友引の日 山之口貘
友引の日
なにしろぼくの結婚なので
さうか結婚したのかさうか
結婚したのかさうか
さうかさうかとうなづきながら
向日葵みたいに咲いた眼がある
なにしろぼくの結婚なので
持參金はたんまり來たのかと
そこにひらいた厚い唇もある
なにしろぼくの結婚なので
いよいよ食へなくなったらそのときは別れるつもりで結婚したのかと
もはやのぞき見しに來た顏がある
なにしろぼくの結婚なので
女が傍にくつついてゐるうちは食へるわけだと云つたとか
そつぽを向いてにほつた人もある
なにしろぼくの結婚なので
食ふや食はずに咲いたのか
あちらこちらに咲きみだれた
がやがやがやがや
がやがやの
この世の杞憂の花々である。
[やぶちゃん注:初出は昭和一五(一九四〇)年七月発行の『歴程』。 原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」では、
そつぽを向いて臭(にほ)つた人もある
と改稿している。なお、この「にほつた人」というのは面白い語である。大方の人々は、これを、
「女が傍にくつついてゐるうちは食へる」ということを、嫌な臭いとして感じて「そつぽを向いた」
という謂いに採る、と思われる。それでよいとは思うが、私は寧ろ、
ある人の秘かな匂いを嗅ぎ分けるためには、その人に知られぬように、わざと「そつぽを向いて」嗅ぎ分けるものだ
の意であると思う。「にほふ(におう)」という動詞には、他動詞として、「においを嗅ぎ分ける」という意味がある。ここは、まさに、
そうしたお前が、秘かに「女が傍にくつついてゐるうちは食へる」ということを、俺は「そつぽを向いて」いるけれど、ちゃあんと嗅ぎ分けてるぜ、といった感じの「人もある」
と読むのである。大方の御批判を俟つ。
【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部削除(不要と判断した再録データ)した。】
【二〇二四年十一月四日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で校訂した。当該部はここから。]