牛とまじない 山之口貘
牛とまじない
のうまくざんまんだばざらだんせんだ
まかろしやだそわたようんたらたかんまん
ぼくは口にそう唱えながら
お寺を出るとすぐその前の農家へ行った
そこでは牛の手綱を百回さすって
また唱えながらお寺に戻った
お寺ではまた唱えながら
本堂から門へ門から本堂へと
石畳の上を繰り返し往復しては
合掌することまた百回なのであった
もう半世紀ほど昔のことなのだが
父は当時死にそこなって
三郎のおかげで助かったと云った
牛をみるといまでも
文明を乗り越えておもい出すが
またその手綱でもさすって
きのこ雲でも追っ払ってみるか
のうまくざんまんだばざらだんせんだ
まかろしやだそわたようんたらたかんまん
[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注の一部を追加した。】初出は昭和三六(一九六一)年一月一日附『沖縄タイムス』で、同年同月の一月二十日附『全繊新聞』にも掲載されているが、初出の詩題は孰れも「牛」である。前者にはバクさん自筆の絵も添えられているらしい。
「のうまくざんまんだばざらだんせんだ/まかろしやだそわたようんたらたかんまん」は少し音表記に違いはあるが、ほぼ正しく真言宗系の不動明王真言、
のうまく さんまんだ ばざら だん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらたかんまん
を写している(次の注も参照のこと)。
「牛の手綱を百回さすって」このお百度参りはよく分からない。ネット上でも検索に掛からないのだが、これは例によって私のトンデモ直感なのだが、丑の刻参りの「丑」と「牛」の類感呪術的敷衍ではなかろうか? 識者の御教授を乞う!
「もう半世紀ほど昔」本詩の最初の作詩年代を厳密に同定出来ないが、初出が昭和三六(一九六一)年一月一日であること、半生記五十年で少年のバクさんが不思議な「まじない」をし得た年齢(三、四歳以上で尋常小学校でも高学年ではあるまい)であったことを勘案するなら、起点は自ずと、昭和三一(一九五六)年~昭和三五(一九六一)年となり、そこから五十年前の明治三九(一九〇六)年(満三歳)~明治四四(一九一一)年(満八歳・バクさんの那覇甲辰小学校入学は明治四十三年で満六歳の時であった)の間と考えてよかろう。そうして実は、この事蹟をもっと狭く同定出来る資料があるのである。バクさんの書いた随筆「牛との対面」(昭和三五(一九六〇)年十二月二十七日附『産経新聞』掲載)である。以下に全文を掲げる(底本全集の第三巻随筆に拠る。太字は底本では傍点「ヽ」)。
*
牛との対面
この間から、催促を受けている原稿がある。そういうと、いかにも売れる原稿でも書く人みたいで自分ながらきざな感じであるが、ぼくの場合は売れないものを押し売りした上、それを書く仕事までものろいからなのであって、売れっ子の受ける催促とは、その性質がはなはだ異ったものなのである。
過日、郷里のある新聞社の重役が上京したことを幸に、電話で借金を申し込んだところ非常に気持ちよく引受けてくれた。借金をするにも相手によっては、向かっ腹の立つ場合もあるわけであるが、かれの貸しっぷりは借りるぼくの気分を爽快にするほどずばりとしたものであった。その上、借りた金は、金で返すのではなくて、原稿で返すことを約束したのである。つまりはその原稿の催促を受けているわけで、原稿の催促を受けているとはいっても、正確には借金の催促を受けているわけなのである。それはしかし、重役のかれから直接に受けた催促なのではなくて、東京にあるその新聞社の支社からなのである。ぼくのつもりでは四枚ばかりの随筆風の原稿で借金の返済にあてる筈なのであったが、支社の編集部員は「詩をいただきたい。」と言った。「随筆のつもりでいたが。」というと「いや詩をいただきたいんです。」とかれは言った上に、「絵もいっしょにほしいんです。」と来たのである。ばくにとっては意外な結果となってしまったが、さて、問題はその詩のことなのである。
ぼくには最近、「無限」と「近代詩猟」の両詩誌から詩の依頼があった。書きかけの詩が一つはあるにはあったが、両方に応じ得るだけの自信は到底なかったので、「無限」には前に一度は書いたこともあるしとおもい、こんどは「近代詩猟」に書かせてもらいたいからとのことを電話で「無限」編集部のHさんに言いわけをして、「近代詩猟」の方だけに応じることにし、岡崎清一郎氏へ承諾の返事を出したのである。ところが締切の指定の期日を過ぎても、書きかけのその詩がなかなか詩にならず、ついに岡崎氏へは詫びの手紙を出すより外にはなくなって、結局どちらにも書かずじまいになってしまった。こんなことをおもい出しながら、ぼくは借金のかわりに返さなければならない詩を別に書かなくてはならない破目になったのである。
その詩は、絵と共に新聞の新年号に出すものなので、そのつもりのものを書いてほしいとのことなのである。そのつもりで考えてみると、来年は牛の年であることに気がついた。同時に、この気のつき方はいささかジャーナリスティックであるとおもわぬでもなかったが、牛については、いまから半世紀ほども前のことで、牛にまつわるぼくの思い出があるからでもあった。
