橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 強羅 / 後記 「海燕」~了
強羅
夕燒くるかの雲のもとひと待たむ
夕燒雲鐡路は昏るる峽に入る
ひととゐて露けき星をふりかぶる
ひとの肩蟋蟀の聲流れゐる
鵙啼けりひとと在る時かくて過ぐ
[やぶちゃん注:「鵙」は「もず」鳥綱スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus 。以上を以って「海燕」の句本文は終わる。底本全集の句末尾には編者によるものと思われる『(昭和一六年一月十日発行 交蘭社刊)』という附記がつく。]
後記
俳句を作り初めてから、既に十數年の歳月が過ぎたが、本當に勉強をしはじめたのは昭和十年「馬醉木」に據つてからのことである。
思へばこの間常に勵まし、導いて下さつた山口誓子先生、又いつも温情を以てお目守り下さつた水原秋櫻子先生の下に今日迄歩みをつづけて來られた自分の作家としての幸福をつくづく勿體ないものに思ふのである。この度兩先生からのお勸めに從ひ、今迄の貧しい作品を纏めることになつた。私はこの句集を生前いつも私の句作をはげまして貰つた夫の靈前に捧げようと思ふ。多くの作品が夫と共にした旅行から生れたことも今はなつかしい想ひ出となつた。
この句集の刊行に當つては、水原先生から題字を賜り、裝幀まで種々御配慮を戴いた。尚御病中の山口先生をもお煩し申上げ、その上序文まで賜つた。ここに厚く御禮申上ぐる次第である。
美しい表紙繪を頂いた富本憲吉先生、私の我慮をすべて快く入れて御迷惑を顧られなかつた交蘭社主飯尾謙藏氏の御厚志にも深く感謝するものである。
「海燕」は、夫との最後の旅行となつた上海行の途次、霧に停船してゐる宮崎丸にあまたの燕が翼を休めたことが忘れ難く、それを句集の名としたのである。
昭和十五年十二月
帝塚山にて
橋本多佳子
[やぶちゃん注:「俳句を作り初めてから、既に十數年の歳月が過ぎた」多佳子の最初の俳句との出逢いは大正一一(一九二二)年三月二十五日の櫓山荘での高浜虚子を迎えての俳句会で、年譜上の記載からは恐らくはその年のうちに杉田久女及び吉岡禅寺洞の薫陶を受けているから、昭和一五(一九四〇)年までは足掛け十八年、「十數年」という表現と一致する。
『昭和十年「馬醉木」に據つてからのことである』底本年譜によれば、昭和三(一九二八)年に発足した大阪在住の『ホトトギス』の同人クラスのメンバーからなる勉強会『無足会』に、昭和四、五年頃に入会、山口誓子の指導を受けるようになっており、この昭和一〇(一九三五)年四月には誓子の勧めによって、既に同人となっていた『ホトトギス』を離脱、『馬酔木』に入会、これによって『虚子を離れ、誓子に師事、俳句を積極的本格的に勉強する』ようになったとある。
「山口誓子」(明治三四(一九〇一)年~平成六(一九九四)年)は昭和一〇年に発表した句集「黄旗」を契機として『ホトトギス』を離れ、同じく『四S』の一人であり、盟友でもあった水原秋桜子の主宰していた『馬酔木』に同人として参加、ともに新興俳句運動の中心的存在となっていた。昭和十五年当時、満三十九歳。「御病中の山口先生」とあるが、彼が学生時代から胸部疾患(諸データは結核とは記していない)を患っており、勤務していた住友合資会社(主に労務関係を担当)をこの昭和十五年に休職していた。翌年には伊勢富田に転地し保養に努めたが、昭和十七年に病状が悪化して退職、その後は文筆活動に専念するようになった(以上は主に神戸大学研究推進部研究推進課の「山口誓子記念館」の「誓子について」を参照した)。
「水原秋櫻子」(明治二五(一八九二)年~昭和五六(一九八一)年)は先立つ昭和六(一九三一)年に主宰誌『馬酔木』の昭和六年十月号で「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表、『ホトトギス』から独立していた。これが契機となって青年層を中心とした反伝統・反『ホトトギス』を旗印とする新興俳句運動が起こった(以上はウィキの「水原秋桜子」に拠った)。昭和十五年当時、満三十八歳。
「富本憲吉」(明治一九(一八八六)年~昭和三八(一九六三)年)はバーナード・リーチの盟友としても知られる陶芸家。当時は帝国芸術院会員、後の昭和三〇(一九五五)年に人間国宝となった。昭和十五年当時、満五十四歳。
『「海燕」は、夫との最後の旅行となつた上海行の途次……』既注であるが、これはまさに前注の通り、多佳子が本格的に俳句に打ち込むようになって一か月後の、昭和一〇年五月の夫豊次郎との上海・杭州旅行を指す。「海燕」の同定については『句集「海燕」 昭和十年以前 八句』の私の注を参照されたい。]

