怒(いか)れる 相(すがた) 八木重吉
空が 怒つてゐる
木が 怒つてゐる
みよ! 微笑(ほほえみ)が いかつてゐるではないか
寂寥、憂愁、哄笑、愛慾、
ひとつとして 怒つてをらぬものがあるか
ああ 風景よ、いかれる すがたよ、
なにを そんなに待ちくたびれてゐるのか
大地から生まれいづる者を待つのか
雲に乘つてくる人を ぎよう望して止まないのか
[やぶちゃん注:太字「ぎよう」は底本では傍点「ヽ」。目的語からは「仰望」で仰ぎ望むこと、また、敬い慕うことの意が、また、あらゆる「怒れる」現界のそれらが「待ちくたびれてゐる」ことを考えるならば、「翹望」(「翹」は「挙げる」の意)、首を長く伸ばすように待ち望むこと、その到来を強く望み待つことの意の熟語がマッチはする。重吉がこの「翹」の字を思い出せなかったか、嫌いな(例えば事実、私藪野直史は「堯」という漢字に対して実は激しい生理的嫌悪感を持っている)漢字であったから敢えて平仮名表記したと考えると納得は出来る。但し、歴史的仮名遣は正しくは「仰望」なら「ぎやうばう」、「翹望」なら「げうばう」で孰れも合致はしない(但し、重吉は今まで見てきたようにしばしば歴史的仮名遣を誤用することも事実ではある)。「ぎよう望」が全く正しい表記ならば、これは「凝望」「ぎようばう(ぎょうぼう)」に相当する。これは目を凝らして眺めること、凝と遠くを見つめることをいう。寧ろ、風景の姿の持つ「怒り」と「待ちくたびれ」と「止まぬ待望」が詩の中に十全に横溢している以上は、ここでは寧ろ、最後の「凝望」の「姿」のみのシンプルな謂いで採った方がより相応しいように私は感ずる。]