飯田蛇笏 靈芝 昭和六年(四十一句) Ⅲ
七夕のみな冷え冷えと供物かな
[やぶちゃん注:「冷え冷え」の後半は底本では踊り字「〱」。「〲」ではないので注意。]
梶の葉に二星へそなふ山女魚
[やぶちゃん注:「二星」は「にせい」で牽牛星と織女星のこと。]
草市の人妻の頰に白きもの
[やぶちゃん注:「草市」(くさいち)。旧暦七月十二日の夜から翌朝にかけて盂蘭盆の仏前に供える草花である蓮葉・茄子・胡瓜・鬼灯や真菰筵・燈籠・土器などの祭具を売るために開かれる市。盆市。花市。一般には初秋の季語であるが、晩夏とする歳時記記載もあり、次の句を見て戴いても分かる通り、夏の季語として蛇笏は用いていて、この句は「山廬集」でも夏の部に入っている。こういう齟齬を伝統俳句を作る人々は少しも不思議に思わぬのであろうか? 自由律から入り、無季を指示する私としては、そういう曖昧な神経が分からないのである。芭蕉の如く、季詞ならざるものなし、で好かろうに、と――]
なつまけの足爪かゝる敷布かな
忌中なる花屋の靑簾かゝりけり
[やぶちゃん注:「靑簾」は韻律上、どう考えても「あをすだれ(あおすだれ)」ではなく漢詩訓読調の「せいれん」である。但し、「山廬集」では並べて、
雲水もともに仮泊や靑すだれ
を掲げている。誠実な読者なら私はこれを見ると、もしや、前の句も「あをすだれ」ではあるまいか? と一瞬、戸惑うことは間違いない(臍曲がりの私でさえそうである)。こうした字余りでないことを後世の私のような凡夫が安堵するためにも、定型有季の作句者は読みの振れる可能性のある語には必ずルビを打つべきであると思う。こうした苛立ちを少なくとも自由律から入った私などは伝統俳句に対して常に感ずるのである。そんな読みはあるはずがない、という定型俳句の創作者や鑑賞者の思い込みには私は全くついてゆけないと表明しておく。いや、そんな不文律のセオリーが厳として存在するのであれば、そうした解説や理論(字余りでないことを示す定理を含めて)を歳時記なんぞにでも闡明するがよいと私は常々思うのである。]
月さして燠のほこほこと鮎を燒く
[やぶちゃん注:「ほこほこ」の後半は底本では踊り字「〱」。]
風波をおくりて深き蓮の水
秋たつや川瀨にまじる風の音
[やぶちゃん注:昭和六年の立秋は八月八日土曜日であった。]
口紅の玉蟲いろに殘暑かな
[やぶちゃん注:蛇笏の妖艶調の佳句である。]
杣の火にゆく雲絶えて秋の空
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