大正の初めごろといえば、ぼくの小学生のころである。父が難病をわずらったために、ぼくはお寺でお百度を踏まされたことがあった。そのとき奇妙なまじないを経験したが、お寺さんの指図によって、その近所の農家へ行き、うす暗い牛小屋で、牛の手綱を百回さすったのである。ぼくはこどもごころに、こんなことをして病気が治るものなら、医者も薬もいらないじゃないかとおもったが、父や母はいかにもまじないごとが好きだった。沖縄にはユタ、あるいはカミンチュといわれていて神につかえているおばさんがあちらこちらにいたが、父や母は好んでユタに来てもらい、家屋敷の隅々までユタに拝んでもらったりして、もっともらしくおまじないをしてもらうことが度々あったのである。
ぼくはそういうとりとめもない昔の沖縄でのことを思い出しながら、借金のかわりに返す詩を書かねばならなくなったが、自業自得とはいえその詩がまたまた途中で足踏みしたままで、いっこうはかどらないのである。仕方がないので、絵を先に描くことにして、歳末のせっぱつまった気持ちに駆られながら、雨のなかを大泉の東映撮影所の近所まで出かけた。そのあたりに乳牛を飼っている家があるとのことを、娘がバスの窓から見かけたことがあると聞いたからなのであった。やっとその家を見つけて牛小屋に案内されたが、小屋というよりは邸宅といった方がふさわしく、うずくまっているもの、立ちつくしているもの、あるいは子持ちなどの牛が十頭余りもそこにいたのである。ぼくはその垂れさがった大きなおっぱい、割れた蹄など、部分部分をスケッチして、最後に大きなその顔と向き合ったが、実に半生記ぶりのまともな対面で、あのお百度詣りのとき牛の手綱を百回さすったり繰り返し唱えたまじないのあの文句まで思い出さずにはいられなかった。
なうまくざんまんだばざらだんせんだまかろしやだそわたやうんたらたかんまん。
*
最後の不動明王の真言は詩のものと微妙に異なるが、実は天台宗系の同真言は、
なまく さまんだ ばさらなん せんだ まかろしゃな そわたや うんたらた かんまん
である。ここで四つを試みに並べてみようではないか。
のうまく ざんまんだ ばざら だん せんだ まかろしやだ そわたよ うんたらた かんまん (詩「牛とまじない」の真言に間隙を施した)
のうまく さんまんだ ばざら だん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらたかんまん (真言宗系不動明王真言)
なまく さまんだ ばさら なん せんだ まかろしゃな そわたや うんたらた かんまん (天台宗系不動明王真言)
なうまく ざんまんだ ばざら だん せんだ まかろしやだ そわたや うんたらた かんまん (随筆「牛との対面」の真言に間隙を施した)
面白くないてか? そうかなぁ、私はとっても面白いんだけどなぁ……。まあ、いいや、ともかくもこれによって、
〇この詩「牛とまじない」の創作されたのは昭和三五(一九六〇)年であること
〇この詩「牛とまじない」に語られる五十年前の父の病い平癒のための牛の呪(まじな)いは「大正の初めごろ」とあるから、私の推測よりやや後の、バクさん満九歳の「ぼくの小学生のころ」、大正元・明治四五(一九一二)年(尋常小学校三年)か翌年若しくは翌々年のことであること
が分かるのである(一九六一年の五十年前で一九六二年だと四十九年前ではあるが、これは「半世紀ほど昔」と言って無論、問題ない)。
「父は当時死にそこなって/三郎のおかげで助かったと云った」辻淳氏の手になる底本全集の年譜によれば、バクさんは明治三六(一九〇三)年九月十一日に沖縄県那覇区東町大門前に生まれ、戸籍上の本名は山口重三郎、幼名は「さんるー」(三郎)。父山口重珍(訓は「しげよし」か)の三男であった。山口家は三百年続く沖繩の名家の一つで、もとは薩摩の商人松本一岐重次を祖として、薩摩の琉球への侵攻以降に琉球王国へ移住帰化した子孫に当たる(山口という姓はその先祖の中で知念山口の地頭職に任ぜられた者があってその地名から称するようになった)。重珍は当時三十三歳で第四十七銀行那覇支店に勤務していた。なお、重珍はその後、大正八(一九一九)年に銀行を退職後、沖縄産業銀行八重山支店長(【2014年7月3日追記】「石垣市教育委員会市史編集課 八重山近・現代史略年表」の「八重山近・現代史年表 明治12年~昭和20年8月14日まで」によれば同支店の開設は大正九(一九二〇年一月である)となり、鰹節製造業などに手を出すも不漁続きでうまくゆかずに家を手放すなどし、翌大正九年の経済恐慌(当時、沖縄ではこの経済恐慌が「そてつ地獄」と呼ばれたとある。蘇鉄は古来から沖繩の究極の救荒植物であったが処理を誤って食用すれば死亡するほどに有毒である。残酷乍ら言い得て妙であると言える)事業は失敗、大正十二年頃までに一家(母カマト他七人兄弟姉妹であった)は離散したものと推定されている(この大正九年十一月には父重珍と沖縄県八重山郡与那国町の新城ヨホシとの間に庶子の男子が生まれてもいる。その後の昭和九(一九三五)年十月に重珍は大阪市北区都島中通に戸籍を移しているが住んではいないようである。彼は昭和二八(一九五三)年四月、八十三歳で与那国で亡くなっている。バクさん五十歳の年であった)。バクさんと父の関係(その愛憎)は今一つ、はっきりしない。この牛の詩からは相応の肉親としての愛情は無論、感じられるものの、やはり、今は何かもやもやとしている。因みに、彼の母カマトは夫に先立つこと二年前の昭和二十六年六月にやはり、与那国の、しかし、『弟重四郎の家で死亡。その訃を聞いても帰る旅費もなく、一夜白湯を飲んで遙かに通夜をした』と年譜に記されるのとは、この父の死の記載、如何にも対称的な記載ではある。]