疲れた日記 山之口貘
疲れた日記
雨天
晴天
曇天
大抵の天の下は潛つてしまふたのです
街を步いて拾ひ物を期待してゐるせいか
僕は猫背になつたのです
ある日
僕は言はなかつたのです
友よ空腹をかんじつくらしてみようぢやないか、 と
すると彼が僕に言つたのです
君には洋服が似合ふよ、と
僕もさう思ふ、 と僕は答えたのです
朝になると
僕は岩の上で目を覺ましてゐたのです
潮風にぬれた頭を陽に干しながら 空腹や孝行に就て考へながら
海鳥のやうに
海に口をさしむけてゐると
顎の下には渚の音がきこえるのです。
[やぶちゃん注:【2014年6月24日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を改稿した。】初出は昭和一一(一九三六)年四月発行の『世代』。「定本 山之口貘詩集」では、句読点が除去されて読点が字空きとなり、九行目が、
友よ 空腹をかんじつくらしてみようぢやないか と
と「友よ」の後に字空けが施され、読点が字空けとなり、十五行目が、
潮風にぬれた頭を陽に干しながら 空腹や孝行に就いて考へながら
と「就て」に送り仮名が追加されてある。
【二〇二四年十月二十★日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。
なお、今回、再読してみて、遅まき乍ら、「空腹をかんじつくらして」という表現に躓いた。これは、「空腹を感じ造らして」としか思えないのだか、意味としては、「空腹を新たに生(産)み出させて」(空腹感を、既存の私の「空腹感」ではない、全く新たな空腹感を創造させて)或いは、「完全に偽わりの空腹感を表面上、装(よそお)わさせて」といった風にしか採れないのだが、どうもしっくりこないのである。これ、思うに、ダイレクトに「空腹を感じ尽くさせて」の誤りではなかろうか? 識者の御意見を乞うものである。]
« 萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(11)「はなあやめ」(Ⅰ) | トップページ | 無題 山之口貘 »