『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 森戶明神社
●森戶明神社
小名森戶の海濱に在り東鑑には杜戶と記す葉鄕の總鎭守なり。此地元山王の社地とぞ。
[やぶちゃん注:「葉鄕」「新編相模國風土記稿」によれば、近世にはこの辺りに「木古葉鄕」という郷名が見える。相模国三浦郡に属する唯一の村である木古庭(きこば)村で、これは現在の三浦郡葉山町木古庭辺りと考えられるから、この「葉鄕」というのもその名残か。
以下の「新編相模國風土記」の引用は、底本ではポイント落ちで全体が一字下げ(本文のポイントで二字下げ)。]
緣起畧曰治承四年賴朝三島明神を勧請す賴朝豆州配流の日源家再興の事を三島の神に祈り大に志を得たり故に此擧ありと是年賴朝未豆州にあり十月に及ひて初て鎌倉に至る總劇の間恐らくは此の事あるべからず又所藏に治承四年九月賴朝の寄進狀あり其寫を藏し本書は失へりと云は又疑はし
と新編相模國風土記に載せたり。神官某が祕藏せらるゝ、院宣及び所謂賴朝公等の寄進狀の寫なるものを觀に。
[やぶちゃん注:「治承四年」西暦一一八〇年。
「總劇」は常に慌ただしいことを意味する「忽劇(そうげき)」の本画報の誤植である。
以下、後二条院院宣から和田義盛寄進状までは、底本ではポイント落ちで全体が一字下げ(本文のポイントで二字下げ)。一部の字配を変更してある。]
⦅後二條院々宣⦆
刑部助物部恒光職位
院宣 寄置刑部助物部恒光
院判 寄置刑部助物部恒光
自關東被申下間直院宣處
刑部助殿者也
院宣御勅使 爲左中辨則實
奉祇定刑部助殿也
右懸院宣者往昔古枯木得生萌落水逆流也況雖爲末世直至院宣身當亦今生者越武仕位連座天上衆中非名門限義神祇宜道御利生爲任祈念心於浮生業者永世堕惡道而十方佛土參詣者任我心者也仍刑部助位職如件
正和三年十月望日
院宣御勅使 佐中辨則實
[やぶちゃん注:「正和三年」西暦一三一四年。後二条天皇は徳治三(一三〇八)年に崩御しているから、このクレジットが正しいとすれば後二条院院宣というのはおかしい。]
⦅花園院々宣⦆
寄置 刑部助物部賴元職位
寄置 刑部助物部賴光
右雖爲末世此院宣致頂戴職位不長隱仍敬尊廟奠塔爲造營𢌞依之宣勅許云々
院宣如斯候
院宣嘉元元年仲冬月八日 左中辨則實院宣旨以人神任以故濁世
刑部助職位隨望申處也仍謹狀
正和三年十月望日
[やぶちゃん注:「嘉元元年」西暦一三〇三年。この院宣も不審。後花園院の退位は文保二(一三一八)年で、最後のクレジットの正和三(一三一四)年(前の院宣と同じ)にあっても彼は院ではなく、現役の天皇である。]
⦅賴朝寄進狀⦆
相模國葉山郡內森戶大明神御供免莵田莵畠合貮町事
右奉爲 金輪聖王御願圓滿特武運昌榮令引募之仍神官可致祈禱兼又向社廰住國軍類敢不可遺失仰得惣鄕者爲公家御料所時當宮社官者雖帶院宣論旨以國衙分割分容附之如斯故以狀
治承四年九月九日十九日 源 朝 臣判
⦅二位尼寄進狀⦆
判
下 婦美禰宜職
田成畠三反並當代田一反御寄進事
右以刑部助所補任被職也任先例可致祈禱之狀如件
曆應二年十二月十四日
[やぶちゃん注: 「曆應二年」西暦一三三九年。「二位尼」とは北條政子のことを指すが、全く時代が合わないので違う。「新編鎌倉志卷之七」では二位家と号した足利尊氏夫人赤橋登子(本文では「平時子」とあるが、これは清盛の妻との混同か。登子は従二位に叙せられてはいる)かとする。]
⦅和田義盛寄進狀⦆
義盛奉寄進
森戶大明神
相模國葉山郡內成田大其外自昔寄進所不可相違之狀如件
右意趣者爲祈禱精誠並心中所願成就故也仍如件
文和二年六月廿六日
[やぶちゃん注:「文和二年」文和二・正平八(一三五三)年。和田義盛は、その百四十年も前の建暦三(一二一三)年五月の「和田合戦」で一族郎党とともに滅んでいるから話にならない。]
神寶
駒角 二本
短刀一腰 信國作長九寸五分、天和三年菅谷八郞兵衞長房寄進、長房は菅谷安房守四世の孫なり。
