芥川龍之介手帳 1-3
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〇【1月18日】 久米土屋來る 大龍寺へゆく 夕日 夜ベルリオをよむ 興奮する
[やぶちゃん注:「久米」久米正雄。
「土屋」土屋文明であろう。
「大龍寺」現在の東京都北区田端にある真言宗霊雲寺派の大龍寺であろう。豊島八十八ヶ所霊場二十一番札所。古くは不動院浄仙寺と号し、慶長年間(一五九六年~一六一五年)の創建で天明年間(一七八一年~一七八九年)に観鏡光顕が中興して大龍寺と改称した。別名、子規寺とも呼ばれ、俳人正岡子規の墓がある。
「ベルリオ」「幻想交響曲」で知られるフランス・ロマン派の作曲家ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz 一八〇三年~一八六九年)か。ウィキの「エクトル・ベルリオーズ」によれば、『ベルリオーズは作曲家として最も有名である半面、多作な著作家でもあり、長年にわたって音楽評論を執筆して生計を立てていた。大胆で力強い文体により、時に独断的かつ諷刺的な文調で、執筆を続けた。『オーケストラのある夜会』(1852年)は、19世紀フランスの地方の音楽界をあてこすりつつ酷評したものである。ベルリオーズの『回想録』(1870年)は、ロマン派音楽の時代の姿を、時代の権化の目を通して、尊大に描き出したものである。『音楽のグロテスク』(1859年)はオーケストラ夜話の続編として出版された』。『教育的な著作である『管弦楽法』(Grand Traité d'Instrumentation et d'Orchestration Modernes, 1844年、1855年補訂)によって、ベルリオーズは管弦楽法の巨匠として後世に多大な影響を与えた。この理論書はマーラーやリヒャルト・シュトラウスによって詳細に研究され、リムスキー=コルサコフによって自身の『管弦楽法原理』の補強に利用された。リムスキー=コルサコフは修業時代に、ベルリオーズがロシア楽旅で指揮したモスクワやサンクトペテルブルクの音楽会に通い詰めていた。ノーマン・レブレヒトは』、『「ベルリオーズが訪問するまで、ロシア音楽というものは存在しなかった。ロシア音楽という分野を鼓吹したパラダイムは、ベルリオーズにあった。チャイコフスキーは、洋菓子店に踏み込むように『幻想交響曲』に入り浸って、自作の交響曲第3番を創り出した。ムソルグスキーは死の床にベルリオーズの論文を置いていた」』と述べているとある。龍之介が彼の著作を読んだとする研究記載はないが、ベートーベンやワグナーに人間的関心を持ち、相応にクラシックへの興味を持っていた龍之介にして(「あの頃の自分の事」に『その頃自分は、我々の中で一番音樂通だつた』と述べている。但し、続けて『と云ふのは自分が一番音樂通だつた程、それ程我々は音樂に緣が遠い人間だつたのである』とも述べてはいる)、強ち奇妙な取り合わせとは言えないように思われる。但し、もし龍之介が読んだとすれば、ベルリオーズの英訳か彼についての伝記であったものかとは思われる。]
○【1月19日】 Fの事を考へる Egoism of the unhappy ――夕方月の下で犬が二匹ねてゐるのを見る
artist の病に三つある (i)いいゝものの模倣 (ii)時代にのる事 (iii)人の惡作に對して安心する事 それ以上は病でない artist にとつてである
[やぶちゃん注:「F」後の彼の妻となる塚本文であろう。親友山本喜誉司の姪。]
○【1月20日】 「鼻」をかき上げる 久米と成瀨と夜おそく Café Lion ではなす かへりにCの事を考へる かはいさうになる
[やぶちゃん注:『「鼻」をかき上げる』「鼻」の脱稿は現在、大正五(一九一六)年一月二十日に同定されているが、その根拠はこの記載に基づく。「鼻」を載せた第四次『新思潮』創刊号の発刊は翌二月十五日で、その四日後の二月十九日土曜日には知られた夏目漱石から「鼻」を激賞する書簡を受け取っている。因みに、この同時期(二月中旬)には伯母フキや叔母新原フユ(やはり芥川の実母の妹で実父の後妻)に塚本文を会わせて二人が好印象を持ったことから、彼女との結婚の意志を固めた(結婚は二年後の大正七(一九一八)年二月二日。新全集の宮坂覺氏の年譜に拠る)。
「成瀨」成瀬正一。
「Café Lion」カフェー・ライオンは明治四四(一九一一)年に開業した銀座を代表する飲食店。尾張町交差点の角(現在のサッポロ銀座ビル)で開業、三階建新築で、一階が酒場、二階が余興場になっていた。参照したウィキの「カフェー・ライオン」によれば、明治四十四年は『日本初のカフェ』とされるカフェー・プランタンの三月開業に続き、この八月のカフェー・ライオン、やはりしばしば芥川が訪れたカフェー・パウリスタ(十二月開業)とカフェーを冠する店が銀座に相次いで開店した年であった。パウリスタはコーヒー中心だったが、ライオンは料理や酒がメインであった。『築地精養軒の経営であり、規模が大きく、一般客にも入りやすかったとい』い、『美人女給が揃いの衣裳(和服にエプロン)でサービスすることで知られたが、当時は女給が客席に同席することはなかった』。『ビールが一定量売れると、ライオン像が吠える仕掛けになっていた。また、グランドホテル(横浜)出身の名バーテンダー・浜田晶吾がおり、「ライオンの宝」とも評された』とある。
「C」不詳。
なお、底本ではこの後に『1月21日分破損』という編者注がある。]
