁先にいたのだが

煙管がつまってしまったのか

ぽんとたたいたその音で

タウチー達が一斉に

ひょいと首をのばしたのだ

 

 「ミーバーラー」=養鶏用のかご

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注の一部を改稿した。】標題の「沖繩」の「繩」の字体はママ(新字体採用の思潮社二〇一三年九月刊の新全集「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では「縄」となっている)。「軍鶏(タウチー)」「老人(タンメー)」の部分は底本ではルビ。

 初出は昭和三二(一九五七)年一月一日附『琉球新報』(掲載時のタイトルは「タウチー」)、二年後の昭和三四(一九五九)年五月三十一日附『朝日新聞』に再掲されている(こちらの再掲時のタイトルは「沖繩風景」)。この詩は初出の順列でいうと五つ後の「雲の下」の後に当たるが、それよりも創作時制が遙かに新しいということを示している。即ち、この詩は、バクさんの沖繩帰郷(昭和三三(一九五八)年十月末から翌年一月初旬)前に書かれた詩であり、しかも帰郷の後に再度『朝日新聞』に掲げた詩である点に注意されたい。

 底本では「ミーバーラー」の長音符の右に注記を示すポイント落ちの「*」が附されて、詩の後には三字下げポイント落ちで、

 

 *養鶏用のかご

 

と附されているが、個人的に詩中への注記記号を排したいという私の認識から以上のように恣意的に書き換えた。なお。なお不思議なことに同一底本を用いているはずの新全集ではこの詩中の「*」注記記号が存在せず、詩の後に一行空け下インデントで、

 (ミーバーラーは養鶏用の籠。)

とある。表記が全く異なり、極めて不審である。

「ミーバーラー」沖縄市公式サイトの「沖縄市教育委員会 教育部 郷土博物館」の「ミーバーラー」を参照されたい。そこには『養鶏用の籠(かご)です。主に、タウチー(軍鶏)を飼うために使われました。鶏が逃げ出さないように、重しをのせました』。『竹を六角に編んだものなので、「ロッカクミー」と呼ぶ地域もあります。六角に編むのは、ミーバーラーの他に、芭蕉を入れるウーバーラーの底や、餅を蒸すためのムチンブサーなどがあります』。『 博物館がある上地では、昔、キャベツ(タマナー)を入れる籠としても使われていました』とある。リンク先では実物の写真が見られる。ただ、語源が分からない。識者の御教授を乞う。

「赤嶺家」年譜やバクさんの沖繩関連随筆などを管見した限りでは出ず、個人名と住所を特定出来ないのが残念であるが(以下に推理するように、この風景が具体的に何処の地域のものであるかは私には非常に重要なことなのである)、沖繩には多い姓で、伝統的には現在の那覇空港のある沖縄県那覇市最南部の位置する小禄(おろく/沖縄方言では「うるく」)地区(かつての島尻郡小禄村(そん))の旧小禄間切赤嶺(その前は豊見城間切八ヶ村の一つ赤嶺であった。ここは「小禄勝手に観光案内推進してるようでしてない課」の記載に拠る)をルーツとする姓である(即ち、沖繩に飛行機で旅する誰もが知らぬうちにこの小禄の土を踏んでいるのである)。以下、参考までにウィキの「小禄」から引用しておく。『北部には国場川が流れ那覇市唯一の在日米軍基地である那覇港湾施設(那覇軍港)が存在する(ただし軍港内の住吉町・垣花町と隣接する山下町・奥武山町はもともと小禄の一部だったが、19世紀末に那覇区に編入されたため現在は小禄支所管内ではなく本庁管内である)』。『陸上自衛隊の那覇駐屯地、航空自衛隊の那覇基地がある』。『那覇空港があり、沖縄県の空の玄関としての役割を持ち、沖縄都市モノレール線、本島内各会社の路線バス、高速バスが通り、空港周辺はレンタカーの事務所が軒を連ねる。そのため、沖縄本島の交通の要所としての役割を持つ』。『また、中西部の金城(かなぐすく)地区は、米軍基地施設の跡地利用により建設され、ショッピングセンターなどが立ち並び、住宅街としても整備される。南東部の宇栄原地区には大規模な団地がある』。『小禄はここ20~30年で発展し、ほぼ全域で土地区画整理を盛んに行なってきた。人口も増加しつつあり、県外からの移住者の転居地としても人気のある地域といわれている』。『古くから小禄に定住している人は、ウルクンチュ(小禄の人、小禄人)と呼ばれ、ムンチュー(門中)意識が強い。特に年配者は、ウルクムニー(小禄喋り)と呼ばれる独特のイントネーションで話す』とある。

 

……そもそも、この詩は全体に現在形で示されているのだけれど、詩を詠じている詩人自身の現在時間の実景、実際の久方ぶりに帰郷した今の沖繩で現に詩人が見ている懐かしい変わらぬ風景、その嘱目吟なのだろうか?……

 

……と私は三十五年前、この詩を東京の大学近くの神社の参道を歩みながら読んでいて、ふと戸惑いして立ち止まってしまったのを覚えているのだ……

 

……その時の私には――そうではない――ように思われたからであった……

 

……これは……今は失われた……詩人の中にある/中にのみある……戦前の平和な時代の典型的な沖繩人(うちなんちゅ。だからこそ「むんちゅー」意識の強い「うるくむにー」を喋る「うるくんちゅ」の老人であることを示す「赤嶺」でなくてはならなかったのではないか?――と、今現在の五十七歳の私は心づいているのであるが――)のいる懐かしい風景なのではないか?……

 

……そう……私は漠然と感じていたのであった……そうして……

 

……そうして私は、その詩のコーダに幻視したのだった……

 

この朝もタンメーは縁先にいたのだが

煙管がつまってしまったのか

ぽんとたたいたその音で

タウチー達が一斉に

ひょいと首をのばしたのだ

 

……その日の「朝も」「タンメーは縁先にいたのだが」の――「この朝」――とは、一体どの日の朝だったのか?……

……「ぽんとたたいたその音」は確かに「煙管がつまってしまった」その音であったのか?……

……「煙管がつまってしまった」らそうするのは当たり前で、わざわざ「煙管がつまってしまったのか」と「のか」をつける必要がどうしてあったのか?……

……確かに「タウチー達」は癇が強い。しかし、庭中の「タウチー達が一斉に」「煙管がつまってしまった」煙管を一度「ぽんとたたいたその音」ぐらいで……「ひょいと首をのば」すだろうか?……

――「タウチー達が一斉に」「ひょいと首をのばした」そのアップの映像!

――「タウチー達が一斉に」「ひょいと首をのばした」のは――もっと別な音ではなかったか?!

――それは――あの――鉄の暴風の――最初の砲声――では、なかったろうか?!

 

……これは私の勝手な幻影であった/であるのかもしれない。しかし私は今もそう信じて疑わないのである。

 大方の御批判を俟つものではある。

 しかしまさに今回、松下博文氏の「稿本・山之口貘書誌(詩/短歌)」(及び後日の同氏の書かれた「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題)の初出データを知って、遅まきながら、この詩が故郷沖繩を再訪する二年近くも前に書かれたものであったことを知るに及んで、私は何か体が震えるような感慨に襲われているのである! これは愚鈍な私にとっての驚きであると同時に、二十二歳の大学生最後の年の、しょぼくれた私自身の不思議な感じの記憶を、懐かしく蘇らせて呉れもしたからなのである。……]

島での話   山之口貘

 島での話

 

来たぞ くろいのが

とそう云えば

女たちはもちろんのこと

こども達までがあわてふためいて

一目散に逃げたものだと云う

それでそれとすぐにわかるような

いかにもくろい男の子なのだが

くろいのが来たぞと云えば

その子までもあわてて

みんなといっしょに

一目散だと云うのだ



[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。以前に注していた内容には複数の誤りがあったため、注を改稿した。】初出は昭和三四(一九五九)年十一月号『小説新潮』。]

正月と島   山之口貘

 正月と島

 

つかっている言葉

それは日本語で

つかっている金

それはドルなのだ

日本みたいで

そうでもないみたいな

あめりかみたいで

そうでもないみたいな

つかみどころのない島なのだ

ところでさすがは

亜熱帯の島

雪を知らないこの風土は

むかしながらの沖縄で

元旦のパーティーに

扇風機のサービスと来た



[やぶちゃん注:【2014年月日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部を改稿した。】初出は昭和三五(一九六〇)年一月一日号『全繊新聞』で、同一月十五日発行の『季刊 沖縄と小笠原』第十一号にも載る。くどいが、バクさんの沖繩帰郷は昭和三三(一九五八)年十月末から翌年一月初旬のことであった。]

2014/03/30

飯田蛇笏 靈芝 昭和七年(七十二句) Ⅵ



たちよれば花卯盛りに露のおと

 

日中の微雨きりきりと四葩かな

 

[やぶちゃん注:「きりきり」の後半は底本では踊り字「〱」。「四葩」は「よひら」でアジサイ(紫陽花)の異名。「きりきりと」のオノマトペイアが斬新。]

 

雨に剪る紫陽花の葉の眞靑かな

 

水葬の夜を紫陽は卓に滿つ

 

[やぶちゃん注:鬼趣の句である。この「水葬」とは、水を張った平鉢に浮かべた紫陽花の花をかくもイメージしたものか。]

 

舞踏靴はき出て街の驚破や秋

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「驚破や」は感動詞「すわや」。斬新で面白い句である。]

 

秋の晝書にすがりたる命かな

 

すゞかけに秋立つ皇子の輦(くるま)かな

 

提げし大鎌の刃に殘暑かな

 

[やぶちゃん注:上五「提げし」は「ぶらさげし」と訓じていよう。]

 

雲井なる富士八朔の紫紺かな

 

果物舖雨月の光さしそひぬ

 

[やぶちゃん注:これは如何なる光景であろう。「雨月の光」の「雨月」は明らかに秋の季語で名月の日の雨で無論、月は顕在的には照っていないのであるが、それはそれで相応の仄かな夜の明るさがあって、夜の果物屋の、それぞれの総天然色の果実の輝きに、それ(幽かな雨月の夜のぼぅっとした夜明かり)を添えているというのであろうか? 梶井基次郎の「檸檬」を偏愛する私は即座にそのような光景をイメージしてしまったのだが……。]

杉田久女句集 166 緋鹿子にあご埋めよむ炬燵かな



緋鹿子にあご埋めよむ炬燵かな

 

[やぶちゃん注:「緋鹿子」は炬燵の掛け布団の模様であろうが、そこに頤(おとがい)なですっぽりと埋めて読み耽っているのは、「伊達娘恋緋鹿子」、八百屋お七の浄瑠璃本ででもあろうか。――久女とお七……こんなに相応しい組み合わせはあるまいと、私は思うのだが……]

杉田久女句集 165 柚子湯出て身伸ばし歩む夜道かな


柚子湯出て身伸ばし歩む夜道かな

杉田久女句集 164 な泣きそと拭へば胼や吾子の顏


な泣きそと拭へば胼や吾子の顏

杉田久女句集 163 雪道や降誕祭の窓明り


雪道や降誕祭の窓明り

杉田久女句集 162 橇やがて吹雪の渦に吸はれけり


橇やがて吹雪の渦に吸はれけり

杉田久女句集 161 空似とは知れどなつかし頭巾人


空似とは知れどなつかし頭巾人

杉田久女句集 160 歌留多 書初め 縫初め



凧を飾りて子等籠りとるかるたかな

 

胼の手も交りて歌留多賑へり

 

書初やうるしの如き大硯

 

縫初の糸の縺れをほどきけり

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅸ 信濃抄四(6)



朝刊に日いつぱいや蜂あゆむ

 

冬河に海鳥むるる日を訪へり

 

冬の月明るきがまま門(と)を閉ざす

雲の上  山之口貘

 雲の上

 

たった一つの地球なのに

いろんな文明がひしめき合い

寄ってたかって血染めにしては

つまらぬ灰などをふりまいているのだが

自分の意志に逆ってまでも

自滅を企てるのが文明なのか

なにしろ数ある国なので

もしも一つの地球に異議があるならば

国の数でもなくする仕組みの

はだかみたいな普遍の思想を発明し

あめりかでもなければ

それんでもない

にっぽんでもなければどこでもなくて

どこの国もが互に肌をすり寄せて

地球を抱いて生きるのだ

なにしろ地球がたった一つなのだ

もしも生きるには邪魔なほど

数ある国に異議があるならば

生きる道を拓くのが文明で

地球に替わるそれぞれの自然を発明し

夜ともなれば月や星みたいに

あれがにっぽん

それがそれん

こっちがあめりかという風にだ

宇宙のどこからでも指さされては

まばたきしたり

照ったりするのだ

いかにも宇宙の主みたいなことを云い

かれはそこで腰をあげたのだが

もういちど下をのぞいてから

かぶった灰をはたきながら

雲を踏んで行ったのだ


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を全面改稿した。】初出は昭和三五(一九六〇)年一月一日発行とある『季刊詩誌 無限』第三号冬季号。前年の昭和三四(一九五九)年十一月二十八日附『沖縄タイムス』にも載るが、実はそこには『転載』注記があり、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題で筆者の松下博文氏はこの『沖縄タイムス』『への作品掲載は「無限」発行後と推定される。雑誌の発行日と実際の発行期日にズレがあるのはそう珍しいことではない』とある。

 ネット上の情報では現在、日本雑誌協会のもとでは週刊誌は十五日先迄、月刊誌は四十日先までの発行日表示を許容するという協定が結ばれているそうで、しかもこうした発行日の前倒しは何時頃から行われるようになったかは不明とあり、また、これは購読者が先の日付のものを欲しがることと、書店からの返品(三ヶ月以内)に対応するためであるともあった。

 なお、新全集解題によれば、草稿原稿には『1959.10』のクレジットがあるとある。]

島   山之口貘

 島

 

おねすとじょんだの

みさいるだのが

そこに寄って

宙に口を向けているのだ

極東に不安のつづいている限りを

そうしているのだ

とその飼い主は云うのだが

島はそれでどこもかしこも

金網の塀で区切られているのだ

人は鼻づらを金網にこすり

右に避けては

左に避け

金網に沿うて行っては

金網に沿うて帰るのだ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三五(一九六〇)年一月発行の『政治公論』で、同年三月二日発行の『青年座 沖縄』十八号にも再録された。これは劇団青年座の発行していたものらしい(リンク先は同劇団公式サイト)。バクさんの沖繩帰郷は一九五八年十月末から翌年一月初旬のことであった。


「おねすとじょん」オネスト・ジョン(英
: Honest John)は正式名をMGR-1と呼ぶアメリカ合衆国初の核弾頭搭載地対地ロケット(弾)。ウィキの「MGR-1より引用する。『想定された主な用途は戦術核攻撃であったが、核弾頭の代わりに通常の高性能炸薬弾頭を搭載することもできるように設計されていた。当初の制式名は基本型がM31、改善型がM50であった』。『1951年6月に初めて試験され、1954年から在欧米軍に配備された。当初は臨時的な配備を予定していたが、運用が簡単で即応性が高かったことから、地対地誘導ミサイルが次々に代変わりしていく中、30年弱にわたって運用され続け、アメリカ陸軍では1982年に退役した』。『「Honest John」は日本語に直訳すると「正直者のジョン」という意味になるが、米軍では若い新兵を当人の本名にかかわらず「Hey, John!」と呼ぶ場合があるので、意訳すると「命令に忠実な新兵」ということになる。この愛称は「狙いどおりに命中してくれる」という含意でもある』とある。他所のデータによれば沖繩には昭和二八(一九五三)年十二月に配備されたとある。私はこれを「原子砲」(小型原子爆弾を砲弾化した核砲弾を発射する火砲)と記した書物を小学生の時に読み、長くそう記憶していたが、ネット上のデータからみると、「原子砲」(アメリカ陸軍の核砲弾射撃専用大型大砲M65 280mmカノン砲。別名アトミック・キャノン(Atomic Cannon)。一九五三年から一九六三年まで運用されたとウィキ「M65 280mmカノン砲にある)は地対地核ミサイルである「オネスト・ジョン」とは全く別物である(但し、同時に沖縄にやはり配備されていたらしい)。ただ、バクさんも「おねすとじょんだの/みさいるだのが」と分けて綴っているところを見ると、バクさんもやはり「オネスト・ジョン」を核ミサイルではなく、原子砲と認識されていたようにも読める。【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。】


追伸:私の池内了氏の人クローンのオリジナル教材の授業を受けた諸君に訂正しておく。おぞましい命名の部分だ。

「ドリー」「ふげん」「もんじゅ」「リトル・ボーイ」「ファット・マン」に次いで「オネスト・ジョン」を挙げたね。

あれは「原子砲」ではなく、地対地核ミサイルの「愛称」であった。

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年十二月



稻妻のあをき翼ぞ玻璃打てり

 

稻妻の巨き翼ぞ嶺(ネ)を打てる

   建築現場

鐡骨に夜々の星座の形正し

 

鐡骨に忘れたやうな月の虧(カケ)

 

[やぶちゃん注:二句連作。以上四句は総て、十二月発行の『天の川』掲載句。個人的にこの建築場の二句を好む。「鐡骨に忘れたやうな」という部分は推敲の余地があるように(特に中七の直喩が今一つという感じがする)は思われるが、「鐡骨」という近代性と「星座」及び「虧」けた「月」とのシュールレアリスティックな取り合わせ、「鐡骨」という近代の象徴物が悠久の天然自然の「星座」と「月」をかっちりとトリミングする手法が、憎いまでにモダンで洒落ている。]

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年十一月

   月光と塑像

月のかげ塑像の線をながれゐる

 

月光のおもたからずや長き髮

 

そそぎゐる月の光の音ありや

 

窓に入る月に塑像壺をかつぎ

 

背の線かひなの線の靑月夜

 

[やぶちゃん注:ここまでの五句が十一月発行の『傘火』の「月光と塑像」連作と思われる。同月の『天の川』にも載るが、それは頭の三句のみである。

 壺を担ぐ乙女像というと……私は何をさておいてアングルの絵「春」(IngresLa Source”)をイメージしてしまう部類の人間である(グーグル画像検索「Ingres La Source。]

 

闇涼し蒼き舞台のまはる時

 

[やぶちゃん注:これは野外公演であるが、場所は不詳。時期的には宮古ではなく鹿児島か。何か、御存じの方、御教授を乞う。これは『現代俳句 3』(恐らくは鳳作没後の昭和一五(一九四〇)年に河出書房から刊行された「現代俳句」第三巻)の掲載句とある。以上、六句は十一月の発表句及び同パート(最後の句)に配されたもの。]

2014/03/29

杉田久女句集 159 玻璃の海全く暮れし煖爐かな / ホ句たのし松葉くゆらせ煖爐たく



玻璃の海全く暮れし煖爐かな

 

ホ句たのし松葉くゆらせ煖爐たく

 

[やぶちゃん注:これらの二句も間違いなく櫓山荘での句であろう。]

杉田久女句集 158 寢ねがての蕎麥湯かくなる庵主かな


寢ねがての蕎麥湯かくなる庵主かな

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅸ 信濃抄四(5)

  四日市に誓子先生をお訪ひする 五句

 

つゆじもや發つ足袋しろくはきかふる

 

ほのぼのと襟あたたかし石蕗も日に

 

濤うちし音返りゆく障子かな

 

[やぶちゃん注:「濤」は底本の用字。]

 

砂をゆく歩々の深さよ天の川

 

濤ひびく障子の中の秋夜かな

 

[やぶちゃん注:「濤」は底本の用字。]

酔漢談義   山之口貘

 酔漢談義

 

ぼくに2号があるとは

それは初耳だと言うと

そうじゃないかよそれで毎晩

帰りがおそいんじゃないかよと言う

飲んで酔っぱらって

おそくなったにすぎないのだが

ないものをあるみたいに探るので

腹が立って来て

損をしているみたいだ

[やぶちゃん注:【2014年月日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を改稿した。】初出は昭和三五(一九六〇)年四月号『文藝春秋』。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題によれば草稿原稿には『1959.12.6』のクレジットがあり、そこでのタイトルは「酔漢談議」となっているとある。]

底を歩いて   山之口貘

 底を歩いて

 

なんのために

生きているのか

裸の跣で命をかかえ

いつまで経っても

社会の底にばかりいて

まるで犬か猫みたいじゃないかと

ぼくは時に自分を罵るのだが

人間ぶったぼくのおもいあがりなのか

猫や犬に即して

自分のことを比べてみると

いかにも人間みたいに見えるじゃないか

犬や猫ほどの裸でもあるまいし

一応なにかでくるんでいて

なにかを一応はいていて

用でもあるみたいな

眼をしているのだ


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。本注を追加した。】初出は昭和三五(一九六〇)年六月号『小説新潮』。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題によれば、草稿原稿の裏側に『1959.10.26』という附記があるとある。]

ろまんす・ぐれい   山之口貘

 ろまんす・ぐれい

 

ラジオ屋さんが帰ったあとだ

ぼくの顔を見て

ミミコが云ったのだ

うちのにしては上出来で

真新しいものを買ったと云えば

ラジオがはじめてなんでしょうと云った

すると横から

女房が云ったのだ

パパはなんでもお古が好きなんで

机がお古で本棚もお古だ

電気スタンドだってなんだって

古道具屋さんのが好きなんだと云った

そこでぼくにしてみればだ

余計なことはしたおぼえがないので

余計なことは云うなと云った


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらにこの初出注を追加した。】初出は昭和三五(一九六〇)年十月号『小説新潮』。]

僕は

人がやってないことでは不十分だ――人がやっても「つまらん」と思うようなことを独り「面白がって」やってみること――そこから思わぬ瓢箪から駒、人形から魂があくがれ出でる――これを僕のコンセプトとしなくてはいけない――

牛とまじない   山之口貘

 牛とまじない

 

のうまくざんまんだばざらだんせんだ

まかろしやだそわたようんたらたかんまん

ぼくは口にそう唱えながら

お寺を出るとすぐその前の農家へ行った

そこでは牛の手綱を百回さすって

また唱えながらお寺に戻った

お寺ではまた唱えながら

本堂から門へ門から本堂へと

石畳の上を繰り返し往復しては

合掌することまた百回なのであった

もう半世紀ほど昔のことなのだが

父は当時死にそこなって

三郎のおかげで助かったと云った

牛をみるといまでも

文明を乗り越えておもい出すが

またその手綱でもさすって

きのこ雲でも追っ払ってみるか

のうまくざんまんだばざらだんせんだ

まかろしやだそわたようんたらたかんまん

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部を追加した。】初出は昭和三六(一九六一)年一月一日附『沖縄タイムス』で、同年同月の一月二十日附『全繊新聞』にも掲載されているが、初出の詩題は孰れも「牛」である。前者にはバクさん自筆の絵も添えられているらしい。

「のうまくざんまんだばざらだんせんだ/まかろしやだそわたようんたらたかんまん」は少し音表記に違いはあるが、ほぼ正しく真言宗系の不動明王真言、

のうまく さんまんだ ばざら だん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらたかんまん

を写している(次の注も参照のこと)。

「牛の手綱を百回さすって」このお百度参りはよく分からない。ネット上でも検索に掛からないのだが、これは例によって私のトンデモ直感なのだが、丑の刻参りの「丑」と「牛」の類感呪術的敷衍ではなかろうか? 識者の御教授を乞う!

「もう半世紀ほど昔」本詩の最初の作詩年代を厳密に同定出来ないが、初出が昭和三六(一九六一)年一月一日であること、半生記五十年で少年のバクさんが不思議な「まじない」をし得た年齢(三、四歳以上で尋常小学校でも高学年ではあるまい)であったことを勘案するなら、起点は自ずと、昭和三一(一九五六)年~昭和三五(一九六一)年となり、そこから五十年前の明治三九(一九〇六)年(満三歳)~明治四四(一九一一)年(満八歳・バクさんの那覇甲辰小学校入学は明治四十三年で満六歳の時であった)の間と考えてよかろう。そうして実は、この事蹟をもっと狭く同定出来る資料があるのである。バクさんの書いた随筆「牛との対面」(昭和三五(一九六〇)年十二月二十七日附『産経新聞』掲載)である。以下に全文を掲げる(底本全集の第三巻随筆に拠る。太字は底本では傍点「ヽ」)。

   *

 

 牛との対面

 

 この間から、催促を受けている原稿がある。そういうと、いかにも売れる原稿でも書く人みたいで自分ながらきざな感じであるが、ぼくの場合は売れないものを押し売りした上、それを書く仕事までものろいからなのであって、売れっ子の受ける催促とは、その性質がはなはだ異ったものなのである。

 過日、郷里のある新聞社の重役が上京したことを幸に、電話で借金を申し込んだところ非常に気持ちよく引受けてくれた。借金をするにも相手によっては、向かっ腹の立つ場合もあるわけであるが、かれの貸しっぷりは借りるぼくの気分を爽快にするほどずばりとしたものであった。その上、借りた金は、金で返すのではなくて、原稿で返すことを約束したのである。つまりはその原稿の催促を受けているわけで、原稿の催促を受けているとはいっても、正確には借金の催促を受けているわけなのである。それはしかし、重役のかれから直接に受けた催促なのではなくて、東京にあるその新聞社の支社からなのである。ぼくのつもりでは四枚ばかりの随筆風の原稿で借金の返済にあてる筈なのであったが、支社の編集部員は「詩をいただきたい。」と言った。「随筆のつもりでいたが。」というと「いや詩をいただきたいんです。」とかれは言った上に、「絵もいっしょにほしいんです。」と来たのである。ばくにとっては意外な結果となってしまったが、さて、問題はその詩のことなのである。

 ぼくには最近、「無限」と「近代詩猟」の両詩誌から詩の依頼があった。書きかけの詩が一つはあるにはあったが、両方に応じ得るだけの自信は到底なかったので、「無限」には前に一度は書いたこともあるしとおもい、こんどは「近代詩猟」に書かせてもらいたいからとのことを電話で「無限」編集部のHさんに言いわけをして、「近代詩猟」の方だけに応じることにし、岡崎清一郎氏へ承諾の返事を出したのである。ところが締切の指定の期日を過ぎても、書きかけのその詩がなかなか詩にならず、ついに岡崎氏へは詫びの手紙を出すより外にはなくなって、結局どちらにも書かずじまいになってしまった。こんなことをおもい出しながら、ぼくは借金のかわりに返さなければならない詩を別に書かなくてはならない破目になったのである。

 その詩は、絵と共に新聞の新年号に出すものなので、そのつもりのものを書いてほしいとのことなのである。そのつもりで考えてみると、来年は牛の年であることに気がついた。同時に、この気のつき方はいささかジャーナリスティックであるとおもわぬでもなかったが、牛については、いまから半世紀ほども前のことで、牛にまつわるぼくの思い出があるからでもあった。

 大正の初めごろといえば、ぼくの小学生のころである。父が難病をわずらったために、ぼくはお寺でお百度を踏まされたことがあった。そのとき奇妙なまじないを経験したが、お寺さんの指図によって、その近所の農家へ行き、うす暗い牛小屋で、牛の手綱を百回さすったのである。ぼくはこどもごころに、こんなことをして病気が治るものなら、医者も薬もいらないじゃないかとおもったが、父や母はいかにもまじないごとが好きだった。沖縄にはユタ、あるいはカミンチュといわれていて神につかえているおばさんがあちらこちらにいたが、父や母は好んでユタに来てもらい、家屋敷の隅々までユタに拝んでもらったりして、もっともらしくおまじないをしてもらうことが度々あったのである。

 ぼくはそういうとりとめもない昔の沖縄でのことを思い出しながら、借金のかわりに返す詩を書かねばならなくなったが、自業自得とはいえその詩がまたまた途中で足踏みしたままで、いっこうはかどらないのである。仕方がないので、絵を先に描くことにして、歳末のせっぱつまった気持ちに駆られながら、雨のなかを大泉の東映撮影所の近所まで出かけた。そのあたりに乳牛を飼っている家があるとのことを、娘がバスの窓から見かけたことがあると聞いたからなのであった。やっとその家を見つけて牛小屋に案内されたが、小屋というよりは邸宅といった方がふさわしく、うずくまっているもの、立ちつくしているもの、あるいは子持ちなどの牛が十頭余りもそこにいたのである。ぼくはその垂れさがった大きなおっぱい、割れた蹄など、部分部分をスケッチして、最後に大きなその顔と向き合ったが、実に半生記ぶりのまともな対面で、あのお百度詣りのとき牛の手綱を百回さすったり繰り返し唱えたまじないのあの文句まで思い出さずにはいられなかった。

 なうまくざんまんだばざらだんせんだまかろしやだそわたやうんたらたかんまん。

   *

最後の不動明王の真言は詩のものと微妙に異なるが、実は天台宗系の同真言は、

 なまく さまんだ ばさらなん せんだ まかろしゃな そわたや うんたらた かんまん

である。ここで四つを試みに並べてみようではないか。

 

のうまく ざんまんだ ばざら だん せんだ まかろしやだ そわたよ うんたらた かんまん  (詩「牛とまじない」の真言に間隙を施した)

 

のうまく さんまんだ ばざら だん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらたかんまん   (真言宗系不動明王真言)

 

なまく さまんだ ばさら なん せんだ まかろしゃな そわたや うんたらた かんまん    (天台宗系不動明王真言)

 

なうまく ざんまんだ ばざら だん せんだ まかろしやだ そわたや うんたらた かんまん   (随筆「牛との対面」の真言に間隙を施した)

 

面白くないてか? そうかなぁ、私はとっても面白いんだけどなぁ……。まあ、いいや、ともかくもこれによって、

 

この詩「牛とまじない」の創作されたのは昭和三五(一九六〇)年であること

 

この詩「牛とまじない」に語られる五十年前の父の病い平癒のための牛の呪(まじな)いは「大正の初めごろ」とあるから、私の推測よりやや後の、バクさん満九歳の「ぼくの小学生のころ」、大正元・明治四五(一九一二)年(尋常小学校三年)か翌年若しくは翌々年のことであること

 

が分かるのである(一九六一年の五十年前で一九六二年だと四十九年前ではあるが、これは「半世紀ほど昔」と言って無論、問題ない)。

 

「父は当時死にそこなって/三郎のおかげで助かったと云った」辻淳氏の手になる底本全集の年譜によれば、バクさんは明治三六(一九〇三)年九月十一日に沖縄県那覇区東町大門前に生まれ、戸籍上の本名は山口重三郎、幼名は「さんるー」(三郎)。父山口重珍(訓は「しげよし」か)の三男であった。山口家は三百年続く沖繩の名家の一つで、もとは薩摩の商人松本一岐重次を祖として、薩摩の琉球への侵攻以降に琉球王国へ移住帰化した子孫に当たる(山口という姓はその先祖の中で知念山口の地頭職に任ぜられた者があってその地名から称するようになった)。重珍は当時三十三歳で第四十七銀行那覇支店に勤務していた。なお、重珍はその後、大正八(一九一九)年に銀行を退職後、沖縄産業銀行八重山支店長(【2014年7月3日追記】「石垣市教育委員会市史編集課 八重山近・現代史略年表」の八重山近・現代史年表 明治12年~昭和20年8月14日までによれば同支店の開設は大正九(一九二〇年一月である)となり、鰹節製造業などに手を出すも不漁続きでうまくゆかずに家を手放すなどし、翌大正九年の経済恐慌(当時、沖縄ではこの経済恐慌が「そてつ地獄」と呼ばれたとある。蘇鉄は古来から沖繩の究極の救荒植物であったが処理を誤って食用すれば死亡するほどに有毒である。残酷乍ら言い得て妙であると言える)事業は失敗、大正十二年頃までに一家(母カマト他七人兄弟姉妹であった)は離散したものと推定されている(この大正九年十一月には父重珍と沖縄県八重山郡与那国町の新城ヨホシとの間に庶子の男子が生まれてもいる。その後の昭和九(一九三五)年十月に重珍は大阪市北区都島中通に戸籍を移しているが住んではいないようである。彼は昭和二八(一九五三)年四月、八十三歳で与那国で亡くなっている。バクさん五十歳の年であった)。バクさんと父の関係(その愛憎)は今一つ、はっきりしない。この牛の詩からは相応の肉親としての愛情は無論、感じられるものの、やはり、今は何かもやもやとしている。因みに、彼の母カマトは夫に先立つこと二年前の昭和二十六年六月にやはり、与那国の、しかし、『弟重四郎の家で死亡。その訃を聞いても帰る旅費もなく、一夜白湯を飲んで遙かに通夜をした』と年譜に記されるのとは、この父の死の記載、如何にも対称的な記載ではある。]

山之口貘 詩三篇  満員電車 / 胃 / 鼻

 満員電車

 

爪先立ちの

靴がぼやいて言った

踏んづけられまいとすればだ

踏んづけないでは

いられないのだが

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を変更した。】初出は昭和三六(一九六一)年三月十四日附『沖縄タイムス』。]

 

 胃

 

米粒ひとつも

はいっていないのだから

胃袋が怒りで

いっぱいなのだ

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。】初出は昭和三六(一九六一)年三月二十五日号『季刊 沖縄と小笠原』で、初出時は詩題が「胃袋」、次の「鼻」とともに掲載された。同誌は「沖縄協会」(公益財団法人沖縄協会。沖縄平和祈念堂の管理・運営などを行っている公益財団法人)の前身である特殊法人南方同胞援護会が発行していた機関紙。]

 

 鼻

 

その鼻がいいのだ

と答えたところ

鼻はあわてて

掌に身をかくした

祟り   山之口貘

 祟り

 

ひとたび生れて来たからには

もうそれでおしまいなのだ

たとえ仏になりすまして

あの世のあたりに生きるとしたところで

かかりのかからないあの世はないのだ

棺桶だってさることながら

おとむらいだのお盆だの

お寺のおつきあいだのなんだのとかかって

あの世もこの世もないのでは

はじまらないからおしまいなのだ

金はすでにこの世の生を引きずり廻し

あの世では死を抱きすくめ

仏の道にまでつきまとい

人間くさくどこにでも崇ってくるのだ

たとえまずしい仏の住む墓が

みみずのすぐお隣りに建ったとしても

ロハってことはない筈なのだ

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三六(一九六一)年六月号『小説新潮』。

 五行目「かかり」は「掛かり」で、物事をなすのに必要な費用。]