[やぶちゃん注:「九寸五分」約二八・八センチメートル。
「天和三年」西暦一六八三年。「新編鎌倉志卷之七」に載らないのは、同作板行後の寄進だから当然。]
橫笛 一管靑葉の笛を模せり。
[やぶちゃん注:「靑葉の笛」は悪源太義平や平敦盛のエピソードで知られ、ここでは後者かとも思われるが、「靑葉」と名付けられた名笛伝承は各種あり、古いものは天智天皇の頃まで遡るともいう。現在の神宝として残っているかどうかは不詳。]
小鼓の胴 一個阿古が作。
[やぶちゃん注:「阿古」は「あこう」と読み、鼓胴作りの名工の名。初世の阿古は室町中期将軍義政の頃に在世した。]
猿田彥の面 一枚運慶が作。
翁の木面 何時の頃にや、小坪の漁師一夜網を打ちけるに此面懸かりければ、漁師奇瑞として、之を明神に奉納したりといふ、又小坪村に翁氏の民二十餘人あるは皆彼漁夫の遠裔(ゑんえい)なりと云傳ふ。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之七」には載らない。
以下、「奪ひ去らる。」までは底本では全体が一字下げ。なお、そこに記された硯のことは、「新編鎌倉志卷之七」には載っていない。「新編相模國風土記稿卷之百八」には、これらの詳細な図が載る。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを参照されたい。失われた前浜の眺望の図もある。]
此外政子所用の硯の蓋は表、黑塗松に鶴、裏金梨地蘆雁の高蒔繪なるもの希世の逸品とて深く祕藏せられしに三四年前惜しむべし賊の爲めに奪ひ去らる。
祭神は大山祇命にして神體は鏡面に鑄出せし像なり。
本社慶長二年十二月再興の棟札を藏せり、天正十九年十一月社領七石の御朱印を賜ふ。同年制札を賜ひしとて今其寫を藏す、里老の話に今より四十年前の大風雨にて、明神の境內大に觀を損ひたるよし、今の祠(ほこら)は明治九年の建立にして每年九月祭禮を行ふ。
[やぶちゃん注:「慶長二年」西暦一五九七年。
「天正十九年」西暦一五九一年。ここは編年で書いていない。
「四十年前」画報刊行の明治三一(一八九八)年からだと、四十年前は安政五(一八五八)年に当たる。
「明治九年」西暦一八七六年。
「每年九月祭禮を行ふ」治承四 (一一八〇) 年九月八日を創建とする森戸大明神例大祭。例大祭。「森戸大明神」公式サイトはこちら。
以下、同明神近辺の名跡の「高石」まで、底本では全体が一字下げ。]
●飛混柏
社の北にあり、豆州三島より飛來(とびきた)るといふ、圍二抱許、此の餘社地に混柏多し。
[やぶちゃん注:「混柏」ここでは「びやくしん」と読んでいよう。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属イブキ Juniperus chinensis 。現在も社域の五本が天然記念物に指定されている。その中でも海上に張り出した樹高約十五メートル・胸高の周囲約四メートルの一本は樹齢八百年と推定されており、尚且つ、野生種とも考えられている貴重なものである。]
●千貫松
社の西海濱に突出したる岩上にあり、圍二尺餘、松樹の形いと美にして、其價千貫を以て募るべし、故に名づく、東鑑に杜戶松樹と見えたり、今の松は後に植繼(うゑつ)きし者なりといふ。
[やぶちゃん注:一説に養和元(一一八一)年に頼朝が身を以て彼を守った三浦義明の追善のため、衣笠城へ向かう途次、この地で休息、海浜の岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えに参じていた和田義盛が「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたともされる。後世の作話とも思われるが、掲げておく。
「二尺」六〇・六センチメートル。
「千貫」ネット上の情報ではやや後になるが、戦国時代の金換算で百億円を有に超え、銀換算でも二億円近いとある。]
●腰掛松