○【1月22日】 成瀨へトルストイを送る □七枚 夜 Berson (Miss) & Ore (Mr) の cocert へゆく Ginza Café で宮島の死んだ話をきく 死と Kunst と―― Nur Kraft ist der Kern der Kunst
[やぶちゃん注:「Berson (Miss) & Ore (Mr)」不詳。
「Ginza Café」先の「Café Lion」と差異化して書いている点、「Ginza」と冠している点からは『日本初のカフェ』とされるカフェー・プランタン(現在の東京都中央区銀座八丁目の銀座会館付近)か。ウィキの「カフェー・プランタン」によれば、『相談役の小山内薫が「プランタン」(フランス語で春の意)と命名』、『珈琲と洋酒を揃え、料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューを出し』ていたとあり、また、『素人が始めた店であり不安もあったため、当初は会費50銭で維持会員を募り、2階の部屋を会員専用にしていた。会員には洋画家の黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、岸田劉生、作家の森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、岡本綺堂、北原白秋、島村抱月、歌舞伎役者の市川左團次ら当時の文化人が多数名を連ねた』。『もっとも、会員制は半年ほどで自然消滅した』とある。『常連の客が店の白い壁に似顔絵や詩などを落書きし、これが店の名物になっていた。永井荷風が当時入れあげていた新橋芸妓・八重次と通ったのもこの店で、荷風の『断腸亭日乗』にもしばしば名前が登場する』。『フランスのカフェにはいない「女給仕」(ウェイトレス)が人気を博したが、カフェー・ライオンなどに比べ、カフェー・プランタンは文学者や芸術家らの集まる店であり、普通の人には入りにくい店であったという』とある。
「宮島」不詳。この会話の相手が成瀬だとすれば、一高時代の二人の知人か。続く文から芸術家志望であったか。
「Kunst」ドイツ語で「芸術」。
「Nur Kraft ist der Kern der Kunst」「自然力(体力・勢力)のみが芸術の核心(本質)である」といった謂いか。仮に宮島某が病い(例えば結核)に斃れて夭折したとするならば、何となく腑に落ちないことはない。この直後の記載(一月二十七日の欄)にも友人平塚逸郎の結核入院の記事が載り、翌日には平塚を見舞っている(後述)。また翻って別な側面から見るならば、後に掲げる山本喜誉司宛書簡の中の、『僕は時々人生を貫流し藝術を貫流する力の前に立つ事がある』という表現からは、一種の芸術家の中のミューズの霊感の奔流のようなものをも想起出来る。]
〇【1月23日】 畔柳先生の所へゆく それから八田先生へゆく留守 Voltaire を買ふ 山本へ手紙を出す Fを思ふ Tod の問題が頭へこびりついてゐるらしい 何を見ても Tod ばかり考へる
[やぶちゃん注:「畔柳先生」英語学者で文芸評論家でもあった畔柳都太郎(くろやなぎくにたろう 明治四(一八七一)年~大正一二(一九二三)年)。山形生まれ。仙台二高を経て東京帝国大学に入学、同大学院在学中に『帝国文学』に執筆、以後、『太陽』『火柱』『明星』にも文芸評論を寄稿した。明治三一(一八九八)年より一高英語担当教授となり、龍之介は教え子。その間、早稲田・青山学院・正則学校でも教えた。明治四十一年からは「大英和辞典」編纂に心血を注いだが、完成前に病没した(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。
「八田先生」龍之介府立三中時代の校長八田三喜(はったみき 明治六(一八七三)年~昭和三七(一九六二)年)。石川県金沢出身。第四高等中学校本科二部理科卒業後、東京帝国大学理科大学数学科に入学するも、自らの能力に限界を感じ、同大学文科大学哲学科に再入学、明治三一(一八九八)年に卒業、同年より新潟県佐渡中学校(現在の県立佐渡高校)校長に着任。同校校長時代には国家と社会が共に進歩してゆく必要があるとする社会共棲論を説き、北一輝の国家社会主義思想形成に影響を与えた一人ともされている。明治三四(一九〇一)年、東京府第三中学校(後の府立三中/現在の都立両国高校)の校長に就任、府立一中や四中が上級学校への受験を第一義としていたのに対し、八田は厳格なる指導を本分としながらも、生徒の自主自律精神を高める教育を実践、学友会を組織し、生徒の不祥事に対しては父兄と相談しつつ、罰を課するよりも直接に行を正すという方針をとった。忠君愛国教育の実施や教諭による体罰も日常的に課すなどのスパルタ教育も見られたが、同時にまた自由との共存をも図るという、この頃の明治人の共通項が窺える教育者であった。府立三中の校風の基礎を築き、同校校長を十八年間続けた後、大正八(一九一九)年に旧制新潟高等学校初代校長となり、『自由・進取・信愛』をモットーに学校発展に尽力した(以上は主にウィキの「八田三喜」に拠った)。龍之介は死の年の五月、改造社の円本全集宣伝講演のための東北・北海道旅行からの帰途、単身、新潟高等学校で「ポオの一面」と題した講演を行っているがこれはこの恩師八田三喜の依頼によるものであった。
「山本へ手紙を出す」「山本」は府立三中時代の友人で塚本文の叔父であった山本喜誉司のこと。この一月二十三日附書簡は旧全集書簡番号一九六として残る。以下に全文を示す。
§
Mr.K.
