飯田蛇笏 靈芝 大正十五年(二十二句)
大正十五年(二十二句)
――昭和元年――
歳旦や芭蕉たゝへて山籠り
山風にながれて遠き雲雀かな
如月のはじめ總州の旅路に麥南の草庵生活を訪ふ
風呂あつくもてなす庵の野梅かな
[やぶちゃん注:「麥南」俳人西島麦南(ばくなん 明治二八(一八九五)年~昭和五六(一九八一)年)。本名、九州男(くすお)。熊本県出身で武者小路実篤の『新しき村』で大正一一(一九二二)年まで開拓に従事、大正一三年に岩波書店に入社して校正者となり、『校正の神様』と呼ばれた。俳句を蛇笏に師事して深く傾倒、自ら『生涯山廬門弟子』」と称した。句集に「金剛纂(こんごうさん)」「人音(じんおん)」(主に講談社「日本人名大辞典」に拠る)。幾つかの句を示す。
春さむや庵にととのふ酒五合
いたつきや庵春さむき白衾
梨花の月さし入る庵の筒井かな
磯菜つみ春の雷雨にぬれにけり
春の雷漁邑の運河潮さしぬ
摩崖佛春たつ雲のながれけり
圖書堆裡春たつ塵の微かなる
炎天や死ねば離るゝ影法師
木の葉髮一生を賭けしなにもなし
蛇笏より十歳年下であった。]
宗吾神社へ詣づ
早春や庵出る旅の二人づれ
[やぶちゃん注:「山廬集」では「麥南とゝもに我が尊崇する宗吾神社へ詣づ」とある。この「宗吾神社」というのは現在の埼玉県秩父郡小鹿野町長留にある宗吾神社(一名羽黒神社)であろうか。創祀は不詳で千葉成田の義民として知られる佐倉宗五郎を祀っている。]
二月十八日歸庵、とりあへず麥南のもとへ
かへりつく庵や春たつ影法師
悼内藤鳴雪氏
春さむや翁は魂の雲がくれ
[やぶちゃん注:『ホトトギス』の重鎮で弘化四(一八四七)年生まれの俳人内藤鳴雪は、この大正一五(一九二六)年の二月二十日に満七十八歳で亡くなった。]
夏旅や俄か鐘きく善光寺
夕雲や二星をまつる山の庵
盆市の一夜をへだつ月の雨
雲を追うこのむら雨や送り盆
[やぶちゃん注:「追う」はママ。「山廬集」では「追ふ」と訂されてある。]
ほこほことふみて夜永き爐灰かな
[やぶちゃん注:「ほこほこ」の後半は底本では踊り字「〱」。]
ゆかた着のたもとつれなき秋暑かな
秋風や笹にとりつく稻すゞめ
夜のひまや家の子秋の幮がくれ
蟲の夜の更けては葛の吹きかへす
ひぐらしの遠のく聲や山平ラ
冬風につるして乏し厠紙
襟卷にこゝろきゝたる盲かな
すこやかに山の子醉へる榾火かな
富士川舟行
極寒のちりもとゞめず巖ふすま
[やぶちゃん注:大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」で大野氏は『蛇笏の気象の激しさを遺憾なく示している句で』、『この句の情景よりも、さらに多く背後の精神のきびしさを犇々とかんぜしめ』、『巌の厳粛さが、作者のそのとき精神の厳粛さとなって還ってくる句で』、『そこには蛇笏の文芸不抜の精神が籠められている』、『いえば青春挫折の抑圧された精神が、こうしたきびしい自然の姿に共感を呼んだともいえ』る『秀作である』と絶賛、また、山本健吉はこの句を芭蕉の「白菊の目に立てて見る塵もなし」と比較して、『「目に立てて見る塵もなし」が対者への言いかけを含んでいるのに対し、「極寒のちりもとどめず」は「言ひかけるべき対者を持たず、言ひかへれば談笑の場を持たず、孤独のつぶやきとして立つてゐる」という。そのことは「白菊の句がそれ自身として独立しながら、しかも脇句以下の三十五句を無限にさそひかけてゐるのに対して、この句はそのやうなさそひかけを持たず、孤絶の心において立つてゐる』と評しているとする(但し、この山本氏の謂いは江戸期の連衆の文学としての連句と西欧思想に感染した近代俳句の本質的属性に基づく相違であり、私には必ずしも本句一箇のオリジナリティに依る特異点とは言えないと思う)。更に、角川源義の「近代文学の孤独」(一九五八年近代文芸社刊)の評言を引き、『過去との離別を、蛇笏は富士川舟行のたびに感じた』。『蛇笏はまた巌の持つ思想を愛した人だ』。『夕日影をあび林間の青巌を坐禅三昧のすがたと感ずる人だ。蛇笏俳句は巌の思想だ』とも引く。ちょっとここまで言われると、逆に――ふーん、そういうもんですか――と言いたくなってしまう程度に、私は天邪鬼ではある。]
山柴におのれとくるう鶉かな
[やぶちゃん注:「くるう」はママ。「山廬集」では「くるふ」と訂されてある。]
山土の搔けば香にたつ落葉かな
« 夜景 山之口貘 | トップページ | 萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(12)「はなあやめ」(Ⅱ) »