千貫松の西の岩上にあり、賴朝此樹に腰をかけて遊覽せしむといふ。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の元暦元(一一八四)年の五月十九日の条に、
〇原文
十九日丙午。武衞相伴池亞相〔此程在鎌倉。〕右典厩等。逍遙海濱給。自由比浦御乘船。令着杜戶岸給。御家人等面々餝舟舩。海路之間。各取棹爭前途。其儀殊有興也。於杜戶松樹下有小笠懸。是士風也。非此儀者。不可有他見物之由。武衞被仰之。客等太入興云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
五月大十九日丙午。武衞、池の亞相(あしやう)〔此の程鎌倉に在り。〕右典厩(うてんきう)等を相ひ伴ひ、海濱を逍遙し給ふ。由比浦より御乘船し、杜戶の岸へ着かしめ給ふ。御家人等面々舟舩(しうせん)を餝(かざ)り、海路の間、各々棹を取り前途を爭ふ。其の儀殊に興有るなり。杜戶の松樹下に於て小笠懸有り。是士風なり。此の儀に非ずば、他の見物有るべからざるの由、武衞、之を仰せらる。客等太だ興に入ると云々。
・「池亞相」は池大納言頼盛、平頼盛(長承元(一一三二)年~文治二(一一八六)年)のこと(「亞相」は大臣に次ぐ大納言を指す唐名)。平忠盛五男で清盛の異母弟に当たる。母は平治の乱で頼朝を救命した池禅尼(藤原宗兼娘宗子)。六波羅池殿に住んだことから池殿・池の大納言などと称された。清盛の政権下で正二位権大納言にまで登ったが、清盛との関係は良くなかった。寿永二(一一八三)年七月の平家都落ちの際には途中から京に引き返して後白河法皇の庇護の下、八条院に身を寄せたが、同年八月には解官されている。後、木曾義仲の追及を逃れて鎌倉に下向し、頼朝に謁見する。頼朝は頼盛の実母池禅尼の助命の恩義に報いるために頼盛を厚遇、平家没官領のうちの頼盛の旧所領の荘園を返付した上、朝廷に頼盛の本位本官への復帰を奏請、この「吾妻鏡」の記事の翌月、元暦元(一一八四)年六月に正二位権大納言に還任されて帰京、朝廷に再出仕している。但し、法住寺合戦を目前にした京都からの逃亡や頼朝の厚遇を受けたことが、後白河院近臣ら反幕勢力の反発を買ったものと推測され、同年十二月には子息光盛の左近衛少将奏請とともに官を辞した。文治元(一一八五)年に出家して重蓮と号し、翌年、没した。
・「右典厩」「うてんきう(うてんきゅう)」。公卿一条能保(久安三(一一四七)年~建久八(一一九七)年)のこと。藤原北家中御門流の丹波守藤原通重の長男。但し、当時の彼は左馬頭(唐名左典厩)であったから「左典厩」の誤記。能保は妻に源義朝娘で頼朝同母姉妹であった坊門姫を迎えていたため、頼盛同様、頼朝の厚遇を受けた。
・「是士風なり。此の儀に非ずば、他の見物有るべからざる」の部分は、頼朝の直接話法に準じた記載である。本「新編鎌倉志」の記載との異同に注意されたい。「土風」ではなく、「吾妻鏡」は「士風」である。これは『(関東武士の)士風』の意である。「新編鎌倉志」の本文では、これを『土地の習わし』と読み、弓馬の芸の一つである小笠懸の仕儀を、この森戸辺の古来の土俗習俗であろう、と解説しているのだが、如何? 三浦氏の勢力下にはあったものの、近距離からの馬上からの射芸が、森戸のような狭い海浜での習俗として古くからあったとするのは、私にはやや疑問である(勿論、全否定出来る証左もないのであるが)。確かに「吾妻鏡」北条本は「土」であるが、現行「吾妻鏡」はこれを「士」とする。私は北条本は単なる「士」の字を「土」と誤ったに過ぎないと読む。ここは寧ろ登場人物に着目すべきで、都人として武士の風を失った頼盛や、姻族ながら公家である一条能保に対し、『これ、関東武士の誉れともいうべきものにて、この射芸にあらざれば、いかなる射芸も見物すること、これ、価値は御座らぬ!』と鎌倉武士の面目躍如たる自負を示したワン・シーンととるべきところであろう。]
●高石
千貫松の南、海濵にあり、高三間許。