橋本多佳子句集「信濃」 昭和十七年 Ⅶ 信濃抄三
信濃抄三
はまなすの紅姥捨も霧に過ぎ
髮匂ふことも親しく螢の夜
きりぎりす日が射せるより露あつく
膝前(さき)に秋爐もえつく山の日々
硯洗ふ墨あをあをと流れけり
身の邊り狐のかみそり日日に立つ
草照りて十六夜雲を離れたり
靑胡桃地にぬくもりて拾はるる
靑栗にしなのの空がすき透る
いなびかりひとゐて爐火を更けしめず
わがひざに小猫がぬくしいなびかり
ひざ前(さき)に爐火が燃えつぐきりぎりす
朝刊のつめたさ螽斯(ぎす)が歩み寄る
牛乳(ちち)飮みに日日や秋立つ切通し
母と子に落葉の焰すぐ盡きぬ
一茶終焉の土藏にて
あさがほや家をめぐりて十數歩
[やぶちゃん注:小林一茶(宝暦一三(一七六三)年~文政一〇(一八二八)年)は放浪の後、信濃北部の北国街道柏原(かしわばら)宿(現在の長野県上水内郡信濃町大字柏原)の実家への帰還後、継母や弟と遺産相続係争の末、文政一〇(一八二七)年閏六月一日(グレゴリオ暦一八二七年七月二十四日)に柏原宿を襲った大火のために住んでいた母屋を失い、焼け残った土蔵に住んだが、同年十一月十九日(グレゴリオ暦の一月五日)にそこで三度目の脳卒中の発作のために亡くなった。享年六十五歳であった。復元された一茶終焉の土蔵は現在、終焉の地であった長野県上水内郡信濃町柏原の一茶記念館にある。但し、この一茶記念館は後の昭和三二(一九五七)年にこの土蔵が国史跡として指定された後、昭和三五(一九六〇)年に開館したもので、土蔵もその後二度に亙って解体保存工事が施されたもので、多佳子がこの時見たものとはかなり異なるものと思われる(以上は「一茶記念館」公式サイトやウィキの「小林一茶」その他信頼出来る複数の記載を参考に記した)。]
鳥兜花盡さぬに我等去る
[やぶちゃん注:「鳥兜」は「とりかぶと」。モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum のヤマトリカブト Aconitum
japonicum か。見「盡さぬ」うち「に」の謂いか。]
道の邊に捨蠶の白さ信濃去る
[やぶちゃん注:「蠶」は底本では「蚕」。「捨蠶」は「すてご」で、養蚕に於いては病気又は発育不良の蚕は野原や川に捨てられる。それを言う。]
日が射せる秋の蚊遣や忌を訪はる
[やぶちゃん注:「忌」九月三十日の夫豊次郎(昭和一二(一九三七)年逝去)の祥月命日、六回忌のことと思われる。]