頭をかかえる宇宙人   山之口貘

 頭をかかえる宇宙人

 

青みがかったまるい地球を

眼下にとおく見おろしながら

火星か月にでも住んで

宇宙を生きることになったとしてもだ

いつまで経っても文なしの

胃袋付の宇宙人なのでは

いまに木戸からまた首がのぞいて

米屋なんです と来る筈なのだ

すると女房がまたあわてて

お米なんだがどうします と来る筈なのだ

するとぼくはまたぼくなので

どうしますもなにも

配給じゃないか と出る筈なのだ

すると女房がまた角を出し

配給じゃないかもなにもあるものか

いつまで経っても意気地なしの

文なしじゃないか と来る筈なのだ

そこでぼくがついまた

かっとなって女房をにらんだとしてもだ

地球の上での繰り返しなので

月の上にいたって

頭をかかえるしかない筈なのだ

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三六(一九六一)年六月十三日附『朝日新聞』で、その八日後の同年六月二十一日附『琉球新報』にも掲載された。]

昇天した歩兵   山之口貘

 昇天した歩兵

 

村ではぼくのことを

疎開と呼んでいた

疎開はたばこに困ると

東の家をのぞいては

たばこの葉っぱにありついて

米に困ると

西の家をのぞいて

閻の米にありついたりしたのだ

その日も疎開は困り果てて

かぼちゃの買い出しに出かけたのだが

途中で引き返して来ると

庭の片隅にこごみ

奉公袋に火をつけた

日本ではつまりその日から

補充兵役陸軍歩兵なんてのも

不要なものに

なったからなのだ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三六(一九六一)年七月三十一日附『新潟日報』夕刊であるが、掲載時の詩題は「昇天した歩兵 ―まもなく八月十五日だ―」。

「奉公袋」「帝国陸海軍と銃後」というサイトの「奉公袋」に『奉公袋は、陸軍において入営及び戦地に赴くとき、必需品を入れていった袋で軍隊手牒、勲章、記章、適任証書、軍隊における特業教育に関する証書、召集及び点呼令状、その他貯金通帳など応召準備、応召のために必要と認めるものを収容するように袋の裏側に記されている。またこのほかに遺髪、爪袋、遺言書封入などが収められたという。そして在郷軍人はこの袋を常に準備していつでも召集により戦争に行けるよう、意識を高めていた』と解説されてある(リンク先では実物のそれが写真で見られる)。即ち、この詩にはまさに十六年前の昭和二〇(一九四五)年八月十五日の景(疎開していた茨城県結城妻静江さんの実家である)が描かれているのである。敗戦のこの時、バクさん、四十二歳。【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。】

月見草談義   山之口貘

 月見草談義

 

昼間の明るいうちは眼をつむり

昨日の花もみすぼらしげに

萎びてねじれたほそい首を垂れ

いまが真夜なかみたいな風情をして

陽の照るなかをうつらうつら

夢から夢を追っているのだ

やがて日暮れになると朝が来たみたいに

露の気配でめをさますのか

ぼっかりと蕾をひらいて身ぶるいし

身ぶるいをしてはぽっかりと

黄色い蕾をひらくのだが

真夜なかともなれば一斉にめざめていて

真昼顔して生きる草なのだ

ぼくはそれでその月見草のことを

梟みたいな奴だと云うのだが

うちの娘に云わせると

パパみたいな奴なんだそうな


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。この注を追加した。】初出誌未詳。草稿のタイトルは「月見草談議」。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題では他では作品の評に類する内容に禁欲的な松下氏が珍しく、バクさんが「談義」と「談議」を厳密に使い分けていた(詩集「鮪に鰯」には後掲する「酔漢談義」がある)とする解説が載り、本作は元の草稿タイトルの『「談議」が適切』であると結論されておられる。この解題にはすこぶるお世話になっている関係上、是非、お買い求め戴いてお読みになられるよう、お願い申し上げる。]

癖のある靴   山之口貘

 癖のある靴

 

投げて棄てた吸殻の

火を追って

靴がそれを踏んづけたのだが

おもしろいことをする靴なのだ

いつもの癖で

止むを得なかったにしても

巷は雨でぬれているのだ



[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】
初出は昭和三六(一九六一)年九月九日附『琉球新報』。]

ぼろたび   山之口貘

 ぼろたび

 

季節はすでに黄ばんでいた

公園のベンチをねぐらにしている筈の

食うや食わずの詩人のかれが

めしを食いに行こうと来たのだ

食うや食わずにビルディングの

空室をねぐらにしている詩人のぼくが

どうなることかともじもじしていると

かれは片方のぼろたびを脱いで

逆さにそれを振ってみせたのだが

めし代ぐらいはあるとつぶやきながら

足もとの銀貨を拾いあげた


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、初出注を追加した。】初出は昭和三六(一九六一)年十月二十五日附『毎日新聞』。]

表札   山之口貘

 表札

 

ぼくの一家が月田さんのお宅に

御厄介になってまもなくのことなんだ

郵便やさんから叱られてはじめて

自分の表札というものを

門の柱にかかげたのだ

表札は手製のもので

自筆のペ字の書体を拡大し

念入りにそれを浮彫りにしたのだ

ぼくは時に石段の下から

ふり返って見たりして街へ出かけたのだ

ところがある日ぼくは困って

表札を取り外さないではいられなかった

ぼくにしてはいささか

豪華すぎる表札なんで

家主の月田さんがいかにも

山之口貘方みたいに見えたのだ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三六(一九六一)年十一月号『婦人之友』。「ペ字」の「ン」の字は、表記のように底本ではやや右寄りに明らかにポイント落ちで示されてある。誤植の可能性もあるが、一応、再現しておいた。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」ではそのような仕儀はなされておらず、普通に『自筆のペン字の書体を拡大し』である。

「月田さん」底本第四巻の辻淳氏の編になる年譜に、昭和二三(一九四八)年三月に戦前の昭和十四年(静江さんとの婚姻後二年目)から勤めてきた東京府職業安定所の職(生れて始めての、そしてただ一度の社会的な意味での定職であった)を退き、文筆一本の生活に入ったとあり、その四ヶ月後に上京(バクさん一家は昭和十九年に茨城県結城の妻静江さんの実家に本人も一緒に疎開、驚くべきことに東京まで四時間近くかけての汽車通勤を戦後も続けていた)、練馬区貫井(ぬくい)町の月田家に間借りしたとある。な、この詩と同じ「表札」という表題を持つ石垣りんの詩(持っているはずの詩集が見つからないので、後藤人徳氏の「人徳の部屋」内の石垣詩」からコピー・ペーストさせて戴いた)、

 

 表札

 

自分の住むところには

自分で表札を出すにかぎる。

 

自分の寝泊りする場所に

他人がかけてくれる表札は

いつもろくなことはない。

 

病院へ入院したら

病室の名札には石垣りん様と

様が付いた。

 

旅館に泊まつても

部屋の外に名前は出ないが

やがて焼場の鑵(かま)にはいると

とじた扉の上に

石垣りん殿と札が下がるだろう

そのとき私はこばめるか?

 

様も

殿も

付いてはいけない、

 

自分の住む所には

自分の手で表札をかけるに限る。

 

精神の在り場所も

ハタから表札をかけられてはならない

石垣りん

それでよい。

 

と、このバクさんの詩を並べて感懐を記された、五十嵐秀彦氏のブログ「無門日記」の表札行方」がなかなか面白い。お読みあれ。【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部に脱字あったのを補正した。】

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年九月及び十月 /  「海の旅」句群



浪のりの白き疲れによこたはる

 

浪のりの深き疲れに睡(ゐ)も白く

 

[やぶちゃん注:「浪のり」は船が大きな波のうねりに乗ることもいうが、私にはどうも「白き疲れ」「よこたはる」「睡も白く」(船の波乗りであれば眠くなる前に気持ちが悪くなろうし、それを「白き疲れ」と表現するだろうか?……しないとは言えぬか……船酔いのぼーっとした感覚は「白き疲れ」としてもおかしくないな)、そして続く句(この二句と次の句は同じ九月発行の『天の川』掲載の三句なのである)をセットに読んだ初読時、やはりこれは船上の詠ではなく、サーフィンとしての「浪のり」をし疲れた後の、白砂の浜での景であるとしか読めなかったである。

 因みに「浪のり」の本邦での起源はウィキの「サーフィン」で見ると、『江戸時代の文献に、庄内藩・出羽国領の湯野浜において、子供達が波乗りをしている様子を綴った記述や、「瀬のし」と呼ばれる一枚板での波乗りが行われたという記録が残っている。すなわち、現在の山形県庄内地方が日本の波乗りの文献的な発祥の地と見なせる』とある。但し、『現在の形式の日本でのサーフィンの発祥の地は、神奈川県藤沢市鵠沼海岸、鎌倉市、千葉県鴨川市、岬町太東ビーチと言われており、第2次大戦後日本に駐留した米兵がそれらのビーチでサーフィンをしたのがきっかけという説がある』とあり、ここでの「浪のり」というのも今のサーフィンのようなものとは大分様子の異なるもののようにも思われる。宮古島のサーフィンの歴史にお詳しい方の御教授を乞うものである。

……が……ところが、である。

……どうも残念なことに、これは、やはり、サーフィンなんどというのはトンデモ解釈で、やはり、船の「浪のり」=波乗り=ピッチングであるらしい。次の次の「しんしんと肺碧きまで海のたび」の私の注及び次の月の「海の旅」句群の注を参照されたい。……ちょっと淋しい気がしている……]

 

海燒の手足と我とひるねざめ

 

しんしんと肺碧きまで海のたび

 

[やぶちゃん注:これは謂わずと知れた鳳作の絶唱にして第一の代表作である。実はこれは底本では次の十月の発表句の中に配されてある。それは次の月の句群を見て戴けば分かる通り、この句がまず単独で九月の『天の川』の前の三句と一緒に示され(それと前三句との配列は不詳であるから、取り敢えずここでは最後に置いた)、翌月の『傘火』には、この「しんしんと」を含むまさに鳳作会「心」の「海の旅」句群五句が纏めて発表されたことによる(即ち、底本は基本が時系列編年体でありながら、こうした句群部分では編者による操作が行われているために正しく並んでいない箇所があるということである。これは今回の電子化で初めて気づいた。特にこの知られた鳳作の作でそれが行われていようとは想像だにしなかったのでちょっとショックである)。……そうして……そこではやはり知られたように船がまさに「浪のり」して「シーソー」を繰り返す景が二句も詠み込まれているのである。――残念ながら、やはり――前にあった「浪のり」の句のそれは、船の「波乗り」――ピッチングを指していると考えざるを得ないということになろう。但し、ここにお一人だけこれをやはり真正のサーフィンと解釈されている方がいることも附記しておきたい。それは何度も引いているあの前田霧人氏の「鳳作の季節」である。そこで霧人氏は『現在、「波乗り(サーフィン)」は夏の季語であるが、当時はまだ代表的な歳時記にも載録されておらず、既に彼が有季、無季にこだわらない新しい素材、新しい表現の開拓に意欲を見せていることが分かる』と述べておられるのである。少し、嬉しくなった。


 なお、前田霧人氏の「鳳作の季節」では、この句について、この鳳作の本句発表の二ヶ月前に発表されている川端茅舎の、

 

 いかづちの香を吸へば肺しんしんと

 

という句を掲げられ、鳳作の「新興俳誌展望」(『傘火』昭和九(一九三四)年)の中の「『走馬灯』」句評にある、『長い間病床にある茅舍氏の句には何時も珍しい感覺と異常な力とが漲みなぎつてゐる。茅舍氏の句とする對象は病床にあるせいか決して所謂新しい素材ではない。氏は常に平凡なる題材を、新しい感覺と力強い表現とで全く別個な新しい香氣あるものとされてゐる』(私の底本とする「篠原鳳作全句文集」所載のものを恣意的に正字化して示した)という叙述をも引かれて、『雲彦も生来体が頑健でなかったから、茅舎に共感する所は大なるものがあ』り、本句の誕生に茅舎のこの句が『大きな影響を与えたことは、両句を比較すれば誰の眼にも明らかなのである。それは、単に「しんしんと」、「肺」という言葉の共通点に留まらず、「平凡なる題材を、新しい感覚と力強い表現とで全く別個な新しい香気あるもの」としている所が共通するのである』と述べておられる。これはまさに正鵠を射た優れた評である。

 前に注した通り、以上四句は九月発行の『天の川』掲載句である。]

 

   海の旅

滿天の星に旅ゆくマストあり

 

船窓に水平線のあらきシーソー

 

しんしんと肺碧きまで海のたび

 

幾日はも靑うなばらの圓心に

 

幾日はも靑海原の圓心に

 

甲板と水平線とのあらきシーソー

 

 (註) シーソーは材木の兩端に相對し跨

     り交互に上下する遊戲。

 

[やぶちゃん注:鳳作畢生の句群であれば、全体を示した上で、最後に煩を厭わずに一括注することとする。まず、掲載誌であるが(発行は総て昭和九(一九三四)年。『現代俳句』は底本に示されたクレジットを号数と推定した)、

 滿天の星に旅ゆくマストあり   『天の川』十月/『傘火』十月

 船窓に水平線のあらきシーソー  『傘火』十月

 しんしんと肺碧きまで海のたび  『天の川』九月/『傘火』十月

 幾日はも靑うなばらの圓心に   『天の川』十月/『現代俳句』三号

 幾日はも靑海原の圓心に     『傘火』十月

 甲板と水平線とのあらきシーソー 『傘火』十月

である(最後の句の「註」も当然、『傘火』十月のもの)。

 以上から、この「海の旅」という前書きを持つ決定稿は『傘火』のそれと考えてよく、それは以下のようになる。

 

   海の旅

 

滿天の星に旅ゆくマストあり

 

船窓に水平線のあらきシーソー

 

しんしんと肺碧きまで海のたび

 

幾日はも靑海原の圓心に

 

甲板と水平線とのあらきシーソー

 (註) シーソーは材木の兩端に相對し跨り交互に上下する遊戲。

 

なお、「幾日はも靑海原の圓心に」の「はも」は終助詞「は」+終助詞「も」で、深い感動(~よ、ああぁ!)を表わす。

 これらとの連関性が、前月の「浪のり」の句に強く認められる(しかもそこには「しんしんと肺碧きまで海のたび」がプレ・アップされてもいる)ことから、やはり「浪のり」は乗船している船の波乗り、ピッチングであるということになる。お騒がせした。

【2013年3月30日追記】年譜によれば、この昭和九(一九四三)年十月、沖繩県立宮古中学校から鹿児島県立第二中学校教諭として転任しており、この時、俳号を「雲彦」から「鳳作」と改めたとある。また、当該年の年譜の転任記事の後には、

   《引用開始》

現在の宮古高校行進曲は、作詞作曲とも鳳作である。

    宮中行進曲

  一、香りも高き橄欖の

      ときはの緑かざしつつ

    希望の満てる清新の

      我が宮中を君知るや(以下六連まで続く)

   《引用終了》

とある(現在、個人的にこの楽曲については沖縄県立宮古高等学校に問い合わせを行っている)。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅷ 信濃抄四(4)



角あはす雄鹿かなし道の端

 

木犀の香や縫ひつぎて七夜なる

 

後の月縫い上げし衣かたはらに

 

[やぶちゃん注:「後の月」言わずもがな乍ら、「のちのつき」とは陰暦八月十五夜の月を初名月というのに対する九月十三夜の名月。十三夜月。十三夜。秋の季語である。]

杉田久女句集 157 娘たち――昌子と光子を詠む

 

椿色のマント着すれば色白子

    

[やぶちゃん注:「色白子」は「いろじろご」と読んでいよう。]

 

遊學の我子の布團縫ひしけり

 

[やぶちゃん注:【2014年6月3日 本注全面改稿】これはずっと後に載る「遊學の旅にゆく娘の布團とぢ」の極めて酷似した類型句で、しかも「遊學の旅にゆく娘の布團とぢ」の方は角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」で『〈昭和四年――昭和十年〉(創作年月未詳)』のパートにある。長女昌子は明治四四(一九一一)年八月二十二日生、次女の光子は大正五(一九一六)年八月二十二日生で、後に「光子県立小倉高女卒業」と前書する昭和八(一九三三)年作の「靑き踏む靴新らしき處女ごころ」以下二句が載ることから、昭和四(一九二九)年時点でも昌子満十八歳・光子十三歳である。

 さてここからちょっと迂遠な注になる。実は当初私は以上の事実から次のように注を続けていた。

『従って、この「遊學」というのが泊を伴う修学旅行のことであり、久女の縫っているのがそれに持参する蒲団であるとすればそれは光子の修学旅行である。高等女学校の修学旅行は四年で実施されたという体験者の記載がネット上にあるから、光子の高等女学校四年は昭和七(一九三三)年となり(高等女学校は五年制)、本句の創作年代が限定出来ることになる。また、当時ならば蒲団持参であったとして不思議ではない。穿って考えると、前の句の鮮やかな紅い「椿色のマント」を「着すれば色白子」に見えるというのは実は修学旅行のための装いででもあったものかも知れぬ。』

 ところが底本全集第二巻に載る昭和八(一九三三)年の「日記抄2」を見ると、小倉高等女学校を卒業後すぐに次女光子は合格していた東京の女子美術専門学校(現在の女子美術大学)に「遊學」していることが分かった(坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば夫宇内の強い『反対を押し切って』『送り出した』とある。以下の日記でもそれが分かる)。そしてその日記には冒頭(この部分は日付が入っていないが二月三日以前)から彼女の学資のための倹約の誓いが記され、

 

遊學の春まつ娘なり靴みがく

 

遊學やかゝとの高き春のくつ

 

という句が載る一方、三月五日に『ホトトギス』雑詠欄へ投句したものの一句として、

 

ひなかざる子の遊學は尚ゆりず

 

とある(「ゆりず」は「許りず」で下二段活用「許る」は、許される・許可が下りるの意味の古語である)。次に続く日附不詳(三月六日から十二日の間)の項に、『此頃光子出立のしたくのフトンわたぬき』『洗濯、テガミ、セン句、歳時記しらべ等にて、十二時前ねし夜はまれ也。多忙多忙』とか、『光子』『フトン布地五円也』とあり、三月二十日の条には『光子遊學の三年間は世とたち、習字と藝術著作等自分も勉強して暮さう。一点に集中すべし。』、続く三月二十一日の条では『光子の遊學問題を中心にして、夫との爭ひますます深刻。金も百円以上に入用なのに、夫はがみがみ叱言と朝夕の怒罵叱言のみにて、一銭も出してくれぬから私はしかたないなけなしの預金をはたいて皆出してやらねばならぬ。私はどこまでも光子の味方だ。いのりてすゝむ所、よき方法あらんか?』と綴る。光子の東京への「遊學の旅」立ちは三月二十八日であったが、『光子東上。/夜來より風雨はげしくかつ夫の異議出たれば、光子もしくしくなく。』『「いんきな出立ね」と光子のしづむもあはれ也。』光子を送った後、『誰もゐぬ家へ十二時歸宅して心うつろ、淋しさにたへず。』とある。また、三月二十九日の条にも後送の荷作りが語られ、『荷ごしらへす。/まだ布団團袋一個のこしあり。カルトンを入れる。』とまたしても「蒲團」が出るのである。以上からこの句は東京での生活のために母久女が布団を縫っているのであった。都合三度に亙ってこの注は改稿した。お騒がせの段、深謝するものである。]

 

六つなるは父の布團にねかせけり

 

[やぶちゃん注:この句は編年式編集の角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」には大正七(一九一八)年のパートに載る。前句の注に示した通り長女昌子は明治四四(一九一一)年八月二十二日生であるから、この句は前年大正六年末の冬(季語「布團」)の作と考えられる(満年齢で昌子六歳。次女光子は大正七年では数えでもまだ三歳である)。実は私は当初、作句年代の同定をいい加減にし、これらを完全な連作と思い込んだ上、さらに救いようもなく、「遊學」を姉昌子の方の修学旅行だと思い込み誤認し上に、

   *

……姉が修学旅行でいなくなって一人では寝られぬと光子がむづがるから「父の布團にねかせ」たと本句を読むなら、これら三句と次の夫婦で「右左に」一人次女の光「子をはさみ寢る」という一句は実は四枚の組写真、連作と読めるようになっているように私には感じられる。二句後に続く風邪をひいた娘(これも次女光子であろう)の連作の方にこれらを属させるとする考え方も出来ようが、であるならば、風邪をひいていることをこの句で示さなければ連作句としてはおかしい、失敗となると私は思う。久女にしてそんなミスはしない。大方の御批判を俟つものではある。

   *

などという(トンデモ)解釈をしていた。これはもうお笑いの世界であった。……]

 

右左に子をはさみ寢る布團かな

 

風邪の子や眉にのび來しひたひ髮

 

瞳うるみて朱唇つやゝか風邪に臥す

 

熊の子の如く着せたる風邪かな

 

その中に羽根つく吾子の聲すめり

 

笑み解けて寒紅つきし前齒かな

杉田久女句集 156 足袋



軒の足袋はづしてあぶりはかせけり

 

白足袋に褄みだれ踏む疊かな

 

絨毯に足袋重ねゐて椅子深く

2014/03/28

杉田久女句集 155 足袋つぐやノラともならず教師妻



足袋つぐやノラともならず教師妻

 

[やぶちゃん注:久女一番の代表句と言ってよい。それはスキャンダラスなものであり、そうしてあらゆる意味で久女伝説の濫觴ともなった句ではある。底本の久女の長女石(いし)昌子さんの編になる年譜の大正一一(一九二二)年の項によれば、『二月、「冬服や辞令を祀る良教師」(ホトトギス2)の句をめぐり家庭内の物議をかもす。このときの発表句は次の五句』として句を掲げる(以下、恣意的に正字化した)。

 

足袋つぐやノラともならず教師妻

 

遂に來ぬ晩餐菊にはじめけり

 

戲曲讀む冬夜の食器漬けしまゝ

 

枯れ柳に來し鳥吹かれ飛びにけり

 

冬服や辭令を祀る良教師

 

この連作の特に奇数句の流れは確かに鮮烈である。

 さて、大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)によれば、昭和二七(一九五二)年角川書店刊の「杉田久女句集」には、

 

足袋つぐや醜ともならず教師妻

 

として収めている、とある。ところが、私の所持する立風書房版全集には、この句形が何処にも載っていないのである。これは如何にも不思議なことである。しかも、この初出形を知る人は少ないと思う(不肖、私も今回、この電子化作業の中で実は初めて知った)。以下、この一句について徹底的に追究した倉田紘文氏の素晴らしい論文「杉田久女の俳句――ノラの背景――」(PDFファイル)に拠りながら簡単に述べたい。

 まず、この句は大正一一(一九二二)年の『ホトトギス』二月号に発表された句であるが、それが「杉田久女句集」(昭和二七(一九五二)年角川書店刊)では中七が、かく「醜ともならず」と推敲された形で入集されている、とある。ところが、再版本(昭和四四(一九六九)年角川書店刊)や私が底本としている立風書房全集では、初出の「ノラともならず」に再び改められている、とある。倉田氏は『久女は昭和二十一年に五十六歳で没しており、昭和二十七年の句集で「醜ともならず」となっていることについては、同句集が久女生前に自ら編集されていたということで理解できるが、再版及び全集で「ノラ」に改められたいきさつは分らない』と記しておられる。これについて倉田氏は注で小室善弘「鑑賞現代俳句」の言を引き、「ノラともならず」の斬新な措辞には及ばない、というような意見によって再び改められたのであろう、と記してはおられるが、後の全集に「醜ともならず」の句形が全く示されていないというのは、頗る奇怪と言わざるを得ない。また、作者の没後に『「ノラともならず」の斬新な措辞には及ばない、というような意見によって再び改められ』るなどということが行われているとしたら、これは文芸創作上、とんでもない行為ということになり、そう指示したのが何者であるのかは明らかにされなければならない。

 考証部分はリンク先の原典で確認して戴くとして(大変興味深い)、まず倉田氏は本句が大正一〇(一九二一)年作と同定され、さらに「ノラ」は実はイプセンの「人形の家」の主人公であると同時に、当時、スキャンダラスな事件として新聞で報道され巷を騒がせた夫との離縁状の公開、そして情人宮崎龍介(辛亥革命の志士宮崎滔天の長男)へと走った歌人柳原白蓮その人であった、という極めてリアリズムに富んだ魅力的な推理を展開しておられる。最後には更に、この句の製作時期を大正一〇(一九二一)年の冬十一月初旬から十二月初旬(もっと厳密にいうなら立冬の日から投句稿が十二月十五日までに『ホトトギス』に必着するまでの閉区間)でなくてはならないと、快刀乱麻切れ味鋭く同定なさってもおられるのである(個人的にこういう拘った手法はすこぶる私好みである)。

 ここで再び大野林火氏の評釈に戻ろう。氏はまず、この句集の句の『「醜」の意曖昧であ』るとして、「ノラ」の方を提示句としては採っている。これは無論、先の小室氏の謂いとともに肯んずるものではある。しかし彼は続いて、以下のように語り始めるのである(下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

 この句については久女の略歴に触れねばならない。煩をいとわず記せば、明治二十三年鹿児島に生れた赤堀久女は、幼時、大蔵省官吏であった父の任地、琉球、台湾等に転住、のち、束京に移り、名門お茶の水高等女学校を卒業した。同級にのち理学士三宅恒方に嫁いだ加藤やす子がいた。やす子の文才は同輩に重きをなし、久女はひそかにやす子にライバル意識を燃やした。卒業翌年(明治四十二年)、上野美術学校群画科出身の杉田宇内と結婚、収入は乏しくも、苦しくも、芸術に生きる画家の妻たり得たよろこびを久女は持った。結婚と同時に杉田宇内は小倉の中学の図画の教師となった。久女は芸術家の妻でありたかったが、良人の宇内はただ謹直な図画の教師であり、一枚の絵も描こうとしなかった。久女はそれを責めたが、良人は謹直な教師であることに満足した。久女は金子元臣の注釈つきの源氏物語をひろげ、ノートに注釈と首引きで意訳の文章を書き綴ってみずからを慰める。しかし、良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう遺子石昌子は「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」(『久女句集』あとがき[やぶちゃん注:ここは底本では割注でポイント落ち二行。])とその幼時を語るが、その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないかそのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する

 この句は田舎教師の妻として、凡々の日夜を送り、そこから脱しようとしない自分を嘲る句だが、その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろういずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり、それが有名にもしたのだが、親しめない。「足袋つぐや」に一抹のあわれさがただようにしても――。しかし、久女を知るには欠くことの出来ない句といえようか。

   《引用終了》

これをお読み戴いて、あなたはこの句の評釈が正統にして冷静なアカデミックな(私はアカデミズムをせせら笑う人間ではあるが、少なくともこれは俳句評論という公的認知の頂点にある書籍であることは疑いようがない。実際に多くの国語教師がこれを虎の巻とし、恰も自分が鑑賞したかのように(!)俳句の授業を実際にしている事実をかつて高校の国語教師であった私はよく知っている。詩歌ぐらい、一般の国語教師が避けようとする苦手な教材はないと言ってよく、実際に詩歌教材に関してオリジナルな授業案を創れる国語教師というのは一握りしかいないと思う。感想を書かせてお茶を濁す、やらずに読んでおきなさいというのはまだよい方で、受験勉強には不要という伝家の宝刀を抜いて堂々とスルーするのを正当化する同僚も悲しいことに実に多かった)「近代俳句の鑑賞と批評」と名打つに足るものであると思われるか? 私は断じて到底肯んじ得ないのである! それはまず、大野氏の引用が、大野氏自身が自分の中に創り上げてしまった歪んだ久女像に合わせて、極めて恣意的に情報のパッチ・ワークを行っているという事実に於いてである。

 氏は最初に、全集年譜にも載らず、倉田氏の緻密な論文にさえも出ない、加藤(三宅)やす子を登場させて、この句の遙かな淵源としている。三宅やす子(明治二三(一八九〇)年~昭和七(一九三二)年)は作家で評論家、本名は安子。京都市生。京都師範学校校長加藤正矩の娘で久女とは同い年である。お茶の水高等女学校卒業後、夏目漱石・小宮豊隆に師事、昆虫学者三宅恒方と結婚するも、大正一〇(一九二一)年に夫が死去すると文筆活動に入って、大正十二年には雑誌『ウーマン・カレント』を創刊、作家宇野千代とも親しかった人物である(以上はウィキの「三宅やす子」に拠る)。この句は先に示した通り、大正十一(一九二二)年二月の発表句であり、それは確かに三宅やす子の文壇デビューと軌を一にしているようには見える。新しい女性の文化進出の旗手として登場してくるかつてのライバルやす子を、この時、小倉の中学教師の妻であった久女が強く意識したということは十分あり得る話ではある。しかし何より二人が同級生であったのは東京女子高等師範学校附属お茶の水高等女学校を卒業した明治四〇(一九〇七)年以前の話で(大野氏は久女の卒業年を一年間違えているので注意)、ここまでに実に十五年以上の隔たりがある。この句の情念が、その後、連絡も文通もなかった(と思われる)、十五年も前の特定の同級生に対するライバル感情を濫觴とする、などという仮説は私なら鼻でせせら笑う(後文で「その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろう」と述べておられるが、これは一体、如何なる一次資料から論証されるものなのか? 亡き大野氏に訊いてみたい気が強くする。そのような特殊な偏執的淵源があるとすれば倉田論文も当然それを示さないはずはない)。ともかくもこの三宅やす子を枕、否、額縁とするこの評釈の論理展開や論理的正当性は――その推理の出典や情報元の提示が殆んどない上に、如何にもな推量表現だらけの文末を見ただけでも――失礼乍ら、どう考えても全くないと私には思われるのである。

 次に、夫宇内が美術の教師でありながら一枚の絵も描こうとせず、「久女はそれを責めたが、良人は謹直な教師であることに満足した」とあるが、これはどうも、久女の小説「河畔に棲みて」の「十一」辺りからの謂いであろうということに注意せねばならない。同小説は明らかなモデル私小説ではある。しかし『小説』である。大野氏は恰もこれらを何らか客観的な事実記録や杉田家をよく知る親族知人の確かな証言によって書いているかのように読める(但し、私は次に示す二冊の「杉田久女句集」に石昌子さんの書いた文章を読んでいないのでその中にそうした叙述が全くないと断言は出来ない)。しかし、続く叙述から見えてくるのは、これらは寧ろ、既に出来上がってしまっていた久女伝説に基づく尾鰭や曲解・噂の類いを都合よく切り張りした謂いであるという強い感触なのである。しかもそこで大野氏は「満足した」「良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう」と鮮やかな断定と、久女の心に土足で踏み込んで指弾するような推定を附しては、結局、読者をして――我儘な久女は強烈な欲求不満のストレスを抱え夫を追い詰め、病的なまでに只管にその利己的な鬱憤を溜めに溜めていったのだ――と思わせるように仕向けているとしか読めない点に注意しなければならない。

 続く長女昌子さんの引用であるが(この割注の書名は正確ではない。句集名は「杉田久女句集」である。また、ここには「あとがき」とあるから、これは大野氏の著作が後に改訂されたものと考えれば(私の所持するものは昭和五五(一九八〇)年刊の改訂増補八版である)、これは昭和二七(一九五二)年の角川書店版「杉田久女句集」ではない。何故なら、その巻末の石昌子さんの文章は「あとがき」という題名ではなく「母久女の思ひ出」であり、「あとがき」と題する昌子さんのそれは昭和四四(一九六九)年の角川書店版「杉田久女句集」の巻末にあるものだからである。但し、残念ながら私は両原本ともに所持しないので内容の確認は出来ない)、ここで大野氏は昌子さんの幼時の記憶として「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」という箇所をのみ採り、そこから畳み掛けるように「その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないか。そのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する」と、またしても久女の異様なヒステリー状態の想像を安易に開陳し、しかも「推察」という語で読者をナーバスで病的な久女像へと確実に導こうとしているのが見てとれる。

 ところが翻って、私が底本としている立風書房版全集の石昌子さんの編になる、まことに素晴らしい年譜の叙述を見ると、これ――相当に印象が違う――のである。これは無論、永年、異常なまでに歪曲された久女伝説に基づく久女像を正そうと努力されてきた昌子さん(底本全集出版の一九七九年当時で既に七十八歳であられた。ネット上の情報では既に鬼籍に入られている)の中で、美化された母親像への正のバイアスがかからなかったとは言わない。昌子さんご自身の人生経験も当然そこに加わった述懐ともなってはいよう(因みに御主人の石一郎氏(故人)はスタインベックの「怒りの葡萄」の翻訳で知られる米文学者)。しかしともかく、その叙述はどうみても大野氏が誘導するような――内部崩壊寸前の愛情の通わぬ夫婦や狂気へと只管走る悲劇の才媛の物語――なんぞでは、これ、全くないのである。

 幾つかの記載を見てみよう。

 昌子さんの母の記憶は『玩具を玩具箱にしまってくれた母、その箱が張り絵で美しかったこと、破いた絵本を和綴じにして人形の絵など描き、ワットマン紙で表紙をつくってもらった』という映像に始まり、小倉での生活は『この頃の宇内は釣やテニスを趣味とし、玄海の夜釣や沖釣などをたのしんだ。田舎育ち』(宇内の実家は愛知県西加茂郡小原)『の野性的な一面があり、久女の方はおだやかな人といえた』(大正三(一九一四)年の項)。翌五年から俳句にのめり込んでいった久女は、大正六年一月の『ホトトギス』台所雑詠に初めて五句掲載、虚子や鳴雪の好評を得て、大正八~九年まで句作はすこぶる順調であったが、他の注で述べるように大正九年八月の実父の納骨に赴いた信州で腎臓病を発症、東京の実家へ帰ったのを機に離婚問題が起きた。同年の項には『小倉での生活が痛ましすぎると実家では考えた。旅暮らしの家庭生活に波風が多く、二十代は泣いて暮らしたと久女はよく言ったが、編者にはおとなしい静かな印象しか残っていない』(当時久女三十歳)とある。翌大正十年七月に小倉へ戻るが、その項には以下のようにある(下線やぶちゃん)。

