雨と床屋 山之口貘
雨 と 床 屋
雨の足先が豆殼のやうにはじけてゐる
バリカンの音は水のやうに無色である
頭らが野菜のやうに靑くなる
山羊の仔のやうな
ほそいおとがひの藝妓もゐる
なんとまあよく降る雨だらう
淸潔どもが氣をくさらして
かはりばんこのあくびである。
[やぶちゃん注:【2014年6月24日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】初出は昭和一二(一九三七)年六月二十日附『日本学藝新聞』。本詩は表記通り、有意に行間が空く。原書房刊「定本 山之口貘詩集」では、この行空けはなく、最後の句点も除去されてある。
【二〇二四年十月三十日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて正規表現への訂正をしているが、驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの初版本は、多量の落丁があることが判った。それは「無題」が右の「九八」ページで終って、その左丁が、突然、「一一五」ページとなって、「雨と床屋」の最終部分の四行だけが載っているのである。本書內の十六ページ分が、ごっそり脱落しているのである。これは、実に「夜景」・「生活の柄」・「論旨」・「大儀」・「鏡」・「喰人種」・「自己紹介」・「立ち往生」の八篇分が全く載らず、前に述べたように、「雨と床屋」の八行からなる詩篇の前半四行が載っていないのである。しかも、本国立国会図書館デジタルコレクションの底本詩集のどこを探しても、この呆れ果てた落丁についての修正や差し込みなどは――ない――のである。バクさん、最終製本の校正をしなかったのか? それとも、国立国会図書館に献本する際に、間違って、校正前の不良落丁本を提出してしまったものか? この驚くべき事態は、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にも記されていないのである。国立国会図書館デジタルコレクションでは、同詩集は一冊しか、ない。途方に暮れた。しかし、★――一つの光明はあった――★のである。本詩集発行から二年後、バクさんは、この「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加して第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)を出しており、その原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左のリンクは標題ページ。奥附はここ)にあるから、である。仕方がないから、これで、正規表現を、落丁の八篇と一篇の前半部について校訂することとする。但し、この「山之口貘詩集」の九篇が「思辨の苑」と全く同じである確証はない。バクさんは、詩一篇を完成させるのにも、驚くべき多数の改稿をするからである。また、初出は勿論、先行する詩集からの再録するに際しても、頻繁に改作を行うからである。これは、しかし、私が四苦八苦してやるよりも、所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 詩集」と、上記の「新編」版で、校異されているものと、勝手に抱っこにオンブで、信頼することとする(実は、これは、実は、殆んど信頼出来るものではない。何故かって? 一九七五年七月刊の全集の「詩集校異」の冒頭『思弁の苑』のパートには、『誤字、誤植を訂正し、句読点とくりかえし符号をとりのぞき、若干の行かえと表記の訂正もほどこされている。そのうち』(☞)『おもなものを』(☜)『列記しておく』とやらかしてあるからである。一方、最大の頼みの綱である「新編」版は、第一巻が出たっきり、もう十一年になるのに、残りの二巻以降は未だに出版されていないのだ。しかも、校異は、最後の第四巻に付されることになっているんだ! おいッツ! 俺が生きている間に、全巻! 出せよ! そうしないと、キジムナーに化けて、呪い殺すぞッツ! 本篇はここ。後半四行は、原本である、国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」の残骸で確認した。 ]