中島敦 南洋日記 一月二十五日
一月二十五日(日) アイミリーキ
五時起床。飯もくはず船に乘込む。潮が干てゐるため、カヌーにのつて、ちゝぶ丸迄行く。砂濱に見送る島民共。バスケ、バスケ、バスケ。白砂と森との上に明け行く空。濱に立つて見送る黑き女達。六時十五分出帆。天野の店の女に貰つたビンルンムと燻製と椰子水とオレンヂの朝食。九時半頃コンレイに着くや、交通課の伊藤氏より、クカオ一籠を贈らる。うまし。するめ。アルコロンに着けば、一島女より、マンゴー一籠貰ふ。頗る美味。その他、バナナとオレンヂの大籠一つ。ガラルドにて佐藤校長より彫物一つ。西海岸風穩かにして快し。ガラスマオを經て三時前にアイミリーキに着く。赫土の新開道路を一時間餘歩きて、熱研に着く。途中へゴ羊齒を多く見る。熱研の倶樂部に落着く。眺望の展けし所。一寸滿洲あたりの新開地の如し。夜、情ないラヂオを聽く。
[やぶちゃん注:「バスケ、バスケ、バスケ」不詳。見送りの島民たちが皆持っている籠のことをいうか。
「熱研」このアイミリーキにあった南洋庁熱帯産業研究所。九州大学松原孝俊教授の公式サイト「松原研究室」の「パラオ調査日記」の「Palau通信第5便」(二〇〇九年一月九日のクレジットがある)で当地に熱帯産業研究所があったことが確認出来、「熱帯産業研究所」で諸書誌を調べると、南洋庁と冠していることが分かった。松原氏の記載には『地元の人々が「Nekken」と記憶する』まさに敦が記すこの旧南洋庁熱帯産業研究所跡を訪ねた部分があり、『その一帯は確かに人工的に植樹された椰子の木に囲まれた地域であり、研究目的に人為的な植林が実施されたと推測できるが、現在、その研究所が存在した痕跡を探すことは不可能なほど密林に覆われている。木々を取り除き、草を刈り、表面の土壌を除去すれば、何かの支柱石などが発見できようが、その努力は無駄であり、むしろ自然に還るようにすべきであろう。人々の記憶の中に、「Nekken」という言葉が残り続けようとも』と印象的に擱筆しておられる。椰子などの熱帯植物の農事・林業試験のような研究をしていた場所のように見受けられる。]
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