   《引用開始》

編者の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持を夜昼責めたてた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的な単純なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている。

   《引用終了》

「怒れば久女の方が強かった」という辺りはご愛嬌であるが、寧ろ、昌子さんはちゃんと真実をなるべく公平に語ろうとしていることが、ここからも逆に垣間見れるとも言えよう。これ以降、久女のキリスト教への接近・宇内の受洗・久女の教会からの離反、などが記されるが省略する(また、久女の人生を大きく狂わせ、まさに天地が裂けたに等しかった『ホトトギス』除名(昭和一一(一九三六)年十月)もあるが、これも宇内との関係ではないからこの注釈では記さない)。この頃から逝去するまでの部分の年譜上には、宇内との軋轢や具体な記載は殆んど書かれていない。敢えて附記しておくなら、昌子さんは昭和一六(一九四一)年に次女光子さんの結婚式のために上京して来た久女について、『精神に精彩なく、悲痛で胸が痛んだ』と記され、また最後の対面となった昭和一九(一九四四)年七月の上京(実母赤堀さよの葬儀のため)対面の項には、『何時にもなくあせりも消えて、落ちついていた』『「俳句より人間です」「私は昌子と光子の母として染んでゆこうと思う」「子供を大切に育てなさい」「もし句集を出せる機会があったら、死んだ後でもいいから忘れないでほしい」といっ』たとある。『自分に好意を持たない人とは没交渉だったにちがいないが、編者宅では子供を遊ばせてくれ、子どもにやさしかったし、「子供をあまり叱ってはいけない。のびのびした子に育てるように」と言いおいて帰った』とある。翌昭和二十年十月末に福岡市郊外大宰府の県立筑紫保養院に入院、翌昭和二一(一九四六)年一月二十一日、この病院で腎臓病の悪化により久女は亡くなった。満五十五歳であった(久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日生まれである)。夫宇内は小倉を引き上げて実家の愛知に戻ったがその際、久女の遺品は句稿・文章・原稿などを含め、宇内の手で収集整理がなされていた。この事実、夫宇内の優しさもしっかりと押さえておくべきことであろう(宇内は実際、当時の教え子たちからも非常に人気があったという)。宇内は昭和三六(一九六二)年五月十九日に七十八歳で亡くなった。

 さて、ここで、大野氏の物言いと昌子さんのこれらの叙述とを煩を厭わず再掲して比較してみよう(大野氏の割注と改行は除去した)。

《石昌子さんの叙述》

編者の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持を夜昼責めたてた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的な単純なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている。

《大野林火氏の叙述》

しかし、良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう遺子石昌子は「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」とその幼時を語るが、その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないかそのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する。この句は田舎教師の妻として、凡々の日夜を送り、そこから脱しようとしない自分を嘲る句だが、その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろういずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり、それが有名にもしたのだが、親しめない

   *

 前者は親しく久女の傍にいた肉親である長女の生(なま)の証言である。後者は赤の他人の、スキャンダラスなものを女に帰する傾向の強い普遍的な男性の属性を有する一人の男の(それが「俳人」であろうが何であろうが実は余り関係ない)、不完全な伝聞と、ただの憶測に基づく記述である。

 先に述べた昌子さんの母に対するバイアスを考慮に入れるとしても、この叙述は同一の夫婦の心的複合を叙述しながら、ほぼ正反対のそれとなっているといってよい。そうしてこれは、単に――母と娘対女と男――の感じ方の相違――どころの騒ぎではなく(但し、女流俳人に対する評価にはこの評者の側の性差の問題が「絶望的」なまでに影響すると私は思っている。これは女流歌人や小説家等よりも、シンボリックな要素が大きい俳句の場合、遙かに「絶望的」に顕著なのである)、明らかに――この大野林火氏の認識そのものに致命的な誤りがある――としか私には言いようがないのである。

 大野林火(明治三七(一九〇四)年~昭和五七(一九八二)年)は、まさに昌子さんの言った「亭主関白ともいえる時代」に生きた〈男〉の俳人である。そうした彼にして「いずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり」「親しめない」という如何にもなそっけなく、乱暴な評言は反対に実に私には腑に落ちるのである。その代わりに、異様なまでに、ここまでの枕や分析が長いのは、まさに〈男〉の俳人としての大野が(単なる俳人としてではない!)〈女〉としての久女(「女の俳人としての久女」ではない!)を断罪しているに過ぎぬからである。私は過去現在未来を通して、少なくともこの句に対する大野氏のこの「鑑賞と批評」は「鑑賞」なんぞでも「批評」なんどでもない、只管、バレだらけになった小道具をふんだんに使った、おぞましく誤った、男の女への、物言いの安舞台でしかないと断ずるものである。]

杉田久女句集 154 炭つぎ



炭つぐや髷の粉雪を撫でふいて

 

炭ついでおくれ來し人をなつかしむ

 

[やぶちゃん注:この二句、中七の確信犯の字余りが如何にも久女らしく、心地よい。しかも……「つぐ」が――次の驚天動地の――あの句の――凄絶な予兆となっている――]

杉田久女句集 153 櫛卷に目の緣黑ずむ冬女



櫛卷に目の緣黑ずむ冬女

 

[やぶちゃん注:大正九(一九二九)年三十歳の時の句。「櫛卷」女性の髪の結い方の一つで、鬢(びん)・髱(たぼ)・前髪・髷(まげ)などを紐で結んだり成形することをせずに全体に一体として崩し、その束ねた髪の毛先を一枚の櫛の歯に巻きつけて、頭頂部で束ね留めただけの簡単なもの。洗髪後などの仮の髷。若い女は櫛の棟(むね)を上にして根を高く作り、年増は櫛の歯を上に根は幾分低く結った。]

かれの奥さん   山之口貘

 かれの奥さん

 

煙草を吸えば吸うたんびに

吸いすぎるだのなんだのと来て

いまにも肺癌とかに

なるみたいなことを云い

酒を飲めば飲むたんびにだ

飲みすぎるんだのなんだのと来て

すぐにも胃潰瘍だか胃癌だかで

死ぬより外にはないみたいなことを云い

帰りが夜なかになったりすると

おそすぎるんだのなんだのとはじまって

隠し女があるんだのとわめき立て

安眠の妨害をするとのことなのだ

それでかれは昨夜もまた

なぐりつけたと云うのだが

亭主のふるまいはとにかくとしてだ

よく似た奥さんもあるもので

うちのだけではないようだ

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部を手直しした】初出は昭和三六(一九六一)年十二月号『小説新潮』。

バクさんには

だからなんだと云われるだろうが

バクさんは

この二年後の一九六三年七月十九日に

 

胃癌であの世にいってしまったのだ――]

十二月のある夜   山之口貘

 十二月のある夜

 

十二月のある夜 金のことで

ホテルのマダムを詩人が訪ねた

マダムはそっぽを向いて言った

お金のことなんて

詩人らしくもないことです

俗人の口にするみたいなことを

詩人がおっしゃるもんじゃないですよ

お金に用のないのが詩人なんで

詩人は貧乏であってこそ

光も放ち尊敬もされるんです

詩人はそこでかっとなり

借りに来たことも忘れてしまって

また一段と光を添えていた


[やぶちゃん注:【2014年7月追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を追加した。】初出は昭和三六(一九六一)年十二月十五日号『週刊朝日』及び同年十二月十五日附『琉球新報』(但し、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題に掲載紙の末尾に『週刊朝日十二月十五日号より』という記載があり、実際にはクレジット以前に発行された前者からの転載であるということが分かる)。草稿の詩題は「十二月のある日」であるらしいことが松下氏「稿本・山之口貘書誌(詩/短歌)」のデータにある。]

元旦の風景   山之口貘

 元旦の風景

 

正月三ヵ日はどこでも

朝はお雑煮を

いただくもので

仕来たりなんじゃありませんか

女房はそう言いながら

雑煮とやらの

仕来たりをたべているのだ

ぼくはだまって

味噌汁のおかわりをしたのだが

正月も仕来たりもないので

味噌汁ぬきの朝なんぞ

食ったみたいな

感じがしないのだ


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三七(一九六二)年一月号『全繊新聞』。]

ある家庭   山之口貘

 ある家庭

 

またしても女房が言ったのだ

ラジオもなければテレビもない

電気ストーブも電話もない

ミキサーもなければ電気冷蔵庫もない

電気掃除機も電気洗濯機もない

こんな家なんていまどきどこにも

あるもんじゃないやと女房が言ったのだ

亭主はそこで口をつぐみ

あたりを見廻したりしているのだが

こんな家でも女房が文化的なので

ないものにかわって

なにかと間に合っているのだ


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、初出注を追加した。】初出は昭和三七(一九六二)年三月号『電信電話』。同誌は日本電信電話公社総裁室広報課の月刊誌。]

首をのばして   山之口貘

 首をのばして

 

出版記念会と来ると

首をすくめてそれを見送り

歓送会を来ると

首をすくめてそれを見送り

祝賀会と来ると

首をすくめてそれを見送り

歓迎会とくると

首をすくめてそれを見送り

会あるたんびに

首をすくめては

いろんな会を見送って来た

ある日またかとおもって

首をすくめていると

いいえお顔だけで結構なんです

会費の御心配など

いらないんですと言う


[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三七(一九六二)年六月号『小説新潮』。]

核   山之口貘

 核

 

もうお年ですからと言えば

なにがこの青二才がと

老人は怒ってしまったのだが

年甲斐もない顔をしてまで

握っていたいもの

それはつまり若さなのだ



[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和三七(一九六二)年十月二十九日号『全繊新聞』。同誌は全国繊維産業労働組合同盟の中央機関紙。

 私は思うのだが――こう言い切れるところこそ――バクさんの若さ――詩人たる由縁――なのだなぁと――思うのだなぁ――]

飯田蛇笏 靈芝 昭和七年(七十二句) Ⅴ



花とつて臘白の頰や墓詣

 

[やぶちゃん注:「臘白」不詳。従って句意汲めず。識者の御教授を乞う。蛇笏に散見されるホラー調の句から考えれば、凄絶に抜けるような白さを持った墓参の女の頰を「白蠟(びゃくろう)」と表現したものとも考えたが、底本自体がこの「臘」であること(「臘」に「蠟」の意はない)、文字列が「臘白」であるのが不審。]

 

盆過ぎのむらさめすぐる榛の水

 

[やぶちゃん注:「榛」は音「ハン」、落葉低木のブナ目カバノキ科ハシバミ属 Corylus ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を指すが、実は本邦ではしばしば全くの別種である落葉高木のブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica に誤って当てる。この光景は村雨の後に垂れ落ちてくる雨滴を詠んでいるもののように思われ、後者を指しているか。]

 

瀧川に沿うたる旅や蟬しぐれ

 

夏菊に透垣をうつ狐雨

 

神農にさゝげて早き胡瓜かな

 

[やぶちゃん注:この句、篠原鳳作昭和八(一九三三)六月発表の、彼の俳句開眼の句とされ、代表作としても知られ、私も好きな一句(リンク先は私の電子テクスト)、

 

 炎帝につかへてメロン作りかな

 

と非常によく似ているように思われる。これはちょっと偶然とは思われない。鳳作のそれは、実はこの蛇笏のモノクロームの画像を、確信犯で総天然色ハレーション化させたインスパイアだったのではあるまいか?]

 

砂丘沃ゆ西瓜の黝き蜑の晝

 

[やぶちゃん注:「沃ゆ」は「こゆ」(肥ゆ)、「黝き」は「くろき」と訓じていよう。「黝」は青黒い色をいうから色彩は自然。この句、前の句と初出誌が同一かどうかは分からぬが、どうであろう、

 

神農にさゝげて早き胡瓜かな

砂丘沃ゆ西瓜の黝き蜑の晝

炎帝につかへてメロン作りかな

 

と三句並べてみると、ますます私には私の推測が確かなものに思われてくるのだが……。]

 

採る茄子の手籠にきゆアとなきにけり

 

葉びろなる茄子一ともとの走り花

 

[やぶちゃん注:「走り花」不詳。茎から逸れて出た花か? 早咲きの謂いでは実がなっているからおかしい。識者の御教授を乞うものである。]

 

格子戸に鈴音ひゞき花柘榴

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年八月

   ひまはり

向日葵の照り澄むもとに山羊生るる

 

向日葵と蟬のしらべに山羊生れぬ

 

向日葵の向きかはりゆく靑嶺かな

 

向日葵の日を奪はんと雲走る

 

[やぶちゃん注:以上の四句は八月発行の『天の川』及び同月発行の『傘火』掲載の句であるが、実は底本ではこれらの前の七月発行の『天の川』に載る「向日葵は實となり實となり陽は老いぬ」の前書「ひまわり」が、これら四句を含む連作の前書である旨の編者注記が載る。しかし、月違いの発表句の連作、それも「向日葵は實となり……」一句だけを載せて『連作』というのは如何にも解せない。さらに言えば、向日葵連作なら「向日葵は實となり……」の前にある「夕立のみ馳けて向日葵停れる」(更に言わせてもらうならその二句前の「向日葵の照るにもおぢてみごもりぬ」も)「ひまわり」の連作中の句であると言っておかしくない(何と言ってもこれらは総て同じ七月号『天の川』所載句なのである)。これは恐らく、七月号の「向日葵は實となり……」の単独一句の前には「ひまわり」と言う前書があり、そして改めて八月号のこの四句の前にも今度は連作としての前書「ひまわり」があるのであろう。全集として纏める際の手間を省いたものであろうが、如何にも違和感のある仕儀と言わざるを得ない。そこで私のテクストでは改めて「ひまわり」という前書を附させて貰った。[やぶちゃん注:以上の四句は八月発行の『天の川』及び同月発行の『傘火』掲載の句であるが、実は底本ではこれらの前の七月発行の『天の川』に載る「向日葵は實となり實となり陽は老いぬ」の前書「ひまわり」が、これら四句を含む連作の前書である旨の編者注記が載る。しかし、月違いの発表句の連作、それも「向日葵は實となり……」一句だけを載せて『連作』というのは如何にも解せない。さらに言えば、向日葵連作なら「向日葵は實となり……」の前にある「夕立のみ馳けて向日葵停れる」(更に言わせてもらうならその二句前の「向日葵の照るにもおぢてみごもりぬ」も)「ひまわり」の連作中の句であると言っておかしくない(何と言ってもこれらは総て同じ七月号『天の川』所載句なのである)。これは恐らく、七月号の「向日葵は實となり……」の単独一句の前には「ひまわり」と言う前書があり、そして改めて八月号のこの四句の前にも今度は連作としての前書「ひまわり」があるのであろう。全集として纏める際の手間を省いたものであろうが、如何にも違和感のある仕儀と言わざるを得ない。そこで私のテクストでは改めて「ひまわり」という前書を附させて貰った。

 なお、これらの「向日葵」連作は鳳作にとってエポック・メーキングなものとなった。前田霧人氏の「鳳作の季節」によれば、『天の川』の編集責任者であった北垣一柿が『天の川』八月号の「軽巡邏船(一)」でこの第一句を「雲彦時代―断じて夢ではなさそうである。」と絶賛、『むき[やぶちゃん注:太字は引用元では傍点「ヽ」。]になってしかも句としてのこの静謐、用語、音律、共にきわだった特異性を有しない。此処が私にとっては尚更うれしいのである』と述べ、『次いで、波郷が「俳句研究」十月号の「『天の川』に与う」で、これら一連の向日葵の句を取り上げ、一柿の評に共感を示すと共に、「晦渋ならざる天の川作家とは雲彦[やぶちゃん注:太字は引用元では傍点「・」。]氏の如きをいうのである。」と評価する。「馬酔木」、「天の川」が甘美・晦渋論争で応酬している間も、若い波郷と雲彦はこうしてお互いを認め合う。雲彦の作品が「傘火」、「天の川」以外から評価を受けるのは恐らくこれが初めてであり、しかも、それが総合誌「俳句研究」

に掲載されたのである。彼の名が全国に知られるようになる端緒であった』と記しておられる。

 

   山路

草苺あかきをみればはは戀し

 

[やぶちゃん注:「草苺」バラ目バラ科バラ亜科 Rubeae 連キイチゴ属 Rubus subg. Idaeobatus 亜属クサイチゴ Rubus hirsutus 。グーグル画像検索Rubus hirsutus。私も懐かしい……白い花の甘い小さな赤いつぶつぶの実……裏山でよく採って食べたね、母さん……]

 

一碧の水平線へ籐寢椅子

 

[やぶちゃん注:以上、六句は八月の発表句。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅶ 信濃抄四(3) 增面に八月の月の落ちかかる

  奈良二月堂に靑衣女人の能を觀る

增面に八月の月の落ちかかる

 

[やぶちゃん注:「靑衣女人の能」「靑衣女人」は「しやうえによにん(しょうえにょにん)」と読む。これは土岐善麿作になる喜多流の新作能。不比等氏のブログ「奈良」の記事に司馬遼太郎の「街道をゆく・奈良散歩」に、まさにこの昭和一八(一九三三)年十月六日に二月堂で喜多実により演じられたとある。私は見たことはないが、これは東大寺二月堂で三月一日から十五日(旧暦では二月)に行われる修二会の中の、古いエピソードに基づくものであろう。ウィキ修二会の「大導師作法と過去帳読誦」の項に、『初夜と後夜の悔過は「大時」といわれ特別丁寧に行われ、悔過作法の後に「大導師作法」「咒師作法」を』修し、『大導師作法は聖武天皇、歴代天皇、東大寺に縁のあった人々、戦争や天災に倒れた万国の人々の霊の菩提を弔うとともに』、為政者が『天下太平、万民豊楽をもたらすよう祈願する』ものとあり、『初夜の大導師作法の間には「神名帳」が読誦される。これも神道の行事で』、一万三七〇〇余柱の『神名が読み上げられ呼び寄せる(勧請)。お水取りの起源となった遠敷明神は釣りをしていてこれに遅れたと伝えられている』。そして三月五日と十二日の二回『過去帳読誦が行われる。過去帳では聖武天皇以来の東大寺有縁の人々の名前が朗々と読み上げられる』とあって、そこに以下のようなエピソードが書かれている。

   《引用開始》

これには怪談めいた話がある。鎌倉時代に集慶という僧が過去帳を読み上げていたところ、青い衣を着た女の幽霊が現れ、

「など我が名をば過去帳には読み落としたるぞ」

と言った。なぜ私の名前を読まなかったのかと尋ねたのである。集慶が声をひそめて「青衣の女人(しょうえのにょにん)」と読み上げると女は満足したように消えていった。いまでも、「青衣の女人」を読み上げるときには声をひそめるのが習わしである。

   《引用終了》

水墨画作家杉崎泉照(せんしょう)氏のブログ「水墨画作家 杉崎泉照の日常」の青衣の女人考の記事に、『ちなみに、あからさまに名前を呼べないがかなり高い位まていった人物「藤原薬子」をわたしは挙げたが、では、このころの「礼服」を「衣服令」に照らしてみるに、「緑色」を含む「青い色」の衣は「薬子」にふさわしからぬ、低位の色』。『薬子は死後「冠位」を剥奪されているが、この「青衣の女人」という言葉が「恩赦」を表しているとすれば、「改めて低位の縹色」を身につけて修二会に参列してもおかしくないかもしれない』とある(最初の箇所の先行記事は)。日本画家であられるだけに色の問題も語っておられ、興味深い。

「增面」「ぞうめん」と読んでいるか。能面の増女(ぞうおんな)のことであろう。「イノウエコーポレーション」の「能面ホームページ」の女」に解説と写真が載る。

 さても私は奈良も能も不案内なれば、これまでと致す。]

杉田久女句集 152 唇をなめ消す紅や初鏡


唇をなめ消す紅や初鏡

杉田久女句集 151 冬川やのぼり初めたる夕芥



冬川やのぼり初めたる夕芥

 

[やぶちゃん注:私の偏愛の句。写生とは単なる実景ではない。タルコフスキイ風に言えば、それをスカルプティング・イン・タイムする瞬間の詩人の心象として焼き付けてこそ、その風景はまさに写「生」として「生」を享けるのだと思う。]

杉田久女句集 150 枯野路に影かさなりて別れけり

枯野路に影かさなりて別れけり

杉田久女句集 149 寒林の日すぢ爭ふ羽蟲かな



寒林の日すぢ爭ふ羽蟲かな

 

[やぶちゃん注:「蟲」は底本「虫」。しかしこの句の場合、断然、「虫」ではなく「蟲」でなくてはならぬ。]

杉田久女句集 148 寒風に葱ぬくわれに絃歌やめ



寒風に葱ぬくわれに絃歌やめ

 

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年二十九の時の作。「絃歌」の「絃」は広く和楽器の琵琶・琴・三味線などの弦楽器であるが、特に三味線を弾き鳴らして歌を謳う、「絃歌の巷(ちまた)」「絃歌さんざめく傾城の街」という風に用いるような、町屋や遊郭での遊興のさまをいう。私はこの「やめ」という命令形に久女を強く感ずる。]

杉田久女句集 147 寄鍋やたそがれ頃の雪もよひ


寄鍋やたそがれ頃の雪もよひ

杉田久女句集 146 北風



更けて去る人に月よし北の風

 

北風に訪ひたき塀を添ひ曲る

 

夫留守や戸搖るゝ北風におもふこと

 

北風の藪鳴りたわむ月夜かな

杉田久女句集 145 初凪げる湖上の富士を見出でけり



初凪げる湖上の富士を見出でけり

 

[やぶちゃん注:「初凪げる」「初凪」は一般には「はつなぎ」で、元日の風も波もない穏やかな海や湖の様をいう新年の季語であるが、私は韻律上、「そめなげる」と読みたくなる。なお、逆さ富士を写すところからは富士五湖の孰れかと考えられ、そうすると在京していた大正一〇(一九二一)年の年初の嘱目吟かとも思われるが、病み上がりの久女でもあり、不審。]

桃の花 山之口貘

  桃の花

 

いなかはどこだと

おともだちからきかれて

ミミコは返事にこまったと言うのだ

こまることなどないじゃないか

沖縄じゃないかと言うと

沖縄はパパのいなかで

茨城がママのいなかで

ミミコは東京でみんなまちまちと言うのだ

それでなんと答えたのだときくと

パパは沖縄で

ママは茨城で

ミミコは東京と答えたのだと言うと

一ぷくつけて

ぶらりと表へ出たら

桃の花が咲いていた

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を一部追加した。】初出は昭和三八(一九六三)年二月二十一日号『家庭通販』(同誌と同名の信販会社の詳細は不明である)。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題によれば、『同面に岡田譲のエッセイ「桃の節句」を掲載。「桃の花」も企画のひとつとして掲載されたか』という非常に興味深い推理が記されてある。則ち、この詩は桃の節句に合わせてと所望された一種の題詠のような、バクさんの詩の中では超例外的な一篇である可能性があるということである。新全集は清書原稿によるが異同はない。

 「ミミコ」はバクさんの長女山口泉さん(昭和一九(一九四四)年生まれ)の愛称で、しばしば詩に登場するのだが、実は今日の今日まで何故「ミミコ」なのかに疑問を持ったことがなかった。後掲される詩「ミミコ」によれば、これは「隣り近所」の子供たち(?/私の推定)が「泉(いずみ)」という「子」を持たない女子名が当時はやや奇異で(?/これも私の推定)、「いずみ」という発音がやや面倒臭かったものか(?/これも私の推定)、「この子のことを呼んで」初めは「いずみこちゃん」だったものが、「いみこちやん」「いみちゃんだのと来てしまって」しまいには「泉にその名を問えばその泉が」「すまし顔して」「ミミコと答える」ようになってしまったとあるから、これは周囲の子らと泉さん本人が選び取った綽名であるらしい。実に面白い。

 本詩は前後に故郷沖繩への帰省時の感懐を詠んだ詩があることと、会話から詩中の泉さんは小学生(昭和三四(一九五九)年十二月発行の『随筆サンケイ』掲載の「娘の転校」によれば、ミミコさんは私立大学の付属小学校に通っておられたことが分かる)であるが、初出時にはミミコさんは既に十四歳(彼女は三月生まれ)になっており、以上からこの詩は有意な回想詩であることが分かる(先に示した通り、詩集刊行時に泉さんは二十歳であった)。彼女の口振りからは小学校中高学年で、昭和二十年代の終わりに相当する感じであり、バクさんの推敲が実に数年に及ぶものであることがまたここで知れるのである。]

2014/03/27

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 三ケ岡

    ●三ケ岡

眞名瀨(まなせ)の東に續ける海濱なり、葉山村に屬す、東鑑に佐賀岡と記すもの是なり。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

東鑑曰養和元年六月十九日武衛爲納凉逍遙渡御三浦上總權助廣常者依兼日仰恭會佐賀岡濱郎從五十餘人悉下馬各平伏沙上廣常安轡而敬屈于時三浦十郎義連令候御駕之前に示可下馬之由廣常云公私共三代之間未成其禮者

[やぶちゃん注:現在の一色海岸。バス停に「三ヶ丘」公営駐車場に「三ヶ岡駐車場」の名が残る。

「眞名瀨」現在は「しんなせ」と読む。森戸の北の鼻の東側の海岸をいう。サイト「花の家」のページが附近の地図も写真もあって一目瞭然。

「吾妻鏡」の引用はやや不備があり、面白い顛末部分がカットされているので、「吾妻鏡」の養和元・治承五(一一八一)年六月十九日の条全文を以下に示す。

 

〇原文

十九日甲子。武衞爲納凉逍遙。渡御三浦。彼司馬一族等兼日有結搆之儀。殊申案内云々。陸奥冠者以下候御共。上總權介廣常者。依兼日仰。參會于佐賀岡濱。郎從五十余人悉下馬。各平伏沙上。廣常安轡而敬屈。于時三浦十郎義連令候御駕之前。示可下馬之由。廣常云。公私共三代之間。未成其禮者。爾後令到于故義明舊跡給。義澄搆盃酒垸飯。殊盡美。酒宴之際。上下沈醉。催其興之處。岡崎四郎義實所望武衞御水干。則賜之。依仰乍候座著用之。廣常頗嫉之。申云。此美服者。如廣常可拜領者也。被賞義實樣老者之條存外云々。義實嗔云。廣常雖思有功之由。難比義實最初之忠。更不可有對揚之存念云々。其間互及過言。忽欲企鬪諍。武衞敢不被發御詞。無左右難宥兩方之故歟。爰義連奔來。叱義實云。依入御。義澄勵經營。此時爭可好濫吹乎。若老狂之所致歟。廣常之體又不叶物儀。有所存者。可期後日。今妨御前遊宴。太無所據之由。再往加制止。仍各罷言無爲也。義連相叶御意。倂由斯事云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十九日甲子。武衞、納涼逍遙の爲に三浦に渡御す。彼の司馬一族等は兼日(けんじつ)に結搆の儀有りて、殊に案内申すと云々。

陸奥冠者以下、御共に候ず。上総權介廣常は、兼日の仰せに依つて、佐賀岡の濱に參會す。郎從五十余人悉く下馬し、各々沙上に平伏す。廣常、轡を安じて敬屈(きやうふく)す。時に三浦十郎義連(よしつら)、御駕の前に候ぜしめ、下馬すべきの由を示す。廣常云はく、

「公私共に三代の間、未だ其禮を成さず。」

てへり。伱(しか)る後、故義明舊跡に到らしめ給ふ。義澄、盃酒垸飯(わうばん)を搆へ、殊に美を盡す。酒宴の際、上下沈醉して、其の興を催すの處、岡崎四郎義實、武衞の御水干(ごすいかん)を所望す。則ち之を賜はる。仰せに依つて座に候じ乍ら之を著用す。廣常、頗る之を嫉(ねた)み、申して云はく、

「此の美服は廣常がごときが拜領すべき者なり。義實の樣なる老者に賞せらるの條、存外。」と云々。

義實、嗔(いか)りて云はく、

「廣常、功有るの由を思ふと雖も、義實、最初の忠に比べ難し、更に對揚(たいやう)の存念有るべからず。」

と云々。

其の間、互ひに過言に及び、忽ち鬪諍(とうじやう)を企てんと欲す。武衞、敢へて御詞を發せられず。左右(さう)無く、兩方を宥(なだ)め難きの故か。爰に義連、奔(はし)り來り、義實を叱(しつ)して云はく、

「入御に依つて、義澄、經營を勵ます。此の時、爭(いかで)か濫吹(らんすい)を好むべけんや。若しや老狂の致す所か。廣常の體(てい)、又、物の儀に叶はず。所存有らば、後日を期(ご)すべし。今、御前の遊宴を妨ぐるは、太だ據所(よんどころ)無し。」

の由、再往(さいわう)、制止を加ふ。仍つて各言を罷(や)めて無爲(ぶゐ)なり。義連、御意に相ひ叶ふこと、倂(しかしなが)ら斯の事に由ると云々。

 

・「司馬」三浦介の「介」の唐名。

・「兼日」その日より前。

・「陸奥冠者」毛利(源)頼隆(平治元(一一五九)年~?)。頼朝の曽祖父源義家七男陸奥七郎義隆の三男。以下、ウィキの「源頼隆」に拠る。父義隆が相模国毛利庄を領していたことから毛利頼隆とも呼ばれる。信濃国水内郡若槻庄を領してからは若槻を号した。平治の乱で父義隆は竜華越で源義朝の身代わりとなって討死、源氏が敗北すると平家方による源氏の縁者に対する厳しい探索が行われ、生後五十日余りの乳飲み子であった頼隆も捕えられ、翌年、下総国の豪族千葉常胤の下に配流された。常胤は源氏の貴種である頼隆を庇護し、大切に育てた。治承四(一一八〇)年八月に挙兵した頼朝は石橋山の戦いに敗れて房総に逃れたが、この時いち早く頼朝への加勢を表明していた千葉常胤の館に入った。九月十七日、常胤は頼隆を伴って頼朝の前に伺候し、頼隆を用いるよう申し入れ、頼朝は頼隆が源氏の孤児であることに温情を示し、大軍を引き連れて随身した常胤よりも上座に据えるなどの厚遇を施したという(この時、頼隆は満二十一歳、頼朝は三十三歳)。その後も源氏一門として遇され、文治元(一一八五)年九月三日に頼朝が父義朝の遺骨を勝長寿院に埋葬した際には遺骨を運ぶ輿を頼隆と平賀義信に運ばせ、頼隆・義信・惟義のみを御堂の中に参列させている。建久元(一一九〇)年十月の頼朝上洛、建久六(一一九六)年三月の東大寺落慶供養などにも随行しており、頼朝の死後は所領の信濃国若槻庄に下って従五位下伊豆守に叙せられている。

・「三浦十郎義連」佐原義連(さわらよしつら ?~建仁三(一二〇三)年)。三浦義明末子。義澄は兄。三浦氏の本拠相模国衣笠城東南の佐原(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居住していたため佐原氏を称した。ウィキの「佐原義連」によれば、『治承・寿永の乱では一ノ谷の戦いで源義経率いる搦手軍に属し、「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下りた武勇が『平家物語』に描かれて』おり、文治五(一一八九)年の『奥州合戦にも従軍し、その功により、陸奥国会津を与えられ』た。同年の北条時政の子時房の元服の際には頼朝の命により烏帽子親ともなっている。建久三(一一九二)年の頼朝上洛にも従い、『左衛門尉に任ぜられる。関東御領遠江国笠原荘の惣地頭兼預所も務めた』とあって、末尾の頼朝の信任の厚かったことも分かる。『なお、三浦氏の庶流である佐原氏は、その多くが』宝治元(一二四七)年の宝治合戦で宗家三浦氏とともに滅んだが、『北条氏方に付いた佐原盛時が残り、後に相模三浦氏として再興した。また、鎌倉時代から会津に分かれた庶流は蘆名氏を称して有力な戦国大名となった』とある。

・「岡崎四郎義實」(天永三(一一一二)年~正治二(一二〇〇)年)は三浦義明の弟で三浦氏庶家岡崎氏の祖。相模国大住郡岡崎(現在の平塚市岡崎及び伊勢原市岡崎)を領し、岡崎氏を称した。参照したウィキの「岡崎義実」よれば、『三浦氏は古くからの源氏の家人で、義実は忠義心厚く平治の乱で源義朝が敗死した後に鎌倉の義朝の館跡の亀谷の地に菩提を弔う祠を建立している。義朝の遺児源頼朝の挙兵に参じ石橋山の戦いで嫡男の義忠を失ったが、挙兵直後の頼朝をよく助け御家人に列した。晩年は窮迫したが』、八十九歳の長寿を全うした、とある。また、頼朝が挙兵した際には、嫡男の与一義忠とともに直ちに参じており、『挙兵を前に義実は源氏の御恩のために身命を賭す武士として、特に頼朝の部屋に呼ばれて合戦について相談され「未だに口外していないが、汝だけを頼りにしている」との言葉を受け、感激して勇敢に戦うことを誓った。実は、このように密談をしたのは義実だけではなく、工藤茂光・土肥実平・宇佐美助茂・天野遠景・佐々木盛綱・加藤景廉も同じことを頼朝から言われている。ただ、義実・義忠父子が特に頼みにされていたのは事実で、挙兵前にあらかじめ土肥実平』(義実は実平の姉妹を妻にしていて土肥氏とも関係が深かった)『と伴に北条館へ参じるよう伝えている』とあって、頼朝の信頼が厚かったことは確かである。この時、義実は満六十九歳である。ここの主な登場人物の中で頼朝を除くと生年が明確なのは彼だけであるので、ここで広常が「義實の樣なる老者」と表現し、義連が諌めの言葉の中で「若しや老狂の致す所か」と述べていることから、逆にこの二人の年齢の大まかな相対推定が出来る。広常は五十代か? 義連の方は「老狂」のきつい言葉を面と向かって言い放てること、傲慢な広常をぴしゃりと封じていることからは広常よりも年上で、没年から見ても義実とはそれほど離れていないように思われるから六十代かと思われる。

