橋本多佳子句集「信濃」 昭和十九年 Ⅰ
昭和十九年
名古屋に加藤かけい氏を訪ふ
かすみ女樣に初めておめにかゝる、そしてこ
れが最後となりし 三句
さめてまた時雨の夜半ぞひとのもと
臘梅のかをりやひとの家につかれ
枯るる道ひとに從ひゆくはよき
[やぶちゃん注:「加藤かけい」既注。
「かすみ女」不詳。女流俳人らしい名であるが、加藤氏の妻か? 識者の御教授を乞う。なお、個人的はこの前書は好きになれない。明らかに作句時から時間が経った後、もしかすると数年後(『信濃』出版は戦後の昭和二二(一九四七)年七月)のこの句集出版に際しての編集作業の中でこの前書の特に「そしてこれが最後となりし」の部分がつけ加えられたものと思われるが(直後に亡くなったとしてもそれは明らかな句作の「後」であり、前書は明らかに句の時制から後の時制で書かれていることになるということである)、これは作者の思いの中にのみ込めておけばよかったものと私は思う。何故なら、この三句には、その邂逅が遂に「これが最後とな」ったことの感懐は、当然の如く、詠み込まれてはいないからである(この三句の中にそうした運命的出逢いの感懐や運命のミューズが潜んでいると言われる方は、この愚鈍の私に是非とも分かり易くご説明願いたいと存ずる)。私の謂いは決して多佳子に対して非礼ではないと信ずる。寧ろ私は、追悼句でもない句で、その前書如きで人の死を遡って語ってしまい、その深い哀しみの感懐(その思いの深さは十全に分かる)を示しながら、しかも、はっきり言ってそれほど渾身の句とも思えぬ挨拶句三句を並べ立てるというのは、私には理解出来ないということなのである。因みにこの前書が、
名古屋に加藤かけい氏を訪ふ
かすみ女樣に初めておめにかゝる 三句
(後日註 これがかすみ女樣との最後となりし)
であったなら、私はたいした違和感も持たずに、この句を読んだであろう。死は、実際の人の死は、文芸の装飾如きには決してならぬ/すべきでないという立場を私はとる。この前書に関してのみ言うなら、私は多佳子こそが軽率で非礼であると信じて疑わないのである。
前書というのは余程注意しなければ(特に作後に附す場合には)、おぞましい亡霊となって逆に句に襲いかかり、遂には喰い尽くしてしまうものだと思うのである。]
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