かげろふの我が肩に立つ紙子哉 芭蕉 元禄2年2月7日=1689年3月27日 作
本日二〇一四年三月二十七日(陰暦では二月二十七日)
元禄二年二月 七日
はグレゴリオ暦では
一六八九年三月二十七日
である(この大きなズレはこの年が閏年で一月が二回あったことによる)。
★注:今回より単純な現在の当日の陰暦換算の一致日ではなく、実際の芭蕉の生きたその時日の当該グレゴリオ暦との一致日にシンクロさせることとする。その方が、少なくとも季節の微妙な変化の共時性により正確に近づくことが可能だからと判断したためである。例えば、今年の陰暦二月七日はグレゴリオ暦三月七日で一六八九年三月二十七日とは二十日もズレてしまって、明らかに季節感が違ってくるからである。
元祿二年仲春、嗒山旅店にて
かげろふの我が肩に立つ紙子哉
[やぶちゃん注:元禄二(一六八九)年、芭蕉四十六歳。同年二月七日の作。
「仲春」は陰暦二月の異名である。「嗒山」は「たふざん」と読む。新潮日本古典集成「芭蕉句集」の今栄蔵氏の注によれば、大垣の俳人で大垣藩士であったかとし、『その江戸滞在中の旅亭で』曾良や此筋(しきん)らと『巻いた七吟歌仙の発句。真蹟歌仙巻二に「元禄二年仲春七日」と奥書がある。真蹟句切には「冬の紙子いまだ着がへず」と前書』がある、とする(下線やぶちゃん)。脇句は曾良の、
水やはらかに走り行(ゆく)音
である(歌仙を巻いた連衆と脇句は山本健吉「芭蕉全発句」(講談社学術文庫二〇一二年刊行)に拠る)。
「紙子」は「かみこ」と読み(「紙衣」とも書く)、紙子紙(かみこがみ:厚手の和紙に柿渋を引いて日に乾かしてよく揉み和らげた上で夜露に晒して臭みを抜いたもの。)で作った衣服のこと。当初は律宗の僧が着用を始め、後に一般に使用されるようになった。軽くて保温性に優れ、胴着や袖無しの羽織に作ることが多かった。かみぎぬ。特に近世以降は安価ことから貧者の間で用いられた。現在は冬の季語とされるが、本句の場合無論、季詞は「かげろふ」(陽炎)であって春である。
芭蕉は凡そ二月前(六十六日前。冒頭に記した如く、この年は閏一月があった)の当年の歳旦吟として、やはり知られた、
元日は田ごとの日こそ戀しけれ
を詠んでおり、同じくその正月早々に去来に送ったともされる文(この確かな確証はないが)には、
おもしろや今年の春も旅の空
と記し、やはりこの時期に門人に名所の雑の句のあり方を説いた時に示したとされる句には(新潮日本古典集成所収。但し、この句、他では掲げぬものも多い)、
朝夜(あさよ)さを誰(たが)まつしまぞ片心(かたごころ)
と詠んでもいるとされる(「片心」は片思いの意)。
本句を読んだ八日後の二月十五日附桐葉(熱田門人)宛書簡の中には、
拙者三月節句過早々、松島の朧月見にとおもひ立候。白川・塩竃の櫻、御浦(おうら)やましかるべく候。
と綴ってもいる。
――元日から前年秋の越人との木曽路の旅を思いやっては、その旅心のままに想像の、「田毎月」ならぬ「田毎の初日」の輝きを恋慕い、――去来には俳言もない子供染みた手放しの旅情を知らせ、――遂には掛詞で松島を詠み込んで、あからさまにそのそぞろ神に惹かれるおのが旅心の切ない恋情を歌っては彷徨の先をはっきりと詠み込んでいる。――そこにあるのは「片心」の狂おしいまでの旅に誘(いざな)われる芭蕉の魂であり、それは遂に芭蕉の身からあくがれ出でて、自身の春立つ旅立ちの日の、その後ろ影に立つ陽炎さえも、幻視するに至るのである。――
……では御一緒に
……芭蕉とともに
……奥の細道の旅へ旅立たんと致そう……]