僕のうちでは時々文子さんの噂が出る 僕が貰ふと丁度いゝと云ふのである 僕は全然とり合はない何時でもいゝ加減な冗談にしてしまふ 始めはほんとうにとり合はないでゐられた 今はさうではない 僕は文子さんに可成の興味と愛とを持つ事が出來る しかし僕は今でも冗談のやうにしてゐる 今でもごま化して取合はない風をしてゐる 何故かと云ふと僕は或豫感がある そして僕の Vanity は此豫感を利用して僕にお前の感情を露すなと云ふ 其豫感と云ふのは文子さんを貰ふ事は不可能だと云ふ豫感である 第一文子さんが不承知それから君の姉さんが不承知それから君が不承知それから色んな人が皆不承知と云ふ豫感である 豫感の外にまだある それはよしこの豫感が中らなくつても僕の良心がゆるさないかもしれないと云ふ事である まして少しでも豫感が中れば猶良心が許さないと云ふ事である 僕は自分の幸福の爲に他人の――殊に自分の愛する他人の幸福を害したくないと思つてゐる
だから僕の想像に從ふと何年かの後に文子さんの結婚を君と一しよに祝する時が來るだらうと思ふ そして事によつたらその人が僕の友だちで僕は其爲に嫉妬を感じる事があるだらうと思ふ しかし僕の感情は君を除いて誰も知らないだらうと思ふ 僕は又それに滿足してゐる ロマンチックな性情は自分の不幸さへ翫賞する傾がある 僕はさびしい中にも或滿足を以て微笑を洩し得る餘裕のある事を確信する僕は文子さんの話が出ると冗談にしてしまふ 此後もさうするだらう そして僕のうちの者が君の所へ何とか云つてゆくのを出來得る限り阻止するだらう 或は其後に思ひもよらない所から思ひもよらない豚のやうな女を貰つて一生をカリカチュアにして哂つてしまふかもしれない しかし僕の感情は君の外に誰も知つてはならないのである 君も亦恐らくは誰にも知らせはしないだらうと思ふ 誰もそれを知らない限り僕は安んじて君のおばあさんにも君の姉さんにも話しが出來る 知られたらもう二度とは行かないだらう
僕は時々人生を貫流し藝術を貫流する力の前に立つ事がある(立つたと思ふとすぐ又その力を見失つてしまふが)そして其力を見失つた瞬間に僕は僕の周圍にある大きな暗黑と寂寥とに畏怖の念を禁ずる事が出來ない 僕が僕以外の人間の愛を欲するのはかう云ふ時である 其時僕は個性の障壁にすべてと絶緣された僕自身を見る 悠久なる時の流の上に恒河砂の一粒よりも小なる僕自身を見る 僕はかう云ふ時心から愛を求める そして又かう云ふ時が僕には度度ある 僕はさびしい しかし僕は立つてゐる者の歩まなくてはならないのを知つてゐる たとへそれが薔薇の路でも涙の谷でも一樣に歩まなければならないのを知つてゐる だから僕は歩む 歩んでそして死ぬ 僕はさびしい
§
文中の「Vanity」は虚栄心・自惚れの意。
「F」塚本文。
「Tod」ドイツ語で「死」。]
○【1月24日】 小説をかく Cを思ふ さびしくなる
[やぶちゃん注:「小説」不詳。参考までに直近に発表する小説では、同年四月一日『新思潮』二号に発表した、養母トモから聴いた大伯父で幕末の大通であった細木香以をモデルとする「孤独地獄」がある。
「C」前出であるが不詳。]