中島敦 南洋日記 一月二十七日
一月二十七日(火) ガスパン
午前中農園内散歩。コーヒー・カカオ(赤き實)丁香・胡椒・マンゴステイン等。午後小林氏の案内にて又歩き廻る。蔓草ヷニラ。芭蕉に似たるマニラ麻。パナマ草。食用べに。黄色のトマトの如き茄子。アボガドオ・ペア其の他。地に舖けるサラワク・ビーンズ。園内の荒廢せると、地味の瘦せたるに一驚。小林氏方にて紅茶、蜂蜜。ミルク。三時出發、天氣快晴。秋の如し。一寸道を誤りて熱産波止場の方に出で、引返して、川傍を行く。粘土道。一時間足らずにしてガスパン莊に達す。この邊にては川は既に溪谷の趣あり。志水氏の世話に成る。子供多勢。事務所に行きし土方氏、志水氏と歸り來る。臺北帝大に永く勤めし人にて下川氏とも良く知れりと。又泱ちやんのことも知れり。芋の如く太きバナナ。夜、庭に席を出し、椅子卓子を出して月を觀る。小學校長も來る。頗る涼し。飛行機鳥の聲。九時就寢。
[やぶちゃん注:「丁香」中黒点が前にないが、「カカオ丁香」ではあるまい。丁香は音「ちやうかう(ちょうこう)」で、所謂、丁子(ちょうじ)・クローブ(英語:Clove)即ち、バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum のことであろう。これで「ちやうじ(ちょうじ)」と読んでいる可能性も高い。但し、狭義には「丁香」と書くとチョウジノキの開花前の蕾(つぼみ)を乾燥させた生薬や香辛料の名である。インドネシアのモルッカ群島原産の常緑高木で東南アジアやアフリカなどで栽培される。芳香があり、葉は楕円形で両端が尖る。筒状の花が房状に集まってつき、蕾は淡緑色から淡紅色へと変化して開花すると花弁は落ちる。つぼみからは油も採取だれる。
「蔓草ヷニラ」バニラ・ビーンズ、バニラ・エッセンス、バニラ・オイルを採取する蔓性植物である単子葉植物綱ラン目ラン科バニラ
Vanilla planifolia。種小名“planifolia”はラテン語で「扁平な葉」の意(以上はウィキの「バニラ」に拠る)。
「芭蕉に似たるマニラ麻」単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属マニラアサ
Musa textilis。ご覧の通り、「芭蕉に似たる」は当然。参照したウィキの「マニラアサ」によれば、『丈夫な繊維が取れるため、繊維作物として経済的に重要で』、『名称の「マニラ」は原産地であるフィリピンの首都・マニラに由来する。分類上はアサの仲間ではないが、繊維が取れることから最も一般的な繊維作物である「アサ」の名がついている。他にアバカ、セブ麻、ダバオ麻とも呼ばれる』。『フィリピン原産で、ボルネオ島やスマトラ島にも広く分布する。植物学的には多年草であるが、高さは平均』六メートル『に達するため木のように見える。これは同属のバナナと同様であり、外見もよく似ている』。『葉は楕円形で大きく、基部は鞘状で茎を包むようになっており(葉鞘)、ここから繊維が取れる』。『マニラアサの繊維は植物繊維としては最も強靭なものの1つである。またマニラアサは水に浮き、太陽光や風雨などに対しても非常に高い耐久性を示す。ロープをはじめ、高級な紙(紙幣や封筒)、織物などに用いられている。マニラアサは3―8ヶ月ごとに収穫される。生長した個体は根を残して切り倒し、葉鞘を引き剥がす。残された根からは新しい植物が生長する』。『葉鞘からは肉質などを除去し、繊維だけを取り出す。繊維はセルロース、リグニン、ペクチンなどで構成されており、長さは』一・五~三・五メートル『である。これをよりあわせるとロープができる』。『フィリピンでは1800年代からロープ用に栽培されており、1925年にはフィリピンでの栽培を見たオランダ人によってスマトラ島に大規模なプランテーションが作られ、続いて中央アメリカでも米国農務省の援助で栽培が始まった。英領北ボルネオでは1930年に商業栽培が始まった』とある。
「パナマ草」単子葉植物綱ヤシ亜綱パナマソウ目パナマソウ科 Cyclanthaceae に属し、ヤシに似た葉を持つ。主に熱帯に産し、凡そ十二属百八十種を含む。この内のパナマソウ Carludovica palma がパナマ帽(この帽子の発祥は実はパナマではなくエクアドルで、「パナマ帽」の名称由来はパナマ運河であるとする説が強く、「オックスフォード英語辞典」では「一八三四年にセオドア・ルーズヴェルトがパナマ運河を訪問したときから一般に広まった」としている。ここはウィキの「パナマ帽」に拠る)の材料であったために同類総体の植物にも「パナマソウ」の名がついたという。自生種は熱帯アメリカと西インド諸島に分布し、高さ一~三メートルほど、大きな団扇状の葉が広がる。花はサトイモ科に似、果実は熟すと剥け落ちて朱赤色の果肉が現れる。葉を天日で乾燥させ、さらに煮沸した後に漂白したものをパナマ帽の材料とする(ここは「Weblio 辞書」の「植物図鑑」の「パナマソウ」に拠った)。
「食用べに」種子から搾ったサラダ油として使用される紅花油(サフラワー油)やマーガリンの原料としたりする、エジプト原産とされるキク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ Carthamus tinctorius のことであろう。
「黄色のトマトの如き茄子」現在、“Eggplant Thai Yellow Egg”と呼ばれるタイ料理ではポピュラーな鮮やかな黄色い卵型のまさにプチ・トマトのような茄子があるが、それか、その仲間か。グーグル画像検索「Eggplant Thai Yellow Egg」。
「アボガドオ・ペア」ここはこれの一語でクスノキ目クスノキ科ワニナシ属アボカド
Persea Americana を指す。アボガドは英語で“avocado”であるが、別名“alligator pear”とも言う。ウィキの「アボガド」によれば、昭和四十(一九六五~一九七五)年代『までは、果実の表皮が動物のワニの肌に似ていることに由来する英語での別称 alligator pear を直訳して、「ワニナシ」とも呼んでいた』とある。
「サラワク・ビーンズ」ネット上ではサラワク豆と呼称する豆類は見たらない。マレーシア産のホワイト・ペッパーを現在ではサラワク・ペッパーと呼んでいるが、英文検索で“Sarawak beans”を掛けると、圧倒的に“Coffee Beans in
Sarawak”が引っ掛かる。これかと思えば、どうもこれは一種の胡椒入りフレーバー・コーヒーで、同一物であるようにも見える。御存じの方の御教授を乞うものである。
「泱ちやん」人名であろうが不詳。呉音は「アウ(オウ)」、漢音は「アウ(オウ)・ヤウ(ヨウ)」で、意味は、水面が広々とした・洋々たる、気宇壮大な・堂々たるという意。人名漢字としては「ひろし」とも読めるのでここでもそうかもしれない。
「飛行機鳥」不詳。敦の「環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――」の「眞晝」の末尾に、
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少年について一歩日向の砂の上に踏出した時、タマナ樹の梢から眞白な一羽のソホーソホ鳥(島民が斯う呼ぶのは鳴き聲からであるが、内地人は其の形から飛行機鳥と名付けてゐる)が、バタバタと舞上つて、忽ち、高く眩しい碧空に消えて行つた。
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とある(底本は筑摩版旧全集を用いた。「バタバタ」の後半は底本では踊り字「〱」)とはある。鳥類にお詳しい識者の御教授を乞う。
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