炭 山之口貘
炭
炭屋にぼくは炭を買ひに行つた
炭屋のおやぢは炭がないと云ふ
少しでいゝからゆづつてほしいと云ふと
あればとにかく少しもないと云ふ
ところが實はたつたいま炭の中から出て來たばつかりの
くろい手足と
くろい顏だ
それでも無ければそれはとにかくだが
なんとかならないもんかと試みても
どうにもしやうがないと云ふ
どうにもしやうのないおやぢだ
まるで冬を邪魔するやうに
ないないばかりを繰り返しては
時勢のまんなかに立ちはだかつて來た
くろい手足と
くろい顏だ。
[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注を全面改稿した。】初出は昭和一五(一九四〇)年三月発行の「詩原」(第一巻第一号。発行所は東京市小石川区駕籠町「赤塚書房」)。因みに、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題によると、戦後の昭和三五(一九六〇)年十二月二十五日附『全繊新聞』(「全国繊維産業労働組合同盟」の中央機関紙で、戦後は、バクさんの詩がよく発表された)に再掲された際には、『古田熊蔵撮影』になる『焚き火で暖を取っている写真』が掲載されている、とある。この『焚き火で暖を取っている』のはバクさんとしか読めないが、そうするとなかなか凄い(というかバクさんの詩の中ではとびっきり変わった)演出ということになる。実物を見てみたいものである。また、翌一九六一年二月号の学習研究社『6年の学習』にも再掲されているとあり、これは恐らく、戦前の詩集未収録の児童詩を除いて(恐らく最も古いものは昭和一六(一九四一)年十一月号『國民六年生』(小学館発行)に載った「希望」か)、バクさんの公刊詩集の中の詩では本格的児童向け雑誌に載った最初のものではなかろうか。
原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本山之口貘詩集」では、最後の句点が除去され、十一行目が、『どうにもしやうのないおやじだ』と改められているが、この「おやぢ」だけを現代仮名遣に直しておいて、二行目は「おやぢ」のままであるのは、これ、甚だ不審と言わざるを得ない(「思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」でもそうなっているが、私はこれこそ解題で注記して、本分を訂正して何ら構わない部類のものだと個人的には思うのだが、解題には、この表現の齟齬注記さえないのは、大いに不満である)。
【二〇二四年十一月四日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で、正規表現に補正を開始する。当該部はここ。]