妹へおくる手紙 山之口貘
妹へおくる手紙
なんといふ妹なんだらう
――兄さんはきつと成功なさると信じてゐます。とか
――兄さんはいま東京のどこにゐるのでせう。とか
ひとづてによこしたその音信のなかに
妹の眼をかんじながら
僕もまた、六、七年振りに手紙を書かうとはするのです
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思ふのです
そんなことは書けないのです
東京にゐて兄さんは犬のやうにものほしげな顏してゐます
そんなことも書かないのです
兄さんは、 住所不定なのです
とはますます書けないのです
如實的な一切を書けなくなつて
とひつめられてゐるかのやうに身動きも出來なくなつてしまひ 滿身の力をこめてやつとのおもひで書いたのです
ミナゲンキカ
と、 書いたのです。
[やぶちゃん注:【2014年6月24日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、この注を全面改稿した。】初出は昭和一〇(一九三五)年一月発行の『日本詩』。総標題を「天」として後の「天」・「教會の處女」・「生活の柄」・本詩・「無題」の順で五篇を掲載している。発表当時はバクさん満三十一歳、東京鍼灸医学研究所通信事務員を勤めながら、同医学校に学んでいた頃の作であるが、内容は寧ろ、それ以前、昭和二、三年の放浪時代のイメージが濃厚ではある。
原書房刊「定本 山之口貘詩集」では以下のように改稿されている。全詩を恣意的に正字化して示す。
*
妹へおくる手紙
なんといふ妹なんだらう
兄さんはきつと成功なさると信じてゐます とか
兄さんはいま東京のどこにゐるのでせう とか
ひとづてによこしたその音信(たより)のなかに
妹の眼をかんじながら
僕もまた 六、七年振りに手紙を書かうとはするのです
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思ふのです
そんなことは書けないのです
東京にゐて兄さんは犬のやうにものほしげな顏してゐます
そんなことも書かないのです
兄さんは 住所不定なのです
とはますます書けないのです
如實的な一切を書けなくなつて
とひつめられてゐるかのやうに身動きも出來なくなつてしまひ
滿身の力をこめてやつとのおもひで書いたのです
ミナゲンキカ
と 書いたのです
*
「音信(たより)」の「たより」はルビ。個人的には初期形の二箇所のダッシュは残した方が効果的であったと思われる。]
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本日、ここまで公開した「思弁の苑」の主な校異を注に総て追加した。
少し説明すると、底本全集の「詩集校異」冒頭には、昭和三三(一九五八)年七月原書房刊の「定本山之口貘詩集」は十二篇の新作に本詩集「思弁の苑」を再録した昭和一四(一九四〇)年刊「山之口貘詩集」の再版であるが、著者自身によって誤字誤植の訂正、句読点と繰り返し符号の除去及び若干の行替えと表記の訂正が施されているとあり、その主なものが校異リストとして示されてある。それらは新字体を採用しているものと思われるが、ここでは敢えて正字化して示したものである。【2014年6月24日追記:これは既に「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」との対比検証により改稿してしまったのだが、僕の仕事の跡を僕の記録として残すために、そのまま残しておくこととする。
【二〇二四年十月二十六日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。]
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