・「更に對揚の存念有るべからず」「対揚」は匹敵・対等で、ため張って思うような資格はない、儂のなして参った手柄と比較出来るような余地などお前にはない、の謂いであろう。

・「經營」饗応。

・「濫吹」本来は無能な者が才能があるかの如く振る舞うこと、実力がないのにその地位にあることをいう。斉の宣王は竽(う)という笛を聞くのが好きで楽人を大勢集めていたが、竽を吹けない男が紛れ込み、吹いているような真似をして俸給を貰っていたという、「韓非子」の「内儲説(ないちょせつ)上」の故事に基づく。但し、ここは場違いの単なる乱暴狼藉の意で用いている。]

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬

 

海馬 海中ニ生スル小蟲ナリ頭ハ馬ノコトク腰ハ蝦ノ如ク

尾ハトカゲニ似タリ海中ノ小魚ノ内ニマシリテ市ニウルコトア

リ乾シテ貯置テ婦人産スル時是ヲ手裏ニ把レハ子ヲ

産ヤスシ本草ニ魚鰕ノ類也トイヘリ雌雄アリ對ヲ成

ヘシ雌ハ黄ニ雄ハ靑シ本草ニ并手握之トイヘリ世人

コレヲシヤクナゲト云ハアヤマレリシヤクナケハ蝦蛄ナリ

〇やぶちゃんの書き下し文

海馬 海中に生ずる小蟲なり。頭は馬のごとく、腰は蝦の如く、尾はとかげに似たり。海中の小魚の内にまじりて市にうることあり。乾かして貯へ置きて、婦人の産する時、是を手裏〔たうら〕に把れば、子を産みやすし。「本草」に『魚鰕の類なり。』といへり。雌雄あり、對を成すべし。雌は黄に、雄は靑し。「本草」に『手を并(あは)せて之を握る。』といへり。世人これを『しやくなげ』と云ふはあやまれり。『しやくなげ』は蝦蛄なり。

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus 。ヨウジウオ科のタツノオトシゴ属は一属のみでタツノオトシゴ亜科 Hippocampinae を構成し、世界で約五〇種類ほどが知られる。泳ぐ時は胸鰭と背鰭を小刻みにはためかせて泳ぐが、動きは魚にしては非常に鈍い。その代わりに体表の色や突起が周囲の環境に紛れこむ擬態となっており、海藻の茂みなどに入り込むと発見が難しい。食性は肉食性で、魚卵、小魚、甲殻類など小型の動物プランクトンやベントスを吸い込んで捕食する。動きは遅いが捕食は速く、餌生物に吻をゆっくりと接近させて瞬間的に吸い込んでしまう。また微細なプランクトンしか食べられないと思われがちだが意外に獰猛な捕食者で、細い口吻にぎりぎり通過するかどうかというサイズの甲殻類でも積極的に攻撃し、激しい吸引音をたてて摂食する(この点からは防禦型だけでなく採餌用の攻撃型擬態とも言えよう)。タツノオトシゴ属の♂の腹部には育児嚢という袋があり、ここで♀が産んだ卵を稚魚になるまで保護する。タツノオトシゴ属の体表は凹凸がある甲板だが、育児嚢の表面は滑らかな皮膚に覆われ、外見からも判別出来る。そのためこれがタツノオトシゴの雌雄を判別する手掛りともなる。繁殖期は春から秋にかけてで、♀は輸卵管を♂の育児嚢に差し込み、育児嚢の中に産卵、育児嚢内で受精する。日本近海産のタツノオトシゴ Hippocampus coronatus の場合、♀は五~九個を産卵しては一休みを繰り返し、約二時間で計四〇~五〇個を産卵する。大型種のオオウミウマHippocampus kelloggi では産出稚魚が六〇〇尾に達することもあるという。産卵するのはあくまで♀だが、育児嚢へ産卵されたオスは腹部が膨れ、ちょうど妊娠したような外見となる。このため「オスが妊娠する」という表現を使われることがある。種類や環境などにもよるが、卵が孵化するには一〇日から一ヶ月半程、普通は二~三週間ほどかかる。仔魚は孵化後もしばらくは育児嚢内で過ごし、稚魚になる。♂が「出産」する際は尾で海藻などに体を固定し、体を震わせながら(見た目はかなり苦しそうである)稚魚を産出する。稚魚は全長数ミリメートル程と小さいながらも既に親とほぼ同じ体型をしており、海藻に尾を巻き付けるなど親と同じ行動をとる。ヨウジウオ科ヨウジウオ亜科にもタツノイトコ Acentronura gracilissima やリーフィー・シー・ドラゴン Phycodurus eques などの類似種が多いが、首が曲がっていないこと、尾鰭があること、尾をものに巻きつけないことなどの差異でそれぞれタツノオトシゴ属とは区別出来る(以上は主にウィキの「タツノオトシゴ」及びそのリンク先に拠った)。属名“Hippocampus”(ヒッポカンプス)はギリシア語の“hippos”(馬)+“kampos”(海の化け物)で、元来、ギリシア神話に登場する半馬半魚の海馬“hippokampos”の名ヒッポカンポスを指す。体の前半分は馬の姿であるが、鬣(たてがみ)が数本に割れて鰭状になり、前脚に水掻きがあり、胴体の後半分は魚の尾になっている。ノルウェーとイギリスの間の海に棲み、ポセイドンの乗る戦車を牽くことでも知られたが、この神獣名のラテン語を、実は全くそのままに(頭文字を大文字化して)学名に転用したものである。なお、大脳側頭葉にある大脳辺縁系の一部で、記憶や空間学習能力に関わる脳器官名も全く同じ“Hippocampus”で日本語でも「海馬」とするが、これは同器官の縦断面がまさにタツノオトシゴに似ているからである。ウィキの「海馬(脳)」にある画像をリンクしておく。

「婦人の産する時、是を手裏〔たうら〕に把れば、子を産みやすし」この習俗はかつてはかなり一般に知られたものであった。しかもこれは真摯な博物学的な観察に基づく類感呪術である点で私は興味深い。以下、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「タツノオトシゴ」の記載を借りると、即ち、タツノオトシゴの雄(これは無論、雌に誤認されていた。荒俣氏の引用によれば例えば「重修本草綱目啓蒙」には『雌なるは腹ふくれ、雄なるは腹瘠』とあるとある)が、その育児嚢から孵化した稚魚を『陣痛よろしく大きな腹を収縮させて、小魚を外へ送り出す』その『涙ぐましい努力』を観察した昔の人が『タツノオトシゴは安産の守り神と』信じたという点である。また、荒俣氏は「南州異物志」には『婦人が難産で割烈して分娩するほどのときでも、タツノオトシゴを手に持たせると羊のように安産になる』とあり、『さらに、海馬を干すか、火で乾かして難産にそなえる』と引くが、これは前半部と同じものが「本草綱目」の「海馬」の「集解」の冒頭で、

藏器曰、「海馬出南海。形如馬、長五六寸、蝦類也。『南如守宮、其色黃褐。婦人難割裂而出者、手持此蟲、即如羊之易也。』。」

と引用されてある。時珍はさらに、「発明」の項で、

海馬雌雄成對、其性溫暖、有交感之義、故難及之、如蛤蚧、郎君子之功也。蝦亦壯陽、性應同之。

と記していて、荒俣氏はこれをタツノオトシゴは雌雄一対で一つの生物であって、『その性は温暖で、夫婦交歓の意味があるから、難産、陽虚』(真正の冷え症)『房中術に多く用いる』と分かり易く総括訳しておられる。また、本邦の人見必大の「本朝食鑑」(元禄一〇(一六九七)年刊。本書の刊行(宝永七(一七〇九)年)に先立つこと十二年前)によれば、『漁師はあえてタツノオトシゴを捕らないが、網の中に雑魚(ざこ)に混じって捕れると、薬屋に売る』とあり、『当時の流行として、妊婦は、雌雄を小さな錦の袋に包みこんで身に帯び、安産を祈願したという』とも引く(この必大の記載は微妙に益軒の記述に似ており、益軒はどうも同書のこの記載を参考にしているのではないかと思っている)。

「雌は黄に、雄は靑し」誤り。観賞魚の養殖及び販売業を営むシーホースウェイズ株式会社(鹿児島県南九州市頴娃(えいちょう)町別府)の公式サイト「タツノオトゴハウス」の「はじめせんか?タツノオトシゴ飼育 Q&A」に色のことが解説されているが、そこには『タツノオトシゴは海の中で身を守るために体の色を変化させる習性をもちます。1種類のタツノオトシゴにおよそ3~4色程度のバリーエーションがあります』。『タツノオトシゴハウスで養殖しているジャパニーズポニーは黒、黄、茶、オレンジなどに変色し、タスマニアンポニーは白、黄、黒、パールなどに変色します』。『ジャパニーズポニーは標準和名では「クロウミウマ」』(Hippocampus kuda)『と呼ばれていますが、英名では「イエローシーホース」などとも呼ばれます。はじめに名前を付けた人がその時の色で判断してしまったということが想像できますね』。『またこれにまだら模様や縞模様などが加わりますので、実際のバリエーションはとても多彩であることがわかります』。『体色変化は水槽内の環境によって異なります。ときには極めてささやかなレイアウト用の置物によって体色変化を起こします』。『体色変化は、水槽内に置かれている物の色彩や光によって起こると考えられています』とあって、雌雄の違いではない。「本草綱目」の「海馬」の「集解」の中には「聖済総録」(北宋の政和年間(一一一一年~一一一七年)に宋の徽宗の主宰で編纂された医書)からの引用があって、そこに『海馬、雌者黃色、雄者青色。』とあるから、益軒は無批判にこれを引いたものと思われる。

『「本草」に『魚鰕の類なり。』といへり』「本草綱目」では「海馬」は「鱗之四」の「無鱗魚」に含まれ、冒頭の「釈名」には、

水馬。弘景曰是魚蝦類也。狀如馬形、故名。

とある。

『「本草」に『手を并せて之を握る。』といへり』「本草綱目」の「海馬」の「主治」の項に、

婦人難産、帶之於身、甚驗。臨時燒末飲服、並手握之、即易及血氣痛(蘇頌)。暖水臟、壯陽。

とある。これを見ると陣痛が起こったらタツノオトシゴを焼いて粉末にしたものを服用すると同時に、雌雄二尾を掌に並べてこれを握れば、陣痛や血の道による痛みを和らげて安産となる、と述べているようである。

「世人これを『しやくなげ』と云ふはあやまれり。『しやくなげ』は蝦蛄なり」甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚(シャコ)目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria 及び口脚目 Stomatopoda に属するシャコ類の総称である。「シャコ」という和名の由来は、茹で上げた際に石楠花(シャクナゲ)の花のような淡い赤紫色に変ずることから江戸時代に「シャクナゲ」と呼ばれていたものが縮まってものとされる(和名の由来は「大阪府立環境農林水産総合研究所」公式サイト内の図鑑のシャコ」の記載に拠る)。ここに示された誤称は現在は残っていないように見受けられる。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和七年(七十二句) Ⅳ



手向けたる七個の池の水の色

 

[やぶちゃん注:「七個の池」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

歸省子にその夜の故園花幽き

 

[やぶちゃん注:「幽き」は「かそけき」ではなく、「あはき」(淡き)と訓じているか。]

 

鏡みるすがしをとめや暑氣中り

 

鬱々と蒼朮を焚くいとまかな

 

[やぶちゃん注:「蒼朮」は「さうじゆつ(そうじゅつ)」と読み、キク目キク科オケラ属ホソバオケラ Atractylodes lancea の根茎の生薬名。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用などがあり、啓脾湯・葛根加朮附湯などの漢方調剤に用いられる。参照したウィキの「ホソバオケラ」によれば、『中国華中東部に自生する多年生草本。花期は9〜10月頃で、白〜淡紅紫色の花を咲かせる。中国中部の東部地域に自然分布する多年生草本。通常は雌雄異株。但し、まれに雌花、雄花を着生する株がある。日本への伝来は江戸時代、享保の頃といわれる。特に佐渡ヶ島で多く栽培されており、サドオケラ(佐渡蒼朮)とも呼ばれる』とある。]

 

凉趁うて埠頭の闇や夏帽子

 

[やぶちゃん注:「趁うて」は「おうて」で「追うて」と同義。]

 

帶の上の乳にこだはりて扇さす

 

蚊遣火のなづみて闇の咫尺かな

 

[やぶちゃん注:蚊遣火が闇に圧倒され、しかもその闇が間近に接近してきて、その闇に恰も摑まれんとするかのような、ある種の無音の凄絶感がよく出ている名句である。]

 

雷神をのぞめる僕や富士登山

 

下山して西湖の舟に富士道者

 

  五合目附近、石楠花咲きみだるゝ邊りの地に、

  強力の茯苓を掘れる。

茯苓を一顆になへり登山杖

 

[やぶちゃん注:「茯苓」菌界担子菌門菌じん綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科 Poria 属マツホド Poria cocos の菌核。アカマツ・クロマツ等のマツ属植物の根に寄生して形成する球形の茸(子実体はほとんど見られず球状の菌核のみが見つかることが多い)で表面は暗褐色、内は白色。漢方で利尿・鎮痛・鎮静などに用いる。]

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年七月



向日葵の照るにもおぢてみごもりぬ

 

[やぶちゃん注:この妊婦は不詳(この時鳳作はまだ独身で、彼の子ではないので注意)。表現の親愛感から見ると、那覇市の歯科医に嫁いだ姉の幸がおり、また、鳳作の招きで同じく歯科医の実兄国彬(くによし)が同じ宮古島の平良港に開業していたから、この孰れかの親族の妊婦のようには思われる。]

 

枕邊に苺咲かせてみごもりぬ

 

夕立のみ馳けて向日葵停れる

 

   ひまはり

向日葵は實となり實となり陽は老いぬ

 

[やぶちゃん注:以上、四句は総て七月発行の『天の川』の発表句。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅶ 信濃抄四(2)



百日紅つかれし夕べむらさきに

 

曼珠沙華ひそかに息をととのふる

 

早稻の香のしむばかりなる旅の袖

 

筆洗ふ蜩とみに減りしよと

杉田久女句集 144 訪れて山家は暗し初時雨


訪れて山家は暗し初時雨

八木重吉詩集「秋の瞳」 序文 加藤武雄「巻首に」 附 「秋の瞳」広告文

   卷首に

 八木重吉君は、私の遠い親戚になつてゐる。君の阿母さんは、私の祖母の姪だ。私は、祖母が、その一人の姪に就いて、或る愛情を以て語つてゐた事を思ひ出す。彼女は文事を解する。然う言つて祖父はよろこんでゐた。

 私は二十三の秋に上京した。上京の前の一年ばかり、私は、郷里の小學校の教鞭をとつてゐたが、君は、その頃、私の教へ子の一人だつた。――君は、腹立ちぽい、氣短な、そのくせ、ひどくなまけ者の若い教師としての私を記憶してくれるかも知れないが、そのころの君の事をあまりよく覺えてゐない。唯、非常におとなしいやゝ憂欝な少年だつたやうに思ふ。

 小學校を卒業すると、君は、師範學校に入り、高等師範學校に入った。私が、その後、君に會つたのは、高等師範の學生時代だつた。その時、私は、人生とは何ぞやといふ問題をひどくつきつめて考へてゐるやうな君を見た。彼もまた、この惱み無くしては生きあはぬ人であったか? さう思つて私は嘆息した。が、その時は私はまだ、君の志向が文學にあらうとは思はなかつた。

 君が、その任地なる攝津の御影から、一束の詩稿を送つて來たのは去年の春だった。君が詩をつくつたと聞くさへ意外だつた。しかも、その時が、立派に一つの境地を持つてゐるのを見ると、私は驚き且つ喜ばずにはゐられなかつた。

 私は詩に就いては、門外漢に過ぎない。君の詩の評價は、此の詩集によつて、廣く世に問ふ可きであつて、私がここで兎角の言葉を費す必要はないのであるが、君の詩が、いかに純眞で淸澄で、しかも、いかに深い人格的なものをその背景にもつてゐるか? これは私の、ひいき眼ばかかりではなからうと思ふ。

 

 大正十四年六月

 

           加藤武雄

 

[やぶちゃん注:加藤武雄(明治二一(一八八八)年~昭和三一(一九五六)年)は小説家。神奈川県津久井郡城山町(現在の相模原市緑区)生。高等小学校卒業後、小学校訓導を務めながら投書家として次第に名を知られるようになった。明治末に新潮社創始者佐藤義亮と親しくなり、明治四四(一九一一)年に新潮社に入社、編集者として『文章倶楽部』『トルストイ研究』などの編集主幹を務めた。大正八(一九一九)年に農村を描いた自然主義的な短編集「郷愁」で作家として認められた。後、通俗小説・少女小説作家となって大正末から昭和初期にかけては売れっ子作家として中村武羅夫・三上於菟吉らとともに一世を風靡した(三作家の作品を併載した「長編三人全集」も刊行されている)。戦時下にあっては戦意高揚小説を書き、戦後も通俗小説を量産したが、今では最早忘れられた作家と言ってよい(以上は主にウィキの「加藤武雄」に拠った)。個人サイト「屋根のない博物館ホームページ」内のこちらのページに、本詩集出版に関わる加藤武雄の尽力の記載が詳しい。それによれば、加藤武雄は大正一四(一九二五)年八月発行の『文章倶楽部』八月号の中で、「緑蔭新唱 新進四家」と題して松本淳三・三好十郎・宮本吉次三名の詩人とともに、初めて八木重吉の九篇の詩を紹介(リンク先に同号「緑蔭新唱 新進四家」の画像有り)、『また同号には加藤武雄の執筆と思われる、重吉の詩集「秋の瞳」の宣伝文も添えられてあ』ると記しておられる。リンク先に示された、その宣伝文を以下に電子化しておく。

   *

八木重吉詩集 菊半版特裝美本百六十頁

詩集 秋の瞳 定價七拾錢 送料六錢

 新詩人の新詩集!

 眞詩人の眞詩集!

 此の詩の著者は、この數年の間、默々として、一人、詩を作つてゐた。詩壇とか、さういふものとは絶對に無關係に、乾燥な、散文的な空氣の中で、友もなく、師もなく、たとへば、曠野に歌ふ一羽の鳥のやうに、その感じ、思ひ、考へた事を歌ひ續けてゐた。心境は月光の如く靜かに、神經は銀針の如く尖鋭に、しかも、常に人間性の根本に立つて、自由に、恣に歌ひつゞけた此等の詩は、雜音に充つる現今の詩壇に朗かなる一道の新聲を傳ふるものであらう。

 發賣所 東京牛込・矢來 新潮社 爲替貯金口座 東京一七四二

 發行所 東京市小石川區西江戸川町 富士印刷株式會社出版部

   *

広告の実際の字配はリンク先を見られたい。本広告が加藤本人の執筆になるという推定は他の情報でも見られ、私もその広告文からも加藤のものと考えてよいと思う。]

柳も かるく   八木重吉  / 八木重吉詩集「秋の瞳」詩全篇 了

    柳も かるく

 

やなぎも かるく

春も かるく

赤い 山車(だし)には 赤い兒がついて

靑い 山車には 靑い兒がついて

柳もかるく

はるもかるく

けふの まつりは 花のようだ

 

[やぶちゃん注:「ようだ」はママ。本詩を以って詩集「秋の瞳」全篇が終わる。]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。「西」の抹消線(実際は太い)と「東」の訂正(実際は印字がやや右に傾く)はゴム印と思われる。]

 

Akinohitomioku

 

 秋 の 瞳   ㊞

 

大正十四年七月廿八日印刷

大正十四年八月一 日發行

 

       定價七拾錢

    東

 千葉縣西葛飾郡千代田村

 著作者

      八 木 重 吉

 發行者

   東京小石川區西江戸川町廿一

 印刷者  佐 々 木 俊 一

   東京小石川區西江戸川町廿一

 印刷所  富士印刷株式會社

   東京小石川區西江戸川町廿一

          印刷

發行所   富士  會社出版部

          株式

  東 京 市 牛 込 區 矢 來 町 三

大賣捌所 新  潮  社

弾を浴びた島   山之口貘




 弾を浴びた島
 

 

島の土を踏んだとたんに

ガンジューイとあいさつしたところ

はいおかげさまで元気ですとか言って

島の人は日本語で来たのだ

郷愁はいささか戸惑いしてしまって

ウチナーグチマディン ムル

イクサニ サッタルバスイと言うと

島の人は苦笑したのだが

沖縄語は上手ですねと来たのだ 

 

 

 

  「ガンジューイ」=「お元気か」

  「ウチナーグチマディン ムル」=「沖縄方言までもすべて」

  「イクサニ サッタルバスイ」=「戦争でやられたのか」 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注の一部を追加した。】初出は昭和三八(一九六三)年三月号『文藝春秋』で、その後、同年十二月には十二月号「現代詩手帖」にも再掲された。沖繩帰郷から実に五年後に絞り出した苦渋の一篇であった。
 本詩については、底本通りの電子化を行っていない。底本では詩中の沖繩方言部分にはそれぞれ方言部の最終字(具体的には「ガンジューイ」の「イ」・「ウチナーグチマディン ムル」の「ル」・「イクサニ サッタルバスイ」の「バスイ」の「イ」)の右にポイント落ちでそれぞれ『(1)』『(2)』『(3)』の注記記号が附され、詩の後に一行空きがなされた後、二字下げのポイント落ちで、
  (1)お元気か
  (2)沖縄方言までもすべて
  (3)戦争でやられたのか
と後注されている。また、清書原稿を基にした新全集では注記記号が『*1』『*2』『*3』となっており、後注が『*1 お元気か』『*2 沖縄方言までも すべて』(字空けが入っているのに注意)『*3 戦争で やられたのか』(字空けが入っているのに注意)となっている以外、本文の異同はない。
 私は二十の時にこの詩に出逢って以来、今に至るまで、この詩を偏愛するものであるが、実は今もずっとその最初の違和感が持続し続けている。それは個人的にこの注記記号の詩文中への挿入が、今一つ好きになれないでいるということである。これによって心内での私の朗読――バクさんの肉声の「うちなーぐち」――はその都度、中断され、無意識に後注に視線が右往左往してしまうからである。寧ろ、注を「読」んで記憶したら、それらを視界から消去して今一度、沖繩方言としてのここに散りばめられたそれを――そのままに「詠」むべきである――と私は思っている。如何にも偉そうではあるが、そうした私の愛するこの詩への思いの中で、注記記号の省略と注記表記の変更さらに詩本文と注記との間を有意に空けるという恣意的な操作を行った。バクさん、お許しあれ――
 昭和三三(一九五七)年十月末、五十五歳の時、バクさんは実に三十四年振りで占領下の沖繩に帰省した(大正一三(一九二四)年の二十九の時の二度目の上京以来)。母校県立首里高等学校(但し、バクさんは旧制県立第一中学校で四年生で中退している)を皮切りに各高等学校などで講演を行い、大城立裕ら若き沖繩の作家や詩人らと逢い、約一ヶ月半滞在して翌年初に帰京した。この直後の昭和三十四年四月には先の再版『底本山之口貘詩集』で第二回高村光太郎賞している。しかし、この詩に示されたようにバクさんは沖繩の激しい変化に大きなショックを受け、この年の夏の終わりまで詩が書けない(参考にした底本年譜では『仕事ができない』とある)状態が続いた。
 最後に。私はこの詩に就いては、「沖縄」の文字が入っている点に於いて、そしてこれがバクさんの、若き日の故郷への痛恨詩であることからも、どうしても正字で表記したくなる願望を押さえきれない(私は「縄」という新字が生理的に嫌いである。また実は「弾」も「蝉」同様に「彈」や「蟬」でないとむずむずする人間なんである)。戦後の詩であるが、私の我儘で敢えて正字化した詩篇本文を以下に示したい(さらに言えば私は実は沖繩方言に限らず、方言を外来語のようにカタカナ書きするのを生理的に激しく嫌悪する人間であるが、流石にそこまでの表現操作はバクさんに悪いので諦める)

 

 彈を浴びた島

 

島の土を踏んだとたんに

ガンジューイとあいさつしたところ

はいおかげさまで元氣ですとか言って

島の人は日本語で來たのだ

郷愁はいささか戸惑いしてしまって

ウチナーグチマディン ムル

イクサニ サッタルバスイと言うと

島の人は苦笑したのだが

沖繩語は上手ですねと來たのだ

 

バクさん、ごめんね――]

ひそかな対決   山之口貘

 ひそかな対決

 

ぱあではないかとぼくのことを

こともあろうに精神科の

著名なある医学博士が言ったとか

たった一篇ぐらいの詩をつくるのに

一〇〇枚二〇〇枚だのと

原稿用紙を屑にして積み重ねる詩人なのでは

ぱあではないかと言ったとか

ある日ある所でその博士に

はじめてぼくがお目にかかったところ

お名前はかねがね

存じ上げていましたとかで

このごろどうです

詩はいかがですかと来たのだ

いかにもとぼけたことを言うもので

ぱあにしてはどこか

正気にでも見える詩人なのか

お目にかかったついでにひとつ

博士の診断を受けてみるかと

ぼくはおもわぬのでもなかったのだが

お邪魔しましたと腰をあげたのだ

 

[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を全面改稿した。】初出は昭和三八(一九六三)年三月号『小説新潮』。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では清書原稿を本文テクストとしており、有意な異同が見られるので以下に全篇を示す。


 ひそかな対決


ぱあではないかとぼくのことを

こともあろうに精神科の

著名なある医学博士が言ったとか

たった一篇ぐらいの詩をつくるのに

一〇〇枚二〇〇枚三〇〇枚だのと

原稿用紙を屑にして積み重ねる詩人なのでは

ぱあではないのかと言ったとか

ある日ある所でその博士に

はじめてぼくがお目にかゝったところ

お名前はかねがね

存じ上げていましたとかで

このごろどうです

詩はいかがですかと来たのだ

いかにもとぼけたことを言うもので

ぱあにしてはどこか

正気にでも見える詩人なのか

お目にかゝったついでにひとつ

博士の診断を受けてみるかと

ぼくはおもわぬのでもなかったのだが

お邪魔しましたと腰をあげたのだ


……このバクさんを……「ぱあではないか」……「たった一篇ぐらいの詩をつくるのに」「一〇〇枚二〇〇枚三〇〇枚だのと」「原稿用紙を屑にして積み重ねる詩人なのでは」「ぱあではないか」……と言ったと心理学者とは……O――あいつかなぁ?……それとも、T――あいつかぁ?……M……S……いやいや、あいつかも? と穿鑿してみるのも、これ、すこぶる心地よいのである……]

山之口貘詩集「鮪に鰯」電子化始動 / 野次馬

 

鮪に鰯

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:本記事全体に複数の誤りを発見したため、訂正「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」との対比検証に入るためにこの注を大幅に改稿した。】山之口貘の実質的な戦後の新詩集で同時に遺稿詩集となった「鮪に鰯」は昭和三九(一九六四)年十二月一日原書房から出版された。

 なお、注に示した初出誌データは先と同じく、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題データに基づく。また新全集では「鮪に鰯」に限っては清書原稿の残っているものはそれを正規本文テクストとして採用しているため、驚くような違いがある。それは注で示すこととした。現在、この対比検証作業は過去のブログ公開記事を訂正する形で随時進行中である。この記事以降で対比検証を行ったその旨の明記が注にないものは未だそれを行っていないことを示すので注意されたい

 バクさんはこの前年の昭和三八(一九六三)年七月十九日、新宿区戸塚の大同病院にて胃癌のため永眠していた。全百二十六篇、「山之口貘詩集」とダブる詩は一篇も含まれていない。詩集冒頭には『日本のはえぬきの詩人と言えば、萩原朔太郎、それ以後は、貘さんだろう』と末尾に綴る金子光晴の「小序」(クレジットなし)、掉尾には『1964・11』のクレジットを持つ当時二十であった娘山口泉(バクさんの愛称はミミコ)さんの「後記にかえて」が載るが、孰れも著作権が存続しているため省略する。しかし特に、泉さんの三連からなるそれは関係者への謝辞が過半の短いものながら、非常に胸打たれるものである。ここではその第二連のみを引用し、その詩的な愛の香気をお伝えしておきたい。――


『空が青くきらきら溢れています。冬に向かって歩いている寒さを今朝はふと忘れます。』

 

 

 

 野次馬

これはおどろいたこの家にも

テレビがあったのかいと来たのだが

食うのがやっとの家にだって

テレビはあって結構じゃないかと言うと

貰ったのかいそれとも

買ったのかいと首をかしげるのだ

どちらにしても勝手じゃないかと言うと

買ったのではないだろう

貰ったのだろうと言うわけなのだが

いかにもそれは真実その通りなのだが

おしつけられては腹立たしくて

余計なお世話をするものだと言うと

またしてもどこ吹く風なのか

まさかこれではあるまいと来て

物を摑むしぐさをしてみせるのだ 

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を全面改稿した。】初出は昭和三八(一九六三)年四月号『地上』。『地上』は元農林水産省所管で現在は全国農業協同組合中央会が組織する農協グループ総合農協(JA)の出版・文化事業を営む団体「一般社団法人 家の光協会」の発行する雑誌の一つ。しばしば誤解されるが、同団体は宗教とは無関係である。なお、松下博文氏の緻密な初出誌検証によって旧詩集類と同様、この詩集「鮪に鰯」もほぼ正しく逆編年体(後に行くほど新しい)の組み方となっていることが判明している。

 思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では清書原稿を本文テクストとしており、表記に有意な異同が見られるので以下に全篇を示す。

 

 野次馬

これはおどろいたこの家にも

テレビがあったのかいと来たのだが

食うのがやっとの家にだって

テレビはあって結構じゃないかと言うと

貰ったのかいそれとも

買ったのかいと首をかしげるのだ

どちらにしても勝手じゃないかと言うと

買ったのではないだろ

貰ったのだろと言うわけなのだ

いかにもそれは真実その通りなのだが

おしつけられては腹立たしくて

余計なお世話をするものだと言うと

またしてもどこ吹く風なのか

まさかこれではあるまいと来て

物を摑むしぐさをしてみせるのだ

 

「だろ」の方が遙かにリアリズムである。]

かげろふの我が肩に立つ紙子哉 芭蕉 元禄2年2月7日=1689年3月27日 作

本日二〇一四年三月二十七日(陰暦では二月二十七日)

   元禄二年二月  七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年三月二十七日

である(この大きなズレはこの年が閏年で一月が二回あったことによる)。

★注:今回より単純な現在の当日の陰暦換算の一致日ではなく、実際の芭蕉の生きたその時日の当該グレゴリオ暦との一致日にシンクロさせることとする。その方が、少なくとも季節の微妙な変化の共時性により正確に近づくことが可能だからと判断したためである。例えば、今年の陰暦二月七日はグレゴリオ暦三月七日で一六八九年三月二十七日とは二十日もズレてしまって、明らかに季節感が違ってくるからである。

 

  元祿二年仲春、嗒山旅店にて

かげろふの我が肩に立つ紙子哉

 

[やぶちゃん注:元禄二(一六八九)年芭蕉四十六歳同年二月七日の作。

 「仲春」は陰暦二月の異名である。「嗒山」は「たふざん」と読む。新潮日本古典集成「芭蕉句集」の今栄蔵氏の注によれば、大垣の俳人で大垣藩士であったかとし、『その江戸滞在中の旅亭で』曾良や此筋(しきん)らと『巻いた七吟歌仙の発句。真蹟歌仙巻二に「元禄二年仲春七日」と奥書がある。真蹟句切には「冬の紙子いまだ着がへず」と前書』がある、とする(下線やぶちゃん)。脇句は曾良の、

    水やはらかに走り行(ゆく)音

である(歌仙を巻いた連衆と脇句は山本健吉「芭蕉全発句」(講談社学術文庫二〇一二年刊行)に拠る)。

 「紙子」は「かみこ」と読み(「紙衣」とも書く)、紙子紙(かみこがみ:厚手の和紙に柿渋を引いて日に乾かしてよく揉み和らげた上で夜露に晒して臭みを抜いたもの。)で作った衣服のこと。当初は律宗の僧が着用を始め、後に一般に使用されるようになった。軽くて保温性に優れ、胴着や袖無しの羽織に作ることが多かった。かみぎぬ。特に近世以降は安価ことから貧者の間で用いられた。現在は冬の季語とされるが、本句の場合無論、季詞は「かげろふ」(陽炎)であって春である。

 芭蕉は凡そ二月前(六十六日前。冒頭に記した如く、この年は閏一月があった)の当年の歳旦吟として、やはり知られた、

 

元日は田ごとの日こそ戀しけれ

 

を詠んでおり、同じくその正月早々に去来に送ったともされる文(この確かな確証はないが)には、

 

おもしろや今年の春も旅の空

 

と記し、やはりこの時期に門人に名所の雑の句のあり方を説いた時に示したとされる句には(新潮日本古典集成所収。但し、この句、他では掲げぬものも多い)、

 

朝夜(あさよ)さを誰(たが)まつしまぞ片心(かたごころ)

 

と詠んでもいるとされる(「片心」は片思いの意)。

 本句を読んだ八日後の二月十五日附桐葉(熱田門人)宛書簡の中には、

 

拙者三月節句過早々、松島の朧月見にとおもひ立候。白川・塩竃の櫻、御浦(おうら)やましかるべく候。

 

と綴ってもいる。

――元日から前年秋の越人との木曽路の旅を思いやっては、その旅心のままに想像の、「田毎月」ならぬ「田毎の初日」の輝きを恋慕い、――去来には俳言もない子供染みた手放しの旅情を知らせ、――遂には掛詞で松島を詠み込んで、あからさまにそのそぞろ神に惹かれるおのが旅心の切ない恋情を歌っては彷徨の先をはっきりと詠み込んでいる。――そこにあるのは「片心」の狂おしいまでの旅に誘(いざな)われる芭蕉の魂であり、それは遂に芭蕉の身からあくがれ出でて、自身の春立つ旅立ちの日の、その後ろ影に立つ陽炎さえも、幻視するに至るのである。――

