『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 葉山御用邸
●葉山御用邸
森戸を過ぎて南に往けば、海邊に嚴かなる黑門、衛士肅然と控へて、淸き海汀(なぎさ)に玉の宮居(みやゐ)のたてる、是なん葉山の御用邸
皇女の御方々常に御座あらせ玉ふとかや、申すも恐れ多きことにこそ。
葉山村のなりところにてよめる 高崎 正風
わかやとは相模の海をいけにして
ふし大島を庭のつき山
[やぶちゃん注:現存する御用邸にして「申すも恐れ多きことにこそ」、ウィキの「御用邸」のリンクを張らさせて戴くに止めんとぞする。
「高崎正風」(たかさきまさかぜ 天保七(一八三六)年~明治四五(一九一二)年)は公武合体派の志士で二条派歌人。薩摩藩士高崎五郎右衛門温恭長男。薩会同盟の立役者となり、京都留守居役に任命されたが、武力討幕に反対して西郷隆盛らと対立、維新後は不遇をかこった。明治四(一八七一)年に新政府に出仕し、岩倉使節団の一員に任じられて二年近く欧米諸国を視察した。明治八(一八七五)年に宮中の侍従番長、翌年から御歌掛などをつとめ、明治一九(一八八六)年二条派家元三条西季知の後を受けて御歌係長に任命され、さらに明治二一(一八八八)年には御歌所初代所長に任命された。明治二三(一八九〇)年、皇典講究所所長山田顕義の懇請により初代國學院院長(明治二十六年まで)。明治二八(一八九五)年、枢密顧問官を兼ねた(以上はウィキの「高崎正風」に拠る)。]
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