賑やかな生活である 山之口貘
賑 や か な 生 活 で あ る
誰も居なかつたので
ひもじい、と一聲出してみたのである
その聲のリズムが呼吸のやうにひゞいておもしろいので
私はねころんで思ひ出し笑ひをしたのである
しかし私は
しんけんな自分を嘲つてしまふた私を氣の毒になつたのである
私は大福屋の小僧を愛嬌でおだてゝやつて大福を食つたのである
たとへ私は
友達にふきげんな顏をされても、 侮蔑をうけても私は、 メシツブでさへあればそれを食べるごとに、市長や郵便局長でもかまはないから長の字のある人達に私の滿腹を報告したくなるのである
メシツブのことで賑やかな私の頭である
頭のむかふには、晴天だと言つてやりたいほど無茶に、 曇天のやうな鄕愁がある
あつちの方でも今頃は
瘦せたり煙草を喫つたり咳をしたりして、 父も忙がしからうとおもふのである
妹だつてもう年頃だらう
をとこのことなど忙がしいおもひをしてゐるだらう
遠距離ながらも
お互さまにである
みんな賑やかな生活である
[やぶちゃん注:初出は昭和八(一九三七)年八月発行の『世代』(発行所は世代社で東京市品川区大井伊藤町)。
原書房刊「定本 山之口貘詩集」では読点が総て除去されて、字空けとなっており、八行目が、
たとひ私は
に、九行目が、
友達にふきげんな顏をされても 侮蔑をうけても私は メシツブでさへあればそれを食べるごとに 市長や郵便局長でもかまはないから 長の字のある人達に私の滿腹を報告したくなるのである
と、「市長や郵便局長でもかまはないから」と「長の字のある人達に私の滿腹を報告したくなるのである」の間に字空けが施されてあり、また、その後に出る、
「忙がしからう」と「忙がしい」
の二箇所がそれぞれ、
「忙しからう」「忙しい」
となっている(この最後の送り仮名の異同は旧全集には示されていない)。【2014年6月24日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証によって注を改稿した。】【二〇二四年十月二十六日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。]
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