……では御一緒に

……芭蕉とともに

……奥の細道の旅へ旅立たんと致そう……]

2014/03/26

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 鼓蟲

鼓蟲 マヒマヒムシ筑紫ノ方言カイモチカキト云水上ニウカ

フ小黑蟲也螢ニ似テ少長シツ子ニ水上ヲオヨキメクリテ

ヤマス本草ニシルセリ但メクル事ハシルサス

〇やぶちゃんの書き下し文

鼓蟲 まひまひむし。筑紫の方言、『かいもちかき』と云ふ。水上にうかぶ。小黑〔おぐろ〕き蟲なり。螢に似て少し長し。つねに水上をおよぎめぐりてやまず。「本草」にしるせり。但し、めぐる事はしるさず。

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目飽食亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae に属するミズスマシ類。ウィキの「ミズスマシ科」によれば、成虫の体長は孰れの種も数ミリメートルから二〇ミリメートルほどの小型の甲虫で、日本では三属十七種類ほどが知られる。『成虫の体の上面は光沢のある黒色で、楕円形で腹背に扁平な体型である。触角は短く、6本の脚も全て体の下に隠せる。前脚は細長いが、中脚と後脚はごく短い。複眼は他の昆虫と同様2つだが、水中・水上とも見えるように、それぞれ背側・腹側に仕切られている』。『成虫は淡水の水面を旋回しながらすばやく泳ぐ。同様に水面で生活する昆虫にアメンボがいるが、アメンボは6本の脚の先で立ち上がるように浮くのに対し、ミズスマシは水面に腹ばいに浮く。また、アメンボは幼虫も水面で生活するが、ミズスマシの幼虫は水中で生活する』。『日中に活動する姿を見ることができるが、流水性のオナガミズスマシ類などは夜行性が強く、夜間にだけ水面に浮上して活動する。成虫は翅を使って飛ぶこともでき、他の水場から独立した水たまりなどにも姿を現す。食性は肉食性で、おもに水面に落下した他の昆虫や、水面で羽化したばかりの水生昆虫の成虫などを捕食する』。『幼虫はゲンゴロウの幼虫を小さくしたような外見をしているが、腹部の両脇に鰓が発達し、水面に浮上して空気呼吸する必要がない。幼虫も肉食性で、アカムシなど小型の水生生物を捕食しながら成長する』とある。ミズスマシ(水澄)は本文にあるように別名「鼓虫」「まひまひ(まいまい)」とも呼ばれる。

「かいもちかき」すぐに連想されるのは「掻餅」(かいもちひ(かいもちい)」で、「もちい」は「もちいひ(餅飯)」の音変化で餅米粉・小麦粉などをこねて煮たもの(一説には蕎麦掻きのこととも)。色に問題があるが、そのようにこねて千切ってご飯粒のように円錐形にしたものに似るか、若しくは水面上での旋回運動が恰もそうしたこねる動作にでも似ているものか。]

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 水黽

水黽 本草ニ出タリ有毒ト云リ水馬トモ云水上ニウカ

ヒ游フ身長クシテ四足アリ足ナカシ後足最長シ畿内ニテ

鹽ウリト云筑紫ニテアメタカト云其臭糖ノ如シ雞犬食

ヘハ死ス

〇やぶちゃんの書き下し文

水黽[やぶちゃん注:右に「シホウリ」とルビし、「黽」の左に「マウ」と振る。] 「本草」に出でたり。毒有りと云へり。水馬とも云ふ。水上にうかび游〔ただよ〕ふ。身、長くして四足あり、足、ながし。後ろ足、最も長し。畿内にて『鹽うり』と云ひ、筑紫にて『あめたか』と云ふ。其の臭ひ、糖の如し。雞犬、食へば死す。

[やぶちゃん注:「水黽」「水蠆」の功に既出既注。「水上にうかび游ふ。身、長くして四足あり、足、ながし。後ろ足、最も長し」「其の臭ひ、糖の如し」は異翅(カメムシ)亜目アメンボ科アメンボ亜科アメンボ(飴坊)Aquarius paludum とよく合致するが、ここに記されたような毒性はない。

「畿内にて『鹽うり』と云ひ」「鹽うり」(しほうり(しおうり)という別名はサイト「昆虫研究所」のアメンボ」の別名に「シオウリ」を見出せる(逆の「アメウリ」もある。静岡県の児童の自由研究と思われるアメンボ不思議」(PDFファイル)の方言の項を見ると山口県の方言として「アメウリ」が見出せる)。

「筑紫にて『あめたか』と云ふ」見出せない。上に示したアメンボ不思議」の地図を見ると、佐賀県の位置に「アメヤリン」、福岡に「ガロッパ」(これは水神としての河童とアメンボの強い連関性を示すもので、「能登方言」のコラムにある全国のアメンボ方言収集によれば実際に各地で「ミズノカミサン」「スイジンサン」「カワノカミサン」「ミズノカンサマ」といった方言名を見出せる)、「アナンチョ」、鹿児島に「ガラッペムシ」(これも河童関連であろう)といった呼称は見出せる。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 葉山御用邸

    ●葉山御用邸

森戸を過ぎて南に往けば、海邊に嚴かなる黑門、衛士肅然と控へて、淸き海汀(なぎさ)に玉の宮居(みやゐ)のたてる、是なん葉山の御用邸

皇女の御方々常に御座あらせ玉ふとかや、申すも恐れ多きことにこそ。

   葉山村のなりところにてよめる    高崎 正風

 わかやとは相模の海をいけにして

        ふし大島を庭のつき山

[やぶちゃん注:現存する御用邸にして「申すも恐れ多きことにこそ」、ウィキの「御用邸」のリンクを張らさせて戴くに止めんとぞする。

「高崎正風」(たかさきまさかぜ 天保七(一八三六)年~明治四五(一九一二)年)は公武合体派の志士で二条派歌人。薩摩藩士高崎五郎右衛門温恭長男。薩会同盟の立役者となり、京都留守居役に任命されたが、武力討幕に反対して西郷隆盛らと対立、維新後は不遇をかこった。明治四(一八七一)年に新政府に出仕し、岩倉使節団の一員に任じられて二年近く欧米諸国を視察した。明治八(一八七五)年に宮中の侍従番長、翌年から御歌掛などをつとめ、明治一九(一八八六)年二条派家元三条西季知の後を受けて御歌係長に任命され、さらに明治二一(一八八八)年には御歌所初代所長に任命された。明治二三(一八九〇)年、皇典講究所所長山田顕義の懇請により初代國學院院長(明治二十六年まで)。明治二八(一八九五)年、枢密顧問官を兼ねた(以上はウィキ高崎正風に拠る)。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 二階明神

    ●二階明神

明神と號すれと祠廟(しべう)あるにあらず、墳墓にて村の西北陸田の間にあり、塚上松樹あり、圍六尺、樹下五輪塔三基あり、一基は大乾元二年七月の字仄(ほのか)に見ゆ、二基は小にして文字剝落す、二階堂出羽入道沙彌行然の墓所と云傳ふ。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

二階堂系圖を按ずるに、藤原行盛入道行然は行光の子、初左衛門少尉に任し、建保六年十二月民部少尉に轉じ、元仁元年閏七月政所執事となり、嘉祿元年剃髮して行然と號す、此年評定衆に加はる、建長五年十二月九日卒す、年七十三、乾元は建長を下る事凡五十年の後なり、行光の弟行村の曾孫左衛門尉行藤、後出羽守に任し、正安三年剃髮して道我と號す、乾元元年八月廿七日卒、年五十七、若くは此人の碑なるにや、村内慶增院は寛治中行然開基すと傳ふれば、二小碑の内、若くは行然の墓標あるも知べからず。

[やぶちゃん注:この大型の五輪塔一基は現在、京急神武寺駅直近の逗子市池子二丁目にある東昌寺(鎌倉の廃寺で北条氏が滅亡した名刹東勝寺の後身と伝える)境内にある。同寺公式サイト内の「境内・宝物」の頁に「旧慶増院五輪塔」とあってそこには、『東昌寺本堂の前に、国の重要文化財(建造物)に指定されている五輪塔が祀られています。この五輪塔は、かつて葉山町堀内の慶増院という真言宗の寺の墓地にあったものです。この寺は、後に高養寺と改名されました』とあって、五輪塔の写真も附されている。解説によれば安山岩製で高さ一四一センチメートル、地輪に「沙弥行心帰寂、乾元二年癸卯七月八日」の銘が刻まれているとあって、そこでも『鎌倉時代の武将の二階堂行然のの墓であろうと伝えられてい』るとし、さらにこの墓は昭和五一(一九七六)年に東昌寺に移転安置されたとある。更に逗子市の公式サイト内の「逗子市内の重要文化財」を見ると、『この五輪塔は、かつて葉山町堀内の慶増院にあったものと伝えられています。近世に無住となった慶蔵院は、昭和初期に葉山に別荘を持っていた政治家の高橋是清と犬養毅らの援助を得て再興されました。この際に寺名を「高養寺」と改められたのち、逗子市小坪の「波切不動」の再興に伴って、本堂と五輪塔が移築され』たものの、後に高養寺がこの池子の東昌寺の持ち分となったことから、昭和五十一年に東昌寺に移設されて現在に至っているという事蹟が判明する。加えて、『水輪には金剛界大日如来をあらわす梵字の「バン」』が刻まれており、『鎌倉時代末期の中型五輪塔として、地域の基準となる貴重な文化財』であるという記載もある。これらが伝承としての行然墓をそのままに載せているのに対し、本文の記載は寧ろちゃんとした考証を試みようとしていて好感が持てる。なお、ネット上の画像の視認であるが(私はこの寺に参ったことはない)、同墓には現在、説明版が建てられてあって、そこにはこの「行心」を、第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)の御家人二階堂信濃守行心入道の墓と伝えられているとある。さらに当該リンク記事では、この墓石の年号についての複数の記載の、奇妙な齟齬を指弾されてもいる。必読。

「六尺」約一・八メートル。

「乾元二年」嘉元元・乾元二年は西暦一三〇三年。

「二階堂出羽入道沙彌行然」二階堂行盛(養和元(一一八一)年~建長五(一二五三)年)は二階堂行政の孫で政所執事・評定衆。父二階堂行光の後は政所執事は行光の甥伊賀光宗となったが、光宗が元仁元(一二二四)年の伊賀氏の変(伊賀光宗とその妹で義時後妻(継室)であった伊賀の方が伊賀の方の実子政村の執権就任と娘婿一条実雅の将軍職就任を画策した事件)によって流罪となり、行盛が任ぜられた(「吾妻鏡」貞応三(一二二四)年閏七月二十九日の条)。嘉禄元(一二二五)年に出家して法名を行然と名乗ったが、致仕した訳ではなく、七十二歳で没するまで同現職にあった。以降、この家系がほぼ政所執事を世襲した。没後は行盛の子二階堂行泰が継いだが、その子の早死になどで行盛の他の子、行泰の弟の二階堂行綱、二階堂行忠の家に移り、弘安九(一二八六)年には行忠からその孫の二階堂行貞に受け継がれた(以上はウィキの「二階堂行盛」に拠る)。さらにウィキの「二階堂氏」によると、『二階堂氏は藤原姓で、南家藤原武智麻呂の子孫を称している。工藤行政が文官として源頼朝に仕え、二階堂が存在した鎌倉の永福寺周辺に屋敷を構えたので二階堂氏を称したという。行政には行光と行村の二人の子がいた。行光は鎌倉幕府の政所執事に任命され、一時親族の伊賀光宗が任じられた以外は二階堂氏から同職が補任される慣例が成立した。当初は行光を祖とする「信濃流」と呼ばれる一族が執事職を占めていたが、鎌倉時代中期に信濃流嫡流の執事の相次ぐ急逝によって信濃流庶流や行村を祖とする「隠岐流」を巻き込んだ執事職を巡る争い』『が発生し、鎌倉時代末期には信濃流の二階堂行貞の系統と隠岐流の二階堂行藤の系統が交互に執事の地位を占め、前者は室町幕府でも評定衆の地位にあった』。『二階堂氏の子孫は実務官僚として鎌倉幕府、室町幕府に仕え、その所領は日本全国に散在しており、多くの庶子家を輩出した』と記す。

「左衛門尉行藤」(寛元四(一二四六)年~正安四(一三〇二)年)政所執事。二階堂行有(彼は二階堂行政―行村―行義の次男)の子で弘安五(一二八二)年に引付衆となった。同年、検非違使六位尉、正応元(一二八八)年に出羽守、永仁元(一二九三)年政所執事、同三年に評定衆・寄合衆の在任が確認されており、正安元(一二九九)年には引付五番頭人となった。同三年に出家、法名を道暁、後に道我と改めている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「寛治中」西暦一〇八七年~一〇九四年。これでは時代齟齬も甚だしく、誤り。一部データには慶増院を乾元二・嘉元元(一三〇三)年に行然が開基したとするが、これも行然はとっくに死んでいる。寧ろ、この前年に没している行藤が生前に開基を志し、没後の翌年に開かれたとするならば通ずる。そしてその二階堂家の縁者(それがその時に亡くなった北条貞時の御家人二階堂行心なる人物なのかも知れない)が二階堂家に政所執事の世襲を齎した行然の供養塔をも建てたものかも知れない(それは現存しないか、何処かへ消えたか。この本文に書かれた小さな二基の墓が気にはなる)。その後、伝承が誤って伝えられ、近代以降の寺の変遷も相俟って、時代錯誤や埋葬者の誤認というどうしようもないまでの状況へと進んでしまったものかも知れない。「知れない」尽くしで恐縮だが、私の中の鎌倉の圏外の事蹟なれば、悪しからず。識者の御教授を乞うものである。]

耳嚢 巻之八 又 (芭蕉嵐雪の事)

   又

 

 右に同じき咄しなれど少し趣意も違ひ、いづれ後に附合(つけあは)せし事ならん。芭蕉翁と嵐雪行脚して、山の上に二人休(やすら)ひたりしが、右山の下にて、唯あじきなく廻しこそすれと口ずさみける女の聲しけるをきゝて、いかなる事にや、あの句を下にして、前を附(つけ)すべきとて、嵐雪、

  本復の憂身に帶の長すぎて

と云けるを、芭蕉翁、左にあるまじ、我附(つく)べしとて、

  ひとり子のなき身の跡の風ぐるま

と云て、兩人山を下りて、彼(かの)泣ける女子(をなご)に尋(たづね)しに、果して芭蕉が附句の通り、子を失ひし女の口ずさみなりとぞ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:極めて相似的シチュエーションの仮託作の別譚であるが、遙かにこちらの方がよい。それは前話が明らかな倒叙的書き方で、狂女の凄愴な映像をあからさまに描いて読後の後味がひどく悪いのに対して、ここでは「唯あじきなく廻しこそすれ」という謎掛け染みた上五に、嵐雪が恋路に迷って痩せさらばえた「娘」の身の自己愛としての憐れを附句したのを、師芭蕉が「母」たる子を失った「若き女」の絶対の悲しみとして読み解き、それが最後に解き明かされるという形式の中で、我々がこの哀れなる「女」の映像を決して直視しない点でよく出来ている(鈴木氏の謂いを借りれば、『まだ』しも『巧みである』)。謂わば前の宗祇宗長のそれは薄気味悪さを漂わす狂女物(それは過去の時制に生きる女だけの悲惨な夢幻能的世界でさえある)の失敗作のようであり、この芭蕉嵐雪のそれはしみじみとした現在能(そこでは寧ろ、控えめの朧げな憐れを催させる子を失った若き女の面影が読むものの心の内だけに果敢なくも美しい夢幻のように浮かび上がるのである)余香を伝えるからだと私は思うのである。

・「又」この又は現代語訳ではおかしなことになるので「芭蕉嵐雪の事」と読み替えた。

・「嵐雪」服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年)は蕉門十哲の一人芭蕉第一の高弟。江戸湯島生。元服後約三十年間に亙って転々と主を替えながら武家奉公を続けた。芭蕉への入門は満二十一歳の延宝三(一六七五)年頃で(芭蕉満三十一歳)、元禄元(一六八八)年一月には仕官をやめて宗匠として立ち、榎本其角とともに江戸蕉門の重鎮となったが、後年の芭蕉が説いた「かるみ」の境地には共感が出来ず、晩年の芭蕉とは殆んど一座していない。それでも師の訃報に接しては西上し、義仲寺の墓前に跪いて一周忌には「芭蕉一周忌」を編んで追悼の意を表すなど、師に対する敬慕の念は終始厚かった。青壮年期に放蕩生活を送り、最初は湯女を、後には遊女を妻としたが、晩年は俳諧に対して不即不離の態度を保ちつつ、専ら禅を修めた。内省的な人柄でそれが句にも表われて質実な作品が多く、嵐雪門からは優れた俳人が輩出し、中でも大島蓼太の代になって嵐雪系(雪門)の勢力は著しく増大した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「本復の憂身に帶の長すぎて」は「ほんぷくのうきみにおびのながすぎて」と読む。未だに恋の憂いの病いから解き放たれることなく、すっかり痩せ細ってしまったこの身には帯が長すぎる、というのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 芭蕉と嵐雪の発句の事

 

 先の話柄と同じい咄(はなし)にては御座るが、少しばかり趣意も違い、まあ、孰れも後の世にて附会致いた作り話にてはあろうものの、別に一話の、これ、御座れば添えおくことと致す。

 

 芭蕉翁と高弟の嵐雪、これ、ある折り、行脚致いて、とある峠にて、二人して一休み致いて御座った。

 とその峠を少し下った辺りより、

 

  唯あじきなく廻しこそすれ

 

と若き女の声にて、か細く口ずさむのが聴こえた。

 芭蕉翁は、

「……あれは……如何なる謂いで御座ろう……さても、あの句を下の句にし、前句を附けてみられよ――」

との仰せなれば、嵐雪、

 

  本復の憂身に帯の長すぎて

 

と附けた。

 すると芭蕉翁は、凝っと眼を閉じたまま、

「――そうでは――御座るまい。……一つ、我らが附け申そう――」

と、静かに、

 

  ひとり子のなき身の跡の風ぐるま

 

と詠まれた。

 そうして両人、峠を下ったところが、じきに、かの句を詠んだと思しい、しきりに涙にむせんでおる女子(おなご)の御座った。

 そこで、翁は、

「……御身は先に『唯あじきなく廻しこそすれ』とお詠みになられなんだか?……」

と優しく訊ねられた。

 女子は泣きながら、静かに肯んじた。

 されば、

「……そも……かの句……これ、如何なる謂われの御座るものかのぅ?……よろしければ……お聴かせ下さらぬか?……」

と訊ねた。

 すると果して芭蕉が附句致いた通り、

「……はい……妾(わらわ)は先に……がんぜない子(こぉ)を……失(うしの)うて御座いますれば……かく……口ずさんで御座いました……」

と答えた。

耳嚢 巻之八 宗祇宗長歌の事

 宗祇宗長歌の事

 

 宗祇、宗長連れ出(いで)行脚してある馬宿(うまやど)に宿もとめしに、若き女勝手において帶を解(とき)、又は帶をしめ、風車を手に持(もち)て泣(なき)、また捨(すて)ては泣ける故、兩人不審し、是(これ)全(まつたく)亂心なるべしといゝしが、宗長詠(よめ)る、

  戀すれば身はやせにけり三重の帶廻して見ればあじきなの世や

 宗祇之を聞(きき)て、左にあるべからずとて、

  みどり子がなきが記念の風車廻して見ればあじきなの世や

と詠ぜしとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。和歌技芸譚であるが、底本の注で鈴木氏は、『連歌史上の最高峯である宗祇が、高弟の宗長と連れ立って行く途中、頓才を競うというのは類型説話である』が、『後世の仮託であるにしてもこの例は出来が悪い。次の芭蕉嵐雪の取合せの方がまだ巧みである』と酷評されておられる。私も二首の和歌はこれ狂歌の類いで俳言の味わいもなく、宗長の読みの浅さが目立つばかり、しかも前のリアルな悲惨哀れなる光景が光景だけに、如何にも後味の悪い話柄と感じる。これは「耳嚢」中では珍しく、私にとっても厭な一篇である。

・「宗祇」(応永二八(一四二一)年~文亀二(一五〇二)年)言わずもがな乍ら、室町時代の連歌師。生国は紀伊とも近江とも言われ、姓は飯尾とされる。別号に自然斎(じねんさい)・見外斎。連歌を高山宗砌(そうぜい)・専順・心敬に学び、文明四(一四七二)年には東常縁(とうのつねより)より古今伝授を受けた。上京の種玉庵に三条西実隆や細川政元ら公家や大名を迎えては連歌会等を開き、また越後の上杉氏・周防の大内氏らにも招かれて連歌を講じた。長享二(一四八八)年には北野連歌会所奉行・将軍家宗匠となった。文亀二年七月三十日宗長・宗碩(そうせき)らに伴われて越後から美濃に向かう途中、箱根湯本の旅宿に没して駿河桃園(現在の静岡県裾野市)定輪寺に葬られた。享年八十二歳。連歌の代表作には「水無瀬三吟百韻」(長享二(一四八八)年)や「湯山三吟百韻」(延徳三(一四九一)年)がある。(ここまでは主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。ウィキ宗祇には、『宗祇は、連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心」を表現した。全国的な連歌の流行とともに、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった』と記す。

・「宗長」(文安五(一四四八)年~天文元(一五三二)年)は駿河国島田(現在の静岡県島田市)に鍛冶職の子として生まれた。号は柴屋軒。寛正六(一四六五)年に出家し、後に駿河の今川義忠に仕えたが、義忠が戦死すると上洛、宗祇に師事して連歌を学び、「水無瀬三吟百韻」「湯山三吟百韻」などの席に列した。また大徳寺の一休宗純に参禅し、大徳寺真珠庵の傍らに住んで、宗純没後は山城国薪村(現在の京都府京田辺市)の酬恩庵に住んで宗純の菩提を弔った。明応五(一四九六)年、駿河に戻って今川氏親に仕えた。文亀二年に宗祇が箱根湯本で倒れた際にはその最期を看取っている。宗祇没後は連歌界の指導者となり、有力な武将や公家との交際も広く、三条西実隆・細川高国・大内義興・上杉房能らとも交流を持ち、今川氏の外交顧問であったとも言われる。永正元(一五〇四)年には斎藤安元の援助により駿河国丸子の郷泉谷に柴屋軒(現在の吐月峰柴屋寺)を結び、京駿を頻繁に往還、大徳寺山門造営にも関わり、その晩年の見聞を記した「宗長手記」は洒脱な俳諧連歌の生活の外、当時の戦乱の世の世相・地方武士の動静などを綴った優れた記録である(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「馬宿」駅馬・伝馬に用いる馬を用意しておく家、又は自分の馬で旅をする者が宿に泊まる際にその馬を宿で預かるが、その馬を預かる設備のある宿屋のことをいう。後者で採る。

・「記念」底本では「かたみ」と鈴木氏がルビを振っておられる。ここまで和歌類にはルビを振らぬことを私の原則としてきたので、ここは本文に入れずに注で示した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 宗祇と宗長の和歌の事

 

 宗祇(そうぎ)と高弟宗長(そうちょう)とが連れ立って風雅行脚の旅に出、ある馬宿(うまやど)に宿を得た折りのことで御座った。

 その宿屋の身内と思しい若き女が、見通せる厨(くりや)の口にて、

――しきりに帯を解いては締め――また解いては締め

――玩具の風車を手に取っては泣き――またそれを投げ捨てては泣く

といったことを繰り返すのを垣間見て御座った。

 両人ともに不審に思うた。

 宗長は哀れと思いつつも、

「……これは……全くの……乱心にて御座いましょうのぅ……」

と師に耳打ち致いて、一首、

  恋すれば身は痩せにけり三重の帯廻してみればあじきなの世よ

と詠んで御座った。

 すると、宗祇は凝っと女から目を離さず、

「――そうでは――ない――」

と呟かれると、

  みどり子がなきが記念の風車廻して見ればあじきなの世や

と詠じたと申す。

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(5) たそがれ Ⅱ



何やらん我が若者は白壁に

かくれ語りす雪どけの朝

 

始めての床に女を抱く如き

ものめづらしき不安なるかな

 

[やぶちゃん注:朔太郎満二十三歳の時の、『スバル』第二年第一号(明治四三(一九〇二)年一月発行)に掲載された連作の一首、

 始めての床に女を抱く如きものめづらしき怖れなるかな

の類型歌。]

 

八疊の柱どけいのちくたくと

母の忍ばゆ家を思へば

 

春の夜は芝居の下座(げざ)のすりがねを

たゝく男もうらやましけれ

 

[やぶちゃん注:前に同じく『スバル』第二年第一号に前の一首に続けて載る、

 春の夜は芝居の下座のすりがねを叩く男もうらやましけれ

の表記違いの相同歌。]

 

祭の日寢あかぬ床に寺々の

鐘きく如きものゝたのしさ

 

[やぶちゃん注:同じく『スバル』第二年第一号に前の一首に続けて載る、

 祭の日寢あかぬ床に寺寺の鐘きく如きもののたのしさ

の表記違いの相同歌。]

 

民はみなかちどきあげぬ美しき

捕虜(とりこ)の馬車のまづみえしとき

 

[やぶちゃん注:朔太郎満二十三歳の時の、『スバル』第二年第四号(明治四三(一九〇二)年四月発行)に掲載された連作の一首、

 民はみなかちどきあげぬ美しき捕虜(とりこ)の馬車のまづ見えしとき

の表記違いの相同歌。]

 

幼き日パン買ひしに行きしその店の

額のイエスの忘られぬかな

 

[やぶちゃん注:「幼き」の「幼」の字は原本で「力」が「刀」であるが、誤字と断じて校訂本文同様に「幼き」とした。「買ひしに行きし」の「買ひし」の「し」はママ。校訂本文は誤字(衍字)として除去している。以下の先行作から見ても衍字の可能性が極めて強いが、敢えてここはママとする。前に同じく『スバル』第二年第四号に掲載された連作の一首、

 幼き日パン買ひに行きし店先の額のイエスをいまも忘れず

の類型歌。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和七年(七十二句) Ⅲ



さみだれて苔蒸すほどの樒かな

 

[やぶちゃん注:「樒」仏前に供えられるシキミ目シキミ科シキミ Illicium anisatum。「櫁」とも書く。ウィキの「シキミ」によれば、『地方によりシキビ、ハナノキ(カエデ科にも別にハナノキがある)、ハナシバなどともいう。学名にはリンネが命名したIllicium anisatum L.と、シーボルトが命名したI. religiosum Sieb. et Zucc.(“religiosum”は「宗教的な」という意味)が存在するが、リンネのものが有効となっている』。『シキミの語源は、四季とおして美しいことから「しきみ しきび」となったと言う説、また実の形から「敷き実」、あるいは有毒』(全草有毒。特に種子にアニサチンなどの有毒物質を含み、多量に含む果実食べた場合は死に至る危険性もある)『なので「悪しき実」からともいわれる。日本特有の香木とされるが、『真俗仏事論』2には供物儀を引いて、「樒の実はもと天竺より来れり。本邦へは鑑真和上の請来なり。その形天竺無熱池の青蓮華に似たり、故に之を取りて仏に供す」とあり、一説に鑑真がもたらしたとも言われる』とあり、更に『シキミ(樒)は俗にハナノキ・ハナシバ・コウシバ・仏前草という。弘法大師が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた。なにより年中継続して美しく、手に入れやすいので我が国では俗古来よりこの枝葉を仏前墓前に供えている。密教では葉を青蓮華の形にして六器に盛り、護摩の時は房花に用い、柄香呂としても用いる。葬儀には枕花として一本だけ供え、末期の水を供ずる時は一葉だけ使う。納棺に葉などを敷き臭気を消すために用いる。茎、葉、果実は共に一種の香気があり、我が国特有の香木として自生する樒を用いている。葉を乾燥させ粉末にして末香・線香・丸香としても使用する。樒の香気は豹狼等はこれを忌むので墓前に挿して獣が墓を暴くのを防ぐらしい。樒には毒気があるがその香気で悪しきを浄める力があるとする。インド・中国などには近縁種の唐樒(トウシキミ)があり実は薬とし請来されているが日本では自生していない。樒は唐樒の代用とも聞く。樒は密の字を用いるのは密教の修法・供養に特に用いられることに由来する』とある。]

 

花鉢を屋形も吊りて薄暮かな

 

麥秋の紫蘇べらべらと唐箕さき

 

[やぶちゃん注:「唐箕」は「たうみ(とうみ)」と読み、穀粒を選別するための農具。箱形の胴に装着した羽根車で風を起こして秕(しいな:うまく実らずに殻ばかりで中身のない籾のこと。)・籾殻・塵などを吹き飛ばし、穀粒を下に残す装置のこと。]

 

星合の薰するやこゝろあて

 

[やぶちゃん注:「星合」七夕。「薰するや」は「ふすべするや」と読んでいるか。七夕飾りは終えた後に灰が天へ上って願い事が叶うよう(「こゝろあて」)にと、お焚き上げなどと称して燃やす(習合した日本古来の魂祭りから考えると、川や海に流すものが古形であったと私は思う)。]

 

石枕夜闌の水にうつりけり

 

[やぶちゃん注:「石枕」夏に用いる陶製の枕。陶枕(とうちん)。「夜闌」は「やらん」で真夜中の意。]

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年六月



トマト賣る裸ともしは鈴懸に

 

[やぶちゃん注:「裸ともし」は「裸灯し」であろう。ホヤなしのランプかアセチレンか。]

 

太陽を孕みしトマトかくも熟れ

 

灼け土にしづくたりつつトマト食ふ

 

月靑く新聞紙(カミ)をしとねのあぶれもの

 

ルンペンの寢に噴水の奏でけり

 

[やぶちゃん注:以上の二句は『現代俳句 3』とあるが、これは雑誌ではなく、鳳作没後の昭和一五(一九四〇)年に河出書房から刊行された「現代俳句」第三巻のことと思われる。

 鳳作得意のルンペン句。「ルンペン」はドイツ語“
Lumpen”(ルムペン:動詞では「のらくらと暮らす・放蕩生活をする」、名詞では「襤褸布(ぼろきれ)・襤褸服」「屑・がらくた」で、無頼の徒・ゴロツキや広く浮浪者を指す場合には正しくは“Lumpengesindel”(ルムペングズィンデル)と言う)を語源とする。作家下村千秋(しもむらちあき 明治二六(一八九三)年~昭和三〇(一九五五)年)が震災恐慌から世界大恐慌へと続いた経済破綻によって大正末から昭和初期にかけて巷に溢れていた失業者や浮浪者のどん底生活の実態を克明に描いた新聞小説「街のルンペン」(昭和五(一〇三〇)年朝日新聞夕刊連載)が評判となったことから一般に広まった語である(彼の作品は『ルンペン小説』『ルンペン文学』とも呼ばれた)。後半部は茨城県稲敷郡阿見町の公式サイト内「観光」の阿見が生んだルンペン文学の小説家 下村千秋を参照した。]

 

   公園所見

ルンペンの早やきうまゐに夜霧ふる

 

ルンペンに今宵のベンチありやなし

 

[やぶちゃん注:本句も『現代俳句 3』とある。]

 

南風の岩にカンバス据ゑて描く

 

海描くや髮に南風ふきまろび

 

[やぶちゃん注:前田霧人氏の「鳳作の季節」によれば、この句について、『この頃、彼は教師の欠員に伴い、公民、英語以外に図画の授業を受け持つようにな』り、それは『こんな句があるから、新学年のこの四月からのことなのであろう。彼は生徒と一緒に野山に海に出掛け、実に熱心に指導する。その結果、赴任当初の短歌や俳句指導の時と同じように、学校全体が絵に熱中し出す。そして、尚介が幹事となって「宮古中学白陽画会」が出来て、「美術賞」を設け展覧会を催すまでになる。このように、何時でも誰にでも直ぐに火を付ける雲彦であった』として、宮中健(これは下宿の同僚の慶徳健で彼のペンネームとある)氏の「篠原鳳作の印象」から『「天の川」昭和三十六年三月号篠原さんは、下宿では絵も書きました。スケッチブックに水彩といった簡素なものでしたが、トランプを真上から描いたものは、今でも鮮明に頭にのこっています。この構図も感覚も、句につながるものがあると思います』と引用、『雲彦は生徒の前では余り絵を描く姿を見せなかったが、彼にとっては絵画も写真も大いなる俳句の糧であり、人知れず努力を惜しまないのであった』とある。

 

 以上、九句は六月のパートに載る。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅵ 信濃抄四(1)

 信濃抄四

 

いづこにもいたどりの紅木曾に泊つ

 

一夜寢て晩ひぐらしを枕もと

 

足袋買ふや木曾の坂町夏祭

 

いなびかりつひに我灯も消しにけり

 

走り出て湖汲む少女いなびかり

 

秋燕にしなのの祭湖(うみ)荒れて

 

[やぶちゃん注:「秋燕」特に秋の社日(しゃにち:元来は産土神(社)を祀る日で春分と秋分に最も近い、その前後の戊の日を指す)である秋社(あきしゃ)の日に南へと渡り帰ってゆく燕を指す。例えば今年二〇一四年のそれは九月二十四日に当たる。]

 

草の中ひたすすみゆく秋の風

 

雀ゐて露のどんぐり落ちる落ちる

 

木の實落つわかれの言葉短くも

杉田久女句集 143 水焚や入江眺めの夕時雨



水焚や入江眺めの夕時雨

 

[やぶちゃん注:「水焚」は「みづたき(みずたき)」で水辺での榾火と思われるが、これもロケーションから見て私は高い確率で櫓山荘での景と思う。]

日和   山之口貘 / 「山之口貘詩集」了

 日和

 

