栂尾明恵上人伝記 73 / 「栂尾明恵上人伝記」了
又、城介入道覺知、高野山に住せしが、上人の御違例難治の由を傳へ聞きて、急ぎ出でゝ今夜栂尾に着く。十八日の夜なり。上人則ち對面し給ひて、終夜法門仰せられけり。
[やぶちゃん注:「城介入道」安達景盛。既注。
「十八日」寛喜四(一二三二)年一月十八日。実に臨終の前日のことである。]
同十九日、今日臨終すべしとて、別の衣袈裟着替へて、又法門聊か云ひ給ふ。我れ幼少の當初に諸扁種諸冥滅、拔衆生出生死泥、敬禮如是如理師と讀み始めしより、志す所偏に聖教の深旨(しんし)を得て、名利の繫縛(けばく)に纏(まと)はされざらんことを思ひき。人は只名利が知れずして身に添ひ心を離れぬ者なり。山中の衆僧穴賢(あなかしこ)用心すべしなんどゝて、其の期近づく程に、高聲に打ち揚げて唱へ給ふ所、於第四都率天、四十九重摩尼殿、晝夜恒説不退行、無數方便度人天と誦し、其の後又稽首大悲淸淨智、利益世間慈氏尊、灌頂地中佛長子、隨順思惟入佛境と誦して後、此の五字に八萬四千の修多羅藏(しゆたらぞう)を攝(せつ)す。五字を誦せよとて、誦せさせて、我は理供養(りくやう)の作法を以て行法あり。行法終つて後、合掌して唱へて云はく、我昔所造諸惡業(がしやくしよざうしよあくごふ)、皆由無始貪恚癡(かいゆうむしどんじんち)、從身語意之所生(じうじしんごいししよしやう)、一切我今皆俄悔(いつさいがこんかいざんげ)と誦して、定印(ぢやういん)に住して坐禪す。良(やゝ)久しくして出定し告げて云はく、其の期近付きたり、右脇に臥すべしとて臥し給ふ。手を蓮花拳(れんげけん)に作りて、身の上に横たへて胸の間に置く。右の足を直く伸べたり。左の足をば少し膝を屈して上に重ねたり。面貌(めんめう)歡喜の粧(よそほひ)、忽に顯はれ、微咲(みせう)を含み、安然として寂滅し給ふ。春秋六十歳也。
同二十一日の夜、禪堂院の後に葬斂(さうれん)す。其の間、形色敢て改まらず。眠れる粧ひ誠に殊勝なり。十八日の夕方より異香常に匂ふ。諸人多く是を嗅ぐ。葬斂の後兩三日の間、異香猶散ぜず。凡そ此の上人、大小・權實(ごんじつ)・顯密二教・因明(いんみやう)・内明(ないみやう)何れこそ知り給はずと云ふことなかりき。又五薀・十二處(しよ)・十八界・四諦・十二因緣等の説、千聖の遊履(いうり)する處、只爲無我法門説之趣深以悟得(只だ無我法門の爲に説の趣、深く以つて悟得す)故に文に云はく、故大悲尊、初成佛已(しよじやうぶつい)、仙人鹿苑、轉四諦輪(てんしたいりん)、説阿笈摩、除我有執(じよがうしよ)、令小根等(れいせうこんとう)、漸登聖位(ぜんとうしやうゐ)と云ひて、始めて人空(にんくう)の一理を開きて、小機聖流(せうきしやうる)に預ると云ふより、般若畢竟平等眞空、五法・三自性(じしやう)・八識・二無我の法門、華嚴の六相圓融(ろくさうゑんゆう)・十玄緣起、眞言の五相・三密・三平等、字輪瑜伽(じりんゆが)の觀行(くわんぎやう)、併て玉鏡(ぎよくしやう)を懸けたるが如し。乃至孔子・老子の教説、大易自然(たいえきしぜん)の道、又數論外道(しゆろんげだう)の二十五諦(たい)を立て、自性(じしやう)・大我慢(だいがまん)・五唯量(ゆゐりやう)・五大(だい)等、勝論外道の建立(こんりう)實(じつ)・德・業(ごふ)・有(う)・同異・和合と云ふまでも、極め知り給はずと云ふことなかりき。
豫多年隨逐(ずゐちく)の間あらあら九牛の一毛を注す。定めで謬(あやま)りあらん外見に備ふべからず。
喜 海
梅尾明惠上人傳記終
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以上を以って「梅尾明惠上人傳記」の電子化を終わったが――これはまた同時に――総ての始まりである。――ではまた――お逢い致そう――
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