彈痕 山之口貘
彈 痕
アパートの二階の一室には
陰によくある女が一匹ゐた
その飼主は鼻高の色はあさぐろいめがねと指環の光つた紳士であつた
鼻高の紳士は兜町からやつて來た。
かれの一日は
夜をあちらの家に運び
ひるまをこちらの二階に持ち込んで來てひねもす女を飼ひ馴らした
かれらの部屋がまた部屋でふたりがそこにゐる間
眞晝間ドアに鍵してすましてゐた
八百屋でござゐ
が來ると鍵をはづし
米屋でござゐ
が來ると鍵をはづし
いちいち鍵をはづしては鼻を出し直ぐまた引つ込めて鍵してしまふ
ずゐぶんふざけた部屋だつたが
すましかへつてゐたある日
外では煙硝のにほひが騷いでゐた
鼻高の紳士は鍵をはづして出て見たがやがてそのまゝ出て行つた
まもなく部屋には物音どもが起きあがりそこらあたりに搔き亂れた
いぶる世紀と
くすぶる空
鼻高さんはもう歸らない
そこに突つ立ち上つたかなしいアパート
アパートの橫つ腹にぽつこりと開いたひとつの穴だ
そこからこぼれる食器や風呂敷包
そこからはみ出る茶簞笥と女。
[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部を追加訂正及び除去(不要と思われる再掲データ)した。】初出は昭和一四(一九三九)年七月発行の『歴程』。
原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」では、三行目が、
その飼主は鼻高で色はあさぐろいがめがねと指環の光つた紳士であつた
と逆接の接続助詞「が」が挿入されてある。また十行目と十二行目が、
八百屋でござい
と、
米屋でござい
とに改められてあり、最後の句点は除去されている。
【二〇二四年十一月五日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で校訂した。当該部はここから。]
« 哭くな 兒よ 八木重吉 | トップページ | 橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅳ 野々宮 來し方や昏き椿の道おもふ »