とうさんの商賣はなんだときくと

ひつぱつてゆくんだと彼女は云つた

おまはりさんなのかと思つてゐると

ひつぱつてゆくんだがうちのとうさんは人夫ではないよと彼女は云つた

ひつぱつてゆくんだが人夫ではない

おまはりさんでもなかつたのか

いつたいなんの商賣なんだときくと

人夫を多勢ひつぱつてゆくんだと云ふ

けれども彼女のとうさんは線路の傍に立つてゐて

人夫達のするしごとを

見てゐるだけだと彼女は云つた

人夫のかんとくさんだらうと云ふと

身悶えしながら彼女は云つた

おまへもうちのとうさんに

職を見つけてもらへと云つた

だまつてゐると

話をしろと云ひ

話をするとする話をもぎとつて

すぐに彼女は挑むで來る

どうせ職ならいつでもほしくなるやうにと僕のおなかはいつでもすゐてゐるのだが

男みたいな女を

こひびとなんかにしてしまつたこのことばかりは生れてはじめてのこと

おまへとはなんだいと呶鳴つてやれば

おまへのことだよなんだいと云ひ

女のくせになんだいと呶鳴つたら

るんぺんのくせになんだいと來た。

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】初出は昭和一四(一九三九)年四月特大号『新潮』。次の「あとがき」でお分かりの通り、この詩がこの「山之口貘詩集」の中で追加された新作の中で、最古(最も前に創作された)の詩である。発表時、バクさん三十六歳。この二ヶ月後の六月に生まれて初めてのそしてたった一度の定職としての東京府職業安定所に勤めることとなる。但し、ここに現われる女性は内容からして当時の妻の静江さんではない(静江さんの父は小学校校長)。従ってこのシークエンスは昭和一二(一九三七)年十二月の結婚よりも遙か前の時制であるので注意されたい。

 原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本山之口貘詩集」では最後の句点が除去され、十九行目が、

 

すぐに彼女は挑んで來る

 

となり、また二十行目が、

 

どうせ職ならいつでもほしくなるやうにと僕のおなかはいつでもすいてゐるのだが

 

と訂されてある。]

 

 

 

 あとがき

 

 この詩集の初版本は、昭和十五年(一九四〇)の十二月に、山雅房から出した「山之口貘詩集」である。

 ぼくは、昭和十三年(一九三八)の八月に、むらさき出版部から「思弁の苑」を出してゐるので、「山之口貘詩集」は第二詩集なのであるが、このなかには「思弁の苑」がそつくり含れてゐるのである。

 「思弁の苑」にをさめた詩篇は、大正十二年(一九二三)から昭和十三年(一九三八)までのもの五十九篇であつて、それにその後のもの昭和十五年(一九四〇)までの十二篇を新に加えて、七十一篇をまとめたのが「山之口貘詩集」である。

 この詩集は、間もなく、紙さへ入手出出来れば版を重ねたいとのことであつたがあの戦時下、紙はつひに入手困難となつて、再版の話がそのまま立ち消えになつてしまつたのである。

 敗戦後の昭和二十三年には、「山之口貘詩集」以後のものを一巻にまとめたいとの話が、八雲書店からあつたが、当時、ぼくにはまだその気がなく、「山之口貘詩集」の再版を希望したのである。と云ふのは、この詩集を探してゐる人達のあることを、時に、手紙で知つたり、人づてに知つたり、あるひは訪ねて来る人の口から知つてゐたからなのであつて、どの人も古本屋など探し廻つた揚句の様子なのであり、ぼく自身も、機会あるごとに探してゐたからなのである。見つからないのは、おそらく、戦災で灰になつたのではないかと思ふより外にはなく、そんなわけで、八雲書店から再版を出すことになつたのである。ところが原稿が校了になつたかと思ふとまもなく、印刷所で紙型が焼失の目に逢ひ、そのうちに八雲書店の解散でまたも再版は立ち消えとなり、ゲラ刷だけが、ぼくの手許に戻つて来て、今日までそのままになつてゐたのである。

 そこへ、最近、同郷の若い人達から、またまた再版を出したいとの話があつて国吉昭英、山川岩美の両君が、並々ならぬ厚意を寄せて色々と相談の途上にあつたところ、突然ではあつたが、両君にはぼくから諒解を求めた上、別に、原書房から、定本として出すことになつたのである。これは、佐藤光一、並びに、原書房の成瀬恭の両氏のお骨折りによるもので、両氏に感謝するとともに、山川、国吉の両君またなにかとお手数煩した会田綱雄の三君の名をここに記して感謝のしるしとしたい。

 なほ、初版本で、目次にある作品番号と旧歴年号、木炭と詩集ケースのデザイン、肖像写真の撰定などは、當時の山雅房と深い親交のあつた詩友平田内蔵吉氏の厚意によつて配慮されたものであるが、定本を出すに当つてこれを割愛し、また著者自身の校正が不行届のために、誤字誤植もあつたわけで、これの訂正もこころがけ、本来、詩の上ではなるべく句読点を避けて来た自分に即して、句読点を取り除いたことを記し、忙中この定本の校正をこころよく引き受けてくれた畏友光永鉄夫氏に感謝する。

1958・7・8

           山之口貘

 

 

 

 附記

 

三四頁―二行三行目はもと一行。(上り列車)

一二九頁―終りから三行目、四行目はもと一行。(夢の後)

一三七頁―終りから三行目、四行目はもと一行。(青空に囲まれた地球の頂点に立つて)

一三八頁―終りから三行目、の「はつきり」はもと「つきり」(同)

一四四頁―二行目と三行目の頭から―を除いた。(妹へおくる手紙)

一五二頁―二行目の「おとなしく」はもと「しく」(無題)

一五三頁―一行目の「鞴」ほもと「吹鼓」(同)

一七八頁―二行目の「いいえ」はもと「否え」(座談)

二〇二頁―三行目の頭から―を除いた。(晴天)

二〇三頁―二行目の頭から―を除いた。(同)

 その外、ゝ、をあらため、蟲を虫、喰を食にあらためたことを記しておきたい。詩篇の配列は初版本とおなじで、巻末から巻頭へ製作の順である。

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、「あとがき」にミス・タイプや旧字を多数発見したため、本文を訂正、さらにこの注も改稿した。】「附記」の中の太字部分は底本では傍点「ヽ」。なお、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題に載る「附記」を見ると、各項の下のポイント落ちの( )のついた詩題は旧全集編者によるものであるらしいことが分かった。以上の「あとがき」と「附記」は戦後の原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」で初めて附されたものである。従って漢字表記は底本通りの新字体とした。因みに、「附記」にある訂正は私の電子テクストでは総て原型のそれであり、改稿の異同は句読点の有無を含めて(底本の旧各注ではこれは校異に示されていないので、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」で対比検証した)附してある。]

春   八木重吉

 

春は かるく たたずむ

さくらの みだれさく しづけさの あたりに

十四の少女の

ちさい おくれ毛の あたりに

秋よりは ひくい はなやかな そら

ああ けふにして 春のかなしさを あざやかにみる

2014/03/25

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 五 受精 (1)

    五 受精

 動物植物ともに單爲生殖により卵細胞のみで繁殖する場合もあるが、これは寧ろ例外であつて、まづ卵と精蟲とが相合しなければ子が出來ぬのが一般の規則である。卵細胞と精蟲との合することを受精と名づける。雞のやうな大きな卵と極めて微細な精蟲とが相合する所を顯微鏡で見ることは困難であるが、小さな卵ならばこれに精蟲が入り込む有樣を實際に調べることは何の困難もない。例へば夏雌の「うに」を切り開いて成熟した卵細胞を取り出し、海水を盛つた硝子皿の中に入れ、これを顯微鏡で見て居ながら、別に雄の「うに」から取り出した精蟲を海水に混じたものを、一滴その中へ落し加へると、無數の精蟲は尾を振り動かして水中を游ぎ、卵細胞の周圍に集まり、どの卵細胞も忽ち何十疋かの精蟲に包圍せられるが、その中たゞ一疋だけが卵細胞の中へ潜り込み、殘餘のものは皆そのまゝ弱つて死んでしまふ。以上は人工受精と名づけて臨海實驗場などで、學生の實習として年々行ふことであるが、注意して觀察すると、なほさまざまなことを見出す。まづ第一には精蟲が卵に出遇ふのは、決して目的なしに游ぎ廻つて居る中に偶然相觸れるのではなく、殆ど直線に卵を目掛けて急ぎ行くことに氣がつく。その際精蟲は恰も目無くして見、耳なくして聞くかの如く、最も近い卵を狙つて一心不亂に游ぎ進むが、これは如何なる力によるかといふに、下等動物の精蟲が、悉く砂糖や林檎酸の溶液の方へ進み行く例を見ると、或は卵が何か或物質を分泌し、それが水に混じて次第に擴がつて近邊に居る精蟲を刺激し、精蟲はその物質の源の方へ游ぎ進むので、終に卵に達するのかも知れぬ。いづれにせよ、卵は精蟲を自分の方へ引き寄せる一種の引力を有し、精蟲はこの引力に對して到底反抗することが出來ぬものらしく見える。

[やぶちゃん注:「卵が何か或物質を分泌し、それが水に混じて次第に擴がつて近邊に居る精蟲を刺激し、精蟲はその物質の源の方へ游ぎ進むので、終に卵に達するのかも知れぬ」ここで丘先生によって語られるところの受精の際に見られる精子の卵に対する正の走化性の存在は、植物から動物まで広く見られる現象であって、精子が最初に同種の卵を識別した上、更には精子を卵まで導くシステムが厳然としてあることは間違いないことは明らかとなっている。但し、卵が放出する精子誘引物質が種によって異なることが知られてはいるものの、放出されるその精子誘引物質が極微量であることから、その化学物質が同定されている動物種は未だ十種に満たず、その分子メカニズムも殆ど解っていないのが現状である(以上は東京大学の二〇一三年の報告になる吉田学氏他の「ホヤ精子走化性の種特異性をもたらす精子誘引物質の構造の違いを解明の記載を参照した)。]

中島敦 南洋日記 一月二十七日

        一月二十七日(火) ガスパン

 午前中農園内散歩。コーヒー・カカオ(赤き實)丁香・胡椒・マンゴステイン等。午後小林氏の案内にて又歩き廻る。蔓草ヷニラ。芭蕉に似たるマニラ麻。パナマ草。食用べに。黄色のトマトの如き茄子。アボガドオ・ペア其の他。地に舖けるサラワク・ビーンズ。園内の荒廢せると、地味の瘦せたるに一驚。小林氏方にて紅茶、蜂蜜。ミルク。三時出發、天氣快晴。秋の如し。一寸道を誤りて熱産波止場の方に出で、引返して、川傍を行く。粘土道。一時間足らずにしてガスパン莊に達す。この邊にては川は既に溪谷の趣あり。志水氏の世話に成る。子供多勢。事務所に行きし土方氏、志水氏と歸り來る。臺北帝大に永く勤めし人にて下川氏とも良く知れりと。又泱ちやんのことも知れり。芋の如く太きバナナ。夜、庭に席を出し、椅子卓子を出して月を觀る。小學校長も來る。頗る涼し。飛行機鳥の聲。九時就寢。

[やぶちゃん注:「丁香」中黒点が前にないが、「カカオ丁香」ではあるまい。丁香は音「ちやうかう(ちょうこう)」で、所謂、丁子(ちょうじ)・クローブ(英語:Clove)即ち、バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum のことであろう。これで「ちやうじ(ちょうじ)」と読んでいる可能性も高い。但し、狭義には「丁香」と書くとチョウジノキの開花前の蕾(つぼみ)を乾燥させた生薬や香辛料の名である。インドネシアのモルッカ群島原産の常緑高木で東南アジアやアフリカなどで栽培される。芳香があり、葉は楕円形で両端が尖る。筒状の花が房状に集まってつき、蕾は淡緑色から淡紅色へと変化して開花すると花弁は落ちる。つぼみからは油も採取だれる。

「蔓草ヷニラ」バニラ・ビーンズ、バニラ・エッセンス、バニラ・オイルを採取する蔓性植物である単子葉植物綱ラン目ラン科バニラ Vanilla planifolia。種小名“planifolia”はラテン語で「扁平な葉」の意(以上はウィキの「バニラ」に拠る)。

「芭蕉に似たるマニラ麻」単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属マニラアサ Musa textilis。ご覧の通り、「芭蕉に似たる」は当然。参照したウィキの「マニラアサ」によれば、『丈夫な繊維が取れるため、繊維作物として経済的に重要で』、『名称の「マニラ」は原産地であるフィリピンの首都・マニラに由来する。分類上はアサの仲間ではないが、繊維が取れることから最も一般的な繊維作物である「アサ」の名がついている。他にアバカ、セブ麻、ダバオ麻とも呼ばれる』。『フィリピン原産で、ボルネオ島やスマトラ島にも広く分布する。植物学的には多年草であるが、高さは平均』六メートル『に達するため木のように見える。これは同属のバナナと同様であり、外見もよく似ている』。『葉は楕円形で大きく、基部は鞘状で茎を包むようになっており(葉鞘)、ここから繊維が取れる』。『マニラアサの繊維は植物繊維としては最も強靭なものの1つである。またマニラアサは水に浮き、太陽光や風雨などに対しても非常に高い耐久性を示す。ロープをはじめ、高級な紙(紙幣や封筒)、織物などに用いられている。マニラアサは3―8ヶ月ごとに収穫される。生長した個体は根を残して切り倒し、葉鞘を引き剥がす。残された根からは新しい植物が生長する』。『葉鞘からは肉質などを除去し、繊維だけを取り出す。繊維はセルロース、リグニン、ペクチンなどで構成されており、長さは』一・五~三・五メートル『である。これをよりあわせるとロープができる』。『フィリピンでは1800年代からロープ用に栽培されており、1925年にはフィリピンでの栽培を見たオランダ人によってスマトラ島に大規模なプランテーションが作られ、続いて中央アメリカでも米国農務省の援助で栽培が始まった。英領北ボルネオでは1930年に商業栽培が始まった』とある。

「パナマ草」単子葉植物綱ヤシ亜綱パナマソウ目パナマソウ科 Cyclanthaceae に属し、ヤシに似た葉を持つ。主に熱帯に産し、凡そ十二属百八十種を含む。この内のパナマソウ Carludovica palma がパナマ帽(この帽子の発祥は実はパナマではなくエクアドルで、「パナマ帽」の名称由来はパナマ運河であるとする説が強く、「オックスフォード英語辞典」では「一八三四年にセオドア・ルーズヴェルトがパナマ運河を訪問したときから一般に広まった」としている。ここはウィキの「パナマ帽」に拠る)の材料であったために同類総体の植物にも「パナマソウ」の名がついたという。自生種は熱帯アメリカと西インド諸島に分布し、高さ一~三メートルほど、大きな団扇状の葉が広がる。花はサトイモ科に似、果実は熟すと剥け落ちて朱赤色の果肉が現れる。葉を天日で乾燥させ、さらに煮沸した後に漂白したものをパナマ帽の材料とする(ここは「Weblio 辞書」の「植物図鑑」の「パナマソウ」に拠った)。

「食用べに」種子から搾ったサラダ油として使用される紅花油(サフラワー油)やマーガリンの原料としたりする、エジプト原産とされるキク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ Carthamus tinctorius のことであろう。

「黄色のトマトの如き茄子」現在、“Eggplant Thai Yellow Egg”と呼ばれるタイ料理ではポピュラーな鮮やかな黄色い卵型のまさにプチ・トマトのような茄子があるが、それか、その仲間か。グーグル画像検索「Eggplant Thai Yellow Egg

「アボガドオ・ペア」ここはこれの一語でクスノキ目クスノキ科ワニナシ属アボカド Persea Americana を指す。アボガドは英語で“avocado”であるが、別名“alligator pear”とも言う。ウィキの「アボガド」によれば、昭和四十(一九六五~一九七五)年代『までは、果実の表皮が動物のワニの肌に似ていることに由来する英語での別称 alligator pear を直訳して、「ワニナシ」とも呼んでいた』とある。

「サラワク・ビーンズ」ネット上ではサラワク豆と呼称する豆類は見たらない。マレーシア産のホワイト・ペッパーを現在ではサラワク・ペッパーと呼んでいるが、英文検索で“Sarawak beans”を掛けると、圧倒的に“Coffee Beans in Sarawak”が引っ掛かる。これかと思えば、どうもこれは一種の胡椒入りフレーバー・コーヒーで、同一物であるようにも見える。御存じの方の御教授を乞うものである。

「泱ちやん」人名であろうが不詳。呉音は「アウ(オウ)」、漢音は「アウ(オウ)・ヤウ(ヨウ)」で、意味は、水面が広々とした・洋々たる、気宇壮大な・堂々たるという意。人名漢字としては「ひろし」とも読めるのでここでもそうかもしれない。

「飛行機鳥」不詳。敦の「環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――」の「眞晝」の末尾に、

   *

 少年について一歩日向の砂の上に踏出した時、タマナ樹の梢から眞白な一羽のソホーソホ鳥(島民が斯う呼ぶのは鳴き聲からであるが、内地人は其の形から飛行機鳥と名付けてゐる)が、バタバタと舞上つて、忽ち、高く眩しい碧空に消えて行つた。

   *

とある(底本は筑摩版旧全集を用いた。「バタバタ」の後半は底本では踊り字「〱」)とはある。鳥類にお詳しい識者の御教授を乞う。

飯田蛇笏 靈芝 昭和七年(七十二句) Ⅱ 長禪寺に、故四俳人の追悼會をいとなむ。五句

  長禪寺に、故四俳人の追悼會をいとなむ。五句

雲へだつ筑紫の春の紅々忌

 

[やぶちゃん注:「長禪寺」現在の山梨県甲府市愛宕町にある臨済宗で甲府五山の一つである長禅寺か。以下の四人は甲府若しくは山梨の出身の『ホトトギス』系俳人ででもあったものか。但し、「紅々忌」紅々という俳人若しくは「紅々忌」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

巨人忌の大嶺に日はたゞよへり

 

[やぶちゃん注:「巨人忌」巨人という俳人若しくは「巨人忌」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

まつりたる皷緒忌の花の馬醉木かな

 

[やぶちゃん注:「皷緒忌」「こちよ(こちょ)」か。皷緒という俳人若しくは「皷緒忌」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

夢拙忌の供華しろじろと籠の中

 

[やぶちゃん注:「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」。「夢拙」ネット上の情報では一九一〇年代(明治四十三年~大正八(一九一九)年)のアメリカで『ホトトギス』派であったサンフランシスコの『日米新聞』の「蝉蛙会(せんあかい)」の主力メンバーに古屋夢拙(ふるやむせつ 本名(?)晃)という人物がいることが分かるが、彼か?]

 

山池のそこひもわかず五月雨るゝ

 

[やぶちゃん注:「そこひ」は「底方」で水底の意。]

杉田久女句集 142 戲曲讀む冬夜の食器漬けしまゝ



戲曲讀む冬夜の食器漬けしまゝ

 

[やぶちゃん注:久女が「冬」の「夜」に「食器」を厨の桶の中に「漬けしまゝ」に食い入るように「讀」んでいる「戲曲」――となれば――これは如何にもながら――イプセンの「人形の家」――でなくてはなるまい――。[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年の作。久女が「冬」の「夜」に「食器」を厨の桶の中に「漬けしまゝ」に食い入るように「讀」んでいる「戲曲」――となれば――これは如何にもながら――イプセンの「人形の家」――でなくてはなるまい――。編年式編集の角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」ではまさにこの句の後に「足袋つぐやノラともならず教師妻」が載る――

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅴ



冬雲の北のあをきをわが恃む

 

雨風の連翹闇の中となる

 

縫ひすすむ針よりも衣ひゆる夜ぞ

 

子とあれば吾いきいきと初蛙

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年五月



麥秋の丘は炎帝たたらふむ

 

トマトーの紅昏れて海暮れず

 

トマトゥの紅昏れて海くれず

 

[やぶちゃん注:前者が五月発行の『天の川』の、後者が六月発行の『傘火』の発表句。

最後の句を除く、三句は五月の発表句。]

紙の上   山之口貘

 紙の上

 

戰爭が起きあがると

飛び立つ鳥のやうに

日の丸の翅をおしひろげそこからみんな飛び立つた

 

一匹の詩人が紙の上にゐて

群れ飛ぶ日の丸を見あげては

だだ

だだ と叫んでゐる

發育不全の短い足 へこんだ腹 持ちあがらないでつかい頭

さえづる兵器の群れをながめては

だだ

だだ と叫んでゐる

だだ

だだ と叫んでゐるが

いつになつたら「戰爭」が言へるのか

不便な肉體

どもる思想

まるで砂漠にゐるようだ

インクに渇いたのどをかきむしり熱砂の上にすねかへる

その一匹の大きな舌足らず

だだ

だだ と叫んでは

飛び立つ兵器をうちながめ

群れ飛ぶ日の丸を見あげては

だだ

だだ と叫んでゐる。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一四(一九三九)年六月号『改造』。二年後の一九四一年十二月二十日山雅房(本詩集の刊行元)発行の『現代詩研究第一輯 戦争と詩』にも再掲されている。「定本 山之口貘詩集」では最後の句点が除去されてある。

 全共闘世代の「詩人」と自称しておられる黒川純氏のブログ「懐かしい未来」の『検閲逃れた反戦の叫び 山之口貘の傑作詩「紙の上」』が、非常に分かり易く本詩の持つ反戦性について語っておられる。必読である。【2014年月日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加・改稿した。】

耳嚢 巻之八 狸縊死の事

 

 狸縊死の事

 

 狐狸といへど、狸は人を欺(あざむき)迷わす事抔、狐には遙に劣りて其性(しやう)魯鈍なる事多し。近き頃の事なりとや、本鄕櫻馬場のあたりに、酒屋とか又は材木屋とかありしが、久敷(ひさしく)召(めし)仕ふ丁稚上りの若き者あり。又田舍より出て同じく仕へし小女ありしが、いつの程にかわりなく契りを結び、始終夫婦に成(なる)べしとかたく約しけるに、不計(はからず)も彼(かの)女の在所より、聟(むこ)とるとて暇乞(いとまごひ)願ひけるを聞(きき)て、二人とも大きに驚き、かくては兼ての契約も事遂(とげ)ずと、互に死を極(きは)めて、俱(とも)に未來の事抔約し、夜々櫻の馬場へ忍びて相談せしが、無程(ほどなく)主人よりも暇可遣(つかはすべき)期日など申渡(まうしわたし)ける故、最早延々に難成(なりがたく)、あすの夜こそ櫻の馬場にて首縊(くくら)んと約し、男は外(そと)へ使(つかひ)に行(ゆき)し間、何時(なんどき)ごろ右馬場に待合(まちあへ)よと申合(まうしあはせ)て、男は主用(あるじよう)の使に出、其事とゝのひて暮過(くれすぎ)に馬場へ來りしに、はや女は來り居て、彌(いよいよ)と約を極め、男女支度の紐を櫻に結び付(つけ)、二人とも首へまとひ、木より飛(とび)けるに、女はなんの事なく縊(くび)れ死し、男も首しめけれど、地へ足とゞきけるゆゑ、誠に死に不至(いたらず)。然るにかの約せし女又壹人來り、男のくるしむ體(てい)、且(かつ)我にひとしき女首縊(くく)り居(をり)候ゆゑ驚き入(いり)、聲たてければ、あたりより人集(あつま)りて見るに男は死にやらず居(をり)ければ、藥抔あたへ息(いき)出るに付(つき)、いさいの樣子を尋(たづね)ければ、いまは隱すに所なく、男女とも有(あり)のまゝに語りけるゆゑ、さるにても縊死(いし)せし女はいかなる者と尋しに、惣身(さうみ)毛生(はへ)出で狸にぞありける故、早々驚(おどろき)て主人へも告(つげ)けるに、男女とも數年實體(じつてい)に相勤(あひつとめ)、死をまで決するとは能々(よくよく)の事、何か死するに及ぶべしとて、主人より親元へも申含(まうしふくめ)、夫婦(めおと)に成しける由。しかるに彼(かの)狸はいかなる故にて縊死せるや、其分(わけ)は不知(しらざれ)ども、彼男女度々櫻の馬場にて密契(みつけい)死(し)を約せしを聞(きき)て、慰む心ならん、我死すべきとは思はざれど誤りて己(おのれ)死して、却(かへつ)て男女の媒(なかだち)せしと一笑して、或(ある)人語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。意味不明の間の抜けた妖狸譚ではある。

・「本郷櫻馬場」文京区一丁目の東京医科歯科大学が建っている付近。湯島聖堂の東北直近であるが、「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年夏頃には既に馬場はなくなっており、切絵図を見ると「江川太郎左エ門掛鉄砲鋳場」とある。

・「彌(いよいよ)」は底本のルビ。

・「早々」底本では右に『尊經閣本「左右」』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 狸の縊死の事

 「狐狸」と並べて謂い慣わしはするものの、狸は人を欺き迷わす事なんどに於いても狐に比ぶれば遙かに劣っており、その性(しょう)はこれ、大方、魯鈍なところの多いものにて御座る。

 近き頃の事とか、本郷は桜の馬場辺りに――酒屋であったか材木屋であったか――ともかくも、とある大店(おおだな)の御座った。

 ここに年久しぅ召し仕(つこ)うて御座った丁稚(でっち)上りの若き手代のあり、また、同じお店(たな)に田舎より出で来て、同じく年来仕うて御座った下働きの小女(こおんな)も一人あったが、この二人、いつとはなしに惹かれ合い、秘かに恋仲ともなって、契りなんどまでも結んで、常日頃より、近い将来、きっと夫婦(めおと)になって添い遂げんと、堅く約束致いて御座った。

 ところが図らずも、かの女の在所方より、娘には聟(むこ)をとることと相い成ったればとて、娘奉公の暇乞(いとまごい)を願い出でて御座った。

 このこと聞くや、二人ともに大きに驚き、かくなる上は、かねてよりの固き契りの約束事も、最早これまで、遂ぐる能(あた)わざることとなったればこそ、と、今度は互いに、秘かに死なんと決し、ともに来世の契りなんどまでも約しては、夜々(よなよな)二人、桜の馬場へと忍び出でて、ただただ、その相対死(あいたいじに)の仕儀に就きて、心寂しゅう、語り合って御座ったと申す。

 さてもほどのぅ、主人よりも、娘への奉公の暇(いとま)遣すべき期日なんどまで申し渡されたによって、最早、心中の儀、これより延引なり難きことと相い成ったれば、男は、

「――明日の夜こそ、桜の馬場にて首縊(くびくく)ろうぞ。――我ら、外(そと)へ使いに参るによって、〇時(どき)頃――かの馬場にて待ち合わすと――致そうぞ……」

と『桜の馬場心中』と約し、委細申し合わせて御座った。

 かくして男は主(あるじ)の用にて使いに出で、最後のご主人さまから受けた仕事をしっかりとやり終えた上で、暮れ過ぎには馬場へと辿り着いて御座った。

 約束の刻限にはいまだ間のあったれど、早々既に女の来たっておったによって、

「……さても……いよいよ……よいな……」

と心中の契りを確かめ、

……桜の太き下枝に二人して乗り

……そこより男も女も

……支度の紐を高き枝に結いつけ

……二人同時に首へと紐を纏い

……乗りかけたる木(きぃ)より

――飛んだ!…………

――さても

――女はあっと言う間に縊びれ死んでしもうた

――が

――男も紐に首を絞められはしたものの

――最初に乗りかけた下枝の高さがこれ

――男の身の丈に十分に足りておらなんだによって

――地面へ足先が

――届いてしもうた。

 されば、辛くも死に至らず、苦し紛れに爪先立ち、喉(のんど)掻き毟っては苦しんで、兎か飛蝗(ばった)の如く、跳ね回って御座った。

……ところがそこへ

……かの心中を約した女と

……そっくりの女が!

……また一人来った!

――男の苦しむ体(てい)!

――かつうは!

――自分に寸分違(たが)わぬそっくりな女が!

――これ! 首縊(くびくく)って桜の木(きぃ)に!

――ぶらんと!

――ぶら下がって――おる!!

さればこそ、驚くまいことか、腰を抜かして地べたに引っ繰り返ると同時に、

「ああぁれえぇっ!!!」

と金切声を立てた。

 されば、馬場近辺より人々の集まり来っては、手分けして救わんものと、ぶら下がって御座った方の女の紐を切って地に横たえてはみたものの、とうにこちらはこと切れて御座った。

 されど、男は辛うじて爪先を地に突っ挿して死にもせずに気を失って御座ったればこそ、すぐに紐を裁って気付け薬なんど与えたところが、息を吹き返したによって、かくなったる仕儀の委細様子を糺いたところ、

「……今となっては……我ら……隠しようも……御座らぬ……」

と男女とも神妙に、ありのままのことを語って御座った。

 話を聴き終えた一人が、

「……いや……それにしても、かの縊死(いし)致いた娘は……これ……如何なる者じゃ?……」

と、恐る恐る遺骸の傍に寄ってよぅ見てみた――ところが!

――娘の顔や髷や首

――手(てえ)や足

――その惣身(さうみ)に

――これ

――毛(けえ)の

――モジャモジャ――モジャモジャ――

――生え出でて!

――小袖を被った狸と――相い成って御座った!

されば、その場におった者どもは皆、これまた、吃驚仰天致いて御座った。

 ともかくもと、二人を見知っておった者が、早々にお店(たな)へと走って、主人(あるじ)方へも告げ知らせて御座ったが、顛末を聴いた主人(あるじ)は、

「……二人とも数年に亙って実体(じってい)に相い勤めてくれた者たちじゃ……死をまでも決すると申すは、これ、能々(よくよく)のこと……二人の思いは、確かに知れた!――何の! 死するに及ぶことの、これ、あろうものか!」

とて、主人より娘の親元へも重々言い含めて、二人を晴れて夫婦(めおと)となした、とのことで御座る。

 ……それにしても……この娘に化けたる狸……如何なる訳にて、これ、縊死致いたもので御座ろう?……

……これ、かの男女、度々桜の馬場にて密会致いて、果ては密契(みっけい)して死をも約して御座ったるその顛末を……この狸の、笹藪の内にあって一部始終聞いておったるうちに……

……畜生ながらも……何やらん、同情の心でも起ったものか?……

……流石に狸自身は死のうとは思うては御座らなんだはずであるが……

……自らの身の丈をうっかり忘れ、高きに下枝に誤りて登ったればこそ……

「……この狸、自身は死して、かえって、この男女(ふたり)の媒酌(なかだち)を致いたという訳で御座る。……」

と一笑して、ある御仁の語って御座ったよ。

怒り   八木重吉

 

かの日の 怒り

ひとりの いきもののごとくあゆみきたる

ひかりある

くろき 珠のごとく うしろよりせまつてくる

2014/03/24

芥川龍之介手帳 1-5

femme homme(梅毒)

     ←―

      │

     別居

[やぶちゃん注:「femme」フランス語で女・婦人、「homme」フランス語で男・(俗語で)夫。この図式は大正九(一九二〇)年発表の「南京の基督」のシノプシスと関連があるように私には感じられなくもない(リンク先は私の電子テクスト)。]

 

○揉然 圓柄方鑿 炳燿 錘鍊の功 婉孌綽約 鏤骨腐心亢として窮晷を白頭に惜む

[やぶちゃん注:語彙集メモ。

「揉然」は「じうぜん(じゅうぜん)」で、「揉」は揉み和らげる・和らげ懐かせる・撓めるという謂いであるから、ひいては懐柔するというニュアンスも含むものあろう。

「圓柄方鑿」は「えんぜいほうさく」と読み、「円鑿方枘(えんさくほうぜい)」「円孔方木(えんこうほうぼく)」と同義。円い穴に四角な枘(ほぞ)を入れようとする意で、物事がうまく嚙み合わぬ譬え。「史記」の「孟子荀卿伝」に基づく。

「錘鍊の功」「錘鍊」は「ついれん」と読み、鍛えること、鍛錬と同義であるから、刻苦勉励した結果の業績をいうのであろう。

「婉孌綽約」「婉孌」は「ゑんれん(えんれん)」で、年若くして美しく可憐なことで、「綽約」は「しやくやく(しゃくやく)」姿がしなやかで優しいさま、嫋(たお)やかなさまであるから、若く魅力的な女の容姿の形容である。

「鏤骨腐心亢として窮晷を白頭に惜む」この一連の文字列では類似の文は見当たらない。「鏤骨」は「るこつ」「ろうこつ」で、骨身を削るようなの苦心や努力のことで、一般には「彫心鏤骨(ちょうしんるこつ/ちょうしんろうこつ)」で心に彫りつけ、骨に刻みこむ意から、苦心して作り上げること、苦心して詩文を練ることをいう。「腐心」はある事を成し遂げようと心を砕くことであるから、「彫心」とは相同ではある。「亢として」の「亢」は「かう(こう)」と読み、原義は頭を上げてすっくと立つことで、「亢として」は強い自負心とともに奢り昂ぶるの謂い、「窮晷」は「きゆうき(きゅうき)」で、「晷」は日影のことであるろうから、日がすっかり翳る、老年に至るの謂いと思われ、下の「白頭を惜む」に対応する。詩や文才への自信を甚だしく持って傲然と生きてきた詩人が遂に正しく評価されることなく老いさらばえた焦燥を表現していよう。]

 

○夜 小便 學校

[やぶちゃん注:これは盟友を語った「恒藤恭氏」(大正一一(一九二二)年発表)の以下の部分と関係するものと思われる。

   §

 恒藤は又謹嚴の士なり。酒色を好まず、出たらめを云はず、身を處するに淸白なる事、僕などとは雲泥の差なり。[やぶちゃん注:中略。]しかもその謹嚴なる事は一言一行の末にも及びたりき。例へば恒藤は寮雨をせず。寮雨とは夜間寄宿舍の窓より、勝手に小便を垂れ流す事なり。僕は時と場合とに應じ、寮雨位辭するものに非ず。僕問ふ。「君はなぜ寮雨をしない?」恒藤答ふ。「人にされたら僕が迷惑する。だからしない。君はなぜ寮雨をする?」僕答ふ。「人にされても僕は迷惑しない、だからする。」[やぶちゃん注:後略。]

   §

龍之介は一高時代、南寮の中寮三番でともに生活した(一高は原則全寮制であったが、龍之介は寮生活を嫌って自宅からの通学願書を出していた。しかし、十九歳の時の明治四四(一九一一)年九月からの二年生の時は止むを得ず、一年間の寮生活を余儀なくされている)。]

