篠原鳳作句集 昭和九(一九三四)年九月及び十月 / 「海の旅」句群
浪のりの白き疲れによこたはる
浪のりの深き疲れに睡(ゐ)も白く
[やぶちゃん注:「浪のり」は船が大きな波のうねりに乗ることもいうが、私にはどうも「白き疲れ」「よこたはる」「睡も白く」(船の波乗りであれば眠くなる前に気持ちが悪くなろうし、それを「白き疲れ」と表現するだろうか?……しないとは言えぬか……船酔いのぼーっとした感覚は「白き疲れ」としてもおかしくないな)、そして続く句(この二句と次の句は同じ九月発行の『天の川』掲載の三句なのである)をセットに読んだ初読時、やはりこれは船上の詠ではなく、サーフィンとしての「浪のり」をし疲れた後の、白砂の浜での景であるとしか読めなかったである。
因みに「浪のり」の本邦での起源はウィキの「サーフィン」で見ると、『江戸時代の文献に、庄内藩・出羽国領の湯野浜において、子供達が波乗りをしている様子を綴った記述や、「瀬のし」と呼ばれる一枚板での波乗りが行われたという記録が残っている。すなわち、現在の山形県庄内地方が日本の波乗りの文献的な発祥の地と見なせる』とある。但し、『現在の形式の日本でのサーフィンの発祥の地は、神奈川県藤沢市鵠沼海岸、鎌倉市、千葉県鴨川市、岬町太東ビーチと言われており、第2次大戦後日本に駐留した米兵がそれらのビーチでサーフィンをしたのがきっかけという説がある』とあり、ここでの「浪のり」というのも今のサーフィンのようなものとは大分様子の異なるもののようにも思われる。宮古島のサーフィンの歴史にお詳しい方の御教授を乞うものである。
……が……ところが、である。
……どうも残念なことに、これは、やはり、サーフィンなんどというのはトンデモ解釈で、やはり、船の「浪のり」=波乗り=ピッチングであるらしい。次の次の「しんしんと肺碧きまで海のたび」の私の注及び次の月の「海の旅」句群の注を参照されたい。……ちょっと淋しい気がしている……]
海燒の手足と我とひるねざめ
しんしんと肺碧きまで海のたび
[やぶちゃん注:これは謂わずと知れた鳳作の絶唱にして第一の代表作である。実はこれは底本では次の十月の発表句の中に配されてある。それは次の月の句群を見て戴けば分かる通り、この句がまず単独で九月の『天の川』の前の三句と一緒に示され(それと前三句との配列は不詳であるから、取り敢えずここでは最後に置いた)、翌月の『傘火』には、この「しんしんと」を含むまさに鳳作会「心」の「海の旅」句群五句が纏めて発表されたことによる(即ち、底本は基本が時系列編年体でありながら、こうした句群部分では編者による操作が行われているために正しく並んでいない箇所があるということである。これは今回の電子化で初めて気づいた。特にこの知られた鳳作の作でそれが行われていようとは想像だにしなかったのでちょっとショックである)。……そうして……そこではやはり知られたように船がまさに「浪のり」して「シーソー」を繰り返す景が二句も詠み込まれているのである。――残念ながら、やはり――前にあった「浪のり」の句のそれは、船の「波乗り」――ピッチングを指していると考えざるを得ないということになろう。但し、ここにお一人だけこれをやはり真正のサーフィンと解釈されている方がいることも附記しておきたい。それは何度も引いているあの前田霧人氏の「鳳作の季節」である。そこで霧人氏は『現在、「波乗り(サーフィン)」は夏の季語であるが、当時はまだ代表的な歳時記にも載録されておらず、既に彼が有季、無季にこだわらない新しい素材、新しい表現の開拓に意欲を見せていることが分かる』と述べておられるのである。少し、嬉しくなった。
