萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(8) 冒頭歌群終了
綾唄やあるひは牛の遠鳴(とほなき)や
君まつ秋の野は更けにけり
[やぶちゃん注:「あるひは」はママ。この歌は朔太郎満十八歳の時の、『白虹』第一巻第四号(明治三八(一九〇五)年四月発行)の「小鼓」欄に掲載された、
綾唄やあるひは牛の遠鳴や、君まつ秋の野の更けにけり
及び、朔太郎満十九歳の時、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で載せた、
綾唄や或は牛の遠鳴(とほ)なきや君待(ま)つ秋(あき)の野は更(ふ)けにけり
の表記以外の相同歌である。]
風ふきぬ木の實地をうつ秋の夜は
待たるゝ君がさびしさ思へ
[やぶちゃん注:この歌は前と同じく『白虹』第一巻第四号(明治三八(一九〇五)年四月発行)の「小鼓」欄に掲載された、
風ふきぬ木の葉地をうつ秋の夜はまたる〻君かさびしさ思へ
の類型句(「木の葉」と「木の實」で有意に異なる)である。なお、底本全集の編者注にはもう一首を参照に掲げているのであるが、指示された頁には相同・相似歌は見当たらない。この注は前の注と全く同じなので、校正ミスが疑われる。]
み手とりて涙そゝがん日もあらば
歌は桂の根にしづむべし
たゞ願ふ君がかたへにある日をば
夢のやうなるその千とせをば
[やぶちゃん注:この歌は前と同じく『白虹』第一巻第四号(明治三八(一九〇五)年四月発行)の「小鼓」欄に掲載された、
た〻願ふ君の傍へにある日をば夢のようなるその千年をば
の表記違いの相同歌である。]
われ君を戀す戀しき心より
君を思へば胸たゞ火なり
[やぶちゃん注:この歌も、同じく『白虹』第一巻第四号(明治三八(一九〇五)年四月発行)の「小鼓」欄に掲載された、
われ君を戀はん戀しき心より君を思へば胸ただ火なり
の表記違いの相同歌。]
わが脣(くち)と君がみ脣とひたすらに
ふれよいつまで泣いてあるべき
[やぶちゃん注:原本は「ひとすらに」であるが、意味が通らないので、校訂本文「ひたすらに」を採る。]
夜は夜にて晝は晝にて戀はであらば
エトナの山は燃えであるべし
[やぶちゃん注:原本は「燒えであるべし」であるが、意味が通らないので、校訂本文「燃えであるべし」を採る。太郎満十九歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された
夜(よ)は夜にて晝(ひる)は晝にて戀(こ)いてあらばエトナの山(やま)はもえであるべし
の類型歌。「戀いて」はママ。そこでの注したが再度注しておくと、「エトナ」はイタリア南部シチリア島の東部にあるヨーロッパ最大の活火山エトナ山(Etna)。ギリシャ神話ではガイアの息子で不死の怪物の王ティフォンが封じられているとされ、また鍛冶神ヘパイストスはこの山精であるエイトナを愛人とし、その情熱的な生涯の最後の仕事場としてこの山を選んだとも伝えられる。ただ、私が馬鹿なのかこの歌の意味は今一つ、よく汲み取れない。自分の恋情の炎が日夜絶えず激しければ、永遠の火を噴くはずのエトナ山でさえも、その私の情熱故に燃え尽きてしまうであろう、とでもいうのであろうか? どうも短歌の苦手な私には分からぬ。識者の御教授を乞うものである。]
君が心、今は戀しさに狂はんとす
あゝ如何に君が戀しきなつかしき
たとへんやうもなき戀ひかな
[やぶちゃん注:原本は「なづかしき」であるが、校訂本文「なつかしき」を採った。]
あゝ二人戀しるものと見代はして
笑めばあまねく春はたらひぬ
[やぶちゃん注:「見代はして」は校訂本文では「見交はして」と訂する。「たらひぬ」は自動詞ハ行四段活用「たらふ」(十分である・不足がない/その表象に堪える・資格を持つ)の連用形+完了の助動詞「ぬ」の終止形。
この一首の次行に、前の「春」の位置から下方に向って、最後に画像で示した特殊なバーが配されて、一つの歌群の終了を示している。但しこの歌群には次の「ゆふすずみ」のような総題はない。構造から見ると、ここは総題であるところの「若きウエルテルの煩い」の中の同じ「若きウエルテルの煩い」パートであると採れる。]
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