 

○豐臣秀吉傳

[やぶちゃん注:これだけの記載なので一概に同定は出来ないが、浅井了意の寛文四(一六六四)年板行の「将軍記」に「豊臣秀吉伝」がある。新全集未定稿で仮題「秀吉と悪夢」とされる断片があり、新全集の「手帳1」の後記にはこの箇所とは明記していないものの、本手帳と関わりの認められる作品として掲げられてあるが、新全集の後記ではこの未定稿の執筆は大正三(一九一四)~四年としてあるのに対し、本手帳は大正五(一九一六)~七年と推定されているから大きな時間的齟齬があり、直接的な関わりの可能性は低いように私には思われ、私は寧ろ、後の「秀吉と神と」(大正九(一九二〇)年発表)との関係性の方が強いように思われる。]

 

○或方向への力の sense の美 蓮華往生

[やぶちゃん注:叙述からは大正一〇(一九二一)年発表の「往生絵巻」との関係が窺われる。殺生を尽くした五位が阿弥陀仏への「或方向への力の sense の美」、専心の求道の美によって、その口から真っ白な蓮華を咲かせて美事にまさに文字通り、「蓮華往生」するという点で、という意味でである。]

 

○隆國をかけ

[やぶちゃん注:平安後期の公卿宇治大納言源隆国(寛弘元(一〇〇四)年~承保四(一〇七七)年)のことと思われ、これは形式上の主人公に彼を配した「龍」(大正八(一九一九)年発表)との関係性が窺われる。なお、ウィキの「源隆国」には『井澤長秀(肥後細川藩士、国学者、関口流抜刀術第三代)によって、『今昔物語』の作者とされたが(『考訂今昔物語』)、現在では否定説が有力である。なお、隆国は『宇治大納言物語』の作者ともされている』とあり、「今昔物語集」を多くの種本とした龍之介との接点は多いとも言える。「をかけ」(「を書け(!)」?)は不詳。「隆國を」という文字列は「龍」にはない。]

中島敦 南洋日記 一月二十六日

        一月二十六日(月) アイミリーキ

 アラカべサン、アミアンス部落の移住先を尋ねんと、九時頃土方氏と出發、昨日の道を逆行。如何にするも濱市に到る徑を見出し得ず。新カミリアングル部落の入口の島民の家に憩ひ、一時間餘待つた末、爺さん(聾)に筏を出して貰ひ、マングローブ林中の川を下る。マングローブの氣根。細長き實の水に垂れたる、面白し。三十分足らずにして、濱市の小倉庫前に達し、上陸。兒童の案内にてアミアンス部落に入る。頗る解りにくき路なり。移住村は今建設の途にあり。林中を伐採し到る所に枯木生木、板等を燃しつゝあり。暑きこと甚だし。切株の間を耕して、既に芋が植付けられたり。アバイ及び、二三軒の家の外、全く家屋なく、多くの家族がアバイ中に同居せり、大工四五人、目下一軒の家を造りつゝあり。朝より一同働きに出て今歸り來りて朝晝兼帶の食事中なりと。又、一時となれば皆揃つて伐採に出掛くる由。粥を炊かせ、新屋の竹のゆかの上にて喰ふ。今日の粥にはディスを掛けたり。食後少時晝寐。時に小雨あり。二時出發。丘上なる濱市の民間學校を目掛けて行く。前日遙かに望みし階段狀丘陵地なり。うつぼかつら多し。眺望良し。涼し。學校下の琉球人の家にて道を訊ぬるに、主人は内にありて子供をして云はしむるに、子供は徒らに人を恐れてハツキリせず。タピオカの所の道云々。されど、それらしき路も無きまゝに、大通より分岐せる小道を下り行きしが、忽ちにして道盡く。畑より畑へと、さまよへどもつひに澤に下りる能はず、丘上の道より見れば熱研は直ぐ其處に見ゆるに、何としても近づく能はず、再び舊路に戻り學校に到り先生に教へられて所謂タピオカの所の道を發見す。分らぬが當然。道とは思へぬ道なり。沿えかゝりし徑を叢を分けつゝ進み、小川を渡るに及んで漸く路らしくなる。山の中腹を縫ひて、澤に出で、危き倒木橋を渡り、やうやくにして本道に出づ。四時過熱研に着。をかしき一日の遊行なりし。さるにてもカミリヤンガル部落の靑年の傲岸と、琉球人の曖昧・不親切とは全く腹の立つことなり。夜、小林氏より今日迄の新聞を借りて讀む。月明るし。

[やぶちゃん注:太字「ゆか」は底本では傍点「ヽ」。

「濱市」アラカべサン島の和名固有地名と思われるが、位置同定出来ず。

「ディス」不詳。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和七年(七十二句) Ⅰ

 昭和七年(七十二句)

 

伊勢蝦に懸蓬萊のうすみどり

 

[やぶちゃん注:「懸蓬萊」床の間の壁などにつり下げる形式の蓬萊。蓬萊は原義は中国で東方の海上にあって仙人が住む不老不死の地とされる霊山であるが、本邦ではこの蓬萊山を模った飾りを正月の祝儀物として用いる。その飾台を蓬萊台、飾りを蓬萊飾りという。蓬萊飾は三方の上に一面に白米を敷き、中央に松竹梅を立ててそれを中心に橙・蜜柑・橘・勝ち栗・神馬藻(ほんだわら)・干し柿・昆布・海老を盛って譲葉(ゆずりは)・裏白を飾る。これに鶴亀や尉(じょう)と姥(うば)などの祝儀物の造り物を添えることもある。京阪では正月の床の間飾りとして据え置いたが、江戸では蓬萊のことを「喰積(くいつみ)」ともいい、年始の客に先ずこれを出し、客も少しだけこれを受けて一礼してまた元の場所に据える風があった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

 

  山居即事

八重雲に雞鳴くや飾り臼

 

[やぶちゃん注:「飾り臼」正月に農家では臼に注連縄を張って鏡餅を供えた。]

 

春の星戰亂の世は過ぎにけり

 

落木のくだけし地や別れ霜

 

[やぶちゃん注:「地」は「つち」と訓んじているか。]

 

禮容をうしなはぬ娘や春炬燵

 

[やぶちゃん注:「娘」は「こ」と訓んじているか。]

 

雛まつる燈蓋の火の覗かれぬ

 

[やぶちゃん注:「燈蓋」は「とうがい」と読み、灯火の油皿をのせる台。くもで・灯架ともいう。]

 

杣のみち靄がゝりして獵期畢ふ

 

燒芝や昨日の灰の掬はるゝ

 

蘖の眼をつく丈や山平

 

[やぶちゃん注:「蘖」は「ひこばえ」。「孫(ひこ)生え」の意で、切り株や木の根元から出る若芽のこと。余蘖(よげつ)。]

 

咲きそめし椿にかゝる竹の雨

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年四月



氷上へひびくばかりのピアノ彈く

 

ふるぼけしセロ一丁の僕の冬

 

[やぶちゃん注:鳳作の名吟。前後の句を見るにこれらを宮澤賢治の句だと言っても信じてしまいそうな気がする。]

 

雪晴のひかりあまねし製圖室

 

[やぶちゃん注:以上、四月の発表句。]

杉田久女句集 141 正月や胼の手洗ふねもごろに



正月や胼の手洗ふねもごろに

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「胼」は「たこ」で胼胝(たこ)のこと、「ねもごろに」は後に音変化した「懇ろ」の万葉以来の古形の形容動詞。清音「ねもころに」の方が古いか。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅳ 野々宮 來し方や昏き椿の道おもふ

  野々宮

來し方や昏き椿の道おもふ

 

[やぶちゃん注:単なる直感に過ぎないが、この「野々宮」とは京都市右京区嵯峨野の野宮(ののみや)神社のように私には感じられる。]

彈痕   山之口貘

 彈痕

 

アパートの二階の一室には

陰によくある女が一匹ゐた

その飼主は鼻高の色はあさぐろいめがねと指環の光つた紳士であつた

鼻高の紳士は兜町からやつて來た

かれの一日は

夜をあちらの家に運び

ひるまをこちらの二階に持ち込んで來てひねもす女を飼ひ馴らした

かれらの部屋がまた部屋でふたりがそこにゐる間

眞晝間ドアに鍵してすましてゐた

八百屋でござゐ

が來ると鍵をはづし

米屋でござゐ

が來ると鍵をはづし

いちいち鍵をはづしては鼻を出し直ぐまた引つ込めて鍵してしまふ

ずゐぶんふざけた部屋だつたが

すましかへつてゐたある日

外では煙硝のにほひが騷いでゐた

鼻高の紳士は鍵をはづして出て見たがやがてそのまゝ出て行つた

まもなく部屋には物音どもが起きあがりそこらあたりに搔き亂れた

いぶる世紀と

くすぶる空

鼻高さんはもう歸らない

そこに突つ立ち上つたかなしいアパート

アパートの横つ腹にぽつこりと開いたひとつの穴だ

そこからこぼれる食器や風呂敷包

そこからはみ出る茶簞笥と女。



[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部を追加訂正及び除去(不要と思われる再掲データ)した。】初出は昭和一四(一九三九)年七月発行の『歴程』。

 原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」では、三行目が、

その飼主は鼻高で色はあさぐろいがめがねと指環の光つた紳士であつた


と逆接の接続助詞「が」が挿入されてある。また十行目と十二行目が、


八百屋でござい


と、


米屋でござい


とに改められてあり、最後の句点は除去されている。]

哭くな 兒よ   八木重吉

なくな 兒よ

哭くな 兒よ

この ちちをみよ

なきもせぬ

わらひも せぬ わ

ばんえい競馬

生れて始めて賭け事やった。
仲間は競馬新聞を買って熱心に予想を立てる。
僕は馬の名前や妻や自分の誕生日の組み合わせやらで選んだものの、
8レースすべてばんえい競馬場に貢献した(当たらなかった)。

第二障害で力尽きる馬が数頭いて、
それは何か痛ましい感じがしたが、
半ばは観光客で子どもたちが馬場の脇を一緒に走って応援する様子は、
何かとてもほのぼのとしている。

僕の人生の最初で最後の賭け事はこれで終わり。
人生という賭けにはとっくに大敗を喫しているから、

外れ馬券も気持ちがよかった――

2014/03/21

北への旅にて三日間閉店 心朽窩主人敬白

年に一度の男旅にて北海道へ今払暁旅立つに依つて三日間閉店致す 心朽窩主人敬白

上り列車  山之口貘

 上り列車

 

これがかうなるとかうならねばならぬとか

これがかうなればかうなるわけになるんだから かうならねばこれはうそなんだとか

兄は相も變らず理窟つぽいが

まるでむかしがそこにゐるやうに

なつかしい理窟つぽいの兄だつた

理窟つぽいはしきりに呼んでゐた

さぶろう

さぶろう と呼んでゐた

僕は自分がさぶろうであることをなんねんもなんねんも忘れてゐた

どうにかすると理窟つぽいはまた

ばく

ばく と呼んでゐた

僕はまるでふたりの僕がゐるやうに

ばくと呼ばれては詩人になり

さぶろうと呼ばれては弟になつたりした

 

旅はそこらに郷愁を脱ぎ棄てゝ

雪の斑點模樣を身にまとひ

やがてもと來た道を搖られてゐた

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を全面改稿した。】初出は昭和一四(一九三九)年三月発行の『むらさき』。

 原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」では、第一連が二行目を途中で改行して残りを新たに一行として続けている。特にここでは新字化されたその全篇を示すこととする。

 

 上り列車

 

これがかうなるとかうならねばならぬとか

これがかうなればかうなるわけになるんだから

かうならねばこれはうそなんだとか

兄は相も変らず理屈つぽいが

まるでむかしがそこにゐるやうに

なつかしい理屈つぽいの兄だつた

理屈つぽいはしきりに呼んでゐた

さぶろう

さぶろう と呼んでゐた

僕は自分がさぶろうであることをなんねんもなんねんも忘れてゐた

どうにかすると理屈つぽいはまた

ばく

ばく と呼んでゐた

僕はまるでふたりの僕がゐるやうに

ばくと呼ばれては詩人になり

さぶろうと呼ばれては弟になつたりした

 

旅はそこらに郷愁を脱ぎ棄てて

雪の斑点模様を身にまとひ

やがてもと来た道を揺られてゐた

 

 「兄」は洋画家長兄山口重慶(十歳上)であろう。但し、年譜ではこの兄の上京は載らない。重慶は敗戦の年の十一月、栄養失調によって亡くなった。

 私はこの第二連が殊の外、気に入っている。多分これは、雪の地方(私の場合は富山県高岡市伏木)に住んだことのある人間だけに真に分かる仄かに哀しい郷愁であると勝手に思っているのである。]

ちいさい ふくろ   八木重吉

 

これは ちいさい ふくろ

ねんねこ おんぶのとき

せなかに たらす 赤いふくろ

まつしろな 絹のひもがついてゐます

けさは

しなやかな 秋

ごらんなさい

机のうへに 金絲のぬいとりもはいつた 赤いふくろがおいてある

2014/03/20

杉田久女句集 140 松とれし町の雨來て初句會

 

松とれし町の雨來て初句會

杉田久女句集 139 松の内


松の内社前に統べし舳かな

 

松の内海日に荒れて霙けり

杉田久女句集 138 元旦や束の間起き出で結び髮


元旦や束の間起き出で結び髮

杉田久女句集 137 ゆく年や忙しき中にもの思ひ


ゆく年や忙しき中にもの思ひ

杉田久女句集 136 栗むくやたのしみ寢ねし子らの明日


栗むくやたのしみ寢ねし子らの明日

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(4) たそがれ Ⅰ

 たそがれ

 

海ちかき殖民地をばたそがれて

そゞろありきす如きさびしみ

 

[やぶちゃん注:「殖民地」はかく書く場合もある。]

 

淡雪の解くる岡邊に一人きて

はこべをつむもなぐさまぬ哉

 

冬の日は淋しく沈む野に出でゝ

日暮れはものを思ふならはし

 

ちゆうりつぷの花咲く頃はうらぶれし

我も野に出で口笛を吹く

 

君まつと昔いくたび佇みし

門の扉にかゝる落日

 

場末なる酒屋の窓に身をよせて

悲しき秋の夕雲を見る

 

[やぶちゃん注:朔太郎満二十六歳の時の、大正二(一九一三)年十月二十八日附『上毛新聞』に発表した連作の一首、

 塲末(ばすへ)なる酒場(さけば)の窓(まど)に身(み)をよせて悲(かな)しき秋(あき)の夕雲(ゆうぐも)を見(み)る

の表記違いの相同歌。]

 

宿醉のあしたの床にふと思ふ

そのたまゆらの鈍き悲しみ

 

晝過ぎのホテルの窓に COCOA のみ

くづれし崖の赫土をみる

 

[やぶちゃん注:「赫土」はママ。朔太郎満二十三歳の時の、『スバル』第二年第一号(明治四三(一九〇二)年一月発行)に掲載された連作の一首、

 窓ひるすぎの HOTEL の窓に COCOA のみくづれし崖のあかつちをみる

の表記違いの相同歌。]

杉田久女句集 135 わが歩む落葉の音のあるばかり



わが歩む落葉の音のあるばかり

                     

[やぶちゃん注:私の愛する久女の一句である。]

杉田久女句集 134 落葉道掃きしめりたる箒かな


落葉道掃きしめりたる箒かな

杉田久女句集 133 塀そとの盧橘かげを掃き移り



塀そとの盧橘(たちばな)かげを掃き移り
 

 

[やぶちゃん注:「盧橘」普通に我々が呼ぶ橘(たちばな)はムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana であるが、「盧橘」(ろきつ)と書くと、一般にはミカン属ナツミカン Citrus natsudaidai 又はミカン科キンカン属 Fortunella のキンカン類の別名としての用法が一般的ではあり、また、盧橘で食用柑橘類を広く総称する語としても用いられる。個人的にはキンカンがこの句柄には合うと思っている(私の亡き母が好きな木で今も私の家の猫の額の庭に実をつけているから)。]

杉田久女句集 132 日面に搖れて雪解の朱欒かな



日面に搖れて雪解の朱欒かな
 

 

[やぶちゃん注:「朱欒」は「ざぼん」でムクロジ目ミカン科ミカン属ザボン Citrus maxima 。ボンタン・ブンタンとも呼ばれる。ウィキザボン」によれば、『原生地は東南アジア・中国南部・台湾などであり、日本には江戸時代初期に』『鹿児島県の阿久根市』に伝わったとされ、『第二次世界大戦前にはジャボンと呼ばれるのが一般的であり、これは文旦貿易に関与したジアブンタン(謝文旦)の略と考えられるが、ジャボンから転じたザボンの名前については、ポルトガル語の zamboa(元の意味は「サイダー」)から転じたという説もある』とある(但し、最後の説には出典要請が附されてある)。]

杉田久女句集 131 萬難に堪えて萱草五年振



萬難に堪えて萱草五年振

 

[やぶちゃん注:「萱草」は「くわんざう(かんぞう)」で単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科ワスレグサ属(標準種はワスレグサ Hemerocallis fulva )に属する多年草の総称で、ノカンゾウHemerocallis fulva var. longituba・ヤブカンゾウ Hemerocallis fulva var. kwanso・ハマカンゾウ Hemerocallis fulva var. littorea・ユウスゲ Hemerocallis citrina var. vespertina ・ニッコウキスゲ(ゼンテイカ・禅庭花) Hemerocallis dumortieri var. esculenta などを含む。葉は刀身状で、夏に黄や橙色のユリに似た大きい花を数個開く。多くの園芸品種や近縁種がある。「けんぞう」ともいう(生薬として知られる双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ(甘草)属 Glycyrrhiza とは全くの別種であるので注意)。ワスレグサ(忘れ草)という和名は概ね花が一日限りで萎むことに由来し、英語でも“Daylily”と呼ばれる。]

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅲ



枯萩を人焚き昏るる吾も昏る

 

枯萩の焰ましろくすぐをはる

 

[やぶちゃん注:「焰」は底本の用字。]

 

木枯のひととき夕燒つのり來る

 

ひばり野やあはせる袖に日が落つる

 

水打つてけふ紅梅に夕凍てず

 

[やぶちゃん注:「夕凍」は一般には「夕凍(ゆふし)む」で、夕暮れ時、対象が氷結してしまうような寒さやその氷結してしまう、若しくはそうした感じに見える、感じることをいう語と思われるが、ここは「ゆふいてず」と訓じている。]

篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年三月

   時計臺

冬木空時計のかほの白堊あり

 

おでん喰ふそのかんばせの鋭(と)きゆるき

 

おでん食ふよ轟くガード頭の上に

 

おでん食ふよヘッドライトを横浴びに

 

[やぶちゃん注:「ヘッドライト」の拗音はママ。これ以前の句には認められない大きな変化である。]

 

冬木空大きくきざむ時計あり

 

大空の風を裂きゐる冬木あり

 

   時計臺

冬木空するどく聳てる時計あり

 

冬木あり自動車ひねもす馳せちがふ

 

[やぶちゃん注:以上、八句は三月の発表句。]

夢を見る神   山之口貘

 夢を見る神

 

若しも生れかはつて來たならば

彫刻家になりたいもんだと云ふ小説家

 

若しも生れかはつて來たならば

生殖器にでもなりすますんだと云ふ戀愛

 

若しも生れかはつて來たならば

お米になつてゐたいと云ふ胃袋

 

若しも生れかはつて來たならば

なちすになるかそれんになるかどちらになるのかあのすぺいん

 

若しも生れかはつて來たならば

なんにならうと勝手であるが

若しも生れかはつて來たならばなんにならうと勝手なのか

とある時代の一隅を食ひ破り神の見知らぬ文化が現はれた

こがね色のそれん

こがね色のなちす

こがね色のお米

こがね色の彫刻家

こがね色の生殖器

 

あゝ

文明どもはいつのまに

生れかはりの出來る仕掛の新肉體を發明したのであらうか

神は郷愁におびえて起きあがり

地球のうへに頰杖ついた

 

そこらにはゞたく無數の假定

そこらを這ひ摺り廻はつては血の音たてる無數の器械。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一四(一九三九)年三月号『知性』(河出書房発行)。

 原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」では、十一行目を、

 

なちす になるか それん になるか どちらになるのか あのすぺいん

 

とし、また最終行を、

 

そこらを這ひ摺り廻つては血の音たてる無數の器械

 

と「廻はつては」を「廻つては」とし、句点を除去する(「定本 山之口貘詩集」も恣意的に正字化した)。

 この詩が昭和十五年刊行の詩集にあるということは驚異に値すると私は思う。そこでは最後に地球「はゞたく無數の假定」としての「そこらを這ひ摺り廻はつては血の音たてる無數の器械」としての相対化されてあるあらゆる政治思想が正当化する戦争に対して、強烈な否定が示されていることは誰が読んでも明白である(と私は思う)。この反戦詩が官憲の目を逃れていたとは(後掲される現在、バクさんの「反戦詩」として比較的知られている「紙の上」よりも遙かに直裁的であるにも拘わらず、だ)、何か私にはとても痛快無比なこと、なんである。【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】

友引の日   山之口貘

 友引の日

 

なにしろぼくの結婚なので

さうか結婚したのかさうか

結婚したのかさうか

さうかさうかとうなづきながら

向日葵みたいに咲いた眼がある

なにしろぼくの結婚なので

持參金はたんまり來たのかと

そこにひらいた厚い唇もある

なにしろぼくの結婚なので

いよいよ食へなくなったらそのときは別れるつもりで結婚したのかと

もはやのぞき見しに來た顏がある

なにしろぼくの結婚なので

女が傍にくつついてゐるうちは食へるわけだと云つたとか

そつぽを向いてにほつた人もある

なにしろぼくの結婚なので

食ふや食はずに咲いたのか

あちらこちらに咲きみだれた

がやがやがやがや

がやがやの

この世の杞憂の花々である

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一五(一九四〇)年七月発行の『歴程』。

 原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」では、

そつぽを向いて臭(にほ)つた人もある

 

と改稿している。なお、この「にほつた人」というのは面白い語である。大方の人々は、これを「女が傍にくつついてゐるうちは食へる」ということを嫌な臭いとして感じて「そつぽを向いた」という謂いに採ると思われる。それでよいとは思うが、私は寧ろ、ある人の秘かな匂いを嗅ぎ分けるためにには、その人に知られぬように、わざと「そつぽを向いて」嗅ぎ分けるものだと思う。「におう」という動詞には他動詞としてにおいを嗅ぎ分けるという意味がある。ここはまさにそうしたお前が秘かに「女が傍にくつついてゐるうちは食へる」ということを、俺は「そつぽを向いて」いるけれど、ちゃあんと嗅ぎ分けてるぜ、といった感じの「人もある」と読む。大方の御批判を俟つ。【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部削除(不要と判断した再録データ)した。】

結婚   山之口貘

 結婚

 

詩は僕を見ると

結婚々々と鳴きつゞけた

おもふにその頃の僕ときたら

はなはだしく結婚したくなつてゐた

言はゞ

雨に濡れた場合

風に吹かれた場合

死にたくなつた場合などゝこの世にいろいろの場合があつたにしても

そこに自分がゐる場合には

結婚のことを忘れることが出來なかつた

詩はいつもはつらつと

僕のゐる所至る所につきまとつて來て

結婚々々と鳴いてゐた

僕はとうとう結婚してしまつたが

詩はとんと鳴かなくなつた

いまでは詩とはちがつた物がゐて

時々僕の胸をかきむしつては

簞笥の陰にしやがんだりして

おかねが

おかねがと泣き出すんだ。


[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を改稿した。】初出は昭和一四(一九三九)年九月号『文藝』。「定本 山之口貘詩集」では最後の句点が除去されてある。]

思ひ出   山之口貘

 思ひ出

 

枯芝みたいなそのあごひげよ

まがりくねつたその生き方よ

おもへば僕によく似た詩だ

るんぺんしては

本屋の荷造り人

るんぺんしては

煖房屋

るんぺんしては

お炙屋

るんぺんしては

おわい屋と

この世の鼻を小馬鹿にしたりこの世のこころを泥んこにしたりして

詩は、

その日その日を生きながらへて來た

おもへば僕によく似た詩だ

やがてどこから見つけて來たものもか

詩は結婚生活をくわへて來た

あゝ

おもへばなにからなにまでも僕によく似た詩があるもんだ

ひとくちごとに光つては消えるせつないごはんの粒々のやうに

詩の唇に光つては消える

茨城生れの女房よ

沖繩生れの良人よ

 

[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】初出は昭和一五(一九四〇)年一月新年特大号『中央公論』。原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本山之口貘詩集」では一箇所ある「詩は、」の読点が除去され、九行目の「お炙屋」が「お灸屋」に訂されている(「炙」は音「シャ/シャク/セキ」で「あぶる」と訓ずるものの誤字である)。また、十七行目も「くわへて」を正しく「くはへて」に訂してある。バクさんの妻静江さんは茨城県結城の生まれである。]

しづかなる ながれ   八木重吉

 

せつに せつに

ねがへども けふ水を みえねば

なぐさまぬ こころおどりて

はるのそらに

しづかなる ながれを かんずる

 

[やぶちゃん注:「けふ水を みえねば」はママ。後の諸本も同じようである(以下はモノローグ……この詩を朗読するとして、私なら、すこぶる戸惑った末に「けふ水の」と捏造して誤魔化すであろう。「は」では恣意的な意識の限定性が侵入して意味が歪曲するし、汚らしい「が」などは無論、韻律上からも論外である。「おどる」はママ。]

2014/03/19

実相寺昭雄 波の盆

14年も前に買っていながら、放置していた実相寺監督の「波の盆」を今夜、何故か初めて封を切って見る気になった。……これは……笠さん畢生の演技ではあるまいか? 黒沢の「夢」なんぞより遙かに笠さんのライフ・ワークと感じた(笠さんの家は私の行き帰りの道の辺にあって、庭で焚火をする笠さんには何度か無言で挨拶をしたものだった。笠さんは映画の中と全く同じようにこの僕にもあの深々とした礼儀正しい挨拶を返してくれたものだった)。そして――加藤治子の何と美しいことか! 武光の曲も実相寺の映像も素晴らしい!……母の命日に呼ばれるように、僕はこの映画に出逢った気がした――ありがとう……母さん……

二伸:
エンド・ロールで撮影の中堀、美術の池谷、記録の穴倉(往年のスタッフ・スチールの彼女はとてもキュートで女優のようだった)と円谷組の名が並ぶのも懐かしい。編集もとっても上手いなぁ、と思ったら浦岡じゃないか、これは上手くて当たり前だわ。

三伸:
昔、私が生まれる前後の話である。
まだ二十代だった若き日の母が、笠さんとすれ違った。
俳優の笠智衆だわ、と思いながらも恥ずかしいので知らんふりして数メートルほど過ぎてから、そっと振り返ってみたら――
――なんと笠さんも立ち止まって、不思議そうに母をまじまじと見ていたそうだ――
(それはその話を聴いていた十代の僕に小津安二郎の映画の中のワン・シーンのように焼きついた。その光景を僕は実際に見た記憶として錯覚して持っているのである)
――思うに笠さんは、母を女優の誰彼と見紛うていたもののように思われる。
(と言ったのは僕。母は笑いながら黙っていたが)

……生前の母が如何にも嬉しそうに話ししていたエピソードである。……そんなことを今朝方、思い出していた。――

耳嚢 巻之八 盲人頓才奇難をまぬがれし事

 盲人頓才奇難をまぬがれし事

 

 北尾檢校いまだ遊子(いうし)といゝて、唄うたひ三味線など引(ひき)て所々(しよしよ)座敷抔勤(つとめ)しころ、飯田町に住居して、本所邊の出入屋敷へよばれ夜更(よふけ)歸るべき由を申(まうし)ければ、召使中間二人におくらせ、夜更にも成(なり)候間、途中より駕かり贈り候樣との事也。それより柳原通りを歸りけるに、途中にて駕籠を借(かり)けるが、右駕の者、飯田町まではいまだ餘程あり、送りの中間は途中より歸り可然(しかるべく)候、飯田町へ無滯(とどこほりなく)おくり候段、右中間へ駕の者申けるゆゑ、中間は得たりかしこしにて、しからばおくり行(ゆか)んも無益なりとて、右場所より歸りぬ。然るに右の駕の者の樣子、何とも心得がたく、あたらし橋の邊にて、爰らよろしかるべきと、壹人の駕の者申けるを、相棒ささへて、爰は人近(ひとぢか)なり今少し先(さき)可然(しかるべし)との事、何とも心得がたく、必定(ひつぢやう)此駕の者は惡黨にて我を剝取(はぎとる)の輩ならんと思惟して、睡り居候體にて風(ふ)と目覺(めざめ)たる樣子に取(とり)なし、大きに驚き、我等大切の品を落したり、扨いかゞ可致(いたすべき)やと歎息し、こゝはいづ方やと尋ねければ、駕の者新らし橋の由をいゝけるゆゑ、さてさて大儀にはあれど、極(きはめ)ある代(しろ)より增錢(ましせん)をあたふべき間、本所辨天小路邊、かくかくの屋敷へ立戻り呉(くれ)候樣賴みければ、夫はいかなるゆゑと尋ねしゆゑ、晝程右の屋敷へ至り、鼻紙袋を差置(さしおき)たり、鼻紙袋は是非といふにあらず、印形(いんぎやう)をも入置(いれおき)、其外入用(いりよう)の書付類もあり、是(これ)なくてはなりがたし、賴むよし言ければ、駕の者兩人何か相談し、何もかせぎ成(なり)迚、またまたかつぎて、北尾が名指(なざす)屋敷までかき戻し、右屋敷の門をたゝきけるに、内より人出て、何故遊子は今頃歸りしやと尋(たづね)けるゆゑ、大事の事を忘れたりとて座舖(ざしき)へ上り、しかじかの事ゆゑ無據(よんどころなく)立戻りし譯をかたりければ、右屋敷の家來、駕の者へ、遊子は夜もふけたれば此方(こちら)に泊(とまり)候なり、駕貸(かごちん)は可遣(つかはすべし)と申けるに、駕の者、故ありて送りの者より、飯田町へ送りとゞけよとの事請負(うけおひ)たれば、是非飯田町へ送り候由を申(まうし)、合點せざるゆゑ、夫(それ)は心得がたき事なり、此方へ出入の者にて、泊め遣(やり)候を、是非返るべきとの事怪しけれ、全く盲人を捕へ不屆いたすべきしれ者、それ召(めし)捕へよと申けるに驚き、駕をも捨(すて)、駕代をも不請取(うけとらず)、迯(にげ)去りしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。

・「北尾檢校」不詳。検校については「耳嚢 巻之二 思はず幸を得し人の事」に既注。

・「飯田町」現在の千代田区の九段下から飯田橋一帯の旧町名。

・「途中より駕かり贈り候樣」底本では「贈」の右に『(送)』と注がある。

・「柳原通り」底本の鈴木氏注に、『神田川右岸、筋違御門(のちの万世橋辺)から』現在のJR秋葉原駅南を経て現在の浅草橋が架かる『下流浅草御門辺までの土手。柳が植えられ、夜鷹が現れるような淋しい道』とある。

・「あたらし橋」底本の鈴木氏注に、『神田川に架かり、柳原と神田久右衛門町をつなぐ。神田川の橋は下流から柳橋、浅草橋、新シ橋、和泉橋、筋違橋、昌平橋、水道橋、小石川橋の順』とある。現在の台東区東神田の美倉橋。

・「ささへて」「ささふ」は「支ふ」で、防ぎ留める・阻むの意であるから、遮って、の謂いであろう。

・「我を剝取の輩ならん」何となく表現がおかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、『我を剝取(はぎとる)の心中ならん』で腑に落ちる。これで訳した。

・「風(ふ)と」は底本のルビ。

・「本所辨天小路」岩波版長谷川氏注に、『本所竹蔵の北東、清雲山弁天社前の東西の小路をいう。墨田区本所一丁目』とある。尾張屋版江戸切絵図(嘉永年間(一八四三年~一八五三年)刊)を見ると、同小路近くには大きな屋敷では「向井将監」と「土佐能登守」の屋敷が見える。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 盲人が機転を利かせて奇難を免れたる事

 

 北尾検校殿、未だ遊子(ゆうし)と称し、唄を歌い、三味線など弾いては、所々の御武家なんどの座敷にて、音曲の披露などを勤めておられた頃のことと申す。

 その頃、北尾殿は飯田町に住まいしておられたが、本所辺りの出入りの屋敷へ呼ばれて、夜更けとなって、そろそろお暇せん由申されたところが、召使いと中間の二人をつけて送らせ、

「夜もすっかり更けておれば、途中より駕籠を借りて送るがよかろう。」

との仰せで御座った。

 それより柳原通りを帰って参ったところ、途中にて召使いの者が流しの空駕籠を見つけたによって、主人の命に従って借り受けて、その召使いは中間に見送りを頼み帰って行ったと申す。

 ところがしばらく行ったところで、この駕籠搔きの者が、

「……飯田町までは、これ、いまだ余程、ありやすぜ。……お見送りの方は、これ、途中よりお帰りになられたが、よろしゅうござんせんか?……なに、飯田町へは、これ、儂(あっし)らが滞りなくお送り致しやすんで。ご安心、ご安心。……」

と中間へ水を向けた。

 と、一杯やりとうて、うずうずして御座った中間は『これは、しめた! 渡りに舟じゃ!』と思うと、

「……いや! 確かに! そちらに任せたとなれば、心配も、これ、ない。このまま、ただ添い附きてお見送りせんは、これ、無益なることじゃ。――それでは、宜しゅう頼むわ!」

