芥川龍之介手帳 1-5
〇 femme + homme(梅毒)
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別居
[やぶちゃん注:「femme」フランス語で女・婦人、「homme」フランス語で男・(俗語で)夫。この図式は大正九(一九二〇)年発表の「南京の基督」のシノプシスと関連があるように私には感じられなくもない(リンク先は私の電子テクスト)。]
○揉然 圓柄方鑿 炳燿 錘鍊の功 婉孌綽約 鏤骨腐心亢として窮晷を白頭に惜む
[やぶちゃん注:語彙集メモ。
「揉然」は「じうぜん(じゅうぜん)」で、「揉」は揉み和らげる・和らげ懐かせる・撓めるという謂いであるから、ひいては懐柔するというニュアンスも含むものあろう。
「圓柄方鑿」は「えんぜいほうさく」と読み、「円鑿方枘(えんさくほうぜい)」「円孔方木(えんこうほうぼく)」と同義。円い穴に四角な枘(ほぞ)を入れようとする意で、物事がうまく嚙み合わぬ譬え。「史記」の「孟子荀卿伝」に基づく。
「錘鍊の功」「錘鍊」は「ついれん」と読み、鍛えること、鍛錬と同義であるから、刻苦勉励した結果の業績をいうのであろう。
「婉孌綽約」「婉孌」は「ゑんれん(えんれん)」で、年若くして美しく可憐なことで、「綽約」は「しやくやく(しゃくやく)」姿がしなやかで優しいさま、嫋(たお)やかなさまであるから、若く魅力的な女の容姿の形容である。
「鏤骨腐心亢として窮晷を白頭に惜む」この一連の文字列では類似の文は見当たらない。「鏤骨」は「るこつ」「ろうこつ」で、骨身を削るようなの苦心や努力のことで、一般には「彫心鏤骨(ちょうしんるこつ/ちょうしんろうこつ)」で心に彫りつけ、骨に刻みこむ意から、苦心して作り上げること、苦心して詩文を練ることをいう。「腐心」はある事を成し遂げようと心を砕くことであるから、「彫心」とは相同ではある。「亢として」の「亢」は「かう(こう)」と読み、原義は頭を上げてすっくと立つことで、「亢として」は強い自負心とともに奢り昂ぶるの謂い、「窮晷」は「きゆうき(きゅうき)」で、「晷」は日影のことであるろうから、日がすっかり翳る、老年に至るの謂いと思われ、下の「白頭を惜む」に対応する。詩や文才への自信を甚だしく持って傲然と生きてきた詩人が遂に正しく評価されることなく老いさらばえた焦燥を表現していよう。]
○夜 小便 學校
[やぶちゃん注:これは盟友を語った「恒藤恭氏」(大正一一(一九二二)年発表)の以下の部分と関係するものと思われる。
§
恒藤は又謹嚴の士なり。酒色を好まず、出たらめを云はず、身を處するに淸白なる事、僕などとは雲泥の差なり。[やぶちゃん注:中略。]しかもその謹嚴なる事は一言一行の末にも及びたりき。例へば恒藤は寮雨をせず。寮雨とは夜間寄宿舍の窓より、勝手に小便を垂れ流す事なり。僕は時と場合とに應じ、寮雨位辭するものに非ず。僕問ふ。「君はなぜ寮雨をしない?」恒藤答ふ。「人にされたら僕が迷惑する。だからしない。君はなぜ寮雨をする?」僕答ふ。「人にされても僕は迷惑しない、だからする。」[やぶちゃん注:後略。]
§
龍之介は一高時代、南寮の中寮三番でともに生活した(一高は原則全寮制であったが、龍之介は寮生活を嫌って自宅からの通学願書を出していた。しかし、十九歳の時の明治四四(一九一一)年九月からの二年生の時は止むを得ず、一年間の寮生活を余儀なくされている)。]
○豐臣秀吉傳
[やぶちゃん注:これだけの記載なので一概に同定は出来ないが、浅井了意の寛文四(一六六四)年板行の「将軍記」に「豊臣秀吉伝」がある。新全集未定稿で仮題「秀吉と悪夢」とされる断片があり、新全集の「手帳1」の後記にはこの箇所とは明記していないものの、本手帳と関わりの認められる作品として掲げられてあるが、新全集の後記ではこの未定稿の執筆は大正三(一九一四)~四年としてあるのに対し、本手帳は大正五(一九一六)~七年と推定されているから大きな時間的齟齬があり、直接的な関わりの可能性は低いように私には思われ、私は寧ろ、後の「秀吉と神と」(大正九(一九二〇)年発表)との関係性の方が強いように思われる。]
○或方向への力の
sense の美 蓮華往生
[やぶちゃん注:叙述からは大正一〇(一九二一)年発表の「往生絵巻」との関係が窺われる。殺生を尽くした五位が阿弥陀仏への「或方向への力の sense の美」、専心の求道の美によって、その口から真っ白な蓮華を咲かせて美事にまさに文字通り、「蓮華往生」するという点で、という意味でである。]
○隆國をかけ
[やぶちゃん注:平安後期の公卿宇治大納言源隆国(寛弘元(一〇〇四)年~承保四(一〇七七)年)のことと思われ、これは形式上の主人公に彼を配した「龍」(大正八(一九一九)年発表)との関係性が窺われる。なお、ウィキの「源隆国」には『井澤長秀(肥後細川藩士、国学者、関口流抜刀術第三代)によって、『今昔物語』の作者とされたが(『考訂今昔物語』)、現在では否定説が有力である。なお、隆国は『宇治大納言物語』の作者ともされている』とあり、「今昔物語集」を多くの種本とした龍之介との接点は多いとも言える。「をかけ」(「を書け(!)」?)は不詳。「隆國を」という文字列は「龍」にはない。]