橋本多佳子句集「信濃」 昭和十八年 Ⅶ 信濃抄四(3) 增面に八月の月の落ちかかる
奈良二月堂に靑衣女人の能を觀る
增面に八月の月の落ちかかる
[やぶちゃん注:「靑衣女人の能」「靑衣女人」は「しやうえによにん(しょうえにょにん)」と読む。これは土岐善麿作になる喜多流の新作能。不比等氏のブログ「奈良」のこちらの記事に司馬遼太郎の「街道をゆく・奈良散歩」に、まさにこの昭和一八(一九三三)年十月六日に二月堂で喜多実により演じられたとある。私は見たことはないが、これは東大寺二月堂で三月一日から十五日(旧暦では二月)に行われる修二会の中の、古いエピソードに基づくものであろう。ウィキの「修二会」の「大導師作法と過去帳読誦」の項に、『初夜と後夜の悔過は「大時」といわれ特別丁寧に行われ、悔過作法の後に「大導師作法」「咒師作法」を』修し、『大導師作法は聖武天皇、歴代天皇、東大寺に縁のあった人々、戦争や天災に倒れた万国の人々の霊の菩提を弔うとともに』、為政者が『天下太平、万民豊楽をもたらすよう祈願する』ものとあり、『初夜の大導師作法の間には「神名帳」が読誦される。これも神道の行事で』、一万三七〇〇余柱の『神名が読み上げられ呼び寄せる(勧請)。お水取りの起源となった遠敷明神は釣りをしていてこれに遅れたと伝えられている』。そして三月五日と十二日の二回『過去帳読誦が行われる。過去帳では聖武天皇以来の東大寺有縁の人々の名前が朗々と読み上げられる』とあって、そこに以下のようなエピソードが書かれている。
《引用開始》
これには怪談めいた話がある。鎌倉時代に集慶という僧が過去帳を読み上げていたところ、青い衣を着た女の幽霊が現れ、
「など我が名をば過去帳には読み落としたるぞ」
と言った。なぜ私の名前を読まなかったのかと尋ねたのである。集慶が声をひそめて「青衣の女人(しょうえのにょにん)」と読み上げると女は満足したように消えていった。いまでも、「青衣の女人」を読み上げるときには声をひそめるのが習わしである。
《引用終了》
水墨画作家杉崎泉照(せんしょう)氏のブログ「水墨画作家 杉崎泉照の日常」の「青衣の女人考」の記事に、『ちなみに、あからさまに名前を呼べないがかなり高い位まていった人物「藤原薬子」をわたしは挙げたが、では、このころの「礼服」を「衣服令」に照らしてみるに、「緑色」を含む「青い色」の衣は「薬子」にふさわしからぬ、低位の色』。『薬子は死後「冠位」を剥奪されているが、この「青衣の女人」という言葉が「恩赦」を表しているとすれば、「改めて低位の縹色」を身につけて修二会に参列してもおかしくないかもしれない』とある(最初の箇所の先行記事はこちら)。日本画家であられるだけに色の問題も語っておられ、興味深い。
「增面」「ぞうめん」と読んでいるか。能面の増女(ぞうおんな)のことであろう。「イノウエコーポレーション」の「能面ホームページ」の「増女」に解説と写真が載る。
さても私は奈良も能も不案内なれば、これまでと致す。]