と、そこより帰ってしもうたと申す。

 ところが、北尾殿、その後、駕籠内より聴き耳を立てておると……どうもこの駕籠搔きの者どもの様子……これ……何とも心得難き怪しきところの御座った。……

 さても、新橋(あたらしばし)辺りにてのこと、

「……さぁて……ここらで……よかろうが……」

と、一人の駕籠搔きが囁くのが聴こえた。

 と、相棒は、

「……いや!……」

と遮る声が微かにし、

「……ここは如何にも……人家に近場じゃ……今少し先が……よかろうぞ……」

と応じるのが、蚊の鳴くように幽かに耳に入って御座ったと申す。

 北尾殿、先程来の様子より、これ、何とも心得難き怪しの話柄にて御座ったれば、

『……これはもう、間違いなく……この駕籠の者どもは、これ、悪党の護摩の灰じゃ!……我らを追い剥ぎせんとの心積もりに、これ、相違ない!……』

と思い至って御座った。

 さてそこで、即座に、

――恰も今まで、ぐーっすりと安眠致いて御座った体(てい)になし

――ふと目覚め

――何かに気づき

――大いに驚き慌てたる感じにて、

「――こ、これは!……いかん!……まずい!……大、変、じゃ!!」

と駕籠内より突拍子もき声を挙げ、

「――わ、我ら!……大切の品を!……落してしもうた!……さてもさて!……一体……どうしたらよかろうかのぅ!……」

と駕籠も揺れんばかりに大きな溜息をついた上、

「――お駕籠の衆!……ここは今、どの辺りで御座るかのぅ?」

と訊ねる。すると駕籠搔きの者は、

「……へぇ……新橋(あたらしばし)で、ごぜやすが……」

と答えるや、

「――さてもさても!……一つ、大儀にては御座ろうが、定めの駕籠賃には、これ、更に加えの増銭(ましせん)をも添えるによって!――本所弁天小路に御座る〇〇の守様の御屋敷へと枉げて、返して下さるまいか!?……」

と切に頼んだ。駕籠搔きは、

「……そりゃ、また……一体、どうなすったんで?」

と訊ねたゆえ、

「――実は今日の昼つ方、かの御屋敷へと至り、財布を置き忘れて御座ったに、今、気がついたのじゃ!……いやいや、財布内にはたかが数十両、これは別にどうということもないはした金なれば惜しくも御座らねど……その内には大事なる印章をも入れて御座っての……その外にも重大な大切なる書付の類いも入れて御座る……これら、なくては、我らの生業(なりわい)、これ、成り難き大事のものじゃ!……どうか一つ、枉げて、立ち戻ること、お頼み申すッ!……」

と懇請致いたところが、駕籠屋両人、何やらん相談致いて御座る風なれど、

「――アイよ! なにぃ! これも稼ぎの内じゃ! 早速、返(けえ)しやすぜ!」

と、またまた担ぎ直すと、北尾が名指した弁天小路のお屋敷まですたこら搔き戻したによって、辿りついた北尾殿は、駕籠搔きに厚く礼を申すと、

「――あいや、暫くお待ちあれ。すぐにとって返し――またゆるりと飯田町まで――お送り願うによっての――」

と告げると、そのお屋敷の門を静かに叩いた。

 内より人の出で来て、

「……遊子殿にては御座らぬか? さても何故に今頃また、お戻りになられたのじゃ?……」

と質いたが、すぐ背後に駕籠搔きの御座ったればこそ、北尾殿は笑顔にて、

「――いやさ! 大事な物を置き忘れて御座ったによって……相い済まぬことにて御座いまする!……」

と、そのまま座敷へと通されたと申す。

 座敷へ上がるや、案内(あない)の者に、

「――いや! 実は……かくかくのこと、これ、御座ったによって、よんどころのぅ――肝の潰れん思いのうちにも、しかじかのこと、これ、仕儀致いて――かくも立ち戻って参った次第……」

と、かかる顛末を語って御座った。

 聴き及んだかのお屋敷の御家来衆、大いに合点致いて、何食わぬ顔にて門前へと出でると、かの駕籠搔きらに、

「――かの者は、夜も更けたによって、此方(こちら)に泊ることと相い成った。――されば駕籠は言いなりの代(しろ)を遣わすによって――さぁて、幾らじゃ?……」
と穏やかに申したところが、駕籠搔きども、

「な、何んじゃて!?……」

「い、いんや!……そりゃ、いけねぇ! いけねよ!……だってよ、故あってよ、お見送りのお方より、あのお人を飯田町へ、きっと、送り届けよと、これ、確かに請け負うてきた者(もん)なんじゃ!……」

「……そ、そうじゃ!……これはよ! だからよ! 是が非でも、飯田町へとお送りせずんばならんのじゃい!!……」

と二人して訳の分からぬ管を巻いては一向に合点致さなんだ。

 されば、それを見た御家来衆、さっと顔色(がんしょく)を一変さするや、駕籠搔きどもをねめつけ、

「――それは心得がたきことじゃ! 当方へ出入りの者にてあればこそ泊めやらんと申しておる! それを、是が非でも帰すべきとの申しよう――これ、大いに怪しき物言い!――うぬら――全く――盲人を捕えて不届きを致さんとする痴れ者じゃな?!――それ! 者ども! 召し捕えよ!」

と内へと大きに呼ばわったによって――

――駕籠搔きどもは、大きに驚き、駕籠をも門前にうち捨てたまま

――勿論、払わんとした駕籠代をも受け取らずして

――這う這うの体にて逃げ去って御座った。……

 

 これは北尾検校殿御自身が、私に語って下すった物語りで御座る。

鷄   萩原朔太郎 (「鷄」初出形)

 鷄

 

しののめきたるまへ、

家家(いへいへ)の戸の外で鳴(な)いてゐるのは庭鳥(にはとり)です。

聲(こゑ)をばながくふるはして、

さむしい田舍(ゐなか)の自然(しぜん)からよびあげる母(はゝ)の聲(こゑ)です、

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

 

朝(あさ)のつめたい臥床(ふしど)の中(なか)で、

私(わたし)のたましひは羽(は)ばたきをする、

この雨戸(あまど)の隙間(すきま)からみれば、

よもの景色(けしき)はあかるくかがやいて居(ゐ)るやうです、

されどもしのゝめきたるまへ、

私(わたし)の臥床(ふしど)にしのびこむひとつの憂愁(いうしう)、

けぶれる木々(きぎ)の梢(こずゑ)をこえ、

遠(とほ)い田舍(ゐなか)の自然(しぜん)からよびあげる鷄(とり)の聲(こゑ)です、

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

 

戀(こひ)びとよ、

戀(こひ)びとよ、

ありあけのつめたい障子(しやうじ)のかげに、

私(わたし)はかぐ、ほのかなる菊(きく)のにほひを、

病(や)みたる心靈(しんれい)のにほひのやうに、

かすかにくされゆく白菊(しらぎく)の花(はな)のにほひを、

戀(こひ)びとよ、

戀(こひ)びとよ。

 

しのゝめきたるまへ、

私(わたし)の心(こゝろ)は墓場(はかば)のかげをさまよひあるく、

ああ、なにものか私(わたし)をよぶ苦(くる)しきひとつの焦燥(せうさう)、

この薄(うす)い紅色(べにいろ)の空氣にはたえられない、

戀(こひ)びとよ、

母上(はゝうへ)よ、

はやくきてともしびの光(ひかり)を消(け)してよ、

私(わたし)はきく、遠(とほ)い地角(ちかく)のはてを吹(ふ)く大風(おほかぜ)のひゞきを、

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

 

[やぶちゃん注:『文章世界』第十三巻一号・大正七(一九一八)年一月号に掲載された。第二連七行目は初出では「けぶれの木々(きぎ)の梢(こずゑ)をこえ、」であるが、奇体な語彙で誤植の可能性が大きいので、以下に示す詩集再録版にある「けぶれる」に訂した。「たえられない」はママ。本詩は後に詩集「靑猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)や「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)などにも所収されたが、多くの句読点の除去や「庭鳥」を「鷄」とする等の他は殆ど大きな詩句の改変はない。但し、「靑猫」再録の際に、最終連終わりから二行目の「大風(おほかぜ)」を「大風(たいふう)」のルビに変えている。]

ひとりで……   山之口貘

 ひとりで…… 

 

坊やは 大きく

なったのね。

 

ひとりで おくつも はけるわね。

ずいぶん おりこうさんに

なったのね。

 

おくつを はいたら のこのこと、

ママと ふたりで

散歩でしょう。

 

パパはおうちで

おるすばん。

 

[やぶちゃん注:底本にした思潮社版全集(一九七六年刊)の「掲載誌一覧」によれば、昭和三〇(一九五五)年十一月号『おかあさんの友』掲載の児童詩である。但し、この雑誌、出版社が示されておらず、ネット上の検索でも掛からない。識者の御教授を乞うものである。]

母に贈る 篠原鳳作 七句

  *口笛吹かず 

月光の衣(そ)どほりゆけば胎動を

 

みごもりし瞳のぬくみ我をはなたず

 

をさなけく母となりゆく瞳(メ)のくもり

 

  *映畫「家なき兒」 五句(より四句) 

靑麥の穗はかぎろへど母いづこ

 

陽炎にははのまなざしあるごとし

 

碧空に冬木しはぶくこともせず

 

母求(と)めぬ雪のひかりにめしひつつ

母に贈る 杉田久女 七句

 

わが歩む落葉の音のあるばかり

 

われにつきゐしサ夕ン離れぬ曼珠沙華

 

蟬涼し汝の殼をぬぎしより

 

羅(うすもの)の乙女は笑まし腋を剃る

 

龍胆も鯨も摑むわが雙手

 

蝶追うて春山深く迷ひけり

橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅱ 母葬る

  八十二歳の母を郷土に葬る 二句

武藏野の樹々が眞黄に母葬る

 

母葬る土美しや時雨降る

 

[やぶちゃん注:多佳子の実母山谷津留はこの昭和一七(一九四二)年十一月七日に多佳子の日々の看取りを受けつつ、東京で亡くなられた。享年八十二歳。浅草山谷堀端、東京都台東区浅草にある浅草寺子院の聖観音宗金龍山遍照(へんじょう)院に葬られた。リンク先は「白田(はくた)石材店」のサイト内の寺院案内であるが、このサイト、なかなか侮れない。]



今日は僕の母の三年目の祥月命日である――
母もまたまさに武蔵野の多磨霊園の木立の中に葬られてある――

ゆくはるの 宵   八木重吉

 

このよひは ゆくはるのよひ

かなしげな はるのめがみは

くさぶえを やさしい唇(くち)へ

しつかと おさへ うなだれてゐる

おもひなき 哀しさ   八木重吉

 

はるの日の

わづかに わづかに霧(き)れるよくはれし野をあゆむ

ああ おもひなき かなしさよ

母四回忌

母聖子テレジア四回忌――

2014/03/18

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 御殿蹟

    ●御殿蹟

社後の海濱を御殿原と云、相傳ふ賴朝別館の跡なりと、案するに將軍賴朝、實朝、賴經の諸公、屢此地に遊覽の事、東鑑に見ゆ、然らは此館當時休憩の爲に設けられしなるべし。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]

東鑑曰元曆元年五月大十九日武衛相伴池亞相右典厩等逍遙海濱給自由比浦御乘令着杜戸岸給御家人等面々餝舟船海路之間各取棹爭前途其儀殊有興也於杜戸松樹下有小笠懸是士風也非此儀者不可有他見物之由武衛被仰之客等入興建保二年二月十四日將軍家被催炬霞之興令出杜戸浦給長江四郎明義儲御駄餉於彼所有小笠懸壯士等各施其藝漸及昏待明月之光棹孤舟自由比濱還御安貞二年四月十六日將軍家爲御遊覽渡御杜戸武州駿河前司以下郎從及夜陰還御六月大廿六日將軍家爲御遊興御出杜戸有遠笠懸相撲以下御勝負武州被獻垸飯又長江四郎以下進御駄餉盃酒之間有管絃等入夜自船還着由比浦寛喜元年二月二十二日竹御所以下自三崎還御駿河前司兼遣四郎家村於杜戸邊儲御駄餉盡善極美者也案するに竹御前は將軍賴經卿の御臺所なり九月七日將軍家爲海邊御遊覽御出杜戸浦是御不例御平愈之後御出始也相州武州被參有犬追物數輩供奉二月七日將軍家渡御杜戸遠笠懸流鏑馬犬追物二十四等也

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の引用は頼経の遊覧記事の「九月七日」が「九月十七日」の誤りである以外は、比較的正しく引用されている。但し、一部に省略や略述している部分があるので、それぞれを以下に正しく引用し、書き下しておく。

 まず最初の元暦元(一一八四)年五月十九日の頼朝遊覧の記事から。当時、頼朝は満二十七歳。

 

〇原文

十九日丙午。武衞相伴池亞相〔此程在鎌倉。〕右典厩(うてんきふ)等。逍遙海濱給。自由比浦御乘船。令著杜戸岸給。御家人等面々餝舟舩。海路之間。各取棹爭前途。其儀殊有興也。於杜戸松樹下有小笠懸。是士風也。非此儀者。不可有他見物之由。武衞被仰之。客等太入興云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十九日丙午。武衞、池亞相(いけのあしやう)〔此の程、鎌倉に在り。〕右典厩等を相ひ伴ひ、海濱を逍遙し給ふ。由比浦より御乘船、杜戸の岸へ著かしめ給ふ。御家人等、面々に舟舩(しふせん)を餝(かざ)り、海路の間、各々棹を取りて前途を爭ふ。其の儀、殊に興有り。杜戸の松樹の下に於いて小笠懸(こかさがけ)有り。

「是れ、士風なり。此の儀に非ずば、他の見物、有るべからず。」

の由、武衞、之を仰せらる。客等、太(はなは)だ興に入ると云々。

 

・「池亞相」平清盛の異母弟池大納言頼盛。彼の母池禅尼の助命を受けた頼朝から厚遇されていた彼は、この前年寿永二年の木曽義仲の京都制圧の直後に京を脱出したものと思われ、「玉葉」の寿永二年十一月六日条には頼盛が既に鎌倉に到着したという情報が記されてある。「亞相」は丞相(じょうしょう)に亜(つ)ぐの意で大納言の唐名。当時五十一歳。

・「右典厩」親幕派の公卿で頼朝の義弟に当たる一条能保。彼も前年の閏十月に叔父で平頼盛の娘婿でもあった公卿持明院基家とともに京都から鎌倉へ脱出していた。右典厩は馬寮(めりょう)の唐名。当時三十七歳。

・「小笠懸」「笠懸」は馬に乗って走りながら弓を射る競技の総称で、平安末期から鎌倉時代にかけて盛んに行われた。本来は射手の笠を懸けて的としたが、後には円板の上に牛革を張り、中に藁などを入れたものを用いた。「小笠懸」は四寸(約十二センチメートル)四方の小さな的を馬上から射る笠懸である。

・「士風」坂東武士の士風。

 

 次に、建保二(一二一四) 年二月十四日の実朝の遊覧記事。実朝は当時、満二十一歳。

 

〇原文

十四日己酉。霽。將軍家被催烟霞之興。令出杜戸浦給。長江四郎明義儲御駄餉。於彼所有駄餉。壯士等各施其藝。漸及黄昏。待明月之光。棹孤舟。自由比濱還御云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十四日己酉。霽る。將軍家、烟霞の興を催され、杜戸浦に出でしめ給ふ。長江四郎明義、御駄餉(おんだしやう)を儲(まう)く。彼の所に於いて小笠懸有り。壯士等、各々其の藝を施し、漸くに黄昏に及ぶ。明月の光を待ち、孤舟に棹さして、由比の濱より還御すと云々。

 

・「餉」平凡社「世界大百科事典」によれば、本来は「だしょう」で馬につけて送る飼葉をいう語であったが、平安・鎌倉時代以降は通常「だこう」「だごう」と読んで外出先での食事を指す語となった。上は貴族・将軍から一般武士・僧侶等まで身分ある者について広く用いられたが、用例からすると、外出や従軍の際に持参する旅籠(はたご)・腰兵粮(こしびょうろう)や招待先の邸宅での正式の供応を「駄餉」と呼ぶことはなく、専ら旅行・行軍・巻狩・遊山などに於ける宿所・仮屋・野営地などでの臨時の逗留地で摂る食事を呼んだとある。幕府公文書であることを鑑み、「だしやう(だしょう)」で読んだ。

 

 次に安貞二(一二二八)年四月十六日の第四代将軍藤原頼経の遊覧記事。当時の頼経は未だ満十歳であった。

 

〇原文

十六日己未。將軍家爲御遊覽。渡御杜戸。武州。駿河前司以下扈從濟々焉。及夜陰還御云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十六日己未。將軍家、御遊覽の爲に杜戸へ渡御す。武州、駿河前司以下の扈從濟々(せいせい)たり。夜陰に及びて還御すと云々。

 

・「武州」北条義時。当時六十五歳。

・「駿河前司」三浦義村。生年は不詳乍ら、当時は七十歳を越えていたと考えられる。頼経に近侍していた。

・「濟々たり」多くて盛んなさま。

 

 同じく頼経遊覧の同安貞二(一二二八)年六月二十三日の記事。

 

〇原文

廿六日丁夘。天霽。將軍家爲御遊興。御出杜戸。有遠笠懸相撲以下御勝負。

射手

 相摸四郎     同五郎

 越後太郎     小山五郎

 結城七郎     佐原三郎左衞門尉

 上総太郎     小笠原六郎

 城太郎      佐々木八郎

 伊賀六郎左衞門尉 横溝六郎

武州被獻垸飯。又長江四郎以下進御駄餉。盃酒之間有管絃等。入夜。自船還著由比浦。被儲御輿於此所。即入御幕府云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿六日丁夘。天、霽る。將軍家、御遊興の爲に、杜戸へ出御す。遠笠懸・相撲以下の御勝負有り。

射手(いて)

 相摸四郎     同五郎

 越後太郎     小山五郎

 結城七郎     佐原三郎左衞門尉

 上総太郎     小笠原六郎

 城太郎      佐々木八郎

 伊賀六郎左衞門尉 横溝六郎

武州、垸飯(わうはん)を獻ぜらる。又、長江四郎以下、御駄餉を進ず。盃酒の間、管絃等有り。夜に入りて、船より由比の浦に還著す。此の所に於いて御輿を儲けられ、即ち幕府に入御すと云々。

 

 続いて、安貞三(一二二九)年二月二十二日の竹の御所の遊覧記事。竹の御所(建仁二(一二〇二)年~天福二(一二三四)年)は本文に注する通り、第四代将軍藤原頼経の正妻。第二代将軍源頼家娘。寛喜二(一二三〇)年、二十八歳で十三歳の頼経に嫁いだ。婚姻の四年後に懐妊、源氏将軍の後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、難産の末に男子を死産、本人も死去した。享年三十三歳。彼女の死によって頼朝の血筋は完全に断絶した。頼経との夫婦仲は円満であったと伝えられる(ここはウィキの「竹御所」に拠った)。

 

〇原文

廿二日辛酉。晴。竹御所已下自三崎還御。駿河前司兼遣四郎家村於杜戸邊。儲御駄餉。盡善極美者也。及黄昏。入御武州御亭。依爲凶會日。竹御所今夜御止宿也。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿二日辛酉。晴る。竹御所已下、三崎より還御す。駿河前司、兼ねて四郎家村を杜戸邊に遣はし、御駄餉を儲く。善を盡し、美を極める者なり。黄昏に及び、武州の御亭へ入御す。凶會日(くゑにち)たるに依つて、竹御所は今夜、御止宿なり。

 

「凶會日」暦注の一つで、干支の組み合わせに基づき、ある事柄をするに際して最凶であるとされる日。二十数種あって月毎に定められた。悪日。

 

 次が誤りの寛喜元(一二二九)年九月十七日の頼経遊覧記事。

 

〇原文

十七日辛巳。晴。將軍家爲海邊御遊覽。御出于杜戸浦。是御不例御平愈之後御出始也。〔去七八月之間御不豫御顏腫云々種々御祈禱在之〕相州武州被參。有犬追物。射手大炊助有時主。足利五郎長氏。小山五郎長村。結城五郎重光。修理亮泰綱。武田六郎信長。小笠原六郎時長。々江八郎。佐原左衛門四郎。佐々木八郎已下數輩也。相州被仰云。駿河次郎折節上洛。尤遺恨云々。駿河前司喜悦顯顏色云々。其後射訖。犬三十餘疋。又御覽例作物。長村時長等施射藝云々。未斜俄暴風起。少其興。及申斜。風猶不休之間。還御云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十七日辛巳。晴る。將軍家、海邊御遊覽の爲に、杜戸浦に御出。是れ、御不例御平愈の後の御出始(はじめ)なり〔去ぬる七、八月の間御不豫(ふよ)、御顏腫ると云々。種々の御祈禱、之れ在り。〕。相州・武州參らる。犬追物(いぬおふもの)有り。射手、大炊助(おほひのすけ)有時主(ぬし)・足利五郎長氏・小山五郎長村・結城五郎重光・修理亮泰綱・武田六郎信長・小笠原六郎時長・長江八郎・佐原左衛門四郎・佐々木八郎已下、數輩なり。相州、仰せられて云はく、

「駿河次郎、折節、上洛す。尤も遺恨。」

と云々。

駿河前司、喜悦の顏色を顯すと云々。

其の後、射訖んぬ。犬三十餘疋。又、例の作物を御覽す。長村・時長等、射藝を施すと云々。

未の斜(ななめ)、俄に暴風起こりて、其の興、少なし。申の斜に及び、風、猶ほ休(や)まずざる間、還御すと云々。

 

・「不豫」「予」は悦ぶの意で、天皇や貴人の病気。不例。

・「相州」幕府連署であった北条時房。当時、五十四歳。

・「武州」第三代執権北条泰時。当時、四十六歳。

・「犬追物」騎馬で犬を追射する競技。馬場を設けて犬を放ち、これを馬上より射るもの。矢は的である犬を傷つけないように鏃(やじり)の代わりに鳴鏑(なりかぶら)を大きくした蟇目(ひきめ)を装着した。馬場は七十杖(一杖は約七尺五寸、凡そ二・三メートル)四方の竹垣や杭を廻らしたその中央に縄で同心円を二重に設け、通常は三手に分かれて十二騎が一手となり、検見の合図によって開始、白犬百五十匹を十匹ずつ十五度に分けて射た。笠懸・流鏑馬とともに「騎射三物(きしゃみつもの)」の一つとされた(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「駿河次郎」三浦泰村。三浦義村次男。当時、二十五歳(生年元久元(一二〇四)年に従う)。承久の乱の宇治川渡河では足利義氏とともに果敢に攻め込むなど、武勇の誉れ高い武者であった。しかし、後の宝治合戦によって彼の代で三浦一族は滅んだ。

・「例の作物」的打ち用の作り物。

・「未の斜」「斜」は時刻が半ばを過ぎて終わりに近いことをいう。午後三時頃。

・「申の斜」午後五時頃。

 

 最後の寛喜二(一二三〇)年二月七日の頼経遊覧の記事。

 

〇原文

七日己未。天晴。將軍家渡御杜戸。遠笠懸。流鏑馬。犬追物〔廿疋。〕等也。例射手皆以參上。各施射藝云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

七日己未。天、晴る。將軍家、杜戸に渡御す。遠笠懸・流鏑馬・犬追物〔廿疋。〕等なり。例の射手、皆、以て參上し、各々射藝を施すと云々。

 

・「遠笠懸」小笠懸に対する普通の笠懸。的は直径一尺八寸(約五十五センチメートル)の円形(鞣し革で造る)で、これを「疏」(さぐり:馬の走路)より五杖から十杖(約十一・三五~二十二・七メートル)離れたところに立てた木枠に紐で三点留めして張り吊るす。的は一つ(流鏑馬の場合は三つ)。矢は「大蟇目(おおひきめ)」と呼ばれる大きめの蟇目鏑を付けた矢を用い、馬を疾走させながら射当てる(ここはウィキ笠懸に拠った)。]

中島敦 南洋日記 一月二十五日

        一月二十五日(日) アイミリーキ

 五時起床。飯もくはず船に乘込む。潮が干てゐるため、カヌーにのつて、ちゝぶ丸迄行く。砂濱に見送る島民共。バスケ、バスケ、バスケ。白砂と森との上に明け行く空。濱に立つて見送る黑き女達。六時十五分出帆。天野の店の女に貰つたビンルンムと燻製と椰子水とオレンヂの朝食。九時半頃コンレイに着くや、交通課の伊藤氏より、クカオ一籠を贈らる。うまし。するめ。アルコロンに着けば、一島女より、マンゴー一籠貰ふ。頗る美味。その他、バナナとオレンヂの大籠一つ。ガラルドにて佐藤校長より彫物一つ。西海岸風穩かにして快し。ガラスマオを經て三時前にアイミリーキに着く。赫土の新開道路を一時間餘歩きて、熱研に着く。途中へゴ羊齒を多く見る。熱研の倶樂部に落着く。眺望の展けし所。一寸滿洲あたりの新開地の如し。夜、情ないラヂオを聽く。

[やぶちゃん注:「バスケ、バスケ、バスケ」不詳。見送りの島民たちが皆持っている籠のことをいうか。

「熱研」このアイミリーキにあった南洋庁熱帯産業研究所。九州大学松原孝俊教授の公式サイト「松原研究室」の「パラオ調査日記」の「Palau通信第5便」(二〇〇九年一月九日のクレジットがある)で当地に熱帯産業研究所があったことが確認出来、「熱帯産業研究所」で諸書誌を調べると、南洋庁と冠していることが分かった。松原氏の記載には『地元の人々が「Nekken」と記憶する』まさに敦が記すこの旧南洋庁熱帯産業研究所跡を訪ねた部分があり、『その一帯は確かに人工的に植樹された椰子の木に囲まれた地域であり、研究目的に人為的な植林が実施されたと推測できるが、現在、その研究所が存在した痕跡を探すことは不可能なほど密林に覆われている。木々を取り除き、草を刈り、表面の土壌を除去すれば、何かの支柱石などが発見できようが、その努力は無駄であり、むしろ自然に還るようにすべきであろう。人々の記憶の中に、「Nekken」という言葉が残り続けようとも』と印象的に擱筆しておられる。椰子などの熱帯植物の農事・林業試験のような研究をしていた場所のように見受けられる。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(3)



かなた日はてるてる海の靑たゝみ

八疊ひける室(へや)に晝睡(ひるい)す

 

[やぶちゃん注:「ひける」はママ。校訂本文は「しける」と訂する。]

 

八月や日向葵(ひぐるま)さきぬさかんなる

花は伏屋(ふせや)の軒をめぐりて

 

[やぶちゃん注:「日向葵」はママ。「伏屋」は屋根の低い小さい家、みすぼらしい家。]

 

朝靄の中をわれ行く君に寄り

ぱいぷくわへて今日もきのふも

 

[やぶちゃん注:「くわえて」はママ。]

 

ぶらじるの海の色にもよく似ると

君の愛でこしオツパアスかな

 

[やぶちゃん注:「オツパアス」新発見の明治四二(一九〇九)年九月一日消印萩原栄次宛葉書に載る同年二月から五月までに作歌したとする「かゝる日に」歌群の中に、

 ぶらじるの海の色にもよく似ると。君の愛(め)でこし靑玉(オツパース)かな

という相同歌が載る。ところが、ここに記された「靑玉」という漢語は「サファイア」のことを指す。しかし英語の文字列“Sapphire”や発音は、どう考えても「オツパアス」又は「オツパース」とは読めない。これに近いのは同じ宝石の「黄玉」、則ち、「トパーズ」、“topaz”しかない。ただこれを誤用と指弾出来るかと言うと、実はトパーズにはブルー・トパーズという青色のものがあるから、これ、一概にトンデモ誤用とは言えない気がするのである。取り敢えず注はしておくこととしたい。]

 

止めたまへかゝる譬(たとへ)は方便歌

説く口振りに似てあさましゝ

 

理想など高き聲にて言ひし故

あまたの人にうとまれしかな

 

指たてゝ驚かす如き眼付する

女をさへも三月戀しぬ

 

日ぐらしの唱などきゝて居り給ふ

ぱいぷに火をばつくるあひだも

 

目覺ましの自鳴機(オルゴル)の鳴る音をきゝ

ところも知らぬ、支那の街ゆく

 

自働車の馳せ行くあとを見送りて
涙ながしき故しらぬなり

 

常盤津の復習(さらへ)もよほす貸席の

軒提灯の下に別れぬ

 

[やぶちゃん注:「常盤津」はママ。正しくは「常磐津」。]

 

芝居見て河添ひかへる夜などは

よくよく人の戀しかりけり

 

[やぶちゃん注:「川添ひ」はママ。ここはどうみても正しくは「河沿ひ」であろうが、珍しく底本は誤字指示がなく、そのまま校訂本文も採っている。]

 

     大坂の夜は美くし

思ひ出は道頓堀の細小路

小間物店の花瓦斯のいろ

 

[やぶちゃん注:「美くし」はママ。「道頓堀」は原本では「道紺堀」であるが、誤字と断じて「道頓堀」とした。校訂本文も同じく訂する。「花瓦斯」は「はなガス」と読み、種々の形や色に飾りたてた装飾・広告用のガス灯のこと。

 この一首の次行に、前の「花瓦斯のいろ」の「斯」位置から下方に向って、最後に以前に示した特殊なバーが配されて、この無題の「午後」冒頭歌群の終了を示している。]

北條九代記 蒲原の殺所謀 付 北陸道軍勢攻登る 承久の乱【二十二】――砥並・志保・黒坂合戦、幕府軍連戦連勝

心安く押通り、越中と加賀の境なる、砥竝(となみ)山に掛りて、黑坂(くろざか)と志保山(しほのやま)と兩道のありけるを、砥竝へは仁科(にしなの)次郎、宮崎左衞門むかひたり。志保山へは糟屋有名(ありな)左衞門、伊王左衞向ひけり。加賀國の住人林、富樫(とがし)、井上、津旗(つばた)、越中國の住人野尻、河上、石黑の者共京方として、七百餘騎集り、殺所を切(きり)塞ぎて、防(ふせぎ)戰ふといへども、大軍の寄手なれば、叶はずして、砥竝、志保、黑坂悉く破れて、次第次第に攻上(せめのぼ)る。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十二】――砥並・志保・黒坂合戦、幕府軍連戦連勝〉

「砥竝山」砺波山は倶利伽羅山の旧称。倶利伽羅山は木曽義仲の倶利伽羅峠の戦いでよく知られ、これはまさに直前の部分に出た「火牛の計」でも知られる古戦場(この時代には「古」ではない)である。

「黑坂」北黒坂(倶利伽羅峠北東麓)と南黒坂(同峠南東麓)があるが、戦略的には恐らく両方である(倶利伽羅峠の戦いで義仲は両所に軍を配位置している)。

「志保山」能登国と越中国の国境の古い山名。現在の石川県宝達山から北に望む一帯の山々を指す。ここも寧ろ、義仲の志保山の戦い(自軍の源行家が敗走、倶利伽羅合戦勝利後の義仲が反撃に転じた戦い)で知られる。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号53パート)の記載。最後の部分は、「北條九代記」では次のシークエンスの頭となる。

 

 越中ト加賀ノ堺ニ砥竝山ト云所有。黑坂・志保トテ二ノ道アリ。トナミ山へハ仁科次郎・宮崎左衞門向ケリ。志保へハ糟屋有名左衞門・伊王左衞門向ケリ。加賀國住人林・富樫・井上・津旗、越中國住人野尻・河上・石黑ノ者共、少々都ノ御方人申テ防戰フ。志保ノ軍破ケレバ、京方皆落行ケリ。其中ニ手負ノ法師武者一人、カタハラニ臥タリケルガ、大勢ノ通ルヲ見テ、「是ハ九郎判官義經ノ一腹ノ弟、糟屋ノ有名左衞門尉ガ兄弟、刑喜坊現覺ト申者也。能敵ヲ打テ高名セバヤ」ト名乘ケレバ、タレトハ不ㇾ知、敵一人寄合、刑部坊ガ首ヲトル。式部丞、砥竝山・黑坂・志保打破テ、加賀國ニ亂入、次第ニ責上程ニ、山法師美濃豎者觀賢、水尾坂ヲ掘切テ、逆茂木引テ待懸タリ。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和六年(四十一句) Ⅳ

雲漢の初夜すぎにけり磧

 

[やぶちゃん注:「初夜」六時(仏教で一昼夜を晨朝(じんじょう)・日中・日没(にちもつ)・初夜・中夜・後夜(ごや)の六つに分けたもので、この時刻毎に念仏や読経などの勤行を修した)の一つ。戌の刻で現在の午後八時頃。宵の口。「そや」とも読む。]

 

くづれたる露におびえて葦の蜘蛛

 

山びこに耳かたむくる案山子かな

 

山田なる一つ家の子の囮かな

 

よろよろと尉のつかへる秋鵜かな

 

[やぶちゃん注:「よろよろ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

浪々のふるさとみちも初冬かな

 

極月やかたむけすつる桝のちり

 

温石の抱き古びてぞ光りける

 

  牧岡神社

雪ふかく足をとゞむる露井かな

 

[やぶちゃん注:「牧岡神社」不詳。これは大阪府東大阪市出雲井町にある枚岡神社の誤りではなかろうか? この境内にはかつては楠正成の嫡男「楠木正行公首洗いの井戸」と呼ばれた井戸がある。サイト「大坂再発見!」のYoshi氏の正行井戸」の記載によれば、『東大阪市の枚岡神社境内に隣接する枚岡梅林の入り口に井戸がある。伝わるところでは1348年(正平3年)1月、楠木正行・正時兄弟、和田高家・賢秀兄弟を始め一族郎党が高師直率いる北朝の大軍と戦い、一族郎党30数名は討ち死にしたが、討ち取られた正行の首はこの井戸で洗われたという』。『この話は、四條縄手の合戦の場所が現在の四條畷市では成り立ちにくく、東大阪市四条町を中心としたならばありうる話と思われる。いずれにしてもその時正行の首はどこに埋葬されたのだろうか』と記しておられるが、この「露井」(雨曝しの井戸の謂いと思われる)はリンク先の現状を見てもそれっぽくはある。但し、実は「山廬集」でもここは「牧岡」となっている。以下、当該の「大阪行 八句」と前書きする全句を引いておく。

       大阪行 八句

雪    こゝろえて緒口とる雪の宴(ウタゲ)かな