なお、前田霧人氏の「鳳作の季節」では、この句について、この鳳作の本句発表の二ヶ月前に発表されている川端茅舎の、
いかづちの香を吸へば肺しんしんと
という句を掲げられ、鳳作の「新興俳誌展望」(『傘火』昭和九(一九三四)年)の中の「『走馬灯』」句評にある、『長い間病床にある茅舍氏の句には何時も珍しい感覺と異常な力とが漲みなぎつてゐる。茅舍氏の句とする對象は病床にあるせいか決して所謂新しい素材ではない。氏は常に平凡なる題材を、新しい感覺と力強い表現とで全く別個な新しい香氣あるものとされてゐる』(私の底本とする「篠原鳳作全句文集」所載のものを恣意的に正字化して示した)という叙述をも引かれて、『雲彦も生来体が頑健でなかったから、茅舎に共感する所は大なるものがあ』り、本句の誕生に茅舎のこの句が『大きな影響を与えたことは、両句を比較すれば誰の眼にも明らかなのである。それは、単に「しんしんと」、「肺」という言葉の共通点に留まらず、「平凡なる題材を、新しい感覚と力強い表現とで全く別個な新しい香気あるもの」としている所が共通するのである』と述べておられる。これはまさに正鵠を射た優れた評である。
前に注した通り、以上四句は九月発行の『天の川』掲載句である。]
海の旅
滿天の星に旅ゆくマストあり
船窓に水平線のあらきシーソー
しんしんと肺碧きまで海のたび
幾日はも靑うなばらの圓心に
幾日はも靑海原の圓心に
甲板と水平線とのあらきシーソー
(註) シーソーは材木の兩端に相對し跨
り交互に上下する遊戲。
[やぶちゃん注:鳳作畢生の句群であれば、全体を示した上で、最後に煩を厭わずに一括注することとする。まず、掲載誌であるが(発行は総て昭和九(一九三四)年。『現代俳句』は底本に示されたクレジットを号数と推定した)、
滿天の星に旅ゆくマストあり 『天の川』十月/『傘火』十月
船窓に水平線のあらきシーソー 『傘火』十月
しんしんと肺碧きまで海のたび 『天の川』九月/『傘火』十月
幾日はも靑うなばらの圓心に 『天の川』十月/『現代俳句』三号
幾日はも靑海原の圓心に 『傘火』十月
甲板と水平線とのあらきシーソー 『傘火』十月
である(最後の句の「註」も当然、『傘火』十月のもの)。
以上から、この「海の旅」という前書きを持つ決定稿は『傘火』のそれと考えてよく、それは以下のようになる。
海の旅
滿天の星に旅ゆくマストあり
船窓に水平線のあらきシーソー
しんしんと肺碧きまで海のたび
幾日はも靑海原の圓心に
甲板と水平線とのあらきシーソー
(註) シーソーは材木の兩端に相對し跨り交互に上下する遊戲。
なお、「幾日はも靑海原の圓心に」の「はも」は終助詞「は」+終助詞「も」で、深い感動(~よ、ああぁ!)を表わす。
これらとの連関性が、前月の「浪のり」の句に強く認められる(しかもそこには「しんしんと肺碧きまで海のたび」がプレ・アップされてもいる)ことから、やはり「浪のり」は乗船している船の波乗り、ピッチングであるということになる。お騒がせした。
【2013年3月30日追記】年譜によれば、この昭和九(一九四三)年十月、沖繩県立宮古中学校から鹿児島県立第二中学校教諭として転任しており、この時、俳号を「雲彦」から「鳳作」と改めたとある。また、当該年の年譜の転任記事の後には、
《引用開始》
現在の宮古高校行進曲は、作詞作曲とも鳳作である。
宮中行進曲
一、香りも高き橄欖の
ときはの緑かざしつつ
希望の満てる清新の
我が宮中を君知るや(以下六連まで続く)
《引用終了》
とある(現在、個人的にこの楽曲については沖縄県立宮古高等学校に問い合わせを行っている)。]